だれが人狼になったのか
町長に街への布告を出してもらい、見回りの体制と装備も整えてもらった。ネドは日の入り前まで体を休め、夜間街の中心でいつ笛が鳴ってもいいように待機していたが、夜が明けても笛が鳴ることはなかった。
人狼が襲われたことで今夜は狩りを控えたのかも、とディムナと話し合っていると、顔面を蒼白にした自警団の団員が足をもつらせながら走って来た。
部屋の中は惨憺たる有り様だった。
天井まで飛び散った血が未だ粘度を保ったまま滴り落ち、ぴちょんぴちょんと音を立てて床に血溜まりを作っている。
一家の主であった男の体は部屋のそこら中に散らばっていた。壁や床に叩きつけられた痕跡が見える。その途中で砕け散った骨や腸、脳漿がそこかしこに飛び散っている。心臓だけは見つからなかった。
男の妻は体を拘束され、柱に腕を括りつけられていた。服ごと裂かれた腹と、穴が開いた左胸から噴き出した彼女の血が食卓を汚していた。
殺された男は衛兵で昨夜は非番だったらしい。早朝になっても出勤しないことを不審に思った同僚が男と身重の妻が暮らす家を尋ねて、この惨状を発見した。
ネドは血溜まりを避けることは不可能だと見て取って、靴が汚れるのも構わずに部屋の中へと進んだ。衣装棚や食器棚の引き出しがすべて開いたままになっている。妻の腕が拘束されていることから見ても強盗としてこの家に押し入ったことは疑いようがない。その時点ではまだ彼らは人の姿をしていたはずだ。
うち一匹が人狼へと変身し、脅威となる一家の主を殺して心臓を喰った。残りの二匹が逃げる妻を取り押さえて柱に括りつけ、金品のありかを聞き出した。彼女を脅すために夫の遺体を、壁や床に何度も叩きつけたのだろう。そのたびに遺体は飛び散り小さくなった。左足首を掴んで振り回したのか、皮膚がどす黒くなるほど強く握られ、腱が引きちぎれて左足が右足よりも長くなっている。
この世情ではまともな金品など持っているはずがないが、人狼は妻の言うことを信用しなかったようだ。
ネドは縛り付けられたままの女の遺体を検める。拘束を解いてやり、苦痛に歪んだ瞳を閉じて十字架を掲げた。
夫の血を浴びせて脅し、服を裂いて後彼女を辱め、そして腹を裂いて彼女の目の前で胎児を喰った。泣き叫び呪詛を吐く彼女が鬱陶しかったのだろう。その後は即座に殺して心臓を喰っている。
昨日分析した人狼の好みと一致している。好みの広い一匹目、子供だけを狙う二匹目、女だけを狙う三匹目。三匹の人狼は昨夜この衛兵の家に三匹揃って仲良く押し入って、食事のついでに金目の物も漁っていったというわけだ。
家の外の通りで四つん這いになってげえげえ吐いているディムナに向けて、ネドは検死の結果を伝えた。
「な、仲間割れしてたんじゃなかったのか?」
「最後に仲間に加えた奴とだけ馬が合わなかったのかもな。だとしても通りに晒す意味は分からないが」
「三匹同時に同じ家を襲うなんて……」
「それ自体は珍しいことじゃない。群れを組む以上連携した方が効果的だからな。ただこいつらはこれまではそれぞれバラバラに狩りをしていたはずだ。なぜ今回だけ協力する気になったのか」
「……四匹目を私刑して連帯感が高まったんじゃねえの」
よろめきながらディムナが立ち上がる。拳で口元を拭った。
「住宅街、しかも屋内。今までと違う狩りの仕方。……こっちが見回りの体制を変えてくることが読まれてたのか?」
「にしてはリスクが高すぎるような……。そうだ、リスクが高すぎる……」
ネドは自身のつぶやきを補強するように考えを巡らせる。もっと簡単に襲える相手がこの街にはいるのに、隣家に悲鳴が聞こえるリスクを犯したのはなぜだ? なぜ教会の周りにいる家を無くした軍人や子供、未亡人ではなく、衛兵を襲った?
「もう一度教会に行って話を聞いてくる。あのあたりで人狼に襲われた人がいないなら、好みを絞れるかもしれない」
「分かった。俺は念のため今朝までの間に他の場所で人狼の被害が出てないかを調べておく」
「そうだな。粛清した代わりの新しい四匹目が発生していないとも限らない」
「勘弁してくれよ……」
その時、ミシッと何かを踏みつぶす音が背後から聞こえた。音のした方、被害のあった衛兵の家の屋根の上を見て、ディムナは己の目を疑った。黒い体毛、犬のように長く伸びた鼻先、裂けた口から黄ばんだ鋭い犬歯が覗いている。人間の体躯をゆうに二回りは超える巨躯。
一匹の人狼が太陽の光を浴びて、屋根の上に陣取っていた。通行止めをしていた衛兵の口から悲鳴が飛び出す。その声に引き寄せられて、衛兵が、市民が、屋根の上の怪物の姿に気付き、耳をつんざくほどの悲鳴の協奏へと変わる。パニック状態に陥った人々は蜘蛛の子を散らすようにその場から逃げていく。転んだ子供が逃げる人々に手を、背中を踏みつけられ、絶叫を上げる。
ネドは即座に左手で背中の大剣を引き抜いた。柄の鍔に最も近い部分を右手の銀腕の手の平に乗せる。左手で小指側面にある竜頭を巻き上げると、ギチ、ギチチと金属の擦れ合う音が響き、ゼンマイ仕掛けによって、義手の右手の指が握りしめられた。ぶん、と右の義腕ごと振り抜かれた銀剣が風を切る。
人狼は悠然と地面へと降り、血まみれの家の中に顔を突っ込んで、すんすんと匂いを嗅いでいる。
驚愕と恐怖で動きの止まった衛兵たちの中で、ネドだけが動く。左手で銀剣の柄頭に近い箇所を掴み、人狼の背中目掛けて大上段に斬りかかる。臭いかあるいは空気の動きか、攻撃を察知した人狼は飛び上がり銀剣を躱して、再び屋根の上へと着地する。ネドは腰からクロスボウを引き抜き、足で固定し、左手だけで手際よく装填を済ませたが、狙いを定めるころにはすでに獣は屋根の上を跳んで逃げていた。街の東、教会の方向だ。
「追いかける」
「待て待て待て」
ディムナがネドの腕を掴んで止める。
「この混乱の中じゃ無理だ!」
事実人狼の逃げた方向からは悲鳴とともにたくさんの人々がこちらへと向かってきている。
「かと言って放置すれば被害は出続けるぞ」
目が違う、とディムナは思った。初めて出会った時と同じ狼を思わせる狩人の目。普段の神父としての穏やかな彼とは異なる獣の瞳。人狼を前にした瞬間からこいつは切り替えているのだ。「人狼を殺すこと」の優先順位を最も高いことへと。
悩めばその分、足取りを追うのは難しくなる。今なら人々の逃げる方向と逆に進めば人狼を捕まえられる。ディムナはネドの腕を離した。
「そっちは任せる。俺は自警団と一緒に街の人たちを落ち着かせる」
「ああ。警戒は怠るな。その中に二匹紛れているかもしれない」
そう告げると、人の波に逆らってネドは司祭服を翻して駆けていった。剣を持った彼を人の波が避ける。悲鳴を上げながら。ついさっき人狼を目にした時と同じように。
昼に姿を現す人狼は総じて捨て鉢だ。
人の群れの中に紛れてこっそりと暮らしていくつもりがない、あるいはその能力がないために、正体が露呈するリスクや狩人に殺されるリスクを平気で犯す。あるいはそのリスク計算が出来ないほど愚か。
だが――、とネドは街を疾駆しながら考える。
おそらくこいつには狙いがある。ただ愚かなだけならもっと早い段階から、複数個所で人狼が目撃されたはずだ。だがこの街で人狼が人目に触れたのは昨日の朝の死体、そして今日のこいつだけ。間違いなく今追いかけている人狼には「この街には人狼がいる」と喧伝するという目的がある。だとするなら死体を大通りに晒したのもこいつだろう。
何のために……? そもそもどうして一度食事を終えた場所に戻って来た?
それを判断する情報を自分は今持っていない。ネドは入り込みかけた思考の袋小路に蓋をして、やるべきことに目を向ける。
屋根の上を、がれきの上を跳んでいく黒い点が教会の影に隠れて、ネドは思わず舌打ちをする。遅れて追いつき、見渡すも人狼の姿はどこにも見当たらなかった。嘆息し、力を抜く。締め付けた竜頭を逆に回して、銀剣を義手から取り外して背中の革鞘へと納めた。
教会の扉を開けると、無数の怯えた目がネドを見た。シスター・アメリアが司祭服に気付いて駆け寄ってくる。
「ブラザー。人狼はどうなりました……?」
「逃げられた。このあたりをねぐらにしていることは間違いない」
避難していた軍人や家を無くした未亡人とその子供たちの間にざわざわと動揺が広がる。ネドは自身が注目を集めている今を利用し、戸惑う群衆に向き合った。
「この中で、ここ二週間の内に、あなた方の暮らしている場所で人狼の被害を見た者はいますか?」
だれも手を挙げない。非協力的なわけではない。事実群衆の中の何人かは手を組んで神父姿のネドに祈りを捧げている。このあたりで犠牲者はいないのだ。報告がないわけでも、無視されているわけでもない。復興のある程度進んだ街の中心部、もしくは大通り沿いでのみ人狼の被害は発生している。
「もし見たことがあるという者は後からでもいい、俺でも自警団でも良いから報告してください。人狼の被害をこれ以上出さないために必要なことなのです」
避難市民たちに祈りを返して、ネドは教会を後にした。その後をシスターが追いかけてくる。
「ブラザー。少しお耳に入れたいことが……」
「なんです?」
「……兵士の方々の間で、無くなったはずの腕が生えてきた者がいる、という噂があります」
「そいつはどこに?」
「分かりません。聞き出そうとしてみたのですが、皆さん口を閉ざしてしまって。口止めされているのかもしれません」
無くなったはずの腕が生えてくる。本来ならあり得ないことだ。だが人狼の人間を超越した驚異的な再生能力はそれを可能にする。体のいずこかを失った人間が狼の司祭との取引に乗り、人狼となる代わりに元の肉体を取り戻す、というのは珍しい話ではない。
人狼が教会の周りを形成している傷痍軍人、戦争被害者の集まりをたとえどれだけ容易なことであろうと襲わないのは、人狼自身が彼らと条件を共にしているからだとすれば。人狼が傷痍軍人であるからこそ、彼らは好みになりえないのだとすれば。
「傷痍軍人なら街にリストがあるかもしれない」
曲がりなりにもランドールが戦勝国である以上、その勝利をもたらした彼らに対しては微々たるものであったとしても補填が行われたはずだ。ならその名簿がある。それと街の人々を突き合わせて行って、傷痍軍人として登録されているにも関わらず、身体に欠損が無いならそいつが人狼だ。
「ありがとう、シスター。糸口がつかめました」
「お力になれて何よりですわ。教会の中では話しにくいことですから」
そこまで配慮をしてくれたのはありがたい。体の一部を失い、苦しんでいる彼らの前で元の肉体に戻る方法がある、などという情報を開示するのは新たな人狼を生み出しかねない愚行だ。
「シスター、あなたに主のご加護があらんことを」
祈り、ディムナの元へと身を翻すネドを、シスター・アメリアは頭を下げて見送った。
「しょ、傷痍軍人のリストですか……?」
ネドから人狼の候補について報告を受けたディムナは町長に取り合って、名簿の提出を願い出たが、どうにも歯切れが悪い。
「人狼が紛れている可能性があります。ご協力お願いします」
「で、ですがすでに街を去っている者も大勢いるでしょう。死んでいる者も。それがどれだけ役に立つか……」
「人狼はこの街で活動しています。なら名簿の中に名前があるはずなのです。死者に関しては別途資料をお願いします」
「ええとですね、その……」
無いのだろう。ディムナは内心舌打ちした。紛失したか、作成していないか、処分したか。
あるいは見せられない事情がある。俺に見られて困る理由とはなんだ? 傷痍軍人の数を水増しで報告して国から補填の差額を貰って懐に入れているとか? それなら確かに町長とその家族の暮らす街の中心部だけやたらと復興が早いのも頷ける。それにモスコゥと言えばランドールで有名な石切り場を所有していた一族のはずだ。
つまり復興資金を国に対して水増しして請求し、一族の経営する会社に独占して作業させていた、とかそのあたりだろう。それがたまたま今回の人狼たちの隠れ蓑のせいで浮き彫りになりつつある。それをこの男は恐れているわけだ。
「モスコゥ町長」
「は、はい」
「俺はここに『獣害対策の専門家』として来ています」
「はい……」
「つまりその名簿を今回の獣害事件より外に持ち出すつもりはありません。そしてその権限もない。何より俺はフロージエン人で、貴国の内政やましてや建設事業についてなど口出しする義務も権利も無い」
どうしてこんなのが街の責任者をやっているんだ。その答えを自分は嫌というほど知っている。貴族に生まれたからだ。
「だから名簿を出してください。じゃないともっと犠牲者が出る。そうなればあんたの首も危ういはずだ。そして後任の人間はあんたが今隠していることを全て暴くでしょう。自分が清廉潔白だと言う証明と宣伝のためにね」
復興作業を一族の経営する会社に独占、は貴族の間で常態化しているので問題に取り上げられることすらないと思うが、傷痍軍人の数を水増しして請求したのは国賊と罵られてもおかしくはない。
「さあ、名簿を出してください」
数分後、腐敗貴族に対する悪態をつきながら廊下を歩くディムナの手には、カルローの街の傷痍軍人のリストが握られていた。
ギチ、ギチチと耳を塞ぎたくなるような金属音を立てて、ネドは背負っていた銀剣を銀の義手へと固定する。
後に続くディムナはネドからクロスボウを借り受けていた。
二人の眼前には廃墟と化した家屋が並んでいる。日は傾き、空は橙色に染まっている。もう少しで狼たちの時間がやってくる。
傷痍軍人の名簿を改めたところ、その中にグレンという名があった。
ネドが初めてカルローの街の教会を訪れた際に、後からやって来た男と同じ名だ。彼は軍服を着ていたが、肉体をどこも失ってはいなかった。シスターが言うには彼は仲間である傷痍軍人のために度々薬を届けに教会を訪れていたのだという。彼は戦争によって放棄され、そして未だ復興されていない元は住宅街だった廃墟群の中で雨風をしのいでいるらしい。
あの男が人狼だという確証はまだ無い。だから話を聞くだけだ。だが、ネドの狩人としての勘が告げていた。俺たちのために祈るなと言ったあの男、グレン。奴と同じ目を知っている。それらは時に驚くほど似通う。狩人の目で、獣の目だ。
背筋を伸ばしたまますたすたと進むネドの後ろを周囲を大げさに警戒しながらディムナが追う。時折り物音に驚き足を止めて、その正体がネズミや猫だと分かると安堵し、そのたびにネドに距離を離されていることに気付いて駆け足で追いかける。クロスボウにすでに装填されている矢をちらと見る。その先は正体不明の緑色の半固体の液体が塗られている。
「触るなよ、毒だ」
ネドに手渡されたときに言われたことを思い出して、思わず遠ざけたくなるが、今人狼から自分の身を守ってくれる武器はこれだけだ。腰の鉄製の剣が有効打にならないことはすでに知っている。
ここに来たのはネドとディムナの二人だけだ。人狼の住処として候補には挙がったが、確証があるわけではない。自警団には引き続きの体制で街の警備を続けてもらっている。自由なのは余所者の自分たちだけだ。
遠吠えが、聞こえた。
「当たりだ。来るぞ」
風向きから自分たちの臭いを察知されたのだろう。前方から黒点が恐ろしい速度で迫りくる。数は一つ。
「さっきのは仲間への報告だろう。すぐに来る。こいつを速攻で仕留めて、二匹目も殺す――」
どこから来るんだよ、先に言っといてくれよ、などディムナが言葉を紡ぐ前に、ネドはすでに人狼に向かって駆けだしていた。
人狼が狩人に向けて、跳躍とともにあまりに太いその爪を振るう。必殺の凶器が、キュゥッと鳥の鳴き声のような音を立てて風を刻む。
直後絶叫を上げ、跪いたのは人狼の方だった。振るったはずの黒毛に覆われた爪が、右手首ごと切り落とされている。
ネドはただ自身の体を隠すように、銀剣を人狼の手の通り道に置いただけだ。
銀剣に触れた途端に、狼の肉体は人のそれに戻る。だが勢いは人狼の驚異的な膂力によって加速されたまま。人の体では狼の力には耐えられない。それは人を喰った人狼なら、誰でも知っていることだ。聖別された銀は人狼にとって最大の防御であり、そして同時に最大の攻撃でもある。
右手を跳ね飛ばしたネドは返す刀で柄頭を左手で操り、上段から人狼の肩口目掛けて斬り返す。このまま鎖骨ごと砕いて心臓を取る!
人狼はとっさに左腕を上げ、迫る銀剣に怯えるように顔を庇う。ネドは脳天など狙っていない、見当違いの反射行動。だが、それが人狼を生き長らえさせた。左腕を巻き込んだ斬撃はわずかに逸れ、人狼の左肩を切り落とすに留まった。心臓を貫けていない。重傷ではあるが致命傷ではない。時が経てば人狼はこの程度再生する。
「チッ!」
絶好の機会を逃したネドは舌打ちざまに人狼の肩ごと地を割った銀剣を心臓目掛けて斬り上げるが、人狼は狂ったような動きで後ろに跳躍した。手首を無くし、切り株となった右腕で、左肩から噴水のごとく流れ出る血液を抑えようとするが、効果は無い。
先程の斬り上げ、仮にネドが銀剣を義手に固定していなければ、咄嗟に左手だけで剣を持ち、体を回転させ、遠心力でもって剣を振るったなら、眼前の人狼はすでに絶命していただろう。だがそもそも固定していなければ剣筋は安定せず、左肩を落とせなかった。そうなれば返す刀、否、爪で絶命していたのはネドの方だった。一つ判断を過てば、狩人は死ぬ。狼を狩るとはそういうことだ。
ゼェゼェと長い舌を出して、喘ぎ、狩人を恨めしそうに睨む人狼から目を離さずに、ネドは考える。
こいつ、人狼としての戦闘に慣れていない。そもそも銀剣を警戒すらしていなかった。狩人と戦ったことが無いのだ。パヴロー神父を殺した狼ではない。
今更危機感を覚えた人狼は狩人と一定の距離を保つ。
ネドは左手を腰の革鞄に入れる振りをして、人狼からは見えないようにディムナに向けて、二度手を招くように動かした。射撃の合図だ。ネドは人狼に向かって駆けだし、肩ごと失った獲物の左側から攻める。人狼は当然それを嫌い、狩人と立ち位置を入れ替えるように右に跳んだその瞬間、ディムナの放った毒矢がその太い首筋へと刺さった。人狼は鬱陶しそうな声を上げた後に、よたよたと二歩、三歩後ろに下がる。ゴェェェッとこの世の物とは思えない叫びを上げて、人狼が吐血した。首筋の矢を取ろうともがくが、銀で切られたゆえにいまだ再生の追いつかない丸太のような腕では、より深くに刺さるばかりでそれを抜くことは出来ない。
そして、狩人はその機を逃さない。
手首の無くなった腕で喉を掻きむしる人狼の懐に入り込むと、銀剣を心臓目掛けて一突き。
ネドは血で視界が塞がれぬように顔を逸らす。横顔が、闇色のカソックが、銀の義手が噴き出した血によって赤く染まる。
狼の絶叫が響いた。その苦痛に満ちた獣の面に一瞬だけ、人だった頃の男の顔が浮かんだ。
断末魔の叫びが止み、力無く自身に向けて倒れ掛かる人狼をネドは体を裁いて地面へと下ろし、その心臓から剣を引き抜いて、血振りをくれる。赤い斑点が舞う。
はっとした表情を浮かべて、ネドが瞬間体を沈めた。
「伏せろ!」
その掛け声に合わせて、ディムナもその場に頭を抱えてうつぶせになる。
直後、ジュッとまるで何かが焼けるような音がして、近くの廃墟が吹き飛んだ。口から情けない悲鳴を出しているディムナの元に、土煙の中からネドがやってくる。
「二匹目だな。血の臭いで仲間が殺されたことに気付いたんだろう。瓦礫を投げてきた。さっきの奴よりは頭の回る人狼らしい」
「狼が道具使うんじゃねえよ!」
「元は人間だ。人間に出来ることは奴等にも出来る。血を浴びることを好むから、積極的にしないというだけでな」
人間に出来ると言ったところで、それを人狼の膂力でやられたら、ただの石つぶてが投石機の威力へと変わる。
「貸せ」
ネドはディムナからクロスボウを奪い取ると、腰袋から取り出した矢を装填し、瓶詰の毒を塗布した。
「俺が囮をやる。その隙に風下から近づいて奴を撃て」
そう言って再びディムナにクロスボウを押し付けた。
「外したら……?」
「その時は他の手段で何とかする。……自信を持て。さっきは当てただろ、あんたは射撃の腕が良い」
軍閥貴族の出ということもあって、ディムナには剣だけでなく銃火器の心得もある。幼い頃は兄たちに鳥撃ちに連れて行ってもらったこともあった。まさかこんなところで役に立つ機会が来るとは思ってもみなかったが。
直後、さっきよりも近い位置で投擲された瓦礫が弾け、地面が削られ、砂埃が舞った。風圧で飛ばされた砂礫が肌を打つ。
「タイミングはあんたに任せるが、……早めに頼む」
そういうや否や、ネドは土煙の中を駆ける。黒い影はすぐに見えなくなった。直後先程よりも離れた位置で爆発がした。ネドが人狼の前に見えるように姿を晒したのだ。ディムナは人狼には見えないように林のような廃墟をネドとは逆の方向に進む。壁だった物の影から、人狼の姿を観察する。遠すぎる。ここからじゃこのクロスボウの射程では届かない。
もっと近づかないといけない。分かっていても足が竦んだ。悪い想像ばかりが頭を支配する。仮にバレたら人狼は俺の方に向かってくるんじゃないのか? 止まりかけた足を別の考えが先へと進ませる。こいつらは三匹の群れだ。早くしないと三匹目が来てしまう。あの人狼を殺すだけならきっとネドだけでも出来る。でも合流されたら事だから、あいつは俺を戦力として数えたんだ。
『あんたを助けるためにクロスボウと毒矢、目潰しの手札を切った。だから、……その分くらいは働いてもらうぞ』
かつてネドに言われたセリフが脳内に蘇る。そして自分に言い聞かせる。
役に立て。せめてこのクロスボウの分くらいは。
銀剣を背中の鞘に納めて、ネドは土煙の中を駆ける。
右腕に固定したままでは重心のバランスが悪く、速度が出ないと判断した。空気が焼けるような音がして、豪速球が空を切り、地を抉る。人狼の五感は視覚よりも嗅覚の方が優れている。だが人狼になったばかりの者は人間のままの感覚で視覚に頼る。だからネドはあえて姿を晒す。土煙の中に紛れて、あるいは瓦礫の影に隠れて、あの人狼に鼻を効かせるという選択肢を思い浮かばせないようにするために。
ネドは大きく円を描くように怪物との距離を詰める。自分が常に相手にとって風上となるように。本来なら決してしない行動だ。
風下へとちらと視線を送る。ディムナがクロスボウの射程圏内まで移動したのを確認した後、再度の瓦礫による砲撃後、ネドは人狼に向けての移動を直線へと切り替えた。
駆けながら上半身を低くし、左手で抜剣。加速を乗せて振り抜くが人狼は後ろに飛ぶことで回避した。
視線はそのまま、振り抜いた剣を右手に乗せて、ぜんまい仕掛けに手をかけようとした瞬間を見逃さず、人狼が迫る。義手である右を狙った一撃を銀剣の一振りで牽制する。義手を固定しようとすればふたたび仕掛けてくるだろう。左手が塞がっている状況では目潰しなどを取り出すことも出来ない。
一瞬の膠着状態に陥った刹那、人狼の背中目掛けて背後から迫ったディムナがクロスボウの引き金を引いた。弦の弾ける音がして、人狼が振り向く。脾臓を目掛けて狙った一射は、その動きによって振り向きざまの人狼の右腕へと突き刺さった。右腕の痛み、仲間を殺し切ったおそらく一撃でも喰らうとまずい攻撃、二匹の獲物、人狼の陥った状況にさらにもう一つ材料が加わる。銀剣を振りかぶり、自分へ向けて突撃してくる狩人。目まぐるしく一瞬で変わる状況についていけなくなった「彼」は逃亡を選択した。
人狼が地を踏み鳴らす。足が地面にめり込み、ひびが入る。そのまま自らに迫る狩人目掛けて、足を蹴り上げた。ただの砂かけも人狼の膂力で行えば、砂礫の散弾へと変わる。ネドは義手で目を庇いながら銀剣を振り下ろす。
それは偶然だった。人狼の蹴り上げた土の中には直径四センチほどの石ころが含まれていた。他の砂礫たちとともに苦し紛れに蹴り上げられたそれは奇しくも狩人が振り下ろす銀剣の半ばに直撃した。
衝撃でネドの左手から銀剣がすっぽ抜ける。同時にへし折れた切っ先が人狼の左頬をかすめた。半ばから無残にひしゃげた銀剣は宙を舞い、がらんがらんと音を立てて地を滑る。
人狼が跳躍し距離を取ったのと、狩人が腰袋裏の革鞘から銀の短剣を引き抜いたのが同時だった。
土煙が晴れる。
潰れた家屋の屋根の上に陣取る人狼は、刃を構えるネドと尻餅をついているディムナを睥睨する。右腕がぴくりと震える。毒矢の刺さった腕が上手く動かないことに気付いたのだろう。左手を振るい、自ら右腕を切り落とした。びしゃっ、びしゃびしゃと腕から流れる血流の影が、怪物をより異形へと見せかける。狼は仲間に向けての合図なのか、一つ空に向けて遠吠えを放つと去っていった。ネドが短剣を投擲する姿勢に入るが、投げるよりも早く敵の姿は闇夜に溶けた。
ネドは短剣を納刀し、折れて土に塗れた銀剣を拾い上げる。一匹分の人狼の血に塗れた上に元の形から大きく損傷した。聖別は効果が切れている。今はただの鉄より脆い、折れた剣だ。それでもネドはそれを背中の革鞘に納めると、未だに尻餅をついているディムナに手を貸した。
「すまん、俺が外したから……」
「いや、良くやってくれた。それに一匹は仕留めた」
二人は連れ立って、先に殺すことのできた一匹の人狼の死骸の足元に立つ。あの狼は遠吠えで仲間に合図をした。おそらく三匹目は来ないだろう。ネドは目を閉じ、いつものように十字架を額に当てて、何事かを唱える。
それに正体も分かった。ネドは十字架を胸元へとしまいながら思い出す。
自分たちを見下ろした、逃げた人狼の横顔。銀剣の折れた切っ先がかすめたことで、顔の左側だけが本来の人間の顔へと戻っていた。見覚えのある顔だった。以前教会で出会った、あのグレンという男の顔だった。