とある村の神父様
アングレーズ神父は陽が昇るのよりも早く起きると、寝具を整え、顔を洗ってから礼拝堂へと向かった。
扉を開けると先客がいた。
祭壇の前でひざまずき、祈りを捧げている男の後ろを通り、邪魔をせぬよう規則正しく並べられた備え付けの座席へと黙って腰を下ろす。
総白髪の老いた神父は祈る男の背を眺めていた。着古した司祭平服の右袖から覗く木製の義手は膝の上に置かれている。左手で持ち上げ、額に当てられている十字架は老神父が首から下げている物と同じだ。
男は祈りを終え、立ち上がると、十字架を首へとかけ直し背後の老神父と向き合った。静かに入ったつもりだったが気付いていたらしい。
「おはよう、ネド。今日も早いですね」
老神父の挨拶にネドと呼ばれた男はわずかにうなずいて答えた。遅れて黒髪が揺れる。
「おはようございます、神父様」
「頼まれていた装備の聖別は済ませてありますよ」
「ありがとうございます。今日はこれから鍛冶屋と薬屋に行かないといけないので帰ってきてから拝領します」
そう言うとネドは席横に立て掛けてあった空の背嚢を持ち上げて、左肩へと引っ掛けた。
「いってらっしゃい」
「はい。いってまいります」
軽く会釈をして礼拝堂を出ていくネドの背中を、老いた神父は立ち上がって見送る。しばらくそうしてから、今度は彼が祭壇の前にひざまずき、先程まで息子がしていたのと同じように、祈りを捧げた。
ネドは教会を出て、砂利道を下り、牛車の轍で出来た道を通って街へと向かう。
道すがらぽつぽつと見えるあばら家の横にはなめし途中の皮が吊られている。牛の皮を木のこん棒で叩いている背の曲がった男がネドに気付いて深々と頭を下げた。
「おはようごぜえます、神父様」
「おはよう。これから街に行くが何か入用かな?」
神父ではない、と否定をしたかったが、この老人は何度言っても自分のことを「神父様」と呼ぶため、ネドは訂正するのを諦めた。
「皮を引っ張っておくための金具が曲がっちまいまして。ちょうど新しいのが欲しかったところで」
「分かった。ついでに買って来よう。花も供えてくる」
「ありがとうごぜえます。毎度助かります」
老なめし職人があばら家に戻って、がたがたと音を立ててから戻って来た。手製だろうか紐付きの小さな革袋を両手に握りしめている。
「これでよろしくおねげえします」
ネドは十字を切って祈りの言葉を捧げてから革袋を受け取った。チャリと中の硬貨が擦れる音がした。
老人は空いた手を組み合わせて祈る。ネドは革袋を背嚢にしまうと彼のためにもう一度祈りの言葉を口にした。
牛車の轍を辿って、牧場の横を抜け、小麦畑を抜け、さらにしばらく歩くと石造りの物見櫓が見えてきた。
街に入るための待機列に並んでいると、ネドの前にいた牛を連れた髭面の商人が、司祭姿に気付いたのか順番を譲ってくれた。ネドが礼を言うと、彼は両手を組んで祈りを捧げたため、ネドは彼のために祈った。
門番をやっていたのは顔なじみの衛兵だったため、軽く手を挙げて挨拶をする。
「おはようございます、神父様」
「おはよう。……俺は正確には神父ではないんだが」
「まあまあ、このあたりの人間にとっちゃ区別なんかつきませんから」
そんな莫迦な、と口の中でもごもご言っているネドに、ほとんど何の検査も無しに衛兵は通行許可を出す。
一歩踏み込むと今までの人の足で踏み固められて出来た道とは違う、石畳の強く反発するごつごつとした感触が司祭用革靴の底から伝わってくる。
棄民たちが住むあばら家とは違い、整然と並べられた綺麗で堅牢な建物が立ち並ぶ街並みをネドは歩く。ネドの姿に気付いた住民は会釈をしたり、祈りを捧げたりと思い思いの行動を取る。
目当ての鍛冶屋に辿り着くころには周囲の店が開き始め、通りに無数の人の声が響いて、にわかに活気づいてきた。
金具の付いた重い木の扉を開くと、店の奥から仏頂面の店主が顔を出した。
「おはよう、オヤジさん」
「……ああ。来な、出来てるぜ」
小柄な横に広い店主の後ろをついて行く。店の奥の工房の棚に置いてあったクロスボウをネドに手渡す。左手のみで装填できるように巻き上げ用の歯車機構のついた特注品だ。
「今度は失くすなよ」
「ありがとう。助かるよ。あとお使い頼まれてて。皮なめし用の留め具なんだけど」
クロスボウを背嚢にしまい、店に戻り、なめし職人から受け取った金で使いの品を購入する。
「腕の調子はどうだ」
「良いよ。前より軽くなった」
「その分耐久性が落ちてる。倅が帰ってきたら見てもらいな、俺は専門じゃねえ」
「イアンはまだブランシアから戻ってこないの?」
「ああ。便りもねえ。どっかで野垂れ死んでんのかもな」
「またそんなことを」
話題は自然と不在の義肢装具士へと移った。
「俺もあいつも業な生業だな。戦争のおかげで飯が食える」
「懺悔なら聞きましょう」
ネドが胸元の十字架に手をかけると、鍛冶屋は鼻で笑った。
「はっ、神なんぞ――、いや、これは神父様の前で言うことじゃねえな」
「俺は神父じゃないよ」
「いいや、お前さんは神父だよ。奴らを殺す限りな」
二人の間にわずかに沈黙が流れて、ネドは一層強く十字架を握る。ネドは彼らのために祈ろうとして止めた。彼らはそれを必要としていないし、信じてもいないから。
店主に礼を言って、鍛冶屋を後にして、街の共同墓地に足を向ける。
墓参者目当ての花売りのかごから一束購入し、老なめし職人の娘が眠る墓に供えて祈りを済ませると、入って来たのとは違う方向に街を出た。
牧場の反対側、鍛冶屋街に近い出口は少し歩くと山道になっており、しばらく林道が続いたのちにうっそうと生い茂る森になる。
その町はずれの森の入り口に小さな森小屋がある。小屋の前には小規模な畑が耕されており、このあたりでは滅多に見かけない珍しい植物が栽培されている。小屋の横には布をつぎはぎして作られた天幕を使ってテントが建てられている。
小屋の扉をノックすると、小さく隙間が開いた。
「俺だ」
「早いわね相変わらず……」
あくび交じりの女の声が気だるげに言う。
「もう昼だぞ」
「ちょっと待ってて。準備出来たら呼ぶからお婆ちゃんの相手でもしてて」
隙間から白く細い腕がにゅっと出てきて、テントを指さすと、引っ込んでばたんと音を立てて扉が閉められた。はあ、とネドはため息をつく。
厚い天幕に覆われた薄暗闇の中で、老婆が煙管に火を着ける。獣の骨を彫って作られたそれは、白骨特有の汚らしい垢のような黄ばみも相まって異郷の呪術的な、すなわち邪教的な印象を受ける。
老婆は一息煙を吐き出すと、その呪具を器用に片手で回転させ、吸い口をネドに向けて差し出した。吸え、ということだ。
口を付けて軽く吸い込む。嗜好用のそれではないため、煙を肺には入れず、天幕上の橙色の小さなランタンに向けて吹かした。
紫煙が渦を巻き、ゆっくりと落下しながら、やがて空気に混ざり、薄れ消えていく。老婆はそれをじっと見ていた。
「狼よ」
煙が完全に消えるとやがて老婆が口を開いた。
「俺をそう呼ぶのは止してくれ」
ネドが心底嫌そうに訂正を求めるが、老婆は聞く耳を持たずに占いの結果を告げた。
「鹿を追うがいい」
「鹿?」
これまでに聞いた占いでは出てこなかった単語に眉をひそめる。
「鹿を追って降りた谷底にお前という矢が射るべき敵がいる。だがお前の放った矢より速くお前の敵は駆けるだろう。狼よ、用心せよ。お前に向けて矢が放たれた。矢に射抜かれぬためには矢よりも速く駆けねばならぬ」
その時パッと天幕の入り口が持ち上げられ、人工的なランタンの明かりが日の光に上書きされた。
「準備できたわよ」
と言う女の声に「ああ」と短く返事をして、ネドは立ち上がった。
「じゃあな婆さん。また来るよ」
出ていくネドの背中に老婆が暗闇の中から声をかける。
「駆けよ、狼よ。いずれお前の矢がお前を射抜くその時まで」
「お婆ちゃん、なんて言ってた?」
外設された天幕を抜けて、息を吸う。煙が淀む空間に居たせいか、森の空気が心地よい。声をかけに来た女の後を着いて、苔むす小屋の中へと入る。ツンと鼻を突く臭いがする。薬品と火薬の臭いが混ざり合っている。
ネドは椅子を引き寄せて腰掛ける。
「鹿を追えと。あとはいつもの矢がどうとか言うやつだ」
今日は外れだな、とネドは思った。あの老婆の占いにはごく稀に西に行けなどと具体的な内容の時がある。そういう時は潜伏している人狼の数までぴたりと言い当てたりしていて、すわ予言かと思わされる。だがほとんどは意味不明な警句で終わる、今日のように。
ネドはあの占い師の言葉を信じているつもりはない。そもそも宗教が違う。
目の前の寝坊助の薬草師の女が、毒薬や火薬の準備をしている間の時間潰しとして、彼女の話し相手をしているだけだ。
「……相変わらず俺のことを狼と呼ぶ」
不満そうなネドの顔を見て、女の目尻が下がる。女は胸元の開いた寝巻の上に一枚羽織っただけのしどけない姿だったが、そのだらしなさとは対照的に口元はしっかりと紫色のヴェールで隠している。女がヴェールに引っかかった長い髪を指で外し、持ち上げて耳へとかける。
「ならそれがもっとも相応しい呼び方なのよ。狩人、神父。どちらもあなたの一側面でしかない。あなたの星を見るには狼と呼ぶ必要があると言うことよ」
「止めてくれ君まで」
もう十分聞いたと左手をぱたぱた振ると、ふたたび女は顔を覆うヴェールの奥で笑った。ネドは硬貨を積んで確認を促す。横にはいくつかの小壜が並べられている。
「あなたのことを神父様と呼ぶのは正しくないでしょう?」
「司祭ではなく侍祭だからな」
「でも教会に頼むことが出来ない人々にとって、結婚式で誓いの言葉を促すあなたは、お葬式で死者の安寧を祈るあなたは、間違いなく神父様なのよ」
薬師は商品の一つである壜をその白い指で絡め取って、軽く振った。中の液体がちゃぷちゃぷと音を立てる。
「例えば私がこの毒を人に使ったら、私は魔女でしょう? あなたがこれを人に使ったとしてもこの毒を作ったのは魔女ということになる」
「そんなことはしない。これは人狼を殺すためにしか使わない」
「それはつまり私は人狼にとっての魔女ということよ」
魔女は壜をネドへと手渡す。それを受け取って背嚢へと仕舞う。壜同士がぶつかって割れないように個室を区切った専用のスペースにすっぽりと納める。
「君は魔女ではない。薬草師だ」
それも優秀な。そうでなければ今頃天幕の中の彼女の師匠もろとも邪教徒として迫害されている。彼女の処方する薬が適切で、効果があるから、社会は彼女たちを受け入れた。彼女たちは過去に罪人であった棄民とは異なり、街に入る許可がある。ただ望んでそうしないと言うだけで。
「いいえ。魔女よ。魔女でありたいと私が願ったの」
女は己の顔を下半分を覆うヴェールごと撫でた。その下には今なお痛々しく狼の爪痕が残っていることだろう。かつて彼女を襲った人狼は喰いさしの証を彼女の顔に付けたのだ。
「ねえ狩人様。今回も私、結構お勉強させて頂いたのですけれど……」
瞳の奥に憎悪が焼き付いたまま、自称魔女は猫なで声を出す。
「聞かせてくださらない? 私の毒でどんな風に人狼を殺したのか……」
ネドは素知らぬ顔で商品棚を物色する。
「目潰し用に香辛料もいくつかくれ」
「もう。つまんない男」
わざとらしく膨らませた頬に持ち上げられて、わずかに浮かび上がったヴェールを彼女がさっと手早く押さえたのを、ネドは見て見ぬ振りをする。
「神父に何を求めてるんだ」
「あら。神父じゃないんじゃなかったの?」
先程の自分の仕草を誤魔化すようにけらけらと自称魔女が笑う。ネドは眉をひそめたが怒りはしない。代わりに祈ろうとしてそれも止めた。彼女もそれを必要としていない。