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狼たちを殺すには  作者: mozno
第二章 人狼街編

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14/32

レイス領へ

 グレオール領の北部には急峻な雄峰が群れを成すようにそびえ立つ。

 雪冠を頂いた山頂から平野へと吹き降ろされる北風は冷たく、乾いている。雪は滅多に降らない代わりに、肌を裂かんばかりのおろしがこの地方の冬の特徴だ。

 ディムナ・マック・グレオールは体を縮こまらせ、両手を擦り合わせながら、屋敷の廊下を歩く。

 綺麗に切りそろえられた金髪が揺れる。防寒用の襟と袖口に毛皮のついたローブのわずかな隙間から色の白い肌が覗く。貴族の肖像画にあるような恰好で、とても彼の趣味ではない。乳母がどこからか引っ張り出してきたのだ。

 ディムナは今、かつてあれだけ疎んだ彼の生家で寝起きしていた。

 というのも数週間前にとある街で発生した「獣害」事件の報告書の製作に追われていたからだ。事件解決後、実家に戻り父への報告を終えたディムナは以前と同じように警邏の仕事に戻るつもりでいた。獣害対策、すなわち人狼退治なんて、あんな危険なことは俺には向いていない。前回は巻き込まれ、そして成り行きで同行したに過ぎなかった。――あの「狩人」との出会いは劇的でこそあったが。だがディムナの周囲はそう思ってはいなかったようだ。事件解決から数日後、日も暮れようかというときに屋敷に客人が訪れた。黒い司祭平服カソックを身にまとった小柄な白髪の老人、老司祭アングレーズ神父は応接間でディムナに教会の印の入った用紙を取り出して言った。

「ディムナ殿。申し訳ありませんが先の事件についてのご報告を伺えますかな。普段であれば私が書くのですが、前回私は同行しておりませんでしたので」

「それは構いませんけど、ネドはどうしたんです? あいつの方が慣れていると思いますが……」

「ネドは別の人狼退治に向かいました」

「はあ!? まだ一週間も経ってないのに?」

「戦争が終わってからというもの人狼の数は著しい増加傾向にあります。過去最高と言ってもいい。おそらく当代の『狼の司祭』はかなり積極的な人物なのでしょう。人狼は『狼血』を体内に取り入れさえすれば誕生しますが狩人はそうはいきません。過酷な訓練を積んで、それでもなお人狼と相対すれば生き残るには運が必要となります」

 そして幸運にも生き残り続けた狩人でさえ、いずれ加齢によって戦えなくなる日が来る。人狼は老いてなお人を喰い続けるというのに。

「銀の剣はどうしたんです? 前回の戦いで折れたはずですが」

「鍛冶屋のご主人が予備をご用意してくれていたようでして。私が聖別を行うや否や飛び出していきましたよ」

 仕事熱心なことである。実家でだらだらとチョコレート片手に過ごしていた自分とは大違いだ、とディムナは呆れ半分、感心半分で嘆息した。

「と、いうわけで、申し訳ありませんがご協力をお願いいたします」

「まあ、そういうことでしたら……。今日はもう遅いですから是非泊まっていってください。家の者に部屋を用意させますので」

「ありがたい。あとでお父上にもご挨拶させていただかなくては……」

 まあ、一日あれば終わるだろう、とディムナは呑気に考えていた。翌日、自分宛てに封書が届くまでは。

 翌朝、家人が持ってきた郵便物の封書の中身を改めて、ディムナは眩暈がした。そしてアングレーズ神父がこの家に居合わせたことをろくに信じてもいない神に感謝した。封書の内容は「獣害対策の専門家」に対する救援の要請だったからだ。差出人は名前を聞いたことはある、顔も知っているが直接話したことのない領地持ちの貴族だった。手紙の前半分は急な手紙を出したことによる謝罪に占められていた。

 手紙を検めた老司祭が顔を上げて、老眼鏡を外して言った。

「やはり来ましたか」

「やはりって!」

「教会に借りを作りたくない、そういう貴族がいるのではないか? そしてそうした領地が人狼の隠れ家になっているのではないか? そのような懸念が以前よりあったのですが、現実の物となったようです。教会に頭を下げるくらいなら死んだ方がマシと考える貴族でも、家格が上のグレオール家であれば恥を忍んで救援を要請してくることが出来るのではないかと思っていたのです」

 人の家の家紋を誘蛾灯か何かだとでも思っているのだろうかこの老人は。手段を選ばないという意味では背が曲がろうとも彼もまた狩人なのだと思わずにはいられない。

「もちろんお父上にご了承はいただいておりますよ」

 父がこと人狼に関しては教会に対してきわめて協力的な姿勢を見せているのは、普段からあれだけ口酸っぱく語る「家」とその役目を重んじる姿勢からだろうか。

「ディムナ殿。申し訳ありませんがこちらの件を優先いたします。教会本部に連絡を取って、手すきの狩人を派遣いたしますのでその旨返信をお願いできますか」

「大丈夫でしょうか。相手は教会に借りを作りたくなかったんですよね?」

「ええ。ですから『グレオール家がお前の代わりに教会に頭を下げてやったぞ』という文意にしていただくと良いと思います。ああ、もちろんお父上はご了承済みです」

 ああ、なるほどとディムナは合点がいった。つまりは教会を利用して他家に恩を売ろうという計略の一種なのだ、これは。なんならついでにマーナ=ベル教会にも恩を売っている。なぁにが貴族としての役割だ。業突く張りの狸親父め、とディムナは実父に胸の内で悪態をついた。

 それからも定期的にディムナの元には時には他国からさえ「獣害」の報が届き、そのたびにアングレーズ神父へと連携しているうちにずるずると月日は過ぎ、当初の目的であった報告書を書き終えたのが昨日の夜のことだった。季節は秋から冬へと変わっていた。


 父の書斎の扉を開けると、アングレーズ神父はすでに到着していて椅子に腰かけていた。ディムナが彼に会釈と挨拶を返す。

「ブランシアに行ってこい」

 ディムナが椅子に腰を落ち着けようとしたその瞬間、グレオール卿が口を開いた。状況を把握できず、中腰のまま口をぽかんと開けているディムナの手元にぽいっと手紙が投げられる。赤い封蝋に印璽がされたそれは貴族の封書の証だ。ディムナが手紙の内容を検める。

「『青髭あおひげ』からお前に名指しでお誘いが来ている。獣害対策の専門家の知恵を借りたいと」

 ディムナの頭の片隅にしまいこまれた他の貴族についての知識が蘇る。

 青髭。ブランシア帝国レイス領主、ジギタリス・ド・レイス男爵。かつてはブランシア皇帝の懐刀とまで呼ばれたほどの切れ者で戦上手。幾度となく帝国に勝利をもたらし、一度は将軍の地位にまで登り詰めた。しかし皇帝の北部遠征に反対して以来、疎まれるようになり、先の連合軍との戦争では皇帝の度重なる要請にも関わらず、兵を出さなかったブランシアの英雄にして裏切り者。

 青髭というのは散々苦渋を舐めさせられたフロージエンとランドールの軍閥貴族たちが付けたあだ名だ。やせぎすで色素の薄い白い肌に、皮膚の下の色濃い髭が口回り、もみあげから顎下までくまなく浮かび上がっていることを揶揄した蔑称に近い。

「レイス領には以前から不審な点がありました」

 グレオール卿の言葉の後を次ぐように老司祭が口を開く。

「人狼発生の予兆があったということですか?」

「逆です。まったく予兆がなかったのです」

「……それのどこが不審なんですか?」

「戦後、他国と同様ブランシア帝国でもたびたび人狼の発生は確認されていました。しかしレイス領では一件の報告もない。他の領地で殺し損ねた人狼がどうやらレイス領まで逃げたらしいという報告が上がってもそこでぱたりと情報が途絶えてしまう。教会はレイス領内で『人狼街じんろうがい』が発生していると睨んでいます」

「人狼街……?」

「人狼によって支配された町や村などをそう呼んでいます。人狼が姿を隠さず、人間に紛れずとも自由に人間を捕食できる、いわば人間の牧場。それこそが人狼街です」

「そんなものが発生していて気付かないなんてことありうるんですか? ある程度の規模の街ならどこでも教会があるのに」

 もちろんブランシア国内にも数多く教会は存在している。くだんのレイス領内にも。

「ええ。ですがレイス領内には一カ所だけ教会の目の届かぬ場所があります。それこそがかの男爵の住まうレイス城、そしてその城下町。城内には男爵が建てたマーナ=ベル教式の教会が設置されていると聞きますが、司祭は配備されておりません」

「城下町って……。そんなところに人狼が発生したら大混乱じゃないですか。それで話が外に漏れないなんてありうるんですか?」

「レイス領内の教会でのいくつかの話を統合すると、城下町に入っていく者はいても、出てくる者は男爵とその騎士数名だけだそうです。そして男爵の許可状の無い者は城下町に立ち入ることは出来ない」

 ディムナは封筒の中に入っていた男爵家の家紋の捺された許可状を見遣る。

「更に興味深い話もあります。男爵はたびたび領内を視察して年若い少年少女を見出しては城で働かせると言って連れて行くそうです。ですが、……戻って来た子供は一人もいない」

 それではまるで怪談だ。

「彼は領民からこう呼ばれているそうです」

 ――人喰い男爵、と。


 ◆◆◆


「狼よ」

 厚い天幕に覆われた薄暗闇の中で、しわがれた老婆の声が反響する。天幕の底には煙が淀み、胡坐をかいて相対する司祭服姿の男の膝のあたりを紫煙が漂う。

 男は夜に紛れるような闇色の司祭平服カソックを身に纏っている。

 白い手袋に覆われた右手は木製の義手だ。今は膝の上に置かれている。

 無造作に伸ばされた黒髪、夜の闇とほとんど変わらない黒目。狼のような外見をした、老婆に狼と呼びかけられた男、ネド・アングレーズはいつも通り嫌そうに返した。

「俺をそう呼ぶのは止してくれ」

 そしていつも通りに老婆は聞く耳を持たずに占いの結果を告げる。

「道が見える。踏み、均された道。お前はそこで数多の足跡を見るだろう。だが、お前にはどれが獣の足跡かが分からない」

 老婆が黙る。考え込んでいるようにも見えるし、眠ってしまったようにも見える。

「お前はそこで自分の足跡をも見失う。帰りたくば目印を用意せよ。お前の敵の血によって洗い流されぬ目印を。狼よ、用心せよ。お前に向けて矢が放たれた。矢に射抜かれぬためには――」

「矢よりも早く駆けろって言うんだろ?」

「そうだ。いずれお前の矢がお前を射抜くその時まで、お前は駆け続けねばならない。それは私もお前も同じことだ」

 その時、天幕入り口の垂れ布が持ち上げられて、顔の下半分をヴェールで覆った妙齢の女が顔を覗かせた。占いの時間はおしまいだ。ネドは立ち上がり、老婆に軽く手を振って、薄暗闇の中から外へと出た。ネドが垂れ布から手を離すと老婆を残して天幕の中は再び薄暗闇に包まれた。


「今回は強敵なの?」

 町はずれの小さな苔むした森小屋の中でカウンター越しに薬草師の女が問う。

「なぜそう思う」

「そりゃあ、これだけ注文されたらね」

 ネドはせっせと背嚢の中に購入済みの商品を詰め込んでいくが、カウンターの上にはまだまだ品物が残っている。対人狼用の目潰しに、矢に塗布するための瓶入りの毒、火薬を詰め込んだ導火線付きの爆薬に加えて、今回はこの自称魔女の新商品だと言う瓶に入った黒い液体も購入した。過去一番の量かもしれない。

「念のためだ」

 まだ人狼街が発生したと決まったわけではない。だが聖別はともかくとして、こうした消耗品は道中で補充が出来ないため買い込んでいる。仮にただの人狼の発生なら荷物になる分は現地の拠点に置いておけば良い。

「あら、教えてくださらないの?」

「まだ分からないだけだ」

「あ、そう」

 薬草師は商品を取り出し終えた戸棚の扉を閉じると三つも鍵を掛けた。危険物も扱っているため、防犯には気を使っているのだろう。女が鍵束をカウンターの下にしまうのに合わせて、薄布に覆われた尻に乗った黒髪が揺れる。

「エヴァ」

「なに? あ痛っ!」

 ネドの呼びかけに応じて、天板に頭を打ち付けた自称魔女がしゃがみ込む。まなじりに涙が浮かんでいる。ふっと思わず笑いが漏れたネドに、エヴァが誰のせいよと柳眉を逆立てる。

「この間の仕事で人狼を殺すことは意味が無いのではないかと言われたよ」

「……そいつ、襲われたことが無いんじゃないの?」

「いや、殺されかけていたところを助けたことがある」

「その立場で良くそんなこと言えたわね」

 頭おかしいんじゃないの? と余りに明け透けに言うものだからネドは苦笑した。その「そいつ」が貴族だと知ったらどんな顔をするだろうか。

「彼が言うには人狼になることを選択してしまうような者を減らさないかぎり、呪いではなく他の武器を手に取るだけだと。狼を殺すだけの狩人ではなく、人々を救う神父になれと言われた。俺は、その通りだと思った」

「それ言わせっぱなしにしておいたわけ? じゃあ今この瞬間人を襲っている人狼はどうするのよ。殺すしかないでしょう。あなただってそれが分かっているから今日も毒を買ったんじゃないの?」

「ああ。人狼は殺す、殺さなければならない。だがそもそも人狼が生まれて来ない世なら、その方がいい」

「そりゃあんな奴ら生まれて来ない方がいいに決まってるわよ」

 違う、憎悪から言うのではない。彼らが哀れだから言うのだ。だが、かつて人狼によってその顔に爪痕を残され、家族を奪われた彼女にそれを告げるのはひどく残酷なことに思えた。言えば彼女はこう返すだろう。「じゃあ人狼に襲われた人は、殺された人たちは哀れじゃないの?」と。

 購入した商品をしまい終えたネドは背嚢に留め具をかけた。

「そろそろ行く」

 カウンター前の椅子から腰を浮かせて、背嚢を背負ったネドにエヴァが声をかけた。

「ねえ」

「なんだ?」

「人狼を殺すことだけでもあなたは充分人を救ってる。今更迷わないでよ。迷えば死ぬ、死んだら帰ってこれないでしょう?」

「ああ、そう、だな」

 お前はそこで自分の足跡をも見失う。帰りたくば――。

 彼女の言葉が、老婆の占い結果を想起させる。

「目印ね……」

「なに?」

「いや、こっちの話だ。そのうちまた来る」

 そう言うと、ネドは小屋の扉を開けて外へと出た。ゴオォと音を立てて冷たく乾いた風が彼の黒髪をたなびかせた。


 ◆◆◆


 出発の日の朝、空は厚い雲に覆われていた。

 ろくに舗装されていない砂利道の奥にある古びた教会の前にグレオール家の家紋の入った馬車が停まっている。

 馬車に荷物を積み込み、司祭平服姿のネドと老司祭が乗り込んだのを確認すると、ディムナは御者に出発の合図を出した。

 今回の目的地、ブランシア帝国レイス領は、ここから西、以前訪れたランドール王国よりも更に西に位置している。道中宿を取ったり、教会で寝床を借りたりしながら移動には十日ほどかかるだろう。それだけの時間がかかるとなると対人狼用の武器である銀の剣は聖別の効果が減衰してしまう。そのため今回の旅程では目的地であるレイス領に入る前、その手前の街の教会を仮拠点とし、そこに一時滞在する間に装備の聖別などを済ませる予定となっている。今回アングレーズ神父が同行したのはそこでの聖別をこなすためだ。準備が完了次第、ディムナはネドを連れてレイス城へと入城する手筈となっている。城下町の状況を確認し、人狼が発生していたならこれを退治する。だが、とディムナは考える。

 もし男爵が噂通りの人喰い、すなわち人狼だったら?

 そしてレイス城下町が彼のために作られた人間の牧場、人狼街だったら?

 悪い方に考えすぎだ、とディムナは首を横に振るった。そもそも件の男爵が人狼だというなら、「獣害事件の専門家」を呼ぶ理由とはなんだ。

「なぜ男爵は俺を呼んだんでしょう? 他の貴族たちと同じように教会を頼るのが嫌だったんでしょうか」

「レイス男爵に限って言えばそれは無いでしょうな。彼は毎年多額の寄付金を教会へと寄せています。城内にはわざわざ礼拝堂を誂えさせ、近郊の司祭の元を度々訪ねては説教を聞いているとか。信心深いマーナ=ベル信徒と言って良いでしょう」

 教会を嫌っている、というわけではない。司祭の元を訪ねているなら何度も人狼について相談する機会はあっただろうに、面識さえ無いディムナに連絡を寄越した。呼び出された側からしてみたら何がなんやら分からない。

「信心深いからこそ、人狼の発生を恥と思って教会に連絡できなかった、とか?」

「そのあたりについてはディムナ殿に聞き出していただくしかありませんな。我々はおそらく城への立ち入りを許されないでしょうから」

 男爵からの許可状があるのはディムナだけだ。もちろん協力者ということでついでに入れてもらえないか交渉をしてみるつもりではいるものの望み薄だろうというのはこの場にいる全員の共通認識だった。

「問題は男爵が人狼であった場合だ」

「だよなあ……」

 人狼が「獣害対策の専門家」を呼び出す理由など考えうる限り一つしかない。邪魔者の排除だ。

「まあ司祭が同行しているという情報が伝われば手を出してくることは無い、だろう。たぶん」

「断言してくれよ……」

「とにかくわずかでも構いませんのでディムナ殿には城内の情報を持ち帰っていただきたい。疑惑で済むなら良し、人狼の痕跡を確認できれば異端審問に男爵を引き摺り出せますので」

「は、はい……」

 あまりに旧時代的な恐ろしい単語が出てきてしまったものだから、ディムナは自分の口の端が引きつるのを感じた。


 ディムナたちを乗せた馬車がブランシアの国境を跨ぎ、一路街道をレイス領へと向かう道すがら、検問によって足止めを食らった。

 レイス男爵から送られてきた家紋入りの文を見せても、「確認する」とだけ返されて半日歩みを止められているうちに夜になってしまい、雪まで降り出したので仕方なく近くで宿を取ることになった。

「どうなってんだ……」

 宿で提供された食事を前にナイフとフォークを構えたディムナが呟いた。

「検問の彼らが身に着けていたのはブランシア陸軍の制服でしたな。男爵を警戒しているということなのでしょう」

 ソースをつけた茹で野菜を口に運びながら老司祭がディムナのぼやきに答えた。

「仲が悪いのですか?」

 その横でネドがパンを千切り口へと運びながら問う。

「そりゃあレイス男爵と言えば皇帝、今は元皇帝か、その懐刀と呼ばれた男だ。共和制を目指している現行の臨時政府からしたら目の敵にされててもおかしくはない」

 ディムナがネドの疑問に答える。こうした政情についてはつい最近まで貴族の邸宅で過ごしていた彼の方が詳しい。

「だが男爵は皇帝を裏切ったんだろう? 北部遠征に反対し、将軍の任を解かれたと」

「そう。で、その後皇帝は遠征に失敗した。そこがケチの付き初めだった。何度か敗戦を繰り返して、挽回しようとでもしたのかランドールに侵攻した。その時に皇帝は男爵に兵を出すように要請したが無視し続けて、ついには差し向けられた帝国軍を追い払っちまった」

「なら皇帝亡き今、臨時政府と協力しても不思議ではないと思うが」

「皇帝が一時的に共通の敵だったってことだろ。レイス男爵家は何代も続く由緒正しい、筋金入りの特権階級だ。共和制なんて衆愚政治としか思ってないだろうよ。仲良く出来っこない」

 あとまだ皇帝死んでないから、とディムナが補足した。

「男爵はずっと戦場に立ち続けてきた人間だ。陸軍は臨時政府の指揮下にあるが、その中には男爵を支持する兵士も多いだろうな」

「つまり?」

「男爵が新しい皇帝になるつもりなんじゃないか、って気が気じゃないんだよ。ブランシアの臨時政府はな」

 そしてもちろん国民も。仮に男爵が政権の奪取を目的としてクーデターを起こせば、きっと成るだろう。だがその過程で発生する内紛はやっと戦争を終わらせたこの国のかさぶたをはがす行為に等しい。そして男爵もあの皇帝と同じように大陸の統一などという野心を掲げるかもしれないではないか。

 そこまで考えてディムナはやっと思い至る。父が自分を派遣した理由に。男爵を恐れているのはブランシアの政府と国民だけではないのだ。かつて戦争を仕掛けられたランドールも、その同盟国たる母国フロージエンも、また戦争が始まるのでは無いかと恐れ、疑っている。男爵に野心有りや無しや。それを探ることを自分は任されたのだ。

 ディムナは口の中に含んだよく煮込まれた鶏肉を嚥下した。そうしてから水を口に含む。それでもまだ緊張に唇が渇いている気がした。


 ◆◆◆


 昨晩から降り続けた雪が積もり始め、ほのかに雪化粧に覆われた街道を一人の男が馬に乗ってやってきた。

 騎士だろう、狐をあしらった家紋入りの鉄鎧を身に着けた男はディムナたちが乗って来た馬車を見つけると、声を張り上げた。

「こちらにディムナ・マック・グレオール殿はおられるか!」

 どうせ今日も足止めだろうと部屋でぐだぐだしていたディムナは跳び起きて、最低限の身なりを整えてから宿の階段を駆け下りた。

 ディムナの姿を認めると、鎧姿の男は馬から降りて礼をする。

「お待たせして申し訳ない。ジギタリスの使いで参りました、ルグランと申します」

 教本のようにピシッとしたルグランの礼をほとんど真似するようにディムナは礼を返し、挨拶を済ませる。

「検問の者たちに話は付けました。これより私がレイス領までご案内いたしましょう」

「ちょ、ちょっと待ってください。実は同行者がいるのです。マーナ=ベル教の司祭が二名」

 ディムナが同行者の説明をする。ルグランがわずかに眉をひそめた。

「男爵が、じん……いえ、『獣害』対策を求めておられるなら、必ずや必要となるはずなのです。ですから二人にも僕と同様にレイス城への入城を許可していただくわけには――」

「それは認められません。入城は許可状のある者にのみ認められています。如何な司祭様と仰れどその規則は曲げられません」

 やはりこう来たか、とディムナは顔に出さぬように気を付けながら考える。

「……男爵に直接許可をいただくことができれば、二人の入城を認めていただけますか?」

「それはもちろん。そうなれば私が責任をもってお二人をお連れいたしましょう」

「であれば城までの道中、モードナの街を経由していただけますか? 男爵に許可をいただくまでの間、二人にはそこで滞在してもらいますので」

「承知しました。今からであればモードナに着くころには暗くなりましょう。雪も降っておりますし、一夜を明かして、朝にレイス領に出立する、それでよろしいか」

 取り合えず男爵の配下に司祭の同行者がいることを印象付けることには成功した。城に着けば彼の口から男爵に伝わるだろう。ディムナは精いっぱいの愛想を込めて、騎士に礼をする。

「ええ。よろしくお願いします。ルグラン殿」


 その日の晩、モードナの街に着いた。

 アングレーズ神父は早速街の教会へと赴き、聖別の準備に入った。ディムナはルグランと名乗った騎士を一応義理で食事に誘ったのだが、断られてしまった。主君より先に従者である自分が客人と卓を囲むわけにはいかないそうだ。それに持ってきた弁当があるらしい。

 なのでネドを誘いに部屋へと訪れると、彼は荷物から対人狼用の銀の義腕を取り出していた。

 気が早くないか? と思った己をディムナは戒める。そうだ、ここはもう敵地かもしれない土地の目と鼻の先なのだ。

「どうかしたか?」

「飯でも行かないか?」

「別に構わないが、先に済ませたい用事があってな。その後でなら」

「ふーん、すぐ済みそうなら俺もついて行っていいか?」

「ああ、今日はもう遅いし、顔を出そうと思っているだけだから」

 ネドは司祭平服の上から、丈の長いカソックコートを身に纏った。てっきり装備するのだと思っていた銀の義腕は腕にはめずに左手に握っている。

「それ持っていくのか?」

「ああ、これを作った奴に会いに行くんだよ」


 ブランシアの冬は寒い。

 日ごろディムナたちが暮らす街よりも北に位置しているせいか、あるいは標高差か、気温が一段低いように感じられた。

 母国で暮らしている感覚の服装で外に出てしまい、その刺すような寒風にディムナは思わず腕を擦った。

 ネドの銀の義腕、そして普段使いの木製の義腕を作ったという義肢装具士のイアンは宿を訪ねると二人を部屋に入れた。広い部屋の中には暖炉が備え付けられている。暖炉の火に手をかざしながらディムナは部屋を見渡した。快適そうな部屋だ。おそらくこのモードナの街で一番良い宿だろう。イアンの羽振りの良さが分かる。戦争で義肢を必要とする人間がたくさんいる、ということなのだろうか。

 暖炉の前のローテーブルの上に二人分の茶が置かれた。いい香りだ。

「それで、ネド、こんなところまで呼び出したのは、また腕を壊したからか?」

 イアンが椅子に腰を下ろして、足を組んで茶色のくせっ毛を指で弄る。服装は仕立てのベストと細いパンツ、どちらも飾りの入った高級品だ。ディムナは義肢装具士と聞いてから職人のような武骨な男を想像していたが、その身なりは商人、特に成金の商人を思わせるものだった。

「俺がいつも壊しているような言い方をするな」

「壊してるだろうが。まあ、いいや。それよりそちらのご友人を紹介してくれよ。ボクの見立てじゃ名のある高貴な家柄の方に見えるが」

「ディムナ・マック・グレオールだ。よろしく」

 水を向けてもらったのでディムナが自己紹介をすると、イアンがぽかんと口を開けた。

「グレオールって、あの?」

「ああ……。まあ、たぶん想像しているグレオールだと思う」

 イアンがすっと立ち上がると、ネドを無理矢理立たせ、部屋の隅へと連れて行く。こそこそ話しているがディムナからは丸聞こえだ。

「てめえ、聞いてないぞ。いつの間にそんな名家の坊ちゃんと知り合いになったんだよ!」

「有名なのか?」

「人狼ばっかり追い掛け回して社会常識ってもんが無いのか、お前は。グレオール家と言えばフロージエンの建国記に名前が残ってる名家中の名家だろうが。何? 遠い親戚とかなのか彼?」

「グレオール卿の三男だと以前聞いた」

「直系!? あのグレオール候の倅!?」

 ちらとイアンがディムナの方に視線を送る。すぐにネドへと向き直る。

「そういうことは事前に言えよ!」

「言った方が良かったか?」

「当たり前だろ! 本物の貴族の前でこんな成金みたいな格好してボクが莫迦みたいじゃないか!」

 その恰好はお前が好きでやってることだろう、とぶつくさ言っているネドを尻目に、イアンがディムナへと手もみしながら向き直る。

「それで、そのディムナ様は本日はどのようなご用件で……」

「様はやめてくれ……。ネドに付いてきただけなんだ。見学だよ、俺のことは気にしないでくれ」

「気にしないでと仰られましても……」

「だそうだ。そんなことよりイアン、腕に緩衝材のようなものを入れてくれ。直接触れると冷たくて皮膚にくっつく」

 そんなことよりじゃねえよ、とイアンがネドを睨む。

「腕だけ置いてけばやっといてやるよ。それよりですね、ディムナ様、お父上の部下やお知り合いの方に義手や義足を必要としておられる方などいらっしゃいましたら是非にボクにご紹介していただきたいのですが……」

「前にフロージエン人はケチだから相手にしないと言ってなかったか?」

「黙ってろ、このクソ神父! 人の商売の邪魔をするな!」

「俺は()()神父じゃない」

 今にも噛みつきそうなイアンだったが、そのネドの台詞を聞いて不思議そうな顔をした後に矛を収めた。

「ふぅん、ちょっとは変わったみたいだな」

「そうか?」

「明日の昼にまた来い。緩衝材を入れた時の腕周りの締め付けを確認する」

「助かるよ」

「ふん、お前が死んで連中がのさばるのが我慢ならないだけだ。それよりわざわざこの街まで来たってことは『人喰い男爵』は本当に人狼だったのか? ただの噂だと思っていたが……」

「俺たちにとってもまだ疑惑の段階です。義肢装具士のあなたならレイス領に招かれたことはないのか?」

「ありませんね。ボクはブランシアで主に商人や軍相手に商売をしていますが、レイス領に招かれたことは一度もありません。この国には戦争で手足を失った人間が大勢います。軍人を多く抱えるレイス領は当然その比率も高いと思いますが……。人狼にすることで手足を生やしているなら納得ですね」

「あり得ないな。領内の傷痍軍人すべてを人狼化するなど不可能だ。そんな数の『狼血』をどこで入手する。どうやって群れの数を維持する」

 そんなことボクが知るかよ、とイアンがネドに返す。

 それを俺がこれから調べなくちゃならないんだよな、とディムナは内心独り言ちる。明日の朝が来れば自分は一人敵地に向かうことになる。暖炉の火で暖かくなったはずの背筋が寒くなった。




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