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狼たちを殺すには  作者: mozno
第二章 人狼街編

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21/32

死線

 カカカッと小気味良い包丁の音が厨房に響く。

 料理長が今、手際良く賽の目切りに処理をしているのは玉ねぎ、にんじん、セロリ。これを炒めることで肉の臭み消しとするための下準備である。

 厨房の中にもう一つ、似つかわしくない音が響く。おぎゃあ、おぎゃあと母を求めて泣く赤ん坊の声。

 調理台の上に横たえられ、上着を脱がされたネドの意識がその泣き声に引っ張られ、わずかに覚醒した。コック帽を被った料理長に気付かれないように薄目を開いて自分の状況を確認する。靴を脱がされた両足を鎖によって束ねられている。右腕の義腕は取り外され、調理台の隅に置かれているのが見えた。

 自分の頭のすぐ横に籠の中で赤ん坊が泣いている。

 ネドは勢いをつけて下半身を跳ね上げると、足に着けられた鎖で料理長の横っ面を蹴り飛ばし、調理台から滑り落ちる間際、左手で義腕を掴む。腕部をバイオリンのように顎と肩で支え、左手で手首のゼンマイ機構を動かすと、義腕の中指と薬指の間から聖別された銀の隠し刃が飛び出した。

「活きの良い素材だ……」

 料理長が頬に突き刺さった包丁を抜く。たちまち傷が塞がった。自身の血を浴びたまな板の上の香味野菜を悲し気な瞳で見つめると、調理台横のごみ箱へと捨てた。

「その腕、返してくれないか? それに盛り付けをするつもりだったんだ……。閣下は司祭の肉をお望みになられたが、お前は食うにはいささかとうが立ちすぎている。だから赤子の心臓を、中身を空にしたお前の腹の中で焼く。老鶏から優れた出汁が取れるように、お前の骨から染み出した旨味が、赤子の柔らかい心臓に染み込むんだ、ギュッと、な。赤子肉の司祭による包み焼き(ポピエット)、それが閣下にお出しする今晩のメインディッシュ。銀の腕はその皿に使う」

 ネドは料理長の視線から隠すようにこっそりと足の甲をまっすぐにして片足ずつ鎖の戒めから抜けた。外した鎖を蹴り上げて料理長の顔面へと飛ばすと、調理台を乗り越えて、その懐へと迫る。脾臓目掛けて差し込もうとした銀刃が包丁の背に阻まれた。

「活きが良すぎるのも考え物だな。……丁度いい。閣下は二本足をお食べにならない。まずは片足斬り落とす」

 弾けるように後ろへ跳んだネドの左太ももがぱっくりと裂け、調理場の床を血で汚した。

 じりじりと迫る料理長から視線をそらさず、ネドが左手に義腕を逆手に構えたまま、厨房をぐるりと回るように距離を取る。ちらと流し台を見る。義腕の手首を口に咥えると、水の中に沈んでいた数本の銀のナイフを手に取って、迫るコック姿の大男への距離を詰めた。足を切り離そうと振るわれた包丁を更に一歩懐に入ることで躱し、左手に持った銀のナイフを脇腹へと突き立てた。痛みに呼び起されるように男の顔が狼へと変わる。大きく開かれたその顎が獲物の首に食らいつこうとした瞬間、ネドが義腕を咥えたままわずかに首の向きを変える。人狼の開かれた口の中に、自身の顔を納めるように位置を調整したことで、隠し刃が閉じられんとした人狼の上顎を貫いて、鼻と眉間を縦に割った。白目を剥いて流血する人狼の顔が人間に戻る。

 ネドは前腕半ばほどから先の無い右腕で、先程人狼の左脇腹に突き立てた銀のナイフを押し込みつつ触れる。義腕から口を離して唱えた。

「――主よ、憐れみを垂れ給え」

 聖句詠唱によって人狼の体内の銀のナイフが聖別される。周囲の肉を人間の物に戻したそれはそのまま脾臓を貫いた。ぐらりと揺れた人狼の体躯がどうっと音を立てて、厨房の床に倒れた。

 ネドが左手で十字架を取り出す最中、ぴたりとその手の動きを止めて、人狼に問うた。

「なぜ最後まで人狼に変身しなかった?」

 男の顔がわずかに笑ったことで、上唇から額までぱっくりと裂かれた傷が開く。皮膚が千切れてその下の骨が、歯が、白さを晒した。

「そんなことをしたら、閣下のお食事に、私の毛が入ってしまうじゃないか……。ふ、ふふっ、思わず獣の姿を、晒した時点で、私の、負け、だ……」

 そう言い残すと、人狼は息絶えた。

 ネドは十字架を掲げて祈りを捧げると、死んだ狼の口の中から銀の腕を取り出し、右腕へとはめた。


 ◆◆◆


 人狼狩りが始まった。

 人々は鍬や鋤まで持ち出して、暗くなりつつある街をランタンや松明を掲げて五、六人で群れを成して練り歩く。彼ら全員の指にはまるで聖痕のごとく血を流し続ける傷が付けられている。農家も衛兵も職人も騎士も、顔見知り同士で小規模な塊を作り、その群れが緊張をもって近づき、互いの傷を見せて安堵のため息を漏らした後、一つの大きなうねりに変わる。

 ディムナが流した人狼の見分け方は燃え広がるように一気に街に広まった。いや、ルシルやベルナールがそうしていたように元々この街の人々は知っていたはずなのだ。ただかつての城下町では己が人間であると証明するのは損でしかなかった。今やそれは逆転した。

 ディムナの乗った馬がレイス城門前の広場にたどり着いた時、そこには誰もいなかった。大量の血痕と正体不明の肉塊が転がるばかりで、見張りの衛兵はディムナの背後で獣狩りに熱狂する群れの中に取り込まれてしまったようだ。地面に、壁に大量の針鼠が突き立っているのを見て、ディムナは馬から降りた。手綱を近場に結んで、馬の頭を撫でてやると、彼はぶるると鼻を鳴らした。

 開いたままの城門を通り、城の中へと入る。初めて見た時と変わらぬ豪奢な内装。反響する己の足音がやたら不気味に響く。どこからか赤ん坊の泣き声が聞こえた気がして、背筋が凍った。

 いいや、気のせいではない。たしかにどこからか赤ん坊の泣き声が聞こえてくる。ディムナはその泣き声に導かれるように大食堂を抜け、厨房を覗き込んだ。司祭平服を肩に羽織ったネドが左手で赤ん坊を抱え、困ったような顔であやしていた。

「ネドッ……!」

 ネドが眼光鋭く声のした方を睨みつけ、それが見知った顔だと分かると肩の力を抜いた。

「生きていたか」

「そっちこそ……」

 ディムナの顔が安堵で思わず緩んだ。だがすぐに顔を顰めた。ネドの状態は酷い有り様だ。司祭平服の下、腹部には手酷く殴打されたのか紫色の痣が痛々しく残っていた。また左の太ももは履物ごと切り裂かれ、血こそ止まっているものの軽傷には見えない。そして何故か裸足だ。

 ディムナは自分の鞄から包帯を取り出すと、ネドに手渡した。代わりに赤ん坊を受け取る。ディムナの腕の中でも変わらずぐずっていた。

「助かる。俺の分は……使ってしまったのでな。それよりベルナールと一緒に逃げなかったのか?」

「ああ、それなんだけど……」

 ネドが傷の手当てをする間、ディムナは自分がここまで来た経緯を語った。

 聞き終えるとネドは再度義腕をはめて包帯の上からきちんと革紐で固定し、司祭平服を身に纏った。

「ベルナール、大丈夫かな?」

「モードナの街までたどり着ければ神父様が助けてくれる」

「本当かよ……」

「あの人は俺に狩りのすべてを教えた人だぞ。並みの人狼では相手にもならん」

 ネドは調理場の隅に放り投げられていた自身の装備を見つけると腰に巻き、靴を履いた。短剣を格納していた二つの鞘は空っぽのままだ。その横にはディムナは今まで気付いていなかったが、人狼の死体が仰向けに倒れていた。コック帽から察するにあの料理長だろう。ディムナはその死体を見せないように赤ん坊の目を隠す。そうすると赤ん坊は泣き止んで、きゃっきゃと笑い出した。

「それよりもこの街の人々の方が心配だな。聖別銀も無しに人狼を相手取るなど……」

「大丈夫だろ、数で優っている。それに俺にだって一匹殺せたくらいだし」

「お前は俺の横で何度も人狼退治を見ているだろう。経験が違う」

「そうかなあ……」

 何はともあれ、とネドが立ち上がった。

「男爵を確保するのが先だ」

「だな。二階に書斎があるらしい、そこにいるはずだ」

 この子はどうするか、とディムナが周囲を見渡した。これから男爵の元へと向かう。その前にはあのバザンという騎士団長も立ちふさがるだろう。危険すぎる、連れてはいけない。ディムナは果物の入ったバスケットをひっくり返して空にすると、その中に赤ん坊を置いた。

「全部終わったら迎えに来るから、ちょっとだけ待っててな」

 ネドの後に続いて大食堂へと出たディムナの手元にポイと使い古したクロスボウと、鉄の矢の入った矢筒、それから毒入りの瓶が渡される。

「それを使え。援護を頼む」

「その、ごめん。貰った奴、失くしちまった……」

「いいさ、俺が後で鍛冶屋のオヤジさんにどやされれば済む話だ。それに――」

 ネドがかすかに笑った。

「お前は一匹巡回の人狼を殺してくれた。ありがとう、助かった」

「……ああ!」

 ディムナは力強く頷くと、クロスボウを装填し、ネドと共に二階へ続く階段を上った。


 分厚い鉄鎧を纏った一際大柄な人狼が、その鋭い爪で老博士の首根っこを摘まみ上げる。

 左肩に槍斧を立てかけた彼は主君を迎えに行くべく二階の廊下を歩むが、階下より向かってくる足音を聞いて、書斎前の廊下に陣取るとキーキーうるさく喚くブレーメン博士を後ろに放り投げた。

 騎士団長バザンの眼前に銀の腕の狩人が、次いで主君の宿敵の倅が姿を見せた。

 ネドは背中から銀の大剣を抜き放つと、義腕の手の平に乗せ、小指横の竜頭を巻き上げる。ギチ、ギチチと不快な金属音が長い廊下に反響した。

 バザンが槍斧を振るう。巻き込まれた廊下のガラスが、木製の扉が、壁が、切り裂かれ音を立てて崩れ落ちる。柄に右手を蛇のように絡めて、人狼は狩人と睨み合う。

 城の外から無数の叫びが聞こえてくる。「人狼だ! 人狼がいたぞ!」と誰かが声を上げた。残った一匹の巡回の狼が民衆に暴かれたようだ。バザンが低く静かに語りかける。

「プレは死んだか……。この騒ぎは貴様の仕業だな、グレオール」

「……だったらなんだよ」

「……腰抜けと呼んだこと、撤回して詫びよう。貴公はそういう戦い方をする男なのだな」

 ふっと人狼の口角が頬を裂くように上がる。

「人々を戦場へと駆り立てる才。戦場を作り上げる才。私はそれを持つ者を決して侮らない。それは我らが閣下がお持ちになるのと同じ才だ」

「嬉しくないね。……その爺さんを連れてどこに行くつもりだ?」

 バザンの後ろで老博士は尻餅をついて震えている。

「次の戦場だ。閣下をお連れし、再び人狼騎士を増やすまで身を潜める。随分と、減らされてしまったのでな」

「次など無い。お前はここで殺す」

 ネドの言葉にバザンが歯を剥き出しにして笑った。

「望むところだ……。グレオール、狩人を殺したら、我らの仲間に、人狼になれ」

「なに……?」

「閣下はあともう一つ『狼血』をお持ちだ。貴重な一本だがお前と閣下の才が合わさればこの世に無数の戦場を生み出せよう。そうすれば必ずや再び『狼の司祭』は我らの前に現れる」

「なるほど、『狼の司祭』に見捨てられたわけだ」

 何かが「狼の司祭」のご機嫌を損ねた。狼血の供給が途絶えてから慌てて学者を拉致し用立てたが研究は遅々として進まない。それで見失ってしまった「狼の司祭」の情報を聞き出すために「獣害事件の専門家」を呼び立てた。だが呼ばれたディムナの功績はその実態のほとんどがネドによるものだ。だから今度はディムナを人質にして、ネドを呼び出した。

「断る」

 ディムナがバザンの誘いを突っぱねる。

「何故だ? 人狼となれば無双の力が手に入る。気に入らなければ思うまま殺し、自由に生きられる。何も恐れるものなど無いというのに何故断る」

「あんたが以前言った通り、俺は腰抜けだからだよ。あんたは人狼になることの最大のデメリットを見逃している」

「なに……?」

 ディムナはクロスボウの照準をバザンの心臓に合わせた。

「人狼になんてなったらな、おっかない狩人に地獄の底まで追い掛け回されて必ず殺されると分かっているのに、なるはずねえだろ! 俺は腰抜けの臆病者だから、人狼になんてならねえんだよ!」

 バザンに向けて、銀の腕の狩人が跳びかかる。その口にはかすかな笑みが浮かんでいた。

「ならばここで死ねッ!」

 人狼がネドの一閃を槍斧で受け、柄の回転によって流す。銀剣の固定された義腕ごと引きずられ、ネドの体が吸い寄せられたところにバザンの爪が振るわれる。その時、弦の弾ける音がして、猛毒を塗った鉄の矢が放たれた。鉄矢はあやまたずバザンの左脇腹、脾臓の位置を捉えたが、人狼用の分厚い鉄塊には突き刺さることなく、ギィンと鈍い金属音と共に火花を散らすと、射線を逸らして遥か後方の書斎の扉に突き刺さった。バザンの意識がそちらに向いた一瞬を突き、銀の刃が喉笛目掛けて振るわれるが、槍斧の銀腕への横薙ぎ一閃によりネドの体が弾き飛ばされた。義腕内側がびりびりと痺れる。左手でわずかにズレた義腕の位置を修正する。

「鎧が厚過ぎて鉄の矢じゃけねえ!」

 ディムナが次弾を装填するよりも先にバザンが仕掛ける。

 床を鳴らす踏み込みと共に、繰り出される神速の突きを紙一重で回避したはずのネドの左肩が裂けた。バザンは最長地点に到達した槍斧を手の平の中で半回転させ、斧の刃をネドの肩に引っ掛けるようにして手元に引き寄せたのだ。退くネドに刃が振り下ろされる。とっさに目を庇った銀の右腕と槍斧が鍔迫り合いをする。斧の刃が義腕の付け根を狙い奥へ奥へと滑ろうとするのを抑えきれないと判断すると、右手を垂らして勢いを受け流し、槍の柄を体にぴたりと当てて、人狼の懐へと入り込む。それと同時にディムナが鎧の隙間目掛けて毒矢を放った。

 今なら当たる! そう確信した鉄の矢は石突によって弾かれ、天井へと突き刺さった。ネドと槍斧を挟んで体の位置を入れ替えるように前進したバザンはその場で長い柄を一回転させることによって、迫る銀剣と毒矢を一度に振り払ったのだ。

 ――強い。

 ――バケモンかよ……。

 ネドとディムナが同時に心中で呟く。バザンの戦い方は決して人狼のそれではない。熟練の戦士の戦い方だ。それに人狼の膂力が付加された。こういう戦い方を好む人狼には目潰しが有効だ、爆弾が有効だ。特に爆弾は火をつけて書斎目掛けて投げつければこの男は部屋の主を庇わずにはいられなかっただろう。だがどちらも人狼街での戦いで使い果たしている。ネドは今、狩人ではなく、戦士としての戦い方を強いられていた。そうなれば当然バザンに分がある。

 脇腹へと振るわれた長柄をネドが銀剣で受ける。はっと気づいて転がるようにその場から横に跳んだ。先程まで彼がいた場所を引き寄せられた斧の刃が抉った。連続の突きをネドは紙一重で躱していく。だが距離を詰めることが出来ないままに頬に、ふくらはぎに、刃がかすめ、司祭平服が裂け、赤い斑点が滲んでいく。そのうちの一突きがネドの左太ももをかすめた。包帯が破れ、血が噴き出す。料理長との戦闘時、負った傷が開いたのだ。思わず顔を顰めたネドにバザンが唐竹割の一撃を振り下ろす。ネドは銀剣の鍔でそれをなんとか受け止めた。ガチガチガチッと刃と刃が震え、揺れる。狩人と人狼の視線が交差する。ぶしゅっと先程開いた傷口から血が噴き出す。人狼の膂力に力押しされるまま、ネドの体が徐々に徐々にと沈んでいく。ネドが左膝をついた瞬間、バザンは槍をわずかに引いて、狩人の首を刎ねる横薙ぎの一閃を繰り出すべく、わずかに手首の向きを変えた。

 ギィンと金属音が響く。狩人の首はまだ繋がっている。

 ディムナの放った銀の矢による一射に気付いたバザンが己の眼球に迫るそれをすんでのところで弾いたのだ。わずかに掠めた右頬が人間の物へと戻った。廊下の隅で見守っていたブレーメン博士が息を飲んだ。

 ディムナが作った一瞬の隙に、ネドが右足のみで後ろ跳びを繰り返して距離を取った。体中血塗れではぁはぁと肩で息をしている。

 ネドはもう限界だ。今日だけで何匹の人狼を殺した? だがここで引けばバザンは男爵を連れて潜伏し、別のどこかで力を蓄え、いつか再びこの街に戻ってくる。その時にはこれまでの領地運営で知悉したノウハウを用いてまた「人狼街」という地獄を造り出す。

 どうすればいい? どうすればこいつを、この人狼騎士を殺し切れる?

 ディムナの疑問を余所に狩人と人狼が再び斬り合う。その後ろ、バザンの背中のもっと奥にディムナは小さな老人がこちらに向けて何かを握り、手を振るのが見えた。ブレーメン博士の手の動きから、彼の作戦を読み取ったディムナはクロスボウを指さした後に二本指を彼に見えるように立ててボディランゲージを返す。汲み取った老人がこくりと大きく頷いた。

 ディムナはクロスボウに装填していた銀の矢を外して、ネドから受け取った鉄の矢へと差し替える。もう毒瓶は無い。人狼に対して然程効果を発揮しない何の変哲もない鉄の矢だ。

 ディムナは斬り合いの最中、一瞬生まれた睨み合いの隙を突いて、バザンの鎧の左側面を撃った。ガギィンと金属音が響き、矢が鎧に弾かれた。その音を合図に再びの剣戟が始まった。バザンの脳裏に疑問が浮かぶ。

 ――位置が下すぎる。脾臓狙いでは無い……? 毒矢でも銀の矢でも無い。何を狙っている?

 だがその疑問に答えを出す間もなく、狩人は致死の銀剣を手に迫る。首狙いの一撃を弾き上げ、無防備になった胴体を袈裟斬りにせんと槍斧を振りかぶった瞬間に、がくんと右足の力が抜けた。

 槍斧が廊下を割り、崩れる体勢に思わず右手を床についた。右足を見る。老人の握った聖別された銀の矢が突き刺さった右足は人狼の呪いを失い、人の姿へと戻っていた。

 ――このジジイッ!

 槍斧を再び掴み、後ろに刃を振るおうとしたその瞬間、ディムナの放った鉄の矢が鎧の左側面の()()()()留め具を弾き飛ばした。ずる、と右肩を伝うように鎧がずり落ちた。振るおうとした右腕が鉄塊によって邪魔される。

 眼前に大上段に銀剣を振りかぶった狩人の姿を見て、人狼騎士団長バザンはかすかに笑った。

「――お見事」

 ザンッと渾身の力と全身の体重とを込めて振り抜かれた一撃は、バザンの左鎖骨を砕き、心臓を両断し、あばらを折ると、腰骨に当たってようやく止まった。

「もう、しわけ、ございません……。閣下……」

 力無く崩れたバザンの右半身は鎧の重さに引きずられるように崩れ落ち、残りの半分はふらふらと揺れると左に倒れた。まるでつぼみが開くように内側を晒したその酸鼻極まる死に姿にディムナは思わず顔を背けた。

 祈りを捧げ、血の滴る銀剣を竜頭の縛めから解き放つと崩れ落ちそうになったネドを、ディムナは抱きとめるように両手で支えた。

「――すまん、大丈夫だ」

「とてもそうは見えんが……」

 人狼の亡骸を遠回りするようにして近くにやってきた博士がネドを気遣う。

「ご老人、ご助力感謝する」

「ほっほっ、いやいや、感謝するのはこっちじゃて」

 ネドは立ち直ると、人狼の体に刺さったままの銀剣を左手で持ち上げ、血振りをくれる。銀剣はまだほのかに青白い光を放っている。アングレーズ神父に城下町に入る直前に聖別をしてもらったが、幾度も人狼の血を浴びたことによってかなり力が弱まっている。使えてあと一度だろう。くるりと手首で刃を回転させると、背中の革鞘へと納めた。

「生きてたな、爺さん。約束忘れてないだろうな?」

「ほほっ、まだボケとらんわい」

 ディムナとブレーメンが互いに安堵と喜びの混じった笑みを浮かべている。

「しっかし本当に人狼を人に戻すとは。この目で見てもまだ信じられん」

「信じてなかったのによくあんな作戦立てたな」

「お前さんが撃った矢があやつの顔を人に戻さんかったら思いついてなかったわい」

 緊張の糸が解け、口が軽くなっている二人を尻目に、ネドは廊下の奥、男爵の書斎の扉に目を遣った。それに気付いた二人の顔に緊張が蘇る。

「爺さん、俺たちはまだ男爵と話しがある……。一階の食堂の奥、厨房に攫われていた赤ん坊がいるんだ。……俺らが戻るまでその子の面倒を見てやってくれないか」

 ディムナの上手な作り笑いを見て、老博士が唾を飲んだ。

「わ、分かった。気を付けるんじゃぞ。ここまで来たんじゃ! 死ぬでないぞ!」

 ディムナの手を握って握手を交わし、ぶんぶん振ると、老人は何度もこちらを振り返りながらも階下へ向かった。

 ネドとディムナが廊下を歩く。バザンが破壊しつくした壁の外から雪を巻き上げた風が吹き込んでくる。ネドが毒矢が刺さったままになっている書斎の扉の取っ手に手を伸ばすと、

「開いているよ」

 中から声がした。

 扉を開く。音は鳴らない。しっかりと整備されている。

 部屋の中に足を踏み入れると、並べられた本棚に無数の書籍が収められていた。本に直射日光が当たらぬように窓に背を向けた本の林を抜けると、相向かいになった二つの革張りのソファーの片方に男が腰かけていた。

 眼鏡をかけ、本を読んでいる。これまでに見たことの無い恰好ではあったが、その顎下の青髭を触れる手つきには見覚えがあった。

 レイス男爵が本を閉じ、眼鏡を外して懐へと仕舞う。片手で示して来客二人に着席を促した。

「またおいできると思っていたよ」

 ジギタリス・ド・レイスが笑った。日が落ち、翳りゆく書斎の中で、幽鬼のように嗤っていた。




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