猟火
「なぜ見つからん!?」
騎士団長バザンが机を叩き、吠える。木製の天板がミシッと軋む音を立てた。額に血管を浮かべ、歯噛みするその姿に報告にきた部下は縮み上がる。
狩人は未だ見つからぬまま、昨夜新たに一名の人狼騎士が死んだ。血の臭いを嗅ぎつけた他の人狼騎士が現場に到着したときにはすでに狩人の姿は消えていた。城下町のいずこかに潜伏していることは間違いない。そして土地勘の無いこの街でこれだけの期間、逃げおおせているのは彼を匿う協力者がいるからに他ならない。だからこそバザンは男爵に許可を取り、狩人を見つけた者には免畜符を授けるという触れを出した。にも関わらず未だ狩人発見の報は無く、バザンをあざ笑うかのように新たな被害者が出た。
衛兵は替えが効く。なりたがっている者は山のようにいるからだ。だが、人狼騎士はこれ以上減らせない――。
バザンがのそりとその巨体を椅子から持ち上げた。
「だ、団長……。どちらへ?」
「……捜査を続けろ。ただし人狼騎士は出すな」
震える手で敬礼をした部下を置いて、バザンは城の中を移動し、ある一室の前で歩みを止めた。新しい見張りの衛兵に扉の鍵を開けさせる。部屋の中に踏み込むや否やバザンは中にいた人物の首根っこを掴む。
胸倉をつかまれたブレーメンは溺れたネズミのようにキーキーと悲鳴を上げてあがく。博士の服からぶちぶちと繊維の千切れる音がした。研究機材が床に落ち、割れ、中の液体をぶちまける。
「博士。いつ頃『狼血』は出来上がる? そろそろ私の我慢も限界が近い」
「これが人に物を聞く態度か……!」
バザンがぱっと手を離すと、ブレーメン博士は床に強かに尻をぶつけた。バザンが上体を曲げ、尻餅をつくブレーメンの目を覗き込んだ。博士も負けじと睨みつけるが、その瞳の奥には怯えが滲んでいた。
「お前さんの頭じゃ説明しても理解できまい。男爵も呼んだらどうじゃ? 横で分かりやすく解説してもらえ、ぐああっ!」
バザンが老博士の右足を踏みつけた。みしみしと骨が鳴る。折れないようにゆっくりと体重をかけていく。弱者をいたぶるのはバザンの最も得意なことの一つだった。
「『閣下』を付けろ、クソジジイ」
「――こらこら、バザン。あまりご老体を虐めてはいけないよ」
バザンが条件反射のごとく道を開け、敬礼する。いつの間にか、後ろに青髭を湛えたレイス男爵がいた。朝食を取った帰り道に廊下から老人の悲鳴が聞こえたので顔を見せたのだ。
「ネド神父、……狩人はまだ見つからないかね?」
「はっ、申し訳ございません! ……アズレが殺されました。閣下よりお預かりした騎士を失い、なんとお詫び申し上げればよいかッ……!」
「良い。こちらには狩人との戦闘経験が無く、向こうには余りあるほど。お前の考えてくれた人狼に鎧を着せるという方法ももしや彼にとっては然程脅威では無いのやもしれないな」
「お役に立てず……ッ!」
今にも泣きだしそうなバザンに努めて冷静に男爵は語りかける。
「良いと言っている。そうした教会との戦い方を知りたかったからこそ、わざわざ招いたのだ。今回学習し、次に活かせば良い。お前は今までそうしてきた。私はそれを知っている」
「閣下……!」
感激のあまり本格的に涙を垂らし始めたバザンの前で、吹き飛ばされた椅子を立て直し、男爵が腰かける。
「少しばかり私も考えてみた、誰が狩人を匿っているのかを」
男爵は頭の中の考えをまとめ、言葉にするためにほんの数瞬目を閉じ、顎髭を弄った。
「……人は誰しも二人の主君に仕えている。快楽と苦痛という王に。人が自発的に行動するときは、必ず、この主君の命によるものだ。快楽の追求と、苦痛の回避、これ以外の何物にも人を動かすことは出来ない。免畜符、人狼に喰われない権利は苦痛の回避だ。だから狩人を匿う者がいるとするならば、二つの可能性が考えられる。快楽の追求、狩人が人狼を殺してくれることが愉しくて、嬉しくてしょうがないという人物、あるいは、免畜符が苦痛の回避になり得ない人物」
補足するように、「両方、という可能性も大いにあるな」と呟いた。
「しかし免畜符を欲しがらない家畜などいないでしょう」
「もう持っているとしたら?」
「衛兵ですか? しかしすでに兵舎は洗いました」
わずかに考え込み、バザンがはっと気付く。
「妊婦か!」
仮に十匹の人狼によって街を管理するなら、それはつまり一年で三千六百五十人もの生贄を必要としているということだ。城下町内だけでその「消費」を賄おうと考えれば無茶な人口増産をおこなわざるを得ない。男爵は他領に比べて積極的に難民の受け入れをおこなっているが、それだけでは到底足りない。だからこそ贖宥状を発布することによって妊婦を保護している。人狼街の内で暮らす女たちは生き延びるために男を誘う。それさえ月の物を迎える歳まで生き延びることが出来たら、という仮定の上に成り立っているが。
「『彼女』は狩人をたまたま見つけたのか? おそらく違うな。ずっと人狼騎士の動向を見張っていた。客引きをしながら、人狼を殺すことの出来る人物が来るのを待っていた。一人ではすべての騎士の動向は追えまい。無数の目と動く腹を持つ怪物というのも素敵な想像だがね」
「娼婦たちが狩人を匿っている、と? 調べさせますッ!」
部屋を出て行こうとするバザンを男爵が待てと手の動きで止める。石になったかのようにバザンがその場で気を付けの姿勢を取った。
「加えてもう一つ」
男爵が懐から一通の手紙をバザンの足元に滑らせた。封を切られた中身を検める。
「気の利く衛兵が届けてくれた。内容から考えてディムナ君がモードナにいるもう一人の神父に宛てたものだろう。彼は賢いが、いささか視野が狭いな。手紙などと。自分を基準に考えたのだろうな。この街にいる者のほとんどは文字など書けないのだから、無数の手紙に紛れ込ませることなど出来ないと想像できなかったかな?」
「出所はどこです?」
「分からん。流石に隠れ家の住所を書くほど愚かではないようだ。だが彼の狙いは分かった。街の外にいる神父に連絡を取り、ブランシア政府をけしかけさせようとしている。彼の協力者は『アンゲル』と呼ばれる政府の犬で、衛兵の中に潜り込んでいるようだ」
「あぶりだしますか?」
「やめておこう。衛兵同士を疑わせることになる。その間に狩人はまた人狼騎士を殺すだろう。人手が足りなくなった瞬間を狙って『アンゲル』はディムナ君を領外に逃がす。その後は教会と手を組んだブランシア陸軍が攻め入ってくる」
男爵は再び瞳を閉じた。口元がわずかに持ち上がっている。愉しんでおられる、と長年の付き合いからバザンは見抜いた。
「……まずは娼婦小屋を潰せ、狩人を追い立てる。期限付きの贖宥状は今をもって無効とする、隠し立てするなら妊婦であろうが殺してよい」
「はっ!」
「騒ぎに乗じて『アンゲル』とディムナ君は街を出るだろう。人狼騎士を一人派遣し、モードナの神父を殺せ。ついでに二人を殺してもかまわん。それでしばらくは時間が稼げよう。ディムナ君の顔を知っている者が適任だろうな、コルネイユにやらせろ」
「承知いたしました」
あと、これがもっとも重要なことだが、と男爵。
「狩人は殺すな、生かして捕らえろ」
「まだ仲間に加えるおつもりですか!? あのような何の誇りも無い男――」
抗議するバザンの声を男爵が手の動きで黙らせる。
「安心しろ。仲間にはせん。無理に人狼にしたとてこちらに下りはしないだろうさ」
「ではなぜ」
「殺すと鮮度が落ちる」
「は?」
男爵の口角が更に、ニィと上がった。
「私はまだ司祭を喰ったことが無いのでな。出来る事なら美味しく食べたい」
初めて食べたときに不味いと苦手意識がつくからな、と最早愉悦を隠しもせずに男は笑った。
◆◆◆
カーテンの隙間から覗く街の雰囲気が昨日とは違う。
衛兵は相変わらず多い、広場の血痕は碌に拭き取られることもないまま放置されているが、人々の表情が違うとディムナは感じた。
昨夜、ネドがまた新たに人狼騎士を一人殺した。
衛兵を多数動員し、免畜符というニンジンによって市民をも嗾けたために、その亡骸は遠吠えを聞いて集まって来た多くの者の目に触れた。人の口に戸は立てられない。こうして隠れ家に引き籠もっているディムナの耳にさえ窓の外から噂話は入って来た。
人々は今、人狼騎士と彼らを率いる男爵の絶対性を疑いつつある。人狼の言に従い、狩人を探すべきか? でも、もしかしたら狩人が人狼を殺し、この恐怖の支配から解き放ってくれるのではないか? と。
同じ空気をベルナールも感じていたようだ。狩人が人狼の数を減らせば減らすほど、街の人々を人狼へと従わせる恐怖心は薄れ、これまで抑圧されてきたことへの憎悪と怒りに姿を変えるだろうと。そのベルナールは今、衛兵の仕事をこなすために街を巡回している。男爵や同僚たちに疑われないために、そして人狼たちの動向を追うために致し方ない、と言っていた。
隠れ家に潜むディムナは手紙を読んでいる。
ディムナの手の中にある手紙は、ベルナールがネドにも渡した筆記用具によって書かれたものだ。手紙にはネド本人の字で『自分が人狼を減らす間に神父様への連絡を頼む』という旨の内容が書かれていた。今回は戦力になれそうにない、なろうとしても自分を生かして帰すことが目的であるベルナールが何としても阻むだろう。ディムナはちらとネドから貰った新品のクロスボウに視線を送った。少女がこっそり触ろうとしていたので取り上げる。
「危ないからダメ」
「なんでぇ~」
手紙を届けた後も居座り続けている少女が頬を膨らませて抗議する。
「これは人狼を殺すための武器なの。怪我したくないだろ?」
「それがあれば男爵も殺せるの?」
「ああ」
「使ってるところ、見たぁい」
「ダメだってば」
このまま放置しておくと危ないな、と判断したディムナは装填していた銀の矢をハンドルを逆に回すことで取り外し、矢筒にしまった。少女がその様子を興味深げに眺めている。
クロスボウと矢筒を鞄の底にしまい、ナイフを取り出して少女にリンゴを剥いてやる。するとクロスボウのことはもう忘れてしまったのか、口と手をべたべたにしながら少女はリンゴにむしゃぶりついた。やれやれと言いながら、ディムナはネドからの手紙をランタンの火に翳す。紙の端がちりちりと焦げ、やがて火が付き、手を離すと灰になった。
「あー、せっかくミーシャが運んできたのにぃ!」
「ごめんな、神父様に読み終わったら燃やせって言われてるんだ」
自分の仕事を台無しにされた気持ちになったのだろう、配達人を務めてくれた少女ミーシャが口を尖らせた。
少女の外見は十一、二歳だが、その振る舞いは外見の半分程度の年齢に見える。ミーシャが幼子のような仕草で足をぱたぱたとさせると質素なワンピースのスカートがめくれ上がり、その華奢な脛が露わになる。その枝のような脛に梅の花のような赤い斑点が浮かんでいるのを見てディムナは目を疑った。
「あ、これ? いいでしょ、皆とお揃いなんだよ」
ディムナの視線に気付いたミーシャがにこにこと笑いながら、膝小僧までスカートをめくる。
ネドが娼婦たちに匿われているとは聞いていた。しかし、これは――。
「神様に選ばれた印なんだってルシルが言ってた。これがあると天国に行けるんでしょ? おじちゃんも知ってる?」
「お兄さんと呼べ、この」
ディムナが髪の毛をぐしゃぐしゃとかき混ぜると、ミーシャはきゃあきゃあと声を上げて笑った。ディムナは意識して相手に前歯が見えるように口角を持ち上げて目尻を下げる。こうすると何も面白くなくても相手からは笑っているように見える。
「ミーシャ、皆のところに帰る前におつかいを頼んでも良いか?」
「うん、いいよぉ」
おつかいを快く引き受けてくれたミーシャが部屋から出たのを確認すると、ディムナは内鍵を掛けた。その顔から先程の作り笑いは消えている。
この街は、ダメだ。潰さなきゃならない、可能な限り速やかに。
『たとえどれだけ人狼になった人間が哀れで、同情に値するとしても、人狼は存在するだけで周囲に不幸を撒き散らす。人狼は殺さなくてはならない。だから俺は人狼を殺す――』
お前は正しいよ、ネド。
かつて聞いた狩人の言葉を、ディムナは今ようやく、本当の意味で理解した。
◆◆◆
街に悲鳴がこだまする。
一度召集をかけられたすべての衛兵と騎士たちに騎士団長バザンは娼婦小屋の一斉摘発の指示を出した。妊婦用の期限付き免畜符は狩人を捕えるまでの間無効となり、隠し立てした者は処刑する。ざわめく兵士たちにまるで手本を示すかのように人狼騎士たちが娼婦小屋に押し入り、わずかでも抗議の声があればその場で心臓を喰い、地に平伏する者に反抗的な目つきをしていると難癖をつけて彼女を柱に縛り付けたまま小屋に火を放った。
娼婦たちが住処を追い立てられ、煙の中を悲鳴を上げながら逃げていく。その中にはルシルが取りまとめていた幼い少女たちの姿もあった。
自らが苦心して構築した人狼の監視網を食い破られたルシルは爪を噛みながら考える。とにかく狩人である神父を逃がさなくてはならない。彼に死なれてしまっては、やっとこの街を抜け出せるかもしれないというか細い希望の糸が切れてしまう。だが、どこに? 妊婦の免畜符は無効にされた。つまり仲間だったはずの娼婦たちさえ最早信用できない。一旦、狩人の連れだという貴族の隠れ家に身を隠してもらうか? だが、この昼日中、人狼騎士にも市民にも誰にも見られることなく、あそこまでたどり着けるのか?
悩むルシルの隣で、ギチ、ギチチと不快な金属音が鳴った。狩人が義手に銀の剣を固定している。
「火を使うとは焦ったな。煙の臭いで鼻が利かないうちに人狼を減らす」
この混乱に乗じてディムナとベルナールは動くはずだ。立ち上がり、小屋の外に向かうネドの前にルシルが立ちふさがった。
「その後はどうするつもりなの!? 殺されちゃうだけだよ!」
「城はほとんど出払っているはずだ。なんとか潜り込んでみる。ルシル、君は皆を連れて逃げろ。世話になったな、ありがとう」
そう告げるや否やネドは小屋を出て街を駆けて行く。その姿を見かけた市民たちの声が上がる。「狩人がいたぞ!」と。
呼び止めるルシルの声はその叫びによって掻き消され、狩人の背中には届かなかった。
ディムナたちは城下町の外門に向かうだろう。だからそちらから人狼騎士を引き離す。
ネドは自身を捕えようとする民衆の足を払って転ばせ、銀腕で殴り、時に目潰しをぶつけながらレイス城へと駆ける。ガチャガチャと重たい金属音が徐々に近づいてくるのを聞いて、体を低くして急停止する。直後そのまま走っていたら彼の体があったであろう位置に、金属の塊、鉄の鎧を纏った人狼騎士が降ってきて地面をその爪で抉った。
人狼が体勢を立て直す前に銀剣が振るわれる。人狼は地に伏した姿勢のまま、肩を首に寄せることで喉首目掛けて振るわれた一閃を鎧でもって弾いた。喉を狙ったのは遠吠えを防ぐためだ。鼻は街のそこら中で娼婦小屋を燃やして発生した煙によって潰されているが、聴覚は活きている。この状況で複数の人狼騎士を一度に相手取るのは流石に分が悪い。
ネドは前腕の鎧の隙間目掛けて刃を滑らせ、それを見て取った人狼が後ろに跳躍した瞬間、更に軌道を変えて相手の左足首を斬り落とした。チィッと人狼が忌々し気に舌打ちし、無い足で地面を踏んだ時、すでにネドはその懐に踏み入り、横薙ぎの一閃でもって人狼の上顎から上を刎ね飛ばした。無くなった己の顔面を探し、ぺたぺたと千切れた頬を触る人狼の腹を蹴り飛ばし転倒させると、腰袋から取り出した瓶の中から黒い液体をぶちまける。じたばたとひっくり返された甲虫のように蠢く人狼の鉄鎧に水平になるように銀剣を添えると力を込めて、刃を一息に擦った。ギャリッと耳を劈くような金属の擦れ合う音がして火花が散った瞬間、黒い液体、乾留液に引火した。タールを巻き込んで再生した人狼の顔面が炎に包まれる。助けを求めようにも喉も舌も粘性を持った燃える液体によってへばりつき、呼吸もままならないまま人狼は狂ったように頭を振るい、爪をがむしゃらに振り回す。
人狼が暴れ回ることで、ネドと人狼を取り囲んでいた民衆の一人の服に火のついたタールが跳んだ。安物のぼろ服はあっという間に引火し、男の体が火に包まれる。助けを求めて彼も腕を振り回す。火の粉が周囲の男たちにも散り、民衆が蜘蛛の子を散らすように逃げていく。ネドは燃える男の髪を掴んで地面に引き倒すと、蹴り飛ばして転がした。
「莫迦野郎! 体を地面に擦りつけろ! 死にたいのか!」
ネドが地面を蹴って男の体に砂をかけてやると炎は消えた。男の体毛は焦げてチリチリになっていたが息はしている。幸い火傷も無いようだ。余程怖かったのだろう、男は泣き出すとその場で赤ん坊のように丸くなって震えていた。
ネドが後ろを振り返ると、人狼は焼け爛れ、膝をついてまだ燃えていた。鎧に包まれた黒い塊は縮み上がり、もはや原型を留めていない。この道具は使えない、とネドは顔をしかめた。威力が高すぎるのに周囲への影響を鑑みていない、そして何より不必要に人狼を苦しめ、痛めつけることを目的としている。お勧めの新商品だと言うから買ったが、製作者の悪癖が出ている。
ネドがいまだかすかに震えている人狼の肉に、鎧の隙間から慈悲の一撃を与えると、黒塊は崩れ去り鎧が音を立てて転がった。
タールの刺激臭と、人狼の毛と肉と血の燃えた臭いが交じり合う。風に流されたそれを嗅いだ遠巻きに見ていた民衆のうち、何名かがえずき、その場に嘔吐した。
その場の誰も最早祈りを終え、城に向かう狩人を追おうとはしなかった。彼らの瞳に映った恐怖心は、この街の支配者である人狼騎士を前にした時のそれと何ら変わらなかった。
レイス城門をその目に捕らえたネド目掛けて、茶色い影が投げられた。
ネドはそれを左足を後ろに下げた体さばきでもって躱す。ネドの後ろで投げつけられた茶髪の衛兵の頭蓋が壁に当たってトマトのように弾けた。
城門前広場に陣取った人狼がぺちゃくちゃと音を立てながら千切れた衛兵の足の肉を喰う。
「お前が避けたせいで死んだぞ」
上背は人と然程変わらないのに、横に広いずんぐりむっくりとした人狼がニタニタと攻撃性を帯びた笑みを浮かべながら、ネドとの距離を保つ。
「人を守らなくていいのか? ええ、神父様よ?」
「それは騎士の仕事だろう。俺は狩人だ。人狼を見逃せば一人助かる状況なら、俺は一人を見捨てて人狼を殺す」
そこで一人助けても人狼を逃がせば、別の場所で三人四人と被害が出る。無論助けられるときには努力はする。だがそれで人狼を逃すことは起きなくて良かったはずの悲劇を増やすだけだ。
一際大きな鉄鎧を身に纏った太っちょの人狼は狩人が揺さぶられないと見るや、横っ飛びに跳躍し、広場に突き立ててあった奇妙な形の槍を引き抜いた。槍、と呼ぶには太すぎる。人の頭部より幅広の錐状の杭二つを組み合わせたようなその武器、針鼠は本来人に向けて振るうための物ではなく、馬を阻む陣地の要塞化に用いるものだ。
並みの人狼でさえ持ちあげるのに手こずるであろう総鉄製の杭をやすやすと持ち上げると、唸り声と共に狩人目掛けて投擲した。ネドは身を屈めて避け、人狼との間を詰める。その後ろで鉄杭が壁を破壊し、四角形の穴を開け、その奥の家屋までをも貫いた。悲鳴が上がり、壁がひび入り、家屋が倒壊して土煙が舞う。
迫る狩人を嫌うように人狼は針鼠を二度、その足元に投擲、と呼ぶにはあまりにも速すぎる速度で射出した。広場の地面が割れ、ひっくり返ったかのような震動で狩人がわずかにバランスを崩したその瞬間を見逃さず、人狼は杭を突撃槍のごとく構えると、その常軌を逸した全膂力を込めて、ネド目掛けて突進した。ネドが地面に剣を突き立て体勢を立て直した直後、鉄杭がその脇腹を掠めた。巻き込まれた銀の短剣一本がひゅんひゅんと円を描いて宙を舞い、ネドの後方へと落ちた。
この人狼は鉄杭によって土煙を起こして敵の視界を潰し、自分は嗅覚で相手を捕らえて一方的に攻撃を加える、という戦法を取っている。であれば鼻を潰せば戦法そのものを封じることが出来る。しかし目潰しを当てようにもこちらを遥かに上回る射程と、あの突進速度では難しい。
ならば――。
ネドは土煙の中、敵のいる方向に背を向けて、城へと駆けだした。先程の突進により、門への道は開けている。
グォッという地を蹴る轟音と共に、狩人を逃がすまいと人狼が再度の突撃を仕掛けた。その丸太さえ打ち貫く一撃がネドの背中に迫る。
が、そのあらゆる物を穿鑿する一撃は獲物の背中ではなく、わずかに左に逸れた地面を穿った。人狼の左膝下から先は、背を向けて城に向かう振りをしたネドが地面に突き立てておいたもう一本の銀の短剣によって、人狼自身の突撃の速度を利用して斬り離されていた。身を翻したネドが、人狼の不安定な体勢のまま振るわれた爪の薙ぎ払いをかいくぐり、右足をも刎ねる。このまま素っ首落として仕留める! と銀剣を閃かせた。
人狼は地面に突き刺さったままの鉄杭に腕の力だけで、自身の体を引き寄せると、鉄鎧に覆われたその巨体を狩人へとぶち当てる。ネドの体が人狼に押し潰される形になり、みしみしと骨の軋む圧力に苦悶の表情を浮かべたまま、人狼の首へと銀剣を食い込ませるが、人狼が手甲を間に差し込み、鍔迫り合いとなる。
「このまま貪り喰ってやるよ……ッ!」
人狼が頬まで裂けた醜悪な笑みを浮かべ、鋭い犬歯と長い舌を剥き出す。
「……ッ! 止めろッ!」
「今更命乞いなんぞ、――」
人狼は最後まで言い切ることは出来なかった。ネドの制止を聞き入れず、戦いの最中吹き飛ばされた銀剣を拾ったルシルが人狼の頸椎目掛けて、その必殺の武器を振り下ろしたからだ。銀剣は人狼の喉笛を裂くとネドの眼前わずかばかりで動きを止めた。鍔が鎧に引っかかり、それ以上刺し込むことが出来なかったのだ。
ネドが手甲を避けるように人狼の顔右半分を斬り跳ばし、勢いそのまま左肩を落とす。人狼の残った顔が負けを認めるようにふっと笑ったと思いきや、残った右手を後ろに振るった。ネドの返した銀剣が人狼の右腕を刎ね飛ばすのと、人狼の凶爪がルシルの胸部を抉ったのが同時だった。衝撃にその小さな体が宙を舞った。
「ルシルッ!」
両手足を失った人狼の体を引き倒し、剣を腕から外して背中に納めると、ネドは血を流すルシルの元へと駆け寄った。胴体を両断するには至っていないものの傷は深い。傷口周りの服を裂いて、傷を押さえても血が止まらない。太い血管が傷ついたのだ。
――この怪我では助からない。
「クソッ!」
頭をよぎった考えを打ち消すように悪態をついて、ネドは腰袋の奥から包帯を取り出すと、止血を始める。いつもはもっと手際良く出来るはずが、やたらともたつく。取りこぼした包帯が義腕の指の間をすり抜けて、地面に転がった。一秒経つごとにルシルの顔が青くなり、生気が失われていく。血塗れのネドの司祭服の膝の上にルシルが弱々しく手を置いた。
「神父様、もういいよ……」
「しゃべるな……!」
「ごめんね、もっと協力したかったんだけど、このくらいしか出来なくて……」
「俺はまだ君との約束を果たしてないぞ。この街の人狼をすべて殺す、それを見ずに死ぬな!」
「神父様なら、きっとそうしてくれるでしょう……? それが分かったから、もう、いいよ」
ルシルの目が虚ろになっていく。血が回っていないのだ。おそらくもうネドの顔が見えていない。
「仇を取ってね、あたしの代わりに……。パパとママの、娼婦の皆の、男爵に食べられちゃったあたしの赤ちゃんの……」
ネドはわずかに目を閉じると、手の血を拭い、腰袋の奥底から透明な液体の入った瓶を取り出した。祈りを捧げ、蓋を開けて、中の油をルシルの手へと垂らすとそれを広げた。
「それは……?」
「君が天国に行けるように、神様に分かる印をつけた」
「行けないよ……。あたし、自分が助かるために、赤ちゃんを人狼にあげちゃったんだもん。地獄行きに決まってる……」
「何を言ってる」
ネドが口の端を無理に持ち上げた。不格好なその表情は泣いているか怒っているようにしか見えない。
「君は私を、神父を助けてくれたじゃないか。天国行きに決まっているよ」
ネドが油を塗り広げながら、呟く祈りの言葉にいやいやと、ルシルがかすかに首を振った。
「あたしに祈らないで……。パパとママと、皆と、あの子のために、祈って……。あたしの分は、いい……」
「分かった。皆のために祈ろう。その最後に君のために祈る」
「ありがとう、神父様……」
血溜まりの中横たわる少女と、彼女のために祈る神父を見つけて、小さな足音が駆けよって来た。
「ルシル……?」
ミーシャが膝が擦り切れるのもためらわずに、しゃがみ込み、冷たくなっていくルシルの頬に触れた。
ミーシャの声が聞こえたのか、ルシルはわずかに微笑むと静かに目を閉じた。ネドの手から彼女の小さな手が零れ落ちる。
ルシルの名前を呼び続けるミーシャの横で、ネドは胸元から十字架を取り出すと、彼女の魂の安寧を祈り、聖句を唱える。
「なぜ仕掛けなかった?」
十字架を仕舞い、ネドは城門へと向き直り、問う。視線の先では馬上の騎士団長バザンが右手に槍斧を携え、祈りが終わるのを待っていた。
「医療従事者と従軍司祭を攻撃することは、戦争法によって禁じられている」
「……戦士としての誇り、というわけか」
「違うな。これは彼らに対する敬意のようなものだ。私とて戦場で怪我を負い、世話になったこともある。部下を看取ってもらったこともある。終油の秘跡を邪魔するほど、恥知らずではない」
「……人狼になったことが、その彼らに対する裏切りだとは思わないのか」
「かもしれんな。だが、閣下がそう望まれた。それがすべてだ」
「人狼の癖に首輪付きとはな」
ネドが鞘に納めた銀剣の柄に手を伸ばす。触れる間際馬上からバザンが槍斧の切っ先をネドに向けて警告する。
「その剣に触れた瞬間、貴様を神父から狩人に変わったと見なす。……投降しろ」
ネドが耳を貸さずに銀剣を抜き放とうとした瞬間、馬が駆け、ネドの右義腕のわずかな隙間に、超絶の技巧でもって槍斧の返しを引っ掛けると、渾身の力でその身を引き寄せた。狩人の体が一瞬だけ持ち上がる。空中で如何な挙動をも封じられたその無防備な脇腹に、槍斧の柄が空を切ってしなり、めり込んだ。
ネドの体が吹き飛び、広場に植えられた樹木に叩きつけられる。ふらつく足で立ち上がろうとしたところに再度バザンの柄の一撃がその胴体を捕らえた。口から血を吐くと、ネドはずるずると樹に体を預けるように倒れ、気を失った。
「料理長の元へ連れていけ、閣下のご命令だ」
遠巻きに見ていた騎士と衛兵にそう告げると、バザンは馬の鼻先を変えた。そこには両手足を斬り落とされるも、まだ息をしているずんぐりとした人狼騎士の姿があった。聖別銀によって斬られたため未だに手足の再生が追いついていない。
「団長! なぜ奴を殺さねえんです! 野郎、俺をダルマにしやがって、腕が治ったら生きたまま端から食ってやる!」
声が甲高い。喉笛を突かれたことで声帯が一部削れたのだろう。バザンは槍斧の先端に部下の鎧を引っ掛けると目線が同じになるようにその太っちょの肉体を持ち上げた。
「聞こえなかったか、ガリアーノ。閣下のご命令だ」
「だからって! あんなの生かしておいても危険なだけじゃ――」
「ガリアーノ。つまりお前は、自分の意見が閣下のご命令よりも優先されるべきものだ、と考えているのか?」
「そ、そうじゃないさ……」
バザンの放つ殺気にガリアーノと呼ばれた太い人狼が怯む。もし彼に今もどちらかの手が残っていれば、それを必死に振って弁明しただろう。
「だ、団長だって、あの男を殺すべきだって言ってたじゃねえか! 何の誇りも無い奴、仲間にしようと思ったが止めだ、ってそう言ったのはあんた自身だぜ!?」
「そうだ。だが私はこうも言ったな。閣下は狩人を生かして捕らえることをお望みだ、と。お前は先程の戦い、狩人を殺そうとしていたように見えたが?」
「そ、そうでもしなきゃ殺されてたのはこっちだ!」
「そうだろうとも。認めるのは業腹だがあの男の狩人としての腕は確かに称賛に値する。我らとは違う戦場で生き抜いてきた男ということなのだろう。だからお前が殺す気で挑んだこと自体は責めん。手を抜ける相手では無かったということだ」
だが、とバザンは続ける。槍の向きが変わり、喉を鎧が圧迫し、ガリアーノが苦しそうなうめき声を上げた。
「最後の瞬間、お前は勝負を投げ、あの少女を手に掛けたな? 狩人の勝利に唾を吐きかけるためだけに。そこに戦士としての誇りはあるか?」
「あのまま、ただ斬られるべきだったと? ふざけるな……!」
「我らの振る舞いが、閣下の振る舞いとして見なされるのだ。お前は、見苦しい」
ふっと槍斧のかすかな動きで、ガリアーノの体が宙を舞う。バザンの爪の一振りによって、その分厚い鉄鎧ごと手足を失った肉体が縦に四つに裂けた。振るわれた槍斧の先端にはいつの間にか抉り出されたガリアーノの心臓がびくびくと震えている。
驚愕に目を見開き、弁明をしようとしたガリアーノの脾臓を、槍斧の石突で跡形もなく粉砕すると、再生しようとする肉片に背を向ける。
――申し訳ありません、閣下。しかし此奴は栄えあるレイスの人狼騎士として相応しくなかったのです。
槍先の心臓を握りつぶし、槍斧に血振りをくれるとバザンは城へと戻った。
広場に残ったのは無数の血痕と、ルシルの冷たくなった亡骸を抱きかかえ、泣き続けるミーシャの姿だけだった。




