狩りの始まり
ルグランが手綱引く馬に乗ったディムナの背中を見送った後、ネドは再びイアンの宿を訪ねていた。
上着をはだけたネドが右腕を振るい、革紐で固定した右腕の感覚を確かめる。
義腕の切れ目、腕と直接触れる箇所は綿を詰めた狐の毛皮によって飾り縁のように縁どられている。
「羽毛なら安く済んだんだけどな」
教義に気を使ってくれたのだろう。ネドは何も握らぬまま、大剣を上段から振り下ろす仕草を二度三度繰り返した後、呟いた。
「重いな」
「外縁を覆うには留め具が必要だ。孔を開けた軽量型とは両立できない。支障が出るか?」
「慣れれば問題ない。内側の素材のおかげで強く振れそうだ」
義腕の内部はイアンが南方から輸入したというゴムによって覆われており、腕に吸い付く。
「だろ? 大枚叩いた甲斐があった。これからの義手はこのゴム素材が標準になっていくと思うんだよね、ボクは」
イアンが婚約者の眠る土地を放って、各国を巡る理由はここにある。より軽く、より強く、より効率的に人狼を殺す銀の腕を開発するための資金調達と素材探し。その執念によって見出された技術と工夫を彼は売る。そのたびにネドの右腕は改良されていく。
だからイアンは一般市民を相手にしないし、貧乏人は店から追い出す。彼の目的はネドを含めた狩人たちに元の肉体よりも効率的な武器を与えて一匹でも多くの人狼を殺してもらうことにあり、事故や戦争で体の一部を失った人たちの心を癒そうなどという、かつて「彼女」の前で夢見るまなざしで語ったような、生ぬるい物では無い。
「代金は?」
「もう受け取ってる、前に別れた時から数えて十六匹も。お釣りを出さなきゃいけないくらいだ」
「イアン」
ネドの窘めるような口調の呼びかけに、イアンは肩を竦めた。
「分かったよ、教会の方に請求しておく」
ネドは椅子にかけてあった司祭平服の上着に袖を通し、義手の上から白い手袋を着けた。ゴムと緩衝材によって義腕の外周が少し大きくなったせいか引っかかった袖口を左手で整えた。
「ありがとう、助かった。急に呼び出して済まなかったな」
「いいさ。ボクとお前の仲じゃないか」
「オヤジさんが元気にやっているか気にしていた。たまには帰ってこい」
「絶対嘘だろ、それ。あの石頭がそんなこと言うもんかよ」
神父が嘘つくなよ、とイアンが笑った。
「オヤジさんだけじゃない。サラだって――」
「ネド」
ぴしゃりとイアンがネドの言葉を遮った。その口調からいつもの調子の良さは消えている。
「彼女はもういない。死んだんだ。あそこにあるのはただの墓石だ。サラはどこにもいない。何も願わないし、望まない。彼女のためにしてあげられることはもう何一つ無い、ボクにも、お前にも」
イアンが両手を組んで、額に当てた。ネドからはその表情をうかがい知ることは出来ない。
「そして天国なんてものも無い。……ふっ、だとすると、神父に嘘をつくなと言ったのは――、……すまない、どうかしてた」
「いや、俺の方こそ無神経だった、すまん」
「いや、今のはボクが――、ハハッ、止めよう。帰るんだろ? そこまで送るよ」
イアンが両手を解いて、椅子から跳ぶように立ち上がった。顔には普段通りの気障な微笑みが浮かんでいる。
雪の降る軒先でネドはイアンに軽く手を挙げ、別れを告げた。
「助かった。また連絡する」
「ああ。またな。あ、そうだ、ディムナ様によろしく伝えておいてくれよ! 大口なんだからな、頼むぞ!」
分かった分かった、とネドが苦笑する。
雪を踏み、来た道を帰る。司祭服の隙間から凍えるような風が入り込み、ネドはカソックコートの胸元をぎゅっと握りしめた。
足跡の無数に残る、汚れた雪に覆われた街路から顔を上げる。その視線の先には曇天の向こう、山岳に王冠のごとく鎮座するレイス城の姿があった。
再びルグランがモードナの街に姿を見せたのは、その日の夕方のことだった。ディムナが男爵からの信頼を勝ち得たためお二人にも入城許可が出た、とネドとアングレーズ神父に告げた。
「ディムナから何か言伝などは?」
「城にて待つと」
「支度をする。少しお待ちを」
そう言ってネドは部屋に引き返し、ちらと周囲を確認し、扉を閉めると養父に向けて告げた。
「罠ですね」
「ええ。ディムナ殿は賢く慎重です。本当に彼が安全だと判断したなら封をした手紙で報せるでしょう」
「……殺されているでしょうか?」
「なら城に呼ぶ意図が無いように思えますね」
もし男爵の狙いがディムナなら、「しばらくここに逗留するから先に帰っていてくれ」といった嘘の言伝が来るものだとネドは考えていた。そしてその言伝が来た時点で、なんらかの手段で城下町への潜入を開始するつもりだった。
だが男爵は教会関係者と知りながら自分たちを招くという。しかしディムナからの言伝に関してはおそらく虚偽。
――何が狙いだ?
まだ判断しきれない、とネドはかぶりを振った。今考えるべきなのは囚われの身となったであろうディムナの救出方法だ。
「誘いに乗ろうと思います」
「現時点で城下町に入る方法がそれしかない以上、致し方ありませんね」
「神父様は如何されますか」
「そうですね……。二人揃って一網打尽は避けたいところです。私がこちらに残れば人狼は手と監視を分けねばならなくなるでしょう」
ネドは頷いた。最悪ディムナさえ救出できれば彼をアングレーズ神父の元へと逃がし、自分だけ領内に留まり、人狼を追えるだろう。
ネドは銀剣を佩き、装備一式を格納した腰袋を巻き付けると、一人宿の外へ出た。
「ルグラン殿。連れが寒さで体調を崩したらしく、私だけのご同道でもよろしいか?」
「ならばなおのこと城にてご養生なされた方が良いように思うが……」
「腹を下したようでして。馬の揺れが辛いなどと言っております。……それとももう数日ここでお待ちいただけますかな?」
「……なるほど。そういうことであればひとまず貴殿だけお連れしよう」
ネドはルグランの手を借りて馬へと跨った。馬の背で揺られながら、思ったよりも簡単に食い下がったな、とネドは考える。
もし男爵の狙いが狩人の一網打尽なら、その部下であるルグランはなんとしてでも二人同時に領へと運んだはずだ。ディムナが馬車で来ていることは知っているのだから、二人を乗せて御者を案内すればいい。片方だけでいい理由とはなんだろう?
男爵の意図も知らず、狩人は見上げるほどの城門を抜け、城下町へとたどり着いた。
道はすでに暗く、人通りもまばらだ。闇の中にぼんやりとレイス城の威容が浮かぶ。
すでに城門の衛兵の監視の目は無く、まだ城からこちらの姿は見えないだろう。
そう判断するや否や、ネドは刹那の内に腰に佩いた二本の銀の短剣のうち片方を左手で抜き放ち、順手に持ち替えると、鎧の隙間からルグランの脾臓を刺した。
グッと声が漏れて、変わらず歩き続ける馬の上で、ルグランが油の切れた歯車のような仕草で後ろを振り返る。
「なぜ……?」
何も答えず、ネドは銀剣を引き抜き、ルグランの亡骸を馬上から引き摺り下ろす。広がる血の臭いに恐怖した馬がにわかに駆け足になる。落馬したルグランの亡骸は彼が絶命するが早いか、鎧の下からその肉体がむくむくと膨れ上がり、夜の闇に紛れる黒毛の怪物へと正体を晒した。聖別された銀剣に刺し貫かれた左脇腹だけが人の皮膚を保ち、そこから流れ出る血が道を汚す。
ぼそぼそとネドの口元が動き、人狼のための祈りの言葉が紡がれた。ネドは腰をずらして、手綱を握り、馬を落ち着かせると、その戦時でも無いのに着けられた大仰な兜を外してやる。
「惨いことをする」
馬の耳は削がれ、焼き潰されていた。人狼たちが連絡手段とする遠吠えを聞いても、恐れて逃げ出すことが無いように処置を施されたのだ。権威を重んじる者、馬上にあることが常の者、騎士が人狼になった時によく取る手段だ。馬鎧は着けずに兜だけ着せるなど乗っている者が人狼ですと自白しているようなものだ。
ネドは馬から降り、二度三度彼を撫でてやると鼻先を城門へと向け、その腹を軽く打った。
「行け」
鼻を鳴らすと馬は駆けて行った。しばらく城門周りで騒ぎを起こしてくれるだろう。その間に城へと忍び込み、ディムナを連れ帰る、と算段を再度思い浮かべ、短剣を鞘へと納め、駆けだそうとした時、城下町の空に遠吠えが響いた。その遠吠えに連鎖するように方々から応答の咆哮が上がる。チッとネドが神父にあるまじき舌打ちをする。血の臭いで一匹殺したことが露呈した。だがこちらにも相手が鼻を使うことを知っている慣れた人狼であること、少なくともあと四匹はこの街に人狼がいる、という情報が手に入った。
城に向かうべきか、それともルグランの死体を釣り餌に他の人狼を葬るべきか? ネドの頭に浮かんだ選択肢を掻き消すように、闇の中、建物の影の暗がりから声が掛けられた。
「神父様、こっち!」
十三、四歳くらいの少女がネドを呼ぶ。少女はわずかにルグランの血がついたネドの着る司祭平服に持っていた液体を吹きかける。花のようだが、あまり上品とは言えないきつい臭いが広がった。少女が手を引こうとネドの義腕を掴み、驚き、手を離した。
「君は?」
「えっ、あっ、話は後! 早くしないとあいつらが来ちゃう!」
今度はネドの左手を掴み、少女が建物の中へとネドを導く。中には他にも十数名の少女がいた。部屋の中には先ほど嗅いだ香水の臭いが充満しており、ネドは思わず顔をしかめた。そんなこともお構いなしに少女は扉を開けても見えないように、部屋の奥へとネドを連れて、カーテンを引いた。簡素な寝床が用意してある。
「す、凄いね、神父様! 人狼をあんな簡単に殺しちゃった!」
「君は?」
「あたしはルシル」
「ここで暮らしているのか?」
「そうよ。ここがあたしたちのお家」
ネドが聞いたのはこの街の住人かという意味だったのだが、ルシルはこの小屋で暮らしているのかと聞かれたのだと思ったらしい。
ネドがカーテンの隙間から小屋の様子をうかがう。狭苦しい小屋だ。一人でいてもそう感じるだろう空間に十人を超える少女がすし詰めにされている。人数分の寝床も収納も見当たらない。全員が横になったら自然と足がぶつかり、体の向きを変える隙間さえ無さそうだ。
「なぜ俺を匿った?」
「だってあのままじゃ巡回の人狼騎士たちが集まってきちゃうじゃない」
人狼騎士。聞き慣れぬ言葉だったが、意味は推測できる。この城下町、人狼街を支配する狼たちをそう呼び表しているのだろう。あるいは人狼たちが自らをそう名乗っているか。おそらく後者だろうな、とネドは思考を巡らせる。
「とにかくここは安全だから。さっき血の臭いも香水で消したし、追って来れないはず」
「……」
これからどうしたものかと考え、何も言わないネドに不安を覚えたのか、少女は一人慌てだした。
「あ、あたしは人狼じゃないよ? これで証明になるでしょ? ここにいる子はみんな人狼じゃないよ」
そう言うと少女は自分の指先に、裁縫用だろうか、針を刺した。ぷくっと血が膨らみ、赤い雫が指と手の平を伝い、床へと落ちた。少女はネドに傷を見せる。血はすぐに止まったが、傷は残っている。人狼であればたちまち塞がるだろう。この子、ルシルは人狼ではない、そして彼女は人狼の特徴をかなり正確に把握している。
城に向かう前に情報を集めるべきかもしれない、とネドは考え直した。少女は「巡回の人狼騎士」と言った。つまり街を巡回出来るだけの数と、交代する要員がいる、と考えていいだろう。かなり大規模な群れだ。
「この街に入って来た金髪の男を見なかったか?」
「見たよ、神父様がさっき殺した奴に連れられて城の中に入っていった」
少女が指を口に含んで唾を付けながら答えた。
「出てくるところは見たか?」
「うん。男爵と一緒にぐるぐる街の中を見て回ってた。神父様の知り合い? あたしは新しい人狼騎士かと思った」
「そんなとこだ。街を見た後は? 城に戻ったのか?」
ネドがそう尋ねると、カーテンの隙間から別の少女が顔を覗かせて言った。
「そうだよぉ、その後は出てきたところ誰も見てないってぇ」
どうやらディムナは男爵と接触することには成功したらしい。今は城の中にいると見て良さそうだ。
「この街に人狼が何匹いるか分かるか?」
「『我ら九人の人狼騎士』ぃ~、って良く言ってるよぉ」
カーテンから頭だけ出した少女がにこにこしながら語る。ルシルがその頭を撫でてやる。
「おばかさんのミーシャ。向こうでみんなと遊んでおいで」
「はぁ~い」
ミーシャと呼ばれた少女はにゅっと亀のように首をすぼめると、くすくす笑いながら他の少女たちの元へと行った。
「九人の人狼騎士……」
「騎士団長のバザンって男がそう名乗ってる。騎士たちの前で良くあいつが演説してるの」
「人狼騎士とはなんだ?」
「騎士の中で特に優れた者に人狼騎士となる名誉を与える、ってバザンはけしかけてる。人狼は前まで数人だったのにどんどん増えて九人になった。でももう八人だよ、神父様がさっき一人殺したもの」
「いや、今が九人だ。男爵がいるだろう」
「あ、そっか」
「内訳、……だれが人狼か分かるか?」
「うーん、ごめんなさい。団長のバザンと、さっき死んだ客引きのルグランぐらいしか知らないの。変身する瞬間は見た事ないから、騎士のうちだれが人狼かまでは分からない。あ、でも男爵が人狼なら、男爵の護衛だって人狼よね? いっつも後ろをついて回っている護衛がいるの、背の高い金髪の男」
役職持ちは城内で勤めていると考えると、数匹は城の中に人狼がいると想定するべきか。
「ありがとう、助かった」
ネドは少女のために祈ると、立ち上がり、カーテンに手をかけた。
「ちょっと! どこに行く気!?」
「連中はもう狩人が城下町に潜入したことに気付いている。警戒し、二人一組の警備体制を取るはずだ。風向きにさえ気を配れば城に近づける」
「人狼以外の騎士だって警備してるんだから無理だよ!」
どうやら騎士の多くは男爵に従っているらしい。この少女のように狩人を匿って情報提供、協力してくれるはず、と考えるのは楽観的すぎるようだ。
「城への抜け道を知らないか?」
「無いよ、そんなの! ……ルグランを殺さないで城まで案内させた方が良かったんじゃないの?」
それだと武器を没収されてしまう。その時点で殺される可能性もある。かと言ってこのままネドが姿を現さなければ、男爵はディムナを殺すと脅して引きずり出そうとするだろう。
「ねえ、神父様……」
「なんだ?」
今夜のうちに城へと忍び込む方法を考えるネドにルシルが真剣なまなざしで話しかける。
「人狼を全員殺す、って約束してくれるなら、なんとか見張りの目を逸らしてみる」
「……それは君が危険なんじゃないのか?」
「神父様を匿ったことがバレなければたぶん大丈夫。この街ではみんなやってる珍しくない方法を使うから」
ネドは黙り、考える。ルシルは人狼を憎悪している。ネドを匿うという行動からも明らかだが、なにより人狼のことを語る時の表情がネドの良く知る女性と酷似している。それにこの少女はこの街の事情を自分よりもよく知っているように見える。信頼できる協力者だ。
「分かった。この街の人狼はすべて殺す。約束しよう」
「……うん。約束ね。嘘ついたら地獄行きなんだから」
年相応の子供らしい言い回しにネドは微笑した。
「ああ。分かっている」
「そうよね、神父様なんだものね……」
じゃあ行きましょうか、とルシルが扉を少し開けて、外の様子を確かめてから言った。ルシルが声をかけた数人の少女とネドが彼女の後ろに続く。
街の中心に対して風下を通ることを意識し、駆り出されてきた騎士たちの監視の目をすり抜けるように移動する。城の入り口が見えるところまでたどり着くと、ルシルはネドに困ったように話かけた。
「門が閉まっちゃってる……。神父様、ごめんなさい、あれじゃ入れない……」
「いや、問題ない。俺が側面に回り込んだら門の前にいる二人の注意を引いてくれ」
そう言うとネドは腰袋の下に折り畳み繋ぎ止めていたクロスボウを組み立てて、普段毒を塗る物よりも二回りほど大きい特殊な矢を取り出した。尾の部分には鉄製の輪っかが一体となっている。
ネドは足音が立たないように、しかし素早く闇の中を駆ける。右腕をルシルに向けて二度振った。白い手袋がかすかにチラつき、ルシルが頷く。ルシルは自身と同い年か少し年下くらいの少女たちを連れて、門番の男二人の元へと駆けて行った。男たちがにわかに警戒するがそれが年端のいかない子供だと分かると緊張の糸を解いた。
「なんだお前たち、自分の寝床に帰れ」
「そう仰らないでくださいまし。あたしたち人狼騎士様の亡骸を見てしまったんです……。もう怖くて怖くて……」
猫撫で声のルシルがすすっと門番のうち一人の男に近づくと、自らを抱き寄せさせるために手を取り、自身の細腰へと導いた。
ネドは腰袋から取り出した投げ鎖の端を矢の輪っかにかけ、弦を巻き上げる。
「お前たち、娼婦小屋の……」
「男爵様のご配下の方が共寝してくだされば、この震えも収まると思いますの……」
ルシルの手が鎧の隙間から、男の腿を撫であげる。他の少女たちももう一人の門番にまとわりつき、しなだれかかっている。
分かってはいた。
狭苦しい小屋のあのカーテンで区切られた寝床で、ルシルやミーシャ、他の娘たちは兵士を含めた街の男を客に取って暮らしている。
少女たちが門番二人の手を引いて持ち場から引き離した隙を見計らって、ネドは城の壁上部に向けてクロスボウの引き金を引いた。太い矢が射出され、じゃらじゃらと鎖を引きながら、壁へと突き刺さった。ネドは左手で鎖を数度引っ張り、矢が抜けないことを確かめる。壁に足を掛けて闇の中を鎖を引くように登る。登り切った門の上から身を屈めて見張りの姿を確認すると、ルシルたちを追い払ったところだった。
「……惜しいことしたかな」
「莫迦言え。こんな時に持ち場を離れてみろ。お前が人狼騎士たちの明日の朝飯だぞ」
「だよなあ……」
ネドは鎖を巻き上げるように回収し、門の内側へと垂らし、今度は鎖を伝って降りた。出来るだけ影に隠れるように壁際に寄せて鎖を隠す。城内に潜入は出来た。しかし、ディムナがどこにいるかまでは分からない。
その時城の扉が開いた。ネドは咄嗟に物陰に姿を隠し、息を潜める。
「閣下! 今、外に出るのはおやめください!」
神経質そうな男の声が響く。
「なぜだね? せっかくご客人がいらしたというのに、出迎えも無しでは失礼ではないか」
鷹揚として答えた声の主は、幽鬼のように顔色が悪い。ジギタリス・ド・レイス。目的の、この人狼街の長であろう男の姿を見つけ、ネドの左手が思わず背中の銀剣に伸びる。
男爵の後ろには、ルシルの言ったとおりに大柄な護衛の男が何も言わずに付き従っている。三対一。それに騒ぎを起こせば他の人狼だけでなく、衛兵もやってくるだろう。ここで仕掛けるのは無謀だ。ネドが左手をゆっくりと下ろした。
男爵の返答に、騎士団長バザンは一瞬瞼を閉じ、考えを巡らせると口を開いた。
「……狩人が閣下のご期待に適うような人物であれば、必ずやこの包囲を抜け、閣下の元へたどり着きましょう。そうなれば私めも彼の者を人狼騎士の末席に加えること、異存はございません。これは言わば試験なのです。閣下はその試験のゴールなのですから、ふらふらと歩き回られては困ります」
男爵が顎の青髭を擦って、かすかに笑った。
「今日は珍しく口が回るじゃないか、バザン。分かった、今回は説得されよう。だが私の元に狩人がたどり着いたならば新たな人狼騎士とする、その言葉忘れるなよ」
「私めが閣下とのお約束を違えたことが一度でもありましょうや」
「ふふっ、お前のそういう都合の悪いことは忘れてしまうところが愛いというのだ。コルネイユ、バザンに付いて狐狩り、いや狼狩りを手伝ってやれ」
「はっ」
護衛の男が低い声を短く発し、礼をした。
「私は礼拝堂にいる。出るまで誰も入るな。そして、バザン」
青髭が愉しみでたまらないとでも言うように、不気味な笑顔を闇に浮かべた。
「ご客人を歓迎して差し上げろ。存分に、な」
「承知しております、閣下」
部下と別れ、礼拝堂へと向かった青髭の後ろをネドが闇に紛れて尾行する。
男爵が礼拝堂の扉を開け、中へと入ったことを確認すると、足音を殺し、ぴたりと扉横の壁に身を寄せた。左手で背中の銀剣を抜き放つ。柄の鍔に最も近い部分を右手の銀腕の手の平に乗せる。左手で小指側面にある竜頭を巻き上げると、ギチ、ギチチと金属の擦れ合う音が響き、ゼンマイ仕掛けによって、義手の右手の指が握りしめられた。
絶好の機会だ。一人になった男爵からディムナの居場所を聞き出す。男爵の手足を銀剣で切り落とし、人質にして門を開けさせ、ディムナと共にこの街を出る。用済みになった男爵は殺して神父様と合流し、教会に連絡し、レイス領を即時異端審問の対象とする。それでこの獣害事件は終わりだ。
ネドがまるで隙間風のごとく、わずかな音だけ残して、滑るように礼拝堂に入る。
礼拝堂の内部は絢爛と言って遜色ない豪奢な造りだった。丸太のように太い削りだしの石柱が高い天井を支えている。天井には主神が天使と聖人を従え、人を完全に救済する約束の日の聖画が描かれている。聖堂の祭壇の周りには無数の燭台に火が灯っている。そのいずれも主の好む銀によって出来ており、その輝きたるやその上で揺らめく火そのものにも劣らない。
大理石で出来た床をネドが歩む。そのたびにコッコッと司祭用の革靴が音を立てる。祭壇の前に跪いて祈っていた男爵が瞼を持ち上げ、立ち上がり、振り返り、その瞳の内に司祭服姿の狩人を映した。
くっくっ、と青髭がこらえきれないとでも言うかのように笑った。
「すでに侵入を許しているとは。バザンめ、赤っ恥だな」
「……」
ネドは何も言わず、答えず、銀剣を頭上へと振り上げた。
「ようこそ、我がレイスへ。私の名はジギタリス・ラヴォラス。ご友人を人質に取ってでも貴方にお願いしたきことがあった故、このような手段を取った非礼をお詫びいたす。貴方に――」
聞かなくていい。まずは両腕を斬り落とす。一歩踏み出そうとしたその瞬間、
「――私の懺悔を聞いていただきたい」
ぴた、とネドの動きが止まった。罠だ、嘘だ、殺せ、と叫ぶ己の中の狩人を鎮めるために深く息を吐く。振り上げた銀剣を下ろし、竜頭の締めを解き、背中の革鞘へと納めた。
礼拝堂の片隅に設けられた飾り彫りの成された懺悔室にネドは男爵に促されるまま、ほとんど同時に足を踏み入れる。二人の間を深紅のカーテン一枚が阻み、お互いの姿は見えなくなった。
「神父様、お名前を伺っても?」
「ネド、ベネディクトゥス・アングレーズ」
「良いお名前だ。ネド神父とお呼びしても?」
「お好きなように。……さあ、男爵。あなたの罪を告白なさい」
カーテンの向こうで、男爵が不満げに唸った。そうでは無い、とでも言うように。
「私のことはどうかジギタリスと。主の前では身分など服に過ぎません。私は、貴方の前で裸でいたいのです……」
「……ジギタリス、君の罪を告白なさい」
ああ、とカーテンの向こうで喜色に満ちた吐息が上がる。
「しかし、神父様、この身はあまりに罪深く。何からお話申し上げたらよろしいのか――」
「君の覚えている初めから」
「ああ、私の全てを聞いてくださると。受け入れてくださると。なんと慈悲深い――。ではお話させていただきます」
ちらと懺悔室の椅子に腰かけるネドの脳裏に、消し切れなかった狩人としての疑問が浮かぶ。
時間稼ぎか? だとしたら、今すぐにでも斬り捨てて――。
だが、男爵の、否、男爵になる前も含めたジギタリスという男の、自らの罪に満ちた半生を語る最初の一言を聞いて、ネドの意識はカーテンを一枚隔てたすぐ目の前の告解者へと引き戻された。
「初めて人を殺したのは七つのころでした――」




