第八章 Reborn Monsters
それからも、またしばらく逢えない日が続いていた。特に十一月から十二月にかけては二人とも繁忙期。逢える頻度は今までより減っていた。だが、決して冷めたわけでも逢いたくないわけでもない。お互い仕事にどっぷりと根を深く下す時期。それだけだ。もう相手への気持ちに揺らぎがないのは二人ともしっかりと確信している。そのため、逢えずともSNSや通話などで少しずつ連絡を取り合っていた。遥人はイヤホンの電話をつなげたまま、接客時以外は私と話をしてくれる。
「なんだ、やたら今日は道が混んでるな……」ガサガサした何かの音、そして車を発進させる音が電話越しに聞こえる。
「そりゃ今日から三連休だからねぇ」私は朝の日課となっているコーヒーをゆっくり飲みながら伝える。
「え?! そっかー、だからかぁー……全然車が動かないよ」お互い曜日感覚のない仕事、あるあるの日常。
「今日は寒いよ。しっかり厚着していってね」「うん。ありがと」
こんな短いやり取りが日課になった。日課といっても気が向いたときに少しやり取りをする程度だが。それでも心は平穏を取り戻していく。
「会えない彼氏なんて……」「それ付き合ってるっていえるの?」
正直他人の評価などどうでも良くなった。自信を持って言える。「はい」と。
「寂しくない?」
これが一番聞かれる質問だ。だが、ちょうどよい距離感があってはじめて心が繋がっているという心地よさが味わえるのだ。遠すぎず、近すぎない。いや、毎日逢えたらそれはそれで幸せなのだろうと思うが、今の私たちにはこれが一番丁度良い。今後どうなるかはまだ分からないけれど。この距離感があるから、逢えた時には嬉しさと幸せが何倍にもなって伝わってくるのである。あれほど不安で不安定で、なんとも頼りなかった日常生活。もちろん二人での外出は今でも少ない。一緒に食事をすることも難しい。それでも私も遥人も“帰る場所”はただ一つ。相手がいなくてもわかるお互いの痕跡——「ありがとう」「行ってきます」「頑張ろうね」いなくても残されたメモ書き、遥人の好きなジュース、私の好きなお菓子がそっと冷蔵庫に入っている。お互い、相手への気持ちとして。不器用な二人の怪物が少しずつ積み重ねてきた幸せが、確かにそこに存在する。結婚も今はできない。収入も不安定なまま。
たまたま家で逢えたある日、遥人が独り言のようにつぶやく。
「俺らってダメカップルだなぁ」私も返す。
「まあ世間から見たら落ちこぼれでしょうね」熱いコーヒーを二人分ドリップし終え、片方の青いマグカップを遥人に差し出す。
小さな観葉植物ののったテーブルでゆっくりと香り高いコーヒーをすする。
「でも、ここまでこれたんだよな」マグカップに目を落としながら遥人がぼそっと呟く。
「そりゃあなた、あなたがあなただからですよ」私もピンクのマグカップに淹れられたコーヒーから立ち上る湯気を見ながらそう答える。
「私はあなたと一緒に幸せになりたい。それだけよ。世間の目とか社会的評価は二の次ね」
一緒にいられる貴重な時間。これが幸せでなくて何だというのだろう。
「そういえばさ」遥人がこちらを見る。
「俺らの配達チーム、ちょっと変わるかもしれない」いつもと変わらない様子で遥人はそう報告した。
「? 場所が変わっちゃうの?」聞いてみる。
「いや、俺らの配達チーム、結構成績が良いほうらしくてね。エリアも人も広げたいからもう少し高い金額での契約になりそうなんだよ」
「それは喜ばしいけど……あなた、負担はどうなの? 増えるのならあまりいいとは言えないんじゃ……」
「分からないけどね。俺はやるべきことをやるだけよ」
「どうなるものかね……」残り少ないコーヒーを傾けながら疑問を呟く。なんでもないような顔をした遥人は続ける。
「どうなってもまあ、俺にはあなたがいるから。どうするか、どうなるか。またそうなったら一緒に考えよ?」
私は笑って続ける。
「それもそうね」私は空のカップを持って再度キッチンへ行く。
「そういえば、あなたコーヒー淹れるのは上手いね」「まあ、昔取った杵柄ってやつ?」
***
それからしばらく。私はなぜかレジン作りに勤しんでいた。何げなくSNSにアップしたそれが、思ったより評判になってしまったのだ。
「不器用でも作れるなら私もできるかも」「この三日月、かわいい」そんなコメントが来るたびにスマホからは通知音が聞こえてくる。正直に失敗作もちゃんとアップしたのだが、なぜか気泡が入ってしまったり、色がムラになってしまったものも「気泡が入っているから水族館の魚みたい」「マーブル模様みたいでステキ」と。何が人気が出るか分からないものである。キーホルダーだけでなく、ストラップやチャーム、ペンダントトップにピアス、アンブレラマーカー……様々なものにレジンを応用させて、ちょっとした販売をしていた。
「お、頑張ってるじゃない」仕事を終えた遥人が帰ってくる。
「あら、最近早く帰れるようになったの?」
毎日とは言わないが、遥人も帰れる日が増えた。
「うん。今までのドライバーに加えて新しい子も入ってきたし、俺と同じように現場を回してくれるように教えた子が優秀でさ」
そう言って口コミのページを開く。高い評価がずらりと並んでいる。「あんな重たい荷物をありがとうございます」「とても感じよく対応してくださいました」「いつも時間通りに来て下さるので助かります」——
「前は誤配達や時間が守れない子もいたけどね。今では優秀な子が多くて楽になったし、他の子たちも『大狼さん、今日は俺がやりますから』って言って俺を休ませてくれることも増えてね。俺のおかげで現場仕事も回りやすくなったってクライアントにも言ってもらえてさ」
ふうっと息をついてキャップを取る。初めのころに比べるとだいぶ髪も増えてきた。
「私も……意外とこんな腕前でもレジンを欲しいって言ってくれる人がいて、今も誰かの持ち物に付いてるんだと思うと感慨深いものがあるね」
ピンセットで小さなパーツを挟み、型に慎重に埋め込みながら言う。
「これができたら何か食べに行こうか」
二人、顔を見合わせて笑う。
「その前に」遥人が気が付いたように宙を見上げて言った。
「あったかいコーヒーまた淹れて。マイちゃんが淹れたのがいいの」
そう言われると悪い気はしない。
「うん、ちょっとゆっくりしてから行こうか」レジンを硬化している間に、お湯を沸かしにキッチンへ行く。
「これ買ってきたから一緒に食べよ」そう言って遥人は紙袋を取り出した。有名な菓子店のロゴが入っている。
「あら、コーヒーに合いそうなお菓子買ってくれたの?」コーヒーの粉を計量し、ドリップペーパーに落とし入れながら聞く。
「うん。どら焼き」「コーヒーにどら焼きとはまた渋いチョイスね……」思わず苦笑いする。
「え? ここのどら焼き美味しいんだよ?」
淹れられたばかりのコーヒーの鮮烈な香りに、優しい味のどら焼き。どら焼きといってもバター風味が強く、餡子の重さを感じさせなかった。ふわふわとした柔らかい生地も相まって、どちらかといえば和風のケーキのようだ。
「確かにこれは美味しい」「でしょ? 俺のばあちゃんが好きなの。あなたにも食べてもらいたくて」
お婆ちゃん子の遥人らしい意見だ。美味しいものを共有してくれる。そんな気遣いが感じ取れる。
「ありがとう。美味しいね、これ」「でしょ?」遥人はさらにどら焼きに手を伸ばしていく。
「でもご飯前にいいのかな」コーヒーを飲みながら呟く。
「ご飯前だからこそちょっと食べとかないと」遥人はすでに二つ目のどら焼きを平らげていた。
「いや何その理論……」思わず笑ってしまう。
まあいい。家の近くの美味しいイタリアンの予約は夜にしよう。今日はずっと一緒にいてもらえるんだから。
***
美味しいイタリアンを食べ終えたその後、またしても月夜の夜。今夜は満月。街灯の少ない道をわざと選んで歩くのは、この散歩には月明かりだけを入れたかったというのもある。少し遠回りでも遥人と歩くこの時間が大切なものになっていた。
やがてあの時の広場、あのベンチが見えてくる。いつだったか、前にも来たあの場所。今夜は食後の一服の為。
並んで座り、あの時と同じように二人揃って煙草に火を点ける。煙は空中でダンスを踊りながら、風に纏われて消えていく。
何も言わない、喋らない。時折顔を見るだけ。不器用な怪物二人。それを満月だけが見下ろしていた。
最後に一言だけ言葉が交わされる。
「なんだろ。充分幸せだな」
「充分どころか、俺たちにとっちゃ贅沢まであるでしょ」
再び並んで帰路につく。
仕事も体も不安定。未だに将来のビジョンは明確ではない。結婚するかどうかも分からないし、この先仕事がどうなるかなんてわからない。様々な困難はこれからもきっとあるだろう。その度に、また二人で乗り越えて、前に、前に。ただ愚直に真っ直ぐ進んでいく。二人でならどういう形であっても進んでいけるのだろう。世間から見ればあまりに不安定で、結婚もできず、見ていられないほど頼りない生活を送る二人。それを笑う人、心配に思う人は必ずいるのだろう。
だけど、そんな怪物同士であっても、そこには必ず彼らにしか分かり合えない温かみと、かけがえのない幸福が存在するのだった。
——怪物同士にも、確かに“幸せ”は存在する——
そんな二人の背中を、満月だけが何も言わずに静かに照らし続けるのだった。




