慈母の微笑、あるいは深淵の愛
王宮の隠し通路を抜け、自室へと滑り込んだシオン。変装のマントを脱ぎ捨て、手帳をデスクに置いた瞬間に、背後から柔らかな、しかし逃げ場のない声が響いた。
「あら、シオン。夜の散歩は楽しかったかしら?」
「……っ! 母上、ですか。月の裏側に隠れていたつもりが、どうやら太陽の視線からは逃れられなかったようですね」
シオンは即座に表情を「孤高の王子」へと固定し、振り返る。そこにいたのは、帝国の皇妃でありシオンの実母。厳格な父王とは対照的に、常に穏やかな微笑みを絶やさない女性だ。
(……まずい。無断外出は、私のハードボイルドな経歴に『説教』という名のシミをつける最大の危機だ。……だが待て。母上の纏う空気が、妙に……甘い?)
「ふふ、そんなに警戒しなくてもいいわよ。今日はあなたに、素敵なお知らせを持ってきたの」
母妃はシオンの隣に座ると、彼の手を優しく包み込んだ。その瞳は、まるで至高の宝物を眺めるかのように輝いている。
「あなたが街で助けた女の子……あの子、実は我が国の筆頭魔導師長のお孫さんだったのよ」
「……何ですと?……というか、耳が早すぎる……」
「あの子が泣きながら話してくれたわ。『黒いマントの、詩のようなお言葉を紡ぐ美しいお方が、お花を添えて助けてくれた』って。……もう、シオンったら。魔力がないからって腐らずに、そんなに立派な騎士道精神を隠し持っていたなんて……お母様、感動して涙が出ちゃうわ」
シオンは内心で(しまった、助けた相手がまさかの大物だったか……!)と戦慄した。しかし、そこは「言葉に酔う男」。瞬時に脳内でポエムを生成し、キザなポーズで応じる。
「……フッ。私はただ、夜の帳に迷い込んだ小鳥を、あるべき巣へと導いただけのこと。……感謝されるような、大仰な真似をした覚えはありませんよ。……ふふ。今の俺、完全に無欲な英雄そのものだな」
「まあ! なんて謙虚で高潔なの! あなたのその『詩』、魔導師長も『これこそが真の魔法、言霊の極致だ!』って大絶賛よ。明日、公式に感謝状を贈りたいって仰ってるわ」
「……それは、少々……目立ちすぎるのでは?」
「いいえ、当然の権利よ! お父様も『無能だと思っていたが、人脈を作る才能だけはあるようだな』って、少しだけ鼻を高くしていたわ。……さあ、明日からはもっと堂々とポエムを詠みなさい。お母様、あなたの手帳を出版する準備だって進めているのよ?」
「……出版? それは、私の魂が公衆の面前に晒されるという……究極の晒し首では……」
「ふふ、何を照れているの。さあ、今夜はゆっくりおやすみなさい、私の誇り高き王子様」
母妃は満足げにシオンの額にキスをして、部屋を去っていった。
静まり返った室内で、シオンは崩れるように椅子に座り込む。
(……やばい。溺愛が度を越している。このままでは私の『隠密生活』が、『帝国の公式ポエマー』へと上書きされてしまう……!)
冷や汗を拭いながらも、シオンは震える手で手帳を開いた。
『光は時に、望まぬ場所を照らし出す。……だが、照らされた以上、私は輝く義務がある。……よし、このピンチすらも格好良く解釈できたぞ。俺、天才か?』
シオンの「バレないはずの暗躍」は、母の愛という名の強烈なスポットライトによって、思わぬ方向へと爆走し始めていた。




