人狼になった男1
その日が人生最悪の日になるかどうかなんて朝起きた時には誰にも分からない。
けれども虫の知らせというのはあるもので、俺にとってのそれは昼休みの最中に営業所の所長室に呼ばれたことだった。
所長はおそらく口を半開きにしたまま呆然としていただろう俺に対して、その禿げ上がった頭を深々と下げた。その直前に彼が告げたのが俺の解雇通知でなかったら、俺は鏡面のように光を反射するその頭部に笑いを堪えなきゃならなかっただろう。そして絶対にその方がマシだった。
「クビってことですか……?」
「本当にすまない……!」
禿げ頭が言うには、近頃この辺りに進出してきた競合相手が貴族から資金援助を受けているらしく、売るはずの油が買い占められ、ほとんど入荷出来ない状況にあるとのことだった。多くの所員を抱えたままでは営業所の経営が困難になったから辞めてくれ、と所長は言った。
「そんな急に言われたって……」
渋る俺に禿げ頭は机から封筒を取り出すと、再び頭を下げ、俺の胸に封筒を押し付けてきた。急な話で申し訳ない、今用意できる精一杯だ、と言って渡された封筒の中には一か月の給金の三分の一にも満たないわずかばかりの現金が収められていた。
「どうするかなぁ……」
営業所の私物をまとめ、殺風景な自室に投げ捨てるように置いたあと、思わず口から独り言が飛び出た。職無しになってしまった。貯えは無い。さっき手切れ金とばかりに渡された封筒に入った退職金があるばかり。どうして俺ってば貴族に生まれなかったんだろうなぁ、と呟いて薄い寝床に横たわる。貴族に生まれていれば働かなくても暮らしていけたのに。ズルいよなあ。隣国では市民たちが皇帝を引き摺り下ろして投獄したと聞く。うちの国でも起きないかなあ、そうすれば貴族の連中を思い切り殴って、蹴り飛ばして、そうしたらどれだけ気分が晴れるだろう、と俺が空想に浸っていると、まるで殴るような勢いで部屋の扉が叩かれた。そして怒鳴り声が続く。
「ハンク! てめえ、いつになったら金返すんだ!?」
俺は重い腰を持ち上げて、扉を開ける。本当は開けたくなかったが、開けずにいるとこの男は部屋の扉を靴で蹴ってへこませていくし、仮に本当に用があって留守にしていたのだとしても、いなかったことを理由に次回難癖をつけてくると分かっている。
「ボガードさん……」
俺がゆっくりと扉の内鍵を開けると、金貸しのボガードは扉を勢いよく開き、扉が俺の鼻にぶつかった。鼻を打ち付けて悶える俺を見てボガードは「ああ、悪い」と言ったが、わざとやったに決まっている。ボガードは許可を取りもせずに部屋に上がると床に腰掛け、「相変わらず椅子もねえのか、この部屋は」とぼやく。元はあったのにお前が金を返せと言うから売り払ったんだろうが、とは言えなかった。言ったら殴られるに決まっている。
ボガードがまるでこの部屋の主であるかのように、座れよ、と顎で仕草したので、俺は彼の前に膝をつく。自分が一際小さく感じた。
「で、返す当ては出来たのか?」
「俺だって返せるものなら返したいですが……」
「嘘つくんじゃねえよ、このカス野郎。てめえ一度だってうちに直接金を持ってきたことねえじゃねえか。俺がこうして取り立てに来なかったら払わねえで済むと思ってんだろうが」
「そんな、滅相もない……」
ボガードが営業所から持ち帰った荷物を手遊びに漁る。硬貨の一つでも入っていないものかとでも思っているのだろうが、そんなものは無いことは俺が一番良く知っていた。しかし、今日は違うのだということをボガードが怪訝な顔で取り出した封筒を見て思い出した。「あ」と俺が気付いた時にはもう遅く、ボガードは中身を検めていた。
「なんだ、あるんじゃねえか。あるなら持って来いよ。まあ、この額じゃ足りねえが。それにしたって返済する意思を見せてくれりゃあ、俺だってわざわざ来ないで済むってのに……」
そこまで言って、あまりに不自然なその金を訝しんだのか、ボガードが俺を睨みつけた。
「……おい、ハンク。この金、真っ当なモンだろうな? 盗んだ金とかじゃ……」
「ち、違いますよ! そこまで落ちちゃいません! ……退職金に貰ったんです」
「退職ぅ?」とボガードの眉間に深い皺が刻まれた。
「……辞めたのか?」
「なんでも経営が困難になったとかで……」
「クビか」
「……はい」
はあああ、とボガードが深いため息を吐いた。
「どうすんだ、お前。借金あるのに。この部屋の家賃だってあるだろう」
「どうしましょうね……?」
「俺に聞くんじゃねえよ、莫迦野郎」
笑うしかないと思って、あははと笑うと怒鳴られた。
再度ボガードはため息を吐くと、中から数枚の紙幣を抜いて、封筒を俺に投げて寄越した。
「これだけ貰っていく。俺も仕事だからな。その金で次の仕事探せ」
「え?」
「なんだ? 全部取られると思っていたか?」
「は、はい……」
俺が口をぽかんと開けていると、ボガードが顔を近づけ、俺と目を合わせた。
「ハンク。お前は勘違いしているようだから言っておくがな、俺は別にお前を殴りたいわけじゃない。殺したいわけでもない。ただ金を返して欲しいだけなんだ。なんでか分かるか? 貸した金を回収できないと俺が上司に怒られるからだ」
だからお前に職無しの無一文のままでいられちゃ困るんだよ、と言って、ボガードは立ち上がり、「じゃあな」と言うと部屋を出て行った。俺がほっと胸を撫で下ろすと、再び激しい音を立てて扉が開いた。戻って来たボガードが乱暴に扉を開き、俺を指差す。
「言っとくがこれを機に逃げようなんて思うんじゃねえぞ。そうなったらうちの優しいボスもこれまでみたいに優しくしちゃくれない。まあ、それでも鮫の餌が良いか、豚の餌が良いかくらいは選ばせてくれるだろうが……。分かったな?」
俺が何度も首を縦に振るのを見ると、満足したのか、ボガードは笑って再び乱暴に扉を閉めると今度こそ去っていった。
ボガードと入れ替わるように部屋の大家が顔を見せた。
白髪交じりの大家はボガードが蹴ったことで出来た扉のへこみを見ると、露骨に顔を顰めた。
彼女は「家賃」とだけ告げると、こちらに向けて手を差し出した。
「その、それが、もうちょっとだけ待っていただくわけには……」
「アンタ、先月もそんなこと言っていたじゃないか。それにさっきの男に払う金はあるのに、うちには払えないってのかい?」
「いや、その……」
「……さっきの男としてた話、聞いてたよ。仕事クビになったそうじゃないか」
聞いてんじゃねえよ、クソババアと内心で毒づく。じゃあ金が無いことも分かっているはずだ。だというのにこうしてわざわざ文句を言いに来た。そもそも会話の内容が筒抜けになるくらい壁の薄い安普請の空き部屋を埋めてやったんだから逆に感謝してもらいたいくらいだ。「聞いてんのかい!?」と大家が大声を上げる。
「……払えないんじゃ、来月には出て行ってもらうからね」
「ちょ、ちょっと待ってください……」
「もう充分待ってるんだよ、こっちは!」
俺は慌てて部屋の中に引き返し、封筒を掴んで大家へと差し出す。
「こ、これでなんとか……」
大家が眉根を顰めながら、封筒の中身を確認する。そして吐き捨てるように言った。
「滞納分と合わせたら全然足りないよ。それにアンタ、この金をここで使っちまったら本当に素寒貧だろうに。どんだけ莫迦なんだい。もうちょっと考えて行動しなさいよ。あの金貸しの方がよっぽど賢いじゃないの」
封筒の中身を戻してから大家は背中を向けたが、その姿は俺の目に入っていなかった。
ボガードの方が賢い? あの、粗野で乱暴で、暴力でしか人に言うことを聞かせられないやくざ者のボガードより俺が莫迦だと? カッと頭に血が上り、目の前が真っ赤になる。玄関横の壁に力任せに拳を叩き付けると、バキッと音が鳴って壁に穴が開いた。音に驚き、大家がこちらを振り向く。壁に開いた穴を見てみるみる顔色が変わり、俺の腕を掴むと部屋の外に引っ張りながら言う。
「出てってくれ! 今すぐ!」
「ちょ、ちょっと待って……」
「出て行かないなら衛兵呼ぶから! あたしはそれでも構わないよ! そうなったら壁の修繕費も、過去の扉のへこみの修繕費もアンタに請求できるしね! さあ、それが嫌なら、出て行っておくれ!」
これも火事場の馬鹿力というのか、老婆は俺を部屋から引っ張り出すと、部屋にずかずかと入り込み、私物を次々に部屋の外へと投げるように運び出して、扉の鍵を閉めてしまった。
「もう金輪際、うちに近づかないで頂戴! 未納だった分の家賃ももう結構! アンタみたいな貧乏神と手が切れるなら安いもんだと諦めるから。さあ、出て行った、出て行った!」
俺は目を吊り上げた大家に見られながら、私物をかき集め、寝具を紐で束ねると自分の家だったはずの場所から逃げるように立ち去った。
最初は壁に穴を開けてしまった手前、申し訳ないという気持ちもあった。大家が怒るのも当たり前だとも思った。だが、時間が経つほどに何も追い出すことは無いのではないかと思えてきた。だいたい金が無いことは話を盗み聞きしていたなら分かっていたはずだ。扉のへこみだって俺が付けたものじゃない。それを頼んでもいないのに勝手に直して、勝手に家賃に組み込んだのはあの大家自身じゃないか。それこそボガードに請求すべきだ。そうしなかったのはボガードが怖かったからだろう。
卑怯だ。と俺は大家を呪う言葉を吐いた。そうだ、俺はちゃんと働いて金を稼いでいたのに、あの老婆は何をした? 親から受け継いだだかなんだか知らないが、ぼろぼろの建物の一室に人を住まわせて金を取っていただけじゃないか。卑怯者、卑怯者と悪罵が口からあふれて止まらない。
どれだけ大家を呪ってみたところで、今の俺は職どころか宿も無くしている事実は変わらず、怒っても腹が減るだけだと気付いて口を閉じた。どこで寝よう、でも宿を取ろうにも金が無い、そういえば腹も減った、とふらふらと街をうろついて、歩き疲れて教会の前の公園へと辿り着いた。炊き出しを求めて集まった浮浪者たちの饐えたような体臭に吐き気を覚える。炊き出しの列に並ぼうか並ぶまいか悩み、ここに並んだら人として終わりだと思いながらも、結局は空腹には勝てずに列に並び、俺は薄い上にぬるい芋のスープを受け取った。浮浪者に囲まれて飲むそれは鼻を指で摘まんでいないと戻してしまいそうだった。
俺は寝具を公園の地べたに敷いて横になった。周囲は垢塗れの服を着た浮浪者たちばかりで、こいつらと同じだと思われているのかと思うと、恥ずかしくて、惨めで、死にたかった。
でも俺には金がまだある。わずかだけど、これで住めるところを探して、それから新しい仕事を探して、……逆の方が良いかな? とにかく一刻も早くこんなところから抜け出そう。そうだ、それでその後は、嫌だけれどボガードに連絡を取らないと。逃げたと勘違いされて本当に殺されてしまうかもしれない。
今が冬じゃなくて、それだけは本当に良かった……、と季節にだけわずかな感謝をして、俺は眠りについた。
翌朝、俺は起きると決意で漲っていたように思う。
追い詰められたことで今までに無いほどやる気に満ち溢れていた。とにかく肉体労働でもなんでもいいから即金が手に入る仕事を探そう。その金で部屋を借り、そこを拠点に仕事を探す。やることを決めると腹が減った。炊き出しは今朝も昨夜と同じ芋のスープで、あれでは力が入らないと判断した俺はまともなものを食おうと懐に手を伸ばして、そうして気が付いた。
封筒が無い。
金の入った封筒が消えていた。持ち出したわずかばかりの家財道具を全てひっくり返すが、退職金の残りが入った封筒は見つからなかった。顔から血の気が失せていくのが分かる。
なんで無いんだ? どこかで落としたのか? それとも――
俺は思わず周囲を見渡した。服も皮膚も垢に塗れた数十人の浮浪者がそれぞれ公園の片隅で呆けた顔で次の炊き出しまでの時間を潰していた。俺はその中の一人に近づき、恐る恐る声を掛けた。
「な、なあ、あんた……。このくらいの大きさの封筒を見なかったか……?」
俺は両手で長方形を作って封筒のだいたいの大きさを再現しつつ、話しかける。
声を掛けた浮浪者は虚ろな目を俺に向けると、言葉は発さず、ゆっくりと首を横に振った。首の動きに合わせて顎下の長い灰色の髭が揺れた。俺はその老人を疑いながらも、彼の焦点の合わない斜視のグレーの瞳を見て気味が悪くなり、距離を取った。そしてその隣に陣取っている浮浪者の男にも同じように声を掛けるが、返事は似たようなものだった。公園中の浮浪者に聞いて回る俺の後ろで、ハハハと笑い声が聞こえて、俺は思わず振り返った。二人の浮浪者が笑っていた。俺は目の前で質問に答えようとしていた男を放って、その二人の元へ歩みを進めた。俺の姿に気付いた一人が言う。
「ん? なんだ、あんた、新入りか……?」
「なあ、今、俺のことを笑ったか……?」
「は?」
俺はとぼけた顔をする男の胸倉を掴む。饐えた獣のような臭いがする。吐き気がした。
「『は?』じゃねえよ。今、俺のことを笑っただろうが」
「なに言ってんだ、俺はただこいつと話してただけで……」
「うるせえぇッ! てめえだろうッ!? 俺の金ェ、返せよォッ!」
目の前が怒りで真っ赤に染まる。俺は今日やる気に満ちていたのに、今日を切っ掛けにやり直しを始めるつもりだったのに。それをこの汚らしい手遅れの底辺カス野郎が邪魔をしやがった。
胸倉を掴んでいる奴と共に俺を笑ったもう一人が俺を止めようと腕を掴む。その真っ黒な爪垢が俺の服に付くのが見えて、生理的嫌悪感から思わず振り払った拳が男の左頬を直撃し、後ろに倒れた。
「何しやがんだ!」
「それはこっちの台詞だ! 出せよ! 封筒! 俺の金! 返せよ! 返せェッ!」
「意味分からねえこと言ってんじゃねえぞ、イカレ野郎が!」
男が俺を殴る。口の中に血の味が広がる。汚ねえ手で触るんじゃねえよ、と、社会のゴミが俺の足を引っ張ってんじゃねえよ、という台詞が口の中で血と絡んで、意味をなさず、叫びとなって俺の口から飛び出した。男を押し倒し、馬乗りになって殴る俺を無関係な浮浪者が止めようとしてきたので、肘鉄を鼻先にくれてやると鼻血を出して呻いた。なんだ、なんだと公園中の浮浪者が集まってくる。
俺が更に目の前の男を殴ろうとしたその時、体に衝撃が走り、瞼の裏に星が散った。地面に倒れ伏したまま、後ろを見ると先程左頬に一撃加えてやった男がどうせどこからか盗んだ物であろう物干し代わりに使っている角材で、俺の頭部を殴ったようだった。殴られた部分から血が流れ、視界が真っ赤に染まる。俺がその武器を奪おうと手を伸ばしたところに再度角材が振られ、指に直撃し、右手の人差し指が曲がってはいけない方向に曲がった。悲鳴を上げる俺の上に浮浪者が跨り、仕返しとばかりに拳を振るう。俺は指の折れた手で顔を庇う。血の臭いと獣のような体臭が混じる。えづく。泣きながら芋交じりの胃液を吐いた俺は気付くと公園の外に追い出されていた。
散々殴られたせいであばらと背中が痛い。指だけでなく腕の骨も折れているようだった。俺はふらふらと立ち上がり、公園を立ち去ろうとして、荷物を置いたままにしていたことに気付く。昨日寝床にしていた場所に戻ると、何人かの浮浪者が俺の荷物を漁っていた。叫び声を上げながら俺は突進するが、痛みのせいか途中で転んでしまう。
「こいつは迷惑料として貰っとくぜ」
俺の金を盗んだに違いない男が寝具を持っていった。
「やっぱりなあぁ! てめえじゃねえか! そうやって金も盗んだんだろう! クソ野郎! カスが! 死ね! 死ねよぉ! 返せ! 返せえッ!」
「うるせえんだよ、気違いが!」
男が足に縋りつく俺の横面を蹴り飛ばした。
「俺は盗んじゃいねえよ。だが、どうせそもそもが盗んだ金だろう? てめえが盗人だから、他人様のことも全員盗人に見えるんだろうが。他の荷物だって盗品じゃねえのか?」
「違うぅっ!」
俺が跳びかかろうとして再び転ぶと、周囲から笑い声が聞こえた。俺は声のした方を見る。さっきまで俺を取り囲んでいた垢塗れの浮浪者たちが遠巻きに俺を見て笑っていた。今度こそ間違いなく俺を笑っている。
俺の荷物を漁っていた数人が、俺の手足を掴む。地面を引きずって公園の外に放り出された。服が破れ、腹部に穴が開いた。男は俺の腹に一発蹴りを入れた。思わず腹を抱えて悶え苦しむ俺の横顔に何か生暖かい液体がかけられた。遅れて唾だと気付く。
「もう二度とこの場所に顔見せるんじゃねえぞ」
男たちは去っていき、また俺の荷物を漁り始めていた。俺はよろよろと腕を庇うようにして立ち上がり、彼らから見えないように路地裏へと逃げ込んだ。血と涙と胃酸交じりの芋のスープで汚れた顔面を穴の開いた服で拭う。
「う、うう、うぅぅ……」
知らず嗚咽がこぼれる。血の混じった涙と唾液が服に付いた砂をさらに重くして、俺は壁を背に崩れるようにその場にしゃがみ込んだ。
それからどのくらい時間が経っただろうか。
俺は痛む体を引き摺るようにあの公園から遠ざかり、汚い物を見る街の人々の目から逃げるように狭く暗い路地へとたどり着き、小さくうずくまっていた。俺の血を吸った服は重く、最早立ち上がる気力もなかった。折れた指は紫に染まり、体中は痣だらけだった。しかし医者にかかろうにも金は無い。
ぐうぅと長い腹の音が鳴った。腹が減った。今やあの薄くぬるい芋のスープさえ恋しく思えた。あの教会前の公園に戻って炊き出しを受け取ろうかという考えが頭によぎった。しかし、近づけば今度こそ殺されてしまうのではないかとも思えた。人の金、家財道具、それらを盗んで平然としているような連中だ。人殺しくらい顔色一つ変えずに行うだろう。
その時、ちゃりんと俺の横に金属製の何かが落ちる音がした。視線だけをそちらに向けるとそれは硬貨だった。俺は顔を上げる。硬貨を投げたのであろう帽子を被った紳士服の男は俺のことを一瞥もせず、振り返ることもせず、平然と歩き去って行った。きょろきょろと周囲を見渡す。俺の他には誰もいない。俺は落ちた硬貨に飛びついた。月明かりを浴びて輝く黄金色が、今の俺の目には神聖ささえ帯びて見えた。
俺は閉店間際のパン屋へと入り、ひったくるように売れ残ったパンを掴んで店員に先程のコインと共に差し出した。店員は俺のなりを見て強盗かと表情を強張らせたが、取り出した硬貨を見ると警戒を解き、会計を済ませてくれた。俺は店の外に出るとその場でその固く冷えたパンにかぶりついた。がつ、がつがつと最早他の何も目に入らぬほどの必死さで、パン粉の一欠けさえ落とさぬように俺はそれを腹へと入れた。
腹が膨れると、自然と涙が零れてきた。あの紳士は俺に施しをしたのだと気が付いたからだ。この通りは彼の仕事の帰り道なのだろう。そこに見慣れぬ乞食がいたから、彼は己の信仰心に従ってわずかばかりの硬貨を恵んだのだ。憐れまれたのだと気が付いて、俺は地面に膝をついた。両手を拳にして地面に叩き付ける。折れた指が痛くて更に涙が出た。拳を打ち付けるたびにあの紳士への感謝の気持ちと同じくらい大きな怒りと、恥と、惨めさが胸中に沸き起こった。
「おぉぉ……! うぅぉぉっ……!」
俺はもう何を言えば良いのかも分からずにただ吠えた。やがて俺は体の痛みに耐えかねて崩れるように地面に横たわった。もう死んでしまいたい。その思いだけが、疲れ切って寝そべる俺の胸にぽっかりと開いた穴の中から這い出てきて、やがて頭の中はそれだけになった。
そうだ、もう死んでしまおう。死ねば金も返さなくて済む。金を盗まれることも、誰かに殴られることもない。乞食扱いされて憐れまれることもない。そう決意しても尚、俺の体は地面に寝そべったままで指の一本も動かそうと言う気にはなれなかった。
その時、俺の顔にかかる月明かりを何かが遮った。大きな人の影。
「鳴き声がすると思って来てみれば、これはまた随分と大きな野犬ですね……」
二メートル近い巨躯を夜の闇に紛れるような真っ黒な司祭平服で覆った男が俺の前に立っていた。男の掛けた眼鏡に仄白い月光が照り返し、その視線は窺えない。男は俺に手を差し伸べて、立ち上がらせ、肩を貸すと、月明かりの他に何も光の無い路地裏をまるで自分の庭であるかのように歩き始めた。俺はただ彼に体重を預けて、なされるがままに運ばれていった。
それが彼、ハール・ナッシュとの出会いだった。
司祭服姿のその男は俺を彼の借りている部屋へと運び込むと、怪我の手当てをしてくれた。指だけでなく、やはり腕も折れていたらしく、俺は彼にされるがままになって、添え木を当てた右腕を包帯によって首から吊るした。
「飲み給え」
司祭らしき男はカップに湯気の立つ紅茶を注ぎ入れると砂糖をふんだんに入れて、俺へと寄越した。俺は慣れない左手でカップを掴み、作法も知らぬまま紅茶に口を付ける。熱さに唇が焼けそうになって思わず一度遠ざけてから、今度は息を吹きかけて冷まし、ゆっくりと飲んだ。口の中に花のような香りと甘さが広がった。俺は思わず緊張がゆるみ、まなじりから涙が零れた。
「ありがとう、ございます……」
「君、名前は?」
「ハンク、です。神父様……」
「そうか。ハンク、私はハール、ハール・ナッシュだ。よろしく」
ハール神父が左手を差し出したのを見て、俺は慌ててカップを置いて、左手で握手に応じた。軽く手を握ると、彼のその大きな手が強く、しかし優しく、俺の手を握り返した。握手なんてしたのはいつ振りだろうと俺が考えていると、彼の右手が俺の肩にそっと触れた。傷が痛まぬようにしてくれているのだとその動きだけで分かった。
「何があったか話してくれるかな?」
「い、いえ、そんな、神父様にお話しするようなことじゃ……」
「ではなぜ泣いていたんだい? 君が本当にただの乞食としてあの場所にいたのなら泣きはすまい。それにこんな怪我をして」
「そ、それは……」
俺は気付くと彼に促されるまま、仕事をクビになってからあの路地裏に辿り着くまでのことを全て彼に話していた。彼は俺の言葉を遮らず、時たま俺の詰まった言葉を促す時だけ、手を貸しでもするかのように口を挟み、そしてまたその言い表し方が俺の言いたかった通りの言葉を、正解を教えてくれるので、話し終わる頃には俺はすっかり気分が良くなって、辛かったことを話しているはずなのに彼にもっと話を聞いて欲しいとまで思うようになっていた。
「辛かったろう。ここには君に危害を加えるものは何も無い。安心して体を休め給え」
紅茶をもう一杯飲むかね? と聞かれてから、俺は喉の渇きに気付き、頷いた。
「しかし、君はそもそもなぜ借金を抱えることになったのだね?」
ハール神父は紅茶のおかわりを空になったカップに注いでから、そう問うた。俺は思わず歯噛みした。嫌なことを思い出した。人に聞かせるような話ではないと分かっていたが、俺はその時、目の前の彼なら聞いてくれるという確信に近い気持ちを抱いていた。
「……騙されたんです」
「誰に?」
「クラリスという女にです。仕事先で知り合って、それで……」
「恋人だった?」
「……俺はそう思っていました」
言い淀んだ俺の言葉を継ぎ、促すように合いの手を入れる神父に補助されるまま、俺は話した。
「でもそう思っていたのは俺だけだった。散々鞄だの、靴だの、ネックレスだのを贈ったのに、あの女、他に付き合っている男がいたんです。それを隠してた。挙句、俺に付きまとわれているなんて噂を流して衛兵に突き出そうとしやがった……」
「その彼女への贈り物のために金を借りたのかね?」
「……はい」
躊躇いの後、頷いた俺の内心を見透かすように、神父が微かに笑った気がした。彼の大きな手が再び俺の肩に置かれ、俺は飛び上がりそうになった。
「ハンク、私の前でまで隠し事をする必要は無い。贈り物のためだけではない。そうだね?」
「……はい」
ああ、この方には全てお見通しなのだ、と俺はいっそ跪きたい気持ちにさえなった。そして俺は己の莫迦さ加減を象徴するような恥ずべき過去を彼に語った。
「……見栄を張ったんです。彼女に、良い男だと思われたくて。金を持っていると思われたくて。高級品の服を身に着けて、かなり良い店に食事に連れて行ったりして……」
「その見栄を維持するためには、随分と金が入用だったろうね。それこそ己の給金を遥かに超えるような額が」
「はい。それで、そのために金を借りて……、返せなくなって……、家具も何もほとんど差し押さえられて……」
「それでもまだ足りなかったから、やくざ者から金を借りて返済に充てた」
「はい」
そして法外な金利に、元本を返すことすらままならない状態だというのに職を失った。こうして整理して話してみると、自分の状態が如何にどん詰まりにあるかということが良く分かった。俺にはあの教会前に屯する浮浪者たちを見下す資格など無かったのだ。少なくとも彼らに借金は無いだろう。
希望の一切無いような状況だったが、それでも今この時、ハール神父に話を聞いてもらったことで俺の中には再びわずかばかりの活力が生まれてきていた。
「神父様、話を聞いてくださってありがとうございます。俺の今の状況は、本当にもう、終わっているけど、でも話したことで、なんだか、少し楽になったような気がします。俺、もう少しだけ、頑張ってみようと思います」
俺がそう言うと、ハール神父は俺の肩に手を置いたまま立ち上がり、今までとは違い、視線を合わせずにこう言った。
「良い心掛けだ。だが、どうする気だね?」
「まずは仕事を探して――」
「その指で? その腕で?」
ぞくりと底冷えのするような冷たい声音が俺の首筋を這った。ハール神父は俺の後ろに立ち、両手を俺の両肩に乗せた。まるで床に縫い付けられたかのように重かった。体が動かせない。首を回して彼の表情を見ることも出来たはずなのに、恐ろしくて出来なかった。
「その怪我では肉体労働は厳しかろう。かといって住所も無い今の君では他の仕事にありつくことも難しい。そして住所を得ようにも仕事の無い者に部屋を貸す大家はいないだろうね……。ちょうど以前の住まいの大家が君を追い出そうとしたのと同じ理由だ」
部屋の窓に俺の顔が映っている。その上には眼鏡をかけた神父の顔が同じように浮かんでいる。彼は微笑んでいる。その慈父の微笑みが俺には恐ろしくて堪らなかった。
「浮浪者たちに金を盗まれなければ、最低限の治療を受けることが出来たかもしれないね。あるいは別の街に移って借金取りに追いつかれる前に金を稼いで外国に逃げることが出来たかも……。しかし、それももう遅い……」
紅茶を飲んで温まったはずの体が芯から冷えていく。まるで神父の触れる両手から熱を吸い上げられでもしているかのようだった。
「せめて、どれかが無ければね。借金取りに追われていなければ。家を追い出されていなければ。金を盗まれていなければ。怪我さえ負っていなければ。いいや、そもそも女に騙されていなければ……」
乞食にならずに済んだのに。神父の声に俺は思わず叫んだ。
「違う! 俺は乞食じゃない!」
「君にとってはそうでも、君に施しをした紳士はそうは思わなかった」
「違う! 違う! ちが――」
「勿論違うとも。私には分かっているよ」
神父の右手が、肩から離され、俺の頬へと添えられた。怖いのに理由が分からなかった。ただこのまま引き裂かれて殺されてしまうのではないかという予感だけがあった。
「その紳士はね、君のために施しをしたんじゃない。自分のために施しをしたんだよ」
「どう、いう……」
「今日、彼はきっと家に帰るまでの間、とても気分が良かったろうね。なぜってあの惨めな乞食に硬貨を恵んでやったからだ。彼はそのわずかばかりの硬貨で、家に帰るまでの間のその聖人にでもなったかのような気分を買ったのだよ。君のためを思ってのことじゃない。その証拠に、彼は君を見なかっただろう?」
神父の言う通り、あの帽子を被った紳士は俺の方をちらりとも見なかった。
「つまり彼は、そのわずかな時間、自分が悦に入るためだけに、君を乞食にしたんだよ」
「あ……」
君にその役割を押し付けたんだ、と言った神父の言葉に納得している自分が確かにいた。あの硬貨を投げて寄越した男にとって必要だったのは「道端にいる惨めな乞食」であって、「俺」では無かった。俺はそのことを知りもせずにただ空腹に負けて、その硬貨を使い、腹を満たした。あの瞬間、俺は本当に乞食になってしまったのだ。例え飢え死にしようとも、あの硬貨はあの男に突き返さなければならなかったのに。
「あ、あぁ、あぁぁ……」
後悔、惨めさ、恥ずかしさ、怒り、そして何よりも自分自身への不甲斐なさで、呻き、俯く俺の耳元で神父が囁いた。
「――憎いかね?」
憎い。俺をこんな目に遭わせたあの女が、借金取りが、大家が、浮浪者どもが、あの帽子の男が。誰も彼もが憎い。殺してやりたい。
思わずそう口にした俺の体からすっと重さが消えてなくなった。神父が手を退け、一歩後ろに下がって距離を取ったのだ。そのまるで悪しき者から遠ざかろうとでもするかのような動きに俺は不安になり、先程までの恐れも忘れて振り向いた。片膝を突き、俺と視線を合わせたハール神父の瞳と目が合った。
「それを一度口に出し、願ってしまった以上、最早主にも私にも君のことは救えない。ただ一つ癒す術があるとすれば――」
神父は懐から細長い鉄製の容器を取り出した。中で液体の揺れる音がする。それを俺に握らせた。
「人狼になるより他に無い」
「人狼……」
最近、街の教会で聖職者がそういう触れを出しているのを聞いた覚えがあった。人を喰う怪物を教会が悪魔として認めたのだと。そしてこうも聞いた。その悪魔を討伐するための騎士団が新設されたと。
「人狼となればその怪我もたちまち治る。その爪で、牙で、憎き相手を引き裂くことも容易に適おう」
怪我が治る。それはとても魅力的に聞こえた。だってさっき神父は言っていたではないか、怪我さえ負っていなければ、なんとかなったかもしれないと。
「勿論怪物となれば教会に追われることになる。それにその強き肉体の維持には日に一度人の心臓を喰らわなければならない」
「心臓を……?」
神父が頷いた。
「そうだ。一人を殺して、一日を生き延びる。それが人狼の在り方だ」
「でも、そうなったら、あの『銀の手』って連中に殺されるんじゃ……」
「……であれば止めておくかね? 君はこのまま職も、住まいも、金も、尊厳も、何もかも奪われたままで、あの暗い路地でじっとしているつもりか? 言っておくが、君はあの場所にさえいられない。借金取りは逃げた君を見つけ出し、殺そうとするだろう。そうでなくとも行政は臭いものには蓋とばかりに、浮浪者を教会前の公園に固めている。君もいずれ追い立てられよう。そうなれば今度こそ彼らに命まで奪われてしまうかもしれないね」
鉄の容器を握らせる司祭の手に力が込められた。
「このままただより強い者に殺されて、それで良いのかね? 殺されるにしても一矢報いたい、せめて奴らの顔に唾を吐きかけて死にたいとそうは思わないかね?」
「それは……」
思わず俯いた俺にハール神父が微笑んだ。
「君は人に棄てられたのだ。ならば、そののち君が人を棄てたところで誰に咎められようか。それにね、あの『銀の手』という騎士団は新設されたばかりだ。人狼退治の方法を知っているか、いや、そもそも本当に存在しているのかすら怪しい。人狼の存在を隠しておけなくなった教会が、今まで手を拱いていたのではない、という姿勢のためにでっちあげたものではないかとすら、私は思っている」
「え……?」
「マーナ=ベル教会は各国の政府と通じている。ならば当然既存の政治体制や秩序を揺るがすような存在を認めるはずがない。彼らは人狼になるという弱者の牙さえ奪おうとしている」
一度は俺に握らせた容器を、神父は取り上げた。また奪われる、そう思った俺は思わずそれに手を伸ばす。司祭が差し伸べたその液体に、結局俺は自ら手を伸ばして、受け取った。
「どう、すれば……?」
「その『狼血』を飲むだけでいい。それだけで君は生まれ変わる」
ハール神父に促されるままに、俺はその容器の封を解き、そして一息に飲み込んだ。生臭い血の味が口の中全体に広がる。喉を通っていく感触が分かる。液体が辿った道が熱を持ったように、熱く、痛む。ごきり、ごきりと骨が軋むような音がそこかしこから聞こえてきて、それが己の中から発した音だと気付く。一秒、また一秒経つごとに己が作り変えられていくのを感じた。
喉が渇いて仕方が無かった。紅茶のカップに手を伸ばそうとして、テーブルが裂けた。カップとティーポッドが落ちて割れる。黒い体毛に覆われた太い爪の生えた腕が、己の腕が、触れただけで木製の天板を裂いたのだと遅れて理解した。
何か胸に暖かい物がぶつかった。神父が俺に抱き着き、背中を優しく数度叩いた。それだけで俺は何か満たされたような気持ちになって、だらりと手をぶら下げた。ハール神父は窓を開け放つと、そちらに向けて俺の背を優しく押した。
「さあ、行き給え、ハンク。今日からは君が夜の支配者だ」
俺は窓枠に足を掛けると、月の浮かぶ夜空へと躍り出た。家々の屋根を跳んで、踏みつけるすべての物を軋ませて、遠く夜空に向けて遠吠えをする。力が今にも俺の体の外にあふれんばかりに満ち、張り詰めていた。だというのに腹が減っていた。
俺はほとんど無意識に鼻をひくつかせ、なんだか良い匂いのする方向へと跳んだ。跳んだ先の路地に仕立ての良い服を着た男がいた。その鼻をくすぐる良い匂いはこの男からしているのだと気付く。男は急に目の前に降ってきた俺の姿を見て、数秒呆然とした後、悲鳴を上げて逃げ出した。俺は思わず彼の肩を掴んで引き留めようとして、彼の体はさっきのテーブルの天板と同じように裂けた。違ったのは内側に詰まった赤い液体がまるで噴水のように噴き出したことだ。
血の臭い。それを嫌だとは思わなかった。甘い、とすら感じた。
男の死体に鼻先を突っ込んで、心臓を喰らう俺の背後に近づく人影があった。大きな影、司祭平服を纏ったハール・ナッシュがそこにはいた。
「神父様……」
気付けば俺の体は人のそれに戻っていた。彼の言ったとおりに右腕と指の怪我も治っていた。遅れて服を着ていないことに気付く。あの襤褸切れと化した服は変身の際に膨れた体に耐え切れず、破れてしまったのだろう。そのことに気付いてすらいなかった。
ハールは手に持った大きな毛布で俺を包む。そして血溜まりの中、死体の服を漁り、鮮血滴る革製の財布を摘まみ上げ、俺へと手渡した。
「勝者の権利だ」
にこりと微笑む神父につられて、俺も口角が上がった。そうするとどんどんと気持ちが高揚してきて、ついには俺は大声を上げて笑っていた。
「ひ、ひひ、ひひひ、あは、あははは、ひゃは、はははは!」
一頻り笑い終えた後、俺はまだ半笑いが顔に張り付いたままで、隣の神父に声をかける。
「し、神父様。あ、あり、ありがとうございます……。お、俺、こんな、良い気分なのは、生まれて初めてだぁ……」
「ハンク。私は神父ではないよ」
言葉遣いを誤った子供を窘めるように、ハール・ナッシュは微笑みながらも、しかし、毅然と告げた。
「私のことは『狼の司祭』、もしくはウスキアスと呼ぶように。人狼は皆そう呼ぶ」
「は、はい。『司祭』様……」
まあ良いでしょうと言うと、「狼の司祭」は俺の背中に手を添えてくれた。俺は間違えを引かなかったのだと安心して、ひひ、とまた思わず笑いが零れた。
こうして、その夜、俺は人狼になった。




