第三章 ヴァンパイア、酒、ウィザード
雀荘付近にある一軒の洋風居酒屋。居酒屋というにしては店内は洒落ていて、テーブルやカウンターは大学生くらいの若い子たちが大声で笑ったり、奇声を発したりと賑やか。店員も元気の良さと気さくさが売りである。料理も安くて美味しいものが多い。そんな居酒屋に私は同僚であり先輩の漆伊座悠麻と仕事終わりに飲みに来るのが日課であった。長い上に呼びにくいので、みんな略してウイザと呼んでいる。
「だあーっ! 疲れた!」
漆伊座はかなり年上。五十は過ぎていた。年齢による体力のなさもさることながら、幼少期に遭った交通事故のせいで、外出時には杖が手放せない。以前聞いたときにそう言っていた。「店は平面だからいいけどよ、階段とか坂道だと俺転んじゃうからさ」
ロマンスグレ―の長髪に、腫れぼったい感じはあるけれど優しい大きな出っ張り気味の目。歳はいっていても美形なのはわかる。ビール好きで漆伊座は居酒屋でもビールを飲むことが多い。最初は他の人もいたのだが、いつしか二人で飲むことが多くなっていた。やはり雀荘メンバーには雀荘メンバーにしかわからないことも多い。ましてや勤務歴の長い先輩だ。分からないことはいつだって漆伊座に聞いていた。
「お前はどうする?」「今日はブラッディ・マリーだな」
なぜかトマトジュースを飲むと落ち着く。特に今日のような惨敗した日はビールよりまずトマトジュースだ。
「お前トマト好きだな」そう言って漆伊座はゆっくり煙草に火をつけた。フ―……とゆっくり細く煙を吐き出す。
「それよりお前荒れてんな」率直にそう告げられる。
そりゃそうだろう。メンバーといえども麻雀なんて勝って当たり前というほど甘い世界ではない。負け続きで調子が悪い時もある。どうやっても勝てなくて。それが続くのはベテランでもままあることなのだ。
「そうは言えどもまあお前、だいぶマシにはなったよな」
そう言って苦笑気味に笑う。
それもそうだろう。最初のころは何も知らなかった。基本業務の一つもまともにできず、ミスを繰り返して漆伊座はもちろん、別のメンバーたちにも大いに迷惑をかけてきたという経緯がある。みんな口を揃えて言うのは“すぐ辞めると思った”だ。
「まあ、さすがに三年働けば多少は形になんだろ……」
運ばれてきた真っ赤な酒に口をつける。
「へえ、もうそんな経ったか」
そう言って漆伊座もビールをあおる。
***
目の前でブラッディ・マリーを飲む舞奈に目をやる。仕事終わりはどうしても疲れてしまい、遠い家まで帰るにはこういう休憩時間が必要だ。同番の日には一緒に飲んでくれないか——そう言って意外にも快諾してくれたのがこいつだった。当初は正直好きではなかった。好きどころか……“関わり合いになりたくなかった”が正しいところだ。仕事ができないのは仕方ないにしても、麻雀もまともに打てなかった。女性メンバーというのは雀荘業界としてはやや珍しい。男性率の高い雀荘で雇うのならまあいいのかもしれないが、客寄せパンダというにしては愛想も愛嬌もない。顔もスタイルも悪くはないし、接客も丁寧だ。だが、どこが一線を引いたようで、客ともメンバーともあまり雑談をしなかった。少ない表情、一定な声のトーン、いてもいなくても変わらない仕事量で、どことなくゴーストのようだった。別の奴と飲みに行くときに、舞奈も誘おうよと言われ、正直こいつは要らないと思ったこともあった。だが、意外と話せないやつではなかったし、話すうちにこいつはこいつなりに考えて動いていることも分かり、今では必要不可欠な存在となっている。そいつが不意に口を開いた。
「ったく。こんな阿呆な成績が続くたーな」フッと横に煙草の煙を吹きだして、苛ついて尖った声を出す。
俺の前では最近不機嫌を隠さなくなった。店を一歩出てメンバーの仮面を外しているのだろう。
「いやまあ……そりゃお前、誰でも経験することだよ。大体ちょっと前のお前、理不尽に強かったじゃねーか。理不尽に弱いときだって絶対あんだって」
とりあえず窘めておく。実際麻雀において、一番大事なのは“点数差”なのだ。手の早さ、高さ、和了りやすさ、押し引きなど様々な要素はあるけれど、どれも点棒をやり取りするための手段に過ぎない。その中でこいつは打点の高さだけに重点を置いたような、そんな麻雀をするやつだった。和了りやすさ? 手の早さ? そんなことはどうでもいい。攻撃力だけに全振りした圧倒的ハイ打点。例えその形がどんなに変でも高打点は高打点。当然浴びた相手はハイダメージを食らう。その代わり、引くべきところでも引かず、全力突破しようとしてしまうため、外した時のダメージも結構なものなのだ。防御のことはまるで考えていない。ただし、一度波に乗ったらどんな相手でも残酷なまでに点棒を吸い上げる……まるでヴァンパイア。それでもウイザさん、と慕ってくれはするし、聞いたことを実行する素直さ、愚直さも持ち合わせている。そんなところも含めてこいつのことは気に入っていた。これからもこいつとこの時間を過ごしたい。そんな夜。そんな舞奈に一つアドバイスをする。
「お前は押してばっかりだからな。麻雀てのは押し引きが大事なんだよ。押すべきところは押していい。でも引き時ってのもある。よく言うだろ、押してダメなら……ってやつだよ」
舞奈は相変わらず不機嫌な顔で俺の顔を見て、ブラッディ・マリーの残りを喉に流し込み、言い放つ。
「押してダメなら……」一息置いて、細い顎に手をやり、ぼそりと呟く。
「刺し殺せ?」「バカだなぁお前……」
***
ほろ酔い気分の帰り道。
「それじゃーな」
さっと手をあげて舞奈は駅へ向かう。
街灯の明かりの下、華奢な体を包むショール。それをふわりとなびかせる様はまるでコウモリのようだった。その姿を見送りながら改めて思う。全体的に色素が薄い真っ白な肌。細く長い首。くびれたウェストに長い手足はもう折れてしまいそうで。そこだけ見れば儚さを感じさせるのだが、黒とアッシュグレーに染め分けたショートヘア、見た目の細さに反して太く低めの声、動きやすさ重視のスポーティでシンプルなファッションはどこか中性的で。まあ男目線からすれば好みが別れそうだ。……でも、そういうのが俺はタイプなのだ。心がそっとさざ波のようにざわつく。自嘲気味にふ、と下を向いて笑う。あれでも同棲している彼氏がいるんだもんな。
俺はそっと踵を返し、バス停へ向かった。愛用の杖の音と足音が、ゆっくりと響きだした。
一方、舞奈はホームで電車を待っていた。今日の飲みを、漆伊座のことを思い返す。
本人はコンプレックスなのだろうが、杖を持ちゆったりと歩みを進めるところは大人の余裕を感じさせる。何を言っても自分の意見は述べるが、決して私を否定はしなかったし、嫌味を言ったり小馬鹿にもしなかった。真剣になるところもあれば、ふざけてくれる軽さもある。だから物事も聞きやすかった。仕事中は比較的おちゃらけていて、年下客にはフランクである。まあもっともそれで敬語を使え、と社長や店長に叱られることもあるのだが、初めて来た緊張しているお客にはああいう対応も必要なのかな、と思う。だが、一度卓についてしまえば遠慮はない。麻雀漫画のような派手なことはあまりしない。そういえば大切なのは“点数差”だと言っていたな。無駄な失点を抑え、細かいけど確実に点棒を集めていって——気づけばたった百点差で一着か二着には収まっている。目立たないが職人のように渋い打ち方。どんな魔術を使ったらこうなるんだろう? 全く、まるで魔術師——ウィザードだ。
そんなことを考えている間に、乗客をたっぷりと詰め込んだ電車が風と共にホームに滑り込んできた。




