狩人の見る夢1
雲の隙間から差した月明かりが、夜の闇を駆ける一匹の獣の姿を浮かび上がらせた。
全身を覆う黒く太い体毛、犬のように長く伸びた鼻先、人間の体躯をゆうに二回りは超える巨躯を持つ人食いの怪物人狼は、その頬まで裂けた口から長い舌をだらんと垂らして、息を荒げて野を駆けていた。
女子供を好んで襲い、数日前からとある農村を恐怖の底に陥れた人狼は、今夜も昨夜までと同じように狩りに出た。人狼になってからというもの力が漲り、これまでの自分がなんと惨めでちっぽけだったかを思い知った。昼に気に入らない奴がいれば、その夜に殺せばいい。今の自分にはそれを実行するだけの力がある。そしてそれはその権利があるのと同義だと人狼は考えていた。
人の体を、服と同時に脱ぎ捨てて、夜空に向けて高く雄たけびを上げる。それだけで村の連中が各々の家の中で恐怖に息を殺すのが分かる。気分が良かった。
人狼は夜道を我が物顔で歩き回り、獲物を探したが、どこにも人の影は見当たらなかった。村長が人狼の存在を村の衆に伝え、夜中に出歩くことの無いように言いつけたからだ。余計なことをする。お前たちは人狼である俺の餌であるべきなのに、逆らうな。気分良く殺させろ。
そこで人狼は思いついた。では人狼に逆らった見せしめとして村長を殺そう。あの家には孫娘もいたはずだ。ついでに腹も満たせる。一石二鳥だ。
村長の家の壁を引き裂き、蹴破るようにして中に入る。村長とその家族は集まって、一番小さな孫娘を庇うように虫みたいに固まっていた。それを見た人狼の頭に血が上る。
差し出せよ。娘を差し出して自分の命乞いをしろよ。あの時の、娘を身売りした時の俺みたいに。
皆殺しにすることを決めた人狼が右腕を振りかぶる。鮮血が舞う。
人狼の喉から咆哮のような絶叫が響いた。凶爪はその獲物を裂くことなく、ぼとりと床に落ち、人狼の手首からは噴水のごとく真っ赤な奔流が迸る。
人狼は振り向きざまに残った左腕を振るうも空を切るばかり。己の一撃を紙一重で回避したその人物、先程己の右腕を斬り落とした男は人狼を誘うようにトントンッと数回に分けて後ろに跳んだ。振るう爪が彼の黒髪を掠める。しかし掠めるだけだ。それでムキになり、その男を追い駆けるまま、人狼は村長の屋敷の外へと引き摺りだされていた。
月明かりが男の姿を照らす。
夜に紛れるような闇色の司祭平服。無造作に伸ばされた黒髪、夜の闇とほとんど変わらない黒目。見る者に若い狼のような印象を与える男が月明かりに照らされ、立っていた。最も目を引くのは右腕だ。前腕の半ばほどから伸びるそれは木製の義手だ。そこに革紐を何重にも巻いて青白く光る銀の短剣を固定している。
銀剣からは血が滴り、庭の土に染みを作っている。先程の背後からの一撃はあの武器によるものだったのだ。
人狼は混乱していた。
自分は人を脱皮し、人を上回る存在になったはずだ。なのにどうして人狼である俺に逆らう? 人はただより強い者に平伏して生きていくしかない。かつての自分がそうだったように。
だがどんな人間よりも強いはずの人狼となった自分に歯向かう存在がいる。彼にはそれが理解できなかった。そして理解できぬまま右腕の痛みに引き摺られるようにして、その場から逃げ出した。
黒く太い体毛に覆われた影が、蜘蛛の隙間から差す月明かりに照らされながら、野を駆ける。右腕の傷が回復しない理由も分からぬまま、血を垂れ流しながら、人狼は駆ける。やがて川へとぶつかり、上流と下流どちらに向かうべきかと考え、そして足音に気が付いた。
人狼が思わず音のする方向に視線を送る。夜の闇の中に先程の司祭平服の男が浮かび上がった。ヒッと獣の口から思わず悲鳴が漏れた。血を追ってきたのだと今になってようやく気が付いた。するべきだったのは川の中に入って、痕跡を消すことだったのだ。人狼は転げ落ちるように川に入る。小石に足を取られ、水しぶきを上げて転倒した。
起き上がろうとして咄嗟に右腕を川底に突き、傷口に尖った石が刺さり、唸った。ばしゃばしゃと音を立てる人狼の体に月明かりを遮るように影がかかった。眼前まで司祭平服の男が迫ってきていた。男は右の義腕を振りかぶる。
「許して……」
人狼は思わず左手で顔を庇い、震える声で呟いた。
司祭平服の男、狩人は命乞いする人狼の左腕を斬り落とすと、返す刀で聖別された銀の刃をその心臓に刺し入れた。
人狼の喉からくぐもった涙まじりの声が漏れ、その後はもう二度と動かなかった。
狩人は左手で首からかけている十字架を麻紐を手繰って取り出すと、月明かりの中静かに祈りを捧げた。
人狼の心臓から、銀剣を引き抜き、義腕に巻き付けた革紐の縛めを解く。緩めた拍子にぽとりと木製の人差し指が外れて落ちた。
◆◆◆
石造りの物見櫓の下門を通り抜け、ネドは街へと入った。
右袖がゆらゆらと揺れている。普段使いの木製の義腕は司祭平服に背負った背嚢の中に収められている。先日の人狼との戦いの際、革紐できつく締めつけ過ぎたために指部分を破損した。元の位置に嵌めこもうとしたのだが、中の金具が曲がったのか、弄るたびに木片がぽろぽろと零れ落ちてくるようになったので安置し、専門家に見せることにしたのだ。
「壊れた」
「壊した、だろ」
装具店の扉を開けたネドの右袖を見て、店主のイアンは顔を歪ませ、更に彼が背嚢から取り出した、義腕の亡骸とでも呼ぶ方が相応しい代物を見て、嫌な予感が的中したとばかりに目を覆った。
「もっと大事に扱ってくれよ!」
昔馴染みがなにやら危険な仕事を始めたらしいという噂は耳にしていたが、ここ一年ほど彼が持ってくる義腕の修理の頻度が跳ね上がっていることに、イアンは疑問を隠さずにはいられなかった。
「いったい何に使ったらこんな壊れ方をするんだ……?」
鍬でも括りつけて畑仕事の手伝いでもしたのだろうか。だがそれにしては義腕に残る締め付けの痕があまりに痛々しい。まるで絶対に外れてはならない何かを無理矢理に何重にも縛り付けたかのような痕跡だ。
「それは……」
「言えないんだろ。分かってるよ」
普段のイアンであれば事情を聞きだそうともう少し食い下がったかもしれない。しかし、今日は彼自身ネドに打ち明けねばならない話があったために、そちらに意識を割かれ、思わず二人の間に沈黙が流れた。イアンが憮然とした表情のまま義腕を手に取り、解体していく。ぽろぽろと木片が零れ落ちる。
義肢にはそれぞれ使い道という物がある。同じ義足でも使用者が走りたいのか、ただ日常生活を送れればそれでいいのかによって使うべき素材も形状も変わってくる。ネドに提供しているのは普段使いのための、外見の奇異さから人の目を引かないようにするための義腕だ。職人の誇りにかけて丈夫には作っているつもりだ。だが、何かを括りつけたり振り回したりするための物ではない。だがネド自身の口から何に使っているのかが聞き出せなければ、イアンとしては対応の仕様がなかった。
義腕内部に使っている金属の歪みを確認し、これは即日で直せないと判断すると、イアンは店の奥から旧型の木製義腕を取り出してネドに手渡した。
「しばらくそれで過ごせ。直ったら連絡する」
「助かる」
ここで着けてけよ、と告げて、ネドを義腕ごとカウンター横の試着室のカーテンの向こうに押し込んだ。ごそごそと衣擦れの音が聞こえたのを確認してからイアンは打ち明けることにした。まるで懺悔のようだと思いながら。
「ネド」
「なんだ?」
「サラに結婚を申し込んだ」
ぴたりとカーテンの向こうで音が止んだ。
「彼女は、受けてくれた」
「そうか」とカーテンの向こうの声が素っ気なく返すと、また着替える音が続いた。やがて司祭平服の袖の下に義腕を着けたネドがカーテンを開けた。彼の顔にはかすかな笑みが浮かんでいる。
「おめでとう、イアン」
「ああ、ありがとな」
「式はいつだ?」
「来月にでも」
暫しの沈黙の後にネドが呟いた「オヤジさんがよく認めたな」と紛れもない本心からの呟きにイアンは思わず噴き出した。
「だろ! ボクも未だに嘘じゃないかと疑ってる!」
「サラが説得したんだろうな」
「じゃなきゃ認めるわけ無いよなあ……」
鍛冶屋のオヤジの石頭と一人娘への溺愛ぶりはこの街では知らぬ者はいない。彼は若くに妻を亡くし、その後男手一つで娘を育ててきたのだ。
「ネド。一つ頼みがあるんだ」
一頻り笑った後に真面目くさった顔をして、イアンがネドに向き直った。
「ボクたちの結婚式で司式をしてくれないか?」
ネドの眉間にわずかに皺が寄った。
「イアン、俺は司祭じゃない。正式に神父様に頼め。俺からお願いしてもいい。せっかくの式なのに俺のような未熟者に頼むなよ」
「でも最近はずっとその司祭平服を着ているじゃないか。それに葬式も請け負っていると聞いたぞ」
「それは、……それとは話が違うんだ」
ネドが思わず言い淀み、視線を逸らす。言い訳を探し、思いついた物を口にする。我ながら本当に未熟だと呪いながら。
「サラが嫌がるだろう。結婚式に紛い物の神父では」
しかしネドが必死にひねり出した言い訳を聞いて、イアンは我が意を得たりと笑った。
「これはサラの案だ。彼女が言い出したことだよ」
誘導されていたことを知り、ネドが口を噤む。
「頼むよ、ネド。ボクも彼女もお前に頼みたいと思っているんだ。サラの話を聞いてからでも良い。考えておいてくれないか?」
あまりに穏やかに、幸福そうに長年の友人にそう微笑まれては、無下にすることも出来なかった。
イアンの義肢装具店を出た後に、ネドは足を鍛冶屋へと向けた。以前の仕事で刃の欠けた銀剣を修理に出していたので、引き取りに行く予定だったのだが、結婚の話を聞いて、用事が一つ増えた。
店舗の扉を開くと、備え付けられた来客を知らせるベルが鳴る。カウンターの向こうで看板娘が微笑んだ。
「いらっしゃいませ! って、なあんだ、ネドか」
ネドの姿を確認すると、来客用の声音が崩れた。
「なんだとは挨拶だな。修理を頼んでいた物を受け取りに来た」
「はいはい、ちょっと待っててね」
サラはそう言って店の奥へと引っ込むとしばらくしてから戻ってきて、鞘に納められた銀剣をネドへと手渡した。
「お代はもういただいてるって聞いてるよ」
「ああ」
外から見えないようにネドは銀の片手剣に白布を巻いて隠し、背嚢へとしまう。納まりきらず一部がはみ出している。
「何に使うの? 銀の剣なんて。教会の儀礼用?」
それにしては随分と修理の注文が多い気がする。だが、ネドは「そんなところだ」と答えるばかりだ。修理した本人である父に尋ねても「客の事情を詮索するんじゃない」とぴしゃりと言われてそれきりだ。父が街の外の教会の白髪の神父様とこそこそ話していたことを知っているサラとしては、事情を知らぬはずが無いという確信があった。どうやって聞き出そうと思案するサラに、ネドが微笑みかけた。
「結婚すると聞いた。おめでとう」
「えっ、あっ、うん! そうなの、……ありがとう」
サラの顔が思わず赤く染まる。素直な照れる気持ちと、お祝いの言葉を投げてもらったというのに自分は内心噂話のネタを探していた恥じらいが交じり合った物だが、そんなことはネドには知る由も無い。
「イアンが、俺に司式をしろと依頼してきた。君の案だと」
「うん、……お願いできる?」
「君がそれで良いなら構わないが、俺としてはきちんと神父様に頼んだ方が良いと思う」
「ネドは私たちのこと良く知っているじゃない」
「神父様だってそうだろう」
「それだけじゃないの。……ネドはさ、いつか神父様の跡を継いで司祭になるんでしょう?」
「……」
ネドはサラの問いかけに何も答えない。それは彼自身の願いではあったが、自身にその才が無い事を彼は痛いほど良く知っていた。
「いつか、いつかね、神父様になったネドが私たちの子供に洗礼をして、日曜日にはミサでお説教を聞いて、その子たちの結婚式でもネドが誓いの言葉を促したら、とっても素敵だなって思ったの」
――私は自分の子供に、私たちの時もあの神父様にお願いしたのよ、ってその時初めて教えてあげるの。
白髪交じりになった自分が、同じように老いたイアンとサラの前で、彼女たちの子供の結婚式を取り仕切る様子が思い浮かんで、ネドはふっと静かに笑った。
「何十年後の話をしているんだ、君は」
「ダメ、かな?」
困ったように笑うサラの瞳を見て、ネドはゆっくりと首を振った。
「分かった。引き受けよう」
「本当?」
「ああ。君の未来の子供の分まで」
サラが喜び、礼を言った。その様子が余りに幸せそうだったから。
――その時、俺の命がまだあったら、と付け加えることは出来なかった。
◆◆◆
教会に帰ってから、養父であるアングレーズ神父に事情を話すと、彼は驚いた後、ネドが司式を務めることを認めてくれた。
「良いのですか?」
「君がそうしたいと思ったのでしょう?」
「ですが、俺には……」
聖別をおこなうマーナ=ベル教の司祭の証たる才が無い。言い淀むネドの表情を見て、老司祭が笑った。
「婚姻の秘跡に聖別は必要ありませんよ?」
――それに、と神父は付け加える。
「サラさんの願いは、私には叶えられぬ物です。君でなくては」
「そのようなことは」
「おや、彼女の子供が結婚する歳になれば私は八十近くでしょう。そんな老人に一日中司式をさせるつもりですか?」
今でさえ辛いのに、と冗談めかして腰を擦っている。
「そうと決まれば、君も式典の段取りを覚えねばなりませんね。毎朝の祈りの後に、時間を設けましょうか」
なんだかネドよりも彼の方が張り切っているようにさえ見える。
今なお、これで良いのだろうかと視線をさまよわせるネドに、アングレーズ神父は微笑みかけた。
「それに、聖別もいずれ君なら出来るようになるでしょう」
「そういうものでしょうか……?」
息子の問いに老父は大きく頷き、「そういうものです」と答えた。
新郎新婦と式の準備を進め、ネド自身も初の司式の準備を整え、結婚式を控えた前日。日が傾き、空が橙色に染まる中をサラはネドが暮らす司祭館へと一人訪れていた。礼拝堂の掃除をしていたネドがその姿に気付き、声をかける。予定にない訪問だった。
「忙しかった?」
「いいや。それより、何かあったのか?」
「別に? 何も無いよ」
嘘だな、とネドは見抜いた。もっともネドでなくとも気付いただろう。嫁入り前の娘が一人で、もう暗くなろうという道を辿って、古びた教会まで来たのだから。
「……不安になったか?」
ネドの静かな問いかけにサラは目をぱちくりさせた後に、こくりと小さく頷いた。
「おかしなことでも、恥ずかしいことでも無い。そういう相談を受けることは良くある」
「そうなの?」
「結婚を控えた者が『これで良いのか?』と、あるいはそう思ってしまった自分を責めて懺悔室にやってくる」
「女の人?」
「男もだ」
「へえ。……なんて答えるの?」
「教えたら魔法が効かなくなってしまう」
「魔法?」
「相手に吐き出させるだけ吐き出させて六秒待つ、とかだ。特に顔が見えない状況では相手が焦り、不安になる。逆上していたとしても、その状況なら話を聞いてもらえる」
「え、なんて言うか……」
「小手先、だろう? 種が割れている相手には通じない」
そしてそもそも話を聞くつもりが無い者にも。
「それ、私に話して良かったの?」
教会を訪れた時のサラのぎこちない笑みはほぐれ、自然な、いつもの笑みに戻っていた。これもまた、自分の手の内を明かすことで、相手の心理的防御を下げさせるという「魔法」だということにサラは気付いていない。
ネドはその後、しばらくの間、何も言わなかった。自分が話すのを待っているのだと、サラはようやく気が付き、ぽつりぽつりと語り始めた。
「西の皇帝が北部遠征を始めたって、聞いた? あの人が即位してからどんどん世界がおかしくなってるって思うの。そのうち、フロージエンにも攻め込んできて、戦争が始まるんじゃないかって、みんな噂してる。戦争が起きたら確かにうちの仕事も、あの人の仕事も増える。これからの生活には貯えも必要だって分かってる。けど、お父さんも、イアンも、苦しんでる。私に言わないけど。『お前が食べているご飯は、誰かの手足を吹っ飛ばすための道具を売って稼いだ金で買ったものだ』なんて絶対言わないけど、なんとなく思っていることは分かるよ……。それに二人が言わなくても、そういう噂、耳に入ることあるし」
最後の一言は消え入るような声だった。
「そんな中で、私だけ、結婚なんて、していいのかなって。式だって私の思うようにみんなが手伝ってくれて……。幸せになっていいのかな……? ズルいって思われないかな……?」
「ああ。君は幸せになっていい」
一切の迷いなく、ネドは縮こまるサラの言葉を首肯した。
「でも……。私には罪があるんじゃないかな……?」
「オヤジさんやイアンもそうだと?」
「それは……」
「たぶんあるんだよ。それは主が決めるのではない。俺や神父様が決めるのでもない。彼ら自身が決めるんだ。戦争や戦争で不幸になった人々を食い物にしていると彼らが思うのなら、彼らは自らの内に罪を見出すだろう。牛や豚を育てる者、その皮を加工する者も同じだ。命を踏みにじっていると彼らが彼ら自身を告発するんだ。それはいかなる時代、いかなる職業、いかなる身分においても同じだ。だからきっと君にも罪はある」
――だが、とネドは言葉を区切った。
「私が君を赦そう」
え? とサラは思わず聞き返した。
「例えいかなる罪があろうとも、私が君を赦す。君の罪を赦せない君の代わりに、私が君を赦す」
ネドが十字架を取り出したのを見て、サラは跪いてしゃんと背筋を伸ばした。目を閉じ、両手を組み、祈りを捧げる。その前でネドが十字を切った。
「主よ、この者は己の罪を認め、悔い改めました。赦されよ。サラ、汝の罪はここに濯がれ、浄められた」
未だ祈るサラの頭上から、十字架をしまったネドの声が降る。
「私は君を祝福する。だから、サラ、君は幸せになっていい。……幸せにおなり」
サラはゆっくりと立ち上がると、丁寧にお辞儀をした。
「ありがとうございます、神父様」
しばらくそうした後、破顔していつもの彼女に戻った。
「なかなか堂に入ってたんじゃない、神父様?」
「からかうな」
その時、夕日の向こうからサラの名を呼ぶ声が聞こえた。イアンの声だ。もう日が沈む時間になっても帰ってこないものだから迎えに来たのだろう。
「そろそろ帰らなきゃ。今日はありがとう。明日はよろしくね」
「ああ。寝坊しないようにな」
「もう! お父さんと同じこと言わないでよねっ!」
サラがランタンをぶら下げたイアンに手を振って、彼の方へと向けて駆けて行く。振り向きざまにネドに向かって手を振った。それがネドが最後に見た、生きている彼女の姿だった。そうとは知らず、「また明日ね」と彼女は言った。
◆◆◆
翌朝、式典の準備を整えたネドが教会を出立しようとした丁度その時、顔なじみの衛兵が早馬に乗りやってきた。ネドは即座に部屋へと戻り、銀剣をひっつかむと衛兵が手綱を握る馬の背に跨った。
衛兵の後ろで彼の語る報告を、ネドは目を閉じ、眉間に深い皺を寄せながら聞いていた。街に辿り着くと、騒然とした落ち着きの無さが街全体を覆っているのが分かる。通い慣れた道を通って鍛冶屋へと向かう。周囲には衛兵が立ち、すでに人払いは済んでいた。ネドが乱暴に鍛冶屋の扉を開く。衛兵たちの前で憔悴しきった様子の店主が項垂れていた。
「オヤジさん」
「ネド……。サラが……。起きてこないから、起こしに行ったら……」
譫言のように呟く彼を衛兵に任せ、ネドは店の奥、店主の生活空間に立ち入り、見張りに片手で挨拶をして、看板娘の部屋へと足を踏み入れた。
部屋にはそこかしこに血痕が飛び散っていた。ベッドのシーツ、カーテン、天井の一部にまで跳ねている。化粧台の鏡に付いた雨粒のような血液が、ひび割れのごとく幾条もの線を引く。血だまりのベッドの上に布をかけられ、横たえられた膨らみがある。ネドは祈りを唱えて、彼女の亡骸を覆う布を退けた。ネドの目が一瞬大きく見開かれ、ぎりっと奥歯が鳴った。かすかに震える声でもう一度祈りを唱える。
サラの亡骸には心臓が無かった。左上半身に抉り取ったような爪痕が残っている。そしてその爪痕が心臓の有った部分を中心としてぐちゃぐちゃに潰されていた。胸を裂いた後に鼻面を突っ込んで心臓を喰らった証、人狼の捕食の典型的な痕跡だ。だが、彼女の亡骸に遺された傷はそれだけではなかった。胸を裂いたのと同じように、まるで顔面を引き裂くように、サラの遺体の顔には痛々しい三本の太い裂傷が残されていた。傷跡は腐り始め、紫に変色し、評判の看板娘だった生前の見る影もない。しかし、ひどく痛めつけられてこそいたものの、その顔は、髪は、紛れもなくサラの物だった。
唯一の救いと言えるのは、抵抗した痕跡が無いこと、サラの瞼が閉じられたままであることから、彼女は自身が人狼に襲われたのだと自覚することも、痛みに苦しむことも無く逝ったのだろうということだ。
これ以上、寝間着姿を見られることをサラは望まないだろうと、ネドは覆い布を再び彼女にかけてやった。そして衛兵に告げる。
「間違いなく人狼の仕業です」
「神父様から伺ったことはありましたが、まさか本当に実在するとは……。それにしても、……遣り切れませんな」
衛兵は部屋の片隅に視線を送った。
「ええ」
ネドも同じ方向を向く。部屋の片隅、化粧台の鏡に映るように置かれたスタンドに掛けられたそれは、本来なら今日彼女が袖を通すはずだった純白の花嫁衣裳だった。あちらこちらに血が飛び散った部屋の中で、それだけはまるで清らかなまま、己が主人を待っていた。
現場検証が終わり、サラの遺体が担架に乗せられ、運ばれていく。周囲の野次馬から見えぬようにその上には布がかけられたままだ。一人の男が走り寄ろうとして衛兵に取り押さえられた。場違いな白いスーツを着た男、イアンが衛兵を突き飛ばし、担架に追いすがる。布をめくろうとしたその手をネドの左手が掴んだ。
「見るな、イアン」
「ネド……。嘘だよな……? 本当にサラなのか? 別人じゃないのか? 寝坊して、式に遅れて恥ずかしがっているだけじゃ、ないのか……? サラのはず無い……。だから確かめないと……。手を放してくれ……」
「見るな。彼女の顔を思い出せなくなる。サラはお前に見られるのを嫌がるだろう」
「ネド……」
イアンはがっくりと項垂れる。ネドがその痛ましい姿に思わず腕の力を緩めたその瞬間、イアンはネドの体を突き飛ばし、婚約者の体を覆う布を暴いた。その目が大きく見開かれた。数歩よろよろと後ろに下がると、口から絞め殺される鶏のような嗚咽を漏らしながら、新郎はその場に崩れ落ちた。サラの亡骸を遠目に見た人々のうちに騒めきが広がったのを見て取って、ネドはすぐさま布を戻す。声にならない言葉を上げて、泣き叫ぶイアンを二人の衛兵が羽交い絞めにし、鍛冶屋の方へと引き摺っていく。
ネドは衛兵隊長の元へと向かい、人狼の発生を確認したことを養父に告げるように依頼した。
「神父様、あなたはいかがなされるおつもりか?」
「俺は人狼を追います」
「居場所が分かるのですか?」
ネドは遺体のあった部屋の状況から立てた推測を語る。
「まだ詳細な居場所は分かりませんが、屋根に損傷がありました。潰れ方から見て、街の東に逃げたものかと。あとは犯人像ですが、……部屋は荒らされていませんでした。窓の一部を破壊して、手を突っ込んで鍵を開けて部屋に侵入している。本来人狼はこんなことをする必要がありません。窓も壁も力任せに破壊すればいい。自分の侵入に気付かれたくなかった。つまり確実に殺したかったということです。更には遺体を残し、わざわざその顔に不必要な傷を付けた。十中八九犯人の動機は怨恨でしょう。被害者と面識のある者である可能性が高い。食事だけが目的ならそんなことをする必要が無いからです」
あるいはただ暴力性を発散させたいだけなら、獲物を起こして脅しつけた後辱めるなり、顔面を肉親でも分からないほどズタズタに引き裂きでもするだろうが、今回の事件にはその兆候は無い。
「……結婚式前日の花嫁を狙ったということは、嫉妬、でしょうか? 我々にご協力できることはありますかな?」
「昨夜半過ぎに街から出た者がいないかを確認していただきたい。そちらでも調査なされるとは思いますが、犯人は人狼です。追い詰められればなりふり構わず周囲の者を襲うでしょう。確保するにも、塒に突入するにも、俺か神父様の到着を待ってください」
銀の剣でなければ殺せません、と告げたネドの腰に佩かれた剣にちらと視線を送って、衛兵隊長は唾を飲んだ。
衛兵隊からの情報により、サラが殺害されたと思われる時刻、昨夜夜半後即座に街を出た者はいなかった。朝になってから商人たちが出入りした履歴はあるが、いずれも過去に複数回この街を訪れている業者であり、不審点は見受けられなかった。
人狼になったのがサラと面識のある人間だとするなら、この街の住人である可能性が高い。すぐに逃げれば疑われる。まだこの街に潜伏していると考える方が自然だろう。ならサラの人間関係を洗うしかなさそうだ。
ネドは複数の衛兵に囲まれた鍛冶屋に再び足を踏み入れる。カランコロンとベルが鳴った。バッと項垂れていた店主の顔が持ち上がり、ネドの姿を認めると、ゆっくりと元の位置へと戻っていった。まだ娘の死を受け入れることが出来ていないのだ。店のベルを鳴らしてひょっこりと彼女が帰ってくるのではないかと、そう思っている。いつも乱暴な口調で道具使いの荒さに文句を言う「鍛冶屋のオヤジさん」が二回りも小さく見えた。店主に声をかけようとしたネドの胸倉を横から現れたイアンが掴み、その体を壁に押し付けた。衝撃で売り物の鉄器が揺れ、かち合い、音を立てる。イアンを抑えようと駆け寄った衛兵をネドが左手で制した。
「どうなってる……! なんで衛兵たちはお前の指示に従ってる? お前は何を知ってる、ネド! なんでサラが死ななきゃならなかった! あんな、あんなふうに!」
「人狼だ」
「人狼……?」
「『狼の呪い』を受け、人の心臓を喰らう怪物へと変わった者。サラを殺したのは人狼だ」
何を言っているのか理解できない、とイアンが首を横に振る。込められた力の弱まったのを見て、ネドは体勢を立て直し、押し返されたイアンの体がよたよたと後ろに下がった。
「時たま発生するその怪物を、教会は追っている。俺は人狼を狩る教会の狩人だ」
「そんなこと、今まで一言も……」
「教会の方針で話すことが出来なかった」
唖然とするイアンだが、思い当たる節がいくつもあったのだろう。例えば、明らかに頻度の増えた義腕の修理依頼、そして持ち込まれる義腕の異様な壊れ方。呆然としたまま「なんだよ、それ……」と呟くと壁に背を預け、ずるずるとしゃがみ込んだ。
ネドは片膝を床に付き、そんな状態のイアンと視線を合わせた。
「サラを殺した人狼はまだこの街にいる。……そしておそらく人狼になる前からいた。彼女に恨みを持つ者に心当たりはあるか?」
「そんなの、いるわけ……」
「逆恨みの可能性もある。……サラに言い寄っていた者などいなかったか?」
「一人いる……」
ネドの問いかけに反応したのは店主の方だった。ネドは跪いたままそちらに顔を向けた。
「衛兵の恰好をしていた若い男だ……。くっちゃべってるだけで売り物の一つも買っていかねえもんだから、サラが店から追い出した……」
「名前は?」
「分からねえ……」
「外見」
「……髪は茶だったと思う」
「ああ! あいつか!」
店主の言った特徴で思い出したのか、イアンが大声を上げた。
「サラとの結婚が決まってから、一回絡まれたんだよ! 『君は本当に彼女を幸せに出来るのか?』とかいきなり言ってきて……。確か、名前は、エランド! そう、エランドだ!」
ネドが今度は衛兵に視線を向ける。
「エランドという名の、茶髪の衛兵。心当たりはありますか?」
「……確かにそういう男はおります。ですが、……悪い男ではないというか、いいかっこしいではありますが、とても人を、それも若い娘を殺せるような男では……」
「今日はどこにいます?」
ネドの言葉に衛兵が青ざめていく。
「……非番だったはずです」
「住所を隊長殿に聞いてきます」
立ち上がったネドに、「ボクも行く」とイアンがその袖を掴んだ。
「ダメだ」
「なんでだよ……!」
「仮にその男が人狼なら、お前を守る余裕が無い」
「でも……!」
食い下がるイアンをネドは突き放す。
「イアン、お前という足手纏いを連れていては人狼を取り逃がす」
「っ……!」
イアンの目が大きく見開かれ、ネドの袖を掴む手がぽとりと下ろされた。ネドは目を逸らし、心の中で詫びた。
「仇は取る、必ず」
そう言うと旧友に背を向けて、ネドは鍛冶屋を後にした。カランコロンと、聞き慣れたはずのベルの音がやたらと長く耳に残った。
衛兵隊長から聞き出したエランドの家の扉をノックする。
鍛冶屋から見て、街の東側にある単身者向けの年代物の賃貸住宅の扉を複数回、義腕で殴るようにノックしても反応が無い。息を殺して立ち去った振りをしてみても中で人が動く気配は無い。彼は独り身で家族もいないと聞いている。留守にしているようだ。街を出た様子は無いからどこかに出かけているのか。あるいは疑いの目を向けられると思い、姿を隠したのか。
日が傾きかけている。人狼が未だこの街に潜伏しているのだとすれば教会に戻るべきではない。宿を取ることに決めた。衛兵宿舎にでも泊めてもらおうかと思ったが、仮にエランドが人狼であるなら、この家を塒にしている可能性は高い。駆けつけられる近場を陣取りたい。ネドは周辺を見渡し、古びた民宿を見つけると中に入った。
「いらっしゃいませ~」
やたらと明るい娘の声がネドを迎えた。ネド以外に客の姿は見当たらない。この街は観光資源に乏しく、宿がほとんどない。この民宿も利用するのは街を通過する決まりきった商人くらいなのだろう。繁盛しているようには見えなかった。
「今晩泊まれるか?」
「はい、勿論! でも、神父様、ですよね? 教会に戻られなくてよろしいんですか?」
「ちょっと仕事でな」
「それってもしかして、人狼退治、……ですか?」
宿帳に名前を記入したネドの視線が、そばかすで赤毛の娘に向けられる。睨みつけられたと思ったのだろう、宿屋の娘は言い訳するように慌てて、両手を顔の前で振りながら、早口で言う。
「噂で、噂で聞いたんです! 鍛冶屋の娘さんが亡くなったって……。遺体に爪みたいな痕が残っていたって。それで誰が言い出したか分からないですけど、人狼の仕業だって言う人がいて、その人が言うには人狼が出たなら、狩人が来るって」
「なるほど」
イアンが大衆の前でサラの遺体を暴いたことによって、その惨状を目撃した者が噂したのだろう。そしてそれが他の街で過去に人狼に出くわした者の知識と紐づき、歩き出し始めている。宿であれば人の噂話は自然と耳に入ってくるだろう。
「悪意ある噂話を広めてはならないと、主はおっしゃられた――」
「ああっ! ごめんなさい、ごめんなさい!」
赤毛の娘、リジーという名らしい、リジーは両手を合わせ、形ばかりの祈りのポーズを取って、主神に慈悲を乞う。
「他に人狼についての噂は? 何か知っているか? どこかで見かけたとか、何か知っていたら教えてくれ」
「え、なんだ、神父様も興味あるんじゃないですかぁ」
「……」
ネドが腕を組み、眉間に皺を寄せると、リジーが「怒らないでくださいよう」とこちらのご機嫌を伺い始めた。
「人狼を見たっていう話は聞きませんけど、人狼なんじゃないか? って言われている人なら……」
「誰だ?」
「街の外れに『魔女』が住んでいるって聞いたんです。なんか教会の教えを拒否している外国人らしくって。故郷に居られなくなった犯罪者なんじゃないか? っていう、その、……噂が。なんか怪しげな薬を売っているそうです」
「越して来たのはいつ頃だ?」
「さあ。森に山菜狩りに行ったら、変なテントが立っていた、と聞いたので、冬の間に住み着いたんでしょうけど」
ネドは話を聞きつつも、「無関係だな」と結論付けた。その「魔女」は彼の抱いている犯人像と合致しないし、冬に越して来たのなら、もっと早くに被害が出ているはずだ。徐々に反応が薄くなってきたネドを、リジーは信じていないと思ったのか、付け加えた。
「私が言ったんじゃないですよ。近くに住んでる茶髪の衛兵さんが言っていたんです」
「……その衛兵、エランド、という名だったりするか?」
「ご存じなんですか? たまにご飯だけ食べにいらっしゃるんですよ」
その「魔女」が人狼だとは思わないが、エランドと面識があるなら、居場所を知っている可能性はある。明日行ってみるか、と予定を決めたネドはその「変なテント」の所在を聞いた。
「リジーと言ったな」
「は、はい」
ペラペラ噂を喋ったものだから、また叱られるのではないかとリジーが体を硬くした。
「情報提供感謝する。リジー、君に主のご加護があらんことを」
ぽかんとそばかすの少女の口が開く。
「……どっちなんですか? 噂を喋っても良いのか、ダメなのか……」
「……今のは我ながら一貫性が無かったな」
ぷっとリジーが噴き出した。
「おかしな人ですね、あなた。……ご宿泊ということですが、お食事はどうされますか?」
「今晩の分だけ頼めるか?」
「鶏肉は抜き、ですよね? お魚でもよろしいですか?」
「そうしてくれ。気が利くな、女将さん」
ネドが微笑み、冗談交じりにそう呼ぶと、リジーの顔が真っ赤に染まった。
「や、やめてくださいよ、からかうの」
「ここは君一人で切り盛りしているのか?」
「はい。以前は母と経営していたんですけど、去年、亡くなりまして。それからは私が一人で」
「……すまない。不躾だったな」
「いえ、そんな」
ネドは心の中で己を痛罵した後に、十字架を取り出した。それを見たリジーが今度はきちんとした祈りの姿勢を取る。ネドが呟く祈りの言葉を静かに聞いた後、リジーが礼を言った。
「ありがとうございます、母のために」
そう言うと、リジーはネドを部屋へと案内するために、パタパタと小走りで彼の前を先導した。新品の可愛らしい赤い靴がきしむ木造の廊下を跳ねるように進み、部屋へとたどり着いた。確かに古いが部屋は綺麗に掃除されていた。
ネドはベッドに腰を下ろし、銀剣を鞘ごと外す。
部屋を見渡すと、女性客向けのものだろうか、化粧台が目に入った。
思わず今朝見たサラの部屋の光景が脳裏に浮かんだ。ネドは左手で、司祭平服の上から皮膚に刺さって痛いくらいに強く、十字架を握りしめた。




