終章 希望の奥を流れて
幼い頃から、景色がぐるぐると回っているように見えた。
水口凌、旧姓人菊凌は、生まれたときから他者に劣っていた。頭の回転が遅く、人一倍手が掛かって、何をやっても下から数えて一桁の位置にいた。失敗は数えきれず、医療に携わる両親や頭のよかった姉からは置いてゆかれる毎日で、いつだったか気づいた。
……この人たちのおにもつなんだな、あたしって。
手を煩わせることでなんでもできるひとの時間を奪い取っている。そうして奪った時間で人菊凌ができたことは、人並以下のことでしかなく、秀でた何かを磨くことはできなかった。
「あなたは何もしなくていい。わたしがやってあげるから──」
「いい、あたしがやるから、ねえさんはしゅくだいしてて」
「でも──」
「いいから!」
「……そう。ごめん、気をつけてやるのよ」
「わかってるってば……」
そう言って、人菊凌はカッターナイフを握り、工作の宿題を、一人で、ぎこちなく、不出来に終えて、提出した。
突き放した姉から両親にまで一つの意識が伝播した。これまで末子に手を掛けすぎた、と。そうやって、両親と姉から手伝われることがなくなった。意識的であることを、最初は感じていた。工作物のように不出来ながら人菊凌はなんでも一人でやるようになって、手を掛けないこと・手を掛けさせないことに互いが慣れていって、意識的でなく無意識的に距離ができていった。最初は人菊凌を想ってのことだっただろう不干渉は、それを求めたはずの人菊凌に取って越えられない壁になって、家族に取っては柵になっていた、のだろう。人菊凌は家族の認識を確かめなかった。
壁の正体が判れば、また手を借りることができるかも知れなかった。反面、手を借りることで家族の足を引っ張ることを反射的に思い出して、壁の正体に迫ろうとはしなかった。家族のほうも、柵を圧し折ってまで迫ってはこなかった。話すこともなく、距離もある。目を合わせることもなくなって、同じ空間にいてもいない者のようになって、次第に、人菊凌は壁への認識を変えていった。
……あたしが重荷だから──。
家族もそう思ったのだ。だから、放置されているのだ。
人菊凌は、陰で膝を抱えて、願った。
……早く、家を出たいよ。出たいよ……。
役に立つ荷物ならいい。砂袋のような、重いだけの荷を抱えていたところで、家族に得があるか。これまで、得があったか。
……ない。
手と足を、あるいは心までを煩わせた家族から離れたい。家を出ればそれが叶う。高等部卒業の頃には明確に、人菊凌はそれを目指していた。
人菊凌には、容姿や性格にも求められるような要素がなかった。一つだけ挙げるなら立場が特別だった。上流階級の両親の子、と、いう立場。貧富格差が肥大したこの国の社会構造においてそれだけが人菊凌の武器たり得た。人菊凌は、お小遣いと称する現金を両親から毎月もらっていた。重荷の証のように捉えていたそれを使うのは躊躇われて、また、単に用途がなかったために貯まってゆき、貯金は一般的な一〇代後半が持ち得ないものになっていた。人菊凌はそれを活用した。比較的貧しく、それでいて人格に恵まれた人物を探して、何人も、囲うようになった。将来性があれば投資することも決めていた。しかし、人菊凌には、ひとを観る眼もなく、自身の立場を見定める眼も、なかった。立場に引かれ努力を怠った人間にまともな才能が育つわけがなく人格も上っ面、人菊凌が彼らの持ち得た才能を貶めた部分もあったか、ただただ、慰めを得るだけの関係にとどまって、満足を得られなかった。
寂しかった。
家族のような、たった数人のグループでいい。高望みはしない。たった一人だっていい。自分を求めてくれるひとがいてくれたなら、それでいい。何人もの人間を囲ううちに人菊凌はそう考えるようになっていた。
高等部を卒業してから進学するでもなく、一年を家で過ごし、それでいて家にはあまりいない人菊凌に、希しく父の声が掛かった。
「最近、何をしてるんだい。寒いだろうに、夜遅くまで」
「関係ないでしょ。話しかけてこないで」
「就職もしないでぶらぶらしてるのかい」
「娘が就職してるかどうかも知らないくせに……親ぶるの、やめてよ」
「凌──」
「鬱陶しいならそう言えば!」
「凌っ──!」
人菊凌は、初めて、家出をした。
思い出せもしないきっかけは振り返れなかった。家族の想いがどこにあるかなど、到底信ずることができず、自分を排斥する意志しかないように感じて、重荷どころか劇薬に扱われているように思えて──、町へ出て、汚い路地裏で膝を抱えて、ひたすらに俯いていた。顔を上げると、煌びやかなネオンより欲望塗れな自分を感じて、次には、膝と膝のあいだから見えたゴミの数数は誰かに使われてそこにあることを感じて自分よりも価値があったもののように思えて、視覚が崩れ落ちた。
そんなときだった。
「何をしている」
「っ」
「……」
「……」
声がしたほうを見上げると、ぼやけた影しか捉えられなかった。
「少しじっとしていろ」
言われなくても動く気など起きない体だった。それに、もう、どうなってもいいと思っていた。その影が暴漢でこの路地裏で何をされたとしても、暴漢の欲望がほかのひとを傷つけることがないのだとしたら、少しは、世の中の役に立てたと誇ってもいいような気がして、人菊凌は身構えもせず言われた通りに動かなかった。
人菊凌を傷つける影はなかった。その影は、人菊凌の膝に手を翳して、水色の淡い光を灯して、
「あ──」
「もう大丈夫だ。立てるな」
「ん、ええ……」
手を引かれて立ち上がると一気に視界が鮮明になって、零れ落ちた痛みとともに暗い洞窟から新しい世界に踏み出したようだった。
聞けば、両膝に怪我を負っていた人菊凌だった。影はそれを治してくれたのであって、間違っても暴漢などではなかった。その上、
……この人も、治癒魔法を使うんだな。
姉や両親のように。幼い頃から観てきたものだから、それがいかに優れた才能か判然としていた。
「ではな」
「待って!」
このひとを囲おう。囲わないと。人菊凌は直感的に思った。「人菊凌。あなたは」
「……水口誠治だ」
それが、彼との出逢いだった。
同い年の彼は最高学府で治癒魔法を学んでいた。卒業後まで見据えて勉学に励むとともに治癒魔法の練習も絶え間なく続けている、とは、何度も会って少しずつ聞き出した。そうして情報を引き出すうち、両親を亡くした孤児として育ったと聞いて初めて人菊凌は自分が上流階級であることを彼に打ち明けた。上流階級であることを知る前から話を聞いてくれた彼の人格を信じ、才能を買い、人生を懸けて投資することに決めた。
……これで、あたしはあの家を出られる!
して、水口誠治に持ちかけたのが契約結婚だった。
愛情は二の次だった。家を出たかった。水口誠治と出逢って家出から早早に帰宅した日のように、気まずい帰宅を繰り返すのも嫌だった。堂堂といられる家がほしかった。そこには両親や姉がいないのが望ましく、そのためには結婚して家を出るのが最善と考えた。そこで幸いしたのも立場だった。跡継ぎではない次女という立場は、両親への交渉をうまく運んだ。両親の傘下にある研究所で才能ある水口誠治を役職という鎖で繫ぎ止めることを提案し、成果を挙げれば後世に寄与できる、と。その交渉の中で、人菊凌はこうも言った。
「このくらいしか、あたしがみんなにできることはないから」
両親も承知済みの政略結婚の側面を得て、契約は固く結ばれた。
さらなる幸いは、水口誠治に特定の相手がいなかった。根からの研究人だった彼は恋愛に興味がなく、人菊凌に接触したときも治癒魔法の技術向上を狙った練習をしていたのだった。
「──って、練習て!それ、法律に引っかかるんじゃ……」
「新開発のものはな。低偏差値の学園では人間相手の治療はなかなかできなかったからな」
と、いうのが彼の言訳だった。が、彼の才能が両親や姉に劣らない素晴らしいものだとは出逢った日に察したので、人菊凌改め水口凌は容認して、黙認した。が、ただで黙認するのはもったいなくて、
「あなたの黒歴史、あたしが握ってることを忘れたらいけないわよ」
「利用する、か。逃げる場もないわたしに足枷をつけたところで意味がないと思うが、君がそうしたいならそうするといい」
「枷じゃなくて柵。それと、念のためよ。柵が多いほうが人間らしいでしょう」
「……そうかもな」
ひょっとすると巡り合うことすらなかったかも知れない彼なのに、合致する感性もあった。
それは、寂しさ。そして、それを心の底で嫌っていること。さらには、その寂しさを何かで満たしたいという欲求。それでいて、誰にも迷惑を掛けたくないという我儘さ。
両親が建てた水口邸。両親が用意した生活雑貨諸諸。手切金となった自由の象徴を眺めて過ごす日日は決して高くない水口誠治の給金だけでも解放感に満ちていた。両親に伝えていた表側のものと水口誠治に伝えていた裏側のもの、二種類の契約があったからだ。裏側の契約には水口凌と水口誠治両方の不倫を容認するという旨があって、水口凌は変らず他人を囲うことをしていたのである。寂しさを埋める契約は夫婦に適用した。特定の相手がいない水口誠治に愛人を囲うことを認めたのは、互いの心を理解して癒やす関係を利益としたからであった。
そこには一つ、水口凌の越度があった。契約を提案した頃、新たな姓を得た後の自分を想像しきれていなかったことだ。水口凌は彼と暮らすようになってから、愛人と過ごす時間の虚しさをより強く感ずるようになっていた。それは全く予期せぬことであった。経済的にも物理的にも両親と切り離された環境で、密かに認められた関係を結べれば満ち足りた生活が送れると思っていた。それは全くの勘違いだった。
……なんで、こんなに寂しいんだろう。
ベッドで撮った不倫相手との写真を水口誠治に送っても特別な反応がなかった。
黒歴史を握っているはずの水口凌はしかし水口誠治の柵にはなっておらず、彼から何も奪えていなかったことに気づき始めていた。
水口誠治から何を奪いたかったのかが判然としたときには遅かった。きっかけは竹神納月が現れたことだった。彼女を罵り、叩き、謝って、ようやく水口凌は自分が水口誠治を求めていたことに気づいた。水口凌は、久方ぶりに膝を抱えた。自分で自分を補わなくてはならなかったのに、知り尽くしていたはずの鈍重さに足を取られた。しかも、自分から求めたひとに置いてゆかれる未来が、見えてしまった。
どうにかして繫ぎ止めたい。そう思った。しかしながらその思いを行動にすることは裏側の契約に反する。それを、彼に言われて初めて気づくほどに、盲目になっていた。水口凌は昔から変らず、ひとより秀でたところがなく、誰より劣っているままだった。
劣等感を自覚したところで気持が動き出したら止まらなかった。接近してゆく二人を遠目に虚しい不倫を続けている自分が路地裏に転がったゴミ以下に観えて、暗い寝室と路地裏がダブって──、ぐちゃぐちゃにした。少なくとも自分はゴミより価値がある。自分はゴミを作り出す側でゴミにはならない。そう示すように、かつて家族にそうしたかったように、水口誠治に訴えたかった。あたしはこんなに苦しんでいる、と。あなたを求めている、と。
……なのに、あなたは──。
水口誠治の心は、いつの頃からか竹神納月に奪われていて、奪い返すことが困難になった。困難、とは、表したが、実際のところは、無理だろうな、と、諦めていた。相手には、水口誠治と同じ立場があって、能力があって、才能もあって、容姿まであって、水口凌はその中の一つにさえ敵うものがなかったからだ。
……そうか、──そうなんだ。
諦めといえば諦めといえる考え、悟りを開いたような考えが、芽生えた。
……あたしは、才能ある人達を観てるしかないんだな。
作り出された舞台を眺めて一喜一憂するあいだに、新たに生まれた舞台を見逃してついてゆけなくなる観客。その観客が自分だ、と、水口凌は思ったのである。
そうであるなら、大向こうで唸ってやろうじゃないか。演者の目に留まって声を掛けてもらえたら主役との対面を果たせるかも知れない。置き去りにされないかも知れない。
その考えは一部正しかった。間違っていたのは主役が誰なのか、と、いう点だった。水口凌は水口誠治が主役だと思って目を引こうと必死になっていた。けれども、自宅で竹神納月と対面して、水口凌は本当の意味で悟った。
……主役は、この人だ。
水口誠治の才能と能力、それから感情を高めたひと。そしてなおかつ、水口凌の思考を高め感情を悟らせたひと。舞台の中心にいて大向こうも演者も唸らせたのは、彼女だったのだ。
……この人には、絶対に、敵わない……。
メイクとともに、真の諦めが零れた。
契約関係やそこに渦巻く感情を包み込むように彼女は適度な距離を保ってくれた。夫婦の関係を脅かす泥棒女ではなく、竹神納月という人間を貫いている。その名を握った舞台で真剣に生きている。旧姓を棄てたがって事実棄てて舞台を降りた水口凌とは、格が違った。異性どころか他人にさえあまり興味を示さなかった水口誠治が心惹かれたのも無理からぬことだと察するほどに、水口凌も、竹神納月に惹かれた。応援したくなってしまうほど、羨ましくて痛めつけたくなってしまうほどに、惹かれてしまった──。
竹神納月と会う機会を作らないまま、水口凌は不倫関係を少しずつ整理した。訴訟に発展しそうな関係は両親に頼んででも切ろうと考えていたから、思ったよりみんなが無感情に離れてくれたことに、安心した。虚しさは当然あったが、ひとを大切に想い、才能と能力を最大限活用して仕事に励むひと達を知ってしまったからだろうか、清清しさが優った。
……結局独りなのにな。
孤独を癒やそうと寄り添ってくれる水口誠治とも、そんな水口誠治との関係に配慮してくれた竹神納月とも、一枚の大きな壁を感じて、水口凌は膝を抱える毎日だった。不倫をしているときに比べて寂しさを感じないのは鏡がないからだろう。生活ができれば感情が失せて、目的がお金に掏り替わって、感情を残すこともなく立ち去れる。そんな鏡との関係は地獄だったのだろう、と、振り返る。
立ち去れる関係なら、どんなに楽だろうか。水口凌はやはり鈍重で、苦しいばかりの関係に身を置いてしまった。水口誠治との関係は両親に示した表側の契約で解けないし、竹神納月との関係は表向きただの他人だ。二人ともに近づけず、二人ともと離れられない。そうなったのは自分の選択の結果だというのに、過去に遡ってやり直したくなった。もし水口誠治との出逢いが異なれば、もし竹神納月を叩いていなければ──、ぐるぐるするばかりの景色の中でもしは役に立たなかった。
このままゆくと未来はどうなるだろう。竹神納月が水口誠治を介して許容の範囲を探ってくれたお蔭で、水口凌はそんなことを考えるようになった。
……子ども、か。
最近、目に留まるようになった。……ほしいんだ、あたしが、子どもを。
考えたこともなく、むしろ要らないと考えていた。不倫相手との子は絶対に作らないと考えて気をつけていた。水口誠治とさえ、気をつけていた。と、いっても、水口誠治とはそんな関係になったことすらなかったが。
「……」
自宅の窓から、降園中の園児や児童がよく見えた。自分の子であったらどんな気持で迎えるだろう。どんな気持で待っているだろう。そんなことを考えて、水口凌はしかし、
……作らない。
そう、考え直した──。
柵、いや、枷でもいい、水口誠治を絡め取って自分のところに縛りつけたいくらいに欲しているのに、子を利用するようなことはしたくなかった。それに、妻と愛人、両極のようでいて同じひとを愛する女として、同じ立場を貫きたかった。子を作ることで竹神納月への許容の範囲を広める結果になることも、竹神納月に先んずるようなことも、避けたかった。竹神納月が言うように水口凌は契約の時点で水口誠治より不利な立場を取っていたともいえ、愛人を許容してからの自己の立場についても不利になるように立ち回っているともいえなくはない。そもそも妻が夫とのあいだに子を作るのは誰に咎められることでもなく、愛人と対等である必要はなく気兼ねする必要もないのである。それでも水口凌は、竹神納月に先んじたくはなかった。彼女と、対等でいたかった。全てに劣るからこそ有利な立場を利用したくなかった。
それでもし竹神納月が水口誠治とのあいだに子を作れば、水口凌は彼女に一つだけ秀でることができる。関係を深めるために子を利用しなかった。そのように、声を大にして言える。
だからといって、彼女が彼とのあいだに子を作ったとしても咎めるつもりはなかった。なぜなら、そうするのが自然に思えるほど水口凌は二人の関係を認めていた。いっそ、積極的に子を作ってくれても構わないほどに、認めていた。
そう思えるほどの相手だったからこそだろう。好敵手たる竹神納月は、水口誠治との関係を進展させなかった。妻水口凌から奪うような行動も、態度も、執らなかった。その姿勢は、妻である水口凌が切なくなるほどに純粋で、年を追うごとに応援する気持が深まっていった。
その気持が暗転したのは、感染症の流行によって国民全体の意識が大きく変化したときだった。
皆が皆、嫌でも家の中で過ごし、隣国どころか隣町への移動さえ避けて、自粛に自粛を重ねた。ウイルスを取り込まないよう高値のマスクを買うこともした。止むを得ない外出をするときはそんなマスクを惜しげもなく使い、肌が荒れたり耳が痛くなっても着用をやめなかった。帰宅すれば手洗いをし、うがいをして、除菌を徹底した。生活が立ちゆかないと判っていても国の要請に応じて店を閉めた事業主は数えきれないほどいたし、廃業や解雇に追い込まれた人人は明日の見えない毎日でも必死に働き口を探して堪え抜いてきた。数箇月前・数年前の常識が通用しない感染症に対して可能な限りの対策を講じていても、感染した途端に人権を失ったかのような扱いを受けたひともいた。感染者が医療関係者ともなれば誹謗中傷という言葉では足りないほどの凶器を浴びせられていた。許せたはずの小さなことを見逃せずにひとを害する気持さえ湧き上がってしまう、第三次世界大戦と喩えられた事態がみんなを蝕んでいた。
そんな状況下で竹神納月と水口誠治が接触していることに、水口凌は、怒りを禁じ得なかった。治癒魔法研究者や治癒術者。その立場は、水口凌が得たくても絶対に得られないものだったのに、それを得た二人が立場にそぐわない行動をしていることにも憤ったが、それ以上に、二人がその立場を失ってしまうほどの非難を受ける危険性が見えて恐ろしくて、それを誰より先に先見しなければならなかった二人の鈍重さに、怒りを禁じ得なかった。
水口凌は、そのとき初めて愛するひとのために爆発した。
結果、誰より認めた二人の関係を引き裂いた。さらには、水口誠治に重い枷を嵌めることになった。
水口凌の気持を一番に察してくれたのは、竹神納月だったのだろう。と、いうのも、水口誠治に経緯を確かめる勇気がなかったとは言え、彼女に会いに行ったあとから彼の態度が軟化していた。おまけに、それ以降彼女に会いに行くことなく休みの日も彼は家にいて、まこと妻として扱ってくれた。上辺ではなく、大切に想ってくれた。ようやく妻になれた。水口凌はそう感じた。
嬉しかった。水口誠治が声を掛けてくれることにも、触れてくれることにも、逐一どきどきしてしまうほどに、嬉しかった。気持を伝えれば同じ質量かそれ以上で優しさが返ってくる。たった一人でもいい、と、願った関係が初めて手に入って、果てしなく嬉しかった。
……けど──。
不倫でもなく、心も通じ合っているはずなのに、虚しく、寂しく、悲しい。ほかでもない自分の心に、そんな裏を感じた。
やっと心の底から触れ合えたというのに、その心に裏を感じて、噓をついている気分になって、後ろめたさが湧いた。
湧き上がった気持が自分にも止められないように、それは誰のせいでもなかった。けれども水口凌は自分のせいと捉えていった。
原因は、爆発だ。心に裏側ができてしまったのは、二人の関係を壊してしまったことに端を発していた。だから、初めて心から求めてもらえたのに、水口誠治の気持に応えることができなくなっていった。
気持を理解して寄り添ってくれた二人の人生をぶち壊してしまった。それほどの重荷になってしまった。枷に、なってしまった。そう自覚したら、心の裏側を隠せても枷で存り続けることを選択したくはなかった。
……死んでまで、迷惑、掛けたくない──。
何より輝いていて手を伸ばしたいものに、就学時代は興味を引かれなかった。妹のそれに密か憧れていたのは姉のプライドか負けん気だったのかも知れないし、味わい尽くした劣等感を避けたかっただけなのかも知れなかった。今は何よりあれを欲している。冷えないスカートのはためきを、日傘の下で感じてほしい相手がいる。傷つける相手がいないなら罪悪感は目を瞑れるものになっていることを知り、いつか交わした約束の覚悟と勇気を信ずるなら前のめりに走り出してもいいという考えを抑える自分自身が、あるいは最後の柵であった。
目が眩む輝きと相対する濃い影を纏う数分間が、地表に訪れていた。納月は日傘から、一点の輝きを瞬時に捉えた。途端に脚が止まって、柵と熱気にスカートがはためいた。
「納月──」
「──」
車のライトをぶつけられたかのように目の前が真白になってゆく。全身を絡め取った柵が噓のようにほどけてゆく。
……──。
周りの人間はことごとく老いていった。納月はあの日の覚悟に取り憑かれたかのように若いままだった。強い魔力を宿した者に稀に観られる現象は、納月と彼の時間を大きく隔てているようだった。
ほどけてゆく柵を踏みつけるように靴底をしっかと地面につけて、納月は口を開く。
「怪しい眼鏡の変質者は名乗るくらいしたほうがいいです」
「水口誠治だ。元上司の眼鏡くらい憶えておけ」
「雨に打たれてすっかり忘れました」
「あの頃から何度かフレームを替えたがな」
「だったら憶えてるわけないでしょうっ」
「所内でちらとは見ているだろう」
「変質者はどうか知りませんが見向きもしませんでしたから」
「清純だな」
「どこをどう誇大妄想したか暇潰しに聞きます」
「統計に高い信憑性を得た心理学に基づき君がわたしを気になっていると観た」
「ひとの心理が一つの統計的考察で紐解けるほど簡単だと独善的かつ都合よく思い込んで複雑もしくは混沌の心理を無視すべきと考えるなら研究者の肩書を今すぐ棄ててください」
「訂正しよう。君は天才で統計的考察に収まらないだろう。その確認をさせてくれないか」
「なぜです」
「君の気持を聞きに来た」
無味乾燥に言う男である。
……冷静なのか、必死に装っているのか──。
見慣れない眼鏡のフレームがぎらぎらと輝いて、納月は目を開けているのがつらい。
「あなたはお参りに行きました」
「誰のだ」
「文脈的に奥さん以外のと捉えるなら学園から出直しです」
「お義父様方……人菊家が到頭会いに行ったようだな。感謝する」
「場の流れで、決めたのは凌さんの家族です」
感謝など要らない。「研究は終りです。お疲れさまでした」
「逃げるのか」
田創総合病院脇の小路。
「逸る気持を理解しますがあなたが立ちはだからなければわたしは帰途についてました」
「歩きながらでも構わない」
「迷惑です」
「君はまだ返答していない」
「あなたの事情です」
「君の内心を聞くまで離れない」
……わたし以外が相手なら通報されてますよ、あなた。
納月は歩き出した。その横にぴったりとつく水口誠治であった。
「外見だけは老紳士なんですから態度や行動や言葉遣いも合わせたほうがお得です」
「あいにく性根が透けて無駄になる」
「一〇〇年経っても性根は変わらないですかね」
「虚飾で騙す趣味もない」
……そう言う割に、心は透けてないんですけど。
彼の心を読み取れないのは、何十年もまともに話していなかったせいか、それとも──。
中のものが歪んで見える水面があって、手を入れてみてもうまく摑めないよう。すぐに手を抜かざるを得ないことを水面の冷たさから知って、単刀直入に確かめる勇気は、出ない。
踏み出した覚悟をもう二度と奮えない。漠然とそう感じて日傘を握り込み、未来を見つめた目を遮った。
いつかは話すだろう、と、考えるのは、覚悟の丸投げだろうか。社会人としての自由と責任はそれを思った未成年の頃のほうが熟考し、理解し、体現までできていたのかも知れず、予期せぬ形で踏み外したことへの自罰感情を今また思い出して柵に脚を取られてゆく。
「──わたしは遠いところに移り住むことに決めました」
噓ではなくても噓のように思いたかった別れの言葉を重ねること。そうするほかに確かめる術を納月は持っていなかった。
「漠然としているな」
「遠いところは遠いところです。恐らく、人類のほとんどはそこへ辿りつくこともないです」
神界移住計画。密かに進んでいた両親の計画は打ってつけの言訳になった。噓になるかも知れないが、もしもその計画が完遂されているなら、納月は今すぐにでも移住したい。
……この国には、もう、いたくないです。
抱き締めてもらえることの尊さを、幼い頃には両親から、成長するにつれて姉また妹から、そして、水口誠治から教わった。いま一番に求めている抱擁を、過去に知っている。
「わたしは残りの人生を人命に捧げる考えでいる」
「──」
「凌が亡くなって、人生を振り返った。……ずっと夢のためにやってきた。魔力と知識と技術を蓄えるためにはときにむちゃもし、契約結婚などという人命・人心を軽んじて振り回す選択までして、ここに至って、わたしは原点に戻った」
「原点。なんです」
「わたしは血が苦手だ」
「なんです、それ」
「噓ではないぞ。所の意向で行っていた治療ボランティアの現場もそれなりに選んで、なるべく血を見ないで済む患者に対応する」
「治癒術者失格」
「だな……。言訳だが、幼い頃に観たバトル漫画発のアニメが悪影響した」
「そんなもんの影響受けてるなんて信じがたいんですが」
「ひどく規制の緩い時代があった。恐ろしく血腥い描写は現代では公共電波に載り得ない」
「(噓じゃなく、言訳でもない、ですかね。)そんな話、初めて聞きました。それでよく治癒術者になれましたね」
「そうするほかなかったからな」
「妥協案っ」
水口誠治の新たな一面を知って、手放した時間を取り戻せた気になって納月はつい笑ってしまった。
「いや、懸命だった。そうしなければ血みどろのバトルをする未来しか見えなかったからな」
「あ──」
魔力を持って生まれた人間の多くは、魔物との戦いに駆り出される。魔力を持たない非力な人間では対抗できない外敵だからだが、水口誠治は外敵とのバトルを避けたかった。
「魔物とのバトルなど痛いに決まっている」
「ええ、痛いですよー、あれは」
「君は戦ったことがあったか」
「食われかけました。無事でしたけど、……痛いです」
怪我をしたのでもない。なのに消えない恐怖感。怪我を負っていたら、それこそ引き籠もるほどに恐れていたかも知れない。
「君がそうなら、わたしなどはやはりそちらの道へ進まずに済んでよかった。天職だと感じているからな、わたしは根っからの研究者だ」
「同類でしたね、わたしとあなたは」
「ああ、同類だった」
……──。
「君と、わたしは、違う」
「あなたは、老いていってますからね」
輝かしい時間は日没と終り、この国には暗く寒い夜が来る。
「君はどこでもひとと向き合える。わたしは君より先にゆく。──元気でやれ」
もう、日傘も必要がない。
去りゆく靴を見つめることしかできず別れ道でもない小路では自ら立ち去ることもできずただただ震える脚を治めようと俯いて、求めた輝きを遮るのみに終始し、けれども、
「ありがとうございましたっ……!」
勝手に口が開いた。「失敗はしましたけど一緒の研究は愉しかったし何より最初そうしようと言ってもらえたときや踏み出してくれたとき、わたしは……──」
一つ言葉を吞み込んで、日傘を閉じてお辞儀をした。「お元気で。さようなら──」
どう理解したらよかった。
どう寄り添えば正解だった。
あとになって考えてもなんの意味もないだろうか。自身に問いかけて過ごすことで将来的に活かせるならきっと彼も彼女も悦んでくれるのではないか。
水口誠治に移住を伝えた翌日、神界移住計画が完了したことを母が教えてくれて、合わせていつでも迎え入れてくれるという話を聞かせてくれた。
彼に伝えたことが噓にならなくてよかった。納月は妹とともに神界への移住を決めた。仮に神界への移住ができなかったとしても、彼が知らないところへは行こうと決めていたから、そういうところならどこでもよく、家族が一緒にいられる場所が一番よかったから、好都合というより願ったり叶ったりだった。
神界へ移住してからもいろいろあって、父と二人きりで話す機会がなかなかなかった。人類の暦でいうところの三〇七五年五月二日、火曜日の朝、藺草の香りが懐かしい父達の寝室を納月は訪ねた。
「ちょっと、話、いいです」
「おいで」
ここに移住するまでの何十年か顔も見ていなかったから、最後の記憶と照らして父が穏やかになったことをすぐに察した。しばし観察したら、父と母の仲はとっくに修復されていることや娘の立場で心配すべきことなど何もなかったことを気づかされて前向きな溜息が漏れた。
「心配かけたね、いろいろと」
「ええ、ほんといろいろと」
詳しい説明は割愛するが、納月には到底成し得なかった高等な魔法によって父が命を落とすことはもうなく、生まれてこのかた何十年の最終目標は父に対して必要がなくなったことを納月は安堵している。家族間の問題もそれはそれは多くあったし、これからも相当大変だろうことを想像するも、父が健在で母が心から微笑んでいる竹神家ならなんの問題もないことを、納月は確信している。それでもって心配事がなくなる、だなんて、楽観視はしておらず、移り住んだこの村で始める予定の治癒魔法によるボランティア活動を含めて苦労が絶えなくなることは納月だって想定済みであるが、幼い頃と違って対処する術を身につけてはきたし、心の持ちようも培ってきているので、なんとかできるとは考えている。
過去のことは変えられない。事実はねじ曲げられないから確かめられたかも知れない事実はどうしても気に掛かり、自問自答するぐらいなら昔からなんでも察していたふうの父に向かって問いかけたほうがいい答が浮かぶような気がして、納月はこうして父を訪ねた。
「お父様に、質問が一つあります。素直に答えてもらえます」
「素直に。俺がぁ、マジでぇ」
「ツッコミを要求しないでくださいますかね」
穏やかになりすぎてノリが軽い父は、それはそれで嫌いではないのだが。
「まじめな話です。お願いします」
納月は頭を下げた。
元来、父は空気を読むのが得意だ。それは、文字通り他者と他者の形作る雰囲気と話の流れと調子を読み取る力であり、そこに添えるべき言葉を創出することである。
「いらっしゃいませ。大人の世界へ」
「認めてくれて、嬉しいです」
「歩みが遅くとも、子が成長することを願わん親はないよ」
納月だけではなく娘全員の成長を望み、また、母や母に繫がる多くのひとの成長も望んで、叶えたのがここにいる父である。
「五〇を超えました。子ども扱いしてほしい気持がないといえば噓ですが、昔みたいに幼さを扮飾することは、もうないです」
「成長したとて親に取り子は子のままに。甘えたいときは甘えなさい」
幼い頃は、変なスイッチが入ったときの父が偽りで、それこそ教育のために演技してくれているのだとも思ったものだが、じつのところ、父の正体は父の幼少期から何も変わっていないのではないかといつからか納月は思い始めて、こうして面してみると推測が当たっているような気がした。父というよりは母のようで、母よりも母らしく、一方ではやはり父であるから何をぶつけても頼れそうな強さを感ずるのである。
面と向かって話すと少し恥ずかしかった。父にしたい質問は自身の恋愛の結末に関するいわゆるifで、それを考えるに至った出来事の概略をまず伝えなければならなかった。
笑うでもなく怒るでもなく概略に耳を傾けてくれた父に、納月は、冷静に切り出す。
「──質問です。なぜ、彼は不倫したんでしょう」
原点に戻った。彼はそう言った。血を苦手としながら治癒魔法の研究者として生きてゆくことが、原点か。そこに旧姓人菊凌はいても、納月の立つ余地はなかったか。自問自答しても出ない答は水口誠治に問えば確かめられたものだが、何を摑んでも水面で屈折して違った答として受け取ってしまうような気がして、確かめられなかった。
「お父様は、どう思いますか」
「経過を疑う必要はない。偽りがあるとするなら納月の心、曰く、水面の屈折やよ」
「……」
「答は変らず水の中にあった。沈みつつはあっても、手を伸ばせば届く位置にあった」
過去形が、事実を示している。
「わたしには、もう摑めないんですね」
「理解しとるやろ。聞くは一時の恥、聞かぬは末代の恥」
「川の底は、存外急流です」
「見えんだけでね」
「──地求む云云。わたしは、ちゃんと理解できてなかったです」
「聞いたこと、見たこと、話したことに至るまで、理解したふうで生きとるのが人間やから、悪いこととは思わんよ」
本人が捉えたとき初めて過ちは意味を持ち、柵にもなってゆく。
「お父様は、わたし達にすごく甘かったんですね」
「いまさら気づいたん」
「改めて、です。就学時代にも察してましたから」
父ほどに優しく頭も回ったなら、欲したもの全てに手が届いていただろうか。
「誰にでも届かんもんがある。俺にも、お前さんにも、水口誠治にも」
「……」
「一つ注釈する」
「なんです」
「付き合っとった頃は、目を視て愉しそうに話して、優しく抱き締めてくれた。水口誠治がお前さんの伝えてくれた通りの人物なら触れることもなく去った理由が解るよ」
「目すら、向けてくれませんでしたよ、彼は。一歩でも近づいたら遠退きそうな雰囲気で短い未来だけ見つめちゃって馬っ鹿みたい……!」
納月は思わず拳を握って声を震わせていた。「好きになった憶えありませんよ、あんなひとっ……!」
「そっか。嫌いになったん」
「嫌いです……昔のお父様みたいに掌ころっと返して、大嫌いです」
「ときに、こんなことを聞いたことは。距離を問わず好意のある相手をつい優しい目差で見つめるとの統計があるとかないとか」
「……ええ、彼が言ってたことです」
「逆を考えたことは」
「逆って」
「好意ある目線を送ってくる相手に対して真顔で接すれば暗に好意がないことを示せる」
「それが事実なら絶望です」
「俺はさっきなんて言ったっけ」
父にしては優しいヒント。いや、父だから、優しいヒント。
「逆」
「そう」
「あれがみんな、逆だとしたら……」
水口誠治は言葉と態度で別れを告げていた。それは彼の本心が求めた結末。そう感じた一方で、納月は彼の心を見通せていない感が強くあった。捉えない限り過ちが意味を持たないように、思い込みで彼の言葉と態度を捉えていたとしたら。彼の言葉と態度を、真逆の意味に思い込まされていたとしたら。
「気づかれるヘマはせんやろうな」
「っ……」
「治癒術者は患者を選ばず。怪我をした相手、怪我をする相手、誰が相手でも癒やす。けど、治癒術者でも生きとればひとを傷つけることはある。自分が確実に傷つけると判っとる相手の傷くらい最小限にしようと先回りで考えるのは、職業病かも知れんな」
「…………」
それこそ誰にも悟られることはない。悟られても、職業病として特段取り上げられることもない。いつものことだ。その一言で済まされる。
水口誠治は、納月の先回りをする。研究所に来るのも、納月が必要としているものを用意するのも、納月が求めていた部署への手回しも。納月のことをよく観ていたからできたことだとは言うまでもない。納月以外のことには抜けていることもあって、特に水口凌に対する観察や対応については遅れていたことが多多あったから「できないひとです」なんて納月は密かに思ってしまっていた。が、そんな印象が先回りで植えつけられていたのだとしたら。
「五年も観続ければ判ったやろう」
「……わたしが、老いないこと」
「片や自分が老いてくことを」
水口誠治は自分のことも観察しているひとだった。過去を振り返って原点に戻るに至ったのは、恐らく、最近のことではなかった。
「──どこが素直です。誤解させるような言動は、ほとんど噓でしょう……」
「噓をつくから人間やよ」
「格言めいた言葉でごまかさないでください」
「ひとを守るための噓なら納月だってつくんやない」
「──」
「そういう意味で、水口誠治も噓つきやね」
水口誠治は言った。自分と納月は違うと。
「(どこが違うんです!)同類ですよ……同類のままで、いいじゃないですか……!」
固めた拳が、いつまで経ってもほどけない。
「納月──」
「塗り固めた噓で守ってもらっても……傷ついたら意味ないでしょう……!」
この怒りと悲しみを、どうすればいい。分ち合って悦ぶ時間はとうに過ぎてしまった。苦しい思いをぶつけることもできず抱えて生きてゆけというのか。老いないから、老いる彼とは違うから、そうしろと。あんまりではないか。守ったつもりになって去っていった彼はきっと胸がすっとしているだろうに。
……ううん、そんなこと……誠治さんもきっと──。
不意に、
「っ……」
父が自分の胸に、納月の拳をとんとぶつけた。
「水臭いね」
「──」
「苛立ちを受けとめるくらい、させてくれてもいいんやない」
「お父様──」
「おいで。思いきり」
「っん!」
一瞬のこと。寝室が吹き飛ぶような魔力を凝集して何万という魔物さえ消し飛ばす水の弾丸を作って父の胸を撃った(!)
内心では、叫んでいた。
圧し折れるのではないかというほど全歯を嚙み締めて撃ち込んでいた。
それに反して、水の弾丸は大地に落ちた一滴の雨のように父に馴染んでいった。
耳を劈くような射出音と衝撃波もなかったかのように寝室に融けて、ほどけなかった拳が少し緩んでいて、途端、視界がぼやけて、暗くなって、引き寄せられるように、でも、ずっと求めていたそれに納月は前のめりになった。
輝いて見えた。輝いて、見えていた。彼は、あの夕景色で一番輝いていた。日傘が必要なくなった日没のとき、ちらつくヘッドライトよりも眩しかった。日傘でも遮れないほどにずっと眩しかった。納月は、そう感じていた。
知らず知らずにも積み重なっていることが、教えてくれる。
「決した運命に『もし』はない。でも、お前さんを想うひとがおることも決して揺るがんよ」
「はい……」
「ひとを包むために頑張れた自分を褒めて、胸を張っていきなさいね」
「はい……!」
思い込みが解け、本当の気持に辿りつけなかった勇気のない自分にも決着がついて、納月は父から離れることができた。
……肝心なところで甘ったれなんですから、わたしは。
情けないのが自分らしく、そうであり続けることについては思うところがあるからifではない一つの結論が見え始めている。
寝室を出て二階へ上がり、通路を抜けてベランダへ出る。聞こえてくる賑やかな仕事はこれからの家族を思わせる。育つことしか知らない若葉のような稲をいだく水田は幼い妹を思わせて、妹とは重なりもしない自分をも思わせる。小さな村の文化と自然は歴史に等しい懐の深さがあるだろう、と、父のように瞼を半分閉じて納月は思った。幼少の意識が蘇ったかのように景色が眩しく、瞼を持ち上げるのに時間が掛かった。
「お姉様、こちらでしたか」
「子欄さん。改めておはようございます」
「おはようございます。──」
一目見た子欄が、気遣ったふうもなく村を眺めた。「どうしてこうも運命は試練を課すんでしょうね」
子欄も、恋に破れてここにいる。治癒魔法研究者という同じ立場にあって互いのよさを知っているから優秀、優秀とは持ち上げないにしても、納月はやはり子欄を優秀と考えているし、自分のことを凡人と思っている。才能や能力がそうであるように共通している点はそれほど多くなく、子欄が言った点には同感を示したい。他方、納月には全く違う見方もある。
「お父様の子として生まれた時点で、男運が尽きてることは間違いない気がします」
「娘の恋愛対象の選別には父親の人格が大きな影響を及ぼしているとも聞きますからね」
「ええ。あと、わたしについていえばいささか柔軟に立ち回りすぎてるのかも、と」
「それは悪いことですか。男性側がお姉様の個性を尊重すべきように思いますが」
「柔軟ってことは受け入れすぎってことでもあるじゃないですか。水みたく周りの影響に敏感なのは大事ですけど、殊、恋愛に関しては相手の考えに流される特性でもあって、後悔の布石をぽんぽん撒き散らしてたんだと思います」
「流されましたか」
「渓流から滝壺、大河の氾濫で沼に滞ったと思ってたらダムから放流といったところです」
「ものの見事に……。水は熱を逃がしにくい特性もありますから一概には言えませんが」
「……そうとも、いえるかもですね」
「大変だったでしょう」
「決着しましたから振り返るべきことはないです」
心からそう思う納月に、機織りのようなリズムで子欄が訊く。
「相手が生きていても」
「ええ、生きていても」
亡くなっても会いにはゆかない。「薄情みたいですけど木の葉は単なる道連れ。絶対量が違いすぎて、大地には敵いません」
「だとしても、木の葉は水に運ばれましたよ。流されることも沈められることも溺れさせられることも、愉しんでました」
「──」
よくよく考えれば、気持を捉える方法はいくらでもあって、自分の眼に頼らなければ、それはより多かった。
「っはは……」
「お姉様、どうかしましたか」
「気にしないでください。思い出し笑いです」
水臭いとは、親しい間柄なのに距離を置くような態度をいう。子欄に対してそうだったのだと振り返ったら、納月は笑えてしまった。才能や能力の差で感じた壁や距離などとうに詰めたつもりだったのに、頼ろうとしないのは自ら壁や距離を置くことに相違なく、命の営みを脅かす無慈悲な堰を建てたも同然だった。
「子欄さん。わたし、魚心より水心を目指そうと思います」
「それをいうなら『魚心あれば水心』では」
「魚心ってのは相手の好意のことでしょう。それに対する用意を水心というはずですから」
「あ、なるほど」
妹は察しがいい。「お姉様、相手を待たず素直になっていこうと考えてるんですね」
「そういうことです」
相手の好意を窺うのもときには大切だが、生まれたときからずっと観ていた姿勢を手本に据えて、柔軟なはずの自分がそうはなれなかった違和感や不満を抱えて妹には堰を置いていたのかも知れない。知れない、と、曖昧にしたまま進むのは、過去のことを振り返って自問自答するよりこれから流れる先を見つめたほうが選べるものがはっきりする。
「わたしが目指すのは、やはり、お父様とお母様です」
「その心は」
「真に水たらんためです」
誰の怒りも、誰の悲しみも、受け止め洗い流せるように。
──「水面の木の葉」 終──






