五章 水底との対面
深い眠りから叩き起こされた朝は、頭が働かない。
眠っていたのでもなく納月はそんな状態に陥った。アクリル板の向こうに見える水口凌が、これまでの姿勢を一転したことを瞬時に理解して、これからの関係の激変をも悟ったからだったのだとは、あとになって解った。
「聞こえてたかしら」
「……」
「アクリル板、上は空いてるから聞こえてるわよね」
「……はい」
「父親の治療に失敗したそうね」
「誠治さんから」
「ええ。ご無事」
「……幸い、不死身みたいな、化物でした」
「……聞いた瞬間は、さすがに亡くなったと思った。ごめんなさい」
「いえ……」
「……。あたしが何を言ったか、もしくは、あたしの言葉に対する返事を聞かせて」
いたずらに傷つけようとしていないことは水口凌の言葉や喋りの間で解ったが、納月は、水口凌の隣に座った水口誠治と目を合わせ──、
「こっちを見て」
「っ」
「誠治さんを見ないで。ほら、口を開いて」
「……」
苦悩を分ち合うことは、最初から許されていなかった。水口誠治の表情を確認することもできず、納月は水口凌を見つめるほかなかった。
「誠治さんと別れてほしい、と、聞こえました」
「そうよ。合ってる。今度は返事よ。あなたはどうするの」
水口凌の姿勢が変わったのはなぜか、と、納月は問いたかった。が、質問が許される雰囲気ではなかった。
「わたしは……──」
頭が真白でまともな思考ができていない納月は、
「凌、まずは君が話せ」
と、水口誠治が言ってくれなかったら顔を上げることもできなかった。「なぜ意見を変えたんだ。契約に反していることも理解していないとは言わせない」
水口誠治も水口凌の姿勢の変化を初めて知った様子だ。この不測の事態に戸惑っているのは自分だけではない。そう思えただけで納月は気持が楽になった。
「凌さん……お願いします、聞かせてくれませんかね、変化の理由」
「……あたしもそうしてるから」
「凌さんも──」
少しだけ解った。「不倫相手と別れたんです」
「そうよ。……それどころじゃなくなったでしょう、去年から」
「感染拡大防止の一環だな。人口密度を低く保ちひとを移動させないことが、感染症予防に有効とは麻疹でも判ったことだ」
「濃密な接触なんて以ての外なんでしょう。そのくらい、あたしにも解る……」
だから、不倫相手と別れた。「一時的でも同じ条件下にいないことが許せないわ」
「確かに今は君の提示した契約が破綻しているといえるかも知れないが──」
「あたしは今の状況を正したい、って、言ってるの」
と、水口誠治の言葉を制して水口凌が語る。「あたしは、あなた達の不倫を認めた。ある程度の接触も許してる。けど、不公平よね……誠治さんが出掛けて納月さんと一緒にいると思うと、腹が立つわ」
「『……』」
納月も、水口誠治も、以前から解っていたことだが、水口凌は水口誠治を求めている。それは契約した相手としてだけではなく男性として、パートナとしても。
納月の目の前には、滝がある。水の流れのままに進まざるを得ず自ら進もうともしている。空気を多く含んだ滝壺の水は浮力を奪うようにして対流に巻き込んでくる。抗うことはできない。そう予測ができていて、抗えないと解っていて、滝を下る。
「誠治さんはどう考えてるんです」
答はとうに出ている。水口凌が、癒やされていない。
「わたしは、……──」
言葉にできない水口誠治に、納月は詰め寄るように切り出す。
「迷わず撃て、でしたっけ」
「……」
「わたしは迷わず撃ちます」
嫌でもそうすると決めて、一七年後の約束をした日を、今も憶えている。恥ずかしいほどに嬉しかったあの瞬間を忘れるわけがない。
それでも、
……碌なことにならない、です。
自分に散散言い聞かせてきたことが、現実になっただけだ。どんなに盛り上がっているときでも、どんなに落ち込んでいるときでも、手放さなければならない関係に踏み込んだ。必要なのは通じ合っていることで、外面的な形にこだわる必要はない。
「別れましょう──」
「っ……」
「愛人です。この関係に縋るつもりはないです。あなたも、その考えでいたはずです」
「……」
……わたしも、詰めが甘いです──。
その考えでいたはず。そのようにぼかして、逃げの論理を許そうとしてしまっている。
詰めは論理的であるべきだ。そしてそれなら研究者の彼を追いつめられる。
「手を繫いだりしますねぇ、わたし達。そのあとに除菌することとかまずないですよね。関係の余韻に浸りたいからです。感染予防の観点からじつに気が緩んだ行動です。さて、わたし達はなんなんですかね。これで、治癒魔法研究者なんて胸張って言えますかね」
「……」
「不倫関係なんかより感染予防のほうが大事です。なぜなら命に関わります。酔うような関係で事足りるなら妄想で十分。改めて言います。──別れましょう」
言葉を発しない水口誠治に目を向けず、立ち上がった納月は水口凌にお辞儀して外へ出た。
運動が得意なほうではない。どちらかといえば苦手だ。遅刻を突きつけられでもしなければ走ることもない。納月は、水口邸から走って、走って、走って、どこを行ったか判らないほど走って、どこかも判らない川岸で震える膝と両手をついて、吐き出されるばかりの息を見つめた。ホワイトウォータのような息。溺れたように寒い。砂漠の冷気が押し寄せているのか。それとも息が熱いだけか。
……わたし、なんて、言いましたっけ。
震える全身がそれを示しているのに、頭が真白で思い出せない。水口誠治に、水口凌に、どんな言葉を発したか思い出せない。
……わたしは……本当に、こんな、ので、いいんです──。
覚悟していたから、最初から判っていたから、予測していたから、よかった。本当に。
予期せぬことがあった──。
「……っぅう!」
川の水面を、魔力で叩く。弾けた水が空高く舞い上がって局地的な雨となって降り注いだ。息を搔き消して全身を凍えさせる雨に、納月は押し潰されそうだった。
「うぁああぁあああぁっ!」
押し潰されまいと、震えまいと、声を張っても、立ち上がれない。震えが止まらない。夜闇に染まった川底のように真暗な世界に落ちたように、恐くて、恐くて──。
底知れない闇の中に、どんどん落ちてゆくようで、手も足もどこにもつかない感覚。
「ぅあっ!」
震えを感じながら弾かれたように上体を起こすと、掛布団が捲れ上がって、段ボールの山の中だった。
「こ、ここは……」
「お姉様、目覚めましたか」
「……子欄さん。……」
新しい住居、オータムパレスの一室。冬の宮殿などとはよく称したものだ。薄ら寒い夢を見たようだ。
……ゆ、夢……そうです、夢なら、夢落ちですよね、そうですよ、夢落ち──。
どこから、どこまで。
「大丈夫ですか」
「な、何がです」
「……ずぶ濡れで倒れていたんですよ」
「!──」
子欄の言葉で、心臓が止まるかと思った。夢落ちではない。水口邸でのことは、現実。
「お湯には入れましたから汚れてはいません。でも、体は冷えているかも知れませんから暖かくしてください」
言いつつ掛布団を掛けてくれる子欄に、納月は、言葉を返せなかった。
「希しいですね、お姉様が意味もなく魔力を動かすのは──」
「意味なくなんかやるわけないでしょう!」
「っ、お姉様……申し訳ありません」
「っい、いえ、……すみません、わたしこそ、大きな声出して……」
何を、かりかりしている。でも、意味もなく、なんて言われたくはなかった。魔力を動かしたことに、意味は、あった。はずだ。
……いや、……。
八つ当りみたいなものだった。父だったら責めてくるだろう使い方だった。誰を助けるためでもない使い方は、納月だってしたくはない。そのはずだったのに。
……、……怺えられなかったです。
滝壺に沈んでぐちゃぐちゃになりそうだった。魔力の操作は必要で納月には意味があった。胸を張って、父に言えるようなことではなかっただけだ。
……何をいまさら。お父様のことなんて、考える必要はないです。
一緒に住んでいるわけでもないのだから、四六時中責めを恐れる必要もない。父の価値観で全てを支配される必要などどこにもない。
……そのはずなのに……。
「お姉様……体、まだ冷えてますか」
「……いえ」
「震えてますよ。……、暖房器具が必要かも知れませんね」
「……」
寒くはないが、必要かも知れない。震えが止まらない。温かいものが、必要だ。
──こうすればあったかいよ。
笑顔の姉を納月はふと思い出した。
「──お姉様」
「ちょっとだけ、じっとしててくれます」
「……はい」
どんなに苦しいときも、どんなにつらいときも、思い返せば姉音羅のぬくもりに縋りついて眠っていた。父を助けようとしていたのは、そんな姉の悲しい表情を見たくはなかったという理由もあった。
オータムパレスの三〇六号室。この部屋は、サンプルテの一〇三号室と違って暖かくもなければいい香りもしない。
グータラ者のくせにいつも家族の中心にいた父がいないから、この家には母も姉も毛玉も小人もいない。
懐かしい空気は今、子欄にしかない。
翌日から、社会人としての自覚が安定したパフォーマンスを発揮させてくれたことは納月に取って幸いだった。とちったりしないくらいに熟練していたことにはいまさら気づき、熱心に仕事をしてきたことに改めて自信を持ちもした。
過去の積み重ねに救われたといえる平日はしかし、家に帰ると慣れない作業に見舞われた。引越しで運んだ段ボールの開封作業だ。納月が加わると雑談が増えすぎて作業が遅れてしまうことに気づいてからは子欄が中心になって進めた。
──二度目の訪問以降、納月は水口邸に赴いていない。仕事の帰り際、水口誠治が話しかけてきたことが何度もあったが、「さようなら」を徹底して会話に発展しないようにした。発展したら、別れを受け入れたくせに無数の嫌みを発してしまえる自信があった。むやみに彼を傷つけたあとブーメランとばかりに嫌みが自分に突き刺さって深手を負うことを考えて感情的にならずに済むくらいには研究者が板についていた。
さまざまな夢から覚めた。全ての繫がりが消えたのではないとしても、確かな繫がりこそを大切にし、現実的な目標を見つめてゆかなければならない。
……現実的な目標。わたしのそれって、なんでしょうね──。
落ちつける日曜日の今日、ゆっくり思考を巡らせようと納月は考えていたが、
ピンポーン。
「誰か来ましたね」
「通販ですかね」
「わたしは買っていません。お姉様ですか」
「いえ、わたしも」
引越し先を知っているのは家族のみなので、通信販売の配達員以外に予測できる来訪者は新聞の勧誘、詐欺師や押売りなど。部屋を借りておいてケチをつけるのもなんだがセキュリティが万全、と、いえるほど立派な構造のマンションでもないので警戒心が必要だ。
……ここは、姉らしくわたしが。
「出てきますね」
「あいや、わたしがっ」
「え、ですが──」
「いいから、いいからっ、ここはお姉様の処世術で撃沈してやりますっ」
「穏便に対応しましょう」
「アバウトなボケですからご安心を」
納月は子欄を制して玄関へ向かった。狭い動線を抜けた勢いのまま、「は〜い〜、どちらさまでゅおっ!」
バタンッ。
納月は玄関扉を開けてすぐ閉めた。
……なななななんでっ!
見間違いか。水口誠治がいた(?)
……いや、見間違うはずが。
ドアスコープで確認する。
水口誠治で間違いなさそうだが、本当に水口誠治か。
……あ、あれ、何を動揺してるんです。
別れたのだ。……お、追い返せば、冷静に!あいや、それ以前の問題でしょうっ!
どうして水口誠治が家の場所を知っている。場所を教えていないし、送り迎えをしてもらった憶えもない。
納月はドアスコープから目を外し、扉と少し距離を置いて深呼吸。
「お姉様」
「ひょおっ!」
「えぅっ、ど、どうしました」
「あ、いや、別にっ」
「そうですか。どちらさまでしたか」
「あ、えーっとーー──」
「水口誠治だ」
とは、表から聞こえたご本人の声。
「判ってますから黙っててくださいますっ!」
「わたしは知らなかったんですが」
「子欄さんも少し黙っててくださあいっ」
「も、申し訳ありません」
「すまない。開けてくれ」
「開けるわけないでしょおっ!」
扉を掌で叩いて、背を向ける。「……どのツラ下げてやってきたんです」
「話したいことがある」
「いや、いや、いや、ってか、なぜにここを知ってるんです。こっちに話はありませんーっ」
「頼む、聞いてくれ、誤解が──」
「うるっさいですっ、とかく引っ込みやがりなさーーいっ!」
「お、お姉様、声が大きいです、ご近所に聞こえてしまいますよっ」
「おぅっ、そうでした……!」
「それにお姉様」
子欄が真剣な目差。「部長を外に置いていては、妙な疑いを持たれてしまう危険性が……」
「っ……」
子欄の意見を名目に──、……って、違います、たぶん、リスクマネジメントっ!
それも名目だったが、納月はただちに扉を開けて水口誠治を部屋に引き込んだ。扉を締めて施錠し、うがい・手洗いをさせた彼の全身に除菌・抗菌スプレを噴霧して、崩した段ボールを重ねて置いた座布団的敷物に強制的に座らせるとその前に仁王立ちした。
「さあ、吐きやがれです」
「いや、まずは着ろ」
「キロってなんです」
「お姉様、部屋着なので……」
「ひいいぃっ変態っ、へんたいっヘンタイぃっ!」
「連れ込んだのは君だっ!」
「お姉様っ、部長っ、声が大きいですっ」
「『っ、……』」
防音の壁が施されていない、ありふれたマンションの一室である。納月は水口誠治を両手でぶっ飛ばしてから脱衣室で普段着に着替えて、改めて水口誠治の前で仁王立ちした。
「さあ、吐きやがれです」
「ここは警察署か」
「ヘンタイを現行犯逮捕しましたからねぇ」
「取調べを受けてやろう」
「部長、お姉様の漫才に乗らなくてもいいんですよ」
「竹神子欄、わたしは断じて乗っていない。わたしはわたしの話をするだけだ」
「ヘンタイであるあなたはとっくに主導権を失っているんですっ。黙って吐きやがれです」
「黙って吐くことはできないと思いますよ」
「わぁっ」
子欄が納月の手を引いて後退させた。「何をするんですっ、近づいちゃヘンタイが移りますよ子欄さんっ!」
「変質的精神性が感染するとしたら大変危険ですがご安心ください、三メートル離れてます」
子欄が納月の胸に手を翳して、水口誠治を見やる。「──冷静になりましょう、お姉様。水口部長も」
「『……』」
できた妹だ。納月は、その配慮に感謝しつつも、まじめな妹を少しだけ呪った。苦しい気持を膨らませることになると判っていて、どうして冷静に話を始めようと思える。まじめな表情で向かい合ったら最後、二度と笑い話なんてできなくなりそうなのに、どうして話さなくてはならない。
「……少し、傷ついたぞ」
と、水口誠治が切り出した。「顔を見るなり悲鳴とともに扉を閉められるというのは、なかなか、来るものだな」
「……不倫の業です」
「君もつらかったんじゃないのか」
「……知ったふうなこと言わないでください」
不倫の覚悟は別れの覚悟を含んでいなかった。覚悟が足りなかったことを否めないがそれを納月は水口誠治にだけは言いたくない。すべきでないと考えながら不倫に前のめりで、彼にもっともっと近づきたいと考えていたことに気づかないうちに別れを切り出して後悔しただなんて、言いたくない。
……わたし、思ったより冷静に考えてましたね。
雨に打たれた意味も、夢落ちを期待した気持も、原因と経緯がはっきり解っていた。
「つらいです、一言ではいえないくらい、つらいです……。それでも、仕方ないでしょう、密通なんかしてられないんです、解るでしょう、そういう状況じゃない、気持を優先できる状況じゃないって!」
張れない声を最大限張って、納月は両手を握り合わせた。「気持優先で家族を看取ることになったら、あなたや凌さんを看取ることになったら、わたしは……嫌なんです」
少しの油断で伝播してゆく感染症。それでも油断をなくすことは不可能である。そんなとき少しの油断ならフォロできる医療体制があり、それを支えているのが医療従事者だ。最大限の注意を払い、神経を擦り減らして、理不尽な差別に堪えながら仕事をしていても感染してしまえば「医療従事者のくせにしっかりやれ」といわれてしまう。研究者である納月達は、患者と直接向き合う医療従事者と比べれば安全な場所で働いている。心臓を握り潰されそうなほどの重圧や過呼吸を起こすような長時間労働とも縁遠く、免疫機能維持も容易な立場にある。そんな自分達が積極的に油断して医療従事者の負担を増やすわけにはゆかなかった。一箇月に一度もない休日さえステイホームに徹する医療従事者がいると知りながら緩みきった姿勢を執り続けるわけにはゆかなかった。それなのに納月は──。
「負けました」
「負けた──。誰にだ」
「凌さんに、決まってます」
別れを求められたあの日、頭が真白になった理由は、予期せぬ二つの事態に見舞われた。契約を翻すようにして水口凌から別れを要求されたことはいまさら言うまでもない。もう一つが納月には何より重かった。水口凌が水口誠治の妻としての立場を最優先にしていて、その姿勢が、一医療関係者である自分より意識の高いものだったからだった。
水口凌が納月を呼び出した理由は、不公平を正したかった、と、いうことだった。が、本当にそうだったのだろうか。よくよく考えてみれば、水口凌が腹に据えかねたのは不倫による不公平ではなかった、と、解った。
「凌さんはあなたの奥さんです、紛れもなく。ひとの命を大切にしてて、やっぱり、いいひとなんです。わたしが治癒魔法研究者としての意識を失ってたことに気づかせてくれた……」
「凌が──」
「そう思い込めば気が楽、って、考えもなくはないんですけどね、凌さんの考えを正しく読み取れているとしたら、納得できることがあります」
納月が呼び出されたタイミングが大きなヒントだ。昨年一月頃から現在に至るまで再び感染症が猛威を振るっているが、納月と水口誠治は研究会と題したデートを重ねていた。そのことを水口凌は知っていて、しかしながら指摘しないまま新年を迎えた。指摘するなら新年を迎えたタイミングでもいいし現在の感染症が流行し始めてちょうど一年の一月中旬でもよかった。水口凌が納月を呼び出したのは二週間前の日曜日、一一月二一日で、なんの節目でもなく、タイミングとしては遅すぎる。そこで、何が呼出しのトリガになったのかが大事だった。
「凌さんは、わたしがお父様の治療に失敗したことを知ってました」
「……わたしが聞いたその日に伝えたからな」
「失敗を伝えた日に、まさにわたしは誠治さんに会ってました。で、すごく……甘えました」
不要不急の外出だった。会っていること自体が意識を問われる行動だった。
「失敗が原因でわたしの気が弱ってることを凌さんは察して、誠治さんと会ったらどうするかまで考えたんじゃないかと思います。多少ディテールが違うかもですけど、わたしはいけない行動をしてた自覚があります……」
他者に指摘されたら弁解できない程度に、水口誠治に密着して、励ましてもらっていた。
「誠治さんは、それを突き放せなかったでしょう」
「当り前だ。あんなに弱った君を──」
「それも込みで、凌さんは意識を正してくれたんです」
「……」
別れろ。そう迫られていなかったら、納月は水口誠治に甘えることを覚えて、いつも音羅にしていたように抱き締めて眠るようなことまで要求していたかも知れない。そうしなければ気が狂いそうなほど失敗は重く伸しかかって、実際、子欄には抱きついて眠っている毎日だ。
「誠治さんもはっとしたんじゃないです。泥沼に嵌まりかけてたんです、わたし達は」
「……確かに、な。凌に気づかされるとは、思っていなかった」
自分を満たすための契約を持ち出して結婚して家を出た水口凌が、治癒魔法研究者の自分達より高い疫学的意識を持ち得ることを想像していなかった、驕り。
「この二年弱で大衆の意識がかなり向上していたのにな」
「わたし達は、想像力が欠如してました……」
「ああ……」
うなづいた水口誠治が告げる。「彼女も、本当はわたし達のような道に進みたかった」
「……」
「無魔力個体だ。魔法医療に携わることができなかった。外科・内科医、研究職になるにも、製薬に携わる仕事をするにも、学歴や資格が欠けていたそうだ」
子欄がそれぞれにお茶を淹れる中、水口誠治が天井を見上げて呟くように、「それでも彼女はわたしや家族の仕事を大切なものだと理解・納得し、少しでも寄り添いたく思っていた。逃げ出したかった環境は、同時に、一番寄り添いたかった環境だったことを、告げることもできずに……」
凡人と自覚していても、優秀なひとのためにできることを必死にやろうとしている。その気持を、ほかならぬ納月が酌むべきだった。優秀なひとに囲まれて育って凡人と自覚していた納月が、研究所で学ぶべきだったのは知識や技術だけでなく、本来の自分や自分と同じ自覚を持つひとの内心に寄り添うことだった。そこからどんどん逸れて、知識や技術に傾倒して、私情優先の生活になって、ひとの心に寄り添うことを忘れてしまっていた。
「わたしと誠治さんが同じ空気を持ってる。凌さんは、そういってました……」
水口凌も、それが心からほしかったから、感じ取ることができたに違いなかった。そして、だからこそ夫婦の契約云云を納月に伝えて不倫を許容した。生まれる順番が逆だったら、と、言ったのも、不倫関係でもいいから心から繫がれる関係を求めていた。それが水口誠治であったら心から嬉しいと彼女は思っていた。今もきっと思っている。
「誤解を解いておこう」
と、水口誠治が納月を見つめた。
包むようにした湯吞に目線を落としたまま、納月は応ずる。
「誤解、って、なんです」
「凌は、わたし達の関係を途絶えさせたいわけではないと言っていた。『一時的に別れたほうがいい。』そう言ったつもりだそうだ」
「──」
「きつい言い方をしたのは、そうでもしなければわたし達の意識が変わらず、取返しのつかない咎めを受けかねないと考えた」
「……凌さんは、ほんと──」
負けたと思い知らされて、今また納月は敗北感を覚えた。
ずっと寂しい思いをしている水口凌。理解者を得ることもなく独りで、水口誠治と出逢うまでずっと繫ぎ止められる関係を求めて生きてきた彼女には、誰も及ばない才能がある。
「凌さんはわたしに譲りすぎって言ってましたけど、逆ですよね、もう、凌さんのほうが譲りすぎです……」
いつかの泥棒女発言と同じだ。不倫を疑ったのは彼女がそうしていたから。譲りすぎている彼女は、ひとのそれにも敏感だ。
そんなことにも気づかないほど、納月は愛人の立場にのめり込んでいた。当り前のもののように握り締めて手放せなくなっていた。
……せっかく気づかせてもらって、譲ってもらって、これからもずぅっと、そんなで──。
自分がそうなる未来を容易に想像できる。水口誠治との関係を繫ぎ直す選択も簡単だ。が、
「いいんですかね」
納月は、水口誠治を睨むようにして言った。「わたし達、そんなでいいんですかね」
「……」
今や一般人でも感染症対策を懸命に覚えて徹底し、可能な限り協力している。ワクチンが存在しない魔力性ウイルス感染症全般に対しては強い警戒を続けてゆく必要がある。それだというのに、医療関係者の自分達が前時代的意識でいていいわけがなく、そんな自分達に誇りを持つことはできない。それに気づかせてくれた水口凌に顔向けできない。それのみならず、全ての国民ひいては人類の努力を嘲るようなものだ。
頭が真白になりそうだ。けれども、今度はそうはならない。水口凌の才能も、水口凌との勝敗も、はっきりと見定めている。予期せぬことがあったとしても、彼女の意識の高さ以上のことはあるまい。
「もう、無理です。わたしは、凌さんの心にも寄り添いたかったんです」
納月は、水口誠治に真摯に向き合う。「別れましょう」
「納月……」
「問答は無用です。わたしは、別れます。あなたの返事は、要りません」
「……」
分ち合いたかった。同じものを目指して、同じ志で、生きてゆきたかった。だから、
「君だけには言わせない。……。別れよう」
水口誠治も、そう言った。
水口誠治を送り出して閉めた扉に背を向けて、凭れて、手探りで施錠して、納月は、すとんと尻餅をついた。
「あぁ……」
「……お姉様……」
「いや〜、なんつーか、ですね……」
言葉が出ない。「隠れて泣きたかったですねぇ、姉としては……っ」
「お姉様……」
「うぅっ……ぅっ……」
嗚咽を怺えるのが精一杯だった。つらくて、悲しくて、深く暗い海底を漂い出したように不安で、それでも、そこにはまだ一緒に流されてくれる浮木がある。
……わたしはまだ、全然……我慢が足りないでしょ……。
長い漂流の果てにようやく手繰り寄せた浮木を水口凌から奪うことなんてできない。たとえその浮木が納月の両腕に馴染むとしても、彼女から奪い取って孤独な漂流を避けることも、彼女に孤独な漂流を強いることもできはしない。精魂尽き果てて沈んでゆく命を、作ってはならない。
多くのひとが逆風を堪え忍んだ。ときに共存を目指して、ときに撲滅を目指して、終りの見えない感染症の恐怖と戦った。
納月の勤める治癒魔法研究所の働きもあって対症療法・原因療法ともに開発が進んで感染が少しずつ縮小し、小さな子達の記憶には大きな事変として残らないくらいに魔力性コロナウイルスが一般的な流行病の一つなっていった頃、納月は二〇歳を飛び越えていた。水口誠治との約束の日もまた遠くなって、希望や期待に溢れていた若かりし頃の触れ合いとは程遠い生活を送って、一方で、治癒魔法研究者としては充実した生活を送ることができていた。
三〇七五年一月三〇日、日曜日の早朝、子欄に起こされる形で納月は目を覚ました。姉妹との関わりもそれほど持とうとしない五女謐納が訪ねてきて、八女納雪を預けていったそう。さらには、
「お父様の病、どうにかなったようです」
とのこと。口数の少ない謐納の説明では詳細不明だったが、納月は、瞼を閉じて自らの背負った失敗の重さを確かめずにはいられなかった。
竹神家の子は、多くが特殊な力に恵まれている。生まれ持った魔力が強いことは共通しているが、魔力を除いた特徴の例は長女音羅の異常なほどの腕力が挙げられる。一方、運動能力や刀剣術に秀でた謐納はどうやらさらなる力を秘めており、その力で父の病をどうにかしてしまえたらしい、とは、朝食をいただきつつ幼い納雪から引き出した情報である。神界移住計画の実現についてもわずかながら聞けて──、竹神家の抱えた問題の大部分が解決したことに納月はほっとした。
「詳しいことは後後お父様かお母様から聞くとして、お父様が病に倒れることはない、と。そのことを、今はただ悦んでおきましょう」
「そうですね。しかし、謐納さんがやってくれるとは思いませんでしたね」
「ええ、ほんと、意外なことが起きるもんです──」
父が発症した日、生まれたばかりだった謐納は四人の姉に縋るしかなかった。非力であったのは言うまでもなく、父の病を治すことに関して一番期待されていなかったといえるだろう。そんな謐納が、納月達の長年の研究を超越して悲願を果たしたのだ。
「少し悔しくもありますね」
「ですねぇ。でもま、家族総出で結果オーライなら、なんでもOKです」
「ふふっ、そうですね」
隣に座った納雪と綾取りしながら子欄が話した。「お姉様はよく、天才だとか優秀だとか、わたしに言ってくれますが、謐納さんのほうが上だったようです。お腹の底から吐息が漏れるように、ほっとしてます。意識してませんでしたが、重荷を感じてたのかも知れません」
「要らぬ重荷を感じさせてたならすみません。でも、わたしも同じのを感じてたかもです」
納月達が果たせなかった目標を妹が果たしてくれたことにちょっぴり悔しく思うも嬉しさのほうがずっと大きくて、同時に、体が軽くなったような感覚もあった。時を経るごとに加わってゆく重みに鈍感になっていたのかも知れず、それから解放された今になって無重力のような解放感を覚え、プレッシャの総重量を確かめたようだった。
「お姉様、昼は例のボランティアでしたよね」
「ええ」
かつてクーデタが起きたという曰くつきの研究所であるためか、田創町北部支所の研究者が経営母体である田創総合病院に呼ばれることは稀である。そんな稀な機会に、ボランティアとして納月は呼ばれている。研究所主体で行っていたものには何度か参加したことがあるが、下流階級に無料診察・治療を行う。
「お姉様は久しぶりでしたね。頑張ってきてください」
「子欄さんのおいしい朝食もいただきましたしっ、元気もりっもりで頑張りますよぅ」
「張りきりすぎてぎっくり腰にならないようにしてくださいね」
「年寄扱いっ」
「用心してくださいね、人間ならそこかしこにガタが来るという五〇代なんですから」
「子欄さんもでしょぉっ」
「はい、気をつけます」
と、あっさりスルーした子欄に続いて、
「体に気をつけてくださいね、納月おねぇさん」
と、幼い納雪が無垢に笑うので、納月は体調に留意することにした。
妹の笑みに見送られて、納月はオータムパレスを出発した。活動は昼から。ゆっくり歩いても余裕があるので、景色を眺めて遠回りで行くことにした。
生まれてこのかた五一年。記憶にあること・ないこと、いろいろある。稲作を中心とする農業の町は経年劣化や補修に変化をとどめて風貌を大きく変えず、懐かしい景色を自分の眼で見つめることのできる悦びを毎年のように感ずることができただろう。納月は、いつかの約束の日の景色や希望を妄想とするかのように研究室で毎日を過ごし、首を垂れた稲を刈る農家の悦びの汗を懐かしむのも久しぶりのことだ。
昨年、緑化地域の壊滅や魔物の襲撃など国には混乱があった。そのさなか失われたのは見ず知らずのひとの命に限らないことを納月は知っている。その関係で、特に姉音羅が精神的に参っている可能性を推察するもサンプルテを訪ねなかったのは、昨年贈ったチョコレートのお礼とともに年賀状の如く父から手紙が届いた。
〔納月へ。
音羅のことは任せて
自分のことに集中しぃ。
チョコレート、
おいしくいただきました。
毎年、ありがとうね。
父。〕
父からの手紙というのは憶えている限りこれのみ。初めて届いた手紙に驚いたのと同時に、謐納からの連絡より前のことであったから期せずして生存確認ができて安心もした。
……お父様に、任せましょう。
納月達がサンプルテを出てから八女である納雪までが生まれている。父は母と、なんとかうまくやっている。たとえどんなことがあっても通じ合っていた関係が消えることはない。それを信じたくて、任せた部分もある。
一応、サンプルテの近くを通って、その中の気配を探った。日曜日の今日、サンプルテで暮らす音羅は仕事が休みでそこにいて、魔力の雰囲気で元気かどうか、なんとなく判る。
……以前に比べると、活気はないですけど。
問題ない程度の大人しさに感じた。一人でいるときまで妹や両親と接しているときのような活発さだとしたらいくらあの姉でも体力が持たないだろう。
……お姉様、また後日、会いましょう。
父のこともあるので、きっと話し込んでしまう。ボランティアを暇潰しのように考えてはいないので、仕事と同じモチベーションで早めに現地到着するつもりである。
けれども、少し思うことがあって、音羅や子欄と一緒に通った学園への道を振り返った。
「『ひとはみんな完璧じゃなくて、欠けてるとこは思ってるより多い。ひとと比べて劣るとこよりひとと仲良くなれるとこに目を向けよう──。』わたし、できてますよね、今は……」
音羅がくれた言葉をなんとなく憶えていて、何度も通った道を見かけると思い出す。ツッコミ癖のせいでついひとの粗を探してしまう納月だが、ひとを傷つけるようなツッコミはしないようにしているつもりだ。そういった距離の取り方や付き合い方を納月は最善と思っている。その一環が今日のボランティアともいえる。粗ではなく怪我を探して、ツッコむのではなく癒やして、笑ってもらえたら最善だ。
小さな町を歩き回ると就学時代の愉しさを想起してやまない。あの頃は、小さなものも輝いて、思い描く夢や希望は到達までの距離に反比例するかのように果てしなく大きかった。が、同じ風景を眺めていても今は様子が違う。自分にはなんの干渉もしてこない背景であって、河原の石のように際立つことなく価値がない。
……衰えただけみたいなこと考えたら、本当に老けるだけですねぇ。
見えなかったものが見えるようにもなった。なんでもない背景から、自分に関わりのあるもの、自分が見つめなければならないもの、確かに秘められた小さな輝きを見つけ出せる。そんな目線を得たことで自分の欲しているものが一番に飛び込んでくるから、全ての輝きを眩しく思わなくなっても感動はいっそ倍増している。
……あそこですねぇ。
感染症が流行した年は縮小や中止となった催し物の数数。その一つ、列車祭のメイン会場となる役場前を東へ抜けてすぐのところが本日のボランティア現場、田創総合病院である。就学時代には同級生が入院した病院で、納月自身はお世話になったことがないが就職してからは間接的に関係があり、それでいて訪れたことがなかった。日傘が必要な屋外からだと天国のような室温で、陽炎が立ち上る自動開閉扉の外へは戻りたくなくなりそうである。
ボランティア要員はいかにも医療関係者という風体である必要はないとのこと。少し大人しめではあるものの納月は趣味の私服でやってきている。これは、消毒液や薬品のにおいなどが苦手なひとに少しでも落ちついて診察・治療を受けてもらえるようにする配慮でもある。
ここには同志がたくさんいる。研究所に似た空気を吸って納月は仕事モードに気持を切り換えた。受付でボランティア要員である旨を伝えると、研究所でもらった証明書を見せ個人認証を済ませた。病院側が用意した白衣を羽織ったところで、
「待ってたわ、納月さん」
と、歩み寄ってきたのは、診療バッグを提げた白衣。臨床部で長いこと一緒に働いている人菊天である。
「おはようございます。到着が早いです」
「密かに張りきってたわ」
「遠足前の子どもみたいですねぇ」
「近いわね。あなたと一緒に働くことはとうに慣れたつもりなのに、本拠地のせいか昂るわ」
「本拠地といえばそうですかね、研究所の経営母体ですもんね、ここ」
「ああ、そういう意味じゃないわ。教えてなかったかしら、」
人菊天がガラス張りの外を見つめる。「ここ、わたしの両親がやってるのよ」
「──」
頭だけ過去に遡ったように納月は彼女達の言葉を振り返ってしまって、「そうだったんです」と、生返事をするほかなかった。
「わたし、現場で研究や試験してるのが好きだし、経営とかは興味なくて。だから近寄ることもあまりないんだけど、あなたのことは両親に紹介しておきたいって思って話はしてたのよ、『研究所にすごく熱心な人がいる』って」
「もしかして、その話が通ったから今回のボランティアにわたしが呼ばれたんです」
「そういうこと。本当に優秀な人なら大歓迎ってね」
「ボランティアは看板を綺麗にしますしねぇ」
「そんな意図もあるわね。お礼に特別褒賞金なんかもくれるかも」
「穏やかじゃないです」
いろいろな意味で恐縮である。「まあ、冗談はさておき、どこで活動します。屋内にそれらしい診療場がないみたいですが」
「今から建てるのよ」
「まさかの重労働っ」
「ボランティアよ。そのくらいしないとね」
「おぉ、いきなり苦手なの来ましたぁ……」
白衣を引っかけて早早に医療っぽくない作業だが体力仕事が存外多いのが医療である。とは言っても、出入口脇に、バルーン方式の仮設診療場を建てるだけだった。あらぬところに陣取らないよう、念のため注意して、電動で空気が入ってゆくのを眺めて、形になった仮設診療場の中に道具一式を運び入れて、全体を消毒したら準備完了だ。バルーン方式の建物は風で飛ばされる危険性があるので、このような屋内設置が基本だ。出入口脇に設置するのは、残念ながら、階級格差の問題が横たわっている。下流階級などが同じ部屋に入ることを嫌う中流階級以上がおり、特に上流階級にその意識が根強い。要らぬ衝突で診察・治療が滞っては本末転倒であるから場所を分けているのである。感染予防の観点で屋外にも別の診療場を用意しており、各種感染症に対して陰性と判定された来院者のみ屋内診療場に案内される流れだ。また、簡易診療が屋外で行われているため、データを共有した屋内で速やかに治療を行える。
治療なら臨床部の納月達もある程度こなせるのでこうして呼ばれている。人菊天の誘いでやってきたが、その誘いも田創総合病院を運営する両親に紹介したいからだそうで、
……経営者との対面は、治療より緊張しそうです。
と、納月は思った。
十数人の治療を終えて落ちついたとき、仮設診療場を覗くようにして、
「こんにちは」
と、片手を挙げた老紳士。「お時間よろしいかな」
「え、ああ、はい」
立ち上がった納月は、「わたしの父よ」と、人菊天の耳打ちを受けた。
……思ったより柔和そうな人です。
どこぞの部長のように眉間に皺を寄せたお爺さんを想像していたから、緊張感がほどけた。
人菊天の父にして田創総合病院の院長人菊葉太郎について院長室へ入ると、老淑女が待っていた。金髪・青眼は、老淑女が人菊天の母であること、人菊葉太郎の妻であることを示している。
「初めまして、納月さん。こちらへどうぞ」
「はい」
人菊葉太郎と同じように優しい雰囲気の老淑女に手招きされて、納月はソファに掛けた。対面のソファには人菊葉太郎と老淑女が座っている。
「初めまして、お招きありがとうございます。竹神納月といいます」
「改めまして、田創総合病院院長人菊葉太郎です」
「初めまして、人菊葉太郎の妻で副院長を務めてます、人菊大地です」
それぞれ会釈。
「タイチさん、どんな字を充てるんです」
「大きな地面、普通に読むとダイチ、ですね」
「なるほど、希しい読みです。って、すみません、院長や副院長の名前も知らないで──」
いまどき携帯端末ひとつあれば調べられただろうことだった。
「いえ、いえ、研究者らしくて素晴らしい」
とは、人菊葉太郎が言った。「天からもあなたのことはよく聞いてましたよ。在学時代から治癒魔法に関する見識を持ち技術も素晴らしく経験もどんどん積んでいると」
「いえ、いえ、知識とか技術とかは受け売りみたいなもんなんで」
「それはお父様の、と、いうことですか」
「ご存じでしょうね、神童やら化物やら二つ名がほっつき歩いてるひとです。直接教わったことは特になくて、受け売りの魔力でなんとかやってきた感じ、と、いう意味です」
「なるほど。とまれ環境に恵まれていた、と、いうことですか」
「葉太郎は道草が好きね」
と、人菊大地が納月に微笑みかける。「ごめんなさいね、ハズったら年を取ったら口数が増えてしまって大変なの」
ハズというのは人菊葉太郎のこと。
「いえ、全然大丈夫です。むしろわたしなんかの話で愉しんでもらえてるなら幸いです」
「キャッチボールしましょうか」
唐突な人菊大地。「ハズの番が終わったとしてわたしの番、その次は納月さんの番でいいかしら」
「え、あ、はい、どうぞ」
言葉のキャッチボール、と、いうことか。
「見ての通りわたしはこの国の人間じゃないわ。レフュラルという産業国家の生まれでハズに見初められてこっちに移り住んだのよ。はい、納月さんはどんなふうに生まれたの」
「え、もうわたしの番です。えっと、変な父とすごい母の下に一月三日に生まれまして、いろいろあって治癒魔法研究の道を歩んで今に至ります。えっと、次、院長さんですかね」
ここからキャッチボールの2ターン目に突入した、と、いうことにしよう。
「じゃあぼくも出自から。この国に生まれて早一〇〇年のお爺さんになりました。ワイフとの出逢いや二人の子に恵まれまして、幸せにやってきました」
「と、いっても後悔のない人生なんてつまらないわね。ハズもそうであるようにわたしも、わたし達がそうであるように娘達も、後悔してることがたくさんある。はい、納月さんの番」
「え、っと、後悔といえばまあ、なくはないですが、別に取り立てて話すようなことは」
「本当に」
「いっ、あいや、……口に出すのは憚られます」
キャッチボール3ターン目。
「憚らなくてもいいよ。ぼくがそれを引き出そう。きっと、娘夫婦のことだ」
「一緒にいたのは人菊天、わたし達の長女。もう一人、その下に娘がいるわ」
……──。
「気づいてるわね、そう──、旧姓人菊、今は水口、それが次女、凌なの。あの子は、後悔ばかりの人生ね」
「……そうならないよう、本人は道を選んできたと思います」
と、納月は3ターン目の言葉を続ける。「今は、きっと幸せにやっています」
そうでなければ、納月が敗北した意味がない。
4ターン目に突入する。
「ぼくはね、凌はとても不憫な子だと思ってる。魔力に恵まれなかったことに始まり、趣味もなく、ひととの関係も築けず、特別な才能を見つけ出せませんでした」
「そんな凌が結婚することを決めて、その相手を研究所の役職に就かせてほしいと頼み込んできたときは、やっと幸せになれたんだ、って、心から祝福したわ。姉の天も、それはそれは悦んでいた。人並でもいい、誰にも頼られることなく、好かれることなく過ごしてきた分、たった一人でもいいから一途に想われて過ごしてほしい、そう思って……。でも、それは違った」
「……水口さんは、凌さんを愛してなかったですからね。ただ、それは最初のことです。(わたしと別れる前から感情移入して、癒やすことを考え始めていて、たまたまわたしとであってしまって──、)取返しのつかない結果を手繰り寄せかねないので、脇見運転を積み重ねる研究者などいません」
5ターン目──。
「長女に天という名前を与えたのは、ガイラルディア──、ワイフの生まれ故郷が原産とされる花に由来してます。それは、生まれたときからワイフに似ていたということもあります。一方で凌はどちらかといえばわたしに似ていて、地味でね、この国の血が強かったようです」
「この国には長良という大きな川があるでしょう。氾濫すると大変だけど、大地を肥沃にすることもできる水──、そんな子になってほしかったからつけた名前が、凌よ。何かを超えるとか、って、いう意味ね。わたしは出自がじつははっきりしてないの」
「え……」
「レフュラル出身なのは間違いないけどね、戦争の頃に生まれたらしくて親がいなくてね、運よく上流階級に拾われてハズとの出逢いにも恵まれて、運がよかったのね……その身代りになってしまったのかも知れないわ、凌は」
運が悪い。本人も言っていたように外見に恵まれなかったことは勿論、魔力に恵まれなかったことは魔法社会体制のこの世界では大きなハンディキャップだ。
「でも凌さんには才能があります。ひとに優しくすることができる、譲ることができる、そういう才能です。自分が前に出なくても、うまく回るなら身を引くことだってしてみせる……。なかなかできないことだとわたしは思います」
6ターン目、人菊葉太郎が両手を合わせる。
「そう、あの子はのんびりしていて、魔力がない分、多くのことでひとに遅れを取ってしまいますが、優れたひとに道を譲ることやよりよい道へ他者を導くことには長けていた。そのことに、あの子は、気づけないままでした──」
「そのことにあなたは気づいてくれてたのね。わたしはそれがすごく嬉しい」
人菊葉太郎がうなづいて、人菊大地が瞼を閉じた。「凌も、きっと悦んでいるわ」
「ひとに愛されるひとだと思います。わたしは、凌さんにも幸せになってほしいんです」
今はきっと幸せだ。水口誠治と肩を寄せ合って生きてゆける。
──謎がある。人菊天は長年両親に納月のことを話していたようなのに、人菊夫妻が納月と会うことを決めたのは今回が初めてだ。なぜ今、会うことにしたのか。それも、自身らの出自や家族の誕生、娘のことを、初対面の納月に語っている。
「ラッキーセブン、7ターン目ですね。伝言があります」
と、いう人菊葉太郎の笑みを一瞥した人菊大地が次ぐ。
「あなたに、自由にしてほしいと言ってたわ」
「……凌さんが」
「はい」
「ええ」
「……凌さんが、どうしてそんな──」
予感はしていた──。
「亡くなりました」
「先日ね。安らかだったわ。あなたのお蔭よ、身を引いてくれたあなたの」
「──」
人菊夫妻は、納月と水口誠治の密通を知っていて、水口凌もとい娘の幸福にどんな影響があったか、知っていた。
納月は腕を抱いて、拳を握るように瞼を閉じた。覚悟は、譲ってもらうためではない。
「わたしは、何もしてません。祈られるような立場ではないです」
「誰もが祈られる側にあっていいと、医療に携わる者としてぼくは思います。誰もが祈り、誰かに祈られている世界は、じつに幸せではないですか」
「八百万の神を奉るこの国に、その考え方はとても合ってるわね。わたしも、この国に来てからはたくさん祈ったし、誰もがそうあっていいと思うわ」
「わたしは、ただの泥棒女でしたよ」
少なくとも、別れを切り出すまでの納月は積極的に泥棒していて、水口凌の幸せを祈るふりをして、得たものを当り前のように享受していた。そう言えるほど、身勝手だった。
謎は解けた。人菊夫妻が納月に会ったのは、遺言ともいえる水口凌の言葉を伝えるためだ。ボランティアはそのための口実に利用されている状態であり、それを看過していては今もって納月は泥棒女と変りなく、身勝手に祈りを否定してしまう。
「凌さんの言葉と院長達の話、大切に受け取らせてもらいます。ですが、聞き入れることはできません」
納月はソファを立ってお辞儀、「失礼します」と、院長室を出た。
早足でエレベータへ向かう。
……凌さん──。
亡くなっていたなんて。
別れてから無視し続けられて話しかけることを諦めた水口誠治が、思えば先週、研究所内で話しかけてこようとしていた。納月は徹底的に無視を決め込んだが、水口凌が亡くなったことを知らせようとしていたのかも知れない。
「一言、言えってんです……」
エレベータの扉が閉まってから、呟いた。
わずかの浮遊感が、解き放たれた身を思わす。けれど、偽りの自由だ。自分を縛るものは何もない、と、いう思い込みだ。納月は水のように存りたく思うが水そのものにはなれない。水口凌が亡くなったとて、想いを憶えている。水口凌の孤独を察している。遺言を免罪符に想いと孤独を無視して彼女の夫に声を掛けることなどできはしない。そもそも、当の夫、水口誠治の気持を無視しすぎだろう。
……せっかく凌さんを選んでくれたんです。最期まで、その想いを受け取ってください。
水口凌にはその資格がある。ほかでもない水口凌だから、そうしていい立場にある。納月はそう考えている。
ポーンッ──。エレベータの到着音。わずかのあいだ脚に掛かった重力から柵を写し取り、思考が冴えて、仕事モードに切り換えられた。扉が開くと納月は足早に現場へ戻った。
「納月さん、両親とは話せた」
と、人菊天が笑っているから、納月は笑えなかった。納月と水口誠治の関係を、彼女もきっと知っていたはずだ。
来院者がそこにいなかったから、納月はすぐさま本題に入れた。
「どうして言わなかったんです。凌さんが亡くなった、って。凌さんが妹だった、って、なんで、言わなかったんです」
「妹に限らず、六〇を過ぎたら亡くなる人も増えてくるわよ。いわゆる寿命ね」
「平均寿命が延びて、超超高齢化社会に突っ込んでいってます。せめて家族のお悔やみくらい言わせてください」
「わたし達の関係を知らないみたいだったから、サプライズにしようと思ってたわ」
「ブラックジョークが過ぎるとツッコめませんて」
納月は最悪のタイミングで驚かされた気分だった。「笑えもしません」と、人菊天の隣の席について項垂れた。
「ごめんなさいね、でも許して。直接話したのはうちうちの披露宴が最後。それからは電話すらしてなかった。仲がいいとはいえなくて、亡くなるまで、何をしてるかも知らなかった」
「……そんなに疎遠だったんです」
「妹のことは、たぶん納月さんのほうが知ってるわよ」
姉妹で連絡を取り合っていなかったのなら、そうかも知れない。ただ、水口凌を根本的に変えられたのは、家族である人菊天達で、連絡を取り合っていれば変化の機会を作ることもできたかも知れない──、とは、
……わたしの理想でしかないです。
理想を語るのも押しつけるのも簡単で、実現は簡単ではない。納月自身、面と向かって父と対話しろ、と、求められても、失敗が枷になって難しい部分がある。意志に反してそれを強要されても是が非でも断る。そういう関係が水口凌と家族のあいだにもあって連絡を取り合わなかった。それを察して、口出しすべきことはない。
「結果論だけど、会っておけばよかったとは思うわ。わたしも、両親も、勇気がなかった。解決しない関係に、甘えていたともいえるわね」
「……」
解決の手段を持ち得なかった幼子。解決策を差し伸べられなかった両親や年長者。それぞれが罪を感じていても加害者意識が邪魔をする。距離を取ることで自罰感情を育み償ったつもりになってゆく。心の奥底の解消されない淀みが濃くなってゆく。
加害者は、じつはどこにもいない。歩み寄る勇気がなかったことへの罪悪感があるだけだ。
「凌さんは間違いました。譲ったらいけないことまで、譲ってしまってたんです」
「そうね……。それに甘えたわたし達には、本当の罪があると思うわ」
「お墓は。お参りに行きましたか」
「いいえ、まだ。その勇気すらないのが、関わってこなかった罰かしら。老い先短い身で、ひょっとすると死ぬまで抱えていかなきゃならない重荷だわ」
「そうしてまた後悔しますよ。もうたくさんでしょう。お参り、行くべきです」
「あなたはやっぱり立派だわ、亡くなった命にもきちんと向き合ってる」
人菊天が携帯端末を取り出して、キーを素早く打ってから、「ありがとう──」
「……お礼なんて、いいです」
「言わせて」
人菊天が携帯端末をしまった。「両親に、連絡を入れたわ、お参り行こうって」
「あ……」
「何人も看取って、涙が流れなくなって何十年も経って、死に慣れた気になって……、心が潰れそうになってるのは感じてたのにね、あなたみたいには命に向き合ってこなかった、って、いまさら自覚したわ」
膝に肘をついて俯いた人菊天が自嘲した。「言葉を交わせないと判っていて行くのは卑怯だけど、それでも行くべきとはわたしも思ったから、行く。命に向き合えないままの医療人じゃ胸を張れない。そんなじゃ、譲ってもらって得た価値までなくなるわよね」
「……その価値が本物だとは一緒に働いてきたわたしが認めます。是非、行ってください」
「ええ、──そのためには、一仕事、終わらせましょう」
間もなく屋外の仮設診療場から連絡が入って、新たな来院者がやってきた。納月は人菊天とともに夕方までボランティア活動に励んで、病院前で、人菊一家の新たな出発を見送った。
……命に向き合ってて立派、か──。
納月は、言われるほど向き合えているか自信が持てなかった。人菊天は心から言ってくれたことだろうが、納月には、中途半端にしていることがあったからだ。
夕日に染まっても幼い頃のように輝いては見えない景色。日傘を差して、自分の影を追うように歩くと熱気にはためくスカートを求めている。
──五章 終──