仮面の裏側、あるいは日常という名の特権
カイルが悲鳴を上げて去った直後、Fクラスの教室の扉が再び勢いよく開いた。
「ちょっとシオン! 今さっき、お兄様がまた股間を抑えて泣きながら走っていくのとすれ違ったんだけど……! あなた、また何かやったわね!?」
現れたのはリーゼロッテだ。彼女のあまりに堂々とした、そして親しげな怒鳴り込みに、Fクラスの生徒たちは息を呑んだ。公爵令嬢であり学園の華である彼女が、なぜ「最底辺」のシオンにここまで遠慮がないのか。
しかし、クラスメイトたちをさらに驚愕させたのは、それに対するシオンの反応だった。
「……やあリーゼ。来るのが少し遅かったね。因果の奔流が、一足先に兄上を飲み込んでしまったよ」
「因果の奔流って何よ、バカ。どうせまた変な嫌がらせしたんでしょ。……もういいわ、今日は一緒に帰るわよ。お父様からあなたに渡したい資料があるって言われてるんだから」
「……ふむ。君との帰路か。悪くない脚本だ。手帳も埋まったことだし、私の孤独を一時的に返上するとしよう」
シオンは流れるような動作で荷物をまとめると、立ち上がってリーゼロッテの隣に並んだ。そして、扉に向かう途中で、まだ固まっているクラスメイトたちに、ふっと柔らかい微笑みを向けた。
「……皆、また明日。この退屈な世界を、共に書き換えようじゃないか」
「は、はいっ! さようならシオン殿下!」
「お気をつけて、殿下!」
熱烈な見送りを受けながら廊下に出る。教室の扉が閉まった瞬間、シオンはふっと肩の力を抜き、これまで維持していた「孤高の支配者」のポーズを解いた。
「……ふぅ、疲れた。リーゼ、今日の食堂のパン、少し硬くなかったか? 顎が疲れてポエムのキレが悪くなったよ」
「……あんたね、そんな理由でポエムの内容が変わるの? そもそもパンくらい普通に食べなさいよ」
「いや、あの硬さはバグだ。調理師の因果が乱れているに違いない。次はもう少し柔らかい『理』を求めて交渉しなきゃな」
「はいはい、わかったから。それより帰り道、あそこのカフェに寄っていい? 新作のタルトが出てるのよ」
「……タルトか。甘美な誘惑だな。いいだろう、私の午後のスケジュールを君のために開放しよう」
二人は、時に毒づき、時に笑い合いながら、ごく普通の幼馴染の距離感で歩いていく。
その様子を、教室の隙間から覗き見ていたFクラスの生徒たちは、石のように固まっていた。
「……おい、見たか? 殿下、今、普通にパンの話をして笑ってたぞ……」
「あのリーゼロッテ様と、まるで普通の……恋人……いや、長年連れ添った夫婦のような空気感……」
「ミステリアスな殿下があんなにリラックスするなんて……やはりリーゼロッテ様は、殿下の魂の半分なのか……!」
彼らにとってのシオンは「手が届かない高潔な王」であったが、リーゼロッテと話すシオンは「少し変だけど親しみやすい少年」の顔を一瞬だけ見せた。そのギャップが、クラスメイトたちの「シオン様への信仰心」をさらに複雑で強固なものへと変えていく。
「……ふふ。リーゼ、今の彼らの視線を感じたかい? 私は今、完全に『秘密を共有する背徳の恋人』を演じきったぞ。後で手帳に紫のインクで書いておこう」
「演技じゃないわよ! 普通に喋りなさいって言ってるの!」
夕暮れに染まる廊下に、二人の軽快な足音が響く。シオンの学園生活は、まだ始まったばかりだ。




