人狼とは何であるか
ネドが自称魔女に昼食をご馳走になってから森小屋を出たちょうどその頃、教会には一人の男が訪れていた。
馬車に家紋が入っているところを見ると貴族の令息に違いあるまい、と斜めになったあばら家の影から、老なめし職人はその男が自分の住処の前を通り過ぎていくのを見送った。御者は馬に鞭を打った。牧場から漂ってくる堆肥の臭いと、おそらく街を追い出されたのであろう元罪人の棄民たちの使うなめし剤の臭いが交じり合って、鼻がおかしくなりそうで、一刻も早くこの場を離れたかったし、こちらをちらちらとのぞき見している老人が馬を狙っているのではないかと気が気ではなかったからだ。
教会の手前で馬車を留め、御者が声をかけると中から男が出てきた。
身なりの良い服装、綺麗に切りそろえられた金髪の若い男。
ディムナ・マック・グレオールは舗装されていない道を歩いて、古びた教会の扉を開く。木材のきしむ音がした。人の姿は見当たらない。埃が積もっていないから誰かがここを管理していることは間違いない。
「礼拝にいらしたのですかな?」
誰もいないと思っていた礼拝堂の薄暗闇の中から唐突に声をかけられて、ディムナは思わず飛び上がった。声の主には見覚えがあった。黒い司祭平服を身にまとった小柄な白髪の老人。三か月ほど前、彼が勤める街で起きた「獣害事件」の折、団長室で姿を見たのだ。あの「狩人」とともにいたところを。
ディムナは改めて老司祭に向き直り、名乗る。
「ディムナ・マック・グレオールと申します。以前人狼の件でお世話になりました。今日は、その、彼に、……『狩人』に頼みたいことがあって来たんです」
「これはご丁寧に。私はここの教会を管理しております、司祭のアングレーズと申します。ネド、あなたの言う『狩人』は今出かけておりまして。戻るまでもうしばらくかかるでしょうから、我々が暮らしている館の方で待たれるがよろしいでしょう。……ここではお茶も出せませんから」
最後の一言はまるで主に聞こえぬように、とでも言うように小声で、微笑みながら司祭は言った。
ディムナは誘いにしたがって、老人の後に続いて、司祭館へと移動する。こちらも先程の礼拝堂と同じくらいには古びている。柱や壁の低い位置に子供が描いたような落書きが残っていたが随分と色褪せている。
案内された一室で促されるまま待っていると、アングレーズ神父が二人分のお茶を淹れて持ってきた。
「来客用なのですが、なにぶんこんな僻地ですと客はおろか信徒もなかなか足を運びませんからちょっと古くなっているかもしれません。お口に合えばよいのですが」
「なぜ、この教会はこのような場所に? 普通は街中、というか街の中心にあるものだと思っていたのですが」
「街中にもありますよ。そちらは一般の信徒が通う祈りや告解のための教会ですな。ここはそうした一般の教会とは違い、異端である人狼を狩るための拠点です」
「ならなおさら街中にあるべきではありませんか? 人狼は、その……」
「餌の多いところに現れるはず、ですかな?」
「……ええ」
ディムナが言い淀んだことを、神父はあまりにも明け透けに口に出した。
「我々は見張りなのですよ」
「見張り……?」
あまり聖職者と関わりの無さそうな言葉にディムナはいぶかしむ。
「ネドが戻ってくるまで時間もありますし、よろしければこの爺の長い話に付き合っていただけますかな。人狼についての長い話に」
ディムナはゆっくりと頷いた。――俺は殺されかけた相手について、そしてこれから戦う相手について何も知らない。
「そもそも人狼とはなんでしょう? グレオール殿はご存じですかな?」
「その、恥ずかしながら創作の話としてしか知りません。実在するとは思っていませんでした」
ディムナの知識では人狼とは、満月の夜に狼の姿に変身して家畜や人を襲ういわゆる狼男のことだ。もちろん実在を信じてはいなかった。満月のときに血が滾り、奇行に走った精神を病んだ人間を、「狼男」ということにして退治してしまうためのいわば隠語のようなものであって、実在の怪物ではない、と考えていたのだ。
「そういった『狼男』とマーナ=ベル教で伝わる『人狼』は異なります。古くは聖ヴァルカヌスの逸話に遡ります」
昔、あるところに一人の狩人がいました。狩人はいつものように山で狩りをしていました。
獲物の気配を感じた狩人は弓をつがえて、矢を放ちました。
狩人がさて何を撃ったかなと草むらを確認すると、そこには山で瞑想をしていた修道士が倒れていました。背中にはさきほど狩人が放った矢が刺さっています。
獣と間違えて修道士を撃ち殺してしまった狩人は知らんぷりをして家へと帰りました。
それからというもの、近くの村では鶏が殺され、人々が狼に襲われるようになりました。村の男たちは協力して狼を探し出し、弓と槍で追い立ててついには狼を殺してしまいました。
狼を討ち取った村の男が、恐れ知らずにもその死体に近づくと、狼の首に修道士を誤って射た狩人が常に身に着けていた銀の首飾りと全く同じものが巻いてあることに気が付きました。
殺された修道士の恨みが狩人を醜い狼の姿へと変えてしまったのです。そのことに恐れをなした村人たちは修道士を祀り、捧げものをしました。
心を入れ替えた村の人たちを、修道士の魂が許すと、村は祝福に包まれて、村が狼に襲われることはもう二度となかったと言います。
めでたし、めでたし。
「これが誤って撃たれた修道士、聖ヴァルカヌスの逸話として伝わるものです。ですがこの話は寓話です。この話の教訓は何でしょう」
「修道士、というか聖職者に暴力を振るうな、敬意を払え。罪を誤魔化そうとするな。……獲物を確認してから弓を撃て、ですかね」
「まあ概ねそんなところでしょうな。この寓話には原型があります。それはこういうものです――」
昔々、あるところに一人の狩人がいました。彼は山でウサギや野鳥を獲って暮らしていました。ある日、狩人は村人たちが立派な角を持った鹿の話をしているのを聞きました。
『それはそれは大きな牡鹿だった』
『どんないい腕をした狩人だってきっとあの鹿を捕らえられないだろうさ』
口々に噂をする村人たちの前で狩人は言いました。
『たとえどんな大きな鹿だって、俺なら必ず討ち取って見せる』
そんな狩人を長老はたしなめました。
『あれはきっと山の神に違いない。傷つけてはならないよ』
ですが狩人は長老の言葉に耳を貸しませんでした。
狩人は弓を担いで山に入り、ついには鹿を見つけました。大樹の枝のような立派な角をした鹿です。村人たちが話していた鹿に間違いありません。
狩人は弓をつがえて、鹿に目掛けて矢を放ちました。
ピュウッと風を切って矢は鹿に命中し、鹿は地面にどうと体を横たえました。
動かなくなった鹿に狩人は恐る恐る近づき、鹿が死んでいることを確認すると、得意げな顔で言いました。
『それ見たことか、俺ならどんな鹿だって、イノシシだって、狼だって討ち取って見せる』
そういうと狩人は鹿のなきがらから矢を引き抜きました。鹿の柔らかそうなお腹から流れ出る血を見て、狩人は無性に腹が減りました。
狩人は肉を切るためにナイフを取り出そうとしますが、上手に取り出すことができません。なぜなら彼の手は真っ黒な毛で覆われた狼の手になっていたからです。
これはどうしたことだ、と思った狩人の口からは言葉が出てきません。なぜなら彼の口は鼻の大きく突き出した狼の口になっていたからです。
狼になった狩人は村へと戻りますが、彼の姿を見た村人たちは悲鳴を上げて逃げていきます。
狼は村人たちに自分がこの村の狩人だったと分かって欲しくて、話を聞いてもらおうと肩を叩きます。そのたびに肩を叩かれた村人はぺしゃんこになって死んでしまいました。
ほとほと困り果てた村人たちは、隣の村の有名な狩人に悪い狼を討ち取って欲しいとお願いをしました。
狩人は狼が何度も彼の肩を叩こうとするのを避けて、何度も何度も狼に矢を射かけました。そして朝日が昇るころに狼は倒れました。
狼の死体は人間だったころに狩人が身に着けていた鹿の角で出来た首飾りを身に着けていたので、それでようやく村の人々はこの狼が自分たちの村の狩人であることが分かったのです。
村人たちは狩人が討ち取った鹿にたくさんの捧げものをして許してもらえるようにお願いをしました。
すると倒れて死んでいたはずの鹿がすっくと立ちあがって、山の奥へと消えていきました。
以降その村は狼に襲われることはなくなったそうです。めでたし、めでたし。
「この話には修道士、すなわち聖職者が出てきません。つまり我々、マーナ=ベル教が広く人口に膾炙する前にはこういう話として伝わっていたのです。私が調べた限りでは鹿の頭を持つ山の神を崇拝する土着の信仰が確かに存在しました。山の神、狩人の神、鹿頭神として知られたその神の名は、ファルカス=ヴァルカン。修道士聖ヴァルカヌスと奇妙なほど名前が一致している」
「その、良いんですか、神父様が他の神の存在を認めてしまっても……」
「他の神を認めたわけではありません。他の神への信仰を認めただけです。それに今でこそ一神教を名乗っていますが、我らの教義は元は多神教のそれであったことは知識層には広く知られていることです」
今よりはるか昔、太古の時代マーナ=ベルは大勢いる神のうちの一柱、医療の神でしかなかったが、当時の皇帝老アムドゥシアスは死を恐れ、マーナ=ベル信仰を国教に据えることで、自身に永遠の命を願った。その際にマーナ=ベルを「人を造った神」としたことが、現在の一神教となったマーナ=ベル教の走りである。ちなみに老アムドゥシアスはその後息子に殺されて王位を簒奪された。
学校に通い、教育を受けたディムナにとってはその知識は常識の一部だが、信心深い人間に対してわざわざそのことを指摘しない、という振る舞いも彼は常識の一部として備えていた。だからこそ信心深さの象徴であるはずの当の国教マーナ=ベル教の司祭様が自ら言及したことに驚き、戸惑った。
「さて原型も踏まえたうえで、再度うかがいましょう。この寓話に込められた教訓はなんでしょう」
「自惚れてはならない、年長者の意見には耳を貸すべきだ、……無暗に動物を殺してはならない、とかですか?」
「最も重要な部分を見逃していますね。二つの寓話の共通点、それは『狼になるのは常に狩人である』こと、そして『狼になった人間を元に戻す方法は存在しない』ことです」
――狩人が狼になる?
神父の言葉に耳を疑った。じゃああの自分を助けた狩人も? 確かに狼のような雰囲気を纏ってこそいたが……。いや、そんなわけはない、と否定する。彼が人狼だというなら同類を殺して回る理由はないはずだ。
「ここまでで人狼とは何か? については解答できます。人狼とは『狼の呪い』を受けた人間のことです。その呪いが聖ヴァルカヌスのものにせよ、鹿頭神のものにせよ」
「呪い、ですか」
「にわかには信じがたいでしょう。教会もそう判断しました。そうして過去幾度も人狼を捕えては、人狼になる方法を聞き出そうとあらゆる手を尽くしました。そうして分かったことは『狼血』と呼ばれる血液のような液体を体内に取り入れることで人狼となる、ということです。そして『狼の呪い』をバラまいている存在、人狼たちに『狼の司祭』と呼ばれている人物あるいは組織を探し出し、葬り去ること、それが私たち『狩人』の目的です」
「司祭様も狩人だったのですね」
アングレーズ神父はええ、と頷いた。
「直接人狼と戦うには歳を取りすぎました。そちらはネドに任せて、今は運営に回っております」
おかわりはいかがですか、と神父に勧められ、ディムナは言葉に甘える。神父のカップも随分喋ったからか空になっていた。
「ここまで話した以上、どのような人間が人狼になるか、をご説明しておく必要があるでしょうな」
「先程は常に狩人がなる、とおっしゃっていましたが」
「と言っても私たちのことではありませんよ。住む場所のことなのです」
先程頭に浮かんだ考えをはっきりと否定されてディムナはこっそりと安堵した。
「住む場所? 森の中ということですか」
「というよりも村のはずれ、というべきでしょうか。村の中心には支配階層が住みます、知識層が住みます。一般市民でも村の中には住めるでしょう。村の外れに住むのは村にいられなくなった者、罪人や障害を持つ者、賤民、棄民と呼ばれる村に捨てられた人間たちです。寓話の中の狩人が指すものは彼らのことです」
これで最初の質問の答えになるでしょうか、と神父は言った。
なぜ、この教会はこのような辺鄙な場所に建設されたのか? それはつまり――。
「見張り塔、物見櫓……」
「はい。ここは街から最も遠い牧場のさらに外。罪を犯して街を追われた者たちが住む棄民街です。教会のこれまでの統計ではそうした貧民、被差別層が人狼として選定される可能性は一般市民よりも遥かに高いことが分かっていますので、私たちは平時は彼らを見張っているわけです」
「そう、ですか」
とても嫌な気持ちになった。ディムナはこの神父とあの狩人は見捨てられた人々のためにこのさびれた教会を善意で運営しているのではないか、と期待、そう期待していたのだ。だが、これでは看守と変わらない。
「教誨師が看守もやってるようなものですか……」
「人狼となった人間を元に戻す方法は見つかっていません。であれば人狼になること自体を防ぐより他には無いのです」
そして人狼になった者は人を襲わずにはいられない強烈な衝動がある。人間に戻す方法を見つけるまでの間放置すれば、数か月前に見たような人骨の山がいくつ積まれることになるだろう。人狼は殺すしかない。
――死んだ狼だけがもう人を襲わない。
かつて人狼の死骸の前であの狩人はそう言った。
「もっとも教会の中でもそのあたりは意見が分かれています。数字の上では確かに貧しい人々が人狼になることが多い。ですが貴族や商人が全く人狼にならないか、と言えばそうではない。もっと別の条件があるのやもしれません」
ですので、と司祭は一息入れていった。
「これまでのお話は人狼の理解のために頭には入れておいていただきたいのですが、あまり人前では口に出さぬようにお願いしたい。当然ながらすべての貧しい人々や刑期を終えた元罪人が人狼となって人を襲うわけではありません。ですが人々が先程の話を知れば、彼らに対する風当たりは不当に強くなるでしょうから」
アングレーズ神父がそう言い終えた少し後、外からざっざっという砂利道を歩く音がかすかに聞こえてきた。
「ネドが帰って来たようですね」