告解
翌日、カルローの街の住民は朝から騒然としていた。早朝から張り出された布告の内容を、字の読めぬ者のために衛兵が読み上げる。
「『人狼グレンへ
汝、告解せよ。
当方、教会にて懺悔を聞く用意あり。
マーナ=ベル教会所属特例司祭ベネディクトゥス・アングレーズ』」
「来いと言われて来る莫迦がいるか……?」
布告を聞いた市民全員が考えたのと同じことを、ディムナは口にする。
教会の中で椅子に腰かけたネドが静かに、穏やかに返す。
「来るさ」
対人狼装備を使い尽くしたネドは現在、普段愛用している革製の腰袋も剣鞘も身に着けていない。丸腰の司祭服姿で、右手の義腕は白い手袋によって覆われている。
「……街の入り口の警戒は解いてない。もし逃げるようならクロスボウで滅多打ちにして、船の錨でも大砲の弾でも何でも使って拘束して、油をかけて火で殺す。それでいいんだな?」
「ああ。だがそれは狩人としての仕事だ。私は私の仕事をする。だからせめてそれまでは――」
「分かってる。もし仮に、万が一、何かの間違いで、グレンが素直に教会に来て懺悔をするなら、……その間、俺たちは手出しをしない」
昨夜、「共喰い」を仕留めたネドは一人物思いにふけった後、グレンを街の男たちで駆り立てる作戦を練っていたディムナに今日の計画を告げたのだ。確かにこの街最初の人狼であり、今や最後の人狼でもあるグレンを話も聞かずに殺してしまっては、教会の目的である「狼の司祭」の足取りを追うことは出来なくなる。だが、ディムナにはどうしても、少なくとも十人以上を手に掛けている男が素直に情報を吐くとは思えない。それこそ追い立てて捕縛し、火で炙って聞き出した方が確実なのではないか? ましてや懺悔なんて!
やっぱり今からでも考え直した方がいいんじゃないか、とディムナが口を開こうとして――。
その時、教会の扉が開いた。
「マジかよ……」
ディムナの呟きと同じ意味を持った外の喧騒が、神聖なる領域の中に流れ込み、扉が閉じられて再び遮られる。
汚れた軍服を着た男だ。青年と呼ぶには歳を取りすぎている。錆びたナイフで無理矢理に剃った髭。彼が軍靴にくっつけてきた砂が教会の床を汚した。
グレンは教会へとやってきた。
ネドは立ち上がり、彼を出迎える。
「ようこそ、迷える子羊よ」
「あれはなんだ? 挑発のつもりか?」
グレンが噛みつくように吠える。
「初めてこの教会で出会った時、もし懺悔室を開けば君は来るだろうと思った。……罪の意識を抱く者は見れば分かる」
「職業病ってやつか?」
「そんなところだ。……ディムナ、約束通り席を外してくれ。シスターも連れて」
「……分かったよ。何か聞こえたらすっ飛んでくるからな!」
「ああ」
ディムナがシスターを連れて、恐る恐るグレンの横を通り抜けて扉の外へと出ていった。ネドはグレンについてくるように視線で示し、懺悔室へと導く。
一室にはネドが、そして導かれるままにもう一室にグレンが入る。二つの部屋はカーテンによって仕切られている。お互いの顔は見えなくなった。
「君の罪を告白なさい」
グレンが躊躇いがちに椅子に腰かけた音を聞いて、ネドが懺悔を促した。
「……ぁ、……その、……」
口を開き、言葉を発しようとするたびに、それは消えていく。グレン自身にも何故だか分からなかった。そもそもどうして俺はこんなところに来たんだろうと後悔し始めた。そうだ、今からでもこんな茶番は止めて、衝立ごとこの神父の体を裂けばいい。そして街から出よう、邪魔する奴は全員ぶっ殺して――。
「罪の意識はある。だが何が自分の罪なのか、君自身が分かっていない。そうだね?」
頭に浮かんでいたほとんど空想のような計画が、神父の言葉によって霧散する。気付くと浮かびあげた腰を再び椅子へと下ろしていた。
「……はい」
知らず知らずのうちに自分の口から言葉が漏れる。
「ではそこから考えてみよう。例えば、人狼になって人を喰ったこと――」
「違う! それは! ……それは罪かもしれないが、悔いてはいない。あんたにとっちゃ許しがたいことかもしれないが、俺は人狼になったことを後悔してはいない。失くしたと思った腕が生えてきた、俺を嗤った奴らに仕返しをしてやれた。そういう意味で言えば俺は自分が人を殺したことも後悔したことはない。人狼になる前に戦場で何人も殺したが、それはそうしなければ俺が殺されていたからだ。それが罪なら、……俺は人狼になる前から罪人だった」
「では君は何を悔いている?」
「……わ、分からない」
「例えば、同胞であった自国の傷痍軍人を、人狼へと変えたこと」
「それは、……それは確かに後悔しているかもしれない。俺が誘わなければあいつらは、『共喰い』にもあんたにも殺されることは無かった。だけどこれは誓って言うが、あいつらに、カッツ、ウォード、ランベルに無理強いはしていない。人狼になったら酷い食人衝動に襲われること、教会の狩人に狙われることを説明したうえで誘った。それを悔いるのは、あいつらに対する、侮辱だ、と思う。だから俺はこの街で人狼を増やしたこともまた後悔はしない……。俺は、俺は何も後悔なんかしていない!」
「ではなぜここに来たんだね?」
「は? いや、だって、あんたが呼んだんじゃないか。あんたが、教会で……、用意がある、って……」
言っている途中で、グレン自身が気付いたのだろう。無視することが出来たはずだ。この街を出ていくことが出来たはずだ。今この瞬間、人間への変身を解いて襲い掛かることが出来たはずだ。なのにどうして俺はここに来て、話をしている?
「君の信じる物が、君を今日ここに連れてきた」
「……俺は神様なんか信じてない」
「呼び方は何でもいい。神、教えと呼ぶ者もいるだろう。良心と呼ぶ者も。第六感、美学、あるいは神様なんか信じないという反骨心。君を今日まで生かしてきた物が、君を教会まで運ばせた。君は私に何を聞いてもらいたくて、今日ここまで来たんだい?」
「……ぅ」
分からない。グレンの頭の中を混乱が支配する。混乱の後に残ったのは怒りだった。自分自身への怒り、自分の考えていることを上手く言葉にすることの出来ない怒り。それは表出し、手近な対象へと向かう。
「もう、もういいだろうッ! あんたは俺から、俺がどこで『狼血』を手に入れたかを聞き出したいだけなんだろうッ! ならさっさとそう聞けよォッ! こんな回りくどい事をして何の意味がある!? 俺をそんなに苦しめたいか! 俺を莫迦にして愉しいかッ!」
激昂したグレンの言葉にネドは何も答えない。
数秒経っても、何の返事もない。
え? いなくなったんじゃないよな? とグレンが思わず不安になるほどの間をおいて、カーテンの向こうから神父が語る。
「『狼の司祭』を探すのは狩人の仕事だ。私は今、狩人ではなく司祭として君の懺悔を聞いている。君がそれを気にするのなら、私はこの懺悔室にいる間、君に『狼の司祭』や『狼血』について尋ねることはない。また仮に君が口を滑らせたとしても、聞いたことを外部に持ち出すことはない。神に誓おう」
あまりにも呆気なく、当然だとでも言わんばかりの口調で、仕切りの向こうの聖職者は己が主に誓いを立てた。
「なら、なんのために、こんなことを……」
「信徒が懺悔を求めるならばそれに応える。それが司祭の仕事だ」
またも当然のように返されて、グレンは誰もいない狭い部屋の中で、ぐったりとうなだれた。
「君に後悔が分からないなら、私も共に探そう。聞かせてくれ、君がどうやってここまで来たかを」
促されるままに、グレンはぽつりぽつりと己の半生を語り始めた。
カルローの街の小さな商店に長男として生まれたグレンの覚えている最初の記憶は、うなだれ塞ぎこむ母の背中だった。幼いグレンにも母が落ち込んでいるのは自分が「いつ弟は生まれてくるの?」と聞いたことが原因だということぐらいは分かった。グレンの弟になるはずだった赤子は死んだ状態で生まれてきたことを彼は当時知らなかったし、聞かされてもいなかった。だからいつものように無邪気に母に弟の催促をして、それがどうやら今日に限っては母を甚く傷つけたらしいと分かった時、彼は言った。
「あんまり弟欲しくなくなったかもしれない……」
神妙な面持ちでそう言ったグレンを見て、母は噴き出してひとしきり笑った後に彼を抱きしめて言った。
「お前は優しい子だね……」
母に手を引かれて、買い物に行った日の光景を思い出す。あの頃は平和で、穏やかで、満ち足りていて、暖かかったように思う。今思えばそれはきっと何も知らなかったからそう感じていただけなのだけれど。
あの頃のカルローの街は、木造の建物が多かった。そもそもが森と河が近く、林業で栄えた街だったのだ。
長ずるに連れて、この世界がただ暖かいだけの場所ではないことを知った。暖かいは暖かい。だがそれは戦火で取った暖だ。
隣国ブランシアとの国境にほど近いカルローの街では格好いい制服に身を包んだ軍人は子供たちの憧れの的で、自然とグレンもその道を志した。上官のしごきに陰で悪態をつきつつ、訓練に明け暮れる少しばかり退屈な日々はすぐに終わった。千年も前の古代帝国の将軍に憧れでもしたのか、ブランシアの皇帝は大陸の統一を目的として、ランドールへと攻め込んだ。
最初の標的となったのはカルローの街だった。取って、取られて、取り返して、そんなことを何度続けた頃だろう。数年後に戦線を押し返した時、戦争を始めた皇帝が自国民の手によって監獄島へ流刑にされて、ようやく戦争が終わった。
だが、敵の銃弾を喰らい、右腕を切断したグレンが帰って来た故郷には戦火を逃れた教会の他には、瓦礫しか残っていなかった。慣れ親しんだ森は焼き尽くされ、川は敵の塹壕を水攻めするために形を変えられ、木造の住宅はすべてが焼け落ちていた。自宅のあったあたりを見渡しても、グレンはなんの懐かしさも感じなかった。記憶の中にある景色とあまりにかけ離れすぎていて、道を間違えて別の土地に来たのかと思ったほどだ。
母は死んでいた。
「この街が石畳の街になったのは今の町長になってからだ。……勘違いしないでくれよ。俺は別に町長を恨んだりしていない。一部の奴等が言うようにカルローは林業の街だったんだから木造に戻すべきだなんて言うつもりはない。むしろそうされた方が、辛いかもな。どこか似ていて、見覚えのある街なのに、知っている店も家も一つもないなんてさ」
むしろ町長が、たとえ一族の会社を優遇するためだったとしても、建築の仕事を戦後街に用意したおかげで、家も財産も失ったグレンは食いつなぐことが出来た。それにその頃は国も、街もすべてが戦勝に湧きたっていて、軍服を身にまとって、右腕に名誉の負傷をしたグレンはまさしく「国のために戦った英雄」だった。
街の復興が進むにつれて、状況は変わっていった。街から降りてくる仕事が減って、その減った仕事は五体満足で力仕事を難なくこなせる者が占めるようになっていく。他に仕事を求めようにも一目見て右腕が無いと分かるグレンを雇ってくれるところは無かった。
「皆、直接は言わないんだ。子供のいる未亡人に仕事を回してやりたいとか、そんなこと言ってさ、体よく追い払われる。でも聞こえてくるんだよ、俺が行く当ても無くて店の裏でぶらついてるなんて思いもしないで、『あの腕で店先に立たれたら客が逃げちまう』んだとさ」
そしてそもそもグレンは軍人としての生き方以外を知らなかった。
そんな戦争帰りの職にあぶれた男たちが、いつしか教会の炊き出しを求めて集まって、カルローの街の東には「貧民街」としか言いようのない区画が出来上がっていた。そして親たちは教えるのだ。「あそこに近づいちゃいけませんよ」
グレンはとっくに英雄ではなく、街の鼻つまみ者に変わっていた。そしてそれは彼だけではない。
「カッツは戦争で両足を失ってた。……悪ガキどもがあいつに石を投げるんだよ。追いつけないって分かっているから。『臭えんだよ、街から出ていけ』『ごみ漁りの乞食野郎』って言いながらな。あいつが大砲から小隊長を守ったことなんて知りもしないで」
グレンの声が震えている。
「ウォードは戦争から帰ってきたら嫁さんが男を作って出て行ってた。やっと見つけ出したと思ったら、自分が戦争に行っている間に二人もその男との子供を産んでて、更に腹の中にもう一人いたんだと。笑えるだろ?」
そう言うグレンの声は笑っていない。
「ランベルは俺たちの中じゃ一番若かった。後一年生まれるのが遅けりゃ戦争に参加せずに済んだのにな。どん臭くってさあ、銃の装填中にてめえの指吹っ飛ばした莫迦なんてあいつだけだよ。……俺のことをグレンの兄貴って呼ぶんだ。止めろっつってんのにな。俺の、弟が生まれていたらああいう感じだったのかもな、なんて柄にもない事を思ったり、した……」
グレンは笑っている。泣きながら笑っていた。
その顔をネドは見ずとも知っている。己の無力を呪う、その感情の名前を怒りと呼ぶ。
「ああ、分かった……」
グレンが首をゆっくりともたげて言った。
「分かったよ、神父様。俺が何を後悔しているのか」
「聞かせてくれるかな」
「死んでおかなかったことだ。もっと早くに、あの戦場で、死んでおかなかったことを、悔いている」
そうすれば敵兵を殺すことも無かった。右腕を失って苦しむことも無かった。
変わり果てた故郷を見ることも無かった。ふとした瞬間にかつて母に手を引かれて通った道のりを思い出して涙が止められなくなることも無かった。
仲間たちを、弟分を人食いの怪物へと変えた挙句に死なせてしまうことも無かった。
そうだ、弟の代わりに、俺が死んで生まれてくれば良かったのだ。
懺悔室の天井を見上げるグレンの目から滂沱として涙が流れる。
「それは違う」
ネド神父はグレンの嘆きを断固として否定する。
「何が、違うよ……」
「君には何度でもやり直す機会があった。この街が己の故郷で無くなったと悟ったなら去ることも出来たはずだ。ご母堂や殺めた敵兵の供養をしたいのなら頭を丸めて教会に入る道もあった。君にはやり直す機会があったんだ」
「……俺が人狼になったのは酒屋の店主を殺したからだ。酒を買おうと思って入った店で、店主に出て行けと言われた。お前らみたいなのに寄ってこられるとちゃんとした客が来なくなるからと。金は持ってた。盗んだ物じゃない。前日に日雇いの荷運びの仕事にありつけて、皆で飲もうと思ったんだ。それをあいつは俺の手を弾き飛ばして、盗んだ金だろうと決めつけて、金を拾うためにしゃがんだ俺のことを嗤ったんだ。嗤ったんだよ。……気が付いたら商品の酒瓶であいつの頭をぶん殴って殺していた。怖くなって、逃げようとした先で、……『司祭』の手先に誘われた。人狼にならないかって。……この話を聞いても、俺にやり直す機会があったなんて抜かせるか? 言っただろう、俺は人狼になる前から人殺しなんだよ、俺は――」
だからグレンは「この街で働いている人間」を好んで襲う人狼になった。
「ああ。やり直せたよ」
「簡単に言うなッ!」
「簡単ではない。殺された者の家族、友人は君を許すことは無い。そして時が経つほどにかつての罪は君の上でその重みを増していく。……私が普段暮らす教会のそばに、ある皮なめし職人が暮らしている。彼は若い頃、娘を殺されている。人間にだ、人狼にじゃない。彼はその犯人を探し出して復讐し、その首を街の通りに晒した。司法は私刑をおこなった彼を許さなかった。服役後、彼は街への立ち入りを禁じられ、娘さんの墓前に足を運ぶことも出来なくなった。四十年前のことだそうだ。私や君が生まれるよりも前のことだ。もう関係者のほとんどは亡くなっているだろう。それでも彼の中から罪の意識が消えることは無いと言う。彼の信じる物が彼を赦さないのだ。私は彼より敬虔な信徒を知らない。彼より真剣に祈りを捧げる者を知らない。腕の良い職人だ。私の鞄や鞘は彼が作ってくれた」
グレン、と神父は告解者の名を呼ぶ。呼ばれた罪人の肩が知らずびくりと震えた。
「やり直せたんだよ。人を殺めてしまったとしても、その罪から解放されることは決して無いとしても、やり直すことは出来たんだ。――人狼にさえならなければ」
はっ、はっ、とまるで人狼の姿のときのような短い呼吸が閉じることの出来ない口から洩れる。手が震えている。罪の証の、取り戻したはずの右腕が、誰が罪人かを指し示す。
やり直せた? あいつらも? その機会を奪ったのは――。
「ああ、ああ……」
口から飛び出した音が形にならずに、狭い部屋の中に溶けていく。視界が狭まり、まるで壁が己を押しつぶさんと迫ってくるように錯覚する。がちがちと噛み合わない歯が鳴る。気が付けばその歯は人の肉を噛み千切るための人狼のそれへと変わっていた。己の顔を覆っていた両手は黒い毛に覆われている。ヒッと悲鳴が漏れた。首をいやいやと振って、手を遠ざける。その醜い牙と爪が己の物だと、今ようやく気が付いた。
「ああ、あああッ!」
逃げ出すように人狼は懺悔室の扉を破った。蝶番ごと引き剥がされたそれががらんがらんと音を立てて倒れる。人の証である服が膨らむ体に耐えきれず破れ弾ける。残ったのは一匹のただの獣だった。
もう一方の扉から十字架を掲げた神父が姿を現す。
「主よ、この者は己の罪を認め、悔い改めました。主は罪人によって自ら認められた罪をお赦しになる。グレン、お前の罪はここに濯がれ、浄められた。人間としてのお前の魂は救済された。後は――」
凪いだ神父の瞳が、獣とよく似た爛と光る狩人の瞳へと変わる。
「人狼としてのお前を救おう」
懺悔室の扉が吹き飛ばされた音に気付いたディムナが、教会の扉を開いて見た光景は今までに見たことの無い物だった。尻餅をつき、少しずつ後退しながら凶悪な爪のついた腕を振り回す人狼を、見下ろすように武器を持たないネドが一歩、歩みを進めるだけで追い詰めている。
「ディムナ、剣を貸してくれ」
「え? あ、ああ!」
腰に付けている鉄剣を外し、鞘ごとネドへと放り投げる。宙を舞ったそれを左手だけで捕まえると器用に留め具を外して、鞘を落とす。神父姿の彼が逆手で持つと、それは巨大な十字架に見える。
そのまま振るった鉄剣が人狼の右腕を刎ねる。噴き出した血が教会の床と、ネドの左半身を司祭平服と剣ごと汚した。
「少し痛む。許せ」
手首を回転させ、人狼の胸に這うように刃を滑らせた。そのまま腕相撲でもするかのように剣を持ち上げる。べりべりべりと聞くに堪えない生皮の剥がれる音がして、人狼が絶叫した。振り回した左腕がネドに直撃し、教会の壁まで吹き飛ばされる。
「ガアアアッ! グゥルルガアアァッ!」
血反吐と唾液の混じった唸り声を上げて、胸に剣が刺さったままの人狼がネドへと迫る。鉄さえ引き裂くその爪はすでに振りかぶられている。
「グレンッ!」
ディムナがクロスボウを構えたまま、人狼が人であった時の名前を呼ぶ。その姿が人狼の瞳に映った。
すでにこの街での戦いで毒は使い切っている。矢に毒は塗っていない、人狼に対してほとんど効果のない何の変哲もない鉄の矢だ。
だが、人狼は過去に一度、その毒を喰らっている。この男が放ったクロスボウの一射を喰らって、寝床で反吐を吐きながらもがき苦しんだ夜を知っている。
だから、狼は自分目掛けて放たれた矢を避けた。避けてしまった。
人狼の着地の瞬間を狩人は見逃さない。バランスの崩れた足を払い、銀腕で喉輪を絞める。
「左手首を踏め!」
ディムナがネドの意図を汲み、人狼の左手首を踏みつけて全体重をかける。人狼の爪はあともう少しというところでディムナの足に届かない。噛み鳴らされる牙はあともう少しというところでネドの手首に届かない。
ネドは左手で刺さったままの鉄剣を再び起こし、血を浴びる。皮が剥がれ、その下のピンク色の躍動する筋が丸見えになる。人狼の首を押さえたままの右腕で剣を固定すると、左手で首元の十字架を掴み、首からかけていた麻紐を歯で噛み千切る。
「主よ、この者の魂をあなたの子の物にお戻しください。この者が迷わぬようにこの者の魂をお導きください。私をお導きくださったように、この者をも憐れみくださいますよう――」
十字架が青白く光る。
『俺の聖別は二秒程度しか保たなかった』
ディムナは馬車の中で、ネドが言ったことを思い出す。
だが、今この状況であれば――。
この狼を殺すには、二秒あれば事足りる。
「――主よ、憐れみを垂れ給え」
聖別の聖句詠唱完了と共に、ネドは剥き出しの人狼の心臓へと向けて、握りこんだ十字架を左手ごと叩き込んだ。
「アアアアッ!」
人狼の絶叫が教会の中に響く。獣の顔とグレンの顔が入れ替わり立ち替わり現れる。
人狼の肉体が数度跳ね、最後に一度一際大きく跳ねて、そして動かなくなった。
ネドは血塗れの十字架を心臓から引き抜いて、額に捧げていつものように祈りを捧げた。
ほとんど体の触れるような位置にいたディムナにはその内容が初めて聞き取れた。そしてグレンにも同様に。
「主よ、私はこの者を赦します。あなたが私を赦すように、この者のことをお赦しください。あなたがこの者を赦すように、私のことをお赦しください――」
それは同一化だ、とディムナは思った。ネドは狼を殺すたびに、己の一部を殺しているのだ。
「しん、ぷ、……さま」
グレンの喉から声が漏れる。
「ごめ、なさ……。おれ、の……まちがい、を、……あなたに、たださせ……、しまっ……」
「――我らを悪より救い給え」
ネドが祈りの言葉を唱え終えたちょうどその時、教会のステンドガラスから朝日が差し込んだ。グレンから見たネドの背中に後光が差す。人狼は再生しようとしながら崩壊を続けるぐずぐずの右腕で、その光を掴もうとしてかすかに触れると、力なくその腕を落とした。
こうしてカルローの街からすべての人狼はいなくなった。




