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カミナリのちハレ

さっきまで青く澄んでいた秋の空が、急に暗い雲に覆われてきた。

アスファルトにポツリポツリと濃い灰色のシミができていく。


———くっそ。雨降るなんて聞いてねえぞ。


両脇に抱えた松葉杖が一層重い。

サンダルをつっかけた左足を地面に着くと、ピリッとした痛みが走る。慣れない松葉杖での歩行は、想像以上に体力を使う。


———これじゃあ傘もさせやしない。まあ持ってもいないんだけど。

駅まであと七分。いや、この足では倍はかかるだろうか。


高校へ引き返そうかとも思ったが、ここまで来たら駅まで行った方が早いぐらいだ。

雨宿りできるような適当な場所も見当たらない。


東条雷人とうじょうらいとは溜め息を付き、重い歩みをできるだけ速めた。





二日前の夜、雷人はビルの階段から落ちて足を骨折した。

新宿の片隅にあるその古い雑居ビルには、母が経営するスナックが入っている。雷人は時々裏方の仕事を手伝っていた。

その日は店からの帰り際に酔っ払いの揉め事に遭遇し、巻き添えを食ってしまった。

強打した左足は面白いくらいにドス黒く腫れ、翌日病院に行くと見事な骨折。全治二ヶ月を告げられた。


高校の担任に欠席のための電話をすると、「休んでもいいけど、これ以上欠席日数が増えると三年生に進級できないよ?」と無慈悲な答えが返ってきた。

それは一学期に盛大にサボっていたための自業自得でしかないのだが。



雷人の通う高校は、東京の板橋にある。

進学先を決める際、知り合いがいない公立高校で、制服が無く、校則が緩いところを選んだ。

お陰で金髪にしてもピアスが増えても全く問題はない。自由すぎて時々自分が高校生であることを忘れるくらいだ。

雷人の住む新宿からは埼京線で十分ぐらい。駅までの徒歩を入れて三、四十分の通学時間だ。

生徒は自転車通学組が大多数。近くに地下鉄の駅があるため、そこを利用する生徒も多い。雷人のようにJRを使う人は稀だ。


朝の新宿駅は、早い時間でもかなりの人混みがある。板橋までは下り電車で比較的空いているとはいえ、初めての松葉杖では不安だった。そのため今朝の登校時には、酔っ払いに押し付けられた慰謝料を使ってタクシーに乗った。しかし刻々と増えていくメーター料金を見て、下校は必ず電車を使おうと心に決めたのだった。



普段からあまり友人とつるむことがない雷人は、登下校はいつも一人だ。

クラスメイトとは普通に話すが、特に深入りはしない。常に一線を引いての友達付き合いを意識している。部活もしていない。今は恋人もいない。寂しくはないし、それがラクだから別にいい。

でもこんなツイてない日には、誰かに愚痴を溢したくもなる。


———ああ、くそ。駅が遠い。


「‥‥東条くん?」


不意に背中から声を掛けられた。

振り向くと、見たことのある青年が立っている。


「あ‥‥関根晴可せきねはるか


同じクラスの奴。

華奢な体型のせいか小柄に見えるけど、平均身長ぐらいはあるだろうか。

大きな瞳がこちらをじっと見つめていた。


「俺のフルネーム、覚えてくれてたんだ」

「同じクラスだよな。あんま、しゃべったことねーけど」


明るく柔らかい雰囲気を纏う晴可は、男子からも女子からも人気がある印象だ。クラスではいつも大勢の友達に囲まれている。雷人からは真逆のタイプに見えて、これまで関わることは無かったが。


「ねえ、その足、どうしたの?今日ずっと気になってたんだけど」

「骨折。階段から落ちた」

「うわー痛そう」

「んー、まあね」


晴可はどんよりとした空を見上げた。


「降ってきちゃったね。カミナリも鳴ってる」

「だな。早く帰らないと」

「東条くん、家どこ」

「新宿だけど」

「新宿?!」

「まあ、最寄りが新宿駅って珍しいかもな」

「うん、うちの高校では初めて聞いた。埼京線乗るの?その足で」

「そ。だから雨がひどくならないうちに‥‥っと」


通りすがりの人が脇を掠め、雷人が身体のバランスを崩した。

晴可がサッと手を伸ばし、腰を支える。


「大丈夫?」

「ああ、悪い」

「東条くん」

「ん?」

「うち、おいでよ」

「‥‥は?」

「俺んち、すぐソコだから。雨もこれから強くなってきそうだし、松葉杖では帰るの大変だろ」

「え‥‥」

「ギブスも濡れないようにしないと」

「でも」


そう言っているうちに雨足が徐々に強まってきた。

大粒の雨粒が地面の色を変えていく。


「来て!」


晴可が歩き出す。

雷人は少し逡巡したのち、その後を歩き出した。


晴可の言った通り、家はそこから五分もかからないところにあった。

細めの路地を入ったところに建つ、一軒家。

門の横には金木犀の木が可憐な黄色い花を付けている。

フワッとした優しい香りはコイツにお似合いだな、と雷人は思った。


玄関に滑り込むと同時にピカッと稲妻が走り、豪雨と言ってもいいくらいの大雨になった。


「あぶねー、すんごい雨」

「東条くん、大丈夫?」

「おー、お陰でそんなに濡れずに済んだわ」


タオルを持ってきた晴可が、背伸びして雷人の頭を拭いた。

頭から全身をタオルで優しくトントンと拭われる。くすぐったさに、雷人は顔を赤くした。


「ギブスは無事だね」

「ありがと。もう大丈夫だから」

「良かった。その辺座っててよ。お茶でもいれる。コーヒーのがいい?」

「おかまいなく‥‥いや、コーヒーもらう。ブラックで」

「ふふふ、わかった。インスタントだけどね」


雷人はソファーに腰をかけた。

松葉杖をついて早足で歩いたせいで、両腕がパンパンに張っている。


しばらく待っていると、マグカップを二つ持った晴可が居間に入って来た。


「コーヒー、どうぞ」

「いただきます‥‥」

「俺のは甘ーい砂糖とミルク入りコーヒー」


ほんの何分か前までは話したこともなかった奴が、家に自分を招き入れ、ニコニコと甘いコーヒーを啜っている。

不思議と気まずさは無いが、おかしなシチュエーションだなと思った。


「うまい」

「良かった!それインスタントだけど案外美味しいんだ。バイト先で教えてもらったやつ」

「へえ。関根‥‥は、ご家族は?留守なのか?」

「ああ‥‥ううん、いないよ。俺、一人暮らしだから」

「は?一人暮らし?この一軒家で?」

「そ。だから遠慮しなくていいよ」


両手で包んだマグカップの向こうで、晴可の大きな瞳が瞬きをした。


———睫毛、長いな。


それにしても一軒家に一人暮らしとは、何か事情があるんだろうか。自分などが不躾に聞いてもいいものなのか、わからない。

黙ってしまった雷人を見て、晴可が言った。


「泊まっていけば?」

「え?」

「雨、しばらく止みそうにないし。うちからなら学校近いから、明日の朝もラクだよ」

「いや、でもそれはさすがに‥‥」

「着替えは俺の貸せばいいよね。何か要るものある?あ、教科書とかは取りに帰る必要あるかな」

「全部ロッカーに置き勉してる」

「そっか。それなら、親御さんに連絡して許可してもらえたら‥‥」

「親は、ラインしとけば大丈夫」

「じゃあ、決まりね」


晴可はフワリと微笑んだ。

おかしなヤツだ、と雷人は思った。

ほとんど話したとこもない、クラスメイト。自分には何のメリットも無いのに、家に泊めてくれるなんて簡単に言う。よっぽどのお人好しなのか。

俺には有難い申し出なのは間違いないけれど。


「本当にいいのか?」

「うん。大歓迎!」

「‥‥じゃあ、お世話になるよ」

「やった!俺、何か晩ごはん用意するね。東条くんは、お風呂入れば?少し雨に濡れちゃったから、ゆっくりあったまったほうが」

「いや、ギブス濡らしちゃいけないから」

「そうか。じゃあ、シャワーだな。一緒に入ろう」

「は?」

「だってそれじゃ、洗うのも大変だろ。どうやって入るんだよ」

「うーん?足を濡らさないように、ビニールにでもくるんで?」

「ふふふ、いいから、任せて。着替えは‥‥俺のじゃちょっと小さいかもしれないけど、何か持ってくるね。待ってて」


晴可は嬉しそうに鼻歌を歌いながら階段を二階に上がっていった。


「一緒にって。‥‥ヤバいだろ」


雷人は頭を抱えた。


雷人の恋愛対象は同性だ。

生まれてこの方、女性を好きになったことは一度も無い。惹かれるのはいつも、自分より体格の小さめな、可愛い感じの男だった。

そういう意味で、晴可の見た目はどストライクといえる。


「お待たせ。東条くん、ジャケットはハンガーに掛けるから、脱いでね」


晴可が雷人のライダースジャケットを肩から抜き取った。


「ズボンも」


ギプスでジーンズや細身のパンツは履けなかったので、スウェット素材の緩めのものを身につけていた。腰に手を掛けられ、慌てて振りほどく。


「待て待て。自分で脱ぐから」

「下着とTシャツは、脱いだら洗濯機に入れてね。俺もすぐ入るから、風呂椅子に座って、足にそのタオル巻いておいて」

「‥‥」


———仕方ない。こうなったら、心頭滅却。円周率か元素記号を唱えていよう。


服を脱ぎ、腰にタオルを巻いた。言われた通りに椅子に座ってギブスの上にもタオルを巻いていると、晴可が入ってきて、はい、と大きなゴミ袋を渡された。


「これ、足に履いて」

「ありがとう」


晴可の白い裸体がチラリと目に入り、慌てて下を向く。


「3.14159265358979」

「東条くん?何ぶつぶつ言ってるの?」

「3238462643383279」

「???まあいいや。頭洗ってあげるから上向いて」


雷人はギュッっと目を瞑り、言われるがままに上を向いた。

晴可が背中側に立つ。


「美容院みたいだね。シャワー、熱くないですか?」

「大丈夫デス‥‥」

「シャンプーしていきまーす」


ごしごし。晴可の細長い指が、頭皮を撫で、泡を立てる。


「痒い所はないですかー?」

「ナイデス‥‥」

「じゃあ一旦流して、コンディショナーをつけまーす」

「ハイ、オネガイシマス‥‥」

「東条くん、金髪なのに髪の毛サラサラで綺麗だよね」

「‥‥そう?」

「うん。全然傷んでないもん。いいなあ」

「関根も、綺麗な髪してるじゃないか」


晴可の髪は、黒のマッシュだ。

丸くフワフワとした髪型が、小顔の晴可によく似合っている。


「そうかな」


晴可がコンディショナーを手に取り、雷人の明るい金髪をかき上げる。

いつもは少し長めのセンターパートで隠れ気味の額が、風呂場の照明に晒された。

切れ長の目が高校生らしからぬ色気を帯び、端正な顔立ちだ。


「‥‥‥‥じゃあ、流すよ」


頭に温かいシャワーをかけられる。冷水で頭を冷やしたいところだな、と雷人は思った。


「次は、背中流すね」

「えっ背中も?」


晴可はボディースポンジに泡を立てる。


「俺のスポンジじゃ、嫌だよね。手で洗おうか」


泡を手に付けて、スルスルと背中を撫でられた。

ゾク、と電流が走ったような感触。


「うわ!ちょっと待て!素手はダメ!す、スポンジでいいから」

「‥‥そう?わかった」


背中をスポンジで擦られる。やばいやばい。心頭滅却。

それにしても、無自覚でやっているのだとしたら、こいつは相当危ない奴なんじゃないだろうか。


「関根、こっち来て。背中、俺もやる」

「え?俺はいいよ」

「いいから、スポンジ貸して」

「‥‥うん」


肩甲骨の出た背中に、両手で掴めてしまいそうな、細い腰。引き締まった小さな尻。

なるべく目を背けようとするが、嫌でも目に入ってしまう。美しい身体だと思った。


「肩、冷えてる。ごめんな、俺ばっかり洗ってもらって」

「そんなのいいのに。‥‥恥ずかしいな。東条くんみたいな、カッコいい背中じゃないから」

「そんなこと」

「東条くんは、肩幅もしっかりあって、筋肉もついてて、いいよね」

「‥‥中学までは、水泳やってたんだ」

「だからか。今は?やってないの?」

「ああ、辞めた。今は帰宅部。関根は?部活とかやってんの?」

「やってないよ。俺も帰宅部。うちの高校、部活やってる人が大多数じゃない?貴重な帰宅部仲間だね」

「確かにな」

「俺、前から東条くんと話してみたいなって思ってたんだ。だから今日は雨が降ってラッキーかも」

「へえ、関根は俺のことなんか知らないと思ってた」

「なにそれ。知ってるよ」

「そうか?‥‥背中、終了。前は自分でやれよ」

「うん、東条くんもね」


ボディースポンジは晴可に渡して、自分は適当に手で前側を洗う。


「俺、先に出てるな」

「あ、うん。一人で大丈夫?」

「おー、ありがとな」


脱衣所にはスツールが用意され、その上にバスタオルと着替えがきちんと畳んで置いてあった。新品のボクサーパンツまである。


「これ着ていいのかー?」

風呂場に声を掛ける。


「いいよー。サイズ大丈夫かな?」

「あー、たぶん大丈夫。サンキュー」


着替えは黒いタンクトップとハーフパンツと前開きのパーカーだった。こんな足でもでも着替えやすい服を選んでくれたのだろうか。椅子があるのも助かる。

こんな風に気が効いたり、自分を後回しにしても人を助けられる優しいところが、皆から好かれるんだろうな、と想像できる。

自分とは全く違う人種だ。

俺は自分の欲を抑えるのが精一杯の、ただのクズだから。


「ドライヤー、そこの引き出しだよ」

「あ、ありがとう。借りる」


晴可が風呂場から出てきた。腰にバスタオルを巻いただけの姿が目に毒だ。


「着替え、俺のTシャツだと肩の辺がキツイかもと思って、タンクトップにしたんだけど。大丈夫?」

「ああ、うん。大丈夫」

「良かった」


晴可もラフな白いスウェットに着替えると、使っていたタオルを洗濯機に入れた。


「洗濯しちゃお」


慣れた手付きで洗濯機をセットする晴可を見て、主婦みたいだな、と雷人は思う。

一人暮らしというのは本当らしい。洗面所には歯ブラシが一本しか置いてないし。


「東条くん、苦手な食べ物とかある?」

「特に無いけど」

「いいね」


晴可はニコっと微笑んだ。


「夕飯何か用意するから、居間でゆっくり休んでいてね」



食卓に並べられたのは、鶏肉と大根の煮物と、味噌汁、土鍋で炊いたキノコの炊き込みご飯。

どれも美味しそうで雷人は驚いた。


「あんな短時間でこんな‥‥お前、天才か?」

「全部簡単なものだけどね」 

「いただきます」

「どうぞ、召しあがれ」

「‥‥‥‥うまっ」

「ふふふ、良かった」

「土鍋でご飯て炊けるんだな」

「炊飯器より早いんだよ。うち、炊飯器ないし」


キッチンにあるのは大型の冷蔵庫と電子レンジ。それ以外の家電は見当たらない。

大きな食器棚も、中身はスカスカ。

そういえば、居間にテレビも置いてなかった。

物の少なさが、広い一軒家には少し不釣り合いな気がする。


「すげーな、お前、すぐに嫁に行けるぞ」

「嫁って‥‥俺、男だよ」

「ははは、でもホント、料理も他の家事もその辺の女子よりできるな。俺が嫁にしたいわ」

「料理は好きだけど‥‥家事は必要に迫られて、やってるだけだよ」

「関根、一人暮らしはいつから?」

「高校に入学した頃。前はこの家に、両親と祖母の四人で暮らしてたんだ」


それから晴可は、ポツポツと話を始めた。


「祖母と母は、ずっと折り合いが悪くて。家の中は常にギスギスと険悪な雰囲気だった。

父も二人を見て見ぬふりだし、みんな俺を介してしか会話しないんだ。最悪だろ」

「‥‥‥‥」

「俺はなんとか仲を取り持ちたくて、間に入って頑張ってたんだけどね。俺が中三になった頃、祖母が病気で亡くなった」

「うん」

「母は、ババアがいなくなってせいせいしたとか、それでも祖母の悪口を言い続けてた」

「キツイな」

「でも以前に比べたら家の中は平和になって。父も母と会話するようになったし。

そんな時‥‥母が妊娠したんだ」

「‥‥」

「歳の離れた兄弟ができること、俺は本当に嬉しかった。少しでも家の助けをしたいと思って、家から一番近い公立高校を受験した」

「うん」

「でも受験が終わった頃、母は言ったんだ。環境を変えて、田舎で子育てしたいって。祖母の気配が残る、この家にはもういたくないって。

母の実家が千葉の房総なんだけど、その辺りに移住を希望した。

父は都内の大きなホテルで料理人をしていたから、館山のリゾートホテルにすぐ転職できたんだ。今はそのホテルの社宅で、産まれた赤ん坊と三人、嘘みたいに穏やかに暮らしてるよ」

「‥‥」

「そこに俺が入る余地はなかった。だって、高校の入学手続きも終わってたんだよ。ここに残るしかないだろ」


晴可の声は震えていた。

雷人は手を伸ばし、晴可の手を包んだ。


「一人でがんばったな」

「‥‥うん」

「お前、やっぱりすげーよ」

「‥‥こんな話、初めてした。なんか、東条くんなら話しても大丈夫な気がしたから。ごめんね。聞いてくれてありがと」


晴可の瞳が濡れて光っていた。雷人はそのガラス玉のような瞳から目が離せなかった。


「いや、俺なんかでよかったら、いくらでも聞くよ」

「うん。聞いてもらえて良かった。ご飯も美味しいって食べてくれて、嬉しかったし」

「めちゃくちゃ美味かった。ご馳走様」

「ね、ここ片付けたら、一緒に課題しない?数学の」

「ああ、そんなのあったっけ」

「じゃあ居間で少し待っててね」


晴可は立ち上がり、食器を重ねていった。


「いや、片付けぐらい手伝うよ」

「そんな足で何言ってるの。お客さんは休んでていいんだよ」

「洗い物くらい、片足でもできるから」


雷人も立ち上がり、晴可の肩に手を置いた。


「やらせてよ」

「んもー、いいってば‥‥?」


雷人が晴可の顔を正面から覗き込む。


———近いな。


そう思うと同時に、雷人は自然と晴可に吸い寄せられた。

二人の唇が瞬間、重なる。



「んんっ‥‥?」

「‥‥‥‥ごめん」

「‥‥‥‥えっっっと、じゃあ洗い物お願いしていい?俺は残り物にラップして冷蔵庫に仕舞うから」

「お、おう」


首まで赤く染まった晴可があたふたと動き出す。

雷人も黙って食器洗いを始めた。必死に表情を殺す努力をするが、心が騒めくのを止められない。


———ヤバいヤバいヤバい!どうしよう、俺、あいつのこと、好きになったかも。

てか、思わずキスしちゃったじゃん!唇、柔らかかった!かわいかった!

気持ちバレた?ゲイだってバレた?

抑えろ、俺!!!



その後二人は、何事も無かったかのように数学の課題に取り組んだ。

雷人が苦手な範囲だったが、晴可に聞くと不思議と頭の中の霧が晴れるように理解できた。


今日は何回こいつに助けられているんだろう、と雷人は思い返した。

晴可のスゴいところ、優しいところ、カッコいいところ、可愛いところ。沢山知った。

初めて話したのに、ずっと昔から一緒にいるような気がする。


———これは、本格的に、ヤバいかも、しれない。恋、なのかも、しれない。



「‥‥東条くん?」

「あ、悪い、なに?」

「布団敷いたから。一階の和室ね」

「ありがと。こっち?」


襖を開けると、畳の上に布団が二組並べられていた。


「‥‥は?お前もここで寝るつもり?」

「そうだよ」


晴可はニコニコと微笑んで言った。


「俺の部屋は二階だからね。その足じゃ階段大変でしょ」

「いや、だから、一緒の部屋じゃなくても」

「いいじゃん。修学旅行みたいで楽しいねー」


雷人はハァ、と溜め息をついた。


「お前さあ、危機感とか、無いの?」

「危機感?なんで」

「‥‥俺、さっきキスしたでしょ」 

「‥‥うん」

「気持ち悪くないの?」

「うーん、ない、と思う」

「それ以上のことされちゃうかもよ?」

「‥‥東条くんは大丈夫」

「どういう意味だよ?」

「だって、左足動かせないでしょ。それ以上のことなんて、できないよ」


ハァ。再びの溜め息。

こいつは『それ以上』の意味をわかっているんだろうか。

東条くんは大丈夫だなんて、簡単に言うなよな。

しょうがない。一晩くらいなら辛抱してみせる。俺だって、本当は一緒にいたいんだし。


「‥‥わかった。もうなんもしねーから、安心して」

「うん、寝ようか」

「オヤスミ」



電気を消して布団に入ったが、雷人はなかなか寝付けなかった。

窓の外からサーーーという音が聞こえていた。雨はまだ降り続いている。

足が動かせないので、寝返りが難しい。上を向いたままの姿勢が辛くなって、雷人は身を起こした。


「東条くん?眠れない?」


とっくに寝ていると思っていた隣の布団から声がした。


「あーちょっと‥‥水、もらってきていい?」

「水?わかった!ちょっと待って」

「いや、自分で」


言う前に、晴可がパッと部屋の外へ出てしまった。


「はい、どーぞ」


水の入ったグラスを渡される。

雷人はそれを両手で受け取った。


「ありがとう。‥‥俺、お前に色々助けてもらってばっかりだな。この恩はきっと返すから。何かして欲しいこととか、あるか?すぐには無理なことでも、足が治ってからならなんでもするぞ」

「‥‥ひとつ、ある」

「なに?俺に出来ることなら」

「お前って呼ぶのやめて。名前で呼んで欲しい」

「あ‥‥嫌だった?ごめん。関根?」

「晴可。ハルでいいよ」

「ハル。わかった」

「ふふ、東条くんは、なんて呼ぼう」

「‥‥ライ」

「雷人だからライか。いいね。よろしくね、ライ」

「おー」

「あ、あと」

「ん?」

「スマホの連絡先、交換して」





翌朝雷人が目覚めると、隣の布団は空になっていた。

キッチンを覗くと、エプロンを身につけた晴可が「おはよー!」と笑顔で迎えてくれた。


「はよ‥‥朝からテンション高いね」

「ね、ライはいつも昼ご飯どうしてるの?」

「え?テキトーに、コンビニか購買だけど」

「昨日の炊き込みご飯が残ってたから、お弁当作ったんだ。今日持って行ってくれる?」

「‥‥マジか」

「‥‥いらない?」

「いる」


弁当なんて、作ってもらうのは何年振りだろう。思わず顔がニヤけてしまう。


「俺、朝ご飯はいつもグラノーラだけなんだけど、ライも食べる?」

「いや、俺は朝いつも食べないから」

「ならコーヒー入れるね」

「ありがと」

「‥‥なんかさー、こういうの、いいね」

「ん?」

「起きたら一人じゃないの。なんか嬉しくて、いつもより早起きしちゃった」


———どうしよう。めちゃくちゃ可愛いんだけど。


「ハルは、いつも弁当作ってんの?」

「うん、大体ね。節約もあって出来るだけ自炊してるから、残り物とかで作ってる」

「すげーな。俺、そんなの考えたこともなかった」

「生活費、仕送りもしてもらってるけど、なるべくバイト代で賄いたいんだよね」

「バイト、何してんの」

「池袋の喫茶店。平日はあんまり入れないんだけど、土日とか、長い休みの時に。マスターが作ってくれる賄いが美味しいんだー」

「へえ、いいね」


喫茶店。カフェとは違う、そのレトロな響きが晴可に合っていると思った。


「ライはバイトしてる?」

「んー、バイトってか、たまに母親の店を手伝ってる」

「店?」

「‥‥新宿で、スナックやってんの」


少し言うのを躊躇した。

雷人は自分の家のことを人に話すのが苦手だ。話しても、夜の店ということで相手に引かれることが多いから。

でも晴可には、知って欲しいような気もした。


「そうなんだ」


晴可は微笑みを崩さなかったが、それ以上深く尋ねることもしなかった。


———そこまで俺に興味ないよな。


晴可はきっと、誰にでも優しい。

たまたま怪我して困ってる俺を見て、放っておけなかった。それだけだ。

期待するな。雷人は自分に言い聞かせていた。



コーヒーを飲み、身支度をすると、二人で家を出た。

昨夜の雨は止み、濡れた金木犀の花が朝日に照らされキラキラと光っている。


「雨、やんだな」

「水溜まりあるし、松葉杖滑らないように気をつけてね」


雷人がふと玄関を振り返ると、何故か郵便受けに一輪の赤い花が刺さっているのが見えた。


「‥‥なに、これ?ハルの趣味?」


思わず手に取ろうとすると、

「触らないで!」と晴可に止められた。

晴可が慎重に郵便受けを開け、花を取り出す。


「薔薇の花?」

「前にも何度かここに入ってて。不用意に抜こうとしたらトゲが指に刺さったことがあるんだ」

「え?前にも何度か?なんでこんなところに花が入ってるんだ?」


晴可は薔薇をそっと玄関脇に置いた。


「わからない。なんでだろうね」


スナックで客たちが話してるのを聞いたことがある。赤い薔薇の花言葉は、愛情。一輪のときは、『あなたに一目惚れしました』だったか。


「心当たりねーの?」

「ないよ」

「それって、ストーカーじゃ?」

「うーん、そうなのかなー。でも薔薇が入ってる以外に被害はないから、警察とかに言ってもダメだよね」


やっぱりこいつは危なっかしい。何考えてんのかわかんないストーカーが、一人暮らしの家まで来てるんだぞ。俺が言うのもなんだけど、もっと危機感を持った方がいいんじゃないのか。


「気味が悪いな」

「まあね。でも大丈夫だよ。気にしないで」

「でも‥‥」

「もう学校行かなくちゃ」


晴可が前を歩き出した。

雷人もその後を追う。薔薇のトゲが刺さったように、胸の奥がチクチクと痛んだ。





昼休み、いつものように雷人は教室の自分の席にいた。

いつもと違うところは、コンビニのおにぎりの代わりに手作りのお弁当の包みがあること。

少し気恥ずかしさを感じながら、その包みを開けた。

「お、東条、今日は弁当?珍しいな」

前の席の黒井くんが不思議そうに覗き込んだ。


きのこの炊き込みご飯に、厚めの卵焼き。鶏肉の照り焼きとほうれん草のお浸しとさつまいもの甘煮。

男子高校生が作ったとは思えない、美味しそうな弁当だった。


「‥‥すげー」

「なに?彼女の手作り?」

「ちげーよ。‥‥‥‥うまい」


晴可は他の友達、男女合わせて七人ほどのグループでワイワイと机を囲んでいた。

思わずそちらに視線を送ると、バチっと目が合った。

そっと親指を立てると、晴可はニコッと微笑んだ。可愛いかよ。


『弁当ありがとう めちゃくちゃ美味くて感動した! ごちそうさま』


ラインを送るとすぐに返信があった。


『よかった!! 今日一緒に帰れる?』

『いいよ』

『放課後、昇降口でね』


「ケータイ見てニヤニヤしてる。やっぱり彼女だろ?!」

黒井くんが揶揄ってきた。

「ちげーって」

「東条モテるんだろうなー、いいなーイケメンは。彼女の一人や二人、いるんだろ?」

「いねーよ」

「ホントかぁ?」


ゲイだからな。心の中で呟く。

彼氏、とは一年ほど前に別れた。だから今は本当に一人だ。

チラッと晴可の方を見る。好きな人は、できたかも知れない。

晴可には好きな人はいるのだろうか。家には恋人の気配は無かった。

でも、あの郵便受けの赤い薔薇。晴可を想っている人は、きっといる。

あいつが自分以外の誰かと付き合っている姿、想像したくないな。


雷人は机に突っ伏して、残りの休み時間をやり過ごした。



「ライ!」


晴可は昇降口のベンチに雷人の姿を見つけると、嬉しそうに駆け寄ってきた。

飼い主を見つけた小型犬みたいだな、と雷人は思う。かわいいな。


帰り道、二人の話は尽きなかった。

弁当がびっくりするほど美味しかったこと。

雷人の提出した数学の課題がいつになく完璧で、やればできるじゃないかと教師が仰天していたこと。

体育のバスケで、晴可が何度もシュートを決めたこと。見学の雷人も参戦したくてウズウズしたこと。

珍しく雷人も冗舌になっていた。


いつのまにかJRの駅が目前に近づき、晴可の足がピタリと止まった。


「ハル?どうした?」

「ライ、帰っちゃうの?」

「え?」

「今日も泊まっていってよ」

「え、でも、もう雨降ってねーし」

「明日は土曜日だろ。明日ゆっくり帰ればいいじゃん。それとも今日、何か用事ある?」

「‥‥別にないけど」

「明日は俺、昼前からバイトだから、一緒に家出ようよ。その時間の方が電車も空いてるよ」

「‥‥‥‥」

「お願い」


晴可は雷人のジャケットの裾をギュッと握った。

雷人は天を仰いだ。こんなん断れる訳がないだろ。


「あーーー、行くよ」

「ほんと?」

「朝のストーカーも気になるしな」

「あれは気にしなくていいって」

「‥‥シャワーは一人で入るよ」

「えーーー、そうなの?」

「そうなの!」



今日も何か作ると晴可は言ったが、そう毎日は甘えられない。雷人は近くの店で評判の焼きそばを二人分テイクアウトした。


「俺が持つよ!美味そうだなー。これ、ご馳走になっていいの?」

「もちろん。これ位じゃお返しにもならないけど」

「俺がしたくてしてるんだから、お返しなんか要らないんだよ。泊まってくれるだけで嬉しいんだから」

「‥‥ハルって、いつもこうなの?」

「いつもって?」

「いつも誰かの世話焼いたり、家に泊まらしたりしてんの?」


晴可の表情がスンと真顔になった。


「‥‥」

「や、変なこと言ったな。ごめん」

「ない。一人暮らしになってから、家に人あげたのも、手料理食べてもらったのも、泊まらせたのも、全部ライが初めてだよ」

「‥‥まじ?」

「なんでかな。何となく、ライならいいかなって」


———何となくか。ただの気まぐれだとしても、嬉しくてのぼせ上がってしまいそうだ。俺はだいぶ晴可が好きなのかもしれない。



一緒に焼きそばを食べ、シャワーは別々に浴びた。二人で並んで布団に横になり、飽きることなく話をした。


「‥‥昨日、聞こうか迷ったんだけど」

「なに?」

「ライのお母さん、スナックやってるって」

「あー、そう」

「どんなお母さんなの?」


昨夜は興味ないのかと思ってたけど、気にしてくれてたのか。

あまり人に聞かせたい話ではないんだけど。


「うちは、完全放任主義だな。母は豪快で仕事が好きで、男運の悪い人。夜は毎晩お店に出てるから、俺はいつも一人だった。朝は大体、俺が起きる時間に母が寝て。向こうは昼夜逆転してるから、お互い寝顔しか見てない日も多かったな」

「それは‥‥寂しかったね」

「寂しかった‥‥のかな。うん、小さい頃は寂しかったかも。兄弟もいない。親戚付き合いもないし、俺は父親がいない、所謂私生児だから。他に頼れる人もいなかったな」

「うん‥‥」

「父親は別に家庭がある人で、母と別れる時にお店の開店資金と小さなマンションの頭金をくれたらしい。俺は会ったこともないけど」

「‥‥」

「俺、中学の頃は水泳だけは続けてたけど、それ以外はなんもやる気がなくて。ちょっと悪い友達が増えて、グレかかったこともあった。

でも三年生で塾に入れられて、少し真面目に勉強するようになって。環境を変えたくて、地元から離れた高校を選んだんだ」


その塾で、元彼と出会った。彼は、塾の講師をしている大学生だった。

流石に彼のことは晴可には言えないが。


「ライ」


晴可がゴソゴソと雷人の布団に潜り込んできた。


「へ?な、なんだよ」

「がんばったね」


フニ、と柔らかな唇と唇が触れた。


「‥‥え?」

「‥‥昨日のお返しだよ」

「はあ?!」

「今日は、ライとくっついて寝る」


晴可は少し離れて敷いてあった布団を引っ張り、雷人の布団と付け合わせた。


「ちょ、ちょっと!」

「左足は、触らないようにするからね」


晴可は雷人の右腕に腕を巻き付け、額を肩に付けた。

「おやすみ」

「‥‥‥‥」


顔が熱い。雷人は今日も眠れない予感がした。





翌朝目を覚ますと、雷人は思いの外熟睡していた自分に驚いた。

夢も見ずに、長い時間眠ったのはいつ以来だろうか。


晴可は既にキッチンに立っていた。


「おはよー!」

「おは‥‥なに作ってんの?」

「ブランチに、豚汁作ったんだ。ライも食べるよね?」

「うん‥‥いいにおい」


豚汁に出汁巻き卵、土鍋で炊いたごはん。

湯気が立ち、とても美味しそうだ。


「うわ、またすげーな」

「ふふ、召し上がれ」

「いただきます‥‥」

「お弁当は甘い卵焼きだったけど、今日のは甘くない出汁巻きにしたよ。ライ、どっちが好き?」

「どっちも好き。ハルの作るご飯、全部美味い」

「ふふふ、やった!」


晴可はニコニコと雷人を見つめた。


「本当は俺、一人の時はお茶漬けだけとか、グラノーラだけとか、適当に済ませることも多いんだ。人に食べてもらえるって、こんなに嬉しいんだね。作り甲斐があるよ」

「そっか。そりゃ、一人でこんなに毎日はできないよな」

「ねえ、ライ。よかったら、ずっとうちに居てくれない?」

「は?」

「うちに住んでよ」

「いや、それはダメだろ」

「ダメ?‥‥せめてその足が治るまでは?」

「いやいや、それでも」

「なんでダメなの?」


晴可が捨て犬のような悲しい目を伏せた。


———こいつと一緒に暮らせたら、どんなに良いだろう。

俺だって、本当はそうしたい。

でも、これ以上は無理だ。

これを言ったら、終わりになっちゃうんだろうな。

あーあ。

俺は今から、爆弾を落とす。


「俺、ゲイだから」


「‥‥‥‥え?」

「ハルのこと、そういう意味で好きになっちゃうから。ずっと一緒に生活するとか、無理。」

「‥‥」

「昨夜も自分を抑えるのに必死だったんだ。これ以上ここにいたら、いつかお前を襲っちまう」

「‥‥」

「ごめんな、こんな気持ち悪いこと言って。ハルは怪我した俺に親切心で声かけてくれただけなのに。ホントにごめん」


晴可は難しそうな顔で眉を寄せていた。


———やっぱり引くよな。

ごめん、こんな奴のために。


「‥‥俺、自分がゲイとかノーマルとか、考えたこともなかったんだけど」

「まあ、普通そうだよな」

「今まで誰ともお付き合いしたことないんだ。告白とかされても、いつもその気になれなくて」

「うん」

「キスも、おとといが初めてだった」

「う‥‥ホントにごめん」

「おとといも言ったけど、嫌じゃなかったんだ。むしろ、もっとしていたいような、不思議な感覚。それが何なのか確かめたくて、昨夜は俺からしてみたんだけど」

「‥‥あー」

「やっぱり、嫌じゃなかった。もっとライとくっついていたくなった。ねぇ、これって、もしかして好きってことかな?」


ヤバい。そんなこと言われたら、もう止められなくなる。


「‥‥もっかい試してみる?」

「え?ためす?」

「キス」

「‥‥う、うん」


晴可がおずおずと雷人に近寄る。

昨日のような、触れるだけのキスではなかった。

雷人は晴可の小さく柔らかい唇を吸い、ゆっくり三秒数えてそっと離した。


「‥‥‥‥はぁ‥‥‥‥」

「どう?嫌になった?」

「‥‥なってない」


晴可は顔から首まで真っ赤に染まっていた。

かわいい。

手離したくない。

ヤバい。身勝手な想いが理性に勝ってしまう。


「あのさ、‥‥この足のギブス取れるの、一ヶ月後なんだ」

「‥‥うん」

「それまで、俺と試しに付き合ってみない?」

「‥‥」

「一ヶ月だけ、一緒に住もう。ハルのご両親に許してもらえたらだけど‥‥、家賃と水道光熱費、食費もちゃんと払う。どう?」

「‥‥うん」


晴可は大きく頷いた。


「それでいいよ」



それから晴可は両親と連絡を取った。

同居の願いは、思いの外すぐに快諾された。晴可を一人で残すことに、両親が少なからず罪悪感を抱いていたためもあったのかもしれない。同じ高校の友達なら問題ないだろうと歓迎してもらえた。

両親は高校生から家賃などは受け取れないと断ったが、きちんと支払いたいという雷人の要望もあり、生活費として格安の設定が決められた。


土日は晴可にアルバイトの予定が入っていた。

雷人は着替えなどを取りに一旦新宿のマンションに帰り、同居は日曜日の夜からということになった。


「日曜日はバイト、何時まで?」

「夜七時。俺、バイト終わったら新宿まで迎えに行くよ」

「え、迎えなんていいよ」

「荷物持つの大変だろうから。家、どの辺?」

「東口の‥‥いや、ハル一人であの辺は危険だ。絶対来るな。食われるぞ」

「えー、そうなの?」

「駅前に来てくれる?」

「わかった。待っててね」



雷人はフワフワとした落ち着かない気持ちで土日を過ごした。

骨折した足で母の店を手伝うわけにもいかず、ただ大人しく時間が過ぎていくのを待った。

休日が早く終わればいいなんて思ったのは初めてかもしれないと、自分の浮かれ具合に苦笑するほどだった。


日曜日の夕方。

起きてきた母に、今晩からしばらく友人の家に世話になると告げた。

生活費を少し仕送りしてほしいと言うと、母は「彼女ね?!同棲するの?!」と勝手に大騒ぎし、違う、クラスメイトの男子だから、と説明しても信じてもらえなかった。

金を送る代わりにどんな女か確かめると言って聞かない母に、仕方なく荷物の入ったスーツケースを託し、雷人は家を出た。



喫茶店のアルバイトを終えた晴可は、池袋の駅に駆け込み、電車に飛び乗った。

雷人に会いたい。その想いはこの土日で膨らむ一方だった。

新宿駅の東口。人混みの隙間からその姿を見つけた。ライ、と声をかける寸前、隣に女性が立っているのを見た。

パッと人目を引く、スラリとした美人。長い巻き髪に、高めのハイヒール。その手は雷人の腕に巻きついていた。

思わず立ち止まると、雷人も晴可を見つけた。


「ハル!」


手を上げ真っ直ぐこちらを見る姿に、ようやく晴可の足が動く。


「ライ、お待たせ。えっと‥‥こちらの方は?」

「こんばんはー、雷人の母でーす♡」

「お、おかあ、さん、ですか?!はじめまして、関根晴可です」

「やーだぁホントに男の子じゃない!可愛いわね!ハルカくん?高校の同級生ってのもホントなの?」

「えと、はい。そうです」

「うちの雷人がお世話になります。よろしくねぇー!」

「よ、よろしくお願いします」

「こちらも、ご贔屓にしてネ♡」

「おい、未成年に営業すんな」


渡された名刺には、『スナックMoon Light 月子ママ』とあった。


「じゃあ私、お店行くから。ハルカくん、またね!」

「あ、はい」

「雷人、たまには連絡しろよー!」

「おー、じゃーな、月ちゃん」


月子ママはコツコツとヒールを響かせて去って行った。


「‥‥綺麗なお母さんだね」

「お恥ずかしい」

「一瞬、お似合いのカップルかと思った」

「んな訳ねーだろ。もう行こうぜ」

「うん」



晴可の家に帰った二人は、どちらからともなくハグをした。


「ハル、会いたかった」

「うん、俺も」


背中に回した腕にギュッと力が入る。


「お試しのお付き合いだけどさ」

「うん」

「どこまでしていいの」

「どこまでって‥‥」

「決めとかないと、俺、暴走するかも」

「わかんない。暴走は困る‥‥けど、キスはいいかな」


聞くが否や、雷人は晴可の唇を奪った。

短く啄むようなキスを繰り返した後、雷人の舌は晴可の口内に侵入する。

舌は口蓋をぬるりと動き、晴可の舌に絡みついた。


「ん‥‥‥‥んんンッ‥‥‥‥ハァ‥‥」


キスが終わると、晴可はその場に崩れ落ちた。膝をつき、肩で息をする。


「‥‥今の、なに?」

「ごめん、つい」

「これも、キスなの?」

「そうだよ」

「‥‥今はここまででお願いします。これ以上は心臓がもたない‥‥」

「わかった」


雷人はニヤリと笑い、晴可を抱き起こした。


「今は、な。これから一歩ずつ進もうぜ」



その晩は布団をくっ付けて、お互いの体温を感じる距離で横になった。

スヤスヤと眠る晴可の寝顔を見ながら、雷人は想いに耽っていた。


———ひと月後、俺はあの時と同じ喪失感に苛まれるのだろうか。まだ始まったばかりなのに、もう終わりが怖くて仕方ない。俺は、こいつを手離すことができるのだろうか‥‥。





翌朝は雲が多く垂れ込め、風の強い日だった。

二人は家を出るとすぐに、それに気が付いた。

郵便受けに、不自然にはみ出した薔薇の茎が一本。その茎は半分に折れ曲がり、花弁はむしり取られている。

郵便受けの取り出し口を開けると、そこには赤い花弁が何枚も入っており、風に乗ってヒラヒラと飛んでいった。


「なんだこれ」

「いつものやつ?」

「ちょっとエスカレートしてきてないか?」

「花がかわいそう」

「そういう問題じゃねーだろ。これ、ちょっと危険を感じるんだけど。防犯カメラでも付けたほうがいいんじゃね?」

「‥‥まあ、大丈夫だよ。そんなに気にしなくても」

「こんなの気にならない訳ないだろ‥‥なあ、ハル?なんかお前、この間からおかしくねーか?なんで大丈夫とか、気にすんなとか言えんだ?」

「んー、なんとなく」

「なんで目ぇ逸らすんだ?本当は心当たりがあるのか?」

「‥‥」

「俺には言えない?」

「‥‥‥‥放課後ちょっと、行きたいところあるんだけど。付き合ってくれる?」

「いいよ。もちろん」

「その時話すよ」





「‥‥ここ?」


放課後、雷人と晴可は住宅街をしばらく歩き、一軒の洋館にたどり着いた。

塀の向こうに見える広いイングリッシュガーデンには、沢山の薔薇が咲き乱れている。


うん、と晴可は頷いた。


「ここ、薔薇屋敷って呼ばれてるんだ。

薔薇のシーズンにはこの庭が地域の人に開放されていて、小さい頃はよくここで遊んでた。

同い歳の女の子がこの家に住んでいて。

薔薇の花って春に咲くイメージだけど、秋に咲く品種も多いんだって教えてもらったのも、その子だったな」

「へえ‥‥」

「郵便受けの薔薇を見て、真っ先に思い出したのはここだった。心当たりないなんて言ってごめんね」


門は開かれていた。

晴可は広い庭を見渡し、花の手入れをしている女性に声をかけた。


「こんにちは。お花、綺麗ですね」

「あら、ありがとうございます。良かったら中に入って見ていってくださいな」

「ありがとうございます」


晴可は庭に足を踏み入れた。雷人もその後に続く。薔薇の甘い香りが風に乗って鼻をくすぐった。


「あの、薫さんは、いますか?」

「薫のお知り合い?あの子は今‥‥あら?あなた、ハルちゃん?お久しぶりね!大きくなって‥‥」

「はい。お久しぶりです」

「まるで本物の王子様ね!覚えてる?小学校の学芸会で、うちの薫がお姫様役でハルちゃんが王子様やったの!可愛かったわよねー」

「え、わ、その話は」 


焦る晴可に、雷人は「写真見せて」と耳元で囁いた。


「あら、ごめんなさいね。そちらはお友達?」

「はい。お邪魔します」

「お友達も素敵ねー!ハルちゃんのお母さんは、お元気かしら?」

「はい。元気です」

「そう、懐かしいわねぇ。‥‥それで、薫なんだけど‥‥あの子、今、昼間はほとんど部屋から出てこないのよ」

「え?」

「引きこもりっていうのかしらね。せっかく入った高校も休学扱いで‥‥」

「そうなんですか」

「私たちもどうしたらいいのか」


その時、洋館の二階の窓が開いた。


「ハルちゃん!!やっと来てくれた!!」

「え?薫ちゃん?!」

「今行くから、待ってて!」


窓がバタンと閉まり、薫の母と晴可は顔を見合わせた。


「薫の大きな声、久しぶりに聞いたわ‥‥。ちょっと様子を見てきますね。ハルちゃんとお友達はそこのベンチで待っていてくださる?」

「わかりました」


庭の隅に、白く塗られたベンチと錆びついた小さなブランコが置いてあった。


「懐かしいな。ここでよく遊んでた」

「薫さんって、どんな人?」

「小学校からの友達だよ。昔から頭が良くて、しっかりした子だったな。俺とクラスが同じ時は、一緒に学級委員をやったりして。中学では同じ剣道部だった」

「剣道!ハルもやってたんだ」

「意外かな?一応主将だったんだよ」

「へえー」

「‥‥部活を引退する頃に、一度告白された」

「うん」

「断ったよ。友達のままでいようって。でも卒業式の後で、また告白された」

「‥‥」

「その時も、断ったんだ。その頃うちは色々あって、お付き合いとか考える余裕もなかったし‥‥、今は誰とも付き合うつもりはないって言ったんだ。それ以来会ってない。

だから今回の件も、全く根拠はないし、全然見当違いだったら申し訳ないんだけど。一応、確かめたくて」

「うん。話を聞く限りだけど、ちょっと怪しいかもな」


「ハルちゃーん!!」


洋館のドアが開き、女の子が駆けてきた。

腰まで伸びたストレートの黒髪が、サラサラと風になびく。薄いピンク色のワンピースを纏った姿は、年齢よりも少し幼い印象だ。人形のように白く整った顔は、唇だけがやけに赤い。


「ずっと待ってたんだよ!」


薫は晴可に飛びつき、背中に手を回した。


「ちょ、ちょっと、薫ちゃん?!」

「ずっとずっと会いたかった!これからは一緒だね!」

「は?」

「だって、あれはラブレターだよ。私の気持ちに応えてくれる気になったんでしょ?だから来てくれたんだよね?」

「ラブレター?なんのこと?」

「薔薇の手紙だよ。夜中にこっそり、ハルちゃんちの郵便受けに入れてたんだ」

「やっぱりあれ、薫ちゃんだったの?」

「すぐにわかると思ったのに、なかなか来てくれないんだもん。昔ここで、花びらの手紙で郵便屋さんごっこしたでしょ」

「‥‥ごめん、覚えてない」

「えー?そんな訳ないよね?ハルちゃん、嘘つかないでよ」


薫が晴可の肩を揺さぶる。

見かねた雷人が二人の間に割って入った。


「ちょっと、離れて。冷静に話そ」

「‥‥あなた、誰?邪魔しないでもらえるかな」

「ハルの高校の友達。ハル、嫌がってるのわかんない?」

「高校からの友達に何がわかるの」


薫は冷たい目で雷人を睨んだ。


「私は小学校からずーっと、ハルちゃんだけを見てきた。中学も、本当はお受験で有名な女子校に受かってたんだけど、ハルちゃんと一緒にいたいから、親に泣きついて辞退したの。ハルちゃんの為に、したくもない剣道もしたし、勉強も頑張って、髪も伸ばして、可愛くなって、ハルちゃんに相応しい彼女になれるよう、ずっと努力してきた」

「え‥‥‥‥」


晴可の顔は蒼白だった。今にも倒れてしまいそうだ。

雷人はその背中を後ろから支える。


「卒業式の日には今は誰とも付き合えないって言われたけど、いつかハルちゃんは私のところに来てくれるって信じてた。憧れてた女子校に高等部から入学して、周りに馴染めなくて散々いじめられた。でも学校なんか行かなくても、ハルちゃんがいてくれたらいいやって思えた」

「ごめ‥‥」

「ハルちゃんは、私の永遠の王子様だよ」


薫は晴可をじっと見つめ、妖艶に微笑んだ。

晴可の目から涙が溢れた。


「‥‥ごめん、俺、知らなかった。薫ちゃんがずっと、進路を変える位、俺を想ってくれてたなんて。

告白された時、大事な友達としての関係も絶たれてしまうのが嫌だったから、曖昧な返事になってしまったのかもしれない。期待をさせてしまったのなら、本当に申し訳ない」

「‥‥ハルちゃん?何言ってるの?」

「俺は、薫ちゃんとは付き合えない。ごめんなさい」

「嘘!!嘘!!やだ!!なんで!!」


薫はいつの間にか、枝切り鋏を手にしていた。よく研がれた大きな刃が晴可のほうを向いている。


「ハルちゃんのいない未来なんて、考えられない。そんなの生きてる意味がない」

「薫ちゃん?」

「あなたを殺して、私も死ぬ」


そう言い捨てると、薫は鋏を晴可に向かって振りかざした。


雷人が薫の腕を押さえるのと同時に、薫の母の悲鳴が遠くから聞こえた。

薫は鋏を握ったままもがき暴れ、雷人の手の甲を傷つけた。晴可は薫の手をこじ開け、鋏を取り上げると遠くに投げ捨てた。


「薫ちゃん、そんなこと言わないで。君は今でも大切な友達だよ。幸せになってほしいと思ってる。自分を傷つけるようなことはしないで」

「いやだあァァァ‥‥‥‥!!」


薫はその場に泣き崩れた。

駆けつけた母親がその身体を抱きかかえる。


「あなたたち、薫に何をしたの?」


その顔は怒りと狂気に満ちていた。


「この子はとても繊細なの。丁寧に扱ってあげないと、すぐに壊れてしまうのよ」


丁寧に世話をしないと枯れてしまう、高貴な薔薇の花のように。


「ハルはなんもしてねーよ」

「帰って。もうここには来ないで」

「わかった。ハル、帰ろうぜ」

「‥‥」


晴可はペコリと頭を下げ、地面に倒れていた松葉杖を拾った。二人は無言でその庭を後にした。



家に帰ると、晴可は放心したようにソファーから動かなくなってしまった。

雷人は晴可の膝にブランケットを掛けると、一人、キッチンに籠った。

母の店のフードメニューは、カレーとポテトサラダのみ。あとは簡単なつまみ類しか提供していない。散々仕込みを手伝わされたお陰で、カレーとポテサラだけは自信を持って作れるのだ。


「ハル、カレーできたぞ。食おうぜ」

「‥‥‥‥カレー」

「ご飯は土鍋じゃハードル高かったから、冷凍庫のやつチンしたけど」

「‥‥ありがと」


晴可は顔を上げ、のそのそと動き出す。

食卓に着くと、ゆっくりとスプーンを口に運んだ。


「‥‥おいしい」

「そうか、良かった!いっぱい食えよ」

「‥‥‥‥」


晴可の大きな瞳から、涙がポロポロと溢れる。


「‥‥っお前な、食べるか泣くかどっちかにしろよ」

「わかんない。俺、泣いてるの?」


涙は次から次へと溢れ、頬を濡らしていく。雷人がティッシュの箱へと手を伸ばす。その手の甲には赤い線がミミズ腫れになっていた。


「ほら、拭いてやる」

「‥‥ライ、手、怪我してる?」

「あー、大丈夫。ちょっと浅く切れただけ。料理は使い捨ての手袋してやったし」

「消毒しないと」


ペロ。

晴可が雷人の手を取り、傷口をぬるりと舐めた。


「わわわ、ちょっと、ハル?何してんの」


ペロペロ。


生温かい舌が傷口をなぞり、ゾクゾクとした衝動が胸を走る。雷人は晴可を抱き寄せた。


「‥‥んんんン」


思わず深く口付けると、晴可は薄く唇を開けた。

舌先が触れ合い、そこから互いの熱が伝わる。何度も角度を変え、二人は唇を求め合った。


「‥‥涙とカレーの味だな」

「‥‥ライのバカ」

「バカだよ」


晴可が指先で涙を拭う。


「ごめんね」

「謝んなくていい」

「ライがいてくれて、良かった」

「そ?」

「俺一人だったら、今頃薔薇園で死んでたかも」

「そりゃ笑えないな」

「‥‥俺、最低だよね」

「そんなことない」

「薫ちゃんが長い間苦しんでたのに、気付きもしないで。友達でいたいなんて、我儘で無神経だった」

「卒業式の頃、ハルは家のことでいっぱいいっぱいだったんだろ。『今は誰とも付き合えない』ってのは、本心じゃねーか」

「そうだけど」

「薫ちゃんのことは、そっとしておくしかないよ。あの子が今可愛くて頭がいいのは、ハルのためだけじゃない。自分のための努力の結果だよ。それは絶対、あの子の未来に役に立つから。きっと時間が解決してくれる」

「‥‥だといいな」


二人は再びカレーを食べ始めた。

ライのカレー、冷めても美味しいねと晴可は赤くなった目尻を下げた。





それからの二人の同居生活は、穏やかに過ぎていった。

学校では、今まで通りに少し離れて過ごす。登下校は一緒なので、何人かの友達には「最近仲いいね?」と聞かれたが、帰る方向が同じだから足を痛めている間は付き添ってもらっているのだと説明した。

家に帰ってからは、二人で勉強し、他愛も無い話をし、晴可の手料理を食べ、キスをして、布団を並べて寝た。

そんな日々が心地よく、いつのまにか当たり前の日常になっていた。


同居からもうすぐ二週間が経つ日の夜。

雷人は週末、実家に帰ると言った。新宿の病院に通院するためと、母の店に大人数の予約が入ったので手伝いを頼まれたからだ。


「最近少し寒くなってきたから、長袖の服も持ってきたいし‥‥って、ハル?」


晴可は雷人の腕にギュッと抱きついた。


「日曜日のバイトの後、また駅まで迎えに行く」

「え、また来てくれんの?」

「うん、待ってて」


腕に巻き付く力が強くなった。


———こいつ、だいぶ俺のこと好きなんじゃね?


雷人は晴可の顔を両手で掴み、チュ、とキスをした。


———俺はそれ以上なのかもな。





日曜日の夜、新宿駅の改札前に雷人はいた。


病院で言われた経過は良好。ギブスは一回り小さな物に交換され、もう松葉杖無しで歩いてもよくなった。

恐る恐る、ゆっくり歩く。少しびっこを引いてしまうが、久しぶりに両足を地面に着けて歩けるのは喜ばしかった。

着替えを詰めたリュックを背負い、雷人は晴可の来るのを待った。


「東条くん?」


ふいに声をかけられ、振り向くとそこにはスーツを着た大柄な男が立っていた。


「あー、やっぱり。なんか目立つイケメンがいるなと思ったら、東条くんだ」

「あ、塾長。ご無沙汰してます」

「卒業以来だな。今はもう二年生か?高校はどう?楽しんでるか?」

「はい」

「そうかそうか。いやあ、君のことはよく覚えてるよ。入塾当初はどうしたもんかと心配したけど、どんどん成績を上げていったよな」

「はあ」

「そうだ、灰田先生が随分親身になって君を指導してくれてただろ」

「‥‥」

「灰田先生、今年の四月から中学校の教員になったんだよ。知ってるか?」

「‥‥はい」

「そうか。東条くん、仲良かったもんな」

「‥‥」

「ああもう行かなくちゃ。東条くんの元気な顔が見られて良かった。また塾に遊びにおいで!」

「はい。また行きます」


相変わらず、圧の強い人だ。中三の時に通っていた塾の塾長。その広い背中を見送っていると、

「ライ」と横から声がした。


「わ、びっくりした‥‥ハル、いつからいたの?」

「ちょっと前。ライが誰かと話してたから気配消してた。あの人って」

「ねえ見て。松葉杖卒業した」

「おおーっ」

「まだ薄いギブスしてるけど、ちょっと身軽になったよ」

「良かったね」

「せっかく新宿まで来てくれたし、どっか寄っていくか?腹は減ってない?」

「ううん、賄いもらったから。それより早く家に帰りたい」

「そう?」

「うん。帰ろ」


晴可は雷人の手首を掴むと、そのまま改札へと進んで行った。



板橋の家に帰ると、晴可はコーヒーを淹れた。

ブラックと、甘いミルク入り。


「はい、どうぞ」


ソファーに座る雷人の前に、マグカップを置く。


「ありがと」


晴可も隣に座った。


「ね、聞いてもいい?」

「なに?」

「さっき、駅にいた人のこと」

「あー、塾長?中三の時に入ってた塾の」

「やっぱりそうなんだ。‥‥あの時聞こうとしたら、ライ話題逸らしたでしょ」

「ん?そんなことないけど」

「嘘。じゃあ聞くけど」

「なんだよ」

「ライと仲良い先生がいたって言ってたよね。その先生のこと、聞かせて」

「‥‥‥‥別に、話すことはないよ」

「どんな先生?」

「しつこいな。何でも話せるって訳じゃねーから」


雷人はスッと立ち上がった。


「シャワー浴びてくる」


居間を出て行く雷人の後ろ姿を、晴可は何も言えずに見つめていた。






雷人と出会った頃の灰田律はいだりつは、新宿から二駅先にある大学の三年生で、塾の講師アルバイトをしていた。

中三でその塾に入るまでの雷人は、素行の悪い友達と毎日遊び歩き、学校も休みがちになり、当然成績も最低ラインだった。

その様子は放任主義の母親から見ても目に余るようになり、近くで評判の良かった塾に入れられた。

キレた母が手がつけられない程めんどくさいのを知る雷人は、渋々ながらも塾に通うようになった。

講師の律は優しく柔らかな雰囲気があり、聡明で生徒みんなから人気があった。中でも雷人には格別目をかけ、何かと世話を焼いてくれた。

愛想の無い自分にも飽きずに声を掛けてくれる彼に、雷人は徐々に心を開くようになった。

律は自分の授業がない時にも、自習する雷人の横に付き、わからないところは丁寧に教えてくれた。元々優秀な父親のDNAを持つ雷人は、乾いたスポンジのようにどんどん知識を吸収していった。


雷人は律に憧れ、いつしか恋愛感情を抱くようになった。

夏の終わり、誰もいない、いつもの自習室で、雷人は告白をした。

律は驚きもせず、「志望校に受かったら、付き合ってあげるよ」と笑った。


高校受験が終わると、律は初めて自分の住む部屋に雷人を招き入れた。キスもセックスも、全てを律から教わった。

雷人は律に耽溺した。律が怒るので高校にはきちんと通ったが、放課後は彼の部屋に入り浸った。律はいつも変わらぬ優しさで雷人を迎え入れてくれた。


別れを告げられたのは、その年の秋だった。

律は実家のある地方の教員採用試験に合格していた。大学卒業後は地元で教員になる。遠距離だし、男子高校生と付き合っているなんてバレると面倒なことになるから、ゴメンね、と言われた。

それでも別れたくないと、雷人は律に縋った。何度も部屋に押しかけ、強引にその身体を抱いた。


律は笑わなくなった。

雷人は遂に別れを受け入れた。





「‥‥ハル?」


翌朝早くに目覚めると、隣の布団は使われた形跡もなく、冷たいままだった。

昨夜は何となく気まずいまま、一人で先に寝てしまった。もしかすると晴可は二階の自分の部屋で寝たのだろうか。

落ち着かない気持ちでキッチンに入ると、晴可はそこで洗い物をしていた。


「あ、ライ」

「‥‥おはよ。早いね」

「なんか眠れなくて、お弁当作ってたんだー。もう朝?そういえば外、明るくなってきたね」

「寝てないのか?」

「うーん、月曜から完徹はキツいよな」

「試験前でもないのに、何してんの」

「ちょっと調べ物とか。あーやっぱ俺、今から一時間位仮眠してくる。ライ、起こしてくれる?」

「ん、わかった」


晴可は布団を敷いた和室へと入って行った。雷人は晴可と普通に話せたことに少しホッとして、洗濯機をセットした。



放課後、いつものように二人揃って帰宅すると、玄関の前に宅配便の小包が置いてあった。


「あ、もう来てる」


晴可が小包を拾い上げる。


「置き配頼んだの?何?」

「何って‥‥‥‥」

「ん?」

「秘密だよ」

「ふーん?」

「あー、ごめん。俺、眠いから自分の部屋でちょっと昼寝するね。晩ごはんの支度までには起きるから」


晴可は小包を持って、階段を二階へ上がって行った。

雷人は不思議に思いながら、その背中を見送った。



その日を境に、晴可は時々自分の部屋に籠るようになった。

時間にすると一、二時間のことだが、それまで家では四六時中自分の側を離れなかったのにと思うと、雷人は少し寂しかった。

自分にも晴可に話せない過去があるように、晴可にも話したくないことがあるのかもしれない。

一応つきあっていることにはなっているが、あくまでもこれは一ヶ月の間だけの、仮の関係だ。これ以上は深入りしないほうがいいのだろう。


その時は刻々と迫っていた。





「明日、新宿の病院でギブス取れるんでしょ」


同居から四週間目の金曜の夜。

鍋の灰汁をすくいながら、晴可は言った。

鶏の水炊き鍋は温かくて優しい味がする。雷人は二人で囲む鍋が好きだった。


「その予定」

「終わったら、こっちに帰ってきてね。実家じゃなくて」

「なんで」


本当はわかっていた。晴可が何を気にしているのか。


「あさってで、一ヶ月だよ」

「うん?」

「俺たちの同居生活」

「そうだな」

「最後の週末は、一緒にいたいから」

「‥‥ハルはバイトだろ?」

「七時に終わったら、すぐに帰ってくる」

「じゃあ、池袋に迎えに行く」

「ほんと?やった!」

「あ、待って。やっぱりその前にバイト先のサテン行ってもいい?」

「え?」

「ハルが働いてるところ見たいかも」

「わー、ちょっと恥ずかしいけど、いいよ!待ってる」

「おお、楽しみ」





その喫茶店は、池袋駅から近いビルの二階にあった。

コンクリートの素っ気ない階段の脇に、見逃してしまいそうに小さな立て看板。

ギブスが取れ、痛み止めの湿布薬を包帯で巻いただけになった左足は軽い。

雷人はゆっくりと階段を上がっていった。


カラカラとカウベルを鳴らして重厚なドアを開けると、「いらっしゃいませ」と晴可が笑顔で出迎えてくれた。

白くパリッとしたシャツに黒いギャルソンエプロンを身につけた姿がなかなかに凛々しく似合っている。


「お疲れ」

「こちらの席にどうぞ」


晴可が窓際の席の椅子を引く。

薄暗い照明に、赤い布張りの椅子。落ち着いた雰囲気が、とても居心地良さそうな店内だ。


「何がおすすめ?」

「ブレンドとナポリタンです」

「じゃあそれを」

「かしこまりました」


ニコッと最上の微笑みを残し、晴可が店の奥に入っていった。

周囲を見渡すと、晴可をハートの目で見ていそうな女性客が数組いる。


———やっぱりハルはモテるんだな。ここでも王子様なのかよ。


「お待たせいたしました」


晴可がコーヒーをトレイに乗せ運んできた。


「ありがと」

「マスターのおすすめ、ブレンドコーヒーです」

「いい香り‥‥‥‥うわ、んまい」

「ふふ、マスターに伝えますね。ごゆっくりどうぞ」


続いて提供されたナポリタンも絶品だった。この店ならきっと他のメニューも美味いに違いない。

あっという間に平らげてコーヒーを飲んでいると、一人の客が隣の席に案内されて来た。


「こちらにどうぞ」

「ハルカくん、今日もかわいいね」


は?名前呼び?可愛い?と訝しみ、そちらへ意識を傾ける。体格のいい、プロレスラーのような筋骨隆々の男がニヤニヤと晴可を見ていた。


「いえいえ。ご注文は」

「どうしようかなー、ケーキは何がある?」

「今日はチーズケーキとモンブランがございます」

「ハルカくんはどっちが好き?」

「‥‥チーズケーキですかね」

「じゃあそれと、ブレンドね」

「かしこまりました」


馴れ馴れしい、嫌な感じの客だ。

母のスナックではこんなのは慣れっこだし、母はそんな客をあしらうのが非常に上手い。いつも流石プロだなと思う。

でも晴可は大丈夫なのだろうか。


「‥‥お待たせいたしました。ブレンドコーヒーとチーズケーキです」

「はーい。あと、追加注文いい?」

「はい」

「ハルカくん」

「はい?」

「お持ち帰りで」

「‥‥え、と」


「っ、すいませーん!」


思わず手を挙げてしまった。


「あ、はい!失礼します」


晴可がマッチョに一礼をして雷人の元へ駆けつけた。


「‥‥大丈夫?」

「ウン」

小さな声で聞くと、晴可は困ったように頷いた。


「コーヒーおかわりください」

「はい、ただいまお持ちします」


———そういう層にもモテるのか‥‥知ってたけど!


おかわりのコーヒーを飲んでいるうちに七時近くになり、交代のアルバイトらしき大学生風の男が店奥に入って行った。

晴可は雷人の座る席に来て、「着替えてくるからもう少し待っててね」と言った。

案外普通の声で話すので、隣のマッチョに聞こえたんじゃないかと思い横目で伺うと、彼はすごい目つきでこちらを睨んでいた。



「‥‥さっき、わざとあの客に聞こえるように言ったの?」

「ああ、あれ?‥‥そうだよ」

「あいつすげー睨んでたけど。大丈夫?」


揃って店を出る時にも、刺すような視線を感じた。

晴可はそちらを全く気にしていない素振りだったが、雷人は振り返って軽く一睨みし返してしまった。下手な牽制だっただろうか。


「‥‥あのお客さん、いつもあんな感じで。帰り道に付けられたこともあるんだ。頑張って巻いたけど」

「え、やば」

「ライみたいな人が俺に付いてるって分かってくれたら、そういうことも無くなるかもって思ったんだ。利用するようなことしてゴメンね」

「そんなんいくらでも利用してくれていいよ」

「ありがと。やっぱりライは頼りになるね」

「いや、なんもしてねーけど」

「なんもな訳、ないじゃん。店までこうして来てくれて、同じ家に帰ってくれるのも、俺、ホントに嬉しいから」

「‥‥ハル」

「うん?」

「帰ったら、ちゃんと話そうな」

「‥‥‥‥うん」



帰宅した二人は、並んでソファーに腰を下ろした。

晴可が雷人の左足を見つめる。


「足、まだ痛む?」

「大丈夫。完治まではあとひと月ぐらいかかるけど、安静にしてたら自然に治るって」

「そう。よかった‥‥」

「ありがとな」

「‥‥?」

「ギブスが取れるまで、この一ヶ月、すんげー世話になった。ホントに助かったよ」

「‥‥うん」

「ハルには数えきれない位沢山のものを貰った。何か俺も返したいって思うけど、何をしても足りないような気がするんだ」


ハァと晴可はため息をつき、ソファーの上で膝を抱えた。


「やだな。なんだか、お別れの挨拶みたい」

「そんなつもりじゃ」

「お返しなんか、要らない。てか、もう充分すぎるほど貰ってる」

「‥‥」

「俺さ、ギブス取れて、本当に良かったと思ってるよ。痛そうなのも、不便そうなのも、ずっと見てきたし。‥‥でもちょっとだけ‥‥そのままずっと治らないで欲しいとも思っちゃう。ごめんね」

「‥‥」


「ライ、好きだよ」


一瞬、時が止まったかと思った。


「え」

「俺はライとずっと一緒にいたい」

「‥‥」

「もう今さらバレバレなんだろうけど、ちゃんと言っておきたかったんだ。ライは?俺のことどう思ってるの?」


素直に嬉しい気持ちと、それを自分が受け入れてもいいのかと躊躇する気持ちが交差し、口籠ってしまう。


「‥‥ハルは、まだ戻れる」

「‥‥」

「この一ヶ月、ハルを見てきて‥‥めちゃくちゃいい奴だし、みんなに好かれてるし、キラキラ眩しくて‥‥俺なんかには勿体無いって思う」

「それって‥‥遠回しに、フッてるの」

「‥‥」

「俺のこと、好きじゃない?もう一緒には居られない?」


「好きだよ」


「え‥‥」

「大好きだから、困ってる。一緒にいて、居心地が良すぎて‥‥このまま進めばきっと、逃してあげられなくなるから」

「逃げ道なんて、要らないよ。好きだから、一緒にいたい。それでいいじゃん」


真っ直ぐな晴可の顔を見て、フッと雷人の気が抜けた。


「いいのかな」

「俺の全部、ライにあげる」

「俺も」


二人の唇が自然と近づき、重なる。

それから数えきれないくらいのキスをした。明日唇が腫れてしまわないかと思うほどに。





その夜、晴可は初めて雷人を自分の部屋へと招き入れた。

骨折した足では階段が不便だったし、生活は一階だけで充分事足りていた為、それまで雷人が二階に上がることはなかった。

二階には両親の寝室と、祖母が居た部屋、晴可の部屋があった。

祖母が亡くなり、両親の転居の際、必要なもの以外はほとんど処分してしまったという。

がらんとした、冷たい二つの部屋。

その空虚な寂しさは晴可の心の中のようで、見てはいけないもののように感じられた。



きちんとメイキングされたベッドと学習机、本やCDが整然と並んだ棚、備え付けのクローゼット。

晴可の部屋は無駄な物の無い、シンプルで落ち着いた空間だった。


「へー、きれいにしてるな」

「つまんない部屋でしょ」

「んなことねーよ。本もCDも沢山持ってるんだな。どんな音楽聴いてんの?」

「うーん、古めの洋ロックが多いかな」

「なんか意外。あ、俺もこれ好き」


雷人がCDを棚から引き出す。


「CDとか本棚とか見られんの、初めてだから緊張する。なんか頭の中覗かれてるみたいで」

「あー、そうか。勝手にごめん」

「いや、いいんだ。ライが俺のこと興味持ってくれるの嬉しいし」

「俺は、ハルのことなら何でも知りたいよ」

「‥‥‥‥ずるい」


晴可は雷人から目を逸らした。


「‥‥なに?」

「俺も、ライのことなら何でも知りたい。でも、踏み込めない一線もあるよね」

「あー‥‥」


———律のことか。


「いいよ、言わないで。‥‥過去に誰か好きな人がいたんだろうな、とは感じるし、色々慣れてそうなのはムカつく。でも今のライは、俺だけを見てくれるんだろ」

「うん」


喰い気味に雷人は頷いた。


「もうハルしか見えない」

「‥‥ならいいよ。俺で過去を上書きして」

「うん」


晴可がクローゼットを開け、小さな箱を出した。


「これ見て」

「なにそれ?」

「秘密のもの」

「?開けてもいいの」

「うん」


箱を開けると、そこにはカラフルで大人なアイテムがいくつか入っていた。


「‥‥これって」

「前に、置き配で頼んだものだよ。色々調べて、準備してた」

「はあ?!」

「ね、ベッド行こ?」





翌日、昼近くになり雷人が目覚めると、ベッドの半分は空になっていた。

一階に降りると、白米の炊ける香りが漂う。

エプロンを付けた晴可が振り返った。


「う‥‥まぶしい」

「ライ、おはよー」

「おは‥‥ハル、身体大丈夫?」

「うん、意外と平気」

「そっか」

「ご飯もうすぐ出来るから、シャワー浴びておいでよ」

「おー、ありがと」



シャワーを終えると、食卓には美味しそうな皿が並んでいた。

土鍋ごはん、味噌汁、目玉焼きとウインナー、大根サラダ。


「あんまり材料なくて、あり合わせだけど」

「いや、すげー美味そう!いただきます」


大きな口でご飯を頬張る雷人を見て、晴可は微笑んだ。


「好きだな」

「‥‥‥‥」


顔を赤らめた雷人は、何も言わずに目の前の食事をフルスピードで平らげた。

その様子を、晴可は優しい眼差しで見守る。


「‥‥ごちそうさま」

「おそまつさま」


箸を置いた雷人は、改めて背筋を伸ばした。


「なあ、同居の件だけどさ」

「あ、うん」

「昨日、ちゃんと言えなかったから」

「ああ」

「もう少し延長してもらってもいい?」


晴可の顔がパァっと明るくなる。


「もちろんだよ!」

「はぁ、よかった‥‥」

「ふふふ、俺が断る訳ないじゃん」

「俺も少しは動けるようになったから、家事とかもっと手伝うからな。何でも言ってな」

「うん、わかった」

「ハル、よろしくな」

「こちらこそ、よろしくね」



二人で食卓を片付けていると、不意に雷人のスマホが鳴った。

通知に目をやると、母からのライン。


「月ちゃん。なんだろ‥‥‥‥げっ」

「お母さん?どうしたの」

「お店のチーママが急にギックリ腰になったみたいで。今日の夜手伝いに来いって」

「あらま、それは」

「常連さんの結婚式の三次会で、貸切パーティーの予約が入ってるんだって」

「それは人手が要りそうだね」

「たぶん終わるの夜遅い。終電終わってる時間になると思うから、新宿のマンションに帰るわ」

「あー」

「はぁー、同居の延長してもらったばっかりなのに」

「仕方ないよ。行ってあげて。俺も今日はバイトだし‥‥」

「ん、ごめんな。なるべく早く戻ってくるから」

「待ってる」


二人はチュ、と軽いキスを交わした。



その日の夕方、途中駅で電車を降りてバイトに行く晴可と別れ、雷人は母のスナックへと足を運んだ。

狭い階段を注意してゆっくりと登る。


「雷人!おかえりーっ」


母が笑顔で出迎える。

結婚式の三次会ということもあってか、今日はいつもより露出の控えめなロングタイトドレスを着ている。落ち着いた青色が大人っぽい印象だ。


「おつかれ‥‥チーママさん、大丈夫?」

「うん、今は家で安静にしてるって。娘さんもいるし、大丈夫でしょ」

「そっか。で、俺は今日何すればいいの?」

「フードの用意は終わってるから、ドリンク系の準備と提供お願い。手が空いてたらホールも手伝って」

「はい?」

「これ、幹事さんに貰った今日の進行表。スピーチと余興の時はスポットライトの操作もやってね」

「俺の仕事多くない?」

「人手不足でさー、バイト代弾むから、お願い!」

「しょうがねーな」


受け取った進行表を開く。

新郎新婦の名前を見て、少し引っかかるものがあった。

———この新郎の名前、どこかで?


気になって進行表をよく見ると、スピーチ予定の友人の欄に、その名前を見つけた。


『灰田律』


「あ‥‥」

「あ、そうそう、新郎さん、灰田先生のお友達よー。学生時代は一緒に何度もうちの店に来てくれたでしょ。結婚パーティーはぜひうちでやりたいって言ってくれたんですって!」

「‥‥」

「びっくりしたでしょ?雷人、灰田先生のお気に入りだったからねー、久しぶりに会えるわね」

「‥‥俺、やっぱり帰ってもいい?」

「ダメダメ!何言ってんの!ほら、グラスが沢山要るから、用意手伝って!」


母に押され、綺麗に磨かれたグラスを用意していく。

自分はどんな顔をして律に会うのだろうかと、他人事のように考えながら。



結婚パーティーは盛況だった。三次会ということで、参加者は新郎新婦の友人ばかり。皆大分酔っていて、ぶっちゃけたエピソードを混じえたスピーチは雷人が聞いていても面白かった。

友人たちの輪の中に律の姿を見つけたが、話しかけることはしなかった。

この店に来ている時点で、向こうも雷人のいる可能性を承知の上なのだろうが。


終電時間をとっくに過ぎて、宴はお開きになった。ざわざわと帰り支度をする人達の横でテーブルを片付けていると、肩をチョンチョンと叩かれた。

振り返ると、律が困ったような笑顔で立っている。


「雷人、久しぶり」

「‥‥律」

「また背、伸びた?」

「少し」

「足、どうしたの」


まだ少しだけ引きずっている左足。気付いたというのか。ああもう、この人は。


「あー、骨折。もうひと月前だけど」

「そっか。大丈夫?」

「ん」


スーツを着た律は、記憶の中の律より大人びていて、相変わらず格好良かった。


「ちゃんと高校行ってる?」

「行ってるよ。律は?ちゃんと先生してんの?」

「してるよー。毎日くそ忙しいけど、楽しいよ」

「そうか、良かった」


二人の目が合い、数秒の時間が流れた。その数秒は、数分にも、永遠にも感じられた。


「‥‥俺、近くにホテル取ってるんだ。この後、来ない?」

「行かない」

「即答?」

「今好きな人いるから」

「そっかー、振られちゃったな」

「ごめん」


律は雷人の頭に手を乗せた。


「雷人、幸せになれよ」

「ん。律もな」

「ん。バイバイ、雷人」


数ヶ月前、あんなに別れを拒んだ自分が嘘みたいに、雷人の心は平静を保っていた。


———ハルに会いたい。


今なら晴可に律のことも話せるような気がした。

店の控え室に入り、ジャケットのポケットに入れたままのスマホを取り出す。


———もう寝てるか。


「‥‥え」



『バイト終わった!これから帰るよ。ライはまだお母さんのお店だよね、がんばって!』


『これ誰か付いてきてる?なんか嫌な感じ。怖くて後ろ向けない。急いで帰る!』


『あのムキムキの人かなー?今日もバ先に来てたんだよね。駅で巻けるかな』


『駅の中ぐるぐる歩いて、適当な電車に乗った!疲れたあ』


『やばい あの人いる なんで』


『つぎのえきでおりる』



最後のメッセージは、もう何時間も前のものだ。

急いで晴可のスマホに電話をするが、何度かけても繋がることは無かった。


———ハル、家に帰ってないのか?どこにいる?


その時、店の電話が鳴った。

反射的に受話器を取る。


「はい、ムーンライトです」

『こちら〇〇救急病院です。そちらに東条雷人さんという方はいらっしゃいますか』


救急病院?頭が回らない。

病院がこんな夜中に何の用だよ。


「はい?あの、東条は私ですが」

『こちらに救急搬送された、関根晴可さんの件でご連絡差し上げました。ご家族は遠くにいらっしゃるそうなので、代わりにお越しいただけますか?』


受話器を持つ手が震える。

ハルが、救急搬送?嘘だろ。


「え、はい、ハル、どうしたんですか?」

『事故に遭われました。意識あり、命に関わる怪我ではありませんが、携帯電話は破損して使えません。そちらのお店の名刺をお持ちで、連絡して欲しいとのことでしたのでおかけしました』

「わかりました、すぐに伺います」



「‥‥っ、月ちゃん!」

「はいよ!どうした?雷人、顔色悪い」

「と、友達が事故で病院運ばれたって。俺、すぐ行かなくちゃ」

「友達って?あの、ハルカくん?」

「そう。命に関わる怪我じゃないって言ってたけど」

「わかった、タクシー呼んであげる。あとこれ、今日のバイト代、多めに入れとく」

「あ、ありがと」

「しっかりしなよ」

「‥‥おう」

「雷人、行っといで!」


母に肩を叩かれ、雷人はタクシーに乗った。全身がガタガタと震え、冷たい汗が流れる。


———ハルは大丈夫。きっと大丈夫だ。


自分に何度も言い聞かせる。そうしていないと、悪い想像に押しつぶされてしまいそうだった。



「‥‥ハルっ!」


晴可は病床に眠っていた。

肩から腕には包帯がぐるぐると巻かれ、点滴の管が刺さっている。


「頭を打っているので、動かさないでください」


枕元には、何故かあのマッチョの男が座っている。


「っ、てめー、ハルに何したんだよ?!」

「何もしてませんよ」

「はぁ?じゃあなんでハルはこんなになってんだよ?!」

「大きな声を出さないで。真夜中の病院ですよ」


掴み掛かろうとする雷人の肩を、マッチョは大きな手で押さえた。


「落ち着いて。ロビーで話しましょう」



男は里見と名乗った。自衛官をしていて、ハルカくんのファンなんだと言った。


「ハルの怪我の具合は?大丈夫なん‥‥ですか」

「あとでちゃんと説明されると思うけど、MRIで検査した結果は異常無いそうです。左手首と鎖骨に骨折。あとは広範囲に打撲と擦過傷ですね」

「‥‥」

「ハルカくん、さっきまで起きて警察の事情聴取にもしっかり応じていましたよ」



里見が言うには、晴可は午後九時にアルバイトを終え、池袋の駅に向かった。喫茶店に居た里見は夜遅く一人で帰る晴可が心配で(?)、その後を追ったと言う。

駅に着いた頃、自分の他にも晴可を付けているらしき人物がいることに気が付いた。

おそらく晴可もそれに気付き、駅の構内をぐるぐる歩き回っていた。何度か見失いかけたが、晴可が電車に乗るところを見て、自分も同じ電車に飛び乗った。

隣の車両に居たため詳しくはわからないが、晴可は何かに驚いたようで、次の駅で電車を降りた。

足早に駅の階段を降りようとする晴可の後ろに、駆け寄る人を見た。

その人物は、晴可の背中を両手で思い切り強く押した。

晴可の身体が宙に浮かび、頭から転がり落ちていった。

里見は背中を押した人物の腕を咄嗟に捕まえ、取り押さえた。ほとんど抵抗はされなかった。

階段の下で誰かの悲鳴が聞こえ、人が集まってきた気配がした。

下に向かって「救急車を呼んでください!」と叫んだ。

駆けつけた駅員に犯人を引き渡し、晴可のもとに走った。晴可は真っ青な顔で、ぐったりと横になっていた。

到着した救急車に同乗し、この救急病院に着いた。


「警官が病院に来て、私は目撃したことを全て話しました。ハルカくんも気丈に話していたけど、内心は相当ショックだったんじゃないかな。犯人は知ってる人みたいだったし」

「‥‥誰」

「中年の女性だよ。カオルちゃんのお母さん?とか言ってた」

「薫ちゃんの‥‥」


雷人は天を仰いだ。


「それじゃ、これで私は帰ります」

「あ、はい‥‥あの、里見さん」

「はい?」

「今日は本当に、ありがとうございました」


雷人は深々とおじぎをした。


「いえ‥‥ハルカくんを守れなくて、ごめん」


里見は拳を固く握りしめていた。その手が細かく震えているのが見えた。

また改めてお礼がしたくて、スマホで連絡先を交換してもらう。

別れ際、里見は雷人に握手を求めた。

力強く分厚い手に固く握られ、雷人は顔をしかめた。


「ハルカくん、ずっとライ、ライって、君のことを呼んでた。自分の入る余地は無いんだなって思い知らされたよ。推しは推しとして、これからは遠くから応援することにするから」

「‥‥はい」

「ハルカくんをよろしく」

「はい。ありがとうございます」





翌朝目覚めた晴可は、傍の椅子に雷人が眠っていることに安堵した。


「‥‥ライ、来てくれたんだ」

「‥‥‥‥んん‥‥ハル、起きた?」

「うん。‥‥迷惑かけてごめんね」

「なに言ってんだよ」


雷人は晴可を抱きしめようとしたが、肩から腕に巻かれた包帯を見て、なんとか踏み止まった。


「あの人は?一緒に救急車に乗ってきた‥‥」

「里見さん、な。もう帰ったけど、俺が来るまでずっとハルに付いててくれてた。あとでちゃんとお礼したいから、連絡先聞いといたよ」

「ありがとう‥‥」


晴可が今にも泣きそうに顔を歪めた。


「どこか痛い?」

「ううん‥‥今は大丈夫」

「怖かったな」

「‥‥大丈夫」

「大丈夫なわけないだろ」

「いいんだ」

「いいって‥‥」

「これぐらい、全然。俺が傷つくことで、あの人への贖罪になるなら、いっそ線路に突き落としてくれても良かった」

「は?!何、言ってんだよ!ハルは何も悪いことしてない!」

「俺があの親子を壊したんだ」


それきり晴可は何も言わず、また目を瞑ってしまった。心を閉ざしたようなその顔は、無機質で美しかった。





家の近くの病院への紹介状をもらい、その日のうちに救急病院は退院することになった。

帰り道、晴可のテンションは不思議なほど高かった。


「月曜日は学校休んで近くの病院行かなくちゃねー。ライに続いて俺も階段から落ちて骨折なんて、友達みんな笑うだろうな!ウケる」

「一人で病院行ける?」

「あったりまえだろ!お子さま扱いかよ」

「そういう訳じゃねーけど」

「バイトもしばらく入れないからマスターに言わなくちゃ。スマホも早く修理に行かなきゃだし、あ、里見さんには近いうちに菓子折り持ってお礼に行こうかな」

「そうだな」

「あの人ケーキ好きだから、甘いものがいいよねー、なにがいいかな。デパ地下とか行っちゃおうか」

「うん‥‥」

「俺たちの今日の夕飯はどうしようかー。簡単なものなら片手でも料理できるかな。冷蔵庫空っぽだから、材料なんか買って帰ろうか」

「俺、カレー作るよ。買い物はあとで一人で行く」

「えー、ライのカレー!楽しみ!」

「任せて。たくさん作って、しばらくカレー生活しようぜ」

「‥‥‥‥」


歩きながらずっと喋り続けていた晴可が、突然足を止めた。


「ハル?どうした?」


晴可の視線を辿ると、そこは花屋だった。店先に飾られた沢山の切り花。色とりどり並ぶ中に、真っ赤な薔薇の花があった。


「‥‥ハ、ハァ、ハァ」


晴可の視線が泳ぎ、呼吸が不規則に速くなる。


「ハル、大丈夫か?」

「ハァ、ハ、ハ、ハ‥‥」


晴可は道端に膝を着き、かがみ込んでしまった。雷人はその背中を手でさする。


「苦しい?過呼吸か?ゆっくり、息しよう。吸って、、、吐いて、、、吸って、、、吐いて‥‥」


しばらくそうしていると、晴可の呼吸は徐々に落ち着きを取り戻した。


「ハァ‥‥もう、平気」

「苦しくない?」

「なんか‥‥急に息の仕方がわからなくなっちゃって‥‥焦った‥‥でももう大丈夫だから」

「ゆっくりでいいよ。ここ、痛くないほうの手で捕まって」

「ん‥‥ありがとう」


雷人が腕を貸す。晴可はその腕に右手で少しだけ触れ、自分で立ち上がった。





それから二週間が慌ただしく過ぎていった。

雷人はなるべく晴可を安静に休ませたかったが、

そうも言っていられないことがあまりにも多すぎた。

事件の関連では、警察や弁護士から何度も連絡が入った。あの日のことは計画的なものではなく、薫の母は池袋でたまたま知った顔を見かけて、無意識に後を追い、ついつい知らないうちに手が出てしまったということだった。

雷人には全く信じられない供述だったが、晴可は結局被害届を出さず、示談ということに落ち着いた。

晴可は示談金も辞退したが、弁護士を通じて結構な額の見舞金を半ば無理矢理に渡された。

弁護士が言うには、薫の母は相当な精神的ダメージを受けており、当分社会的な復活はできないだろうということだった。

外国に単身駐在している薫の父が妻子を呼び寄せ、あの屋敷は近いうちに売り払うことになるらしい。

あの母娘を決して許すことはできないが、新しい土地でしっかり静養してほしいとも思う。

あの日、色とりどりに咲き誇っていた薔薇の花たちは、手入れする人を失い、枯れていってしまうのだろうか。そう思うと、心に棘が刺さったようにチクリと痛んだ。



学校では案の定「東条に続いて、関根も階段から落ちたの?」と皆に驚かれた。でも揶揄われるようなことは全くなく、晴可が困る前に手を差し伸べてくれるような友達ばかりだった。


———やっぱり、ハルはみんなに好かれてるんだよなぁ。これが人徳ってやつか。


雷人は昼休みに、自分で握ったおにぎりを食べていた。

材料を混ぜて握っただけの、悪魔のおにぎり。晴可に聞きながら、ごはんも土鍋で上手に炊けた。

不恰好だけど、なかなか美味い。


前の席の黒井くんが不意に振り返り、「今日は関根の作った弁当じゃないの?」と聞かれた。

唐突な問いに驚き、思わず「気付いてたん?」と聞き返してしまう。


「席は離れてても、いっつも同じ弁当食べてたからな。気付いたの、俺だけかもだけど。関根も今日はおにぎりだけなの?」

「そ。今日は俺担当だから」

「ああ、あいつも骨折したからか」

「そう。俺ももう少し料理のレパートリー増やしたいんだけどな」

「‥‥ずっと気になってたんだけどさぁ」

「ん?」

「お前ら、一緒に住んでんの?」

「あーーー、うん。俺、足がアレだったから、あいつんち居候させてもらってる」

「ふーん」


黒井くんは遠くの席の晴可を眺めた。腕を三角巾で吊った晴可は、楽しそうに男女のグループの中で笑っている。


「他の奴らが知ったら押しかけてきそうだから、居候のことはナイショな」

「わかった。えっと、もしかして、お前らって?」

「‥‥‥」


雷人は無言で黒井くんを睨んだ。


「‥‥もう聞きません」

黒井くんは親指を立て、下手くそなウインクをして見せた。





夜、リビングで揃って試験勉強をしていると、晴可のスマホが鳴った。

チラリと通知を見た晴可は、そのまま画面を伏せる。


「‥‥電話、出ないの?」

「後でいい」

「お母さん?」

「そう。どうせ言われることはわかってるから」


ここのところ毎晩のように、晴可の母親から電話がきている。

詳しくは雷人にはわからないが、自分たちの暮らす所へ越してこないかと言われているようだ。

今回警察沙汰になるようなことがあったので、親が心配する気持ちも勿論分かる。

事件以来少し不安定な晴可のメンタルのためにも、環境を変え、家族と過ごすことはプラスに働くのかもしれない。

それでもここに自分といて欲しいと思うのはエゴだろうか。



「大丈夫なの」

「ん。何を言われても、俺の意志は変わらないよ。ずっとここにライといたいし、転校もしたくない」

「俺も絶対ここにいてほしい」

「うん」

「でも、親御さんも心配なんだろ」

「‥‥まあね。今までずっと放っておいたのに、勝手だよな」

「一度、ちゃんと会って話して来たら?試験終わったら冬休みだし」

「うーーーん」

「もし良かったら、俺も付いて行くよ。居候させてもらってる御礼も言いたいし、俺が付いてるから安心してくださいって言うから」

「ほんと?」

「大丈夫。きっとお母さんもわかってくれるよ」


不機嫌に曇っていた晴可の顔が、ぱあっと明るくなった。

曇った顔も、嬉しそうな表情も、愛しくて胸が痛くなる。


「折電してくる」

「おう」


スマホを持った晴可は二階へ上がっていった。


———俺がついてるから安心して、なんて言える立場かよ。実際守れなかったのに。


雷人は目を瞑り、テーブルに突っ伏した。





リゾートホテルの厨房で働く晴可の父は、年末から年始にかけてとても忙しい。父親の少ない休日に合わせて、晴可と雷人は房総に向かった。

雷人は手土産に、デパ地下で有名店の焼き菓子を買った。事件の際に世話になった里見へ持参したのと同じものだ。彼が満面の笑みで喜んでくれたので、きっと美味しいのだろう。

晴可は歳の離れた弟のために、字のない絵本を買っていた。本屋で時間をかけて、真剣に選んで決めた。優しい絵柄で沢山の動物が描かれた絵本。「猫の絵がちょっとライに似てて可愛いから」と晴可は言ったが、雷人は自分に全然似ていないと思う。


新宿から高速バスに乗り、約二時間。

お互いの肩を寄せ合い、並んで座った。

晴可は「遠足みたいで楽しいね」と言い、雷人は「いや、デートじゃね?」と笑った。

これまでデートらしいことをしたことがなかった二人には、短すぎる位の時間だった。

目的地が近づくと、道沿いに海の風景が広がる。

キラキラと輝く一面の碧色を見て、二人は「海だーーー!」と子供のようにはしゃいだ。



父の勤め先の社宅だというマンションは、周りの建物より新しく、白いおもちゃ箱のようだった。

駅から歩けて、大型のショッピングセンターも近い。それに加えて窓から見えるのは、どこまでも広がる海の景色。想像以上に快適な生活が望めそうだ。


「いらっしゃい」


晴可の両親は、二人を笑顔で出迎えた。

短髪で大柄な父親と、小柄で繊細そうな母親。若い頃はきっと、相当な美男美女のカップルだったに違いない。


「久しぶり。こちら、同じクラスの‥‥」

「東条雷人です、はじめまして。板橋のお宅に居させていただき、ありがとうございます。今日も、お邪魔してしまってすみません」

「いえいえ、いつも晴可がお世話になっています。今日は遠い所、よく来てくださって。ゆっくりしていってくださいね」

「ありがとうございます」


母親の後ろから、ひょこっと小さな顔が覗いた。


「弟の日向です。ちょっと人見知りで」


母が言うと、日向は小さな声で「にーに?」と言った。


「ひーちゃん?!もう歩いてるの?うわー、感動!!」


晴可に抱きしめられた日向は、セーターの袖口から覗いた包帯を見て「にーに、いたい?」とそっと触った。


「大丈夫だよ、痛くないよー」

「ふーん」


それから日向は兄の隣に立つ雷人の顔を不思議そうに数秒見たのち、ニコッと笑った。


「あら、珍しい。初めての人には笑わないのよ、この子」

「かわいいな。ひーちゃん?はじめまして」

「にーに」

「にーにはこっちだよ?これは、ライ」

「らー」

「そうそう」


晴可が顔をくしゃくしゃにして笑う。

その笑顔は弟とそっくりだった。



テーブル一杯に並べられていたご馳走は、豪華でどれも美味しかった。特に父親が用意してくれたという海の幸は新鮮で、捌き方も盛り付けも流石、一流のものだった。

和やかな食事の後、二人で弟にお土産の絵本を見せていると、晴可の母が軽い口調で言った。


「それでハルカ、いつこっちに来る?」

「‥‥は?」


晴可の身体がピクリと動き、声が固くなる。


「こっちの高校、いくつか調べたんだけど、すごく良い環境なのよ。今の高校の成績なら無試験で編入できる所もあるみたいだから、三学期からで間に合うかしらね」

「お母さん、何言ってるの?俺、その話し断ったよね。今の高校に卒業まで通うよ」


険悪な雰囲気を察したのか、日向の顔が曇るのがわかった。雷人は「ひーちゃん、どの動物がすき?俺はねー、猫かな。この猫かわいいねー」と絵本に注意を向けさせる。


「それはもう駄目だって言ってるでしょ。やっぱりあなたを一人にするべきじゃなかった。そんな大怪我をして、警察のお世話にもなって。保護者として、もう見過ごすことはできないの」

「心配かけてごめん。でも、もう大丈夫だから。

家のことも学校のことも、ちゃんとするって約束は守ってるつもりだし‥‥もうすぐ俺、高三だよ?残り少ない高校生活、今の友達と過ごしたいし、大学受験のことを考えても、東京にいた方がいいと思うんだ」

「こっちの高校でも受験に対応した指導をしてくれるし、晴可ならすぐに慣れて、新しいお友達ができるわよ。大学に入ったら、通いやすい所に一人で住んでもいい。でもせめて高校生の間は、親元にいなさい」

「いや、でも‥‥」

「あの、」


雷人がすっと立ち上がり、頭を深く下げた。


「俺からもお願いします。晴可くんを転校させないでください」


———ハルは、モノじゃない。ハルの気持ちはどうなるんだ。これ以上、勝手な都合や感情で振り回さないでやってくれ。


「そんなこと、あなたに言われても」

「ご家族の問題に、俺が口を出す立場ではないのはもちろん承知しています。でもお願いです。晴可くんは家でも学校でも、本当に良くやっていると思います。家事は完璧だし、学業も俺なんかより全然優秀で。学校では友達みんなに好かれてます。

足を骨折した俺が、家に同居させてもらって、彼にどれだけ助けられてきたか。いくら感謝しても足りない。その代わりに、今度は俺が少しでも力になりたいんです」

「‥‥」

「ご両親が側にいられない時は、俺が守りますから。どうか、このまま二人であの家に居させてください」

「‥‥」

「ライ‥‥」


晴可が今にも泣きそうな顔で雷人を見つめた。

黙ってしまった妻を見て、それまで静観していた父親が口を開いた。


「まあ、いいじゃないか。こんなに頼りになる友達が近くにいてくれたら、安心だ」


母親が眉をひそめる。


「あなた、そんな甘いこと言って」

「君は嫌かもしれないけど、僕は生まれ育ったあの家をまだ壊したくはない。誰も住まなくなると家は痛んでしまうから、晴可が住んでいてくれたら僕は嬉しい。それに、晴可は都内の大学に行きたいんだろ?」

「うん」

「なら、そのままあそこから通えばいいじゃないか。後のことは、これからゆっくり考えればいい」

「い、いいの?」

「大体、このマンションは手狭で、子供部屋がひとつしかないんだ。今はもう、日向のおもちゃがいっぱいだし、落ち着いて受験勉強もできないだろう」


普段寡黙な父親の言葉に、ようやく母は頷いた。


「‥‥わかったわ。好きにしなさい」

「わ、ありがとう」


晴可は雷人と顔を見合わせた。


「よかったな」

「うん、ライ、ありがと」


誰にも見られていなかったら、確実に抱きしめてしまうところだ。


「雷人くん、晴可をよろしく頼むよ」

「はい。こちらこそ、これからもよろしくお願いします」

「それじゃ、そろそろホテルまで送るよ」


父親に言われて時計を見ると、いつのまにか遅い時間になっていた。弟はソファーでスヤスヤと天使の寝顔を見せている。


「え、ホテル?ここで寝るんじゃないの」

「実は、僕の勤めるリゾートホテルを二泊で予約してあるんだ。ここでお友達も一緒に雑魚寝じゃ、あんまりだからな」

「えっ!ほんと?」

「今日は素泊まりだけど、明日の晩は豪華なバイキング付きだぞ」

「やった!」

「雷人くんへの感謝も込めて、僕たちからのプレゼントだ」

「すごい、ありがとう!!」

「ありがとうございます‥‥でも俺までいいんですか?」と雷人が恐縮すると、父親は「もちろんだよ。いいホテルだから、二人で楽しんできて」と静かに微笑んだ。




翌日父親には仕事があり、母親に転入先の高校見学に連れて行かれる手筈になっていたらしいが、それは丁重にお断りした。

代わりに弟も連れて近くを観光しようと、晴可は嬉しそうだった。

リゾートホテルは想像以上に大きく、ヤシの木が周りに植えられ、外国にでも来たような佇まいだった。

ツインの部屋の窓からは、星がいくつも輝いて見える。宵闇が明ければ、海が目の前に広がるはずだ。


「真っ暗で見えないけど、波の音が聞こえるね」

「そうだな」

「見に行こうか」

「外に?寒いよ。夜の海って、なんか怖いし」

「‥‥だよね‥‥」


窓際に立ち外を見ている晴可は儚げで、外に出たらそのまま暗い海に吸い込まれそうだと思った。


「ハル、どうした?」

「‥‥今日、初めて父さんとちゃんと話した気がする。祖母がいる頃は家では本当に無口だったし、元々口数の少ない人なんだろうね。俺、話した記憶がほとんどない」

「へぇ‥‥でも今日は結構話してたよな」

「だから不思議。お母さんも明るくなって、ひーちゃんはどんどん大きくなって、みんな俺の知ってる家族じゃないみたいだった。‥‥俺って、もう家族じゃないのかな?すごいご馳走とか、こんなホテルまで用意してくれて‥‥ありがたいけど、お客さん扱い、しなくてもいいのにね」


側から見ていても、晴可の両親と幼い日向はごく普通の仲の良い家族だった。ひとり古い家に残された晴可が疎外感を持つのも無理はない。

だからこそ、母親から同居の話が出た時に悩みもせずに断ったのが少し意外でもあり、嬉しくもあった。母の言葉に心変わりしてほしくなくて、つい口を挟んでしまったが、これで良かったのだろうか。‥‥大切にしたい。

雷人は晴可を背中から抱きしめた。


「ハル、大丈夫?」

「ん。大丈夫」

「俺がついてるよ」

「ライがいてくれるから、俺は生きていける」

「うん」

「こんな、家族に置いてかれて、二度も殺されかけたような奴‥‥重くてごめんね?」

「俺の愛はもっと重いよ」

「ふふ、ライ、ありがとね」

「好きだよ」

「俺も、大好き」


振り返った晴可に、雷人は唇を重ねる。

晴可の冷たかった肌が熱を帯びて、固くなった心が解けていくのがわかった。

狂おしいほど愛しい。


「あ‥‥」

「どうした?」

「今日なんも準備してこなかった。親の家に泊まるつもりだったから」

「‥‥俺、一応持ってきた」

「え、うそ」

「まあ、念の為?」

「ふふふ、じゃあ、しようか」

「‥‥風呂であったまってからな」





翌朝は晴可の母からの電話で起こされた。

弟が熱を出したので、残念だけど今日は出かけられないとの連絡だった。昨日興奮しすぎたせいかも、心配するほどじゃないけど念の為、と言われ、晴可は「えーーーひーちゃーーーん」と落胆した。

雷人くんと二人で観光してくるといいわ、と近くのスポットをいくつか教えてもらい、電話を切った。


「というわけで、今日は一日、俺とライのデートになります」

「いやなの?」

「なわけないじゃん」

「はは、俺は楽しみ。どこ行こっかー」

「海の近くのレストランがおすすめらしいよ。あと、もうイチゴ狩り始めたところがあるって」

「いいねー、行こう」

「じゃあパパッと用意して‥‥ん?」

「ん?どした?」

「俺、昨夜、いつ部屋着着たっけ。シャワー浴びてないよな?なんかキレイになってる‥‥?」

「あー、ハル、昨日寝ちゃったから‥‥」

「え」

「俺がやりました」

「‥‥う、わーーーっ、恥ずい」


両手で顔を隠し、晴可がベッドの上をバタバタと転がる。


「かわいかった」

「あー、俺、体力ないなー。もっと鍛えよう」

「鍛えてムキムキにでもなんの?はは、ウケる」

「いつか俺がライをメロメロにしてみせるからね」

「メロメロって‥‥」

「なに?」

「もうなってるけど」


雷人は晴可の両手を顔の横に押さえ、深いキスをした。





海辺のレストランで食べたハンバーガーも、イチゴ狩りの大きな苺も、最高に美味しかった。

一日でスマホの写真フォルダが景色やお互いの写真で一杯になってしまった。


早めに戻ったホテルでは、昨日は行かなかった広い大浴場に行った。眺めの良い露天風呂は他に客もいなくて、ゆっくりと楽しめた。サウナにも入って大汗をかき、全身整った気がした。


ホテルのバイキングは、晴可の父親がメニュー作りから多くの料理を任されているらしい。どの料理も美しく繊細な味わいで、バイキングとは思えない程のクオリティだった。

二人で全メニューを制覇しようとしたが、全然無理だったのが悔しい。


「はー、美味しかったけど、食い過ぎたな」

「うん、調子に乗って食べちゃった」

「まだ時間早いけど、これからどうする?カラオケとかゲーセンもあるみたいだけど」

「うーん‥‥」


晴可は窓の外を見ていた。


「海、見に行きたい」

「海?昼間散々見たじゃん」

「夜の海が見たい」

「‥‥いいよ。寒いからちゃんと着替えて行こ」

「うん。ありがと」



ホテルの裏口から出ると、浜辺に繋がる小道があった。

二人は手を繋いで、薄暗い砂利道を歩く。


「ハル、着いたよ」


足元が砂地になり、急に目の前が開けた。

潮の香りを乗せた冷たい風が頬を刺す。

波の音がすぐそこに聴こえる。


「暗いね」

「足元、気をつけてな」


晴可は繋がれた手をギュッと握った。


「水平線が見えないから、空と海がひとつになったみたい」

「そうだな」

「やっぱ、ちょっと怖いね」

「うん」


空と海と陸の境界があやふやになる。自分の立っているのはどこだったか。頭にモヤがかかったように、フワフワする。ただ左手に繋がる温もりだけが、生きている証だ。


「俺があっちに向かって歩いていったら、ライはどうする?」


あっちって、どっちだろう。

どっちでも答えは決まってるけど。


「一緒に歩いていくよ」

「‥‥そっか‥‥‥‥‥」


しばらく黙ったのち、晴可は雷人の顔を見上げた。


「部屋に戻ろう。ライ、俺を抱いて」


遠くの空に、稲光が見えた。

どこかで雷雨が降っているのかもしれない。

 


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