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闇夜の貴公子、あるいは迷える街の寵児

稽古を終え、王宮という名の鳥籠を抜け出し、シオンは変装を施して王都の雑踏に身を投じていた。

黒いマントを羽織り、深く被ったフードの隙間から覗くのは、鋭利な美しさを湛えた瞳。偽名は「クロウ」。

「……ふむ。人の波とは、出口のない迷宮ラビリンスだな。だが、私は彷徨っているのではない。この街の鼓動を『デバッグ』しているのだ。……ふふ、今の俺、孤独な救世主って感じで震えるな」

シオンはいつものように手帳を片手に、洗練された、しかし、どこか浮世離れした所作で路地裏を歩く。その一挙手一投足には、隠しきれない王族の気品と、徹底的な自己陶酔(美学)が宿っていた。

「おい、あんた。見ない顔だね。何者だい?」

露店の亭主が声をかける。シオンは立ち止まり、まるで舞台俳優のように片手を胸に当て、視線を斜め上45度へと固定した。

「……私は、風が落とした一葉の栞に過ぎない。君が焼くそのパンの香りが、あまりに世俗の苦悩を忘れさせるものだから……思わず足が止まってしまったよ」

「……はぁ? パンの香りが……なんだって?」

「つまり、そのパンを一つ。……この硬貨で、君の焼いた『黄金の円盤』を譲ってもらおうか」

シオンが流れるような動作で差し出したのは、偽装魔術で鈍く光らせた銅貨。

店主は呆気に取られたが、そのあまりに美しい所作と、真剣にポエムを語る「クロウ」の姿に、なぜか毒気を抜かれてしまった。

「……よく分かんねえが、えらく男前な言い草だな、兄ちゃん! 負けたよ、焼きたてをサービスだ!」

「……感謝する。君の寛大さは、この街の星明かりを一層輝かせるだろう。……ふふ。今の感謝の伝え方、最高にスマートだったな。後で街歩き用手帳に書いておこう」

シオンがパンを片手に歩き出すと、街の女性たちが頬を染めて振り返る。

「見て、あの人……。言ってることは意味不明だけど、声がすごくいいし、所作が騎士様より綺麗だわ」

「『孤独な銀の月』がどうとか言ってたわね。……ミステリアスで素敵」

本人は「ハードボイルドな孤高」を気取っているのだが、街の人々からすれば「最高に顔が良くて礼儀正しい、ちょっと変わった名物貴公子」として、いつの間にか人気者になっていた。

そんな中、シオンの「ロゴス」が、路地の奥で震える微かな悲鳴を捉えた。

(……やれやれ。私の聖域テリトリーに、不協和音を紛れ込ませる者がいるらしい。……パンが冷める前に、この楽譜を書き換えてやるとしよう)

シオンは一口パンを齧り、酔いしれた瞳のまま、闇の深まる路地裏へと消えていった。

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