罠の名前
翌朝、ネドはモードナの街の宿で目を覚ました。
レイス男爵領は通行を一時封鎖され、城下町はブランシア陸軍によって占拠された。現在、わずかでも男爵とその配下の騎士たちの罪状を明らかにしようと城内の資料を浚う捜索活動がおこなわれている真っ最中だろう。
昨夜、民衆を落ち着かせた後、外門前で合流したネドは、呆然自失となっているディムナを連れて、モードナの街へと引き返したのだ。現在は状況確認のためにこの街に留まるように言われているが、あと一両日もしたら、解放されることだろう。
無事を知らせようとイアンが停泊していた宿を訪ねたが、もう既に引き払った後だった。別の仕事があったのを押してネドの呼びかけに応じてくれていたのだろう。
城内に残っていたブレーメン博士とあの赤ん坊も無事救出されたと指揮官より聞かされている。赤ん坊の母親を探して博士はまだ城下町に残っているらしい。そして、重要参考人であった男爵の下手人となってしまったミーシャは兵士たちによって連れていかれた。ただ取り調べを受けたところで彼女は何も知らないだろう。誰かに指示されてそうしたわけではない。ただ男爵が生み出した物が彼自身に帰ってきた。ネドは彼の求めた裁きは彼自身の手によって与えられたのだと、そう思わずにはいられなかった。
ディムナは責任を感じているらしい。
彼が人狼との戦いの最中紛失したクロスボウを、ミーシャはルシルを弔うために小屋へと運ぶ途中で見つけたのだろう。自分がクロスボウを無くさなければ、少女に人を殺めさせることも無かった。男爵を死なせ、事件の詳細を追及できなくなることも無かった。俺は狩人の仕事を邪魔してばかりだ。そう言ってディムナは落ち込んでいた。ネドもアングレーズ神父もそれを否定したが、彼には届かなかったらしい。
だから今朝会ったらなんと声をかけるべきかとネドは頭を悩ませていたのだが、朝食に誘うと昨日の様子はどこへやら「おう、行こうぜ!」などと答えるものだから元気に見える。空元気かとも思ったが、なんと言うか、心ここにあらず、別のことを考えているように見える。
頬や首、司祭平服の下にもあちこちに湿布を貼り付けたネドがそんな上の空のディムナを連れて朝食後、宿へと戻ると、入り口で誰かを探している様子の人物がいた。荷車を引いた馬を連れて、既製品の服を着た男性である。彼が持っている手紙を見つけるとディムナは急に駆けだして、声をかけ、財布からあるだけの紙幣を抜き取ると、遠慮する男の手に握らせて、代わりに手紙を受け取った。急いで開いて署名を確認する。
「……あぁ」
とても残念そうに溜め息をついた。
「どうかしたか?」
「……ネド、悪いけど何も言わずに装備を付けて宿の裏まで来てくれ」
尋常ならざる雰囲気のディムナに、ネドは「分かった」と答えると、部屋に戻って銀剣の納められた鞘を背中に回した。短剣の鞘は空のままだ。見つかったら教会を通して送ってくれとブランシアの指揮官に伝えてはあるが望み薄だろう。またオヤジさんに怒られるな、とかすかに肩を竦めた。
宿の裏まで行くと、ディムナが声をかけたのか、アングレーズ神父とベルナールが呼び出されていた。ベルナールは偽装であった男爵領の衛兵の鎧は脱ぎ捨てて、陸軍が用意したのだろう軍服を身に纏っている。
「来たか、ちょっとやり残したことがあってな。集まってもらった」
「やり残しとは?」
「神父様、これを」
そう言うとディムナはアングレーズ神父に先程受け取った手紙を手渡した。
「これは?」
「俺が男爵領にいる間に調べた内容をまとめた手紙です。神父様、確認しますがこれと同じ物が俺がレイス領にいる間、あなたの手元に届きましたか?」
「いいえ。届いておりませんが?」
老司祭が老眼鏡を懐から取り出して、手紙の中身を検める。「初めて見た内容です」と補足した。
「ベルナールの『アンゲル』というコードネームをどこで知りました?」
「指揮官殿が教えてくださったのですよ。そういう名前の人物が臨時政府の手で衛兵として潜り込んでいると」
手紙を受け取ったディムナがベルナールに向き直った。
「なあ、『アンゲル』、お前からしたら驚きか? 男爵に渡したはずの俺の手紙がなんでここにあるんだって、な」
「……」
ベルナールは何も答えない。
「お前のことを疑っていたわけじゃないんだ。ただあの領にはまともに学校も、学校に通う子供もいなかったから、手紙なんて連絡手段を取ったら、ほとんどの住人が字を書けないであろうあの街では随分目立つだろうなと思ったんだ。でもお前は俺が提案した手紙という方法を止めなかった。だから荷物に紛れ込ませるとか、他の協力者の手を使うとかして街の外に運ぶ手段をお前が持っているんだろう、って考えていた。だからこれは予備のつもりだった。お前の前で書いたのとまったく同じ内容で、署名だけ『グレイス』に、ああ、うちの乳母の名前なんだけど、そこだけ変えてミーシャにおつかいを頼んだ。鶏肉を扱っているお店の人に誰でもいいから、『届けてくれたら外のお金を払う』と言って渡してくれと伝えてな」
レイス領内では男爵の敬虔な施策によって鶏の畜産が禁じられていた。鶏肉を仕入れている店舗なら、出入りの許可されている業者との繋がりがある。彼らは領外に農場を構えているのだから、国の発行する通貨を使っているはずだ。そしてネドが人狼街を潰せば、紙切れになった独自通貨ではない貨幣を求めて、必ずモードナにいる自分の手元に戻ってくる。
「両方手元に戻ってくるならそれで良し。両方戻ってこないなら男爵の検閲が徹底していたってことでそれも良し。だが、今俺の手元にあるのはこの片方だけだ。ベルナール、お前は男爵の間諜でもあったんだな」
ふぅぅ、とベルナールが深く息を吐いた。ぼりぼりと頭を掻いた。
「アンタを舐めていた、それを詫びるよ、坊っちゃん。そうだ、俺は男爵と臨時政府双方にそれぞれの情報を流していた。だが、どこで気が付いた?」
「お前が流した情報でブランシア臨時政府が検問で俺たちを止めたと聞いた時、じゃあ男爵側にもその情報を流した奴がいるに違いないと思った。次の日にはルグランが迎えに来たからな。行動がスムーズすぎる。あらかじめ取る行動を知っていたとしか思えない」
「男爵が優れた知性で推察したとは思わないのか?」
「ああ、そうかもしれないとも思ったよ。だからこの手紙を用意したんだ。確認のためにな」
その結果、黒だった。ベルナールが降参とでも言うかのように両手を上げて肩を竦めた。
「ああそうだよ。男爵に疑われないためには適度にブランシア側の情報を流さなくちゃならなかった。仕事のためだ、しょうがなかった」
「娼婦たちを売ったこともか?」
「……」
「手紙をお前に託してすぐに娼婦小屋の追い立てが始まった。男爵に狩人の居場所を喋ったんじゃないのか?」
「なんでもお見通しか。そうだよ、俺が情報を売ったから男爵は豚小屋じゃなくて娼婦小屋の方を捜索したんだ。豚たちはラッキーだったな」
ネドの眉間に皺が寄る。
「なぜルシルたちを……」
「言っただろう、神父様。俺の仕事はこの坊ちゃんを生かして街から逃がすことで、それを優先すると。アンタが暴れてくれればくれるほど仕事が早く済む。娼婦小屋に隠れて毎晩こそこそ一匹ずつ殺すなんてしてたんじゃ、あの隠れ家だってそのうち見つかる。そもそももうちょっと早くアンタが男爵を人質に取ってくれてれば、その時点で事件は終わってた。アンタが呑気に奴の懺悔なぞ聞いているから、娼婦たちは死んだんだぜ」
睨み合うネドとベルナールの間にディムナが割り込んだ。
「その件はもうどうしようもない。そんなことを話したかった訳じゃない。俺はどうしても確かめたいことがあったんだ」
「何を?」
「ベルナール、お前が人狼なんじゃないかってことをだ」
はあ!? と大きく口を開けて、呆れた表情でベルナールが笑った。
「忘れたのか? 俺とアンタは互いに潔白の証明をしたじゃないか」
「最初にはな。だけどお前が男爵のスパイでもあったなら、あの後も複数回直接男爵と接触しているはずだ。特に俺がお前に手紙を預けた時、あの時点でネドはすでに最初の人狼騎士を倒していた。その日の夜に二匹目も。男爵はお前から娼婦の情報を聞いて、彼女たちが狩人に人狼騎士の情報を提供しているのだろうと考えた。でも同時にこうも疑ったはずだ。人狼騎士がだれで、巡回経路がどこであるか、お前が喋ったんじゃないかと。男爵はお前に忠誠の証明を求めたはずだ。そしてもっとも確実な手段は最後の一本の『狼血』を、その体に取り入れさせることだ」
「……」
ベルナールは何も答えない。
「こんな風に疑いをかけておいて何を言っているんだと思うだろうけど、俺はお前に感謝しているんだ。お前のおかげで城から脱出できたし、隠れ家も用意してもらった。お前を信じたい。だから、ベルナール。潔白の証明をしてくれ。最初に会った時みたいに。それでお前の傷が塞がらなければ、俺は地面に額をこすりつけてお前に許しを請う。『何度も助けてもらった身の上の癖に、疑ってすまなかった』と、俺に頭を下げさせてくれ」
ベルナールが腰の鉄剣をゆっくりと引き抜いた。
そして指に刃を滑らせた。手の平を伝って血が滴る。その傷を見たディムナの表情がわずかに期待する薄い笑顔から今にも泣きだしそうな歯を食いしばったものに変わった。指の傷は血の跡を残してすぐさま塞がった。ディムナの背後で銀剣の抜き放たれる音が響いた。
「凄ぇなあ。なんで分かるんだ? やっぱ貴族は頭の出来が違うのか? それとも教育か?」
「なんで……?」
「アンタがそれを聞くか? でも、俺は優しいから答えてやるよ。アンタがこの街に来たからだ。アンタが来なけりゃブランシア軍が攻め込む隙に脱出するまでの間、俺は衛兵の振りをして男爵にわずかな情報を流しつつ、上司たちに男爵の動向を報告すればそれで良かった。アンタが余計なことをしなけりゃ俺が表立って動かなくて良かった。男爵に疑われて、その疑いを晴らすために人狼になんてならなくて済んだはずだった」
お前のせいだ、とベルナールの姿をしたままの人狼がディムナを指差す。
銀剣を構えたネドが前に出て、ディムナを自身の後ろに下がらせた。
「人狼になることを選択したのはお前自身だろう」
「そうしなければその場で男爵に殺されると思った。誰だってそう思う。だがあの髭面、ふざけやがって。人狼じゃねえだと? それを聞いた時、どれだけはらわたが煮えくり返ったか、テメエには想像もつかねえだろうな」
ずずっと男の皮膚を黒く太い毛が墨が滲み出るように埋めつくした。鼻先が伸び、口角が頬まで裂け、黄ばんだ犬歯が剥き出しになる。膨れ上がった肩が軍服を破き、その隙間からも獣の証である夜の闇のような色をした体毛が飛び出した。
「本当に俺って奴は肝心な時に何もかも裏目に出やがって、泣けてくるぜ……。何のためにこれまで男爵に人狼に誘われても、諜報の邪魔になるからと断って来たのか……」
「お前はそれで何を受け取った? 真にディムナを守り、戦争を防ぎたいという気持ちが動機だったなら、お前が本当に高潔な騎士だったなら、すべてが終わった後に人狼であることを自白したはずだ」
「ちょっと良い暮らしだよ」
「は……?」
ベルナールの言葉に思わずネドの後ろでディムナが息を漏らした。
「今より少し広い部屋に引っ越したかった。たまにちょっといい店で外食をして、健康に気を使って毎朝果物を食べたりして……。情報を提供することで臨時政府からは特別手当てが出た。男爵からはそれだけ好きに使ってもちょっとは貯金できるぐらいの給金を貰えた。まぁ、奴の場合は自分で刷り放題だろうから有難味も薄れるがな。俺はそんな戦時中よりもちょっと良い暮らしを続けたかっただけだ」
「そんな、ことのために……」
「そんなこと? 何より重要なことだろうが。お貴族様には分からねえか? そっちの神父様の言う娼婦の餓鬼だって同じことをした。あの娘は人狼街の豊かな食事と充実した公共事業の恩恵を十分に受けたはずだ、他の戦禍を色濃く残す街の住人と違って。客との子を腹に宿しておくことで人狼の魔の手を逃れたはずだ、その代わりに他の誰かがその晩喰われると知りながら。自分が生き残るためなら、ちょっとでも良い思いをするためなら、見知らぬ他人がどれだけ不幸になろうが知ったことじゃない。誰もがそうだ」
人狼が胸に手を当て、己が如何に正当なことを主張しているか訴える。
「それに俺にはそうするだけの権利があった。誰があの街に攻め入ろうとする陸軍を押しとどめていたと思っている。誰があの脳味噌まで筋肉で出来たバザンの莫迦がたびたび領地を拡大しようとするのを止めるために男爵に情報を流したと思っている。あの街の平穏は、豊かさは俺が守ってやっていた! なら俺にはあの街が生み出した利益を受け取る権利があるはずだ!」
「身勝手な――」
「アンタに分からねえはずが無えだろう、神父様。アンタだって他人から、誰もやりたがらない『人狼退治』という危険な仕事を押し付けられている側の人間だ。アンタが人狼の爪に、牙に、その身を晒している間、他の人間はどうしている? すやすやと眠りについているだろう。その安らかな眠りが誰によって守られているか考えもせず、知ろうともせず!」
「人はすべてを知ることは出来ないよ」
「出来たとてするものかよ! 誰も奴隷の背中に鞭打ったのが自分の手だと知りたくはなかろうが!」
叫ぶ人狼が跳びかかる。交差する凶爪と必殺の銀剣。勝負は一瞬の内についた。なったばかりの、狩人との戦闘経験も無い人狼の爪が、数多死線を潜り抜けた狩人に届くはずもない。ネドの放った一撃、心臓への一突きは過たず怪物の弱点を貫き、滅茶苦茶に振り回されただけに終わった人狼の腕はだらんと垂れた。
人狼の顔に一瞬ベルナールの顔が浮かぶ。息も絶え絶えに何かを掴もうと一歩前に進み、より深く銀剣が刺さり、鮮血が散る。
「こんっ、な、ことなら、もっと早くに、人狼に、なっておけば、良かった……。それで、あのクソ男爵も、クソ上司どもも、気に入らねえ奴は、全部、ぶっ殺して……、やれば、良かっ……」
だばあ、と口の中に溜まった血液を唾液と共にすべて吐き出すと、人狼は狩人の体に凭れかかるようにその身を崩した。ネドが右足を前に出して、体を裁き、その亡骸を地面に横たえると同時に、根元まで深々と刺さった銀の剣を引き抜いた。
聖別の光を失った銀剣の血を払うと背中の鞘に刃を納め、ネドは十字架を掲げて祈った。
取り出しかけた司祭平服内側の銀のナイフを懐に戻すと、アングレーズ神父も彼の後に続いて、祈りを捧げた。
◆◆◆
レイス領の「獣害事件」は解決した。
十体の人狼の亡骸は、確認可能な物は聖別銀によってその身元の特定の後、男爵の遺体と共に埋葬された。
レイス領はブランシア臨時政府の預かりとなり、いずれは解体されることになるだろう。しばらくは男爵の死亡は伏せられることになるかもしれないが、城下町の外門開放後に隣領に逃げ出した大勢の人々の口に戸は立てられない。
いずれ国内外問わず名を広く知られた貴族の死亡と共に、一領地をほとんど丸々利用した大規模な人狼街が存在したことが日の元に晒されることになる。一般市民に対して「人狼などという怪物は存在しない」というスタンスを取っている教会は対応に追われることになるだろう。
アングレーズ神父は教会本部、ブランシア臨時政府とともに協議するため、指揮官の乗る馬車に相乗りし、一人ブランシア首都へと向かっていった。ネドは老司祭を見送り、先にフロージエンへと帰国するため、ディムナの実家の家紋が入った馬車に乗り込んだ。雪は止んでいた。それに国境に近づくほどに積もった雪も減っていく。来た時ほど時間をかけずに帰れるかもしれない。それでも着くころには教会に約一か月分の埃が溜まっているだろう。養父が話し合いを終えて別路で帰宅する前に掃除をしておかなくてはとネドは考えた。
ネドが乗り込んだ馬車の中にはディムナの他にもう一人、相乗りがいた。小柄な灰色の老人、城の中で出会ったブレーメン博士である。博士の元の研究室もフロージエンにあるらしく、ならば一緒に帰ろうとディムナが提案したのだ。
彼が預かっていた赤ん坊はあの後、結局母親が見つかることは無かったという。レイス領の件に片が付くまでの間、あの子は教会の運営する孤児院で面倒を見てもらうことになったようだ。数日ずっと一緒にいたせいで情が移ったのか、別れてからはずっと寂しそうに手持ち無沙汰にしている。馬車の中にはレイス城で博士がまとめた研究結果の資料や、男爵に買わせた顕微鏡などが縄でまとめて詰め込まれていた。
一方、二人の荷物は少ない。ネドはほとんどの装備を使い切っていて、襤褸になった司祭平服は処分して今は持ってきた替えを着ているため、荷物を入れてきた鞄はすっかりへたれている。ディムナの荷物は鞄とその横に置かれた、陸軍によって回収され、返却された新品同然の折り畳まれたクロスボウだけだ。
ディムナが御者に合図を送ると、馬車は動き出し、一行は帰路につく。
落ち込みから少しは立ち直ったように見えるディムナが主導し、改めてブレーメン博士に挨拶と自身の目的「人狼を撲滅する方法」について語った。
「――つまりお前さんたちはこの世から犯罪を無くしたいと?」
「そこまで大それたことじゃないけど……」
「いやいや、『狼の呪い』だけに留まらず銃火器、その他武器を手に取る者を一人も存在しない世にしたい、というのは正しく犯罪の撲滅じゃろうて。……そして水を差すようで悪いがな、そんなことは不可能じゃよ。この世から犯罪を一件残らず無くす方法はたった一つしかない。司法制度を解体して『犯罪』という概念そのものを無くすという手段だけじゃ」
「別に犯罪という概念を敵視しているわけじゃなくて……」
「分かっとるわい。『物を盗むこと』や『人を殺すこと』をこの世から無くしたいのじゃろう? 無理じゃよ。それは人から欲望を奪うということじゃ。攻撃性を奪うということじゃ。他の者よりも先に、前に、上に。そう願うからこそ人はここまで進歩を重ねて来れた。敵が苦しむ様を愉しむことが出来ない者はとっくの昔に淘汰されておる」
そもそも、とブレーメン博士は続ける。
「『狼の呪い』なる呼称が正確ではないのう。他の手段によって代替できるのならば、それは人狼ではなく人間に起因する物じゃろうて。そして何より『狼血』を体内に取り入れたことによって発生する現象、新陳代謝と再生能力の向上・筋組織の肥大化・易怒性・攻撃性によって誘発される皮膚および毛管細胞の変質などは再現性のある化学的な反応に過ぎん。呪いなどでは無いと儂は考えておる」
「解明が出来たのですか……?」
博士の発言に思わずネドが食いついた。博士は静かに首を横に振った。
「まだじゃよ。だが『狼血』が何者かの血液であること、それを取り入れることで受容者の肉体に変化をもたらすことは確実じゃ。であればこれは医学・生物学・化学の領域の話じゃ。ドルイドの出る幕じゃないのう。そこで物は相談なんじゃが……」
言いにくそうに、しかし手揉みしつつ、博士がディムナを上目遣う。
「続けて研究が出来る場所を用意してくれっていうんだろ? 分かってるよ。俺が実家に掛け合ってみる。ただし今度探してもらうのは『狼血』を増やす方法じゃない。『狼の呪い』、……この言い方が嫌いだっていうなら、さっき博士が言ってたそれらの現象を消滅させる方法だ」
「おお、話が早い。分かっておる分かっておる。医学博士にして生物学の権威、このフィネガス・ブレーメンに任せておくがよい」
ホントに大丈夫かよ、と訝し気なディムナの横で、ネドが博士に頭を下げる。
「俺からもお願いします。消滅、ではなくても構いません。一時的な減退、あるいは定期的な投薬による人狼化の抑制でもいい」
「……まあ、それが実現可能な線じゃろうな。この夢想家の坊ちゃんと違ってお前さんには現実が見えておる」
ディムナがこのジジイとでも言いたげに睨んだ視線を博士はどこ吹く風で受け流す。
「その上で聞きたいの、神父様。お前さんはこの世から犯罪が無くせると、いや、敢えてこう聞こうか、この世から罪が無くせる日が来ると思うかね?」
「思いません」
あまりに迷いなく、即決の返答に戸惑ったのは老博士の方だった。
「ほっほほ、即答かいな……。まあ、そりゃそうさな。他の生き物を食い潰さねば生きてゆかれない。人間、産まれてきたことが罪で、生きているのは悪いことじゃわ」
「それは違います。いえ、もちろん博士がそう信じるのは自由なのですが。他の生き物を喰わなければ生きていけないのは牛や豚も同じです。植物でさえ他者の死によって発生した栄養素を取り込む」
「なるほど。生きとし生けるすべての者は皆罪人かね」
「はい。だから必要なのは赦しだけです」
博士が広い額を手の平で覆うようにこめかみを押さえた。
「呆れた……。いやはや全く呆れたわい。あんたはすべてを赦そうというのかね? その歳で? いやはや、全く。お前さんはどんな者でも赦してくださるのかね?……例えば――」
博士が両手で覆い隠してしまったためにその表情はうかがえない。
「例えば自分の好奇心に従うまま怪物の手先となって、怪物を増やすために協力していた者も? 怪物たちが人々にどういう仕打ちをしていたか知っていて自分だけは安全な部屋に引き籠もって知らんぷりしていた者も?」
「ええ。その方が自らの行いを悔い改めると決心したのであれば、私が赦しましょう」
「ろくでもない男じゃ。怪物たちを裏切ったのと同じように研究費だけ掠めてとんずらするかもしれん」
そうなったら懸賞金かけて全国に指名手配してやるよ、とディムナは口に出しかけたが飲み込んだ。今は懺悔の時間だ、自分が口をはさむべきではない。
「その方はすでに己が行動を恥じ、悔いておられる。己が神に、信ずる物に背くというのは時に耐え難き苦痛となります。その方はその痛みをすでに知っている。であれば二度とは繰り返しますまい」
「そうかのう。そうかもしれんの」
博士はうなだれ、顔を覆った両手をだらんと垂らした。
「すまん。さっき儂はお前さんたちの願いを不可能だと断言した。それを、撤回する」
「いや、別に、確かに夢物語ではあるかもしれないけど……」
「そのうえで実現可能な別の考えを提案したい」
ネドとディムナは互いに顔を見合わせる。
「人狼化を選択する人間をゼロにすることは出来ん。だが最小限まで減らす努力は出来る」
「それは……?」
「法に取り込めばよい。物を盗んだ者に罰金があるように、人を殺した者に懲役と禁錮があるように、人狼になった者に対する罰を明文化し広く知らしめる」
「でも人狼は人を喰わなきゃ四日で飢えて死ぬんだぞ、罪を償う期間さえない」
刑期の間、死刑囚の心臓を与えて生かしておくわけにもいかない。そもそも刑期を終えたところで社会復帰不可能だ。
「明文化と言ったが実際に法を制定するわけではない。要は誰もがその恐ろしい罰を知ればよい」
「それってどういう……」
「ディムナ君、お前さんが分からん訳はあるまい。これはお前さんが言ったことなんじゃから」
――人狼になんてなったらな、おっかない狩人に地獄の底まで追い掛け回されて必ず殺されると分かっているのに、なるはずねえだろ。
「『人狼になったら、銀の腕の狩人に殺される』。この噂を広める。悪戯をした子供を叱る時には『そんなことをすると狩人がやってくるぞ』と教える。人狼になるなんてどれほどの莫迦でも選択しないようなあまりにリスクの高い、割りに合わない選択肢だと記憶に刻み込む」
繰り返し繰り返し、馴染むまで文化という生地の中に「銀の腕の狩人」の話を練りこみ続ける。誰もがそれを知るようになるまで。
「……それをするには狩人だけではなく、人狼の存在を公表しなければなりません。教会がそれを認めるかどうか……」
「認めずとも男爵の死を通して多くの者が知るじゃろう。そもそも元より被害のあった村では戒厳令こそ敷かれていたが住民同士に人狼の存在は共有されておった。遅かれ早かれ皆いずれ知ることになるわい」
「ダメだ」
断言したディムナに当然博士は疑問を呈する。
「なぜじゃね?」
「……ダメなんだよ」
それじゃあ「銀の腕の狩人」はずっと狼たちを殺し続けなきゃいけなくなる。それじゃダメなんだ。
だって狩人は、司祭に、神父様になりたいんだから。
それがどうしても必要だと言うなら、ネドはきっと狩人でい続ける道を選ぶだろう。博士が言ったのは彼一人に犠牲を強いる方法だ。
それではあまりに哀しい。
「狩人一人じゃ手が足りないだろ? 噂にしたってリアリティが無くっちゃな……」
だからディムナはこの道を選ぶ。
――思えばずっとそうだった。初めて会った時から俺が囮役をこなしてた。
「だから騎士団を作る。対人狼の騎士団を」
実家の力を使って。教会と連携して。使えるものは何でも使って。
もちろんネド自身にも働いてもらう。持ちうるすべての人狼対策の手段を吐き出してもらって騎士たちに連携する。
騎士団のメンバーは人狼になっていないことを証明し合うための共同生活期間みたいなものが定期的に必要かもしれない。
でもそれが軌道に乗れば。
ネドは狩人を辞められる。狼を殺すための狩人じゃなくて、人を救うための神父になれる。
――狼たちが食いつかずにはいられない囮を俺が作ろう。
「そうだな、名前は『銀の手』なんてどうだ?」
三人を乗せた馬車を曳く馬が雪の上に蹄の跡を残す。その上を轍が後を追うように線を引く。
一時封鎖されていたこの道は通る者もいなかったのか、淡雪の絨毯の上を馬車は行く。もう少し進めば国境へとつながる大通りに出るだろう。無数の人の足跡で踏み均されたその道を目指して、馬車は獣の足跡だけが残る街道を後にした。




