人狼を殺せ
ベルナールとともに民衆に紛れ込んだディムナは、城下町の外門の様子を伺う。
この混乱に乗じて逃げ出す者がいないように外門は固く閉じられ、側面を衛兵が固めている。
「あれじゃ街を出られないぞ、どうする?」
仮に衛兵をどうにかしたところで足が無い。馬無しでモードナの街まで向かうのは無謀だ。
「もう少し待て、じきに……、来た……!」
ベルナールが示した先を見ると、人狼用の鉄鎧を纏い腰に剣を佩いた騎士が馬に乗って外門前までやってきた。周囲の衛兵たちが彼を敬礼で迎える。
「あいつ……」
「男爵はアンタが外の神父様と連絡を取るためにこの混乱に乗じて逃げ出すと想定したんだろう。信の置ける部下に始末を任せると思っていた。あいつはこれからモードナに向かう。門が開くぞ……」
ギィィと軋む音を立てて、外門が開く。
「まだだぞ……。あいつが振り向いたら、撃て」
ベルナールの言葉に唾を飲む。門が完全に開ききって、人狼を乗せた馬が一歩前に出た時、ベルナールが大声を上げた。
「外門が開いているぞ! 皆、今のうちに逃げろォッ!」
ディムナを置いて走り始めたベルナールを、顔を見合わせていた民衆が徐々にその後に続いていく。その顔にはわずかな期待と嫌らしい打算に満ちた笑みが浮かんでいる。莫迦な奴だ、こいつが先頭を走って人狼に襲われてくれれば、その間に俺が逃げられる。
「何をしている、戻れ!」
衛兵が門に迫る民衆を押しとどめようとするが、人の波に押し流されるように後退していく。その時、人狼の威嚇の叫びが響いた。
馬上の人狼が咆哮で人々を脅す。人狼騎士の恐怖を骨の髄まで教え込まれている民衆が逃げ出そうと、恐怖でその顔を歪めたその瞬間。人狼の右眼球に銀の矢が突き刺さり、脳漿をぶちまけて頭蓋骨を貫通した。人狼の体がぐらりと揺れて馬から落ちた。
ベルナールが即座に手綱を奪い、追いついたディムナの腕を取って後ろに乗せた。ベルナールが駆けだそうと馬の腹を蹴った瞬間、ディムナの横っ面に人間の胴体が鮮血を撒き散らしながら、叩きつけられた。衝撃にバランスを崩したディムナが馬から落ちる。
死体を投擲したのは先程銀の矢の一射を受けた人狼ではない。彼は未だ仰向けのまま地面に倒れている。外門の護衛を務める騎士たちの中にもう一匹、人狼がいた。彼はディムナたちが逃げ出そうとするのを見逃さず、手近な人間の腕を掴むと、周囲の被害も顧みずにその肉体を振り回し、投擲したのだ。巻き込まれた市民と衛兵が絶叫を上げながら逃げ惑う。そしてディムナとベルナールの間に割って入るかのように、今、右目に穴が開いた人狼がゆっくりと起き上がる。その顔の右半分はディムナにも見覚えのある、金の髪をした背の高い男、コルネイユだった。
――馬には戻れない。
咄嗟にそう判断したディムナは矢筒から新たな矢を取り出し、猛スピードで装填しながら叫ぶ。
「行けッ、ベルナールッ! ブランシア陸軍に知らせて、この街を攻撃させろッ!」
嘘だ。神父様とブランシア軍の連携が取れている保障などまだない。ベルナールにも分かっている。だが、人狼は? そして民衆は当然何も知らない。
ディムナの意図を咄嗟に汲み取ったベルナールが返す。
「分かった! すぐにでも侵攻させる!」
そう言い残すと、モードナの街目掛けて、馬を走らせた。コルネイユが舌打ちし、遠くなっていく馬の影に視線を送る。
「オッド、その男を殺しておけ! 私は奴を追いかける!」
死体を投げた人狼に指示を出した後、四足歩行で駆けだそうとするコルネイユの後ろ脚に、装填を終えた新たな聖別銀の矢が突き刺さった。歯噛みし、殺意の籠もった目でディムナを睨むが、男爵の命を遂行することを優先し、コルネイユは馬の影を追った。
オッドと呼ばれた人狼から逃れるように、そしてすぐにでも来ると言うブランシア陸軍から逃げるために、民衆が街の外へ思い思いに駆けて行く。ディムナは火を放たれて煙の上がる裏路地へと転がり込むようにその身を隠した。走りながら片手で矢を装填する。
――あの人狼の足に銀の矢を当ててやった。あれなら馬の足には早々追いつけない。でも神父様に知らせたところですぐに臨時政府が動いてくれるものだろうか……?
ディムナの後ろで小屋が倒壊した。爪を振るった人狼の姿が煙の奥から現れる。その凶暴な瞳がディムナを捕らえた。逃がしては貰えそうにない。
――殺せるか? ネドの力を借りずに、俺だけで?
弱気と強気がディムナの中で交差し、いくつもの考えが浮かんでは消える。
騎士の中に紛れていた、ディムナを追う人狼は人間用の騎士鎧を窮屈そうに身に纏っている。銀の矢では鉄鎧は貫けない。致命傷を与えるには先程のように頭を撃って一時的に行動不能にし、その間に鎧を剥して、銀矢を心臓に突き立てるしかないだろう。そのための隙を作る。
ディムナは肩掛けにした鞄の中に左手を入れると、後ろを振り向きざまに背中に向かって跳躍してきた人狼の顔へと、取り出した物を投げつけた。追われることを想定して隠れ家に潜伏中に作っておいたそれは狩人の物を参考に真似て作った目潰しだった。ぼろきれの中に入った小麦粉、香辛料、細かい木片が人狼の目に、鼻に吸い込まれる。ギャッと悲鳴を上げた人狼は伏せたディムナを通り過ぎて、地面を転がるようにもんどりうった。
再び鞄の中に手を突っ込むと、今度は小さめの酒瓶を取り出した。蓋には封がされているが、隙間から目の粗い布が飛び出している。ディムナは燃え盛る小屋に布をかざして、着火すると、人狼目掛けて酒瓶を投擲した。瓶が割れて、その中の隠れ家のランタンに使っていたオイルが撒き散らされて一気に引火し、炎が人狼の体を鎧ごと包み込んだ。怪物の絶叫が響く。
だが、殺し切れない。
人狼の肉体は燃えながらも回復を続け、焼け爛れた皮膚は鉄鎧を飲み込むかのように巻き込みながら再生し続ける。これでは鎧を外しづらくなっただけで逆効果だ。
人狼は火のついたまま滅茶苦茶に暴れ回り、目も鼻も利かぬまま、おそらくディムナがいるだろう方向に向けて手近な物を投げまくる。燃え盛る梁や柱が地面を抉った後、足を捥がれて絶命した騎士の亡骸が近くで弾けた。中身が入ったままの騎士の兜がディムナの手に当たり、銀の矢を装填したままのクロスボウが地面を回転しながら、燃える柱の陰に消えた。
「クソッ……!」
矢筒の中に数本残っている銀の矢を直接心臓に刺すか? 肉体に巻き込まれた鉄鎧に阻まれるんじゃないか?
逡巡を見せたディムナの足を人狼の投擲した柱がかすめた。人狼から逃れるように先程投擲された騎士が乗っていたのだろう馬が駆けてくる。ディムナは咄嗟に馬の手綱を取って跨った。
このまま逃げる、という選択肢が脳裏に浮かぶ。だがどこに? モードナの街にはコルネイユが向かっている。城には男爵含め配下の人狼が詰めているだろう。
「この街からは逃げられない」
ディムナは自分自身の弱虫の心に言い聞かせるようにそう口にした。
かつて戦場からそうしたようにこのまま馬に乗って、どこまでも走って行けば、いつか家の者が迎えに来てくれるかもしれない。そうすれば今は生き延びられるだろう。だがその後は?
あの時の人狼が自分を追って、臭いを辿って、いつかの夜に自分を殺しに来るのではないかと、毎夜怯えながら過ごすことになる。それは臆病な自分には容易く想像できることだ。
人狼を殺さないかぎり、人狼からは逃れられない。
ディムナは馬の鼻を火の勢いの弱まりつつある人狼に向けると、弾けた騎士の亡骸から鉄剣を鞘ごと外し、携えた。
それに何より――。
馬の腹を蹴り、速度を上げ、人狼とすれ違うその瞬間、その顔面目掛けて力の限り鞘を振った。
ここで殺しておけば、こいつはネドに追いつけない――!
ゴギッ、と音を立てて人狼の首の骨が折れ、仰向けに昏倒した。
ディムナは手早く馬から降りると、騎士と人狼の血が大量に付着した鞘から剣を抜き、その右手首を突き刺して地面と縫い付けた。刺すや否や人狼の肉体は鉄剣を巻き込んだまま再生を始める。
続いてディムナは人狼の大暴れを遠巻きに見ていた衛兵の元へとずんずん歩いて行くと、
「寄越せっ!」
五本の鉄剣を奪い取ると、内四本を左手首、喉笛、右足首、左足首に突き立てた。その後、ぐらついていた柱を後ろに回って蹴り倒す。三回ほど蹴りを入れると、ぎぎぃと音を立てて、柱が人狼の胴体を潰した。
観衆の中、最も近くにいた男にディムナが残りの一本の鉄剣を差し出して言う。
「あいつが生き返ったら、そのたびに心臓を刺して殺してくれ。そのうち本当に死ぬはずだ」
剣を差し出された男がぶるぶると首を振る。
「そ、そんなこと、恐ろしくて、出来ねえよ」
「何も怖くなんかない。むしろそうして無力化しないとそのうち拘束を解いてまた暴れ回るぞ。腹いせにあんたを殺すかもな。頼むよ、俺はこれから城に行って、狩人と合流して、男爵をぶっ殺さなきゃならないんだから……」
ディムナの言葉に人々が騒めく。
グルル、とかすかに人狼が唸ったため、ディムナは鉄剣をあばらの隙間に刺し通す。人狼が静かになった。剣を引き抜き、人狼の血に汚れたそれを再び男に手渡そうとするも、余計に怖がっている。
「狩人なら城に連れていかれた! 騎士団長に負けて、引きずられていったって……!」
「……そうか」
ネドが負けた? 囚われたらしいが、その場で殺さなかった理由はなんだ? でもまだ生きているなら……。ディムナは驚き、疑問、考えていることのいずれも表情に出さずに、嘘をついた。
「それはあいつが城に入り込むための作戦だ。今のところ計画通りだな」
「計画って……」
ディムナは覚悟を決めた。人狼を殺すために、この街を一刻も早く解体するために手段は選んでいられない。使える物はすべて使う。
「俺の名はディムナ・マック・グレオール。フロージエンのグレオール侯爵家の者だ。この街に人狼が発生したと聞いて来た」
ディムナが民衆の前で、大声を出す。ざわめきが一際大きく広がっていく。
「この街の現在の状況は数日の調査によっておおよそ把握している。俺と狩人は、人狼によって支配されたこの街を解体するつもりだ! 君たちを人喰い男爵と人狼騎士たちの支配から解き放つ!」
民衆のざわめきの内容がディムナの耳にもいくつか入る。
「本当に?」「でもここ数日で何人も人狼騎士が殺されてるのは本当だし」「さっきも向こうの通りで人狼騎士が焼き殺されたって言っている奴が……」「本当にこの街から出られるの……?」
「そのためにはっ!」
ディムナの上げた一際大きな声に、人々の視線が一気に彼に集まった。緊張に思わずつばを飲み込む。こんなの俺には向いてないんだ、と呟く心の声を、でもやるしかないと押し殺す。
「君たち自身の協力が必要だ! まだ騎士たちの中に数匹人狼が紛れ込んでいる! そいつを見つけ出して殺してくれ! 狩人と、……俺が! 必ず城の人狼を殺すから、城の外の人狼退治を頼みたい!」
先程まで期待に寄っていた人々の声が驚きと恐怖に変わっていく。長い間刻み込まれた人狼に逆らうことへの恐怖はそう簡単には消えないのだろう。「そんなこと出来るわけ……」と呟いた男の肩をディムナは掴んだ。男が驚き、跳び上がる。
「出来る! 俺はさっきこの人狼を倒すのに狩人の聖別された武器を使ってない。目と鼻を潰して、火や毒で回復能力を奪うんだ。心臓と脾臓を刺して殺し続ければそのうち死ぬ! 人狼は殺せる!」
ディムナが持っていた剣でわずかに指を傷つけ、血を観衆に見せつけた。
「皮膚に傷を付けて、その傷が即座に塞がるなら、そいつは人狼だ! 君たちの敵だ!」
自分たちの中に人狼がいるかもしれないという恐怖が伝播し、観衆は衛兵たちから剣を奪って、指を傷つけ、隣同士で人狼ではないことを確認し始めた。
「でも、殺したって、追い詰められた男爵が人狼騎士を増やすかも……」
「増やせない!」
断言したディムナの言葉に驚いたのはディムナを拘束するべきかどうか迷い、遠巻きに見ていた騎士たちだった。
「増やせない、とは……?」
「俺は城に招かれ、拘束された時にブレーメンという名の博士と出会った。彼は男爵に『人間を人狼に変える薬』を作る研究をさせられていた。これは本来『狼の司祭』と呼ばれる人狼の親玉からしか入手できないものだ。博士はその薬はまだ完成していないと言っていた」
ディムナは人々の耳を傾けさせるために、一拍置いてわざと沈黙を作った。そして体を大きく見せるために腕を広げ、大仰にリズムを付けて振った。かつて兵士たちを鼓舞するためにかの皇帝がやったように。
「なぜ男爵は『人間を人狼に変える薬』を自分たちで作ろうとしていたのか!? 『狼の司祭』から受け取ればそれで済むのに? その博士はこうも言っていた。サンプルが足りない、本物が無い、と。無いんだ! 男爵にはもう薬が無い! 人狼騎士を増やせない! だから博士を誘拐し、薬を作ろうとした! そうしなければもう騎士に褒美を渡せない、人狼騎士を叙勲できないから!」
ざわめきが市民、衛兵だけでなく、騎士たちにも広がっていく。騎士たちは己が特権階級のつもりでいたはずだ。少なくともいずれはそうなれると信じて、男爵に与していた。だが、その席に空きが無いと知ったら? 自分もまた「食用」ではないだけの家畜だと知れば……。恐怖、希望、不信感。ディムナは今、眼前に広がる混沌のただ一人の指揮者だ。呻く人狼に刺し入れた血に汚れた剣を指揮棒に、この混沌に方向性を与える。
「人狼を殺せ! 奴らの心臓と脾臓を突いて、人狼を殺せ! このままずっと家畜のままでいるつもりかッ!?」
人狼を殺せ……。そうだ、人狼を殺さなきゃ……。人狼を殺せ、人狼を殺せ。人狼を殺せ!
火が着いた。この密閉された城下町で燻っていた憎悪が、まるで粉塵が連鎖して引火するように今、爆発した。
人狼を殺せ! 人狼を殺せ! 人狼を殺せ!
人々は衛兵から奪った剣を持ち、柱に押しつぶされた人狼を囲むと、顔を憎悪と憤怒に歪め、絶叫しながら、刃を怪物の黒毛生える皮膚へと何度も突き立てる。その様子を見ていた最初にディムナに声をかけられた男もやがてディムナから剣をひったくると甲高い奇声を上げながら、人狼の体を切り刻むのに参加した。
どっちが獣だ。ディムナの中の冷めた自分が、喜々として人狼を斬り付ける人々を見て囁く。
この景色を作ったのはお前だろう、とその声が言う。
今更躊躇うな、と小さく自分に言い聞かせた。使える物はすべて使うと決めたのだから。
ディムナは馬に跨り、周囲を見渡す。
失くしたクロスボウを探すが、狂乱する人混みに紛れて見つかりそうにはなかった。
ネドを助けに行かなくては――。
丸腰の自分でどれだけ役に立てるか分からないまま、ディムナは手綱を握り、城を目指して馬の腹を蹴った。
◆◆◆
レイス領外、モードナの街へとつながる道を一匹の馬が駆けて行く。
全力疾走を続けた馬はもうとっくに疲れ切っていたが、騎手は止まることを許さない。背後から風に乗って血の染み込んだ獣の体毛の臭いが流れてきたのを嗅ぎ取り、背中に乗るベルナールが腹を蹴るのよりも先に馬はその速度を上げた。
蹄の跡を踏みにじるように、黒い影が馬の後を追う。
全身を覆う黒く太い体毛、犬のように長く伸びた鼻先、頬まで裂けた口から覗く血のように赤い長い舌と鋭い犬歯。人間の体躯をゆうに二回りは超える巨躯を持つ狼が四足で跳躍するように疾駆する。奇妙なことに鎧を纏い、腰に剣を佩いたその狼の片方の後ろ脚は人間のものだ。右目は無く、杭で貫かれたかのように後頭部まで穴が開き、そこからだらだらと粘ついた髄液が黒影が過ぎ去った後の地面を濡らし、跡を残す。顔面の内、銀の矢で貫かれた右目の周辺だけが、人間であった頃の金髪の男、コルネイユの面影を残していた。
ベルナールがちらと後ろの人狼を確認する。街を出た時よりも距離を詰められている。男爵からの指令を受けているに違いない。追いつかれようものなら話をする間も無く、八つ裂きにされるだろう。
ディムナが彼に語った「モードナの街で待機しているもう一人の神父様」が頼りにならなければ、人狼に殺されるのはほとんど確定だ。だが今のベルナールに頼れるものはその神父様以外に無い。馬がほとんど最高速度を出してくれていると頭では分かっていても、焦りと恐怖がその腹を蹴らせた。
モードナの街の入り口が見える直線に入り、ベルナールは凍えるような空気を胸いっぱいに吸い込んで、叫んだ。
「狼が来たぞッ!」
なんだなんだと街の人々が顔を出す。ベルナールは速度を緩めず、街中を駆ける。
「男爵領から狼が来たぞ! 人狼だ! 人狼が出たぞッ!」
顔を見合わせていた人たちは、ベルナールの来た方向からぐんぐん迫ってくる黒い影を見つけ、それが半分人間の顔をした狼だと気付くと絶叫し、先程正直者の狼少年を乗せて駆けて行った馬に続くようにして逃げ出した。
逃げ惑う人々の流れに逆らうように、別の黒い影が現れた。
闇色の司祭平服。総白髪の小柄な老人、アングレーズ神父の姿を認め、人狼が土煙を上げながら勢いを殺して移動を止めた。人狼が追いかけてこないことに気付いたベルナールが手綱を操作し、馬の鼻先を回転させる。娼婦小屋で話したあのネド神父と同じ格好をしているということは彼がディムナの言っていた神父様なのだろう。だが――。
(ジジイじゃねえか……)
失望の後に恐怖が首をもたげてくる。あの爺さんが殺されたら人狼の次の獲物は俺だ。馬はもう限界だ、どうやって逃げる?
ベルナールの心配をよそに老司祭はまるで散歩のような足取りでゆっくりと人狼に近づいて行く。モードナの住人が、たまたま訪れていた人々が、息を飲んでその様子を伺っている。
人狼が右腕を振るい、老人の細い体が両断されるというまさにその瞬間、ほとんどの者は目を閉じたが、ベルナールはしっかりと見た。神父は人狼の挙動に合わせて、一瞬腰を落とし、振るわれた右腕を回避すると、そのまま右手で人狼の纏う鉄鎧に触れた。
「――主よ、憐れみを垂れ給え」
アングレーズ神父の聖句詠唱によって、聖別された鉄鎧となったそれは人狼の顔半分を残して、触れるすべてを人へと戻す。鉄塊を支えていた人狼の膂力を失い、獣は聖職者の前にその膝を折った。
「な、ん……」
人狼が状況を理解するのよりも、問いを発するのよりも先に跪いた騎士の腰から鉄剣を抜くと、老神父は横薙ぎに獣の首を刎ねた。
鮮血が道路脇に避けられた雪を赤く染める。地面に転がる人狼の残された左目が巨大な十字架を掲げた神父の姿をその最期に見る。
「――主よ、憐れみを垂れ給え」
再びの聖別により、燐光を纏った鉄剣が、首の断面へと突き立てられ、そのまま心臓を貫いた。頭を失った人狼の肉体がびくんびくんと数度痙攣し、鎧がその場に座り込むように一度だけガシャンと音を立てると二度と動かなくなった。
呆然とする観衆が一言も発することの出来ない沈黙の中、老司祭は十字を切って祈る。
祈りを終えると己が仕留めた人狼の亡骸を見て考える。
――浅知恵。
おそらく男爵領の群れのリーダーは、狩人は銀の武器を使う、という情報から人狼用の鉄鎧を作らせることを思いついたのだろう。確かに狩人は聖別の効果が高い銀製の武器を好んで用いる。銀の刃を通さない鉄の防具は人狼にとって一見魅力的に映るだろう。だが、教会より正式に認可された司祭は効果こそ劣るものの銀に限らず、鉄や鉛といった金属も聖別することが出来る。彼らにとって鉄鎧を纏った人狼など自ら拘束具を付けているに等しい。
鉄鎧が有効なケースなど真正面から正々堂々と戦う時くらいだろうが、おおよその場合、狩人はそんな戦い方をしない。
――対狩人、対教会の戦闘経験不足。だからネドをおびき寄せたのかもしれませんね。
ふむ、と考え込むアングレーズ神父の後ろにぱかぱかと蹄の音が迫る。
ベルナールは鞍から降りると、恐る恐るといった調子でその矮躯の老人の前に立った。
「君が『アンゲル』でよろしいのかな?」
アングレーズ神父が合図をすると、ベルナールが二の句を継ぐ前に、建物の中から屈強な男が数人現れた。纏う軍服には指揮官らしき階級章が縫い付けられている。ブランシア陸軍がすでに街に到着している。
「な、なぜ……」
「ネドがこの街を出て、あのルグランという男が戻ってくる様子が無いと分かると接触してきてくださったのです」
「神父様。人狼の存在を確認できました。ということはお約束通り教会にもご助力いただけると考えてよろしいですな?」
口髭を生やした指揮官らしき男が言う。老神父はゆっくりと頷いた。
「勿論です。すぐにでも参りましょう。さあ、『アンゲル』殿も。とんぼ返りで申し訳ありませんが、詳しい話は道中お聞かせ願いたい」
「ベ、ベルナールです、ベルナールと申します、神父様」
「おお、これは失敬。ではベルナール殿。ご同行願います」
委縮した様子のベルナールが、神父とともにブランシアの陸軍章の入った馬車へと乗り込む。指揮官たちはこのモードナで陣を布いているらしく、敬礼して馬車を見送った。馬車の周りを無数の銃持つ軍帽を被った兵士が囲み、護衛している。
ベルナールが背もたれに体を預ける。ふぅぅと長い息が漏れて、つい先程まで続いていた緊張の糸が切れた。だがここからが本番なのだ。それは分かっている。しかし本心を言えば、もうあんな街には戻らずに、この馬車からも逃げ出したかった。




