そして誰もいなくなった1
※お知らせ※
・「部」を「章」に変更しました。(「小説家になろう」の表記に合わせました)
・章タイトルを追加しました。
その日の朝はいつもと変わらない朝だった。
オレはいつも通り日が昇るのと同じくらいの時間に起きて、牛舎へ向かい、牛たちに朝飯の干し草を与える。散らばった糞を集めて藁と混ぜ、保管しておく。こうしておけば数か月後に発酵し、農家に堆肥として売れる。最近は随分と暖かくなったから、農家たちはそろそろ夏野菜の作付けを始めることだろう。その前の土作りのために彼らは堆肥を買って行くのだ。
乳を搾り終え、仕事に一段落付けると、オレは朝飯を食いに家に戻った。古びたエプロンを身に着けた母さんがもう料理を並べ始めていた。二人揃って主神に糧への感謝の祈りを捧げた後に、パンの上に自家製のチーズを乗せて食べる。
「これから村に行ってくるよ」
「はいはい」
「薬も買ってくる」
オレの言葉に母さんが困ったように眉を下げた。多くはない収入を自分の心臓の病の薬に使うことを渋っているのだ。昔からあまり体の強い母ではなかったが、父が亡くなってからは一段と痩せたように見える。
食事を終えると、オレは荷車に絞ったばかりの乳を積み、牛に曳かせて、雑草の伸びた道を歩く。麦わら帽を被った農家に向けて手だけで挨拶をし、更にしばらく歩くと、ぽつぽつと民家が見えてきた。牛を繋いで、この田舎に一件だけの商店に牛乳を卸し、金を受け取る。その足で村の中央の広場に向かうと、黒髪の薬売りが店を広げている最中だった。
「おや、牛飼いの。相変わらずお早いですな」
「心臓の薬をくれ」
薬売りは「ちょいとお待ちくださいね」と言って、鞄の中から紙包みを取り出すと、中身を検めた後、オレに手渡した。オレは先程乳を売って受け取った金のほとんどを支払って、薬を受け取った。
「お母様の調子は如何です?」
「前ほど酷くは無くなった。朝起きられるようになった」
「そいつは何より」
この黒髪の薬売りは各地で薬を売り歩いているらしい。この村にはおよそ二週間に一回訪れる。村の者たちは気味悪がってあまり近寄らないが、オレはこの男の薬の効能をもう疑ってはいなかったし、なによりこの男がする山の向こうの都会の話を聞くのが好きだった。牛の世話と母の面倒を見る生活に不満があるわけではない。それでも男の口から語られるレンガ造りの家々と橋、大きな教会、この村の人口の何十倍もの人々が行き交う市場の姿を聞くと、一度でいいから見てみたいと思わずにはいられなかった。
「街の様子はどうだ?」
「ああ、そうですねぇ……」
いつもはオレがそう聞くと、彼自身暇なのだろう、喜々として語りだすのだが、今日はやけに歯切れが悪かった。
「何かあったのか?」
「ご存じないんですか? そうか……、この村には教会が無いから……。あぁ、実はですね、教会からあるお触れが出まして。『人狼になった者を悪魔と認定する』って。いやはやおかしな世の中になったもんですよ。教会が人狼の存在を認めたっていうんですからね。で、街は今、大混乱ですよ。誰が吹聴したのか、人狼がやってくる日に備えて食料を買い貯めておけ、なんて噂のせいで店はがらがら。大人がそんな調子だから、子供たちまで人狼ごっこなんてして遊んでいる。心配性の母親が息子を家の外から一歩も出さなくなった、なんて話も耳にしましたね」
「人狼……?」
「狼男のことですよ。満月の夜に変身して牛や人を襲う、って化け物。聞いたことあるでしょう?」
「それが実際にいると?」
「教会はそう思っているらしいですよ。まったく、暇な連中ですよ」
働かねぇで寄付で飯食ってると性根だけでなく脳ミソまで腐るんですかね、と薬売りは笑って言った。
薬売りと別れたオレは空の荷車を曳く牛を連れて、牧場へと帰った。
牛たちの世話の後、牛舎の清掃を終える頃には日が傾きかけていた。家へと戻り、野菜の牛乳煮込みとパンを腹に入れて、母さんが今日の分の薬を飲んだのを確認すると、オレは明日の仕事のために床に就いた。夜に起きているのは、薪や油を使うからもったいないことだと昔、死んだ親父が言っていた。
翌朝、オレはいつものように朝日と共に起き出して、牛の世話をした後に、今日は堆肥を農家に売りに行こうと決めた。秋の間に藁と混ぜておいた牛糞が良い感じに発酵していた。
堆肥をスコップで麻袋に詰め、手押し車に乗せて農家まで向かう。荷車に乗せると牛乳やチーズに臭いが移ると言って、商店の店主が嫌がるのだ。
農家を訪ねると、老いた村長と何人かの村の男衆と出くわした。男たちは皆どこか焦っている。
「おお、ジミー。ちょうどいいところに」
村長がオレの名を呼ぶ。どうやら村の男たちに声をかけて回っているらしい。
「実はな、今朝、デュバルが死体で見つかった……」
デュバルというのは村で猟師をやっている男のことだ。本人曰く「鳥撃ちの名人」とのことだが、銃を撃っているところを誰も見たことが無い上に、売っているのはウサギやキツネの肉ばかりだった。いつも金に困っていて、彼曰く「最高品質」の毛皮を担保に村人たちから金を借りていた。
「山菜を取りに山に入った者が見つけたらしい。腹が食い破られとった、獣にやられたんじゃろう。葬式をせねばならん、手を貸してくれ」
正直に言えばオレは手伝いなどしたくはなかった。そもそもあの猟師のことはあまり好きでは無かったし、手を貸せというのはすなわち死体を運ぶのに牛と荷車を貸せ、ということだ。だが断るわけにも行かなかった。親父が死んだときに葬式を手伝ってもらった貸しがある。荷車で死体を運べば、商店の店主に買取の時に渋られたり、文句を言われたりはするだろうが、それだけだ。それよりも受けた恩を返さないという評判がこの小さな村で広まれば、誰もうちの牛乳を買わなくなるだろう。
オレは「荷車を取ってくるよ」と言って、積んできた堆肥袋を農家に渡し、家に戻ると、空の荷車を曳いて、村への道をちんたらと歩いて行った。
デュバルの死体は酷い有り様だった。下腹部が食い破られ、千切れた腸の切れ端と思しき肉片が山道に散乱している。咥えて引き摺り、そして諦めたのか、右足首には血塗れの咬傷が服の上からでも分かるほどはっきりと残されていた。その顔は苦痛と絶望に満ちており、涙と唾液、鼻水、彼自身の血によってべちゃべちゃに汚れていた。生きながら食われたのだと、その表情を見れば誰もが察しただろう。
酷い臭いがした。血の臭い、肉の腐る臭い、それと混じる酸っぱい臭い。死体を見た男たちが堪え切れずに戻したゲロの臭いだった。いつも自分が戦場で如何に命知らずだったかを、酒臭い息とともに語っているアンドリューが四つん這いになって戻しているのを傍目にオレは死体を麻袋に詰め、荷車に乗せた。はみ出た内臓が荷車の床板に付きそうだったので、袋の中に戻そうと引っ張ったら噛まれて細くなっていた部分が千切れた。その場に捨てていく訳にもいかず、デュバルの顔の横に置く。こう見ると人も牛も大きさこそ違うものの、中身の造りはそう変わらないんだなと、かつて戦場で何度も確認したことを、改めて再確認する。「実家が牧場で肉屋もやっている」と上官に告げたら、医療部隊に配備された。そこで切り落とした無数の銃痕の残る傷付いた手足のことを思い出した。
男たちが村の墓地に穴を掘っている間に、村唯一の大工が急ごしらえで作り上げた棺の中に遺体を移した。本当か嘘か分からないが、かつて修道士を志したこともあるという村長が、覚束ない口振りで祈りを捧げると、横にいた男たちが棺の上から土を掛け始めた。デュバルは独り身で、両親はすでに他界しており、身寄りもない。彼のために参列者にわずかばかりの酒が振舞われて、それで終わるはずだった。
誰かが言った。
「なあ、これって、人狼に殺されたんじゃないのか……?」
噂好きの商店主が言ったのか、適当なことばかり言っている石工のアンドリューが言ったのか、他の誰かだったのか。それに対してぷっと噴き出す声が聞こえた。
「お前、こんなちょっとの酒で酔ったのか?」
ぎゃははと男たちが笑う。笑われた声がムキになって反論した。
「冗談じゃねえ! 街から来た奴に聞いたんだ! 教会が人狼を認めたって! 一日に一人、人間を喰うんだとよ!」
からかう声が更に大きくなるが、聞き覚えのある話に思わず、反応してしまった。
「それ、オレも聞いたな」
「おいおい、ジミー。お前まで何言ってんだ……」
「昨日薬売りが来てただろ? あいつから聞いたんだよ。街じゃ子供を家の外に出さねえ親もいるんだとさ」
オレがそう言うと、先程まで笑っていた男たちがしんと静かになった。互いの顔を伺うようにちらちらと顔を見合わせている。皆、本当は不安だったのだろう。あれだけ無残な死体を見た後では無理もない。
「でもよお、村長はクマかイノシシにでもやられたんだろう、って言ってたぜ?」
「猟師でもねえのにそんなの判別出来るかよ」
「じゃあ本当に人狼にやられたってのか?」
「喰われてたのは事実だろ……」
「デュバルは銃を持ってた。そんな相手を殺せたってことは……」
「いやいや、あいつが撃ってるところなんて見たこと無いぞ」
男たちが思い思いのことを口にする。
「ちょ、ちょっと待てよ。今まで暮らしてきて人死になんか滅多に無かっただろ。人狼が一日一人喰うならこれまではどうしてたんだよ。それとも昨日急に人狼になったとでも言うのか?」
「なる、らしいぜ。なんでも人狼の血を飲むと人狼になっちまうらしい」
おそらく最初に人狼の話を始めた声が言った。
「莫迦げてらあ。昨日この村に外から来た奴なんて、それこそあの薬売りしかいねえじゃねえか。ジミー以外話しかけてすらいねえぞ。それともこいつが人狼で、デュバルを殺したとでも言うのか?」
「な、なんか薬を買ってただろ!」
「あれはいつも買ってるお袋の薬だ」
「人狼の血さえあればいいんだから何も昨日買う必要はねえだろ。それこそ街に行って、買ってきた物を取っておいたのかもしれねえじゃねえか」
「オレは街になんて行ったことねえぞ」
「オレだって」
「そもそもデュバルを殺す理由のある奴なんているのかよ」
「いくらだっているだろ。あいつには借金があったんだから」
口々に語る男たちの間に一瞬の沈黙が流れ、間が悪い一人の声が取り残された。それをその場の全員が聞いていた。
「金貸してる側が殺すかよ。返してもらえねえじゃねえか。殺すとしたら、金借りてる側って相場が決まってるだろ」
視線が自分の方に向いていることに気がついた商店主が「な、なんだよ……」と呟いた。
「おい、それって……」
この小さい村では噂はすぐに広まる。仕事の合間に語ったこと、女たちが井戸端で話したこと、一日もあれば村人全員の知るところとなる。そして、村で唯一デュバルに金を借りている男に皆、心当たりがあった。
「ルッチか……」
村長の息子の名が挙がった。ルッチは兵役を終えた後、父親に金を借りて街に飲食店を出したが繁盛せず、店を畳んで村に帰って来て以来、定職に就かず、ふらふらと遊び歩いている。時たま村長に金を無心しては街の娼館で遊んでいるともっぱらの噂だ。デュバルの銃は元はルッチの物だったという話を聞いたことがある。金を貸さないなら銃を返せ、とルッチが迫っていたのを見た者がいる。
彼であれば、街で人狼の血を手に入れることも可能なのではないか? 誰も口にせずとも、その場にいる全員がそう思ったことだろう。
「縛って納屋にでも入れといた方が良いんじゃねえか?」
ははは、と乾いた笑みで誰かが冗談交じりに口にした言葉を誰も否定しなかった。
「有り、かもな」
「おい、本気か?」
「一晩だけでいいんだ。人狼じゃないことが証明出来ればそれで……」
「村長が認めるか?」
「ここにいる全員で伝えれば……」
「伝える必要あるか? ふん縛って目隠ししとけば誰がやったかなんて分からねえだろ」
「人狼じゃなかったらどうすんだよ」
「全員で知らんぷりしとけばいいさ」
「村長が犯人捜しをするだろ」
「捜したってここにいる全員で口裏合わせとけば分かりっこねえさ。なに、もし人狼じゃなくったってルッチにゃ良い薬になるだろうよ」
「……人狼だったら?」
男たちの間に再びの沈黙が訪れて、そしてまた誰かが言った。
「もしそうなら、……殺すしかねえだろうな」
そうしてルッチの身の潔白を証明するという名目の元、拉致監禁計画が始まった。もうその場の誰もデュバルのことを悼んではいなかった。
計画を実行に移したのは四人の男たちだった。農家のニック、石工のアンドリュー、商店主のポール、そしてオレ。
オレは荷車で目隠しをしたルッチを運ぶ役に選ばれた。
今頃、アンドリューの奴が村長に酌をして、昔の自慢話を聞いて、気分良く酔わせている頃だろう。
その隙に忍び込んだニックとポールの二人がルッチに猿轡を噛ませて、連れてくる計画だ。その後は村はずれの小さな小屋、デュバルの狩猟小屋に一晩放置する手筈になっている。
暗闇の中でしばらく待っていると、二人の男に担がれるようにしてルッチが運ばれてきた。意外にも暴れる素振りは無い。眠っているようだった。
「こいつ、酒飲んで寝てやがった」
「起きる前にさっさと運んじまおうぜ」
「念のために手足は縛っとこう」
両手両足を縛られ、目隠しをされたまま寝息を立てるルッチを乗せて、狩猟小屋へと夜道を進む。小屋に着くと、床にルッチを転がし、柱に腕を回すようにして拘束した。小屋を出ると、事に関わっていた男たちが誰とも無く、くすくすと笑い始めた。やがてそれは大笑いに変わって、星空の下に響いた。悪戯を成功させて、童心に戻った男たちは一頻り笑い終えると、別れを告げて、それぞれの家へと帰って行った。オレは一人になった後、一仕事終えると、牛と空の荷車を連れて牧場へと戻った。やけに興奮していて、明かり一つない道だったが、怖くは無かった。
◆◆◆
次の日、狩猟小屋の中で、ルッチが死んでいるのが見つかった。
朝起きると倅がいないことに気付いた村長が村の男たちに声をかけて探させた。彼らは皆、昨夜のことを知っているから、「また街に遊びに行ったんじゃないのか」などと言って、内心笑いながら、デュバルの小屋を避けるように探している振りをしていたらしい。
そのうち、あまりに真剣に息子を探す老いた父親が不憫になったのか、太陽が中天にかかろうかという時に男の一人が小屋の様子を見に行ったらしい。そしてそこで血を流し、絶命しているルッチの姿を見つけ、顔を真っ青にして村に知らせたのだという。
オレは昨日に引き続き開かれた葬式で、村長が棺にしがみつきながら泣く様子を見ながら、その話を聞いていた。
ルッチの死体は柱に縛り付けられ、目隠しされたまま、耳の後ろから顎下に掛けて頸動脈を切断されていた。大量の血が壁と床、そしてルッチ自身を汚していた。オレはそれを昨日と同じように棺まで運んだ。
ルッチの遺体が埋葬され終わる頃には日は沈みかけていた。お互いの顔が良く見えない橙色の空気の中で、村の男たちの間には奇妙な沈黙が続いていた。
石工のアンドリューが言った。
「……お前らがやったんじゃねえのか?」
「ふ、ふざけるんじゃねえ!」
大声で否定した農家のニックの声に、他の参列客、村の女たちの視線が寄せられた。しっ、と商店主のポールが指を唇に当てる。沈黙が訪れ、女たちの視線が外れたのを確認すると口を開いた。
「俺たちが運んだ時にはまだ生きてた。呼吸してた。だよな、ジミー?」
「ああ。いびきを聞いた」
「じゃあ、昨日の夜から今日の昼までの間に誰かが小屋にいるルッチを殺したってことだよな?」
「誰が……?」
「……ルッチがあの小屋にいることを知っていた奴が、だろ」
「俺たちの中に犯人がいるってのかよ!?」
「しっ! そうと決まったわけじゃないだろ……」
「他に誰がいるってんだよ」
「……人狼とか」
消え入りそうな声でニックが呟いた。
「な、何言ってんだよ。ルッチが人狼だったんだろ……?」
「お前こそ何言ってんだ、ジミー。人狼じゃねえからルッチは殺されたんだろ。あいつを殺した奴が人狼だ」
思わず口を突いたオレの言葉をポールが否定した。
「じゃあ、本当にいるのか? この村に?」
ニックが恐る恐る尋ねるが、それに応えられる者はいなかった。
「……村長に伝えるべきだ」
アンドリューの一言にポールが目を剥いた。
「正気か? 『俺たちがルッチを小屋に放置しました。でも殺してはいません』なんて信じると思うか? 全員共犯扱いで縛り首かもな。お前もだぜ、アンドリュー」
「それは伝えないでおく……。伝えるのは村に人狼がいるかも、って部分だけだ」
「ルッチが縛られていたことはどう説明するつもりだ……?」
「人狼がやったことにすればいい。ルッチは銃を返してもらおうとデュバルの小屋を漁っていた。そこに運悪く、……いや、人の臭いを嗅ぎつけた人狼がやって来て、ルッチを縛り付けて殺した。これなら筋は通ってる。後は俺たちで人狼を探し出して殺せばいい」
そうすれば悪いのは全部人狼だ、いやそもそも悪いのは全部人狼だ、と自分に言い聞かせるように言ったアンドリューの言葉を全員がゆっくりと飲み込むように頷いた。
オレたちは皆で足並みを揃えて、がっくりと肩を落としている村長に声をかけた。いくつもの視線に圧倒されたのだろう、村長はアンドリューが人狼について語る間、何も言わなかった。
「では、お前たちはこの村に人狼がいる、と?」
「ああ」
「ば、莫迦なことを言うなっ! 人狼なんてものはこの世におらん!」
「でも街の教会は人狼を認めたって聞いた。ルッチだって時々街に行っていたなら知っていたはずだ。聞いてないのか?」
「何も、聞いとらん……」
父子の関係はあまり上手くいっていなかったことを思わせる歯切れの悪さで村長は答えた。
「現に二人殺されてるんだぞ」
「こ、このままじゃもっと犠牲者が出るかも……」
「夜に見回りくらいはしてもいいんじゃないか?」
その提案に男たちがそうだ、そうだと頷き合った。オレは本当はそんなことはしたくない。牧場の仕事は朝早いからだ。皆だってそう変わらない意見のはずだ。だがオレも含めて誰もそれに反対する者はいなかった。反対して「人狼なんじゃないか?」と疑われるのが怖かったのだ。
村長が盛り上がる男衆に気圧されるように見回りの提案を飲んだ。
「分かった。お前たちがそれで納得するならそうするがいい」
夜の見回りは二人組をいくつか作り、交代制で村をぐるっと見回ることになった。オレは朝の仕事があるので出来るだけ早い番にしてくれないかと頼んだところ、同じく早番が良いと言うニックと組むことになった。オレたち以外にも、ニックの父など歳を取った村の男たちも協力してくれるらしい。
ランタンを片手に、村長の家を中心にして村を一周する。母さんのことは心配だったが、牧場の方までは行かずに引き返す。その間、ニックは引っ切り無しにしゃべり続けていた。怖がりなのだ。
「なあ、ジミー。本当に人狼がいると思うか?」
「分からねえ」
「一日一人襲うってことは今日も誰かが襲われるってことだよな?」
「分からねえ」
「仮に人狼が出てきたとして、俺たちで何とか出来ると思うか?」
「分からねえ」
「さっきから『分からねえ』ばっかりじゃねえか」
「分からねえんだからしょうがねえだろ」
オレは武器として持ってきた干し草を運ぶためのピッチフォークを担ぎ直して見回りを続ける。
「俺たちの中の誰かが人狼なのかな……?」
ニックの言葉に思わず振り向く。ニックの言う「俺たち」とはあの夜、小屋にルッチを運ぶ計画を実行した四人のことだ。
「なんでそうなるんだよ」
「だってルッチが小屋にいることを知ってたのは、俺たちだけじゃねえか……」
「……人狼が森をうろついてて、たまたま小屋でルッチを見つけたのかもしれない」
「それはアンドリューがついたでまかせだろ?」
「当たっているかもしれないじゃねえか」
ニックが表情を曇らせ、しばらく悩んだ後に口を開いた。
「もし俺たちの中に人狼がいるなら、……この見回りの時間は人狼にとって絶好のチャンスなんじゃないか?」
「……オレを疑ってるのか? ニック」
「そ、そうじゃねえけどさ……」
「でもそれはお前にも同じことが言えないか?」
「俺は人狼じゃねえよ!」
「オレだってそうだ」
でも、それを証明する方法をオレたちは互いに持っていなかった。気まずい沈黙の中、足音だけが闇夜に響く。
「逆にこう考えたらいいんじゃねえか? 仮にオレが人狼だったとして、今、お前が襲われて死んだら真っ先にオレが疑われる。だから襲うとしても少なくともこの見回りの時間は安全だ、って」
「なんだそりゃ」
「だってそうだろ? もしお前が人狼だったら自分が人狼だってことが確実にバレるタイミングで誰かを襲うか?」
「……確かに。言われてみればそうだな……」
見回りしている今が一番安全なんて、なんだかあべこべだな、とニックが言った。
オレたちは結局人狼の姿を見ることなく、次の組に順番を引き継いで、家に帰った。結局その夜、人狼は見つからなかったと後で聞いた。
翌朝、人狼の被害が発生していないことを確認するために、村の男たちが村長の家に集まっていた。
皆、家族が無事であることを確認してから集合しており、独り身の者は村長が自ら確認しに行った。結果、村人全員の安否が確認でき、昨晩から今朝にかけて人狼の被害が無かったことが判明した。
「どうなってる? 一日一人襲うって話じゃなかったのか?」
「法螺でも吹き込まれたんじゃないか?」
「なら昨日はなんで襲ったんだよ。きっともう山から逃げたんだろう」
「見回りしたから人狼も警戒したのかもな!」
殊更に口調が明るいので、そう思いたがっていることが丸分かりだった。
「一応念のため、今日も見回りをするか?」
「そう、だな! 人狼が戻ってこないとも限らないからな!」
そう言ったのはニックだった。その口振りはまるで見回りをしたがっているみたいだ。
「……のう、お前たち。昨日の見回りを家族に説明したか?」
真剣な顔をして村長がその場に集った男たちに問う。
「ああ。夜中は出歩かないように言い含めたが、それがどうかしたか?」
参加者のほとんどが頷いた。オレも母さんに見回りをすることは伝えてある。伝えなくても日が沈んだ後に出歩くことなど滅多に無いだろうが、夜中目を覚ました時に心配させないように念のためだ。
「……なら、人狼は知っておったんじゃないか? 昨日は見回りがあると」
「な、村長、あんた村の人間を疑っているのかよ!」
眠れなかったのか、老いた村長の目が血走っていた。痩せこけた髑髏のような顔の上で、血管がいくつも浮いた眼球が飛び出さんばかりに見開かれている。
「……昨日、儂はお前たちに人狼などこの世におらんと言ったな。じゃが、本当は昔聞いたことがある。信じてはおらんかったが……」
「それは、教会で?」
「いや、儂が子供のころの話じゃ。どこぞで人狼が出たと風の噂に聞いた。……しばらくしてどこからか神父様が村に来て、人狼なんてものはいないと言った。そんな悪意ある噂を流す者は地獄に落ちる、とも。だから皆、人狼については語らなくなり、そのうち忘れられた」
「……」
普段は村長の話にまともに取り合わない男衆が、その奇妙な迫力に押され、誰も茶化すことなく静かに彼の話を聞いていた。
「うろ覚えじゃが、人狼は二日程度であれば人を喰うのを我慢できる、と聞いた覚えがある。そして、……人に化ける、とも」
最後の一言で騒めきが広がった。男たちの顔には人狼への恐れと、そして隣人への疑念が浮かんでいた。オレを含め、何人かはルッチが狩猟小屋にいることを知っているのは自分たちだけだった、と知っていたが、村長の手前指摘することも出来ずに押し黙った。
「……殺さなければ」
村長が言った。
「人狼を見つけ出して、殺さなければならん――」
「爺様はおかしくなっちまったんだよ」と、母さんが言った。
あの後、村長はすべての村人を集めて、「人狼狩り」をおこなうと表明した。夜毎に男衆で見回りをする、要らぬ疑いをかけられたくなければ夜間に外出するな、と言ったその口振りは、女子供が人狼であるかもしれないという猜疑心を隠す気すらないように見えた。
「無理も無いよ。いくら出来が悪いって言ったって、戦争から生きて帰ってきてくれたと思っていた倅が死んだんじゃあねえ。天国から地獄に突き落とされたようなものさ。神様も残酷なことをなさる」
「だからってあんな言い方ありますか? まるで私たちの中に人狼が、人殺しがいるとでも言いたげでしたよ」
ポールの妻が不満を隠しもせずに言った。
「だいたい男たちで見回りをするって言ってましたけどね、その見回りをしている男が人狼だったらどうするんです?」
「おい、止めないか」
ポールが妻を諫めるが、彼女の声は止まらない。
「何よ、あなたまで私たちが人狼じゃないか疑っているわけ?」
「そうじゃないが……」
「じゃないならなんなのよ!」
「人狼じゃないとも言い切れないだろう……」
夫の掻き消えそうなほど小さな声を聞いて、彼女は顔を真っ赤にした。
「疑っているんじゃない! 信じられない! そんな凶暴な事をしでかすのなんて男に決まっているでしょうが!」
その村全体にまで響きそうな大声にポールが萎縮し、小さくなっているのを見て、後ろで小さな声がした。
「凶暴さで言うなら旦那よりアンタの方が可能性あるんじゃねえか……?」
「おい……!」
言った方の男の声も、止めた方の男の声もその口調には笑いが滲んでいた。ポールの妻が声のした方をキッと睨みつけた。目尻を吊り上げたまま、彼女は何も言わず、夫を置き去りにして自分と同じ幼い子供を持つ母親グループの元へと行くと、何事か話し合った。
夕方、子供を連れたまま帰ってこない妻を心配したポールが店を早めに畳んで探しに出ると、彼女は村の集会所を他の母親たちと共に掃除をしていた。人狼が見つかるまでここで女子供だけで暮らすのだと言う。集会所を管理していた村長の二つ年下の老爺はポールの妻の剣幕に押されて許可を出したらしい。
妻に追い返され、しょぼしょぼと家に帰るポールを、アンドリューは酒瓶片手に肩に手を回して、「どうせすぐ戻ってくるさ」と笑って慰めた。
女の悲鳴が村に響き渡ったのはその夜のことだった。ちょうど見回り番だったオレとニックが声のした方へと向かう。声の主はアンドリューの妻だった。顔には殴られたのか、赤い腫れが浮かんでいる。彼女は逃げ出すように家から転げ出て、震えていた。開いたままの扉の中ではこの家の主が酒の勢いに任せて暴れたのか、家具が散乱していた。しかし家の中にアンドリューの姿は無い。
「あ、あの人を止めて……」
「あいつはどこに?」
「集会所の方に……」
オレたちがランタンを揺らしながら走る先で、何人もの女の悲鳴が聞こえた。アンドリューが女たちが共同生活をする建物の扉を蹴破って暴れ、ポールの妻を馬乗りになって殴っていた。
「うちのに余計な事吹き込みやがって、このクソアマが!」
彼の顔は怒りと酒気とで真っ赤に染まっていた。オレはランタンを投げ捨て、アンドリューを羽交い絞めにして引き離す。
「落ち着け、アンドリュー!」
「ジミー! 邪魔するんじゃねえ! ポールの莫迦がちゃんと躾けとかねえから調子に乗るんだ!」
俺が代わりにぶん殴ってやる、と酒臭い鼻息を荒くするアンドリューを引き摺るようにして、集会所の外へと連れて行く。騒ぎに集まって来たのか、村長を含めた村人たちが一堂に会していた。アンドリューの妻の姿もある。
「何があったんじゃ……」
「わ、私が悪いんです……」
アンドリューの妻がぽつぽつと事情を語り始めた。彼女はポールの妻に集会所での共同生活に誘われていたらしい。というのもアンドリューの酒癖の悪さは村で知らぬ者はいなかったから、人狼騒ぎにかこつけて日々困っている彼女を夫の元から少し離して、この機会に話を聞いてやろうという配慮からだったらしい。
妻が共同生活に誘われたという話を聞いて、アンドリューは酔った頭で自分が人狼と疑われたと考えたのだろう。妻を一発殴った後に散々暴れ散らかし、集会所を襲撃した、というのが事の顛末だ。
遅れてやってきたポールが顔を腫らして倒れる妻に駆け寄って、声をかけ続けると、その体がゆっくりと起き上がった。鼻と口の端から血を垂れ流しながら、普段から釣り目がちのまなじりを更に持ち上げて、叫ぶように言った。
「そいつを小屋に閉じ込めておいてよッ!」
その叫びを聞いたアンドリューが再びオレの腕を振りほどこうと暴れる。
「俺に死ねって言うのか!」
「死なないわよ、どうせアンタが人狼なんだから!」
「違ぁう! ルッチが殺された夜、俺は村長と一緒に酒を飲んでた! 俺じゃない!」
「そんなの村長が眠った後に抜け出して殺しに行けばいいだけでしょう! むしろ村長が眠ったことをアンタだけが確実に知ってたんだから、他に犯人なんかいないでしょ!」
「違う! 違う! 俺じゃない! 俺はただ皆に――」
アンドリューが全て口に出しそうな状況だったので、オレは咄嗟にその口を手で覆った。状況を察したニックが取り押さえるのを手伝ってくれる。
「お、おい、落ち着くんだ……」
喚く妻を宥めようとしたポールの体が突き飛ばされる。
「あいつが人狼よ! 殺してよ! 人狼を!」
それを聞いたアンドリューがオレの指を噛み、拘束を振りほどいて再度彼女に殴りかかろうと迫った瞬間、ガォンと轟音が空気を震わせた。その場の全員が音と瞬いた閃光の方を見る。村長が構えた時代遅れの旧式の狩猟銃の銃口から、白煙が伸びていた。アンドリューがゆっくりと視線を落とし、発射された散弾によって自身の胸に開いた穴を見る。口から一条血を溢すと、集会所の床に仰向けに倒れた。遅れて女たちの悲鳴が上がる。
「何も、殺すこと……」
「言ったはずじゃ。人狼は、殺さなければならん……」
「アンドリューが人狼だって証拠は無かっただろ!」
「『儂が眠っていたことを奴だけが確実に知っていた』という理屈は正しいと思った。……これで人狼は死んだ。村は守られた。これで、良かったんじゃ……」
村長の血走った二つの眼が月明かりを反射して、狐火のように闇夜に浮かんだ。譫言のように呟く尋常ならざる様子の彼の声音と、その手に握られた凶器を恐れ、もう誰も意見する者はいなかった。




