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狼たちを殺すには  作者: mozno
幕間

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30/32

狩人の見る夢2

 翌朝一番にネドは宿を出て、衛兵詰所で昨夜事件がなかったことを確認してから、街の外れへと向かっていた。

 街中の教会と共同墓地を通り抜け、普段出入りするのとは反対方向の門から街を出て、林道を歩く。

 しばらく歩くと街外れの森の入り口に、確かに二つテントが建てられていた。その横には小屋でも建てる予定なのか、正方形の線が引かれている。

「御免下さ――」

 そう言いかけた横っ面に投げつけられた小さな影を、ネドは右腕を上げて、義腕で防ぐ。ばふっと小さな布で覆われたお手玉がその中身を撒き散らした。細かい粉末がネドの目に、鼻に入り、思わずうめき声を上げる。

「マーナ=ベル教の神父がなんの用よっ!」

 涙の止まらない右目で、自分に向けられた声の方を見ると、黒髪を肩のあたりまで伸ばした整った顔立ちの少女が次弾の目潰しを構えていた。

「帰れっ! このっ!」

「止め、げほっ、げほっごほっ」

 目潰しを使い切った少女が地面に落ちていた石ころにまで手を伸ばし始めたその時、テントの入り口が開いた。

「何やってるの、エヴァ!」

 少女の母親と思しき女性が、両目を充血させてせるネドの様子を見て、慌ててテントの中に連れ込み、水で両目を洗わせる。

「娘がごめんなさいね……。何してるの、謝りなさい、エヴァ!」

「……ふんっ」

 エヴァと呼ばれた娘がそっぽを向いた。

 ネドは受け取った布で顔を拭くと、話の通じそうな母親の方に話しかける。

「俺はネドと言います。マーナ=ベル教の侍祭です。街で発生したある事件の調査をしています。容疑のかかっている男がこちらを訪れたことがあると耳にして、お話を伺いたかったのですが……」

 ネドの言葉を聞いて、少女のそっぽを向く角度が更に激しくなった。「ヤバ……」と小さく呟いたのが聞こえた。母親と思しき女性が立ち上がり、娘の腕を引っ張ってくると、その頭を押さえて無理矢理下げさせた。

「申し訳ございません、なんとお詫びしたらいいか……」

「……なんで、衛兵じゃなくて、神父が事件の調査をしてるわけ?」

「エヴァ!」

 母親の腕をかいくぐると、跳ねっかえり娘が不機嫌そうな顔のまま、ネドに尋ねる。「それは――」と言いかけて、一瞬の逡巡の後、再び口を開く。

「他言無用に出来るか?」

「言い触らしたところで、『余所者』の『魔女』の言うことなんか、信じないでしょ、ここの田舎者たちはっ!」

 あまりに反抗的な娘の物言いに、母親が再三再四頭を下げる。リジーから聞いた噂話の通りなら、ここに暮らし、薬草店を営む「魔女」母娘は村人たちから遠巻きにされているらしい。半ば村八分のような状態だとすれば、エヴァという娘の態度も納得がいく。

「人狼が現れた。俺は狩人としてそれを追っている――」

 ネドが簡潔に事情とここまでの調査状況を説明する。

「そのエランドという男が今のところの容疑者だ。なにか知っていることがあれば教えてもらえないか?」

 母親の方は困ったようにその整った眉を下げた。

「申し訳ありませんけど、私は見覚えがありませんわ。母なら何か知っているかもしれませんし、聞いてきましょう」

 どうやら親子三代で越してきたらしく、もう一人いるらしい。もう一つのテントの方に住んでいるのだろうか。

「……私、見たわよ。その男」

「本当か? 教えてくれないか?」

「……いくなら、いいわよ」

「え?」

「何か、うちの商品を買っていくなら、教えてもいい」

「エヴァっ!」

 ついに母親が我慢の限界に達したらしく、その娘とよく似た美しい黒髪を逆立てんばかりの勢いで激高した。

「人がっ、亡くなっている、ことに、対して、なんて、なんて態度ですかっ! そんな子に育てた覚えはありませんっ!」

「何よ、お母さんだって、お金が無いって、誰も何も買ってくれないって言っていたじゃない! 売れるときに売らないでどうするのよ!」

「だからって――」

 親子の言い争いをネドが左手で遮るようにして割って入る。

「エヴァと言ったな。さっきの目潰し、かなり強力だった。あれなら人狼にも効くだろう。一つ用立てて貰えないか?」

「安くないわよ」

 ふふんとネドにも母親にも勝ち誇ったような得意げな顔で、腰に手を当てて胸を張った。

「後で教会に請求しろ」

「それじゃダメ。払って欲しかったら改宗しろとか言い出すに決まってるもの」

 養父から教会の強引なやり方の歴史を多少なり聞かされているネドは彼女の言葉を否定も出来ず、硬貨を取り出し、彼女の言い値を支払った。受け取った目潰しを懐にしまう。

「で、エランドとはいつ、どこで会った?」

「ここに越してきてすぐよ。衛兵が来たから難癖でもつけられるのかと思ったら、ナンパだったの。『食事でも行かないか?』って。何も買わないのにしつこいから目潰し投げつけてやったら二度と来なくなった」

 ネドと母親が揃って、唸るような呆れ声を上げた。

「……君は商売が上手いな」

「あっ、それ皮肉でしょ!」

 娘を叱る母を傍目にネドは思考を巡らせる。どうやらエランドというのはかなり軟派な男だったらしい。方々で女性に声をかけているようだ。そこにかすかな違和感を覚えた。そんな手当たり次第に異性に声をかける男が、粉をかけていた相手が他の男と婚約したからという理由で逆恨みをして、殺人までするだろうか。挙句、人狼にまでなって。普通に考えれば他の女性に興味の対象が移るだけではないだろうか。

 とにかくここの女たちは事件に関係がありそうにも無い。ネドはゆっくりと立ち上がった。目の痛みもだいぶ引いてきた。

「邪魔をしました」

「いえ、お構いもせず……」

「最後に一つだけ。街の鍛冶屋の娘、サラというのですが、ここに来たことはありますか?」

「いいえ。存じ上げない方ですわ」

 母親は娘に視線を送るが、彼女もまた首を横に振った。

「そうですか。ありがとうございます」

 ネドはテントを出た。日光が目に染みる。

 サラを知らない、と言った口振りに淀みを感じなかった。本当に知らないのだろう。彼女たちは人狼ではありえない。やはりエランドを追うべきか。わずかな違和感こそあれど、今のところ彼以上の容疑者は見つかっていない。ネドは方針を定めると街へ向かって歩き出した。


 ネドが街に辿り着くと、その姿を認めた門番が焦った様子で声をかけてきた。そのとき感じた胸騒ぎは彼が口にした第二の被害者発見の報により、現実となった。

 第二の被害者は肉屋の娘だった。サラの亡骸と同じように心臓を喰われ、顔には傷跡が残されている。肉屋の周りには衛兵が取り囲んでいるが、その隙間から大勢の野次馬が様子を覗いている。それもそのはずで、今回の犯行は早朝行われたらしい。ちょうどネドが薬草店を訪れていたその頃、人狼はまだ人通りが少ないながらも、決して無人ではない街中に姿を現し、店頭に商品を並べていた肉屋の看板娘を殺害した。彼女の悲鳴に気付き、駆けつけた両親に姿を見られた人狼は口元から血を滴らせながら、逃げて行ったという。近場にいた早番の衛兵もその姿を目撃している。正義感の強い男だったらしい。人狼を一人追いかけた彼は、鉄剣を握ったまま真っ二つに裂かれた死体となって、路地裏で発見された。そこはちょうど昨夜ネドが泊まった宿から通りを二本挟んだだけの場所だった。

 ネドは思わず歯噛みする。自分が噂に踊らされて薬草店に行かなければ、今朝の段階で人狼を殺せていた。その衛兵も死なずに済んだかもしれない。「何をやってる……!」と思わず己を責める言葉が口をついた。

 知らず早足となり、現場指揮を務める衛兵隊長に、エランドの捜索を協力して欲しいと告げた。身内を疑うことを渋る隊長の元に、別の衛兵がやってきて耳打ちする。

「肉屋の娘ですが、……近隣の者から、過去にエランドにナンパされているのを見たという証言がいくつか上がっています」

「……仕方ありませんな。奴を捜索させます」

「お願いします。重ねてのお願いになりますが、無理に取り押さえようとせず、『隊長が呼んでいた』などと伝えてどこかに呼び出してください」


 その日は当番だったにも関わらず、出勤しておらず、自宅にもいなかったエランドは、その日の夜中になってから街外れの酒場で飲んだくれているところを発見された。昨夜からくだを巻き続けていたらしく、手酷く失恋したという彼の言葉を信じて憐れんだ店主が閉店している店の中に置いてやっていたらしい。そのために発見が遅れた。

 その時点で彼には、第二の被害者である肉屋の娘を殺せたはずが無いというアリバイがあった。

 騒動になったのはその前後不覚で千鳥足の、両脇を衛兵に抱えられたエランドに殴りかかった男がいたからだった。義肢装具店の若き店主イアンだった。サラが亡くなって以来、店を閉じたまま、街を亡者のような顔色でさまよっていた彼が衛兵に連れていかれるエランドを見つけたのは偶然だった。衛兵に確保されているようにしか見えないその状況を見て、彼はネドから聞いた容疑を思い出し、婚約者を殺した犯人に違いないと判断し、復讐のため殴りかかったのだという。

 ネドが現場に着いた時、号泣しながら頭を抱えてうずくまるエランドと、同じく号泣しながら自分を取り押さえる衛兵に抵抗し暴れるイアンが周囲の目を集めていた。

 ネドはエランドの様子を確認する。腰の剣柄に添えられていた左手はだらりと垂らされた。

 ――どういうことだ?

 ネドの頭に疑問符が浮かぶ。エランドの頬はイアンに殴られたせいで酷いあざになっていた。彼が人狼であるならば即座に治っているはずだ。

「離せっ! そいつがサラを殺したんだろっ! 殺してやる!」

「違う、俺じゃない……」

 暴れ、激昂するイアンの声にかき消されるようなか細い泣き声でエランドは言った。そしておそらくそれは真実だ。ネドはイアンの元へと駆け寄り、その肩に手を置いた。

「イアン、彼じゃない。彼は人狼じゃない。すまない、俺が間違えた」

「え……?」

 理解を拒むようにばたばたと振るわれていた手足が、ネドの言葉を噛み砕き理解することで徐々にゆっくりになり、やがて止まった。ネドはイアンを衛兵に任せ、エランドに声をかける。

「エランドだな?」

 うずくまった男はそのままの姿勢でこくこくと頷いた。

「一昨日の夜、サラが殺された時、君はどこにいた?」

「酒場で、酒を飲んでいました……」

「サラが結婚すると聞いたからか?」

「はい……。独身仲間の友達が、誘ってくれて……」

 イアンに殴られたのだろう、頬の他にも目の周りが紫に染まっている。

「サラを恨んでいたわけではないんだな?」

「振られた時は、なにくそって思ったけど、そっちの男といる時の彼女の笑顔を見て、諦めました……」

「肉屋の娘にも声をかけていたと聞いたが?」

「……ごめんなさい」

「別に責めているわけでは無いよ」

「可愛いと思ったので、声をかけました……」

 男は泣いていた。ネドは最早エランドを疑ってはいなかった。この男は軟派で、浮気性で、美人に声をかけずにいられないお調子者なだけなのだ。友人が振られた彼を慰めるために酒宴を開いたのも、酒場の店主が軒先を貸してやったのも、彼の人柄を知るが故だ。

「疑ってすまなかった。君が殴られたのは俺のせいだ」

「良いんです。婚約者が殺されたんだ、まともでいられないことくらい、俺にだって分かります……」

 その言葉を聞いて、こんな男を疑ったのかとネドは自己嫌悪した。

 捜査は振りだしに戻った。どうやら人狼は逃げるつもりは無いらしい。

 詰所にエランドを引き摺って行く衛兵たちに、彼が人狼では無かったことをよくよく言い含めた後、ネドは解放されたイアンを、すっかり夜になってしまった道を連れ歩き、彼の経営する義肢装具店へと送った。

「寄って行けよ」

 イアンに誘われるまま、彼の生活している店と隣接した私室に足を踏み入れる。服が脱いだまま散らかっている。その山のてっぺんに式で着るはずだった白のスーツが投げ捨てられていた。ネドは部屋に取り残された純白のドレスを思い出す。

「ネド、飯は食ったか?」

「いや、まだだ」

「保存食で良ければある」

「そうか。貰おう」

 部屋をやたらと狭く感じるのは、元は隣の部屋にあった家具を移して来たからだと気付く。模様替えの途中だったのだろう。この部屋で新郎新婦はこれから暮らすつもりだったのだから。

 イアンが瓶詰の保存食と、カビの生えていた部分を切り落としたパンをテーブルに並べた。二人は相向かいに腰掛ける。

「……腹が減ったと、思ったんだ。エランドが犯人じゃないと聞かされて、力が抜けた瞬間に、昨日から何も食ってなかったことに気付いた」

 イアンが塩漬けの魚の切り身をパンの上に乗せ、口に頬張る。

「サラがいなくなっても、時間が止まったり、世界が壊れたりしない、ってことにボクはがっかりしてる。当たり前のように腹が減る自分にがっかりしてる」

 ネドも同じように塩気の強すぎる切り身を頬張った。

「分かるよ」

「きっとボクが死んでも同じように、世界は続くんだろうな」

「莫迦なことを考えるなよ」

 ネドの言葉に答えず、イアンは食事を口いっぱいに含んで、噛み続けている。やがてそれを飲み込むとぽつりと口にした。

「いつか、当たり前のようにサラのことを忘れてしまうんじゃないか、って、そのことが怖い。お前が言ったみたいに、彼女の傷付いた亡骸のことしか思い出せなくなったら、どうしようって」

「すまない」

「なんでお前が謝るんだよ」

「余計なことを言った」

 ネドが謝った理由はそれだけではなかった。サラを守れなかったことを詫びたのだ。

 狩人は人狼が発生して初めて呼ばれる。その性質上、狩人に獣害事件の一件目は防げない。人狼が発生してしまった時点でもう手遅れで、言うなれば狩人は最初から負けている。だからサラが殺されたことはネドの責任ではない。それでも彼は深く頭を下げずにはいられなかった。

「いつから、狩人なんて、そんなことやってるんだよ」

「一年ほど前からだ」

「忙しそうにしてたのはそれか?」

「ああ」

 ここ一年は養父と共に狩人として、各地を飛び回っていた。実績が認められ、ネド一人での派遣がされるようになったのはつい最近のことだ。

「腕を壊していたのは……」

「人狼との戦いの中で、攻撃を受けたり、剣を縛り付けたりして壊れた」

「なんでそんな危険なことを……」

「俺の希望だ。イアン、お前に語ったことは無かったが、かつて俺は家族と右腕を人狼に奪われた。教会に拾われる前のことだ」

「復讐、か?」

「最初はそうだった」

「今は違うと?」

「……その気持ちが無いとは言わない。だが、神父様の手伝いをしたかった、という方が今は強い、と思う」

「そうか……」

 雑な食事を腹に詰め込み終えると、イアンは憂いを湛えた表情のまま、椅子に深く体を沈めた。

「泊まっても良いか?」

「監視なんかしなくたって、死んだりしない」

「そうじゃない。街にはまだ人狼がいる。姿を現した時にすぐに動けるようにしておきたい」

「そういうことなら。……昨日はどうしたんだ?」

「エランドの家の近くで宿を取った。彼が動きを見せると思っていたからな。とんだ見当違いだったが……」

「あのあたりだと、リジーの店か……」

 ネドが頷いて返事をする。

「あそこ、料理は悪くないんだがな……」

「何か問題でもあるのか?」

「泊まったなら分かるだろ? 部屋の掃除が行き届いてなかったり、まあ、仕方無いことだが……」

 イアンの口振りにネドは首を傾げた。自分が泊まった部屋は清潔だったし、不満は無かった。料理ももちろん美味だった。

「それにあの不愛想さでは客が寄り付かないだろ?」

 自分の知るリジーは明るい少女だ。イアンとの認識の間に齟齬がある。その時、一つの疑問が頭をよぎった。

 ――何故、イアンにリジーと面識がある?

「事故のことは可哀想だとは思うが、客商売は無理だ。愛想もそうだが、あの脚ではな。俺も努力はしたつもりだが」

「……事故、とは?」

 ネドが絞り出すような声で問う。

「そうか、ちょうどお前が街に居なかった時期か。馬車に轢かれたんだよ。母親は即死で、庇われた彼女も両脚を失った」

 バンッとネドが机を叩いて立ち上がった。その音に驚き、イアンが椅子からずり落ちる。ネドは下ろしていた銀剣をひっつかむと、階段を駆け下り、夜の街へと出た。その後ろをイアンが追う。

「どうしたってんだよ! ネド!」

「お前は家にいろ!」

 ネドが全速力で駆ける。街の東へと向けてひた走り、蹴破るような勢いで古びた民宿の扉を開いたが、中には誰もいなかった。カウンター越しに内部の様子を確認する。派手な赤色が目を引いた。真新しい靴が綺麗に揃えられていた。変身する前に脱いだのだ。お気に入りの靴を壊してしまわないように。

 ――どこだ、どこに行った?

 彼女は今日店の近くで起きた騒動、エランドとイアンの暴力沙汰を知っているはずだ。それに「神父様」が介入したことも。だから彼女は今、「神父様」が街の中にいることを知っている。なら街の外を狙うだろう。ちょうど昨日、ネドが街の外に向かうことを知った彼女が、街の中で人を襲ったのと同じように。

 ネドは制止する門番を「後にしてくれッ!」と振り切ると、街を出て、森へと通じる坂道を一気に駆け上がった。この辺りには明かりが無いため真っ暗だが、ネドは記憶を頼りに走り続ける。前方から女の悲鳴が聞こえて、神父らしからぬ罵詈が口から洩れた。

 テントの明かりに照らされて、怪物、黒い体毛に覆われた人狼の姿が浮かんでいた。その手は真っ赤に染まっている。足元には二人の女性が倒れていた。

「お母さんっ! お母さんっ!」

 エヴァの母を呼ぶくぐもった声が闇夜に響く。彼女に覆い被さるように倒れる母親の背中は人狼の凶爪によって袈裟斬りに裂かれていた。娘を庇って人狼の一撃を受けたのだ。

 その姿が人狼の気に障ったのか、グルルと唸ると、エヴァの首を掴み、その唇を縦に裂くように太い爪を走らせた。鮮血が舞い、悲鳴が上がる。それに昂った人狼が娘の首をへし折ろうと力を込めた瞬間、人狼の手首が闇夜を舞った。エヴァが解放され、地面に尻餅をついて噎せた。


 銀の剣を携えた狩人が、エヴァと母親を背に、人狼と相対する。ネドは視線を逸らさぬまま、剣の柄頭に取り付けた革紐を幾重にも木製の義腕へときつく巻き付けた。

「リジー、君だな?」

「――なんだ、バレちゃったんですね」

 人狼は悪びれもせずに認め、頬が裂けるように笑った。

「イアンをサラに盗られた、とでも思ったか?」

「そうですよ。あの女がなんでイアンさんと結婚を決めたか、知ってます? 実家の鍛冶屋が義肢も取り扱えるようになるからです。父親に楽をさせるために、イアンさんを利用したんですよ。あんな女、彼に相応しくない」

「それを決めるのはイアンだ。君じゃない」

「あの女さえいなくなれば、彼は私を選んでくれる……」

 莫迦なことを、とネドが切り捨てる。

「何を根拠にそう言える」

「だって彼、脚を失くした私に、あんなに優しくしてくれた……。何度も繰り返し励ましてくれた……。好きでもない相手に、そんなことしますか?」

「それは君が客だったからだ」

「そんな訳ない」

「いいや、そうだよ。その証拠にイアンが君に一度でも弱みを見せたり、悩みを相談したりしたか?」

 イアンが明るく振舞うのは、多くの場合、彼の客である身体を欠損した人間は下を向いて歩いているからだ。だからリジーが憧れたイアンの姿は仕事中の彼であって、本当の彼自身ではない。ネドに対してさえ、イアンは基本的にそう振舞う。生前のサラが語ったようなイアンの悩みなど、ネドは彼の口から聞いたこともなかった。本当の彼を知っているのはサラだけだったのだ。

「そんな訳……」

「そもそも脚のことをどう説明するつもりだったんだ? 突然生えてきて治った、とでも言う気だったのか? イアンはその原因を何としても知ろうとするだろうな。そうなれば、君が人狼であることにもそのうち気付く」

「そんなこと、私だって分かってるわよ!」

 ネドの指摘に、人狼が逆上した。

「でも、愛があれば……」

「愛? 笑わせるな。本当にイアンを愛していたなら、彼の幸福を優先したはずだ。君が愛しているのは君自身だけだろう」

「私の愛を汚すなッ!」

「汚したのは君自身だ。嫉妬からサラを襲い、その後は空腹のたびに『街で美人だと評判の娘』を襲った。自信が無かったんだろ? イアンに選ばれる自信が」

 振りかぶった爪を銀剣が裂いた。リジーが痛みに悲鳴を上げて、後ろへと下がる。人狼の視線がネドからわずかに逸れた。後ろのエヴァを狙っている。勝ち目が無いと見て、悪あがきに出ようとしていることをネドは見て取った。

 ――何か、言え。人狼の意識をこちらに向けさせる、挑発の台詞を。

「それとも自分より美人な女を残らず殺すつもりだったのか? もしそうなら、随分気の長い話だな。街に住むすべての女を殺すつもりだったとは」

 人狼の動きがピタと止まった。何を言われたか分からないとでも言うようにぽかんと口を開いている。数秒固まった後、ネドの言葉の意味するところを理解すると、瞳に憎悪の炎を燃やした。

「あなたも、そう思ってたんだッ! お、お前だって、手が無い癖に! かたわの癖に! 殺してやるっ、殺してやる!」

 おそらく彼女自身がかつて言われたのだろう陰口を、怒りに震える声で叫ぶと、我を忘れてネドへと飛びかかった。噛み合わされる牙を回避して、人狼の眼前に目潰しを放った。小さな布袋が解け、粉末を吸い込んだ人狼が地面を絶叫とともに転がり回る。

「いつ、どこで『狼血』を受け取った?」

 銀剣を携え、迫る狩人を、顔中を体液と土とで汚した人狼が睨んだ。

「言わないぃっ! お前みたいな奴に、何一つ教えてやらないっ!」

「そうか」

 ネドは銀剣を人狼の心臓へと、あばらの隙間を通して刺し込んだ。ぐっとくぐもったうめき声を上げると、人狼は数度体を震わせた後、絶命した。銀剣がぬらりと血を滴らせながら、胸から引き抜かれた。

 後ろからすすり泣くような声がした。

 エヴァが冷たくなった母の手を握り、泣いていた。母親はエヴァを守れたことを悟ったのだろう、その表情はまるで娘を安心させようとでもするかのように、優しく微笑んでいた。


 ◆◆◆


 人狼の死体が衛兵詰所に運び込まれ、事件解決の報が流れてから、一日後、犠牲者たちの葬儀が執り行われていた。

 教会の鐘が鳴り、参加者たちが棺の中に花を入れていく。ネドは今、聖職者としてではなく、一人の弔問客として葬儀に参加していた。ネドは列に並び、棺の中のエヴァの母に詫びた。本来異教徒である彼女をマーナ=ベル教式の葬式で弔うことは出来ないのだが、エヴァの家族は越して来たばかりでこの街に墓も無い。ネドが養父にも乞い、無理を言って共に弔ってもらえることになった。

 第二の犠牲者である肉屋の娘と人狼を追って殺された衛兵にも、ネドは許しを乞うように祈る。

 最後にサラの棺を覗き込む。彼女の顔の傷は死化粧師によって、縫われ、白粉を施されたことで、目立たなくなっていた。自分の前に棺を覗いたイアンが涙をこぼした理由、鍛冶屋の店主が何度も娘の頬を撫でた理由が分かった。ネドは白百合の花を眠るサラの顔の横に置き、十字を切った。彼女と初めて会った時の景色が脳裏によみがえった。右腕の無い自分に石を投げる男の子たちを幼いサラが箒を持って追い掛け回す光景。おやすみ、サラとネドは小さく呟いた。

 教会の鐘が鳴り、棺が運ばれていく。

 その様子を遠巻きに見ていたネドの横に、いつの間にかエヴァが並んでいた。彼女の顔には、鼻下から顎にかけて、唇を裂くように、人狼の痛々しい爪痕が残されていた。

「……ありがと、お葬式のこと。……あなたが掛け合ってくれたって聞いた」

「いや、俺は何も……」

「喧嘩したの。あなたが帰った後。でも……。……お母さん、最後に笑ってた。私が助かって良かったって言ってた」

「すまない」

「なんで謝るの?」

「俺がもっと早くに人狼を殺していれば、彼女は死なずに済んだはずだ」

「……そう」

 エヴァは短く答えると黙り込んだ。二人の間に沈黙が流れる。

「もしご母堂の墓を移したくなったら言え。最大限協力する」

「何、この街から出てけってこと?」

「そうじゃない。だが辛い思い出ばかりだろう、この街には」

「そうね。ホント、碌なとこじゃないわ」

 私たちね、と、エヴァが語る。

「ここよりもっとずっと東の国から逃げてきたの。殺されるか、その国の男の子供を産むしか無かったから。あの国で一番多い奴らにとって私たちは『間違った民族』で、『血が汚れている』んだって。ここは碌な場所じゃないけど、あそこよりはマシ」

 それにもう一回移住するにもお金が無いわ、と彼女は笑った。

 エヴァの祖母は足が悪いらしく、長距離の移動には籠なり、馬車なりを雇わなければならないそうだ。娘の納棺を確認した老婆は今もまだ一人教会の椅子に背中を丸めて座っていた。

「だから責任感じているなら、私たちがこの街で生きて行けるように協力してくれない? 神父様が買い物してる店なら、そのうち人も来るでしょう?」

 したたかだな、とネドはかすかに笑った後、訂正した。

「俺は神父じゃないよ」

「そうなの?」と首をかしげてから、「まあ、どっちでもいいわ」と言って、別れを告げると、祖母の元へと戻っていった。


 見送ったネドの背中を、バンッとイアンの手の平が叩いた。

「なんだ、あの娘は? 知り合いか? いいのか、神父様の癖に?」

「そういうんじゃない。それに、俺は神父じゃない」

 にやにや笑うイアンの目の下には深い隈がありありと浮かんでいた。無理をしているな、とネドが考えたことを悟ったのか、イアンの表情が真顔に戻る。

「なあ、ネド。例えばだけど、銀で義腕を作ったら、殴っただけで人狼は死ぬか?」

「なんだ急に……。ただの銀じゃダメだ。聖別された銀で心臓か脾臓を突かなければ死なない」

「じゃあ聖別された銀で作った、剣付きの義腕なら?」

「人狼の血を浴びるたびに聖別の効果は徐々に失われていく。持続性が無さすぎる。それに普段からそんなものをぶら下げて歩くわけにも行かないだろう」

「なら、聖別した銀を銀で囲うような形にすれば、どうだ? もし聖別した銀と聖別していない銀、両者を接触させたときに、後者にも聖別の効果が乗るなら、人狼の攻撃に耐えられる上に、ある程度血を浴びても聖別の効果が失われない義腕を作ることが出来る」

「それは、……分からん。検証したことも無い……」

「じゃあまずはそこからだな」

「おい、ちょっと待て。何を始めるつもりだ」

「お前に必要な腕を作るんだよ。よし、なんかアイデアが湧いてきたな。店に戻って早速試作してみるよ」

 そう言って、イアンは街の方へと戻っていく。その途中で振り向き告げた。

「これで足手纏いとは言わせないぞ」

「……悪かったよ」

 少しその表情に生気が戻ってきたことを確認して、ネドは一人安堵した。その銀の腕を作るという計画に彼が生きる希望をかすかでも見出したというなら、ネドとしては止める理由は無かった。

 イアンの背中を遠くに見ながら、ネドは考える。どうせ作るなら、剣をより早く、より強く握れる仕組みにしてほしい。そうすればもっと大きな純度の高い銀剣を利用できる。例えば手の平の大きさを可変式にしたり出来ないだろうか? 振った時にすっぽ抜けないように剣の柄も波型にして、義手の指部分とぴったり合うようにすればいいのではないか? オヤジさんにも相談してみよう。

 そこまで考えてから、鍛冶屋の主人の姿が無い事に気が付いた。葬儀中は確かにいたはずだ。だがサラの棺が納められた墓石の前に彼の姿は無い。胸騒ぎがして、知らずと歩みが早まった。

 ほとんど走るような速さで店主の姿を探しながら、鍛冶屋への道のりを辿る。店の扉を開けると、カウンターの向こうで梁に掛けられた縄で、店主が首を吊っていた。ネドは鞘から剣を抜き放ち、跳び上がりざまに縄を斬った。店主の体が床に落ち、青い顔で激しく噎せこむ。まだ生きていた。

「げほっ、げほっ。……自分で、鍛えた刃に救われるとは、な」

「何をやってるんだッ! あんたはッ!」

 青紫色の顔をして皮肉気に笑う店主の胸倉をネドの左腕が掴んだ。店主のまなじりに涙が浮かんだ。

「あの子がいないんじゃあ、俺にはもう生きている理由が無ぇんだよ……」

「だからって、こんなこと、サラが見たらどう思う!?」

「いないじゃねえかよ……、サラはもう」

 ネドは店主の右肩を掴み、その両目を見た。

「オヤジさん、俺が悪いんだ。俺を責めろ、サラが死んだのは俺がしくじったからだ」

「莫迦言うんじゃねえ、クソガキが……。司祭様に言われてんだ、一件目はどうやっても防げねえと。ネドを責めないでやってくれと。剣を見ればお前がどれだけ危険な仕事をこなしてるか分かる。……でも、それでも、思わずにはいられねえんだ。なんで、サラを、あの子を守ってやってくれなかったんだ、って……」

「そうだよ、俺のせいなんだ……」

「お前のせいな訳あるか、人狼のせいだ……!」

 ネドが使おうとしたのは責任の矛先をすり替えるという「魔法」だったが、図らずも彼を思う養父の言葉によって妨害された。だからネドは不本意ながらも、逸れた矛先を利用せざるを得なかった。

「……。……そうだ、人狼のせいだ。だから、これから、俺がもっと人狼を殺すから。オヤジさん、協力してくれ。もう二度とサラのような人を出さないために。俺には銀の剣は打てないんだよ」

 ネドがそう言うと、蚊の鳴くような声で店主は答えた。

「ああ……。分かったよ……、分かってるよ……」

 ネドが彼の肩を放すと、支えを失った彼はがっくりと肩を落とし、また思い出したように啜り泣いた。


 ネドは一人暮れなずむ道を街の外の教会に向けて歩いていた。

 鍛冶屋の店主のことは心配だったが、ずっと自分が付いているわけにもいかない。イアンや衛兵たちに彼のことを見ておいてくれるように頼み任せてきた。衛兵の中でもあのエランドという男が、彼自身にも思うところがあったのだろう、任せてくれと言っていた。

 寝床に帰る鳥が、ネドの頭上で鳴いた。彼の前にも後ろにも、他に人の影は無かった。ぴたりとネドの足が止まった。

 右腕が振り上げられ、その木製の義腕が太ももに力任せに振り下ろされる直前で、止まった。

『もっと大事に扱ってくれよ!』

 かつて言われた言葉が、ネドの右腕を止めた。その代わりに、音が鳴るほど奥歯を噛みしめたせいで、口の端から赤い雫が垂れた。

 ――なぜ俺は、サラを殺したのが男だと決めつけた?

 サラの遺体の状況と、彼女が結婚を目前に控えていたことから、犯人の動機が嫉妬からくる怨恨であることは想像がついていた。だが、その時点では人狼が男であるか女であるか、判別がつかなかったはずだ。にも関わらず、知らず知らずのうちに犯人像を男に固め、エランドという無関係な男を追い、結果出さなくてもいい犠牲者を出した。何故か? それはその感情がネドの中にもあったものだからだ。リジーが「人狼が女だ」と知っていたから、人狼の候補に街の外れに住む女たちを挙げたように、ネド自身が知っていた情報に引き摺られた。

 やっと一人で仕事を任せてもらえるようになって、慣れたつもりでいた。「神父様」などと呼ばれ、才能も無いくせに衣装だけもらって司祭になったと思い上がった。挙句の果てに、ありもしない「魔法」などと称した詐術で自らの失態を棚に上げた。

 ――なんという欺瞞。人に「神父」と呼んでもらう資格などお前には無い。

 あの日と同じ、橙色に染まる景色の中に、サラの姿を幻視する。

『ありがとうございます、神父様』

『なかなか堂に入ってたんじゃない、神父様?』

 笑って手を振る彼女の影に、ネドは一人ぽつりと呟いた。

「俺は神父じゃない」

 ただ人狼を殺すことしかできない、狩人だ。

 ただの、人殺しだ。


 ◆◆◆


 目を、開く。

 寝床から起き上がり、部屋を見渡し、自分が帰路の途中の宿にいることを思い出す。

 人狼退治の際には朝日が昇るまで起きていることも多い。仕事を終えた後は、生活リズムを戻すために少しずつ眠る時間をずらして調整する。窓の外はまだ真っ暗だった。

 ネドは司祭平服に着替え、宿の廊下に出た。他の者を起こさないように気を付けたつもりだったが、隣の部屋の扉が開いて、眠そうなディムナが顔を覗かせた。

「……どこか行くのか?」

「散歩だ。目が覚めてしまってな」

「ふぅん……」

 そう言って、欠伸をすると部屋の中に首を引っ込めた。

 宿の外には明かりも無く、町全体が寝静まっているかのようだ。夜風がネドの髪をさらう。

 夢を見た。

 懐かしい夢だった。失敗と決意と痛みに満ちた夢。

 かつて自分はその失敗を教訓として、狩人たれ、と己に言い聞かせた。神父としての資格も才も無いのだから、と。それで良いと思っていた。

 だが、それではこの世界から人狼がいなくなることは無いのだと、面と向かって言われたことがある。自分はそれを知っていたはずなのに、知らぬ振りをして、必要とされているからと言い訳をして、今なお狩人のままでいる。

 それは逃げなのではないかと、最近思うようになった。

 己が人狼に殺されるか、年老いて戦えなくなる日まで、人狼を殺して、殺して、殺して……、その先に何がある? 新たな人狼の発生だ。

 先人たちが、養父が、自分がやってきたことを間違いだとは思わない。

 でもいつか、間違いになる日が来ればいい、とネドは思う。

 人狼を治す薬が見つかって、人狼を殺してきた狩人たちが不要になって、それまでの行いを人殺しだとそしられるそんな日がきっといつか来る。

 ――その時に、俺はきっとこの血に汚れた手のあがないをするのだろう。

 ネドは前も後ろも見えぬ暗闇の中、左手を義手に組み合わせるようにして、今はただ一人の信徒として、己が主に祈った。


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