銀の腕の狩人1
夜に紛れるような闇色の司祭平服。
その輪郭をしたたるほどの返り血が露わにする。
男は死骸に足をかけて、その心臓から先程突き立てた両刃の剣を引き抜いた。
月の光を照り返していた銀の剣はいまや根本まで怪物の血でべったりと汚れている。
剣を一振り、血振りをくれるとパッと血飛沫が舞って、男の頬と服、そこから伸びる銀の腕へと染み付いた。
男の右前腕の半ばから伸びるそれは銀で出来た義手だった。軽量化のためか、開けられた孔の向こう側に夜が広がっている。
若い騎士はへたりこんだまま、呆然と男の姿を見上げていた。
綺麗に切り揃えられた金の髪は千々に乱れ、色の白い肌は泥と汗とで汚れ、見る影もない。
――銀の腕の狩人。
夢でも見ているのか?
そう思ったのも無理はない。
若い騎士の目の前で、司祭の恰好をしたその男は自身よりも二回り以上身の丈の勝る怪物をほとんど一方的に蹂躙して見せた。
司祭服の男は銀剣を背中に負った革鞘に納めると、左手で首元から麻紐に繋がれた十字架を取り出して、額に当てて祈った。口元が小さく、素早く動いた。騎士には何と言っているのか聞き取れはしなかったが、その手早さから、慣れた動作だと分かった。
きっと今まで何度も同じことをしてきたのだろう。
――何匹殺してきたのだろう?
死骸を前に佇む男の姿は、目を凝らしていないと夜の中で見失ってしまいそうだった。
若い騎士は思った。
――悪夢だ、これは。
だが、断末魔の叫びを上げたままの人狼の亡骸と、そのむせかえるような血の匂いが、目の前で起きた出来事が夢ではないことの何よりの証だった。
◆◆◆
ディムナ・マック・グレオールは望んで騎士になったわけではない。
軍閥貴族の三男として生まれた彼は、軍人でもある厳格な父親にほとんど関心を持たれずに育った。
貴族の子女が通う学校を卒業した後、父の縁故で王国騎士団に入団した。その年に同盟国が戦争をはじめた。援軍として派遣され、何も分からぬまま馬上で指揮を執っていた彼の横顔を矢がかすめた。
ディムナは馬に乗ったまま逃げ出し、馬を捨てて更に逃げ、森の中の大樹の根元で震えているところを発見され、本国に送還された。
敵前逃亡を父に散々腰抜けと詰られ、父曰く「根性を叩きなおす」ために自警団に放り込まれた。
なお、ディムナの顔をかすめた矢は敵ではなく、味方の下手くそが放ったものがすっぽ抜けただけであったため、正確には敵前逃亡ですらない。
今は内地での勤務のため、街の警邏が彼の主な仕事だ。
あまり面白い仕事ではない。それにかつて父の部下だったという上司は口うるさい。
それでもディムナは満足していた。
きな臭い国境沿いに配備されたわけでもない。戦後復興中の同盟国に駆り出されたわけでもない。街で酔っ払いの相手をしているくらいが自分の身の丈に合っている、と一軍の指揮官である父親が聞いたら、卒倒しそうなことを平気で考えている。
望んで騎士になったわけではなかったが、今では日々街が平和であればとは思っている。自分の仕事が増えなくてもいいように。
その日は夜間警邏の仕事があったので、夕方に起きだして、馴染みの食堂で軽食を済ませてから自警団の詰所に向かった。宿舎と詰所はそう離れてはいない。
街の中心にそびえる古めかしい石造りの自警団本部に夕日が沈むころ、ディムナは詰所で騎士団の象徴である剣と盾、王冠の紋章の入った鉄鎧に着替えた。
ディムナの周りには同じように三十人からなる男たちが鎧を身に着けているが、同じように騎士団の紋章を着けているのは団長以下数名であり、ほとんどが領主である貴族の家紋が入った胴鎧だけを身に着けている。
自警団に所属している者のほとんどが地元で本業を持つ若い男たちである。自警団は基本給料が出ないが、捕まえた盗人が罰金を払うことになると、その一部が捕まえた報酬として支払われる。なので若い男はとりあえず自警団には入っておく、という者が多い。
そして領主の任命した直属の騎士が各地の自警団長、副団長を務める。管理者を領主の息のかかった人間にしているのは、かつて無実の市民をボコボコにして引っ張ってくる輩が横行していたことへの対策だ。
ディムナは自宅謹慎後、父親が治める領土内の自警団に入れられた。父のこともあり、村の男たちと同じ立場に置くわけにもいかなかったのだろう、末席の隊長として登録されているが自警団からしてみれば押し付けられた形に等しいのだろうな、とディムナは思っている。
普段の夜間警邏であればこれだけの人数が集まることはない。二人組を二三組作り、順番に街を巡回するだけだ。
一昨日また死体が見つかった。
路地裏に捨てられていたのを明け方、通行人が見つけたらしい。
遺体は女のものだった。服装からそう判断された。顔は目も鼻も無かったし、腹から下は見つからなかったから、服装から判断するしか無かったというのが正しい。残った上半身からは過去の遺体と同様に、中身、つまりは内臓がきれいさっぱりまるで嘗めとられたみたいに無くなっていた。
わずかな肉片と桃色の布切れを纏ったほとんど白骨死体を見つけて、その通行人は発狂状態で、自警団の詰所に駆け込んできたという話だ。
過去の物も含めて、これで六体目。
全ての遺体には痛々しい獣の爪痕と咬傷が残されていたことから、熊か狼の仕業ということになっている。
だが田舎町ならいざ知らず、塀と堀とに囲われたこの旧城下町にどうやってそんな野生動物が入り込んだのか。
否、入り込めるはずがない。
つまり下手人は元から街の中にいたはずなのだ。そして今晩も夜な夜な獣の姿で歩き回り、哀れな犠牲者を探している――、という噂が立っている。
自警団長は今なお捕まらない下手人にメンツを潰されたとお考えのようで、わざわざ他所から応援を要請して、人員を増やして対処することを決めたのだった。
住人には夜間の外出を控えるように触れを出し、獣狩りと称して夜間警邏が強化されたのが、二日前のことである。
今のところ、犯人も新たな死体も見つかっていない。
「しかし物騒ですねえ、近頃は」
部下の一人、スコルがランタンを掲げ、いつも通り落ち着きなくきょろきょろと周囲を見回す。
「隊長は見ました? あの死体。あんなふうに殺せるなんてまともな奴じゃないですよ。どこぞの癲狂院から脱走したに違いないですよ」
「確認したが一人も脱走してないとさ。適当なことを言うな、スコル」
「失態になるから隠してるんですよ!」
甲高く叫ぶスコルを分かった分かったと宥める。
この普段からおしゃべりな八百屋の次男は夜間警邏のときは倍よくしゃべる。怖がりなのだ。それにしても今日は特別口うるさい気がするのは、街の明かりが見当たらないからだろう。
平時であれば酒場街は夜を忘れて照らされて、人々のどんちゃん騒ぎが尽きることなく続いているが、夜間外出禁止令のお触れが出てからというもの、明かりも消え、市民の笑い声も聞こえない。手元の明かりの届かぬ先には真っ黒な夜が広がっている。
この闇を見ていると、ディムナも己の中の臆病が顔を覗かせるのを感じたが、自分よりもはるかに怖がっている部下を見ると、馬に乗って逃げ出そうとまでは思えなかった。
「キーキーうるせえぞ! おかしな野郎が何人来ようが俺がぶっ飛ばしてやりますよ、ねえ隊長!」
夜の闇さえ道を開けそうなほどの大声でもう一人の部下、ブランが笑う。畑仕事で鍛えたよく日焼けした肉体から放たれる笑い声は相変わらず叫んでいるようにしか聞こえない。
ディムナは正直に言うと、この二人の部下のことがあまり得意ではなかった。常におどおどしているスコルを見ていると、父や兄たちから自分はこう見えているのだろうかと思わずにはいられないし、たびたび自分の前で力自慢、剣の腕自慢をするブランの瞳からは自分に取り入ってなんとか立身出世を成し遂げたいという燃え上がらんばかりの野心が透けて見える。
そんなことを考えていることをおくびにも出さずに平気な顔をして二人と話している自分に「お貴族様」の血を感じて嫌気がさす。だから自分自身を誤魔化すために他のことを口に出す。
「でもスコルの言う通り、あんなふうに殺せるのは確かに疑問だな」
「でしょう? まともじゃないんですよ!」
「いや、精神状態の方じゃなくて手段だよ。仮に人間がやったとするならどうやってあんな傷を付けたんだろうな。あんなの刃物じゃ無理だ」
そして言うまでもなく、街中で熊や狼は発見されていない。
「やっぱり狼男……」
ぽつりとスコルが呟く。
狼男、あるいは人狼。成人男性よりも大きな体躯を持ち、黒い毛でおおわれた指先には鋭い爪、そして普段は人間の姿で過ごして、毎晩人を食わずにいられない怪物。
その人狼が連続殺人犯の正体であるとして、街ではもっぱらの噂である。
ディムナはそんなものは空想の産物だと一笑に付した。だが部下二人は否定しきれずにいるらしい。
もちろん本心から人狼を恐れているわけではないだろう、とディムナは考えている。街中に漂う得体のしれない不安感をなんとか理解しようとして、そこに都合よく現れた人狼という解釈に縋っただけだ。
そして同じように縋った人は思いのほか多かった。
これまでに大それた連続惨殺事件など起きていなかった街の人々は外にその原因を求めた。結果、他国から流れてきた難民がやったんじゃないか、難民の中に人狼が紛れているんじゃないか、という根拠のない噂話が広がり、先週彼らへの暴行を働く事件が複数発生した。
その対応策として、緊急の夜間外出禁止令が出された。身を守るために、という名目で出されたが、犯人だと思われたくなかったら外に出るな、と多くの市民は受け取っただろう。
街の治安はディムナの着任以来、最悪といっていい状態だ。
その音を聞いたのは夜半過ぎだった。
ぺちゃ、ぺちゃと粘り気のある水を繰り返し掬うような、鼻先の長い獣が水溜まりに何度も舌を伸ばすような音が、前方の路地裏から聞こえてきて、ディムナは思わずスコルと目を合わせ、息を潜めて足音を殺した。
――どうせ野良犬が酔っ払いのゲロでも食ってるんだろう。
いっそそうであってくれ、と願いながら路地裏を覗き込む。犬ではなかった。人の背中が闇の中で動いている。地面に置いた食い物を両手でつかんで口を汚く鳴らしながら食べている。
ディムナは胸を撫で下ろす。安心するとこの紛らわしい浮浪者への怒りが湧いてきた。
「おい。今は夜間外出禁止令が出ている。今すぐ家に帰るんだ」
浮浪者の背中がビクッと跳ね上がった。闇の中ゆっくりとそいつがこちらを向く。
ディムナの後ろからスコルがランタンを掲げて路地裏を覗き込んだ。直後「ヒィッ」と彼の短い悲鳴が飛んだ。
闇の中で髪の毛だと思った黒毛は頭と首どころか顔全面を覆っている。鼻先は長く伸び、その先端にはひび割れた犬の鼻が付いている。鼻から口までべっとりと彩った鮮血を、ソレは長い舌で嘗め取った。開いた口の隙間から鋭い、黄ばんだ犬歯が覗く。歯の間にはピンク色の鮮やかな肉片が挟まっている。足元に転がっている胸元を抉られ、恐怖の表情を浮かべたまま絶命している女の肉に違いなかった。悲鳴を上げるよりも先に食い千切られたのか、細い喉は前半分を失い、そこを中心として石畳に血だまりを作っている。
ソレはゆっくりと立ち上がり、ディムナたちに向けて一歩足を進めた。二メートルを超える体躯を見上げると同時に自然とディムナの足が一歩下がる。狼にしては異常に発達した、――まるで人のように、長い前腕が虫でも払うように振るわれた。ディムナの体が横にくの字に曲がり、壁に叩きつけられた。衝撃に目が眩む。左腕に激痛が走った。
後ろにいたブランが何事か叫びながら腰から鋼の剣を抜く。大上段に振り下ろされた剣が人狼の頭を捉えた。頭蓋骨を粉砕する音が響く。鉄剣は狼の頭部を垂直に叩き割り、顎下まで到達してようやく止まった。ブランが顔に喜色を浮かべるが、思い出したかのようにディムナの元へ駆け寄ろうとする。が、ディムナの足元までたどり着いたのは彼の首から上だけだった。
人狼は未だ喉に鉄剣が刺さり、縦に二つに割れたままの犬面でブランの太く鍛えられた首に食いつくと、その脊椎ごと噛み千切った。何が起きたか分からない様子でいるブランの生首とディムナの目が合った。
「ヒィィッ! アァァッ!」
赤い噴水をまき散らしながら膝から崩れ落ちる首を無くした巨体の後ろで、同僚の血を頭から被ったスコルが狂ったように悲鳴を上げる。背を向け逃げ出した彼を、人狼は石畳にひびを入れるほどの威力の込められた一っ跳びで捕捉すると、その前腕を振るった。
ガシャンとディムナの前に音を立てて鉄塊が落ちた。それはランタンを抱えたまま鉄鎧ごと胸像のように胴体を真っ二つに裂かれたスコルの亡骸だった。遅れてこぼれた内臓と血液がびしゃびしゃと雨のように降り注いだ。
三人分の血の池の中で人狼は遠吠えをした。だが喉に刺さった剣が邪魔をするのか、くぐもったような音しか出ない。何度か鬱陶しそうに自身の喉に刺さったままの鉄剣に手を伸ばすが、巨大な爪の生えた大きすぎる手では上手く取れないらしい。すると、人狼の右腕から見る見る内に黒毛が抜け落ち、人間の男の腕へと変じた。腕は剣柄を握ると一息に剣を抜き取り、闇の方へと投げ捨てた。がらんがらんと鉄が転がり、滑る音が響いて消えた。
枷を外した喉で人狼は今度こそ遠吠えを夜空に響き渡らせた。それは勝利の宣言であり、狩りの成功への寿ぎだった。
壁を支えにふらつく足で立ち上がったディムナを、ぐるりと首を回して狼の瞳が見た。ぴたりと遠吠えが止む。早鐘を打つ自分の心臓の音だけが聞こえる。人狼が力むように重心を下げた。スコルを一呼吸の内に殺めたときと同じ動作だと気付き、死を予感する。自分の呼吸がやたらとゆっくり聞こえる中で、ディムナは人狼の顔面の傷がすでに塞がり、黒い産毛が生え始めていることに気が付いた。
◆◆◆
様々な音が一瞬のうちに響き、ディムナの前を通り過ぎて行った。
狼の唸り声、とびかかる音。どこからか聞こえた弦を弾く音。狼の絶叫、走ってくる足音。狼の悶え苦しむ鳴き声。鞘から剣が抜かれ、風を切る。あえぐような狼の唸り声が不規則な足音とともに遠ざかっていく。
「怪我は?」
その声が自分に向けられたものだと気が付くのに随分時間を要した。狼の姿をした死が自分の前から去ったのだと気付き、ようやくディムナは自分を取り戻した。
先程一瞬のうちに目の前で起きたことにようやく理解が追いついた。ディムナにとびかかろうとした人狼は横から放たれたクロスボウの一射を受け、絶叫とともに動きを止めた。その無防備になった横っ面に何かが投げつけられた。
小さな袋。子供の玩具、お手玉に似たそれは人狼の鼻先に当たると、パッと中の粉末が舞った。月の光に照らされて、銀色の霧が踊る。その粉末を吸い込んだ人狼は完全に体勢を崩し、つんざくような悲鳴を上げながら、太い爪で血が出るほどに、己の鼻先を何度も何度もかきむしる。
そこに声の主が背中の剣を振り抜き様に一閃を放ったが、人狼は跳躍し、屋根の上を跳ねるように逃げていった。心臓向かって放たれた矢を庇った右手はそうして逃げる間まで、遠吠え前に剣を引き抜いた時のように完全に人間のそれだった。
「あ、あんたは? あれは? なんだったんだ? 酔っ払いだと思って声をかけたら壁に叩きつけられて……」
いっぺんにまくし立てて、そこでようやく自分の左腕の痛みを思い出したのか、腕を庇い、鎧にべったりと付着した血の感触に気付く。地面には新たな犠牲者と、先程まで会話をしていた自分の部下二人の物言わぬ亡骸が、血の池の中に浮かんでいる。
「あ、ああ、んぐっ!」
絶叫しかけたディムナの口の中に硬く冷たい金属が突っ込まれた。喉頭を押され思わず浮かんだ涙ごしに男の姿を見た。
無造作に伸ばされた黒髪、夜の闇とほとんど変わらない黒目、夜に紛れるような闇色の司祭平服。黒ずくめの神父と思しき男の右袖からは月明かりを青白く反射する銀の腕が伸び、その指先が今ディムナの口の中に詰め込まれている。
「大きな声を出すな。そして質問は無しだ。喰われたくないなら、まず俺の言うことを聞いてもらおう」
有無を言わさぬ司祭服の男の迫力に、ディムナはまなじりに涙を浮かべながら無言で何度も頷く。そしてようやく銀の指先が口内から離された。むせこみそうになってディムナは両手で口を押えた。
「それでいい。奴の他に狼を見たか? 重要だ。サイズの違う爪痕、歯型、足跡でもいい。死ぬ気で思い出せ」
ディムナが口を覆ったまま首を何度も横に振る。
「一匹か……。よし。じゃあ次は鎧を脱げ」
「なっ!」
思わず声を出したディムナの口を男が再び押さえる。
「声を出すなと言ったぞ。……走るのが遅くなる。音も響く。何より血を吸っている。人狼の嗅覚は鋭い。ここに捨てていけ」
「だけど」
「人狼の膂力と爪は鉄なんぞ容易く引き裂く。鎧は捨てろ。一撃でも受けたら死ぬと思え。あんたが一撃食らって死んでないのは運が良かっただけ。奴の気まぐれだ」
「わ、分かった」
まくし立てる男の圧力に屈し、ディムナは鎧を外し、地面へと置く。脱ぐときに伸ばしたせいか、左腕の傷口から血が噴き出すのが分かった。神父姿の男は革製の腰袋から包帯を取り出すと跪いて、ディムナの絹製の鎧下の上から、手早く巻き付けた。結び目をきつく縛られ、思わず呻き声が漏れる。包帯に巻き込むように男は片手だけで器用に匂い袋をくくりつけた。
籠手だと思っていた右手が義手なのだ、とそこで初めて気がついた。暗闇の中、目を凝らして見なければ分からなかった。男の右腕は前腕半ばほどからピクリとも動いていない。軽量化のためか開けられた孔から向こう側の景色が見える。
男は立ち上がると、ディムナの血を吸わせていた布を鎧を重石にして建物の影へと隠した。その直後、夜空に狼の遠吠えが響いた。ディムナは思わず身を固くする。
「奴だな。走るぞ」
再び裏路地を縫うように駆けていく。男は周囲を見回し、家屋の一段低い庇を見つけると、足を止め、建物の影になるように身を寄せ、ディムナを強引に引き寄せた。
「奴はまず血の匂いを追ってあの鎧の元まで辿り着く。だがほんのわずかな時間稼ぎにしかならないだろう。狼は鼻がいい。さっきの目潰しでしばらくは鈍るだろうが、確実に血の匂いを嗅ぎ分けて追跡してくる。やり過ごそうと思って通じるほど甘い相手じゃない」
男は話しながら、左手でごそごそと腰袋を漁る。
「それに奴等は一度手を付けた獲物には酷く執着する。今夜やり過ごせたとしても、明日の夜、その次の夜、怯えながら眠りにつくことになる。下手したら一生だ」
常に周囲を警戒していた男と、その時初めて目があった。夜のような黒色だ。あちらこちらに跳ねた髪の毛が野生の狼を思わせる。だが先程死を予感した時とは異なり心強さを感じた。守られている。
「だから奴は今日ここで殺さなきゃならないし、あんたはその死体を見なきゃならない。明日からのあんた自身のために」
「俺自身のため……」
「そうだ。それにさっきあんたを助けるためにクロスボウと毒矢、目潰しの手札を切った。だから、……その分くらいは働いてもらうぞ」
手負いのディムナだけ逃がす、という選択肢は男の中には無いようだった。逃げられない、ということを知っているかのようだ。
「これから策を話す。頭に叩き込め。仮に失敗した場合、俺はあんたを助けない。奴があんたを喰っている隙を突いて殺す。……いいな? 質問はあるか?」
「ひ、一つだけ、いいか」
「手短にな」
「あんたは何者なんだ?」
架空の存在と信じて疑わなかった人狼を、手玉に取り、あまつさえこれから殺すと言うこの男は。
ディムナの問いに男は短く答えた。
「俺は、――狩人だ」
そうか、とディムナは当たり前のことに気が付いた。
狼を殺すには狩人が要る。
◆◆◆
ディムナは夜の街を一人駆ける。
走った距離はわずかに過ぎないのに、左腕の怪我のせいか人狼への恐れかやたらと息が上がっている。
人狼の姿も狩人と名乗った男の姿も見えない。
自分を置いて逃げた、とは思わない。この暗闇の中でも見られていると感じるからだ。でもそれは人狼の視線かもしれない。そう思うと足がもつれそうになる。
恐怖と不安がそんな錯覚を生んだだけだと自分に言い聞かせた直後、後ろから確かに狼の遠吠えが聞こえた。近い。間違いなくあの人狼だ。脱いだ鎧を見つけたのだろうか。
自然と右手をぎゅっと握りしめた。手の中で狩人から渡された小さな布袋が形を変える。剣も鎧と一緒に捨ててきた今の自分にとってはこれが唯一の武器だ。効果は先程見た通り人狼の視覚と嗅覚を一度に奪う目潰しだ。
ディムナは逃げ出し、現在一目散に自警団詰所へと向かっている。人狼は必ずそれを阻止するためにもう一度現れる、と狩人は断言した。そこにこの目潰しを当て、動きを封じたところで、風上からディムナを追っている狩人が殺す、というのが彼の語った策だった。
あと少しで詰所に着く、というところで先程までの漠然としたものとは質の異なる気配と音を感じた。背後から軋むような音が断続的に繰り返し、近づいてくる。それが最大にまで近づいた時、ディムナの正面にあの怪物が濃厚な血の匂いを纏わせたまま降ってきた。建物の上を跳躍して一気にここまで移動してきたのだ。あの軋むような音は人狼の脚力に歪み、たわんだ家屋の屋根が発する音だったのだとようやく気付く。
血と交じり合った獣臭さに思わず顔を背けたくなる。その異形はさらに不気味さを増しているように見えた。先程自分で鼻先を搔きむしった傷がまだ生々しく残っているからかと思ったが違う。毒矢を受けた右手が治っていないのだ。クロスボウのボルトはすでに引き抜かれていたが、いまだ風穴が開いたまま血が垂れ流しになっている。そして傷の周辺だけ狼の特徴的な太い黒毛が禿げ上がり、おぞましい腐ったような紫色に染まった皮膚が闇夜にぼうっと浮かんでいる。
狼が吠える。その威圧に思わず思考を中断させられ、足がすくみ、手を握る。右手の中の感触を思い出す。それに引きずられて狩人の指示を思い出す。
「ウオアアアッ! 食らいやがれぇっ!」
指示通り大声を張り上げながら、目潰しを力の限り投擲する。袋は闇夜を舞い、人狼は跳んでそれを避け、袋の中身は石畳へとぶちまけられた。
え、とディムナの口からあまりに間抜けな息が漏れる。
考えてみれば分かりそうなことだ、と自分に飛びかかろうとする人狼を見ながらディムナは思った。こいつはこの目潰しを先程一度食らっている。鉄の剣とは異なり、ひどく苦しんだそれを避けないはずがない。
思わず逃げようとして足がもつれ、尻餅をつく。俺はここで死ぬんだろう。あの狩人も言っていたじゃないか、俺がしくじったら俺が食われている隙を突いて殺すって。
ちくしょう。嫌だ。死にたくない。狼に殺されて食われるなんてそんな死に方――。
人狼が目潰しを避け、獲物目掛けて跳躍せんとしたその瞬間、その黒い脚目掛けて鎖が投げられた。鎖の両端には分銅のような重りが付いている。
人狼は目潰しを避けた。避けてしまった。先程己をひどく苦しめたそれを警戒し、大きく避けてから獲物へ向けて切り返したその瞬間を狙って、家屋の影に潜んでいた狩人は鉄鎖を投擲した。それは過たず人狼の両脚を絡め取り、狩人へと向き直ろうとした人狼の体勢を崩し、仰向けに転倒させた。狩人が飛びかかる。ボーラの投擲後すぐに左手は背中の銀剣へと伸びている。
人狼の爪が届かないように、その両腕を踏みつける。抜き放った剣を片手で逆さに持ち替えて、黒い体毛に覆われた胸の上で垂直に構えた。義手は剣の柄に当てられている。ディムナからはそれは月の光を反射して銀に輝く巨大な十字架に見えた。
狩人は小さく息を吸い込むと、銀剣を怪物の胸へと刺し入れた。人狼の断末魔の絶叫が闇の中に響き渡る。暴れる人狼を足で押さえつけたまま、さらに深く剣を沈める。噴き出す血の勢いが増した。狼の吠え猛る顔が一瞬、人間の男の顔に見えた気がした。数秒ほどそうしているとやがて人狼の絶叫は途絶え、動きは痙攣に変わった後、ぴくりとも動かなくなった。
狩人が深いため息をついた。
夜に紛れるような闇色の司祭平服。
その輪郭をしたたるほどの返り血が露わにする。
男は死骸に足をかけて、その心臓から先程突き立てた両刃の剣を引き抜いた。
月の光を照り返していた銀の剣はいまや根本まで怪物の血でべったりと汚れている。
剣を一振り、血振りをくれるとパッと血飛沫が舞って、男の頬と服、そこから伸びる銀の腕へと染み付いた。
男の右前腕の半ばから伸びるそれは銀で出来た義手だった。軽量化のためか、開けられた孔の向こう側に夜が広がっている。
若い騎士はへたりこんだまま、呆然と男の姿を見上げていた。
綺麗に切り揃えられた金の髪は千々に乱れ、色の白い肌は泥と汗とで汚れ、見る影もない。
――銀の腕の狩人。
夢でも見ているのか?
そう思ったのも無理はない。
若い騎士の目の前で、司祭の恰好をしたその男は自身よりも二回り以上身の丈の勝る怪物をほとんど一方的に蹂躙して見せた。
司祭服の男は銀剣を背中に負った革鞘に納めると、左手で首元から麻紐に繋がれた十字架を取り出して、額に当てて祈った。口元が小さく、素早く動いた。騎士には何と言っているのか聞き取れはしなかったが、その手早さから、慣れた動作だと分かった。
きっと今まで何度も同じことをしてきたのだろう。
――何匹殺してきたのだろう?
死骸を前に佇む男の姿は、目を凝らしていないと夜の中で見失ってしまいそうだった。
若い騎士は思った。
――悪夢だ、これは。
だが、断末魔の叫びを上げたままの人狼の亡骸と、そのむせかえるような血の匂いが、目の前で起きた出来事が夢ではないことの何よりの証だった。