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狼たちを殺すには  作者: mozno
幕間

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28/32

人狼になった男2

 それからというもの俺は夜が来るたびに、街の人間を一人ずつ喰い殺していった。

 殺す相手には金を持っていそうな男を選んだ。どうせ殺すなら実入りの良い方が良いに決まっている。

 死体から奪った金を「狼の司祭」に渡し、いくつか服を見繕ってもらってからは、俺は彼の借りていたあの部屋を出て、街で宿を取っていた。

 「狼の司祭」は人狼になることを救いだと言った。その救いを俺と同じように苦しんでいる者の元へと届けるために街を出て行った。俺は生まれ変わった俺の姿をもっと見て欲しいと思い、別れを惜しんだが、決意を揺るがすことは出来そうになかった。別れ際、彼は「さらばだ、わが友よ」と言った。俺は彼に認めてもらえたことが嬉しくて、涙が零れそうだった。俺は万感の思いを込めて、「狼の司祭」と別れの握手をして、その背中を見送った。

 俺が今停泊している宿は、この街で最も高価な宿のうちの一部屋だ。かつて俺を騙した女と泊まるために調べ、結局その機会は流れたが、その情報が今、役に立っていた。確かに清潔で、従業員たちは愛想が良くサービスも行き届いていた。それは俺が彼らに惜しみなくチップを握らせたからというのもあるかもしれない。

 やはり金だ。あのパン屋の店員も俺がどんなにみすぼらしい姿をしていたとしても、金を見せた途端に相対する態度をお客様向けのそれへと変えた。この街では、いや、この世界では金を持っていない奴は人間じゃないのだ。


 俺がその宿に泊まり始めて一週間ほど経った頃だろうか。部屋に招いていない客、あの借金取りのボガードが現れた。彼はドアをいつもと同じく蹴破るように開け、俺の胸倉を掴んだ。

「捜したぜ、ハンク。てめえ、手間ぁかけさせやがって……!」

「……ボガードさん」

 胸倉を掴まれ、今にも殴りかからんとしている彼の姿を見ても、俺は以前のように縮こまり、彼の一挙手一投足にびくびくすることはなかった。

「何をへらへらしてやがる、俺は逃げるなと言ったよなぁ!」

「逃げてなんていませんよ……。現に俺はこうしてこの街にいるじゃありませんか。引っ越したんですよ、前の部屋を追い出されちまったから」

「追い出されたって、……なんでそれでこんな良い部屋に引っ越すことになる?」

 怒りよりも困惑の方が勝ったのか、ボガードの腕に込められた力が弱まった。俺はその手首をそっと掴み、引き剥がした。ボガードが表情をぎょっと歪ませた。以前の俺だったら決してそんな命知らずなことは出来なかっただろう。

「金、ですよね?」

「あ……?」

 俺は部屋に放置してあった紙幣を適当に掴むと、混乱しているボガードの手に握らせた。

「前に言ってましたもんね、金を回収したいだけだって……。これで、足りますか?」

 五、六十枚はあるだろう皺だらけの紙幣を見て、それから俺の顔を見て、ボガードは今まで俺に見せたことの無い表情をした。それは人が恐怖を感じた時に浮かべるものだということを俺はもう知っていた。以前はきっと俺の方が彼を見るたび同じ表情をしていたことだろう。

「お前、この金、どうした……?」

「ああ……、宝くじが当たったんですよ」

 絞り出すようなボガードの問いに、俺は笑いながらもう吐き慣れた嘘を吐く。そしてそれは丸っきり嘘という訳でも無い。

「すみませんね。部屋を変えたこと、伝えるべきでした」

「ああ……」

「もう、良いですか?」

「あ、ああ……」

 それしか口に出来なくなってしまったのか、ボガードはふらふらと扉の方へと戻っていく。外では宿の従業員たちがこちらの様子を伺っていた。

 俺は客人が部屋を出る瞬間、その肩にぽんと手を置いた。ボガードの体が跳び上がるように震えた。俺は彼の背中にぴたりと体を着け、耳元に口を寄せると呟いた。

「今までご迷惑をお掛けして、申し訳ありませんでした……。また、お会いしましょう……」

 今度はボガードは実際に跳び上がり、俺から逃げるように距離を取ると、こちらを睨みつけた。しかしその瞳には明らかに恐怖の色が浮かんでいた。

「か、金を返してもらったんだ。もう用はねえ。もう、会うことはねえ」

「ああ、そうでしたね。……さようなら、ボガードさん」

 俺がにこりと微笑みを向けると、彼は嫌悪感を隠しもせずに顔を顰め、こちらを何度も振り返りつつ、逃げるように宿を出て行った。俺は従業員たちに騒ぎを起こして申し訳ないと詫びを入れて、部屋へと戻った。

 俺は笑う。今夜の獲物は決まった。

 思い切り鼻から息を吸う。部屋の中に残されたボガードの砂っぽいような、埃っぽいような体臭が、今の俺にとってはどんな花よりも香水よりもかぐわしく感じられた。


 日が沈み、月がその姿を現し、人々が家に帰り、通りにわずかな人影しかなくなったのを確認してから、俺は部屋で一人服を脱いだ。この瞬間はいつも莫迦みたいで笑ってしまう。この裸の猿みたいな姿がおかしくて笑ってしまう。本当の俺の姿はこんなのじゃない。こんな汚らしくて、下等で、ただ殺されるためだけに生まれてきた猿の姿は俺のものじゃない。俺の姿は――。

 顔に、首に、肩に、黒い体毛が浮かび上がる。やがてその黒毛は俺の肌を埋め尽くした。鉄さえ容易く裂く爪を俺はうっとりと眺めた。思わず口角が上がる。頬まで裂けるように口が開き、ざらついた真っ赤な舌が視界をちらつく。

 俺は窓から外へと躍り出る。俺は歓喜に任せて遠吠えをした。眼下のわずかな人影が、家屋の中の人の気配が、緊張するのが分かった。人狼を、俺を恐れている。いいぞ、もっと恐れろ。

 数度遠吠えをした俺は街の空気を鼻から胸いっぱいに吸い込んだ。無数の臭いが鼻を通して入ってくる。夕飯の臭い、酒の臭い、汚らしい垢の臭いに混じって、嗅ぎ覚えのある埃っぽい体臭を見つけた。俺はそちらへ跳ぶ。

 目標よりもかなり手前で俺は屋根から地面に降りると、その人影の後ろを付いて回った。ずっと自分に付いてくるひたひたという足音に気付いたのか、その男の足音は徐々に早くなり、しまいには走り出した。俺は速度を彼に合わせて少しずつ早めていく。男が袋小路に入ったのを見て、俺はゆっくりと姿を見せてやった。こちらを振り向いたボガードの表情は恐怖に歪んでいる。

 俺はわざとかなりずらしてボガードの左肩を狙い、腕を振るう。鮮血が舞い、悲鳴が上がった。大袈裟だ。まだ腕は繋がっているじゃないか。ボガードが左肩を庇いながら、じりじりと後ろへ下がる。彼の背中が壁にぶつかった。俺は彼に良く見えるように爪に付いた彼の血をねぶる。

 ボガードの手から何かが放たれた。わずかな痛みが俺の足に走る。刃先の短い隠しナイフが俺の足に突き刺さっていた。俺の意識がそちらに向いた瞬間を狙い、ボガードが脇を抜けようと駆け出す。俺は雑に右手を振るう。力加減を間違ってボガードの右膝から先が宙を舞った。絶叫と血潮を撒き散らしながら、ボガードは地面を転がった。この出血量ではじきに死ぬだろう。そういうことも分かるようになってきた。

「あ~あ、もっと苦しめたかったのに……」

 思わず零れ出た俺の呟きに、ボガードは目を見開いた。そして震える声で言う。

「てめえ、……ハンクか?」

「ヒャハ、流石に分かりますか? あんたみたいな莫迦でも」

「てめえが噂の人狼だったってのか……。こんなことしてタダで済むと――」

 俺は最後まで聞くことなく、ボガードの左足首を思い切り踏みつけた。ぼき、べき、べきべきと音がして、骨が砕け、弾けるように血が噴き出した。今までで一番大きな悲鳴が夜の空へと響き渡る。

「あ、そうだ。昼間持っていった金、返してくださいよぉ。意外と大変なんですよね、血の付いてない金を選り分けるのって」

 ボガードが今にも気を失いそうな真っ青な顔で俺を睨む。そして強がりか、ハッと笑った。

「ねえよ……、もう事務所の金庫に入れちまったからな、残念だったな、この間抜け……」

 俺は足の向きを少し変え、力を入れた。ボガードのすねが足首と同じように潰れ、ひしゃげた。皮はまるで苔のように地面にへばりついている。

 俺はボガードに鼻先を近づけて臭いを嗅ぐ。確かに紙幣特有の臭いが一切しなかった。手元に無いというのは真実だろう。

「じゃあ、あんたを殺してから、事務所の方に行きますよ」

 最初に金を借りた時に訪れた場所はまだ覚えている。もう用済みだから喰っちまおう、と腕を息も絶え絶えのボガードの首目掛けて振るおうとした俺の頭に名案がよぎる。思わず口角が上がった。

 俺は横たわるボガードの上半身を起こしてやる。土色に変わりつつある顔が項垂れた。ちょうどいい。その方が良く見えることだろう。俺は太い血管を傷つけないように気を付けながら、ボガードの左胸にそっと爪を沿わせて、皮をめくり、その内側をあらわにした。

「止めろ……」

 俺はボガードの左腕を持ち上げ、脇の下を潜るようにして、口を大きく開ける。そしてゆっくりとその口を閉じ、心臓を喰らった。ぶちぶちぶちとボガードの視線に映るように心臓を血管ごと引き摺り出し、何度も咀嚼する。死の直前に己の心臓が己の体を離れていくのを見せつけられたボガードはびくりびくりと数度震えると、やがて動きを止めた。心臓とその周辺の血管と筋肉をついでに食ったことで、支えを失った肉体はだらりと伸び、掴んだままの左腕を起点として、ぶちぶちと音を立てて、胸部が半ばから裂けた。俺がぽいと左腕を投げ捨てると、中身を失った上胸がズレて、ボガードの体は滑稽なことに大袈裟に左肩だけを竦めたような姿勢のままバランスを保っていた。

 その壊れた人形のようなおかしな格好を見て、俺は思わず笑ってしまった。

「ひ、ひひ、ひひひっ」

 周囲に蔓延した濃厚な血の臭いが、俺の気分を更に高揚させ、ひきつけのような体を震わせる笑いが止まらない。

 ボガードに苦しめられた過去も、金を奪われた過去も、もうどうでもよかった。俺はもうボガードを許していた。これは偽らざる心からの本音だ。

 かつては知らなかったのだ。自分よりも弱い相手を一方的に嬲り者にすることが、こんなに心地良いことだったなんて。ボガードは俺や俺のような他の債務者をいたぶることでこの快感を知っていたのだろう。だったら止められなくなっていたとしても彼を責めることは出来ない。だってこんなにも気持ちが良いのだから。

「ひゃは、あは、あはぁ、あはははははは!」

 俺は笑った。声を上げて高らかに笑った。俺は今生きている、その実感を喜びと共に感じたのは、生まれて初めてのことだった。


 街は人狼の噂で持ち切りだった。

 驚くべきことに皆、人狼を恐れてはいてもその口振りはどこか好意的だった。鼻持ちならない金持ちを殺した人狼、やくざ者の金貸しの事務所を襲い皆殺しにした人狼。天罰が下ったんだと言う者がいた。酒に酔い、「もっと金持ち連中を殺してやれよ」と口を滑らす者がいた。

「感謝だよ」とバーの店主が言った。

「人狼があいつらを殺してくれたおかげで借金を返さなくて良くなった」

 店に来てくれたら是非一杯奢らせて欲しいね、喰われるのは御免だが、と言って客の男たちから笑いを取るのを俺はカウンターの隅で聞いていた。

 なんだかこそばゆいような初めて味わう気持ちがした。俺はこの街に来て初めて、街に受け入れられている、と感じていた。

 良い気分になって少し呑み過ぎた。俺はふらふらと夜風に当たりながら街を散策する。薄暗い路地に既視感を覚えた。ここはあの夜、俺が「狼の司祭」に拾われた場所だった。絶望しかなかったあの夜のことが遠く思い出されて、懐かしささえ覚える。俺はあの時着ていた襤褸とはまるで違う仕立ての良い襟付きのシャツで踊るように路地を歩く。

 その時、目の前に一人の帽子を被った紳士が歩いてきた。俺は彼とすれ違いざま思わず振り向く。あの夜、コインを投げて寄越したのと同じ男ではなかっただろうか。いや、帽子が似ているだけで違うような気もする。あの時は顔なんて見る余裕はなかった。

 俺は男の後ろをつけて歩く。判断しかねるまましばらく歩いていると、道端に汚い垢塗れの乞食が座っていた。彼の足元には犬の餌用だろうか、小さなひび割れた皿が置かれていた。紳士はポケットに手を突っ込むと、通り過ぎ様にその皿目掛けてコインをつま弾いた。コインが放物線を描いて落下し、ちゃりんという特有の金属音が響いた。乞食は地面に額を擦りつけるように深く頭を下げた。

 コインを投げるその手慣れた手付きから、あの時の男だと俺には分かった。敵意が俺の中で首をもたげる。「狼の司祭」に言われた言葉が、もう一度俺の耳元で囁かれた気がした。

『自分が悦に入るためだけに、君を乞食にしたんだよ』

 あの男は今まで何度コインを道端の浮浪者に投げつけたのだろう。何人を乞食にしてきたのだろう。沸々と怒りが湧き上がる。俺は足を早め、その帽子の男の肩を掴んでこちらを振り向かせると、思い切りその顔面をぶん殴った。

 倒れ込んだ男に馬乗りになり、拳から血が出るのも構わず、何度も何度も殴り続けた。なぜだか人狼になって食い殺そうとは思わなかった。その様子を見ていた乞食が慌てた様子で駆け寄り、俺を止めようとするのを見て、俺は乞食の痩せ細った体を蹴り飛ばした。

 俺は帽子のずり落ちた男の首を両手で掴む。男が真っ赤な顔で俺の手を、腕を引っ掻くが、わずかに赤い線を残すだけで、それも人狼の治癒力によってすぐに消えていく。何秒、いや、何分そうしていただろうか、男が抵抗することが無くなっても、俺はただひたすらに男の首を絞め続けていた。

 男の呼吸が完全に止まったことを確認した俺はそのポケットから入っているだけの小銭と、懐からは革製の高級財布を取り出して、悲鳴を上げる乞食の前に放り投げた。膝を折り、饐えた臭いのするその男と視線を合わせる。そして問う。

「なあ、なんでこうしなかった? 金を持っているって見りゃ分かんだろ」

「ひぃ、ひぃぃ……」

「答えろ! なんであいつを殺して金を奪わなかった!?」

 俺が怒鳴ると浮浪者は蹲って、耳を塞ぎ、目を閉じた。

「か、金をくれた相手を殺す訳ねえじゃねえかぁ……」

「お前のために金を寄越した訳じゃない。あいつは自分が今日、良い気分で帰るために金を払ったんだ。あんたはあいつに乞食にされたんだよ。人としての尊厳を奪われたんだ」

「そんなもん知らねえよぉ、殺さねえでくれよぉ……!」

 怯える乞食に俺は呆れずにはいられなかった。こいつは乞食でいることに慣れ過ぎてしまったのだ。その尊厳を回復させてやらなければならない。あの方が俺にそうしてくれたように。

 俺は放った財布を再度拾い上げ、乞食の手に握らせた。

「まあいい、これで良いもんでも食いなよ。服だって新しいのが買えるだろ? 宿を取って暖かい湯を浴びてから、柔らかい布団で寝たっていい」

「つ、使える訳ねえじゃねえか。人を殺して奪った金なんて……! そんなもん使ったら人殺しと同じじゃねえか! 乞食の方がマシだよぉっ!」

 男は財布を投げ捨てると、立ち上がり、駆けだした。しかし弱った足腰は急な運動に耐え切れず、地面に転ぶ。起き上がろうとした視線の先に絞殺された死体を見て、尻餅をついたまま後ろへと下がった。俺は逃げる乞食の胸倉を掴んで立たせ、壁にその体を押し付けた。

「んだよ、そりゃ……。もう良いよ、てめえが莫迦なのは分かったから。だがよぉ、お前を見下していい気になってたあいつを殺した俺に対する感謝はどうした? さっき金を貰ってあいつに感謝してたよなあ? 俺にはねえのか?」

「なんでだよぉ! てめえなんか、あの旦那を殺しただけじゃねえか! あんな良い人を! なんでてめえに――」

 俺は空いている方の手で乞食の横っ面をぶん殴った。乞食が黙る。臭い口が塞がれる。

「礼節を、知らねえのか、この、カス、底辺、ゴミ以下の、ゲロ野郎が!」

 べきっ、べきぃ、と俺が拳を力いっぱい振るうたびに、男の口から血が飛び出す。

「感謝、感謝、感謝、感謝、感謝ァ! 感謝はどうしたッ!」

 ハァ、ハァと殴り疲れて、呼吸を整え、再び拳を構えると、男は首が折れて死んでいた。俺は舌打ちしてから男の死体を投げ捨てる。地面に散った小銭が再度散らばり、ぶつかり合って音を立てた。

 気に入らねえ奴を二人も殺してやったのにいつもと違ってなんだか気分が上がらなかった。やはり人狼の姿になっていないからかもしれない。だが変身すれば服が破れてしまう。結構高かったのに、とそこまで思ってから、脳裏に「もういいんじゃねえか?」と疑問が浮かんだ。

 別に服が破れようがもう一度買えばいい。いいや、そもそもわざわざ金を払って買う必要も無い。服だろうが飯だろうが、店を襲って奪えば良いだけだ。あんな良く知りもしねえ過去の偉人とやらの顔と、数字が並んだだけの紙切れに何の意味がある?

 俺は服が破れるのも厭わず、人狼へと変身した。気まぐれに乞食の体を縦に裂く。血を浴びる。気分が良くなってきた。しかし垢塗れのその体に鼻先を突っ込む気にはなれず、もう一つの死体の方の心臓を喰う。腹が満たされると、体を満たす自信もまた戻ってきた。なんだ、なんてことはない、俺は腹が空いていただけだったのだ。

 あの方も仰っていた。俺が夜の支配者なのだと。

 だから何をしてもいい。俺は人狼だから何をしてもいいのだ。もっと早くに人狼になっておけば良かった、「狼の司祭」様がもっと早くに俺を見つけてくれていれば良かったのに、と余りに不遜な不満を抱いて、いけないいけないと俺は己を律した。それではきっと人狼になることの有難味が分からなかっただろう。

 人狼としての自由を知った今では、人狼にならない奴は莫迦だと思う。でも、莫迦にはそれが分からないのだ。

 今や俺は違う。そう確信して、夜空に向けて高らかに遠吠えをした。


 ◆◆◆


 その噂を聞いたのは、俺が人狼になってから三週間近く経ったある日のことだった。

 それは人狼が跋扈するこの街に対人狼の騎士団である「銀の手(シルバーハンド)」が派遣され、到着したという噂だった。

 俺はそれを鼻で笑った。本当におめでたい連中だ。「狼の司祭」様からは仮に実在したところで新設されたばかりの素人集団だろうと聞いている。そんなものが俺の自由を阻めるものか。

 しかし街の連中も勝手だ。ついこの間までは俺が金貸しや金持ちを殺すたびにやいのやいのと持ち上げていた癖に、俺がそのついでで乞食や浮浪者、通りがかった人間も構わず殺し、店を襲って品物を奪っていると知ると、急に手の平を返して人狼は危険だと訴え始め、ついには例の「銀の手」を呼び寄せた。自分も人狼に攻撃されるかもしれないと分かるや否や、これまでの感謝を忘れて、慌てて逃げ隠れし始めるその性根は呆れを通り越して感心すら覚える。

 まあ、何が来ようと俺の邪魔をするなら殺せば良い。

 そう考え、俺は街を肩で風を切って歩いていた。一時期に比べて随分人が減ったように思う。引っ越した者もいるだろうが、住民のほとんどが人狼を恐れ、外出を控えるようになったことが大きい。莫迦だなあ、と俺は笑う。昼間に外出を控えたところで意味が無いし、そもそも一度狙いを付けたら、臭いを追って、自宅まで押しかけて殺せばいいのだから、家の中に居たところで安全ではない。まあ、そんな莫迦だから人狼に選ばれなかったんだろうな、と俺は彼らを憐れんで、散策を続けた。探している相手がいた。ぶち殺してやりたい女が一匹いるのだ。

 かつて俺を騙したクラリスという女だ。まだ街から越してはいない。昼間、姿を見かけたが、あの女は俺の顔を見るや否や逃げるように姿を消した。遠すぎて臭いを覚えることは出来なかったから、こうして日中街を歩き回って探している。

 そして以前見かけたあたりを張っていると、ついにその見覚えのある長い茶髪の後ろ姿を見つけた。俺は後ろからこっそりと近づき、声を掛ける。

「やあ、クラリス」

 女が驚き、跳び上がり、ゆっくりとこちらを振り向いた。その顔には隠そうともしない嫌悪の感情が浮かんでいる。

「……もう関わらないでって言ったはずよ。また衛兵を呼ばれたいの?」

「別に好きにしろよ。呼びたきゃ呼べばいい」

 そうなれば衛兵も殺せば良いだけだ、そう俺は考えていた。以前と違い、彼女に媚を売り、そのご機嫌を伺おうとしない俺の態度に不信感を覚えたのか、それともそういう態度を取らないことが気に食わなかったのか、たぶん後者だろうが、彼女は眉を顰めた。こうして改めて見るとさして美人でも無い、どうして俺はこんな女に惚れこんでいたのだろう。

「何の用……?」

「用なんか無いさ。知り合いを見かけたら声くらいかけるだろ?」

 俺の言葉をクラリスはハッと嘲笑った。

「分かった。あんたが勝手に贈り付けて来たあのゴミを返せとか言うつもりでしょう? お生憎様、あんたからの贈り物なんて全部捨てたわよ。気色悪いもの」

 相変わらずクソ生意気な女だった。捨てたと言っているが、どうせ嘘だ。質屋にでも売り払って金にしたに決まっている。しかし、俺の行動によってわずかでも利益を得たことを認めたくないがためにそんなことを言うのだ。お前が金に汚い女だってことはお見通しだ。

「何よ、ニヤニヤして気持ちの悪い……。とにかくもう二度と近づかないで。声もかけないで。本当に衛兵を呼ぶわよ」

「あぁ、分かったよ。……今日が最後だ。最後だとも……」

 俺の顔を見て、クラリスは一歩後ろに下がった。その顔には今や嫌悪感を覆い潰すほどの恐怖が浮かんでいた。俺は彼女が背を向け、徐々に駆け足になるその後ろ姿を見ていた。口の端に笑いが浮かぶのを手の平で覆っても、止められはしなかった。


 心待ちにしていた夜が来た。

 俺は昼間覚えた臭いを辿って、クラリスの住む家を突き止めていた。家の中にはもう一つ気配がある。男だ。同棲でもしているのだろう。

 俺は人狼の姿のまま扉を蹴破り、こちらを向いて呆然としている男の上半身を斜めに裂いた。鮮血が天井を、壁を、床を濡らす。巻き込まれた両腕が弾け飛び、その内の片方が真新しいダイニングテーブルの上を滑った。

「え……?」

 状況を飲み込めずにいるクラリスへと俺は距離を詰める。彼女が悲鳴を上げようとしたその瞬間、俺はその口を押さえつけた。うっかり殺してしまわないように変身を解く。クラリスの目が驚愕に見開かれた。

 俺は女の服を力任せに引き裂いた。俺を蹴る足を押さえつけ、開かせ、己の欲望を女の体へとぶつけ、放った。部屋に満ちる濃厚な血の臭いに昂るままに俺は女を幾度となく犯し、辱めた。ようやく治まった昂りに満足し、俺は女を見下ろす。ぐったりと横たわる四肢にはさっきまで着ていた服の断片が纏わりついている。その体の力無く横たえられた様には抵抗する力はもう残っていないように見えた。しかし、目だけがまだ俺を見ていた。

「……なんだ、その目は」

 俺はその目が気に入らなかった。

 お前はもう負けた。俺が打ち負かし、お前の何もかもを奪ってやった。だから泣き叫んで、許しを乞うべきなのに、なんで俺を見てる?

 俺は女の顔に右手を押し当てた。床に押し付けられて苦しいのか、女の声が漏れた。俺はその苦悶の声に満足し、更に引き出そうと力を込めた。だが、女の目は指の隙間から、まだ俺を見ている。

 気付くと俺は人狼へと変身し、女の頭蓋骨を押し潰し、その脳味噌を床の上にぶちまけていた。内側から押し出された女の眼球は血と脂と砕け散った脳の欠片に塗れながらも、まだ俺を見ていた。女の乳房を裂き、骨を砕き、心臓を喰らう俺の姿を。


 俺は女の体を蹴り飛ばし、外に出た。

 体毛にまとわりついた二人分の血が夜風に冷えた。

 心臓は喰った。腹は満たした。にもかかわらず全身を満たすあの幸福な全能感がやってこない。

 気に入らない奴はぶっ殺した。欲しい物はすべて奪った。生意気な女は犯してやった。何だって出来る、何をしても良い、だって俺は人狼なんだから。欲望は満たしたはずだ。だというのになぜ、満たされない?

 俺は苛立ち交じりの咆哮を夜空に向けて放った。

 その時、夜風に乗って、嗅いだことの無い臭いがした。金属の臭いだ。だが、なんとも言えず不快な、嫌悪感を催させる、そんな臭い。臭いの元はどんどんこちらに近づいてくる。やがてそいつは俺の前に姿を現した。

 その男は革鎧を纏っていた。左胸には金属製の右手を象った紋章が鋲によって固定されている。男は右手に抜身の剣を握っていた。臭いの元はその剣だ。その銀で出来た剣は月の光を浴びて、青白く光っていた。

 ――こいつが「銀の手」か?

 男の表情には緊張が滲んでいる。男の右眉には、眉毛を二つに分けるように縦に一本深い傷が走っていた。男は俺を睨みつけている。その目が、気に入らなかった。

 そして俺は気付く。この存在が気に食わなかったのだと。人狼である俺に盾突く存在がいる。こいつを、こいつらを残らずぶっ殺せば、あの全能感はきっと戻ってくる。俺は次の獲物を定めて、跳びかかった。撒き散らされる血と臓物を想像して、口角が自然と持ち上がる。

 俺は地面を割るほどの力を込めて、「銀の手」の騎士へと突進する。眼前まで一足飛びに接近し、右腕を振りかぶり、力の限り振り抜いた。

 鮮血が舞う。しかし、それは獲物の血ではなかった。

 ぼとりと音を立てて、黒い塊が地面に落ちた。太い体毛に覆われて、鋭い爪の付いたそれは俺の右腕前腕だった。

「あ……?」

 右腕の断面から奔流のごとく、血液が噴き出した。斬られた箇所の焼けるような痛みに思わず、俺の喉から叫び声が飛び出した。

「ギィアァ、ィィァアアアッ!」

 久しく忘れていた痛みがやってくる。それに引き摺られるように、過去の記憶が、殴られた痛みが、地面を引き摺られた屈辱が、縮み上がるような恐怖が、蘇る。

「ヒィイイアァァッ!」

 俺は訳も分からないまま、右腕を振るう。何度振るっても爪を失った腕が騎士の体を裂くことは無い。しかし、飛び散った血の滴が騎士の目に跳ねた。

「くっ……!」

 苦悶の声と共に心臓目掛けて繰り出された突きの一撃は皮膚をわずかに斬って、脇を抜けるに留まった。

 俺は跳躍し、屋根の上に跳び上がると、騎士に背を向けた。右腕の痛みと恐怖以外、俺の中には何も無かった。方向も定めず、滅茶苦茶に跳び回り、足を踏み外して、地面へと落下し、したたかに背中を打ち付けた。

 その俺の姿を見た通行人が悲鳴を上げる。俺はそいつの喉笛を左手の爪で引き裂き、殺す。悲鳴を聞かれてあの騎士が追って来たらどう責任を取るつもりなんだ、このカスが。

 俺は右腕を庇いながら、呼吸を整える。

 クソッ! と思わず罵倒が口から飛び出した。なんだあの剣は。普段ならとっくに治っているはずの傷が一向に塞がらない。血が傷口から流れ続け、止まらない。

 俺が知らない人狼の弱点をあいつは把握している。何が新設されたばかりの素人集団だ。「狼の司祭」は知っているのか? 知っていて教えなかったのか?

 失った血を補うために、俺は先程殺した通行人の心臓を喰らい、その血を啜る。痛みは続いているが、続いているがゆえに麻痺してきた。俺は周囲を見渡し、現在地を確認する。拠点にしている高級宿からは反対方向に逃げてきてしまったのだと気付く。とにもかくにも一旦(ねぐら)に戻って、「銀の手」にどう対抗するかを考えよう、と俺は宿へと向かう。

 屋根から屋根を跳躍していると夜風に乗って、先程と同じ不快な臭いを嗅ぎ取った。俺は爪を立てて、勢いを殺し、臭いの元の遥か手前で地面に降り立つと、変身を解いて物陰から様子を伺った。宿の前には先程の眉に傷のある騎士の姿があった。腰には例の銀剣をぶら下げている。寝床がバレている。そうとしか考えられなかった。

 なぜ? どうやって俺が人狼だと特定した? 「銀の手」が街に着いたという噂を聞いたのは昨日のことだ。たった一日でこの街の人狼の正体を突き止めたっていうのか?

 騎士は宿の前から動く様子は無い。ここに陣取っていることがただの偶然だとは思えなかった。戻れない。人間の姿で近づいても右腕を失った今の俺では容易く見咎められるだろう。俺はこっそりとその場を立ち去った。

 どこに行けばいい? どこに行けば殺されずに済む? 斬り付けられずに済む?

 最早俺の中からあの「銀の手」の騎士と戦う意思は消え失せて、どうやって逃げるかだけを考えていた。気付くとあの路地へと足が向いていた。あの「狼の司祭」と出会った路地。俺はあの日のように壁に背中を預けて蹲った。

 どうして? なんでこんなことになった?

 右腕の痛みに、理不尽に俺を襲い続ける運命に、俺の目から思わず涙が零れた。

 俺が何をした? 俺は不当に奪われた物を取り返そうとしただけだ。

 あの「銀の手」の騎士に対する怒りと同時に「狼の司祭」に対する怒りも湧いてくる。

 ハールは「銀の手」を存在すら怪しいと言っていたのに実際には存在した。素人集団だろうと言っていたのに戦う術を備えていた。嘘を吐いたのか? 何のために?

 ――俺を人狼にするために?

 最早俺の中で「狼の司祭」に対する疑念は拭い難い大きさまで膨れ上がっていた。

 確認したい。彼ともう一度話して、彼の口から本当の事を聞きたい。


 俺は背格好の似た男を殺してから服を盗んで、かつてハールと握手し別れた街の南門へと向かう。他の「銀の手」の姿は無かった。

 このまま街から出られるんじゃないか……? と考えがよぎる。そうだ、それがいい。この街はもう安全じゃない。別の街へ行ってそこで暮らそう。そこでまた同じように金を奪って宿を取って暮らせば良い。そのうちまた「銀の手」が来るだろうが、それは噂で分かる。そうなったらまた別の街に逃げるだけだ。そうして「狼の司祭」の足取りを追っていればいつか彼に追いつけるだろう。

 俺は斬られた右腕を布で覆って隠し、街の門を抜けた。その先には検問所があった。人狼発生の報を受けて街の自警団が設けたのだろう。万事休すかと俺の額に汗が垂れる。しかし、衛兵の誰にも声を掛けられることも無く、俺は検問を抜けることが出来た。衛兵の誘導に従うまま歩く。なぜだ? と一瞬疑問に思うも、上手くやりおおせたという達成感が胸の内を上書きする。きっと「銀の手」の連中はまだ調べた内容を自警団と連携していなかったのだろう、だから人狼の顔も名前も分からなかったのだ。これが後一日遅かったら検問で止められていたかもしれない。役所の仕事が遅くて助かったぜ。つい口角が持ち上がってしまったのを、俺は手で覆い隠そうとし、右手が無い事を思い出し、左手で代用した。

 ふと前を見る。俺の前には誰もいない。ただ街の外の草原が広がっているばかりだ。後ろからは街の喧騒が絶えず聞こえてくる。

「あ……?」

 おかしい。検問に並んでいた他の人間はどこに行った? 俺は後ろを振り返る。俺以外の全ての通行人は途中で右折するように衛兵に誘導されていく。俺だけが一人、その人々の行列からはじき出されていた。


 一陣の風が吹く。パタタッと何かが棚引く音がした。俺はそちらを見る。闇の中に一人の男が立っていた。

 夜に紛れるような闇色の司祭平服カソックは見覚えのある物だった。無造作に伸ばされた黒髪が夜風に棚引く。夜の闇の中で、それとほとんど変わらない黒目が確かに俺を見ていた。

 男の右前腕の半ばから伸びるそれは銀で出来た義手だった。男は今、背中の銀製の大剣を抜き放ち、その柄を義手の手の平の上に乗せると、左手で小指側面にある竜頭を巻き上げた。ギチ、ギチチと不快な金属音が響き、ゼンマイ仕掛けによって義手の指が剣柄を握りこむようにして固定される。

 風が逆巻くように吹く向きを変える。風下にいた男の体臭が俺の鼻にようやく届く。その髪に、体に染みついた血の臭いを最近どこかで嗅いだことがあると、そう思った。少し遅れて、斬り付けられた己の右腕からその臭いがしていたのだと気が付いた。

 これは獣の血の臭いだ。人狼の血の臭いだ。

 俺の目の前にいる男は、きっとその身に染みつくほど人狼の血を浴びてきたのだろう。

 ――こいつだ。こいつが「銀の手」だ。

 あの若い騎士に抱いたような疑問形ではない。奴は俺を街の外へと釣り出すための罠だったのだ。今まさに目の前にいる男。こいつが、こいつこそが人狼狩りの「銀の手」なのだと俺は確信した。

「なんだよ、それ……」

 俺はゆっくりとこちらへ迫る銀腕を遠ざけるために左手を振るう。だがその歩みが止まることは無い。俺はついには人狼の姿へと変身し、狩人を遠ざけようとするが、銀剣の一閃により、左腕も刎ね飛ばされた。

「アァァァッ! なんだよ、それぇッ! ズルじゃねえかよォッ! お前も、お前も俺から奪うのか! 今度は命までェッ!」

「……命を奪ったのはお前だろう」

 激昂する俺に相対する司祭服姿の男は拍子抜けするほど凪いだ口調でそう返した。

 男が逃げようとして転んだ俺に向けて、銀剣の切っ先を構えた。俺は揃って先の無い両腕を狩人に向けて伸ばす。跪いて抵抗の意思が無いことを示す。

「俺が悪いんじゃねえ、俺をこうした奴がいるんだ、俺はなりたくて人狼になった訳じゃねえ」

「『狼の司祭』はどこにいる?」

「三週間前にそこの南門で別れた。俺はあいつの臭いを覚えている。足取りを追える。なあ、見逃してくれよ……」

 真っ赤な嘘だった。人狼になったばかりの頃は嗅覚の使い方を正しく認識出来ていなかったため、「狼の司祭」の臭いなど覚えていない。だがここを生き延びて時間稼ぎ出来れば、こいつを殺して逃げるチャンスがいつか生まれるかもしれない。

 なんとか笑みを浮かべ、協力的な態度を見せる俺の左胸に銀剣が突き立てられた。俺の口から血が零れる。

「なん、で……?」

「それは嘘だ。お前は人狼になったばかりの頃は正しい鼻の使い方を知らなかった。知っていたなら、あの女性をもっと早くに狙っていたはずだ」

 俺の胸から血が零れ出て行くのと同時に、人狼として手に入れたはずの力が抜け出て行くのを感じた。それを留めようとして腕を振るうが、先の無い腕では何も掴めず、地に落ちた血の滴を掬うことすら適わなかった。

 俺は頭にはただ疑問だけが浮かんでいた。それが譫言のように零れていく。

「なんで……? なんで……、なんで俺が……」

 徐々に暗くなっていく視界の中で、目の前の男が十字架を胸元から取り出すのが見えた。沈んでいく意識の中で、男が唱えた祈りの言葉が微かに聞こえたような気がした。

「――我らを悪より救い給え」と。


 ◆◆◆


 検問所の衛兵から人狼討伐の報を受けたクルトは急いで街の南門を抜けた。

 横たえられた両腕の無い人狼の死体には布がかけられ、その傍らでは銀の腕の狩人、ネド神父が街の警備担当者と事務的な話を交わしていた。

 ネドは事後処理を街の衛兵へと引き継ぐと、全力で走ってきたせいか肩で息をしているクルトに声を掛けた。

「怪我は?」

「あ、ありません」

 クルトが顔を苦しそうに、そして悔しそうに歪めて答えた。彼の二つに裂けた右眉のうち片方はその動きに取り残されている。

「……申し訳ありません」

「最初の事件で生き延びただけでも功績だよ。それに加えて君は人狼の右腕を斬り落とした。お陰でこちらの仕事が楽だった。ありがとう」

「でも、もっと早くに人狼、ハンクを見つけられていれば、あの夫婦は殺されずに済みました……」

 今にも悔やし涙をこぼしそうなクルトの右肩を、ネドは左手でぽんと優しく叩いた。


 ネドとクルトの二人は人狼発生の報を受け、街に到着するなり二手に分かれ、ネドは教会を、クルトは自警団を当たり情報収集を開始した。最初は個人を標的にしていた人狼は途中、金貸しの事務所を襲い、従業員を皆殺しにして金庫から金を奪って以降、明らかに箍が外れている。人狼と金貸しの間に関係があったことは間違いない。幸い債務者のリストは手付かずだった。

 二人が情報を持ち寄ったその日の夜には人狼の候補としてハンクの名前が挙がっていた。

 油の卸売りの営業所に勤めていたハンクは営業先で出会った女性従業員クラリスに、衛兵から再三の警告を受けていたにもかかわらず付きまとい行為を行っていた。それが原因で今月初めにハンクは営業所を解雇されている。解雇通知の際に営業所長はハンク自身には大企業による油の買い占めで経営状態が悪化したためと通告したらしい。

『だって、本当の理由を言って暴れられでもしたら困るじゃないですか……』

 禿げ頭の所長は話を聞きに行ったクルトにそう証言したという。

 手切れ金としてわずかな金を受け取ったハンクは借りていた部屋へと帰ったが、そこに借金取りが訪れた。借金取りとのやり取りは大家が記憶していた。なんでもその後、大家とも一悶着あったらしく、ハンクは部屋を追い出されている。

『あの時は私も頭に血が上っていてね……。行く当ても無いようだったし、今頃どこで何しているのやら……』

 調査に訪れた際、クルトはその大家からある物を預かっている。金の入った封筒だった。

『追い出した時に落っことしていったらしくってね。後で見つけたんだよ。そのうち取りに戻ってくるだろうと思ってとっといたの。それでね、もしその時に壁のこと謝ってくれるなら、もうしばらくは置いてやってもいいって言うつもりだったんだけど、いつまで経っても来ないから……』

 つまり部屋を追い出された時点でハンクは一文無しだったことになる。

 それ以降の動向はネドの調査で明らかになった。付きまといの件で衛兵が描いてくれた人相書きを見せると、教会の炊き出しに参加していた事、そして近隣の浮浪者たちとトラブルを起こしていたことが明らかになった。

『いきなり金を盗んだだろうなんて言われて殴られたんです。そんなことを皆の前で言われたんですぜ。もしそんな噂が広まったら、誰も俺に売れそうなゴミの落ちている場所のことを教えてくれなくなる。物の交換をしてくれなくなる。俺たちにだって仲間内での信用ってものがあるんです……』

 何も殴って追い出すことは無いだろうと眉根を顰めるネドに対し、浮浪者の男はそう言い訳をした。ハンクの家財道具を奪ったことを咎めると、浮浪者たちは皆、気まずそうに眼を逸らし、言った。

『追い出した時はいい気味だって思っていました。……でも後から、ここに来たってことは、俺たちと同じように追い詰められて、何かに裏切られて、そうなっちまったんだろうと思い直しました。だからもしあいつが戻ってきたら、謝ろうと、奪ってしまったものを返そうって、皆で話していたんです……』

 その後のハンクの足取りは追えなかった。負っていた怪我は軽いものでは無かったはずだが、治療を受けた形跡も無い。おそらくそのタイミングで「狼の司祭」と接触したのだろうとネドは想像した。というのもその後見つかったハンクの行動が名前の同じ別人の行動ではないかと思えるほどに派手な物へと変質していたからだった。

 自警団員の協力によって、ハンクは街で一番の高級宿に連泊していることが判明した。明らかに過剰なチップを渡すハンクは従業員たちにいけ好かない成金だと思われていたようだ。彼がそうとも知らず、「ああいうのが人狼に襲われるんでしょうね」と言う者もいたらしい。

『金持ちが好みの人狼ってことですか。辻褄は合いますね。この街の人狼は身形みなりの良い男性ばかり狙っていて、犯行後に財布を抜き取っていますから』

 クルトはそう推察したが、ネドの考えは少し違った。

『おそらく少し違う。私見だが、こいつの好みは「自分よりも金持ちそうに見える人間」だろう』

『……好みとしては主観過ぎじゃないですか?』

『そう、それこそがこの人狼の特徴だ。極めて主観的。身体的特徴や社会的役職で襲う相手を選択する「客観型」の人狼とはまったく異なる。こういう手合いは気まぐれで、好みつまりは「殺せる人間の範囲」が広まる速度が異様に早い』

『根拠を伺っても良いですか……?』

『もしハンクが金持ちを殺す人狼なら、末端の借金取りは殺さない。浮浪者を殺さない』

『主観的に見ても、金持ちそうに見えはしないと思いますが……』

『だからハンクは途中から殺した後に金を盗むのを止めたんだろう。自分が一銭も持っていないから、施しを受けた浮浪者という「自分よりも金持ち」な相手を殺すことが出来た。ハンクが自分の好みを把握しているかどうかは怪しいが、少なくとも奴は少しでも好みの範囲を広げようとする行動を取っている。それを満たせないときは不快感を覚えたはずだ』

 そして今日、聞き込みによってハンクがクラリスに街中で再び接触していたことが明らかになった。それが分かった時にはすでに日が沈みかけていて、クルトは急いで彼女と彼女の夫が暮らす住まいへと向かったが、その凶行を防ぐことは適わなかった。


「俺が一人で向かうのではなく、先に神父様に報告するべきでした……」

「それでもきっと間に合わなかった」

 クルトは人狼の右腕を斬り落としはしたものの、その返り血に視界を奪われ、逃走を許した。その後、ハンクのねぐらである宿でネドと合流し、状況を連携した。ネドは人狼の逃走経路を予測し、南門の検問所外に張り、衛兵たちにハンクが来たら、彼だけを自分の方へと誘導して欲しいと伝えたのだ。

「なぜ、ハンクが南門から逃げると分かったのですか?」

「彼が司祭服姿の男、おそらくは『狼の司祭』と南門で別れの挨拶を交わしているところを見たと証言してくれた衛兵がいたからだ」

「それだけで……?」

「ハンクは行動パターンから見ても、極めて主観的で身勝手な、他責思考の強い性格だ。そういう人狼が狩人に右腕を奪われて、辛くも逃げおおせた時にどういう風に考えるか想像してみろ。なぜ人狼である自分が傷つけられ、追い回されなければならないのか?」

「いや、あいつが人を殺したからでは……?」

「違う。人狼はそうは考えない。斬り付けられたのは狩人のせいだ。人狼の発生を通報した市民のせいだ。ひいては自分を人狼にした『狼の司祭』のせいだ、と考える。だから逃げるとするなら『狼の司祭』を追うために南門からの脱出を選択するだろうと思った」

「見てきたように言うんですね……」

「長いことこんなことを続けていると、人狼と思考が似てくるのかもしれん」

 ネドとクルトは連れ立って、街へと戻る。被害者の数から見て、この街に発生した人狼はハンク一匹だけだろうが、「狼の司祭」が他にも「狼血」をバラまいた可能性は否定しきれない。

「『狼の司祭』を追いますか?」

 クルトの問いかけにネドは首を横に振った。

「この街に隣接している村の教会には報せは出したし、神父様にも報告済みだ。奴を追うのは教会本部に任せよう」

「……逃げられましたね」

「ああ、だが近づいてはいる」

 新入りの騎士を励ますためにネドはそう口にしたが、内心疑問を抱えてもいた。なぜ「狼の司祭」は人狼の群れを作ろうとせず、たった一人だけを人狼へと変えて、この街を去った? それにクルトの話ではハンクは銀剣を一切警戒していなかったという。おそらく「狼の司祭」から情報を与えられていなかったのだろう。それではまるで、ハンクをこの街で派手に暴れさせて、「銀の手」に殺させることだけが目的だったかのようではないか。

 まだ見ぬ敵の、その見えざる意図に、ネドは薄気味悪さを感じずにはいられなかった。


 ◆◆◆


 司祭平服に身を包んだ巨躯が礼拝堂の扉を開くと、幼い声が彼を迎えた。

「おかえりなさぁい。遅かったね、ハール」

 椅子の上に体を横たえ、お行儀悪く足をぱたぱたと動かす修道女服姿の「狼の母」を見て、男は溜め息を吐いた。

「私のことは『狼の司祭』、もしくはウスキアスと」

「はい、はぁい」

 聞いているのかいないのか、修道女服姿の少年は不真面目に返事をしてから、体を起き上がらせてきちんと椅子に座り直す。

「司祭様、それでどうだったんですか、例の『銀の手』は?」

「……すでに報告は行っていると思いますが?」

「君の口から聞きたいんだよ」

 一瞬だけぞっとするほど冷たい表情を浮かべた後に、どうせ暇だし、と「狼の母」は笑った。ウスキアスが椅子を軋ませながら、腰を下ろす。「狼の母」はわざわざその隣に腰掛け直した。

「彼らをおびき寄せ、その手並みを拝見するために、私は街で人狼に出来そうな人間を探していました。そこで、ハンクという男と出会い――」

 ウスキアスが語る物語に、「狼の母」は時折相槌を打ち、感嘆の声を上げたが、余りにわざとらしいので演技であることは明白だった。話しているうちにどんどんとウスキアスの眉間に皺が寄っていく。「狼の母」は基本的に人の話を聞く気が無いため、合いの手を入れるタイミングがおかしい。そのため、話をさせられているのに、話を聞いていないことへの苛立ちが募ってくる。余計な口を挟まない分、壁に向かって話している方がまだマシだった。「狼の司祭」は最終的には少年の方を一切見ずに、自分の目の前の明かりの点いていない燭台に向けて話を締めくくった。

「――かくして、ハンクは狩人によって殺され、獣害事件は終息しました」

「めでたし、めでたし~」

 話の締めを茶化し終えた「狼の母」は少しだけ思案した後、口を開いた。

「要するに、そのハンクって男の自業自得だったってこと?」

 その感想を聞いたウスキアスの口角がわずかに持ち上がる。

「私はこの話を聞いて、彼、ハンクのことを『自業自得だ』と評価してしまう者は、少なくとも彼と同程度には人狼に向いていると考えます」

「へえ」

 にやりと今日初めて、「狼の母」が彼本来の笑みを見せた。それを見たウスキアスの口調がにわかに勢いづく。

「その言葉一つに無数の判断基準が含まれます。高い攻撃性。すべてを二元論で割り切ろうとする単純さ、あるいは割り切れると信じる蒙昧さ。他者に対する共感の欠如。自らを省みることの無い他責思考。無責任で身勝手な幼児性。そして何よりも肥大しきった自我。これらは全てハンク自身が備えていた物でもあります」

 だからもしハンクに名前を伏せて、同じ話を聞かせたら、彼はきっと「そいつの自業自得じゃねえか」と笑うでしょう、と司祭は語る。

「誤解無きように言っておくと、最初こそ『銀の手』の試金石として用意したつもりでしたが、途中からハンクは私の期待を大きく上回ってくれました。特に私が勝者の権利として教えた紙幣の窃盗を、彼は最終的に自らの考えで放棄した点。貨幣の神話を捨てることが出来る者は多くない。彼には狼としての才能があったと、私は評価しています」

「それにしても毎度毎度よくまあ、そんな都合良く人狼に向いている人間を見つけてくるよね」

「見れば分かりますから」

「才能だね」

 事実「狼の母」の知る限りにおいて、過去これほどまでに多くの人間を人狼に変えた者はいなかった。彼、ハール・ナッシュは間違いなく、歴代のウスキアスの中でも最高の見極めの才を持つ「狼の司祭」だ。

 彼は相手の表情や仕草を見るだけで、その者が人狼になることを選択する人間であるか否かを大まかに選別できる。そして選別した中から懺悔や生活の相談と称して生い立ちや悩みを聞き出せば、人の群れの中に潜む狼をほぼ確実に特定出来るという。もし違えば、そのまま善良な神父として、彼を励まし、彼のために祈り、彼を再び日常へと送り返すだけだ。

 歴代の「狼の司祭」たちはその線引きを見誤ったがゆえに、人狼を増やし切れず、あるいは人狼に裏切られ、もしくは人狼にまで踏み切れなかった者が教会へと通報したために、捕まり、殺された。

 もしハールが真っ当な神父として、あるいは街の警邏として活動していたなら、その街の犯罪はいったいどれだけの数が事前に防がれたことだろう。しかし天は彼にその道を選ばせなかった。

「で、肝心の『銀の手』はどうだったの?」

「邪魔ですね」

「へえ、君にそこまではっきり言わせるんだ」

 ウスキアスにというよりもむしろ騎士団「銀の手」に感心した様子で、「狼の母」はわざとらしく驚いてみせた。

「ハンクを人狼にするときも邪魔だった?」

「いえ、彼くらい追い詰められていればどうとでもなります。問題はこれから邪魔になる、ということです」

「ああ、確かに第二波にとっては邪魔だね」

 第一波、第二波というのは彼らの間での造語のようなものだった。ハンクのようなすでに社会的に追い詰められ、社会を構成する共同幻想「神話」を信じることの出来なくなった人間、自ら好き好んで人狼になることを選択するタイプを第一波と呼び表している。

「はい。第二波では『このまま人狼に殺されるか、それとも人狼になって人狼を殺すか』という強制的な二択を、人狼で無いすべての人間に問う予定でした。後者を選択する人間が一人増えるたびに加速度的に社会は崩壊していく、はずでした。だが彼らが存在すると第三の選択肢が生まれてしまいます」

 人狼に殺されるか、人狼になって殺すか、それとも対人狼騎士団「銀の手」に相談するか。多くの人間は極端すぎる前二つを避け、第三の選択肢に頼るだろう。

「疑心のあまり、殺すか殺されるかという視野狭窄な二択に陥ってくれなければ、人狼への適正の無い人間を人狼に変えることは出来ません」

「邪魔だねえ」

「邪魔、ですね」

 二人の声が仄暗い礼拝堂の中に木霊した。わずかな沈黙の後、「狼の母」は隣の司祭の肩に頭を預けて、目を閉じ、呟いた。

「まあ、ハールのしたいようにしなよ。あはは、話し合って邪魔しないようにお願いしてみる、とか良いんじゃない?」

「心にも無い事を……」

 嘲笑った後に眠りについた「狼の母」の首輪の容器を新しい物へと入れ替え、「狼血」で満たされた古い容器を懐へとしまう。「狼の司祭」は彼の眠りを妨げぬように席を立ち、その小さな体を両手に抱きかかえると、音も立てずに静かに礼拝堂を後にした。かすかに拭われた埃の他に、二人がここにいたことを示す痕跡は何も残されてはいなかった。

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