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狼たちを殺すには  作者: mozno
第二章 人狼街編

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加害者

「バザンが負けたか」

 男爵がソファーに体を沈め、わずかに目を閉じた。

「正直に言えば意外だ。私は数多戦場を駆けたが、あれより強い男を知らん。私が十人束になっても敵わぬだろう」

 右手で十字を切って、部下を悼む。

「あまり賢い男ではなかったが、槍を握った時は冴える。もっとも私の部下はそんな男ばかりだったがね」

 窓の外、この城が見下ろす城下町からわぁっと歓声が聞こえた。ディムナが思わず窓に張り付く。人狼の亡骸が柱に吊るされ、火あぶりにされていた。周囲を取り囲む人々が泣き笑いし、ここまで声が届いて来たのだ。ネドの話を信用して、あのコルネイユという人狼が死んでいると判断するなら、これで計九匹の人狼が討たれたことになる。人狼騎士はすべて死んだ。

「荒くれ揃いで、たいていは暴力沙汰を起こして故郷に居られなくなった男たち。そういう者たちが戦場では驚くほどの活躍を見せる。連携を見せる。私も同じだ。誰かを傷つけた時、噴き出す血を見た時、冷たくなり物になっていく命を見た時、私の心は高揚する。死線を乗り越えた時、私の心には凪のように静かな、しかし全身を満たす喜びがあった。それに比べて、平時誰かを愛することや友誼を深めることは決して私を癒してはくれなかった。実体験として私の心を揺さぶってくれたのは常に暴力であり、その極地たる戦場だった」

 男爵がティーポットからお茶を淹れる。視線でネドにも勧めるが、彼は首を振って遠慮した。

「だが皮肉にも英雄的な活躍こそが戦士から居場所を奪う。戦争が終わり平和になった世界では戦士は上手く生きてはいけない。そういう人間なのだよ、私も彼らもね」

 男爵がカップに口を付けて顔を顰めた。時間を置きすぎて渋みが出てしまっている。料理長が生きていれば彼にそんな茶を飲ませはしなかっただろう。

「平時に生き残るために必要とされる能力と、戦時に生き残るために必要とされる能力は全く異なるものだ。私たちは後者しか備えていない。だから生き残るためには環境の方を変えねばならなかった。私たちが必要とされる、生き残れる環境へと。そしてこれは人間がこれまでの歴史の中で無限回おこなってきたことでもある」

 勘違いしないで欲しいのだが、と補足して、

「だからと言って、それを許せ、先に歴史の方を糾弾しろなどと言うつもりはない。ただ我らの飢えと渇きは戦場でしか満たされない。平時では、……いや、違うな、我らにとっては戦争下こそが平時、自然な、あるべき状態なのだ」

「この人狼街こそあなたたちが生き残るために作り変えた環境だと?」

「違うな。私と部下が求めたのは戦場だ。この街はその結果の先の代物だ。人は空腹を解消するために食事を摂る。あるいはそれ自体の歓びのために。この街は食事の結果の排泄物に過ぎない」

 品の無い例えで申し訳ない、と男爵が詫びた。

「バザンは人狼国を造り、広げて人狼大陸とすることを目的のように語っていましたが?」

「あれの夢はそうだったのかもしれん。夢というよりも己が主人に大陸の覇者という大それた格を望んでいた、というのが正しいかな。私は別に人狼帝国の皇帝になどなる気は無いよ。そもそもこの街の運営システムは本来であればごく小規模な共同体でのみ実現可能なモデルを採用している。そんな規模になれば間違いなく破綻するだろう」

「ならあなたは何のためにこの街を、人狼街を造ったんです?」

「ネド神父、あなたにはすでに申し上げたはずだ。私は裁かれたいがために、この街を造ったのだと」

 貴族としての生まれ、生まれによって与えられた教育、教育によって培われた知性、知性によって獲得した地位、将として成し遂げた戦功、そのいずれもが彼を守る。彼自身が語ったように最早法ですら彼を裁けない。自身も後ろ暗いところのある貴族は自分に飛び火せぬように彼を獄に繋ぐことに反対票を投じるだろう。仮に獄に繋いだところで「国の英雄」の信奉者が彼を逃がすだろう。そこに男爵の意思は介在しない。

 であるならば、私を裁き得る者は神より他に無い。ジギタリスはそう考えた。

「長い時を待った。どれだけの罪を重ねただろうか、数えることさえ止めた。だがついに主によって遣わされた、私の報いが今、目の前にいる」

「狩人に殺されたかったから、人狼街を造ったというのですか?」

 男爵がはにかんだ。そう明け透けに言われると恥ずかしい、とでも言うように。

 外の様子を眺めていたディムナがすたすたと歩いて、銀の矢の装填されたクロスボウを男爵の側頭部目掛けて構えた。引き金に指がかけられている。

「……もういいだろ。本題に入ろう。『狼の司祭』とどこで出会った? 今どこにいる? 俺たちが聞きたいのはそれだけだ」

 まるで自身に向けられたクロスボウのことなど意に介さずに男爵は答えた。

「初めて出会ったのは五年以上前。私が将軍の任を解かれ、領地に籠もるようになってから。私は当時説教を聞くために方々から司祭を招いていた。彼はその中の一人だった。彼は、良かった。若く、精力に満ち、知ろうと思えば知り得ぬ物など何も無いのだと心の底から信じていた。そう、熊のようだった。賢く恐れを知らず、美しい毛並みをした熊のような男だった」

 半ばうっとりとしたような表情で男爵が『司祭』を語る。

「彼は私に寄り添い、私の願いに理解を示してくれた。彼は私の報いとなってはくれなかったが、『狼血』という名の新たな悪徳の種をくれた。最初は確か三本だったか。古参の部下たちに分け与え、群れを作ると新たな『狼血』が届けられた。皇帝と、皇帝の失脚後は臨時政府、それから教会にも間諜を放ち、人狼の噂をもみ消し、私は着々と人狼街を造りあげた」

 他領に発生した人狼を一時匿ってやり、教会が使う武器の情報も集めさせた。そうした野良の人狼は大抵居付くことは無かったし、領民に手を出そうものなら、バザンが手ずから葬っていたという。

「半年ほど前から、定期的に届いていた『狼血』が届かなくなった。最初は『狼の司祭』が討たれたのかとも思ったが、各地で人狼の発生は多発しているという。我々は『司祭』のご機嫌を損ねたらしい。理由は未だ分からないがね。この街は人狼騎士への叙勲を最高の報酬として成立している街だ。『狼血』の供給が無くなったと知れば、民は例え最初から自分の手に入る見込みは無かったとしても、怒り、暴動を起こすだろう。人狼騎士を叙勲できる君主であることがこの街の民が自らの主人に求めた格だったからだ」

「だからバザンは領内で『狼血』を生産するためにあの爺さんを誘拐した」

「そう。本当は自然選択説のドルネル博士をお呼びしたかったのだが、神を否定したとかで教会に身柄を拘束されているらしくてね。彼の師だからという理由で謝辞に名前の載っていただけのブレーメン博士をバザンが連れてきたときは流石の私も笑ったよ」

「だが『狼血』の研究は進まなかった」

「というよりもわざと進めなかったのだろうね。人質もいない、彼を人狼にしたわけでもない、殺すと脅しても私たちの方が困るだけだと彼にも分かっている。それで協力するわけもない。そんな状況の中で、最新の『獣害事件』の知らせを知った。後は君たちも知っての通りだ」

 ディムナに招待状を送りつけ、最終的にはネドをおびき出した。

「だから『狼の司祭』が今どこにいるか? という問いには答えられない。それはむしろ私たちの方が先に君たちに投げかけたものだよ」

「バザンはあんたがもう一本『狼血』を持っていると言っていた。それはどこだ?」

「もう無い。使った者も今頃死んでいるだろうさ」

「そうか。ならもう用は無いな」

 ディムナがクロスボウをわずかに下げ、心臓に狙いを定める。引き金にかけた指に力が込められる。

「止めろ、ディムナ。それを下ろせ」

 それをネドが止めた。

「なんで止める? まだ何かこいつに聞くことがあるのか?」

「いいや。でも彼を殺すな」

「だから、なんでだよ! 前みたいに懺悔でも聞くつもりか? お前にはこいつが反省しているように見えるのか!?」

「いや、してないそうだ。前にそう聞いた」

「なら!」

「殺すなと言うのは、――彼が人狼じゃないからだ」

 思いもよらぬネドの発言に、ディムナは言葉を失った。そして当の男爵本人はひくりとかすかに瞼を震わせた。

「バ、莫迦言うんじゃねえよ! 人狼じゃない!? こいつは人狼騎士の親玉だぞ! あいつらに命令だって下していた!」

「ああ、命令していたな」

「人の心臓だって喰っていた。そりゃ喰っているところを直接見たわけじゃないけど、でもあの厨房には男爵のために赤ん坊が用意されていた。お前だって見ただろう!」

「見た。でも男爵は人狼じゃない」

「なぜそう言い切れる!?」

「私も――」

 大声を上げるディムナの横で、レイス男爵が呟くように問うた。

「私も是非お聞きしたいですな。私が人狼ではないとお考えになったその理由を」

「単純なことです」

 狩人は告げる。己が知っていて、彼が知らなかったことを。

「人狼の飢えは『人間の心臓を生食すること』でしか癒えないのです。褒められたことではありませんが、それはかつて教会がおこなっていた人狼への各種の拷問と実験によって明らかになっています。料理長はあなたのメインディッシュを包み焼きにすると言っていた。火を通して調理したものしか食べていないのに、あなたは人を襲っていない。人狼でない証拠です」

 男爵の目が普段よりわずかに大きく見開かれた。まるでそれを誤魔化すように彼は目を瞑った。

「そのままでも喰ってただけなんじゃないのか?」

 なおも食い下がるディムナにネドが答えた。

「そこまで疑うなら、彼の皮膚に傷を付けてみればいい。塞がらないはずだ」

 ふぅ、と男爵が嘆息した。ソファーから立ち上がり、書斎机から取り出したレターナイフで指先を傷つけた。赤い雫が指を、手の平を伝い、絨毯の上に染みを作った。破れた皮膚は塞がらない。ジギタリス・ド・レイスは人狼ではない。彼は人間だ。

「私の負けだ、ネド神父。もっとも君たちがこの部屋にたどり着いた時点で私はとっくに負けていたのだがね」

 胸元から取り出した白いハンカチーフでレターナイフの血を拭う。指についた血を吸う仕草さえ優雅だった。

「なら――」

 敗北を認め、落ち着き払う男爵よりも遥かにディムナが体を震わせ、動揺する。未だ信じられないのか、クロスボウの照準を男爵から外さない。

「なら、こいつは人間を喰う人間だったと?」

「そういうことになる」

「なんで、人狼が人間に従う……?」

「騎士たちも彼が人狼だと思っていたのだろう。領民を攫って毎朝喰っているのが、まさか趣味とは思うまい」

 ネドが男爵と目線を合わせる。

「男爵、あなたの告解の内容を少し彼に話してもよろしいか? このままだと彼があなたに向けて引き金を引いてしまう」

「勿論です、神父様。まあ、私としては別に引き金を引いてもらっても構わないのだが……」

「私が構うんだよ」

 ネドは男爵から告解を受けた彼の来し方をかいつまんで話した。聞き終えたディムナの男爵を見る目が、怪物を見る目付きへと変わった。

「こいつの、頭がおかしいから、人狼たちが人狼だと勘違いしたと? 違う、勘違いなんかじゃない! こいつは生まれ持って人狼だった! それだけだ!」

「ディムナ、クロスボウを下ろせ。彼は確かに生まれ持っての殺人鬼だったが、おじいさまの教育によって一時はそれを抑えることに成功した。その縛めが外れたのは、皇帝が戦端を開いた数多の戦争のせいだ。仮に戦士としての経歴を積まなければ彼はただの狩猟好きの男爵家の跡継ぎでいられたかもしれない。彼もまた戦争の被害者だ」

「被害者だと!? こいつが、この男が被害者だと言うならこの街には加害者は一人もいねえよ! 過去と仮定はそうだったとしても、今、現実にこいつは紛うことなく加害者だッ!」

 ディムナの叫ぶような激昂を聞いて、男爵は静かに笑った。

「神父様、今のは流石に彼が正しい。私は加害者だ」

 非難しているはずの相手に肯定され、ディムナの怒りは行き場の無いまま、胸中で渦を巻く。

「私は生まれてこの方、ずっと加害者だった。貴族に、いいや、例え貴族に生まれずとも、この列強諸国に、豊かな国に生まれた時点で私は搾取する側、加害者だったのだ。毎日のようにたっぷりと脂の乗った豚肉を食べ、間食にチョコレートを摘まみ、着心地は良いのに値段の安い服を着て、余暇に本を読み、思索を巡らせる。ディムナ君、君とて貴族だ。チョコレートを、君の着ている量産品を、誰が作ったか知らぬはずもあるまい。それとも家庭教師は君に教えなかったかね?」

 挑発だ。男爵はディムナに引き金を引かせようとしている。

「俺とあんたが同じだと?」

「いいや、同じではない。私は直接、自覚して人を殺す。だが君を含む多くの民のように間接に間接を重ね、自覚することさえ無いまま真綿で首を絞めるように見知らぬ奴隷の生き血を啜り殺すのと果たしてどちらが上等かね? 私と私の部下は野蛮だろうともさ。だが君らのように卑怯では無い。我らは人狼という怪物だろうともさ。だが君らとて吸血鬼という名の怪物ではないか」

 男爵がふふっと愉しそうに笑った。己の蒐集した悪徳のコレクションを見せびらかすように得意げに。

「私はね、食事を口に運ぶたびに、服に袖を通すたびに、当たり前のように本を読み、物を考えるたびに、己が加害者だと感じる。私に食べられるご飯が可哀想で、私に着られる服が可哀想で、私に触れられる本が可哀想で仕方がない。私は私が生まれたという罪をいつか誰かが裁くのだと信じていた。そして誰しもがそう感じているからこそ、神を信じているのだと。

 長ずるにつれて、それまでもしやと思いつつも、あり得るはずがないと考えていたことが事実だと知った。本気で天国を信じている人間や信仰によって救われると思っている人間、幸せになれると考えている人間がいるということを。私は自分を基準としてずっと、人間は生まれてきた時点で幸福になるに値しないと考えてきた。だって、誰もが加害者だと云うのに」

 ――幸せになろうだなんて、なんて烏滸おこがましい。

「だから思い上がった民を家畜にしてやろうとでも思ったっていうのか……?」

「断じて違う。私は私の考えることしか考えていない。私の世界には私しか存在しない。この街は余剰だ。私は裁きを求めて戦場を渡り歩いて敵を殺め、両親の首を主君に捧げ、その主君さえ裏切った。それでもなお訪れない裁きを招くために部下を人狼にし、その餌場としてこの街を運営した。家畜のように人間を詰め込んだ小屋や免畜符、蔓延しきった梅毒は、今日この日、私の裁き、私の報いとなってくれる君たちが来てくれるまでに発生したついでの枝葉に過ぎん」

 最早理解不能だと、ディムナは半ば呆れた様子で、だらんと腕を垂らした。疲れた、こいつと話すのも、クロスボウをずっと構えたままでいるのも。ディムナはネドの隣に腰掛け、「引き金を引いた方が良かったんじゃないかと迷いそうだから」と言うとクロスボウを彼に返した。

「……そんなに死にてえなら、そこの扉の取っ手とてめえの服でも使って首を吊れば良かっただろうが」

「自殺は教義によって禁じられている」

「殺人だって!」

「その通りだ。しかし私は過去に多くの人間を殺めたが、それによって神罰はおろか法による罰さえ受けていない」

 戦争が、時代が、彼の生まれ持っての本性を肯定した。だが祖父が己の中に形造った社会性が否やを言う。

 この男は神に、信じるものに見捨てられたと感じている。だから気を引こうと悪とされている行いを繰り返す。もう一度叱られたいのに、もう叱ってくれる人はいない。だから何度も叱られるようなことを繰り返す。

「君はおじいさまのことを愛していたのだね」

 ネドの言葉にジギタリスが口を噤んだ。

「君が唯一知る他者はおじいさまだ」

「私が、祖父と主神を同一視していると?」

「だって君は祈る時、おじいさまのことを思い出すだろう?」

「――なるほど」

 すとんと何かが腑に落ちたとでも言うように、そのたった一言で、ディムナには男爵がまるで一回り小さく、幼くなったように感じた。

 ジギタリスの祖父は彼に自身の加害者性を自覚させることによって、生来備えなかった共感と生家で養われなかった社会性を疑似的に形成した。そしてそれこそが彼の苦しみの源だ。

 他者に危害を加えることを愉しんでいる自分がいる。戦場では己の中の祖父以外の誰もがそれを肯定し、賞賛する。だが祖父の教えてくれた「善性」はそれを否定する。大好きだった祖父の声が掻き消えてしまわぬように寄り添うように耳を傾けるたび、彼の中で祖父の声が大きくなる。最早神の声となった祖父の声がジギタリスを糾弾する。

 怪物に生まれてきたのだから、お前は加害者だ。

 本来誰かが得るべきだった豊かさを不当に吸い上げているのだから、お前は加害者だ。

 加害者、罪人には必ずや罰が与えられるはずだ、否、与えられなければならない。

「――私は、どうすれば良かったのだろうな」

 男爵の声にはもう己の過去を語った時のような浮かれた調子は無く、知性と優雅さも剥がれ落ち、ただ今は道に迷った子供のような心細さだけがあった。

「おじいさまの死をただ嘆き、悲しめば良かったのです。あなたなら、そうして泣き腫らした後に、おじいさまが最期にあなたに遺してくれた物の価値に気付けたはずだった」

「――そうか。私は、間違えたのか」

 しばらく瞑目した後に、男爵は慎ましく言った。

「神父様、祖父のために祈ってくださいますか?」

「いいや、その祈りはあなたのものだ。私はあなたのために祈ろう。あなたはあなたの大切な人のために祈りなさい」

「……なるほど、貴方は確かに神父様だ」

 神父と罪人が互いに慣れた手つきで十字を切って祈りを捧げる。長い沈黙の後にネドが口を開いた。

「男爵、あなたをブランシア臨時政府に引き渡します」

「ああ、好きにし給え」

「……最後に一つだけいいか?」

 ネドが先導し、書斎を出ようとする男爵の背中にディムナが声をかける。

「何かね?」

「なぜそれだけ悪徳を求めておきながら、あんた自身は人狼にならなかった?」

 その問いに男爵はわずかに微笑んで答えた。

「それは私自身にとっても長い間の謎だった。なぜ人狼になりたいと思わないのだろうか? ……先程のネド神父のお話しで答えが出たよ。うちの家紋を見たことがあるかね?」

 男爵麾下の人狼騎士たちが身に着けた鎧にも刻印されていた狐をあしらったラヴォラス家の家紋。

「私は狼ではなく狐が良かったんだ。祖父が私にくれたのと同じ、狐が良かったんだよ」

 そういえば、と男爵がネドの方を向き直る。

「先程のお話しで一つだけ、神父様が勘違いなされていることがあった」

「……聞こうか」

「部下たちが私のことを人狼だと思っていた、という点です。私はたびたび彼らと食卓を囲んだ。心臓は生食せねば飢えが癒えないというなら、彼らは私が人狼ではないと知っていたはずです。だというのに何故彼らは私に付き従ったのだろうか……?」

「あなたが彼らに戦場を、人狼騎士という立場を、……居場所を与えたからでしょう」

「なるほど。……やはり私には勿体無いくらい、良く出来た部下たちだったな」

 寒風の吹き込む廊下。死後なお書斎を守るように道を塞ぐバザンの二つに裂かれた亡骸の、その背中を見て、書斎の扉を抜けた男爵はぽつりとつぶやいた。


 城門を抜けると喚声と絶叫とが耳に入って来た。

 人々が騎士を馬から引き摺り下ろし、殴り蹴り、棒で叩いて暴行を加えている。怯えた表情の衛兵たちが円を作って槍を構えている。彼らを取り囲むのは無数の憤怒に顔を歪めた市民たちだ。一人が石を投げると、他の者たちも続く。うち一つが衛兵の瞼に当たって流血した。それに興奮するかのように一際大きな喚き声が上がった。

「なん、だよ……。これ……」

 足を怪我した男に肩を貸す衛兵がいた。

 民衆が怪我をした男目掛けて石を投げる。友人を襲われた男が彼を庇うも礫は止まない。

 市民の一人がにたにたと笑いながら、男の傷口に松明を近づけた。激昂した衛兵が腰の剣を抜き、松明を持った男を脅す。四方から上がる怒声に掻き消され、何を話しているかは分からない。民衆の中から憎悪を瞳に宿した少年が衛兵にタックルをかますと、剣が地面を滑った。ワッと一気に声が上がり、引き倒された衛兵に人々が群がる。丸まり、殴打を耐える衛兵の臀部に彼が取り落とした鉄剣が突き立てられた。絶叫が上がる。

 衛兵が絶命したのを確認すると、興味を失ったのか、目を血走らせたヒトの群れは他の獲物を探し始めた。肩を貸してもらっていた男が死んでしまった友人の元に足を引き摺ってたどり着き、その頬を触れると、絞め殺される鶏のような声を上げて泣き崩れた。

「何とは異なことを。君が作った景色だろう」

 煙を上げる城下町のあちらこちらで繰り返される無差別な暴力。絶句したディムナの呟きに男爵が返す。

「なんで……。もう人狼騎士はいない……。見分け方だって教えたのに……」

「だからこそ人狼騎士の脅威度が下がったのだ。容易く見分けることが出来、拘束さえ出来れば狩人で無くとも殺すことが出来る、追加投入も無い。君の広めた教えによって人狼騎士はこの街での主人としての格を失った」

「格……?」

「被支配者は、……敢えてこう呼ぼうか、奴隷は己が主人に格を求めるものだ。その人物が己の首に繋がった鎖を持つに足る人物か、奴隷は常に監視している。あっちにいる奴隷の鎖の方が豪華じゃないか? いやいやあっちの奴隷の背中の傷、あれを付けたのは高級品の鞭じゃないか? と言った具合にな。もしも奴隷のご機嫌を損ねれば、……この景色を見れば説明するまでもあるまい。言っただろう、誰もが加害者だと。君も貴族なら覚えておき給え。支配者とは被支配者によって常に支配されている者のことだ。誰もが、人として生まれ落ちたその瞬間から、社会という見えざる大きなものの奴隷であり、家畜なのだ」

 城から出てきた男爵の姿を認めた一人が、大きな声で群れに知らせた。ぐるんと無数の首が一斉に回って、その倍の数の瞳がディムナたちを捕らえた。槍を、松明を、農具を、拳大の石を持った男たちが男爵に迫るのを、ディムナは両手で庇った。

 邪魔をするな! 殺させろ! そうだ、殺させろ! 馬に繋いで引き摺り回せ! 人狼を殺せ! 首を落とせ! 手足を捥げ! 磔にして火あぶりにしろ! いいやそれじゃ足りない、指の先から少しずつ斬り落とせ! その肉を豚の餌にしろ! 殺せ! 殺せ! 殺せ!

「ま、待て! こいつは人狼じゃない! 人狼じゃなかったんだ! ただの、ただの犯罪者なんだよ! ブランシア政府に引き渡す、法の裁きを受けさせる。だから――」

 そんなのは関係ない、と誰かが言った。殺させろ、殺された分殺させろと誰かが賛同した。

「それじゃあ、ただの私刑だろうが!」

 なぜ人狼を庇う! お前も人狼なんじゃないのかと声がした。

 そうだ、そうに決まってる、そうでなきゃ人狼の味方なんてするはずない! 殺せ! 殺せ! 人狼を殺せ!

 自らの声に興奮した人の群れの中から飛び出した、ディムナの顔面目掛けて繰り出された一本の槍を、ネドが銀腕で叩き落とした。

「静かに――」

 がらん、がらんがらんとまるで教会の鐘の音のように、叩き落とされた槍が地面を跳ねて音を立てた。しんと静寂が訪れる。

 ディムナと男爵の二人を庇うように、歩みを進めた司祭姿の男にその場の全ての視線が注がれた。

「この男は告解し、自らの罪を主の前で認めた。主は彼をお赦しになる」

「そんな!」

 ざわざわとどよめき、再び男爵に跳びかからんと睨みつける人々をネドが右腕を上げて制止する。銀の腕が人々の目に触れる。狩人だ……、と気が付いた何人かから広がった動揺が、民衆全体を震わせた。

「だが、新政府もその律法も彼を許しはしないでしょう。公の場で彼の罪状の全てを明らかにさせなさい。ここで怒りのままに彼を殺めて、その罪を闇に葬ってはならない。彼があなたたちの大切な人たちに何をしてきたのかを、あなたたちは知らずに済ませるつもりか?」

 さあ、道を開けて、と神父が言う。彼が進むと民衆が一歩、二歩と下がり、広場への道が開けた。

 男爵を半ば抱えるようにしながら、ディムナが後を追う。ネドが踵を返してディムナに耳打ちした。

「ディムナ、先に行け。私は民衆を説得する」

「……分かった」

 手綱を結んで停めていた馬はディムナの姿を認めると、ぶるると鼻を鳴らした。顔を覚えていたらしい、頭の良い奴だ、とディムナが頭を撫でてやり、鞍に跨り、後ろに男爵を乗せてその頭に上着を被せた。外門に向けて馬を歩ませる後ろで神父の説教が聞こえた。

「武器を下ろしなさい。皆に告げなさい。人狼騎士は討たれました。この街にもう人狼はいません。もうだれも傷つけなくて良いのです。あなたが槍を向けている相手は人間です。人間を殺してはなりません、傷つけてはなりません。人狼騎士は討たれました。もう人狼はいません。私と共に主に祈りましょう、亡くなった人たちのために。もう人狼はいないのですから――」

 信心深い何人かが、ネドの誘いに従って跪いて手を組み、祈りを捧げる。それに倣うように人々が武器を下ろした。

「ディムナ君――」

 背中の男爵が語りかけてくる。

「んだよ……」

「帰ったら御父上に礼を言っておいてくれないか? 長年私の相手を務めてくれたことと、今回君を派遣してくれたことに」

「あの人のは全部打算だ。あんたが感謝する云われは無い」

「君は、御父上が、いや、貴族が嫌いかね?」

「……だったらどうした」

「変わらんよ。貴族も平民も奴隷も。危害を加える対象が違うというだけで、誰もが皆同じように哀れな加害者なのだ」

「それは、貴族の言葉だな」

「そうだ。人は己の知ることしか知り得ない。私の言葉も君の言葉も貴族として教育を受けた人間の言葉だ。あのネド神父の言葉でさえ教会によって教育を受けた人間の言葉だ。『人は言葉を通して分かり合えない。つまり人は決して分かり合えない』と『狼の司祭』ウスキアスは言っていた」

 ディムナは息を飲んで、その名を反芻する。

 ウスキアス。それが「狼の呪い」をバラ撒く「狼の司祭」。ネドたち狩人の敵の名前――。

「私は私の部下たちと暴力と流血によって分かり合った。私が彼ら以外に分かり合えた相手がいるとするなら、それはきっと君の御父上だけだろうから。言葉にするのは無粋だが、他に伝える術もない。……是非伝えておいてくれ」

 頷きも否定もせずディムナは馬を走らせる。やがて城下町の外門が見えた。ブランシアの軍服を着た男たちが城門を確保していた。その中に見覚えのある顔を見つけた。アングレーズ神父とベルナールだ。ディムナは手を振って近づくと、馬を降りた。

「ベルナール! 神父様を呼んできてくれたんだな、それにブランシア軍も!」

「俺はほとんど何もしてねえ。こちらの神父様のご采配だ」

「ご無事で何よりです、ディムナ殿。ネドはどうしました?」

 頭に服を被せられた馬上の人物を気にしつつも、アングレーズ神父が息子の安否を問う。

「あいつも無事です。今は城の前で暴動が起きそうだったので、皆を説得してくれています」

「そうですか。ふむ、やっと司祭としての自覚が出て来たでしょうか……?」

「あいつはもうずっと前から神父様ですよ。……さあ、降りてもらおう」

 ディムナは馬上の人物に手を貸し、彼が馬から降りるのを手伝った。その頭に被せられた上着を取ると、その場の全員が息を飲んだ。噂の人喰い男爵ジギタリス・ド・レイスがそこにいた。

 ベルナールが思わず引き抜こうとした腰の剣柄を、アングレーズ神父が片手で上から押さえた。

「彼は、男爵は人狼じゃありませんでした」

「は……? おい、何を言ってんだ……? そんなわけ……」

「俺も信じられなかったが、潔白の証明は済ませた。疑うなら指の怪我を見ろ」

 老司祭が「失敬」と一言断って、男爵の手を取った。人差し指の先にはレターナイフでつけた傷が未だにくっきりと残っている。

「『狼の司祭』と接触したのは五年以上前。『狼血』の供給が途絶えたためにその足跡を追って俺たちに接触してきたと言っています」

「なるほど。となると、教会の出る幕はほとんど無さそうですね」

 アングレーズ神父が現場指揮官に声をかけて、男爵をモードナの街まで護送するように依頼する。そののちは首都まで運ばれて、裁判か軍法会議にでもかけられることになるだろう。

 両脇を軍人に挟まれた青髭がぴたりと立ち止まり、ディムナの方を向いた。

「ディムナ君、色々あったが君と話せて良かった。御父上と、ネド神父にもよろしく伝えておいてくれ」

「……ああ」

 不承不承ながらもディムナが首肯の返事をすると、男爵は口角をわずかに持ち上げた。しかしその直後、カッと目を見開いた。

「なるほど。報いは彼らではなかったか。ああ、やはり神は――」

 カシュッという弦の弾ける音がして、男爵の頭部が後ろに跳ねた。馬車に刻印されたブランシア陸軍章に血と脳漿が飛び散る。男爵の左眼窩を貫通して彼が乗るはずだった座席に刺さった銀のクロスボウの矢がビィィンと蚊の鳴くような音を立てて、振動した。

 ディムナがばっと後ろを振り返る。市民も軍人も誰もが彼女を見ていた。男爵が寸前までそうしていたように。

 十一、二歳にしか見えない質素なワンピースを着た少女、ミーシャがクロスボウの反動で尻餅をついていた。そのめくれ上がった裾から覗く枝のように細い脛には梅毒感染者の典型的な症状である無数の梅の花のような赤い斑点が浮かんでいた。彼女の握っている角ばった新品のクロスボウには見覚えがあった。

「と、取り押さえろッ!」

 軍服を纏った指揮官が大声を上げる。男爵の脇を固めていた二人が彼の首に手を当て、脈を確認するがわずかもしないうちに首を横に振った。即死だ。

「ルシル、仇を取ったよぅ! これで、みんな、みぃんな、天国に行けるよねぇ……?」

 高らかに笑う少女を軍人が乱暴に地面へと組み伏せた。痛い、痛いとミーシャが泣いた。

「なんで……」

 全身の力が抜けたようにディムナがその場にへなへなと膝をついた。

「なんで、こうなるんだよぉ……っ!」

 崩れ落ちたディムナの視線が男爵の右目と重なった。生きていた頃よりもなお幽鬼のようなその顔で、死んだ男は笑っていた。




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