銀の腕の狩人2
ディムナは人狼の死体を見た日の昼頃に目を覚ました。
普段と違う感触と景色に飛び起きて、痛みから思わず左腕を庇った。丁寧に包帯が巻き直されている。辺りを見回して自警団詰所の救護室で眠っていたのだとようやく気付いた。
昨晩、いやあれはすでに夜半を過ぎていただろうから今日のことだ、怪物、――人狼の襲撃を受けて左腕を負傷した。そして部下二人が命を失った。ブランの千切れた首と目が合ったこと、スコルの暖かい血と臓物を浴びた感触を思い出し、思わず右手で服の下の皮膚ごと胸元を握りしめた。
夢だったんじゃないか?
そう思いたかったが、左腕の傷と痛みが現実だと告げる。あの狩人と名乗った男が人狼を殺す瞬間を自分は確かに見た。だがそれ以降の記憶が無かった。気絶したらしい自分を誰かが詰所まで担ぎ込んだのだろう。
ディムナは寝床から起き出して廊下へと出る。窓から高く上がった太陽が見えてもう昼時だと知った。だというのになんだか暗い。明かりのことではない。建物から人の気配がしない。日は登っていてもまるで取り残されたような不気味さがある。
ディムナが廊下で一人立ちすくんでいると廊下の向こうの階段から一人隊員が登ってくるのが見えた。ほっと安堵のため息を漏らして、ディムナは彼に声をかけながら駆け寄る。
「グレオール隊長。もう具合はよろしいんですか?」
「ああ。今、目が覚めた。どうなってるんだ? その、記憶があいまいで……」
「自分も詳しくは聞いていませんが、負傷して倒れているところを教会の方が運んでくださったとか」
教会! 自分を運んだのはあの司祭服の男だったのではないだろうか。だとすればやはりあれは夢ではなかったのだ。
「そうか。じゃあ狼の死体ももう運ばれてるんだな?」
「は? 狼? なんのことです?」
若い自警団員は首をかしげている。
「なにって俺と一緒に運び込まれたんじゃないのか。デカい狼の、人狼の死体だよ! その教会の男が殺した死体!」
「じ、人狼って何言っているんですか、隊長。そんなもんいるはずないだろって普段から言ってたのはあんたじゃないですか」
「だって、現に見たんだ、俺は。若い女を食ってた。あいつがブランとスコルを殺して――」
「なに言ってんですか。昨日は死体は見つかってないですし、二人は非番だって聞いてますよ。混乱してるんですよ、もう少し横になっていた方がいいですって」
「この傷! これはそいつに付けられたんだよ!」
ディムナは包帯でぐるぐる巻きになった自分の左腕を掲げるが、隊員は呆れたような顔をしている。
「酔っ払いに襲われたって聞きましたよ。そん時にどっかに頭でもぶつけたんじゃないですか?」
「そんな、そんなわけ……」
どうなってるんだ、と急に黙って考え込み始めたディムナを、隊員は気味悪がって「じ、じゃあ自分は仕事があるので」と告げて、足早に去っていった。
死体が無くなるはずはない。そう考えてディムナは昨晩の路地裏に行ってみようと思い立った。血や狼の爪痕は残っているはずだ。詰所を出ようとしたディムナに気付いた詰所の見張りの隊員が声をかける。
「隊長。団長がお呼びでしたよ。目が覚めたら団長室に来て欲しいとのことです。昨日の夜のことについて聞きたいと」
「……ああ。分かった」
ディムナは路地裏に向けていた足を翻して、詰所の階段を上る。考えてみれば情報が一般隊員にまで降りてきていないのは上がまだ公開していないから、と考えるのが普通だ。それは自分が昨日見た光景が幻覚だったと思うことよりもよほど納得できた。恐怖が抜けきっていないのか自分はまだ錯乱状態にあるのかもしれない。
ディムナは団長室の前で襟を正し、扉をノックした。
「失礼します」
「ああ。ちょうどよかった。入ってくれ」
自警団長の低い声に促されるまま、扉を開ける。質問が頭の中に浮かんでは消える。どうして人狼のことを隠しておくのか。どうして二人の部下の死は秘されているのか。だが入室と同時にまくし立てようと思っていた言葉は口の中で形にならないまま消えた。
部屋の中には先客がいた。応接用の座席には黒い司祭服姿の白髪の老人が腰かけていた。そして老人の後ろには背の高い男が立っていた。彼も同じく黒い司祭服を身にまとっている。無造作に伸ばされた黒髪、夜の闇とほとんど変わらない黒目。そして右手は白い手袋に覆われているが左手とは異なり、微動だにしない。義手なのだ。知っていて見ると一目で気付く。昨晩ディムナの命を救った狩人の姿がそこにはあった。
ディムナが驚きのあまり何も言えずに、口をパクパクさせている前で、団長は老人と話を進めていた。
「彼が件の隊長です」
老人がおもむろに立ち上がる。背は低いが腰が曲がっているわけではない。かなり高齢に見えるが足腰はしっかりしているようだ。老人は団長の前から紙を取り上げると、それをディムナに押し付けた。
「この中に昨日人狼に殺されたあなたの部下がおられますかな」
人狼。やはりあれは夢ではなかったのか、と思うのも束の間、押しも押されぬ老司祭の風格に気圧されてブランとスコルの名を告げる。リストには彼ら二人の他にもう一つ「コリドー」と名前が書いてあった。
「二人の外見的な特徴は?」
「ブランは背が高くてガタイがいいです。スコルは猫背で茶髪の……」
「どっちがどう殺された?」
「ネド」
ディムナの説明に割って入った狩人を老司祭が窘める。ネドというのが彼の名前であるらしい。
「必要なことです」
そんな叱責をものともせずに狩人は続けた。
「あんたが明確に証言をしてくれないと、彼ら二人のうちどちらかが人狼だったという汚名を着せられかねない」
「そ、そんな……。だって二人は人狼に殺されたんだぞ。俺はそれを目の前で……」
ディムナは己をじっと見つめる狩人の威圧に促されるまま、昨日の出来事を語る。ブランとスコルがどうやって殺されたのか。そこまで聞いたところでネドは老司祭の方を向いて確認するようにうなずいた。老人は団長に向けて口を開く。
「決まりですな。死体の状況と彼の話は完全に一致しております。人狼の正体は行方不明者のうち残る一人、このリストのコリドー氏でしょう」
「しかし、……とても信じられない。真面目な男です、不幸な男です。妻を亡くして――」
団長の言葉には興味すらないと言った様子で、狩人が傍らの鞄から荷をほどき始めた。二本の短剣を柄が左側に来るように巻き付け、その上から見覚えのある革製の腰袋を司祭服に括りつける。鞄の中からは白い布でぐるぐる巻きにされた長物が見えた。おそらく昨日背中に担いでいた銀剣だろう。これは持って行かないつもりらしい。
「向かいます。もう感づかれているかもしれない」
「ええ。気を付けて」
困惑したままの団長をほとんど無視して、老司祭は狩人を見送る。彼が部屋から出ていこうとしたところで、ディムナはようやく乞われたこと以外を口にした。
「俺も連れて行ってくれ」
なんでこんなことを口にしたのか、ディムナ自身にも分からなかった。
狩人が、その暗闇の目がディムナを見る。扉の前で固まる二人の背に老司祭が声をかけた。
「お勧めできませんな。非常に危険です。ここで私と待たれるのがよろしいでしょう」
「そうだろう? 危険なんだろう? つまり、まだ人狼がいるんだろう?」
どうやら人狼退治を生業とするらしき男がまだ街から去っていない状況、そして慌ただしく出ていこうとする現状から、ディムナは推測し、話す。
「あんた言ったよな。襲われた俺は人狼の死体を見なきゃいけないって。……まだ信じられないんだ。夢なんじゃないか。夢だったんじゃないかって思ってしまいそうなんだ。だからちゃんと終わったんだってところを俺に見せてくれ」
それは彼自身が自分に、なぜ連れて行ってくれ、なんて言ったのかを説明する言葉でもあった。昼日中に、白昼夢の中に一人取り残されたような怖気を抱えたまま、ディムナは狩人に追いすがる。
「……司祭様」
困ったような声色で狩人は老司祭を見やる。老人は致し方なしといった様子で息を吐いた。
「いいでしょう。しかし次は彼を囮にするような方法を取らぬこと」
「承知しました」
部屋を出ていく狩人が首でついて来いと合図をする。ディムナはそれに従う。これから何も分からず死地に向かうというのに、なぜだか笑えた。思えば自分の意思で何かを変えようとして上手くいったのが、これが初めてだったからかもしれない。
◆◆◆
「人狼には好みがある」
狩人は詰所を出ると、おもむろにそう告げた。
「好み?」
「個体ごとに襲う人間の属性が違う。あんたにもあるだろう。魚が好きとか豚肉が好きとか。それと同じだ。今回の人狼は女のみを襲っていたが、本当はもっと狭い好みだった」
狩人、ネドはかなり足早だが、その姿勢は崩れず、背筋は伸びている。こうしてみるといかにも「神父様」然とした外見だ。小走りでディムナは彼を追いかける。
「襲われたのは街娼ばかりだった」
あっと思わずディムナの口から声が漏れる。確かに遺体に付着していたわずかな衣服はどれも普段着にしては派手な色をしたものばかりだった。化粧っ気のある顔は食い散らかされ、体にまぶした香水はその内側からあふれ出た血液の臭いによって上書きされてしまっていた。だからだれも気付かなかった。
「また犯行場所は入り組んだ路地裏ばかりだった。人狼の正体は土地勘のある者だろう」
それはつまり越して来たばかりの難民が人狼の正体ではありえないということだ。住んで長いか、街中をよく移動する種類の人物だった。
「炊き出しをしていた教会関係者が、最近見なくなった者が大勢いるという話を聞いたらしく、俺たちに知らせが来た。このあたりの街娼を取りまとめているバアさんが言うには半年ほど前から世話をしてやった娘がたびたびいなくなっているとのことだ。最近の若い者は礼儀知らずだの言っていたがまさか人狼に喰われているとは思ってもみなかったらしい」
「ちょ、ちょっと待て。半年? 死体があがり始めたのは二週間前だぞ」
「そうだ。それまでの間、人狼はこの街に潜伏し、街娼のみを標的と定めて夜な夜な狩りをおこなっていた。死体は巣に持ち帰っていたんだろうな」
「じゃあなんで二週間前から急に街角に死体を放置し始めたんだ?」
「警備体制が変わったからだ。先程自警団長に話を聞いたが、その時期から住民と戦争避難民とのいざこざが増加して、警邏を二人一組にしたと。だから人狼は今までのように狩りが出来なくなってしまった」
確かにそうだ。それまでは警邏は基本的に一人でおこなっていたが、街が難民の受け入れをおこなって以降、毎日のように問題が出てくるので警邏は二人一組になった。そうして間もなく死体が発見され、三人一組での警邏がおこなわれるようになった。
「奴等は日に一度人間の心臓を食わなければ脅迫的な飢餓感に襲われる。二日程度なら気力で我慢できるが、三日目には気付いた時には人間の臓物に鼻先を突っ込んでいるという有り様だ。我慢が出来なくなり、夜の街角で娼婦を襲い、腹が満たされて冷静になった頭で死体の隠蔽が無理だと判断し、放置した」
「どうして。これまでと同じように巣に持ち帰ればいいだろう」
「出来なかったんだろうな」
狩人がはたと足を止めた。自警団の宿舎を随分と離れ、歓楽街を抜けた先にある安宿。その横に古びた貸家がある。宿舎に入れなかった男のために、自警団長が苦心して安い家を探してやったのだそうだ。
ネドが左手で家のドアをノックする。扉が開いて恐る恐るといった様子で中から瞳が覗いた。
「どちら様ですか……?」
声変りをしていない少年が顔を覗かせていた。
「……」
「あ、あの。……あ、もしかして自警団の方ですか?」
何も言わない狩人の後ろにディムナの姿を確認して、その裕福そうな雰囲気と装いから判断したのだろう少年は続けた。
「昨日から父が帰っていなくて、その、もしかして父に何か――」
聞き終わらないうちに神父は家のドアを思い切り蹴り飛ばした。
ゴッと鈍い音がして、少年がドアに頭をぶつけて後ろに倒れる。蹴り破った衝撃で蝶番が緩み、ドアが傾き、揺れる。
「なっ」
驚きのあまり開いた口が塞がらないディムナを尻目に、ネドはずかずかと家の中に入り込む。すん、と鼻を鳴らした。その仕草でディムナも異臭に気が付いた。
――なんだ、この臭い?
酸っぱいような、込み上げる胃液と混じるような、生理的嫌悪を感じる饐えた臭い。かつて戦場で嗅いだ臭い。負傷兵の臭い、人の肉が腐る臭い。思わず口元を押さえた。何が起きているか理解できない、否、彼の頭脳はもう答えを理解していた。理解したくなかっただけだ。
土地勘があったのは自警団の一員だったからだ。半年前から二週間前まで犯行が露呈しなかったのは夜間警邏のついでに狩りをおこなっていたから。巣に死体を持って帰る必要があったのは自力で狩りをおこなえない被保護者がいるから。
騒ぎに気付いたのか家の奥から少女が出てきて、悲鳴を上げた。少年よりもさらに幼く見える。彼の妹だろう。彼女は兄に駆け寄った。ああ、とディムナは嘆息した。被保護者は二人いた。これでなぜコリドーが死体を放置したのかも分かってしまった。持ち帰れなかったのだ。両手がすでに二つの死体で塞がっていたから、自分が食った分はその場に置いて行くしかなかった。
少年が鼻血を垂らしながら立ち上がる。闖入者を見上げるように睨みつけている。
狩人は腰袋から何かを取りだし、無造作に床へと放った。ディムナが蛇かと思ったそれは黒く、細長い狼の尻尾だった。
昨晩殺した狼のものだ。いつの間に切り取ったのだろう。
「お前の父親は俺が殺した」
少年は顔を伏せて、肩を震わせた。表情をうかがい知ることは出来ない。
「なんのことでしょうか? 父は人間です。人狼なんかじゃありません」
やがて顔を上げると貼り付けたような笑顔でそう言った。
拙い演技だ。ディムナでさえそう思った。
次の瞬間、狩人に向かって、黒い影が跳んだ。
喉笛目掛けて放たれた牙はその寸前で、銀の腕に阻まれた。
「止めろ、アリー!」
少年が叫ぶ。今人狼へと変化し、狩人を襲ったのは、彼が自身の背に庇っていた妹だった。
小さな雌狼を義手に食いつかせたまま、狩人は腰から銀の短剣を引き抜き、逆手のまま、その脇腹へと突き立てた。甲高い狼の絶叫が響く。
「止めろ!」
少年の鼻が突き出し、体毛が一気に黒へと染まる。飛びかかろうとした少年目掛けて、狩人は彼の妹の体を蹴り飛ばした。兄が妹を受け止めて後ろに弾かれる。狩人が順手に持ち変えた短剣からは真っ赤な血が垂れて床に染みを作る。
「お兄ちゃん、あいつは初めから、私たちを殺しに来たんだよ。お父さんみたいに、私たちも殺すつもりなんだよ……」
息も絶え絶えに妹狼は言う。狩人の一撃は彼女の脾臓を的確に貫いた。致命傷だ。
「妹の方が賢いな」
「アアアァッ!」
狩人の挑発に激昂したのか、妹がもはや助からないことを悟ったのか、おそらく己自身にも訳が分からぬまま兄狼は飛び掛かる。
狩人は半身だけ体をずらしてそれを避けると、彼の後頭部目掛けて、短剣の柄を振り下ろした。人狼の体が床へと叩きつけられる。
衝撃で動きが止まった人狼の首と右手首を両足で踏みつけて、銀の短剣を振りかぶったその瞬間、
「待ってくれ!」
狩人を止めたのは、ディムナだった。
「子供だぞ……?」
「ここで殺さなければ親を人間に奪われた二匹の人狼が生まれるだけだ。いずれ体を鍛え、知恵をつけて報復にやってくる。兄妹としてでも、夫婦としてでも、人の群れの中には入り込みやすいだろう。家族は身元の証明になる。こいつらの父親がそうしたようにな。それを知っているという点だけでも生かしておくには危険すぎる」
「例え人を殺していなくてもか?」
「殺してはいなくとも、こいつらは既に人の味を知っている。親から与えられた。そうでなければ飢餓からたちまち周囲の人間を襲うだろう。人狼の飢えは人の心臓を喰らわずに癒えることは無い」
狩人は短剣を小さな人狼の背から心臓目掛けて刺し入れた。ぐっとくぐもった音が喉から漏れて、人狼は死んだ。
「死んだ狼だけがもう人を襲わない」
狩人は刃をしまうと、左手で服の中から十字架を取り出して、何事か祈った。血まみれの中を。
こうして若い騎士は人狼の死体を再び見た。今度は夢だとは思わなかった。
◆◆◆
二年前までコリドーは別の町の鉄工所で働いていた。
二年前の大雨で川が氾濫し、鉄工所は閉鎖。街は酷い有り様で復興にはどれだけ時間がかかるか分からない。コリドーは家財道具をまとめ、妻と二人の幼い子供を連れて街を出た。
移動した新しい街で、妻は疫病にかかって死んだ、とかつてコリドーは他の隊員に語っていたというが、老司祭が調査した限りではこれは真実ではない。移動した先の町でコリドーはまともな職にありつけなかった。その街では鉄工の組合の力が強く、地元の職人を守るためによそ者のコリドーに与えられた仕事といえばほとんど雑用のようなもので、稼ぎは以前の半分以下に落ち込んだ。それでは暮らしてゆけないと妻も働きに出た。
最初からそのつもりだったのか、あるいは仕事先で誘われたのかは分からない。妻はいつしか娼婦の真似事をして日銭を稼ぐようになった。それがコリドーに露呈し、夫婦は常に口論が絶えなかったという。
そのうち、妻が死んだ。街の記録では確かに疫病で死んだことになっているが、おそらくコリドーが殺めたのだろうと神父は断言した。そしてコリドーが人狼になることを選択したのも同時期だろうとも。人狼になったばかりの人間には殺人と捕食に対する忌避感が残っていることが多い。いずれ空腹に押し潰され、かならずその道をたどるとしても、堰が崩れる一穴というものがある。コリドーにとってそれは娼婦だった。
自分に嘘をついていた、裏切った女の象徴。汚らわしい存在。
これなら殺していい。
喰ってもいい。
おそらく二人の子供も同時期に狼になっている。というのもコリドー一家は母親を亡くして以降、住処を転々としているが、そのいずれもが異臭騒ぎによる苦情によって、実際にはほとんど追い出される形での転居を繰り返していた。
かつて暮らしていたという家の床下を調べさせたところ大量の人骨が発見された。一匹の人狼の食いきれる量ではなかった。
その話を聞いた時、ディムナは自分が踏み込んだあの部屋を思い出した。古びた貸家の奥の部屋。子供部屋として使っていたのだろう。二人分の寝床の横に山のように重なった大腿骨、尺骨、肋骨、頭蓋骨。骨、骨、骨、骨の山。歯型が付いた物、噛み砕かれて元の形が分からない物も無数にある。
わずかに食い残して付着した肉片は黒ずんで蝿が止まっている。
部屋の壁、閉じられたカーテンには無数の血が染み、黒ずんだ上に乾く間もなく、別の血が被せられた痕跡がある。カーテンを背に窓際に腰掛ける人形の隣には積み重ねて遊んでいたのか、大小様々な指の骨が積み木のように重ねられていた。
あの光景を見た時にディムナの中に芽生えかけていた狩人を責める気持ちは吹き飛んだ。
そして約半年前、コリドーはこの街へとやってきた。
ほとんど浮浪者と見分けがつかないその見た目から管理者は追い返そうとしたが、彼の後ろをついて歩く子供を見て考えを改めた。彼にも幼い息子がいたのだ。このことを責められはしない。
コリドーから彼の来し方を聞いた管理者は思わず浮かんだ涙を拭き取ると、街の鉄工所を紹介してやった。鉄工所の親方は最初こそよそ者を警戒していたが、仕事をやらせてみるとなかなか腕が良い。妻を亡くした哀れな男で、幼い子供たちを養うためによく働く。酒の付き合いこそ悪いが境遇を知れば文句を言う者は一人もいなかった。
時期も良かった。隣国が戦争を始めたことで鉄工所には発注が絶えなかった。人手不足の時にやってきた一人で二人分も三人分も働く男。すっかりコリドーを気に入った鉄工所の親方は自分も所属している自警団に彼を推薦した。人品骨柄確かであると推薦状までつけて。
コリドーは自警団の中でも真面目な男で通っていた。他人が嫌がる夜勤も積極的に引き受けていたから、所属隊長からの信頼も厚かった。
さらには街の娼婦たちからも評判が良かった。コリドーはいたずらに自警団員の権限を使って娼婦たちを詰所に引っ張ってくるようなことはせず、にこやかに話しかけて、次の週末は取り締まりが厳しくなるといったことまで教えてくれる話の分かる警邏だったからだ。
彼を知る誰もが、彼が人食いの怪物であるなどと疑いはしなかった。夜勤を積極的に引き受けていたことも、娼婦たちが街を追い出されないようにしてやることも、彼と彼の子供の腹を満たすためだなんて思ってもみなかった。
更に調査を進めると、死体が発見される数か月前から、仲間がいなくなっていることを自警団に何度も伝えてきたという娼婦が複数人現れた。彼女たちは全員口をそろえて、このあたりをよく見回りしていた中年男性に伝えたという。他の隊員に言ったところで別の町で商売をやっているだけだろうと追い返されるか最悪詰所に連れていかれるだけだが、その男性はよく耳を傾けてくれたという。男の特徴を聞くとコリドーと一致した。
しかしそうした報告をコリドーの直属の隊長は把握すらしていなかった。それどころか自警団長は最近街からいかがわしい職業の連中が減って街が綺麗になったなどと口にし、それを自分の功績であるかのように会議で語っていたことをディムナは覚えている。減っているはずだ。コリドーの家から、床下から、天井裏から見つかった人骨は百人分をゆうに超えている。
この街はコリドーにとって絶好の狩場だった。だから止むを得ず死体を放置することになってからもしばらくの間、この街に居座り続けた。殺人が難民たちによるものではないか、という根も葉も無い噂も彼にとっては好都合だったはずだ。とはいえいつまでも長居をするつもりも無かったのだろう。コリドーは鉄工所の親方に子供たちの教育のために生まれ故郷に戻ろうと思っている、という内容の相談をしていたらしい。親方は強く引き留めたが、子供たちのためと言われては引き下がらざるを得なかった。
コリドーは来週にもこの街を去ろうとしていた。そうなればまたどこか別の町で人の骨の山が築かれることになっただろう。
二つの小さな狼の亡骸を秘匿されていたコリドーの遺体とともに弔った後、狩人と老いた司祭が去ってから、街に「真実」が伝えられた。
此度の連続殺人事件は街に入り込んだ巨大な狼による獣害であり、その狼は空き家に潜伏し、夜な夜な罪無き女性をその毒牙にかけていた。夜間警邏中グレオール隊がその狼と遭遇し交戦。隊員二名が犠牲になるもこの怪物を撃退。街の脅威を排したことからグレオール隊長に二級八角勲章が授与されることになったが、隊長はこれを固辞。負傷した自身を庇って怪物に対し、勇敢に立ち向かった部下二名にはグレオール隊長たっての願いにより、自警団より賞恤金が支払われる。
人狼のことを公開するべからず、というのはあの老司祭と狩人の所属する教会からの「助言」であるらしい。人に化けて人の振りをして暮らす人食いの怪物が、空想ではなく実物として存在する。そんなことが明るみになれば市井の混乱は必至だ。政情不安定な今の世上では人狼の濡れ衣を着せて私刑に走る者まで出かねない。そういう判断であるらしかった。
犯人が自警団の一員とその家族だったこと、以前から通報のあった娼婦の大量行方不明を真剣に取り合ってこなかったために事件がここまで発展したこと、そしてなにより人狼の存在、など自警団にとって、それを治める騎士団にとって都合の悪すぎる真実をすべて知ってしまったディムナは身に覚えのない功績と勲章とで口封じをされることになったらしい。それを同じ口止め料ならと部下二人の賞恤金へと変えてもらった。
ブランとスコルの家族には直属の上司としてディムナが彼らの死を知らせに行った。
ブランには病気の母と幼い妹がいた。彼の見え透いた野心は彼女たちに楽な暮らしをさせてやりたいという孝心から出た物だった。
スコルには出来の良い兄がいて、王都で学校に通っているらしい。スコルの両親は彼の死よりも彼の死によっていくら貰えるのかを気にしているようだった。毎日のように兄と比べられていたのだろうか。本当に似た者同士だったんだな俺たち、と思わず笑ってしまった。
もしも自分が出世したとしてブランは家族を置いてはいけないとついてこなかったかもしれない。スコルこそがもしかしたらディムナがいつかどこかに連れて行ってくれると期待していたのかもしれない。二人のことを知って、かつて抱いていた印象が入れ替わってしまった。
賞恤金の件は二人の残された家族への憐れみというよりも、不実で無能だった上司を許してくれと願う償いのようなものだった。今更彼らを知ったところでもう食事や飲みに誘うことも出来はしないが。
二人の部下には自分とは違う人生があった。
あの人狼には自分では想像もつかない人生があった。
ディムナはあの銀の腕の狩人に、自分の命を救ったあの男に思いを馳せる。あんたはどういう人生を送ってきたんだ? どうしたら狼を殺して回ることになるんだ?
きっとそこには想像もつかない一つの人生がある。そんな気がした。