宵闇の舞台、あるいは刹那の救済者
シオンは一口パンを齧り、路地裏の奥へと足を踏み入れた。
腐敗した生ゴミの臭気と、酒と汗の混じった男たちの声。
そして、かすかに震える少女の悲鳴が、彼の聴覚を刺激する。
「……やれやれ。この街の影は、相変わらず無粋な劇を演じたがる。……だが、私の視界に映ったものは、すべて私の脚本に従うべきだ」
シオンは路地裏の奥に立つ三人の男たちと、彼らに囲まれた一人の少女を捉えた。男たちは薄汚れた格好をし、嘲笑を浮かべて少女の持つ小さなランタンを奪おうとしている。
「おいおい、嬢ちゃん。こんな夜更けに一人で出歩くもんじゃねえぜ? そのランタン、俺たちにくれるなら安全に送ってやるよ」
「きゃっ……!」
少女が怯え、地面に後ずさる。
シオンは一歩、また一歩と、舞台の主役のように静かに歩み寄った。
「……止めたまえ。薄汚れた手で、この夜の詩情を汚すのは許されない。……彼女の持つ光は、君たちの闇とは相容れないのだ」
シオンの深い声が響き渡り、男たちの動きが止まる。
三人の男たちは、フードを深く被った謎の男「クロウ」を訝しげに見つめた。
「あん? 何だ、このヒョロい兄ちゃんは。邪魔すんならぶっ飛ばすぞ!」
「ぶっ飛ばす、か。……愚かな言葉だ。君たちは、この世の『原因』と『結果』を混同している。……私は剣を振るわない。ただ、君たちの行動の『結果』を、私が望むものへと再配置するだけだ」
シオンは左手をすっと差し出した。その手のひらには、路地の壁から生える苔の胞子が付着している。
能力【因果の種:不可視の舞台監督】。
「……『目に見えぬ執着は、時に自らを縛る鎖となる』。……今の俺、ちょっといいこと言ったな」
シオンがポエムを詠むと、男たちの足元から、音もなく無数の蔦が噴出した。
それは壁を這う苔の「理」が、瞬時に変形した植物の鎖。
男たちは何が起こったのか理解する間もなく、その身を蔦に絡めとられ、身動きが取れなくなる。
「な、なんだこれ!? 魔法か!? でも魔力の気配が一切……!」
「う、動けねえ! 助けてくれ!」
男たちは恐怖に顔を歪ませる。シオンは、彼らの無様な姿を一瞥すると、蔦が男たちの体から養分を吸い取り始める『結果』を導き出した。男たちの顔色は見る見るうちに悪くなり、意識を失って崩れ落ちる。
少女は、何が起きたのか理解できず、ただ呆然とシオンを見上げていた。
シオンは男たちには目もくれず、少女の前に優雅に膝をつく。
「……もう大丈夫だ。夜は時に、無垢な光を隠そうとする。だが、諦めることはない。君の持つそのランタンの光は、決して消えることはない」
シオンは少女の持つランタンに、路地の影でひっそり咲いていた一輪の青い花を添えた。
それは、夜にだけ咲く「月見草」だ。その花は、ランタンの光を受けて、まるで自ら発光するかのように淡く輝いた。
「……あ、あの……あなたは……」
少女が震える声で尋ねる。
シオンは立ち上がり、マントの裾を翻した。
「……私は、ただの『旅人』だ。夜空の星を観測し、世界の詩情を愛する、名もなき観測者に過ぎない。……ふふ。今の俺、完全に主人公だったな。後で手帳に書いておこう」
シオンは、自分の言葉に酔いしれながら、少女に背を向ける。
ランタンの光に照らされた青い花だけを残し、闇に溶け込むように姿を消した。
(……やれやれ。これで私の今日の『デバッグ』は完了だ。この街の秩序は、一時的に私の美学に沿うだろう。……さて、明日はどこで詩を詠もうかな)
少女はランタンの光に輝く青い花を握りしめ、闇の奥へと消えていった「黒衣の詩人」の幻影を見つめ続けていた。




