深淵の支配者、あるいは彼女の飼い犬
兄たちが去り、ようやく戻ってきた静寂。
シオンは乱れた服を整え、再び手帳を開いて「世界観」を再構築しようとしていた。
「……ふう。道化どもの喧騒が、私の美学を濁らせた。だが、嵐の後の静けさこそが、真の詩情を」
「シオン。いつまでそこで、独り言をブツブツ言ってるの?」
その凛とした声が響いた瞬間、シオンの背筋がピンと伸びた。
背後に立っていたのは、公爵令嬢リーゼロッテ。幼なじみであり、シオンが「魔力0」と判定されてからも一度も婚約を破棄しようとしなかった、唯一の「対等な」女性である。
「……リ、リーゼロッテか。銀の月が沈み、陽光が君という名の」
「普通に喋って。一文字でもポエムが混ざったら、その手帳、庭の池に沈めるわよ」
「……おはよう、リーゼロッテ。いい天気だね」
シオンは即座に、借りてきた猫のように大人しくなった。
ハードボイルドな表情はどこへやら、視線は泳ぎ、ペンを握る手も心なしか震えている。
「よろしい。昨日の暗殺未遂事件、聞いたわよ。あなた、また変なことしたんじゃないでしょうね?」
リーゼロッテがシオンの顔を覗き込む。彼女の瞳は、魔力計よりも鋭くシオンの本質を射抜いてくる。
「……いや、私はただ、庭を眺めていただけだよ。因果がどうとか、理がどうとか、そんなことは……」
「怪しいわね。あなたがそうやって目を逸らす時は、大抵何か仕掛けてる。……ま、いいわ。父様が、あなたを今夜の晩餐に招待したいって。断る権利はないからね」
「……光栄だ。だが、私は闇に溶け込む」
「シオン」
「……はい。喜んでお伺いします」
シオンはガックリと肩を落とした。
リーゼロッテは満足げに頷くと、彼の襟元が少し汚れているのに気づき、自然な動作でそれを拭った。
「あんまり一人で格好つけすぎないで。あなたは私の婚約者なんだから。……それじゃ、夜にね」
風のように去っていく彼女の背中を見送りながら、シオンはようやく大きく息を吐き出した。
そして、震える手で手帳にこう書き殴った。
『女神の愛は、時に鉄の鎖より重い。……くそ、今の俺、情けなすぎる。でも今の台詞、ちょっと切なくて格好いいかもな……』




