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狼たちを殺すには  作者: mozno
幕間

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26/32

そして誰もいなくなった2

 アンドリューの亡骸は村の墓地に埋められこそしたものの、碑銘を刻んだ墓石が建てられることは無かった。石工が土の下にいては刻みたくとも刻めない。何度目かになる葬式では最早酒も振舞われず、形ばかりの葬儀の後はその場で解散となった。帰り道、オレとポール、ニックの三人は横並びに黙ったまま歩いていた。沈黙を破ったのはニックだった。

「なあ、本当にアンドリューが人狼だったと思うか……?」

 その問いにポールが暗い顔のまま返す。

「ルッチが死んでから二日経ってる。村長の話じゃ人狼が人喰いを我慢できるのは二日なんだろ? アンドリューが死んで犠牲者が出てない、ってなら、……そういうことだったんじゃねえか?」

「で、でもよ……」

「もういいじゃねえか、ニック。だって、……アンドリューが人狼じゃないなら、まだこの村に人狼がいるってことになっちまう」

「そうだ。もう、うんざりだ。人狼だのなんだの……。村長はおかしくなっちまうし、あれから嫁さんは口きいてくれないし……」

 オレとポールの言葉にニックは黙り込んだ。かと言って完全に納得したようにも見えない。

「まあ、でも、これで人狼はいなくなったんだ。明日からはいつも通りの暮らしに戻れるよ……」

 ポールの一言にオレはそうなったらいいという期待も込めて頷いた。夜の見回りももうなくなるだろう。そうなればまた日が昇るのと同時に起きて、牛たちの世話をして、牛乳を売り、日が沈むのと同時に眠る元の暮らしが戻ってくる。道中でポールと、そしてニックとも別れ、オレは母さんの待つ牧場へと帰った。


 夜中、人の声で目が覚めた。

 誰かに呼ばれたわけではない。ただ村の方向から悲鳴とも怒号ともつかぬ声がかすかに聞こえてきて、外に出てそちらを見ると、真っ赤な火の手が夜空に伸びていた。

 ――火事だ。

 オレの意識は寝惚けた状態から一気に覚醒し、大急ぎで服を着替える。途中物音に気付いた母さんが起きてきたので、火事だ、家から出るなとだけ伝え、オレは村へと走った。オレが息を切らして到着する頃には村の連中が集まって、消火活動が始まっていた。火の手が上がったのはポールの店だった。

 オレはポールの姿を探す。呆然とし、両膝を地面についたまま炎に包まれた自分の店を、家を見つめている。オレは村の者たちを手伝い、無心で井戸から水を運んだ。火の手が収まったのはそれから数時間後だった。

 ポールの店は真っ黒に焼け焦げ、見る影も無く、内部の商品もそのほとんどが焼失したようだ。中から二つの遺体が見つかった。大きさから見て、眠っていたのだろう、ポールの妻と息子の煤と灰に覆われた真っ黒な死体だった。それを見て、笑う声があった。甲高い女の声。アンドリューの妻だった。

「ざまあみろ! これでもう他人を人狼呼ばわりできないでしょう!?」

「お、お前が火をつけたのか……?」

 信じられないといった口振りで問う村長に女の哄笑が答えた。

「そうよ! あの人が人狼だったわけ無い! もしそうなら私が気付かないはず無いもの!」

「な、なら何故儂を狙わん!? あの娘は証言しただけじゃろうが! 子供まで巻き込んで……」

 そんなのは決まっている。村長の家には何挺か銃がある。反撃されることを恐れたのだ。

「な、なんと卑劣な……」

 そう怖気づいたように呟いた村長の目からは狂気が失われており、そして目の前の女は彼がアンドリューを撃ち殺した時とそっくりの目をしていた。まるで感染したかのようだ。

「卑劣なのはどっちよ! 人狼じゃない人を人狼と決めつけて! 独断で殺しておいて!」

「村を守るために仕方なくやったこと! おお、アンドリューでは無かった! お前が、人狼だったのだな! そうでなければこんなこと出来るはずがない!」

「違ぁうッ! 人狼はお前だ! クソジジイッ!」

 女が隠し持った包丁を取り出して、村長の胸に飛び込んだ。首筋を斬り付けられた村長が血を流しながら、転がるように逃げていく。近づき、取り押さえようとするオレたちをアンドリューの妻は包丁を振り回して寄せ付けず、村長の後を遅れて追いかける。

 村長は村で一番大きな自宅に逃げ込み、床に血痕を残しながら、自室に置いておいた猟銃に血塗れの手で装填を終える。手に持った銃に気付いた女が慌てて彼の首に刃物を突き立てようとした瞬間、銃口が火を吹いた。彼女の夫と丁度同じ位置、上半身を散弾が貫いた。彼女の背中から飛び出した鉛玉が村長宅の大黒柱を穿った。女はよろめいた状態から、一瞬その瞳を憎悪に燃やすと、倒れながら包丁を獲物の右脇腹へと突き立てた。村長の悲痛の絶叫を聞く間もなく、女は絶命し、力無く崩れ落ちる体に引っ張られるようにして、村長の体に突き立てられた刃がずるずると皮膚と内臓とを切り裂きながら、ゆっくりと下ろされた。

 村長は血のあぶくを吹きながら、白目を剥き、びくびくと痙攣するとやがて動かなくなった。最後までその手から銃を手放すことは無かった。


 繰り広げられた憎悪と暴力の応酬がもたらした血塗れの惨状を見て、誰も何も言うことが出来ず、その場に固まっていた。やがて夜風に乗って商店の焼け焦げた臭いが一帯に広がった。集会所を管理している老爺が村長代理となり、慣れぬ口振りで村人たちに指示を出し、火事によって亡くなった二人も含めた四つの墓穴を掘ると、死者たちを埋葬した。棺も弔花も酒も無く、そして交わされる言葉も無かった。縁起の悪さを感じたのだろう、村長が死ぬときに握っていた猟銃は彼の亡骸と共に埋葬された。

 葬儀にポールの姿は無かった。村人たちから聞いた話を総合すると、ポールはどうやらオレたちと別れた後、気が動転したままだった妻に家を追い出されたらしい。無人になった集会所を仮の寝床とし、夜が明けたら妻の様子を改めて見に行こうと考えて、眠りについた。しかし夜中の火事騒ぎに起こされ、向かってみると自分の店が燃えていた。刃傷沙汰の後、姿を消し、それ以降誰も姿を見ていないという。

 騒ぎを聞きつけた母さんもやって来て、ポールを除いた二十人弱の生きている村人全員が勢ぞろいしたが、明るい表情をした者は一人もいなかった。誰もが戸惑い、よそよそしく振舞う中、ニックが言った。

「なあ、なんか、焦げ臭くないか……?」

 昨日の火事の残り火でもあったのだろうかと話しているうちに森の近くからもくもくと黒煙が上がり始めた。村長代理が慌てふためいて火元に向かおうと走り出した瞬間、轟音が響き、その体が横に吹っ飛んだ。民家の影から、猟銃を片手に持ったポールが虚ろな目をしたまま現れた。見覚えのある銃だった。猟師のデュバルが持っていた物とよく似ている。狩猟小屋から弾と火薬を盗み出し、火をつけたのだろうと容易く想像がついた。

 ポールはげっそりとやつれた顔のまま、表情を変えることも無く、オレたちの方にもう片方の手に持った雷管式の拳銃の銃口を向けると引き金を引いた。一番近くにいた子供の頭蓋が吹っ飛び、悲鳴が上がり、蜘蛛の子を散らすように皆が逃げていく。ポールは背負った荷物から油を取り出すと、黙々と近場の建物へと撒き、火を放っていく。オレが近づこうとするのを察したのか、燃え盛る炎に隠れるように姿をくらませた。

 今なら二挺の銃は装填が終わっていない。取り押さえられるはずだ。そう考えて、オレが奴の後を追おうとした時、うめき声が耳に入った。逃げる村人に巻き込まれたのか、母さんが地面に倒れていた。足を踏まれたらしく、ズボンの裾から覗く足首が紫に変色していた。オレは母さんを抱えて、家屋の影に身を潜めた。

「ジミー……。お前だけでもお逃げ……」

「母さん、ダメだよ。ポールは頭がおかしくなっちまった……。あいつは村中に火をつけて回る気だ。ほっといたらうちもやられる」

「殺されちまうよ……」

「なんとかするから、ここに隠れて、出来るだけ物音を立てないでいてくれ……」

 母さんの制止を振り切って、オレは物陰からポールの逃げた方向を伺う。炎と煙に包まれた奥から再度ゴォンと空気を震わせる銃声が響き、悲鳴が上がった。猟銃はともかく、拳銃の方はポールが盗人対策に商店の金庫にしまっていた私物だ。扱いも慣れているだろう。店の物を盗まれないために買ったはずの銃だけが、焼失した店の中から見つかったとは何という皮肉か。

 二発の銃声が響くたびに、悲鳴が上がり、わずかな沈黙が訪れる。その装填の時間を狙ってオレは音のした方、ポールのいる場所へと距離を詰めていく。

 合計八発の銃弾が放たれてから、オレはついにポールの姿を視界に捉えた。集会所の影で弾と火薬を拳銃の銃口から詰め込むポールにオレは飛びつくようにタックルを食らわせる。銃がその衝撃で手から離れた。荷物の中で容器が割れたのか、油の臭いが広がった。

「ポール! もう止めろ!」

「放せェッ!」

 無理矢理に振り回される拳が、オレの頭を、肩を、何度も殴打する。

「なんでこんな、こんなこと!」

「お前らが燃やしたからだ! お、俺の、俺の店! 家族! 俺の全部を!」

「火をつけたのはオレたちじゃねえ!」

「知るかよォッ!」

 ポールはオレの腹に膝蹴りをくれる。思わず声が漏れ、押さえる力が弱まった瞬間、ポールは拘束から脱出した。転がった拳銃に伸ばされた右手を駆け寄ってきたニックが思い切り踏みつけた。ポールの絶叫が響く。

 安堵あるいは勝利の確信から、オレは思わず笑みがこぼれた。が、ポールの右手を踏みつけるニックの歯を剥き出しにした憤怒の表情を見て、自分の顔が強張るのが分かった。

「こ、この野郎、お、親父を撃ちやがった……」

 ギリリと脚に込められる力が増し、骨がきしむ音がする。ポールの悲鳴が一層大きくなった。その悲鳴に連れられるようにして、身を潜めていた村人たちがニックと同様に怒りの表情を浮かべながら集まって来た。手には思い思いの武器、鍬や鋤、鎌、あるいはただの長い木の棒を手にポールを取り囲む。

 誰かが言った。

「……人狼だ」

 その声に別の誰かが賛同する。

「そうだ。こいつだ。こいつが人狼だったんだ……」

「デュバルとルッチを殺したのも、村長や皆が死んだのも、全部こいつのせいだ……!」

 家族の物だろうか、返り血で汚れた服を着た中年の男が、角材を振りかぶった。

「……死ねよ」

 振り下ろされた角材が、ポールの背骨に直撃し、絶叫が響く。それに武器を持った村人が続く。老人も、女も、子供も人狼に向けて罵り言葉とともに、力の限り棒を振り下ろす。

「死ねェッ! 死ねよォッ!」

「うちにまで火つけやがって、クソがッ!」

「あんなしみったれた店がなくなったぐらいで! 一丁前に逆恨みしてんじゃねえ!」

「テメエも焼けちまえば良かったんだ!」

「そうよ! あのクソ女と一緒に死んどけば良かったのよ!」

 死ね! 死ね! 死ね! と繰り返される呪詛と殴打音に飲み込まれるように徐々にポールの悲鳴はかすれていき、そしてついには彼は何も言わなくなった。ほとんどの村人の手に持った棒状の道具が叩き付け過ぎて半ばから折れた頃には、ポールは完全に死んでいた。

 死体の顔は特に何度も殴打されたようで、膨れ上がり、生前の面影は残っていなかった。盛り上がった紫色の山脈の間を、赤い血液の川が流れていく。殴られているうちに眼球が破裂したのだろう、眼窩は空っぽでそこに血が流れ込み溜まっていた。

 服はまるで襤褸切れだ。振り下ろされた農具の鉄の刃が服ごと肉を引き裂いたのだ。ずたずたの布は彼の血で真っ赤に染め上げられていた。

 そもそもポールはこんなに太っていただろうか。何度も何度も繰り返し打ち据えられたことで、皮も肉も伸びきってしまったのだろう。筋を切り、味付けの前に叩いた牛肉のように横幅が広くなったように思う。細かい骨はほとんど砕けてしまったのだろう。半固体のような滑らかさを持ったぶよぶよの右手は、軟体動物のように隙間なくぴったりと地面に張り付いていた。ニックが踏みつけ続けていたことで村人たちの殴打から守られたのだ。その他のほとんどの部位は破裂し、内側から折れた骨が飛び出し、その白さを晒していた。

 誰も、ポールの葬儀をしよう、と言い出す者はいなかった。ただ家族を喪った者だけが自発的に墓穴を掘り、死者を埋葬した。身寄りのない遺体には誰も触れようともしなかった。

 オレは足を怪我した母さんを背中に担ぎ、牧場へと帰った。痛みから熱が出たらしく、寝床へと横にすると川から水を汲んできて、患部と額を冷やしてやる。オレは母さんを夜通し看病していた。だからその間、村で何が起こったかはニックから聞くまで知らなかった。


 ◆◆◆


 ニックがうちを訪ねてきたのは、翌日の朝になってからだった。

 彼の服は誰かと取っ組み合いでもしたのか襟が破れていた。

「皆、死んだよ……」

 ピッチフォークから運ぼうとした干し草を取りこぼした。オレは牛の世話を止めて、ニックに向き直った。

「あの後、村を出て行こう、って考えた奴が大勢いたんだ……。村長もいないし、買い物する店もない。当然だな……。それで、街を出て行く前に、村長の家に盗みに入った奴がいた……。それで出てくるところを見られて、また殺し合いになった……。村長の墓を暴いて銃を取り出してきた奴と、ポールの銃を盗んだ奴が撃ち合いになって……。流れ弾が子供に当たって、その母親が後ろから刺して……。

 銃を拾おうとしている奴がいたんだ……。また、殺し合いになると思った。だから、……俺はそいつを取り押さえようとして、掴み合いになって、……気が付いたら殺してた」

 ニックの服の袖をよく見ると、周囲と比べてわずかに色が濃い。血を洗い流そうと水で洗った。だが、落ちなかったのだろう、まるで縁どるように赤色が袖口を覆っていた。

「な、なんで、こんなことに、なっちまったんだろう……?」

 そう問うたニックの目は血走り、今にも眼球から飛び出さんほどに見開かれている。

「へ、へい、平和な村、だ、だったのに……」

「ニック……?」

 尋常ではないニックの様子を心配し、近づこうとするオレに、彼は腰のベルトに挟んで隠した拳銃を引き抜き、銃口を向けた。

「来るなァ……ッ!」

 ニックの口から大粒の唾が飛んだ。両手に構えた拳銃はポールの物だ。

 オレは足を止め、手を広げる。近づこうとしていると思われないように腕は伸ばさない。

「落ち着け、ニック……」

「お、お、俺には分かってる……。お、お、お前が人狼なんだろう? ジミー」

「莫迦なこと言うな。人狼はポールだったんだよ」

「違うゥ! お、俺はポールが死んだ後に気が付いたんだ。ポ、ポールが人狼だったなら、皆に殴られているときに狼になればいいじゃねえか! なんで、だ、黙って殺されるんだよ! アンドリューも同じだ、あいつが、じ、人狼ならポールの嫁さんを殺せたはずだ。村長たちだってそうだ。人狼なら、家に火をつけたり、銃を使ったりする必要、ねえじゃねえか!」

 そもそもォッ! と言ったポールの声は最早叫びだった。

「ルッチの居場所は俺たちしか知らなかったッ! アンドリューが人狼じゃない、ポールが人狼じゃない、勿論俺も人狼じゃねえ! なら残りはお前しかいねえじゃねえかよ! ジミーッ!」

「オレは人狼じゃない! きっと森の中に隠れたんだ! もう村から逃げたんだよ、オレたちが見回りをしたから!」

「うるせえェェッ! お前だろう! お前がルッチを殺したんだろう! 人狼が! この人狼野郎! ぶっ殺してやる!」

 ニックが指先に力を込めたのを見て、オレは思わず銃を持つ腕をピッチフォークで払い除けた。直後轟音が響く。射線が大きくズレた弾丸はオレの後ろの乳牛の腹に直撃した。牛の絶叫が響く。オレは思わず牛の方を向く。

 ――牛が。

 真っ赤なものを流しながら、牛が崩れ落ちた。その光景を見た瞬間、オレの頭に血が昇った。

「オオオオッ!」

 ピッチフォークを構えてニックへ向けて突撃する。五本の鉄の歯の内、四本がニックの左肩から右脇腹にかけて突き刺さった。オレはそのまま牛舎の壁にニックの体を押し込んだ。ずぶずぶずぶと鉄の歯が肉に沈み、牛舎の壁を血で塗り染めていく。オレとニックの顔が触れ合うほど近づいた。目の前の顔は憎悪によって歯を剥き出しにして歪んでいる。きっとオレも同じ顔をしているだろう。

 ――よくも牛を。

 その時、オレの頭の中にはそれしか無かった。ニックが拳銃を握ったままの拳でオレの側頭を何度も叩くが、オレは決して力を緩めず、ピッチフォークをひたすら奥へと押し込んだ。

 しばらくして、殴られなくなったことに気付く。手を柄から離す。牛舎の壁にはわずかに体を持ち上げられたニックが、目と鼻と口から血を垂れ流しながら、磔にされていた。死んでいる。違う。殺されたのだ。オレが殺した。

「は、はは」

 昂ったままの、己の中に流れるどくんどくんという血潮を感じ、オレはどうしていいか分からず、笑った。

 ――そうだ、牛の怪我を見てやらないと……。

 凶弾に倒れたうちの家計を支える乳牛は、オレが近づくと苦しそうに声を上げた。傷口からは血が流れ続けている。オレは顔を撫でてやる。

「ごめんなぁ、ごめんなぁ……」

 銃弾は血管を破っていた。血が止まらない。オレはこれ以上彼女を苦しめないために、謝りながら、屠殺用の牛刀で頸動脈を切った。びくんびくんとわずかに震えると、やがて動かなくなった。

 ルッチを殺した時の動きとよく似ていた。

 やはり人も牛も中身の造りはそう変わらない。

 オレはポールたちと共にルッチを狩猟小屋に閉じ込めたあの夜、彼らと別れた後に一人小屋へと戻り、寝息を立てるルッチの頸動脈を切って殺した。ナイフは、デュバルが獣の皮を剥ぐのに使っていた物が、小屋の中に置いたままにしてあったので、それを使った。そうして一仕事を終えた後に、オレは夜道を一人歩いて牧場へと帰ったのだ。

 ルッチのことを憎んでいた訳ではない。

 ただ薬売りとのやり取りのことを思い出したのだ。

『人狼……?』

『狼男のことですよ。満月の夜に変身して牛や人を襲う、って化け物。聞いたことあるでしょう?』

 ――人狼は牛を襲う。

 この村で牛を飼っているのはうちだけだ。もし牛が人狼に襲われ、殺されれば牛乳は取れなくなる。そうなればチーズも作れなくなる。牛糞さえ取れなくなり、肥やしを売ることすら出来なくなる。母さんの薬を買えなくなる。

 オレは人狼が、人狼に牛を殺されることが、怖かった。

 だから牛を殺されるよりも先に、人狼を、ルッチを殺した。

 あの夜、確かに人狼は死んだはずなのに、村の誰も、ルッチが人狼であったことを認めようとせず、他の誰かに人狼であることを求め、そしてアンドリューが殺された。村長が、アンドリューの妻が互いを人狼だと罵り合って殺し合う姿を見て、オレは人狼は感染するんだ、ということを知った。ポールも店を焼かれて人狼になった。ポールを殴り殺した村人たちもあの時点ですでに人狼だったに違いない。そして先程のニックも。

 オレも自分で気付かないうちに人狼になってしまったんじゃないのか……? さっきニックを殺した瞬間に。あるいはあの夜、ルッチを殺した時に。だとすればこの街で最初に人狼になったのはオレ、だったんじゃないのか?

 ニックはオレがルッチを殺したと言った。それは当たっていた。そのニックが、オレのことを人狼だと呼んだ。なら、オレはもうすでに人狼だったんじゃないか?

 オレはふらふらと覚束ない足取りで家へと戻る。服が、靴が、血に汚れていることに気付き、慌てて脱ぎ捨て、遠くへ投げ捨てた。その血がオレが人狼だという証拠のようで怖かった。

 オレが家に戻ると、母さんが上半身を起こして心配そうな表情を浮かべていた。

「さっき、外で大きな音がしなかったかい?」

「ああ、大丈夫。ちょっと牛が騒いだだけだから……。母さんは寝ていてくれよ……」

 ――母さんも人狼なんじゃないか?

 一瞬よぎったその考えは次第にオレの頭の中で大きくなり、止められなくなった。

 そうだ。オレが人狼だというなら、ずっと一緒に寝起きしていた母さんにも、オレから人狼が感染していてもおかしくない。今はそんな様子は無いけれど、脚の怪我が治ればいずれポールのように見境なく人を襲うかもしれない。

『人狼になった者を悪魔と認定する』

 教会はそう触れを出したのだと、薬売りは言っていた。悪魔だとされれば教会で葬儀をしてもらうことも出来ないだろう。母さんは毎日ずっと神様に祈りを捧げてきたのに、人狼になったらそれが台無しになってしまう。人狼のせいで。オレのせいで。

 オレは鍵を掛けた棚から、紙包みを取り出すと、残っていた中身を全てコップに注いだ水に溶かした。

「母さん、今日の分の薬だよ」

「ありがとう、ジミー」

「飲んだら、眠りなよ。……そうすれば脚もすぐに良くなるよ」

「そうかねえ。そうだと良いけど」

「そうに決まってるさ。……じゃあ、おやすみ」

「ああ、おやすみ、ジミー」

 母さんが横になったのを確認して、オレは家を出た。薬売りはあの薬を強い薬だと言っていた。一日一包みより多く飲ませてはいけない、かえって毒になる、と。母さんは人狼になるより先に死ぬだろう。きっと眠るように。

 それからオレは、どこへ行こう、と考えた。

 一目見たいと思っていた山の向こうの街に行くのはどうだろう? 薬売りがいつか語っていた大きな港街もいい。オレは海を見たことが無かった。そういえば、母さんも見たことが無いって言っていたっけ。薬を飲ませる前に、おぶって連れて、見せてやれば良かった、とオレは思った。

 そこで気が付いた。

 きっとどこに行ったとしても、オレはそう思うだろう。母さんにも見せてやりたかった、と。たぶんどんな感動よりも先にそれが来る。

 ニックの磔死体の前を通って、牛舎の柵を解放し、牛たちを自由にしてやる。血の臭いで興奮したのか、逃げるように一目散に駆けて行った。牛の角にかけるために使っていた荒縄を掴み、もう一度家に戻って、母さんが呼吸をしていないことを確認すると、オレはその縄を柱に縛って輪っかを作り、首にかけてから、乗っていたテーブルを右足で蹴っ飛ばした。


 ◆◆◆


 村の様子を見た二人の騎士が馬上で思わず顔を顰めた。

 ほとんどの家屋に火がかけられ、多くの死体がそのまま放置されて腐り始めている様子は略奪にでもあったかのようだ。

 騎士たちはとある長閑な農村で大量殺戮がおこなわれたと聞いてやってきた。人狼の仕業では無いかとの懸念があったのだ。

 騎士は鉄鎧ではなく、革鎧を身に纏っていた。通常の革鎧と異なる点があるとすれば、打ち込まれている無数のリベットが銀製であることだろうか。左胸、ちょうど心臓の位置に、騎士団の所属を表す紋章が鋲によって固定されている。義手、だろうか、金属製の右手を象った紋章の入った革鎧を騎士団「銀の手(シルバーハンド)」所属の二人の騎士は身に纏っていた。

 騎士の一人、金髪で肌の白い男、ディムナ・マック・グレオールは調査を担当している衛兵に案内され、現場指揮官が陣取るテントへと案内された。その後ろをまだ年若い少年の顔付きを残した騎士が続く。

 ディムナは発見された死体の状況をまとめた資料を確認した後、一言、「これは獣害事件じゃありませんね」と告げた。

「やはり、専門家の方から見てもそう思われますか」

「はい」

「事件初期の物と思われる、埋葬されていた死体の中に獣の歯型らしきものが残っていた物が一つだけあったのですが、それも無関係でしょうか?」

「どこが喰われていました?」

「下腹部です。足にも一部歯型が」

「左胸、心臓部分の周辺は? あばらが砕かれていたりしませんでしたか?」

「いえ、何も」

「では人狼では無いと考えていいでしょう。おそらくクマかイノシシにでもやられたんでしょう」

「そうですか。ご足労をお掛けしました」

 現場指揮官が申し訳なさそうに頭を下げたのを見て、ディムナはお互い仕事なのだから止めてくれと苦笑した。

「おい、グレオール殿がお帰りになられる。ご案内しろ」

「はっ!」

 衛兵に連れられて、ディムナは馬上に戻った。後ろで若い騎士がぽかんと口を開けている。

「何してる、コナン。戻ってネドと合流するぞ。まあ、俺たちが着くころには決着がついていそうな気もするけど……」

「ちょ、ちょっと、待ってください、団長! え? 終わりですか? 人狼が発生したって話だったんじゃ……?」

「発生してないよ。資料を見せてもらったが、遺体の傷はどれも火傷や刃物傷、銃創だった。何より心臓の無い遺体が一つも無かった。この村には人狼はいない。たぶん過去に発生したこともなかったんだろう」

「だって、行商の薬売りから通報があったって……」

「まあ、この惨状だからな。話題の人狼の仕業じゃないか、と思われたとしてもおかしくはないな」

「じゃあ、この村の人たちは何で、こんな、殺し合いをしたんですか……?」

「それは、たぶん人狼のせいだろうな」

「は?」とコナンと呼ばれた騎士が更に口を大きく開いた。人狼が発生していないのに、人狼のせいで殺人が起きた? 意味が分からない、とでも言いたげである。

 俺の推測だぞ、と前置きしてから、ディムナは新入りに説明を始めた。

「たぶん最初に死んだのは猟師だ。クマかイノシシにやられた。そこまで大きく遺体が損傷していたわけじゃないから、たぶんイノシシかな。で、そいつの葬式で村の皆が集まっている中で、誰かが言った。『人狼に殺されたんじゃないのか?』ってな」

「それだけで、こんな殺し合いになりますか……?」

「それだけじゃならないだろうな。すごい怖がりな奴がいたのかもしれないな。自分や自分の家族が殺されるかもしれない、そう思ったんだろう。人狼の疑いのある奴、……いや、きっと違うな、村で浮いていた、厄介者を人狼だと決めつけて、殺した。村全体でやったわけじゃないだろう。もしそうだったらそいつをこっそり葬ってそれで終わりだからな。そして、だからこそ新しい死体が出たことで、『村の中に人狼がいる』ことがこの村では本当の事になってしまった。その後は、……互いに疑い合って、隣人が人狼じゃないかという恐怖、そう、そこでもきっと恐怖がきっかけだ、村全体で膨らんだ恐怖がどこかで爆発した。その後は、全員が全員、人狼に殺されないためには、先に人狼を殺すしかない、とそう考えたんだろう」

「疑った、って……、だって、お互いの指にでも傷を付ければ人狼じゃないことは簡単に証明できるじゃないですか!」

「知らなかったんだろう」

「知らない訳無いでしょう! だって教会は人狼の存在と一緒にその見分け方も広めてる!」

「人狼の存在だけが、噂としてこの街に広まっていたのだとしたら?」

 コナンは信じられないとでも言うように、口をぱくぱくと動かしたが、そこから言葉が出てくることは無かった。

「神父様も懸念されていたことだ。それが現実に起きた。きっとこの村だけじゃないぞ。これから先、同じような事件がいくつも起こる。勿論、中には本当に人狼の起こした事件もあるだろう。一件目の殺人だけは人狼のものだったなんてケースもあるかもな。でも、それは遺体を見れば判別出来る。コナン、人狼について正しい知識を身に着けろ。狼を殺すには知識が要る」

 なんて俺も偉そうなこと言えるほど詳しくないけどな、と「銀の手」の騎士団長は笑った。

 コナンがようやく納得したのか馬上に戻り、事件現場を荒らさぬように衛兵に案内された道を辿り、村を出た。そういえば、とディムナが衛兵に尋ねる。

「ここに来る途中、おそらく牧場だと思うのですが、大きく迂回をさせられまして。あそこでも事件が?」

「ええ。三つほど死体が出ております。それと牛の死体も一つ。酷い有り様でした。牛糞で肥やしでも作っとったんでしょうな。そこから蝿が湧いて……。私が遠目から見た時はあすこでも火事が起きたのかと思いましたよ。家も牛舎も真っ黒だったもんだから。でも、違ったんです。全部蝿だったんですよ。壁一面蝿がびっしり埋め尽くしていて……、いやあ、この世の地獄ってのはああいう景色のことを言うんでしょうな……」

 衛兵の語る景色を想像してしまったのか、ディムナの顔色がわずかに青くなった。後ろのコナンは口元を手で押さえている。

「中に入った奴が言うには、そりゃ酷い有り様だったそうですよ。家の中には二つ死体があったそうなんですが、蝿を払ってみたら死体が白かった、って言うんですよ。で、なんだろうと思ってその白いのを取ってみたら動いたんだそうです。蛆虫が頭の先からつま先まで覆い尽くして、死体を喰ってた。柱に縄がかかってましてね、首吊った男の死体に、蝿どもが卵を植え付けたんでしょう。それが肉屋に吊るされた牛肉の脂みたいにてかってたもんだから、見た奴は『もう二度と肉が喰えねえ』と――」

 我慢の限界を迎えたコナンが馬上から転がり落ちるように脇道の草むらに顔を突っ込むと、嘔吐した。

「こりゃ、失敬……」

 若い騎士がべしゃべしゃと音を立てるのを聞いて、衛兵は申し訳なさそうに頭を掻いた。

「……帰りも迂回する道でお願いします」

 ディムナは青い顔をしたまま、酸味を感じる唾液を飲み込んで、囁くような小さな声でそう言った。

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