青髭
翌朝、ルグランが迎えに来る前にネドはディムナにクロスボウを手渡した。以前借り受けた物とは違う。金属部分の輝き、使い込まれていない角ばった感触からして新品だろう。
「予備として作っておいてもらったものだ。お前にやる」
「持ち込めるかな?」
「鞄の底の方に入れておけば案外バレないんじゃないか?」
そうかなぁとディムナは不安げだ。
「私からはこれを」
アングレーズ神父がディムナに革製の筒のようなものを渡す。中身を確認するといくつかクロスボウの矢が入っている。矢筒だ。中に入っている矢は銀製であり、聖別を受けた銀特有の青白い燐光を放っている。
「ありがとうございます、神父様」
「礼ならネドに。用意すべきだと言ったのはこの子ですから」
「ありがとうな」
「すまん。これくらいのことしかできない」
「謝るなよ。充分すぎるくらいだ」
「分かっているとは思うが聖別銀は人狼の肉体を一時的に人間のそれに戻すものだ。この銀の矢は人狼の肉体さえ貫通する。以前使っていた毒矢ならどこに当てても良かったが、これは急所に当てないと致命傷にはならない。お前の腕なら当てられると判断した。だが――」
「使わないで済むように立ち回るのがベスト、だろ?」
「ああ」
「なんとか二人を城内に招いてもらえるように男爵を説得してみるよ」
「もし丸一日経ってもディムナ殿が戻られず、何の知らせも無いようであれば、ネドをなんとかして城下町に潜入させます。私はここで教会本部と連絡役をしておりますので、城内から知らせを送るのであればこちらに」
「はい、神父様」
宿の外に出て、馬の世話をしていた御者に声をかけ、なにかあれば二人に従うように伝え、ディムナはルグランが手綱持つ馬の背に乗った。馬の顔には馬用の兜が被せてあり、顔のうち目の周りだけがその肌を外気に晒している。戦時中でもあるまいに大仰なことだ。
馬上で揺られながら、ディムナは思う。あるいはもしかしたら、男爵とその配下たちにとってはまだ戦いは終わっていないのかもしれないと。
森を切り開き、人力で均された山岳の頂に、王冠のごとくレイス城はその威容を誇っている。
上り坂、進軍速度の遅れた状態で、高所から一方的に撃ち下ろされる矢や弾丸は敵にとって脅威となるだろう。
守り易く攻め難い。かつては勇名を欲しいままにしたかの皇帝率いる軍隊を返り討ちにしただけのことはある。
馬上に乗ったディムナでさえ見上げねばならないほどの石壁が侵入者を拒むかのようにそびえ立つ。ルグランの姿を確認した見張りが合図をすると城下町の門が開く。これだけの防護壁が城下町の外郭でしかない。城の守りはどれだけ堅牢なのだろう。
子供の声が聞こえた。
追いかけっこでもしているのだろうか。五、六人の子供たちがきゃっきゃっと声を上げながら走り回っている。
客を呼び込む市場の声、子供たちの母親だろうか若い女性たちが集まってする噂話。ディムナは活気のある街だ、と思い、微笑み、そして気付く。これが戦争に敗れた国の姿か? 以前訪れた戦勝国のとある街よりもよほど活気に満ちていて、人々の笑顔がある。
「どうかされましたかな」
ディムナの様子を察知したのか、ルグランに声をかけられた。
「いえ、その、失礼ながら、もっと暗い雰囲気の街を想像していたものですから。面食らってしまいまして」
「他の街、特にランドールとの国境沿いなどは未だ復興の最中と聞いておりますが、ここは直接攻め込まれることはありませんでしたからな。戦争に息子を取られた母親はおりますが、ほとんどの者は戦とは直接関わること無しに幸福に暮らしています。物の値段が上がったことに文句を言う者は絶えませんが」
ははは、とルグランが明朗に笑う。
「それもこれも男爵閣下のご統治の賜物ですな」
笑い声を聞きながら、ディムナはふと視線を感じてそちらを見遣った。少女がこちらを見ていた。歳の頃は十三、四だろうか。質素な麻の服を纏った四、五人の少女たちがルグランを、ディムナを、じっと見つめていた。その少女たちの虚ろな瞳はディムナに見返されていることに気が付くと逸らされ、その後ばらばらに去って行った。
――なん、だったんだ?
今なお聞こえる子供たちの笑い声を背に、ディムナは城へと乗せられ行く。ほんのついさっきまで活気に満ちて聞こえた人々の声が、あの少女たちの瞳を見た後では、まるで空虚に聞こえて仕方が無かった。
ディムナが馬から降りると、ルグランは手綱を馬子に手渡し、城内へと導いた。
クロスボウの入った荷物は使用人に渡さざるを得なかった。抱えたまま男爵に会うわけにもいかない。
先触れがあったのだろう、ディムナが応接間に通されると、その豪奢な内装をゆっくりと見る間も無く、男爵が姿を現した。ディムナは椅子から跳び上がるようにして立ち上がる。
「よく、いらしてくださった。私はジギタリス・ラヴォラス。ようこそ、このレイスの地へ」
「お、お初にお目にかかります、閣下。ディムナ・マック・グレオール、です」
低くゆっくりと紡がれる壮齢の男の声。差し出された白い手を緊張で汗ばむ手で握り返してから、ディムナはようやくその声の主を見た。頬骨の浮かぶ細面、白髪の混じった縒れた黒髪を撫で付け左右に分けて垂らしているため余計に顔が小さく見える。あだ名の通り色の白い肌には口回り、顎、顎と繋がる首回りをまるで黴のように青髭が覆っている。
骸骨に白色の薄皮でも被せたらこの男の顔が浮かぶのではないか。同じ武人でも父のような体格の良さは無い。
幽鬼のようだ、とディムナは思った。
男爵の後ろには護衛だろうか背の高い男が立っていた。こちらは一目見て兵士だと分かる。筋肉が騎士鎧を押し上げんばかりに主張している。
「ディムナ殿はお昼は召し上がられたかな?」
「い、いえ、まだです」
「それは良かった。実はいらっしゃると聞いてシェフに用意させていたものだから。食堂へご案内しよう」
男爵の顔色は悪い。不気味でさえある。だがその表情は、口調はとてもにこやかでディムナを心の底から歓迎していることが伝わってくる。邪魔者を排除しよう、などという悪意は欠片も見えない。それとも彼も貴族らしく本心を隠す術に長けているだけなのか。
ディムナは男爵の意図を計りかねたまま、これまた広く豪奢な食堂の席に着く。大食堂と呼ぶ方が相応しいだろう。天井からはシャンデリアが吊るされ、信じられないほど広い床は一面、一枚の絨毯によって覆われている。長いテーブルには真白なクロスがかけられ、食器は銀製だ。男爵は最奥の席に腰掛け、そのすぐ横の席をディムナに勧めた。護衛と思しき男は部屋の入り口で扉を背に立っている。
「豚はお好きかな?」
「は、はい……」
「なら良かった。と言っても牛か豚しか無いのだが」
「鹿もございますよ、閣下」
いつの間にやら現れたコック姿の大柄な男が、男爵に耳打ちする。くすり、と男爵が笑った。
「ふふ、悪い冗談だ……。豚にしてくれ」
注文を受けて、コック帽をかぶった男は恭しく礼をすると厨房へと向かったのだろう、隣の部屋へと姿を消した。
暫しの沈黙があり、ディムナは意を決して口を開く。
「閣下、男爵閣下。お手紙拝見いたしました。その、『獣害』が発生したと――」
しかしディムナの言葉はそこで遮られる。男爵が唇にそっと人差し指を当てて、身を乗り出したディムナに着席を促す。
「ディムナ殿はお若い。血気に逸る気持ちは私にも覚えがあるが、今は食事を待とうではないかね。仕事の話ならその後でゆっくりと」
「そう仰るなら……。『殿』というのはどうかお止めください。閣下に比べれば僕など若輩もいいところです」
「ではディムナ君。ふふ、かつてあれだけ辛酸を舐めさせられたグレオール卿のご令息をそんな風に呼ぶ日が来るなど想像だにしなかった」
先の大戦よりも以前、ディムナが生まれるよりも前に男爵とディムナの父は戦場で出会っている、と聞いている。そのいずれもでディムナの父はレイス男爵率いる軍勢を打ち負かしている。だが、どの戦場でもその隙に男爵の友軍が目標地点を制圧ないしは破壊しており、最終的な戦局で見れば勝利を収めていたのはブランシアだった。散々足止めさせられ、挙句討ち取ることも叶っていない。辛酸を舐めさせられたのはグレオール卿も同様である。
運ばれてきた豚肉のポワレを前に、男爵が十字を切って祈りを捧げた。ディムナも後に続く。
豚肉は柔らかく、そして甘い。料理人の腕が良いだけではない、素材も十分に吟味されている。実家では粗食、といっても一般市民からすれば十分すぎるほどに豪華で手が込んだ料理だが、が多いので、こうした正しく美食と評するに値するものを口にしたのは久しぶりだった。思わずディムナの口角が上がる。
「領内で育てさせた豚でしてな。南方より輸入したトウモロコシを飼料としているとか」
「この甘味はトウモロコシによるものですか……。とても美味しいです」
「お気に召していただけたなら何より。食事を終えたら、城を案内させていただこう。ディムナ君のために部屋も用意させた。お預かりした荷物もそちらに運ばせてある」
舌鼓を打っている場合では無かった、とディムナは自らの使命を思い出す。明日の朝までにアングレーズ神父に連絡を入れねば、ネドが潜入する手筈になっているのだ。
「閣下、実は僕には今回二人の同行者がいるのです。事件解決のお役に立てると思い、勝手と知りながら依頼したのです」
「ほう。その方たちはどちらに?」
「モードナの街で待ってもらっています。よろしければ彼らにも入城の許可をいただけないでしょうか」
「そうだったのかね。ディムナ君のご友人ということであれば無論歓迎しましょう。ルグランめ、まったく融通の利かない男で、申し訳ない」
頭を下げる男爵にディムナは慌てる。
「お、お止めください。僕がご招待の返事を申し上げた時にご連絡しておけば良かっただけのことなのです。ルグラン殿はご自身の職務を全うされただけです」
「そう言っていただけるのであれば……。すぐにでも迎えを出しましょう」
「ありがとうございます、閣下。……ところで僭越ながらお聞きしたいのですが、なぜ城下町へ入ることを許可制になさっているのですか? 出入りを自由にした方が貨幣がより流動して経済が発展すると、僕などは考えるのですが」
「自由に出入りを許すと難民が無制限に入ってきてしまうのでね。各地で発生している彼らすべてを受け入れることはこの限られた土地では出来ない。無理に断行すれば街は浮浪者で溢れ、犯罪が横行し、その対策に手を取られて本来別の事業に回せるはずだった人手と金を捨てることになる。恥ずかしながら、この非才の身では万人を救うことは出来ぬのだよ」
謙遜も過ぎれば嫌味だ。ディムナの見立てでは城下町だけで三万人は暮らしている。レイス領全体では五万を超えるだろう。彼はそれだけの人間に暮らしていけるだけの警察機構と司法、その他公的機関を提供している。
「経済についてはこの城下町の内でだけ使える使用期限付きの紙幣を発行している」
期限付きの貨幣ならタンスの中に貯めこんでも意味が無い。「腐る」お金だからだ。人々は期限の迫ったお金を積極的に使う。確かにそれなら閉じられた社会の中でも流動性を保証できるだろう。だが同じ金額の紙幣でも、使用期限の長短により価値の違いが発生することになる。お金の価値が一定でないなら品物の購入のたびにそのすり合わせを行わなければならない。それは管理の複雑化と呼ぶ以上に原始的な物々交換への回帰だ。小規模な共同体でならある程度の効果も見込めるだろう、だが国家規模では実現不可能だ。
ディムナの頭に疑問が浮かぶ。この街の規模で運用可能なのか? そして何より、独自通貨の発行という言葉の響きに潜む不穏さ。男爵はブランシアからの独立を考えている……?
レイス卿はディムナの疑問を見透かすように含み笑う。
「興味がおありなら、ご友人がいらっしゃるまでの間に、城下町もご案内いたそう」
「よろしいのですか?」
願っても無い申し出だ。城内、そして城下町を見て回れるなら人狼の痕跡を探せる。仮に見つけられなくても後からやってくるネドに情報をスムーズに連携できる。
しかし、では男爵には人狼を隠そうという意図は無いのだろうか。彼は人狼ではない? 本当に領内に発生した人狼を退治したくて自分を呼んだだけなのか? ディムナの疑問は増えるばかりで、いまだに解を得られる気配はなかった。
「子豚は最小限の母乳を与えたのち、母親と引き離す」
レイス城内を見て回り、男爵自慢の礼拝堂を見学した後、城下町内でも畜産をおこなっていると聞き、借りた馬の轡を並べてその牧畜区画へとやって来た。そこにあったのはディムナの想像していた「牧場」とは異なるものだった。
厩舎の中、鉄製の柵で区切られた檻は豚の成獣よりもわずかばかり大きいに過ぎない。豚たちはほとんど固定され、自力では体の向きを変えるどころか身動き一つ満足には取れない。豚たちに出来るのは目の前にただ垂れ流される飼料を食べるか、膝を折って眠ることだけだ。
「そうすることで母親は子を忘れる。母乳を出さなくなり、またすぐに孕めるようになる」
酷い臭いだ。豚の垂れ流した排泄物が檻の中にそのまま放置されている。本来綺麗好きな豚が毛繕いすることもままならぬまま、便所と一体となった寝床で暮らしている。大きく育ちすぎた個体は体に鉄柵が食い込むのか血を流し悲鳴を上げる。そうなれば檻から解放されて一時間後には食肉として出荷される。
「閣下、これは……」
「残酷だと思うかね? だが先程私と君が食べたポワレはこうして作られたものだ。そしてこれは珍しい飼育方法では無い。ブランシアでも、フロージエンでも当たり前のように行われている手法だ」
「……あまり見ていて愉快な物ではありませんね」
「そうだろうとも。だから今の貴族は、いや貴族に限らず畜産に携わる者以外の全ての者が、見て見ぬ振りをしている。振りを続けているうちに認識さえできなくなってしまった、我々が口にする全てはかつては命だったということを。私は幼い頃、よく祖父に言われたよ、『お前が何を殺して生きているかを実感しろ』とね」
そう言われてしまっては豚から目を逸らすことも出来なかった。もちろん男爵はディムナを責めているわけではない。ディムナ自身にも分かっている。それでもこの胸に湧く罪悪感は如何ともし難いものだ。
「豚と牛の厩舎は見せていただきましたが、鶏舎が無いのは閣下がマーナ=ベル教を信仰していらっしゃるからですか」
「ああ。城下町の内では飼育を禁じている。だが食さないのは私個人の信心に過ぎない。ディムナ君が鶏を食おうとも私は文句を言ったりはしない、安心してくれ給え」
マーナ=ベル教には、「二本足の生き物を食べてはならない」とする食の禁忌がある。だから聖職者や特に信心深い信徒は鶏を含む一切の鳥肉を口にしない。ネドとアングレーズ神父も同様だ。だがマーナ=ベル教は国教として多くの近隣諸国に認められていながら、この教義を忠実に守る者は少ない。
「塀の外の領内に関しては黙認しているがね。鶏ほど効率の良い家畜は他に無い」
男爵の言葉通り鶏ほど効率の良い家畜はいない。鶏は毎日卵を産む。牛や豚をそんなペースで殖やすことは出来ない。数が増えすぎたとしても、容易に食肉に出来て、羽も利用できる。卵の状態でも火を通せば食べられる。人が最も食べている動物こそが鶏だ。
だから人々は、時には聖職者自身が、マーナ=ベル教のその教義を誤魔化すために色々な方便を使い分けた。卵のうちは足が無いから食べても良い。飛んでいる鳥は足を使っていないから撃ち落とした鳥は食べても良い。足が地面についていなければ良いのだから首を吊って殺した鶏は食べても良い。そもそも足を一本切り落としてしまえばどんな鳥でも食べて良い。
このように抜け道ばかりが考えられ、形骸化し、今ではこの教義を守っていると言えば驚かれるほどだ。
ディムナは常々なぜマーナ=ベル教はそんな非合理な教義を掲げているのかと疑問に思っていたが、人狼に出会い、狩人に出会い、その疑問は氷解した。教義に掲げられる「二本足の生き物」とは鳥のことではない。人間のことなのだ。
この教義は人狼許すまじと言う教会の宣言なのだろう。
「などと言ったが――、実はすべて本からの受け売りなのだ」
「は?」
男爵が唐突に笑い混じりに言った言葉に思わずディムナは聞き返す。
「豚の管理の仕方も、鶏が家畜として効率が良いというのも、もっと言えば城での難民と貨幣の話も。実のところ私は聞きかじった程度にしか理解しておらん。私は戦場しか知らない。私は人を殺した数以外に誇る物の無い男なのだよ」
城へと戻る道すがら、馬上で男爵はディムナに語る。
「領内の仕事のほとんどは部下の騎士たちが手分けして執り行ってくれている。だから私はこうしてご客人と遊んで、失敬、歓談していられるわけだ」
「……それほどに優秀な方が集ったのは閣下ご自身のご人望に依るものではありませんか?」
「ああ、そうだね。部下たちも私の誇れるものだった」
この男爵には不気味な雰囲気がある。はっきり言って病的な外見だ。だが話すほどにその礼儀正しさ、謙虚さ、裏表を感じさせぬ人柄に惹かれていく。それに加えてわずかばかりの黒星を除けば無敗に近い戦績という栄光。兵士たちが皇帝よりも臨時政府よりも彼を慕う理由の一端をディムナは見た気がした。
城へと戻ると一際ガタイの良い切れ長の目をした騎士が男爵を礼で迎え、何事か耳打ちした。男爵がディムナに笑いかける。
「これは騎士たちをまとめているバザン。バザン、こちらはディムナ・マック・グレオール君。私の招待に応じわざわざフロージエンからお越しくださった」
切れ長の目をした神経質そうな男はディムナを上から下までさっと眺めると礼をする。
「騎士団の長を仰せつかっております、バザンと申します。……閣下、そろそろ本題に入られるべきかと」
「それもそうだな。……ディムナ君、私は君に謝らねばならない。君を呼んだ理由は、嘘だったのだ」
「嘘? 獣害事件は発生していない、ということですか?」
男爵が頷く。
「私は君と話をしてみたかったのだよ」
「……なぜそのようなお戯れを?」
「君が二度人狼を討伐したと耳にしたからだ。一度目は君の母国で、二度目はランドールのカルローで」
噂話が伝わったのだろう。正確な情報では無い。ディムナ自身の認識としてはどちらも自分は狩人の後ろについて回っていただけだ。俺はあいつの、ネドの役に立てているのだろうか? あの義肢装具士のイアンのように。ディムナの沈みかけた思考を男爵の言葉が打ち砕く。
「だが、……君では無いね?」
「……はい。ご想像の通りです」
その返事に、ハッと嘲笑が浴びせられた。
「ですから申し上げたはずです。五匹もの人狼を殺し尽くした人物が、戦場から逃げ出すような腰抜けであるはずがない、と」
騎士団長バザンの言葉には隠そうともしないディムナへの嘲りが込められていた。
「ルグランから報告が上がっています。この男の同行者の司祭のうち一人が義手を身に着けていたと」
「おお! ではその者が『銀の腕の狩人』かね?」
それまでとは異なる高揚した男爵の嬉しそうな声に、ディムナは得も言われぬ不気味さを感じて、一歩後ろに下がった。何かにぶつかる。後ろを見上げると、男爵の護衛のあの背の高い男が立っていた。
「気になっていたのだよ、人狼に遭って生き残った者が時たま口にする『銀の腕の狩人』のことが。人間からは聞くのに、この領で匿ってやった人狼たちは誰一人知らぬという――。それはつまりその人物は今まで出会った人狼の悉くを殺してきたということだ。一匹の例外もなく。まさしく死神だ。行き遭えば必ずや死ぬ不吉なる人狼にとっての、狼!」
逃げ出そうとしたディムナの前で護衛の男が姿を変える。
全身を覆う黒く太い体毛、犬のように長く伸びた鼻先、頬まで裂けた口から覗く血のように赤い長い舌と鋭い犬歯。人間の体躯をゆうに二回りは超える巨躯。人狼がそこにいた。着ていた騎士鎧が内側から膨れた肉に押し上げられて、ミシミシッと音を立てる。この状況に不相応にもディムナは先程見たばかりの鉄柵に肉の挟まった豚の姿を思い浮かべた。
「おお、殺してはならんぞ、バザン。彼には『狩人』を招くまでの間、ここにいて貰わねばならぬのだからな」
「男爵、あんた――」
ディムナは逃げ出すことの出来ぬ状況で男爵へと向き直り、睨む。男は笑っている。幽鬼のように嗤っている。
こいつら、全員人狼だったんだ。ここ、レイス領は人狼の支配する街、――人狼街だった。
「閣下、別に今ここで殺してしまっても狩人は来ると思いますが?」
「それでは勿体ない。狩人にディムナ君を振舞うか、彼と共に狩人を味わうか、私はまだ決めあぐねているのだから。片方を殺してしまってからでは取り返しがつかぬでは無いか」
男爵の言葉に、ディムナに一抹の疑心が芽生える。先程食べた昼食、豚肉と言って出されたあの肉、果たして本当に豚肉だったのか――?
思わず口を押さえたディムナを男爵が嗤った。
「心配せずともあれは豚肉だよ。味で分かるだろうに。それに私はヒトを食べるのは朝と決めている。その方がその後一日を過ごすための活力となるだろう……?」
青髭が、顎を、あだ名の由来となったそれを、親指と人差し指で擦りながら笑う。薄紫の唇の隙間から骨のように白い歯が覗いた。
「連れていけ。あの老人と同じ部屋に放り込んでおけばいい。あれも話し相手がいた方が退屈せんだろう」
騎士団長がそう命じると、護衛の男は人の姿へと戻り、ディムナの右腕を後ろにねじりあげて歩かせた。
「ぐっ!」
「ではごゆるりとお過ごしください」
苦痛に顔を歪めるディムナに騎士団長が大仰なほどに恭しく礼をした。明らかに侮辱の意図が込められている。
浮かれた調子の男爵の声がディムナの背中にかけられる。
「丁重に扱え、なにせ大切なご客人を招くための、――餌なのだから」




