四章 堰
研究会には緊張感が常にあった。紛うことない不倫による密会だったからだ。水口誠治の妻水口凌が容認したとは言っても、納月と水口誠治、それから水口凌それぞれの関係者には漏れてはならない関係だ。間接的にでも伝わるようなことがあってはならないから、水口凌の容認を得た帰り道以降は一緒に歩くこともしなかった。研究所内では当然のように上司・部下の関係を装ったし、研究所外では予め決めた屋内でのみ待ち合わせた。もしも関係者と遭遇しても言訳ができるよう作成中の論文や参考文献を持参した。無論、持参する書類は研究所内で摺り合せを行い、研究会が「点ではなく線の行動である」と対外的に示すこともした。不倫関係を知っても味方になってくれた納月の家族、特に同じ研究所で働く子欄には研究会に同席している、と、いうことにしてもらい、二人きりにはなっていないことも示していた。
そういった表面の動きを計算して動くだけでも十分にスリリングな研究会は、しかし、実際に研究会の一面を有している。と、いうのも、納月と子欄が最終目標としている不治の病の原因療法、すなわち、不治の病を取り除く治癒魔法に関する助言を水口誠治から受け、それをこれまでの研究に組み込むこともしていたからである。不治の病の原因療法は理論の状態で、実用段階でもなければ臨床段階でもなく、どんな方向性を持たせるかさえ定まっていないために大きな可能性を秘めている。不完全そのものの魔法であるから治癒魔法研究者の水口誠治の知恵を借りて可能性を広げ、深め、よりよいものに仕上げようとしているのである。
……お父様の命が懸かってますからね。こればかりは、手を抜けません。
膝をついて落胆した母を、時折、思い出す。前は父が生きていたからなんとか元気を取り戻すことができた。逆のケースは、想像したくもない。一方で、生きていても地獄を感ずることがあるのでは──。
「ご両親のことを考えているようだな」
「……ついまた、すみません、集中が切れて」
愛人たる立場の納月も飽くまで未成年。成人男性である水口誠治との密会はもっぱら図書館の個室だ。調べ物をするには恰好の場所で、研究会の体も立ち、高さ二メートル弱の仕切りで囲われているのでよほど好奇心旺盛な覗き魔がいない限り二人きりのところを見られる心配もない。
「三時間も集中すれば十分だ。休憩しろ」
「あ、もうそんなに経ってました」
水口誠治の腕時計を見ると昼であった。直射日光が届かない個室は少しだけ暗く、恋人同士であればそれらしい雰囲気が出そうな場所でもある。
「付合いがいいですねぇ」
「天才の集中力に並んでいる、と、誇りに思わせてもらう」
……天才だなんて。
納月は同じことを先輩にも言われた。が、先輩のそれは励ましであって言葉の綾だった。水口誠治のそれは言葉通りの意味で、仮に他人に聞かれても問題のない体裁を取り繕いつつも納月を心の底から褒めてもいる。
……ま、過大評価です。
天才なら独りでも不治の病を治してみせる。そういう意味で、魔法の才に恵まれた両親でも程遠い天才という名を、納月がもらうわけにはゆかない。
ノートを閉じた水口誠治がボトル飲料を納月の口に持っていった。
「浮かない顔だな」
「飲みながら話したら零しますからね」
「お父様のことじゃないのか」
「(鋭い、と、いうほどでもないですかね。)近いですが違います。ちなみに、お母様のことといえばもっと近いですが違います」
「答はなんだ」
──なっちゃん、妹だよ、妹っ!
起き抜けの頭に響く元気な声で音羅が伝えた事実は、ハリセンで叩いたように納月の意識を覚醒させた。
「今日の朝、新しい妹ができたんです、四女です」
「よかったな」
「ありがとうございます。──」
姉妹が活気づくことは悪いことではない。
「それでなぜ浮かない表情になる」
「……死ぬって確信してるように観えて」
「お父様が……」
「……」
「なぜそう考える」
「下の子を作って、家族が、少しでも賑やかなままでいられるようにしてくれてる。そう、思えたからです。それってつまり──」
閉じられたノートを触れて、その中身の重さと空虚を感ずる。「──わたし達の考えてる魔法が完成しない、って、ことだと思うので」
「思う、思う、と、君は言っている。その考えに確証がないんだ」
「ないです、当然。当然……訊けませんし」
恐くて。
父の目で観てこの研究は全く意味を持たないと示されているようで。それに、努力が水の泡になる、なんて、まるで自分にぴったりな結末な気もして納月は恐いのだ。
「理由を聞いてもいない段階で悪い方向に考えを深めるべきではない」
「……ですね」
柔軟さを失っているのは、確証がないのに凍えるような未来を予測しているからか。果ては砕け散るのに、凍った身を自ら岩にぶつけに行くようで、頭が痛くなった。
「大丈夫か」
「暖房利きすぎですねぇ、ここ。なんだか、暑い……」
「水を掛けてやろうか」
「頭から自分に掛けてください」
よろけて椅子ごと転びそうになったところを水口誠治が包んで、背中を撫でてくれた。納月は彼の腰に手を添えて、上体を少しだけ撓垂れかけていた。
「今日はこのくらいにして、昼食でも摂って帰ろう」
「……いいんです」
「いい。少し心配だ」
病ではない。だから余計に心配させている。水口誠治の優しさを享受したいが、外食ともなれば人目につきやすい。
「まっすぐ帰ります。誤解されたくないんで」
「……気をつけて帰れ」
「気が利かない上司です」
「そうだな。送ろう」
「サンキュです」
昼でも恐い人間はいくらでもいる。
三〇三〇年一二月二五日、多くの家族が一つ屋根の下で笑みを湛えているであろう日曜日。妹が生まれたというのに研究会に出掛けて薄情な自覚もある納月は、一方で、家にいるつらさを怺えきれなかった。
レディファーストを意識しているかのように振る舞わせた水口誠治に日傘を持たせ、それを名目に少しだけ距離を寄せて歩く真冬の赤道直下は、暑くも、少し寒い。手を繫げばその寒さが和らぐことを察しながらそうはできないから、
「もう少し日傘を下げてくれないと」
「すまない、日差が当たっていたか」
「ええ、かなり」
噓の名目を盾に距離を詰めさせた。
納月からは決して距離を詰めない。パワハラ部長がじつはとても紳士でひとの命を重く視ていることを示したい、と、いうのも一つの名目ではあったが、噓ではないのでマシかも知れない。名目の奥底には、一緒に歩ける悦びを潜めている。一番大事なのは、それを互いに察していること。手放せない事実を、そうして積み重ねてきたこの三年余。
振り返れば、学園で過ごした年月より長く、水口誠治との関係が続いていることに納月はぞくりとした。
「どうした」
「あ、いえっ、なんでもないです」
「震えたが、寒いのか」
「いやあ、陽炎がちょっと幽霊みたく見えてビクッただけです」
学園生活もあっという間だったが、水口誠治との時間もあっという間だった。その中で嬉しかったこと、つらかったこと、学んだこと、いろいろな記憶を繫いで今があるはずなのに、一番に思い出すのは、彼が踏み出してきてくれたときの嬉しそうな顔だ。あれがなかったらこの関係がなかっただろうことに、今また震え上がるほど嬉しくて、そのくせ恐かったことを伝えるのは、恥ずかしい。
「ついでに身震いです。末妹がどんだけ成長しちゃうのか、今から恐いんで」
「お父様方は、妹にも成長を速める魔法とやらを掛けているのか」
「たぶん。撮り溜めた写真をパラパラ漫画にしたみたいな成長速度でした」
「仕組は判らないでもないが不思議だな」
「何がです」
「細胞増殖を加速する、恐らくは時属性魔法だが、君を観ると老化が過度に促進されているという様子はない」
「一定のところで魔法が止まるようになってるみたいです。魔法の無駄遣いを嫌ってるってのもありますけど、精神力を削って日常生活に支障が出ないようにしてるのかも」
一日じゅうテーブルにくっついている父に支障などありはすまいが。
「一過性の時空加速、か。それにしても体を大きくするには大量の栄養を要する。体内のそれには限りがあるから最悪は餓死を招く。必要量の栄養をどう補っているんだろうか」
「そういう細かいとこ無視してるふうだから不思議だな、なんて、いったわけです」
「ああ」
魔法に対して細かいことが気になってしまうのは仕事柄だ。納月だって気にならないでもないが話したいのはそこではない。
「治癒魔法だけ勉強しててください。お父様は基本的に察しない限り話してくれませんから」
「つまり、答が合っていれば回答をもらえるんだな」
「違う場合はとことん無視されます」
探究心を牽制するつもりはないが、話したいことからどんどんずれてゆくので納月は仕切り直す。
「本題に戻します。凌さんと会えませんか」
水口邸を訪ねて以降、納月は水口凌とは会っていない。水口誠治によれば元気に(?)不倫しているそうだが、
「あれからわたしがケアをしている。凌から声が掛からない状況で会うのか」
「呼んで・訪ねてとはいいましたが、わたしから会いに行かない、とは、言ってません」
「その通りだが屁理屈だな」
「構いません。わたしはこの三角だか四角だか不明な関係を進捗させたいんです」
「と、いうと」
「……わたしが許されているのがどんなことまでなのか、明確にしておきたいんです」
同じ時間を過ごすことを許された。それは、どんな行為を許容したものか。
「こうして日傘を差すような距離は当然許されていると観ている」
「それはあなたの見方で、凌さんの示した許容の範囲は定かじゃないんです」
取決めを詰めることができなかったため、水口誠治との接触は研究への協力やそれにおける会話、その間の多少の触れ合いにとどまっている。
……キスとか、したことないですし。
魅力が足りないのか、未成年のせいか、水口誠治が極めて理性的なせいか、納月は俗に聞くような不倫関係らしい接触を求められたことがない。今日はこれで終り、と、研究会を締め括ったあとまで冷静に接せられると本当に女として求められているのか自信がなくなりそうで、
……早く、二〇歳になりたいですぅー。
と、思わざるを得なかった。あるいは、水口誠治は研究者の気概に共鳴したのであって恋愛感情をいだいていないのではないか、と、疑問を上したくなるほどには、納月は不安になっていた。そこで、せめて二人きりのときくらいは積極的に接せられる理由がほしい、と、考え、じつはずっと気懸りだった水口凌の許容範囲を確かめたくなった。水口誠治とのある程度の接触行為を許されたとしても二〇歳待ちなので、確かめるのが今である必要はないのだが。
「許容範囲が予想より広かったとして君はどうしたい。いや、わたしにどうしてほしい、か」
納月は沈黙で応えた。
「わたしの社会性、コミュ力というのは相変らずだが、君のことは、観ているつもりだ」
「凌さんのこともきちんと観てください」
「それが前提だな。話を戻す。君は、わたしと触れ合いたい。そのための後押しがほしいんじゃないのか」
「いちいち言質を取ろうとするところもコミュ力が低い証です。なんとなく察して、意見だけ出してください。間違いを正すくらいはしてあげます」
「解った、訂正しよう。触れ合いたいのは、……わたしだ」
……あ。
たった一言なのに、安心できた。……言質を取りたがってるのは、わたしのほう──。
納月は思いがけず肩が震え、彼を見上げようとした顔を正面に固定した。
「それでいいんです、解ってきましたね、上出来です」
「君のお蔭だ。約束の日までは、すまない、不安にさせる──」
……憶えて、察してくれてます。それなら、いいんです、全然。
堰を閉じるくらいにあっけなくこの関係が切れてしまいそうな不安感。川の流れが大きくも緩やかであることを知り、堰がないことに安心した。問題は、堰を建てる者がいるかどうか。
「凌さんと、やっぱりまた話したいです」
「そうだな……、あれから三年だ。話せることが増えていると期待しよう」
サンプルテの前まで送り届けた水口誠治が、閉じた日傘を納月に渡した。
「送り届けありがとです」
「近近を期待してくれ」
「ええ、連絡待ってます」
熱い日差の中を駆けてゆく背中が嬉しそうで、納月は頰が緩んだ。
……おぉっと、こんな顔してるとデレデレをツッコまれすねぇ。
表情筋を鍛えるように変な顔をしつつ家の中に入った納月は、しかし鍛えようとしたのでもなく表情筋が強張った。
……問題は、ここにもあります──。
いつものようにテーブル席で突っ伏している父、キッチンで料理をしている母。対して、すっかり大きくなった末妹を抱えた音羅と子欄が、納月の帰宅を認めながら挨拶しなかった。
「ただいま戻りましたよ」
と、思いきって声を張った納月にようやく、
「『おかえりなさい』」
と、音羅と子欄が応え、
「デートは愉しめたん」
と、父がいつものようなボケ。納月は透かさず訂正する。
「研究会です」
「進捗は」
「どっちのです」
「それを言わせたら実のほうを訊きたくなってまう」
「失敬。無能な研究者が雁首揃えても成果は遠いようです」
「それはよかった」
「何もよかないですがっ」
「愉しそうやから」
「パワハラに曝されて生きた心地しないです」
「モラハラの間違いやろ」
「(それはちょっとあるかも。)失敬、まあ、フラットですよ、フラット。パワハラ云云はご愛嬌です」
「それはよかった」
……、……。
父にしては反応がワンパターンだ。多彩な言葉でボケてくれるはずの父がこうだと、調子が出ない。ひょっとすると、韻を踏むような返しにツッコむべきだったか。と、考えている時点でテンポが悪い。
「ちょっと早いですけど、お湯、いただきます」
「なら妹も一緒に入れたって」
「妹って──」
「眠っとるから溺れさせんように」
末妹のことだった。
「解りました。子欄さんも一緒にどうです」
と、納月が誘うと、
「わたしもいいかな」
と、音羅が反応した。
「OKです。姉妹水入らず、湯船の湯をざぶんと減らしてやりましょう」
「狭くて入れないから代わり番こだよ。さて、着替を用意するから、なっちゃんとしーちゃんは〈すーちゃん〉と先に行っていて」
すーちゃん、は、音羅しか使わない末妹の愛称。本名は、〈鈴音〉という。
音羅から鈴音を預かった納月は、子欄とともに、逃げるようにして脱衣室に入った。
扉は薄い。耳のいい父には声が漏れそうだが納月は気になって子欄に問いかける。
「お父様とお母様、変りありました」
「……お姉様が出てからも、特には」
「会話はありました」
「お母様が話しかけても、お父様は反応しません……」
「ネガティブ極まりやばやばですねぇ……」
納月が家を出る前、もっと細かくいえば納月が起床したときから父と母の空気が少し変わっていたことを理由として、今、この竹神家はこれまでにない緊張感に包まれている。就学時代の、父の疑惑や態度を起因としたものよりは穏やかなようだが、もっと根本的でより張りつめたもののように感じたのは、納月だけではないだろう。原因不明だと手の施しようがないのは病と似ている。
ダイニングとキッチンのあいだに置かれた鏡について、子欄が触れる。
「目線のやり取りもない気がします」
「ふとしたとき、鏡で見つめ合ってたりしますもんね……」
だらしない父と働き者の母、それでいて通じ合っている夫婦。納月だけでなく姉妹の理想となっている両親の関係が揺らいでいるようで──。
「どうして突然こんなことになってんですかね……」
「わたしが起きたときは普通だったような気がするんですが」
と、子欄が言った。「外から戻ってきてから、でしょうか」
「外から。お父様、今日は外に出てたんです」
「ほんの一瞬ですがお母様を連れて表へ。内内の話でもしてたんじゃないでしょうか」
家の中でできない話だとすると、娘の納月達には聞かれたくないことか。
「……いつかみたいな共犯的作戦ですかね」
「判りません。あのときとは何かが違う気がします」
納月も、子欄と同意見だ。以前も、噓らしくない噓、真実を利用した作戦に嵌められた。親子の縁を切りたくなるほど憎悪した出来事だが今では両親の愛だったと理解している。今回のはそれとは違う、と、いうことだ。
……作戦だとしたら、なんのためなんでしょうかね。
前回の作戦を踏まえ教育を粗方終えたと考えているなら、次は親離れさせるため、とか。それなら両親が協力して企てそうだが、父が母の言葉に反応しないことを素直に観察するなら、父が母に反発している、と、受け取れる。それを観た納月達が何かしらのアクションを起こすことを想定した作戦とも考えられるが。
……憶測に憶測を重ねても仕方ないです。
話を直接聞いたほうが早いだろう。納月は水口凌との対話に集中したいので、家庭内のごたごたはないに限る。
着替を持ってやってきた音羅を加えると眠ったままの鈴音を溺れさせないよう入浴させた。納月も含め、生まれたばかりの姉妹は大体が長く眠っているらしく、入浴を終えたあとも鈴音はぐっすりだった。
寝室に鈴音を寝かせた音羅がダイニングのテーブル席につくと、先に着席していた子欄に並んで納月は口を開いた。
「さて、全員集合したことですし、──」
「いただきます」
と、父が先に挨拶。
「『……』」
沈黙が四つ。母が料理を並べたが、突っ伏したままの父が箸を持っているはずもない。
「お父様の口は頭にあったんですねぇ」
と、納月は指摘した。指摘が的外れであることは、父の昼食が用意されていないことから判然としている。が、
「あとでいただくから先に挨拶したんよ」
「だったら、いつも通りわたし達と一緒に挨拶すればいい話です」
朝食はどうだったか。「朝ご飯は食べてましたっけ」
「食べたよ」
と、言った父を音羅が覗き込んだ。
「わたしはここにずっといたけれど、パパは何も食べていなかったよね」
「お前さんには判らん食べ方やから」
「どうやって食べたんだろう……」
納月は溜息をついた。
「お姉様、まじめに考えなくて大丈夫です、たぶん噓なんで。食べたくないならそれでもいいんですけど……お母さ──」
「おやすみ」
「あ、こら、そんなとんずらは──」
「すぅ……すぅ……」
「あ、あれ、寝てます」
「寝ているね」
音羅が父のほっぺたをつんつん。いつもなら鬱陶しがりそうなものだが、反応がない。
「なんて都合のいい体です。寝たいときに寝られて羨ましいですねぇ」
「それではお先にいただきましょう」
納月の皮肉を意に介さず、母が手を合わせた。「いただきます」
「『いただきます』」
母の音頭に合わせるも、納月は箸を取らなかった。
「お母様。お父様の態度、なんか変じゃないです」
「そうでしょうか」
「(感じてない、なんてことはないでしょう。)単刀直入に訊きます。なんか企んでます」
「いいえ。なぜですか」
「なぜ、と、いわれると、さあ、と、しか」
原因不明で指摘すべき点が漠然としている。
子欄が口を開く。
「お父様がお母様の発言に反応しない。それから、お父様がそこの鏡を見てない。それらの理由はなんでしょう」
「お疲れなのです」
母が父を擁護するときは大体その理由だ。国ぐるみで大騒ぎになった一件から三年も経っているので未だに疲れているとは考えにくい。今に至れば、平日きっちり働いている納月達や母のほうが疲れているだろう。
「お母様、何か隠してますね」
「っふふ、鋭いですね」
じつは口を割りやすい優しい母である。
「何を隠してたんです」
「神界移住計画を進行中です」
「そういえばそんな話がありましたっけ──」
納月達が生まれて間もない頃に立ち上がった話だった。
音羅がその計画のきっかけを話す。
「確か、わたし達が暮らしやすいところを探すって話だよね。それで、人間とは違う価値観を持っている神様達が住んでいる世界、つまり神界で、家を探さなきゃいけなかったんだ」
「はい」
「いま思えば、あの計画ってパパのことで周りのひとから責められることがないようにしたかったのかな」
「今では問題視すべき点ではなくなりましたね」
母が三人の娘を順に見つめる。「立派に成長し、それぞれの仕事をし、目標を持って人間の世界で生きています」
人間の世界、などと距離を置いたような言回しをするのは、母が人間離れした人生を送ってきたからだろう。微笑みを絶やさない穏やかな性格の母からは想像もつかないが、全世界を巻き込んだ戦争に参戦し、神神の世界にも足を踏み入れたそうである。
人間のいないその世界なら父に纏わる疑惑を知る者はおらず、魔法で大きくなった納月達をなんの偏見もなく受け入れられる。そういった観点から移住先として神界が浮上し、両親は移住計画を進めていた。
「って、」
納月は察した。「お父様が疲れてるのは陰で動いてたから──」
「はい」
母がうなづいた。
就学時代と全く同じだ。納月達の認識できないところで、勝手に動いて勝手に疲れている。端から見ればテーブルに突っ伏している父だから疲労とは縁遠いと思い込まされる。
「漫画やアニメの忍者みたいに、分身を作ってるんですか」
「魔法によるものなので精神力を常に消費なさって斯様におなりです」
回復するには睡眠がいい。
「ゲームの宿屋現象ですねぇ」
「げーむのやどや現象ですか。どのような現象でしょう」
「えっとですねぇ、──」
その手の話に疎い母に説明しつつ納月は昼食を摂った。説明を聞いた母から逆に説明されるまでもなく、ちょっと寝たくらいで「快復」と都合よくゆかないのが現実世界だ。分身が活動しているだけ回復は遅く、父が快復するのは移住が終わってからになる見込みだ。
家の緊張感の正体は、疲労しきった父が母に対しては無反応を決め込んだクセに、テキトーながら娘には反応したがために発生していたもの。つまるところ、
……わたし達の思い過し!
水口誠治との研究中もじつは心配していた。集中が切れたのもそのせい。聞けば音羅や子欄も随分心配していて肩透かしを食ったとのことだった。父には姉妹の愚痴を予約しよう。
……お父様は、それをちゃんと聞くでしょう。
無表情またはポーカーフェイスが常の父が悪評を厭わない娘馬鹿だとは、就学時代にも察したことだ。
家庭の心配事が解消されると、すくすく育った鈴音にもいささか学力的格差を感じつつ、納月は約四年を過ごした。水口凌との対面はその間に一度も叶わなかった。水口凌がその理由を明示することがなく、一方で、納月が尋ねたかった許容範囲については回答があった。
──粘膜接触までは許してあげるわ。
だ、そうだ。水口誠治を介して聞いた回答の意味を、納月は考え続けた。対面で細かく聞けたのでもないので、やはり推測せざるを得ない領域を感じて、無難なところに落ちついた。
「マウストゥマウスまでですかねぇ……」
「人工呼吸法の一つだな」
「互いにやったら咽せますねぇ」
「その前に息を押し合う形になって両者が吹っ飛ぶんじゃないだろうか」
「試してみます」
「吝かでないが肺にダメージが発生する危険性を考慮して却下だ」
いつもの図書館の個室。肩を寄せ合って、静かな漫才。三〇三五年一月三日、日曜日。納月は、本日で一一歳になった。
「……九年は、長いですねぇ」
「そうでもないな。前は三〇二九年、次は三〇四〇年だ」
「なんのことです」
「君の誕生日をこうして祝えた日、そして、祝える日だ」
「……誠治さん──」
いますぐにでも、許容範囲の限界に迫りたい。それができない若さが怨めしくて、納月は無理な想定を上す。
「いつか凌さんが言ってましたっけ。生まれた順番が逆だったらよかった、って。わたしも今そんなことを思いました」
「君が幼いのは年齢だけだな。仕事でも頼れる存在だと臨床部からよく聞いている」
魔力性麻疹ウイルスに有効な治癒魔法が新たに開発され、納月も臨床試験を幾度となく経験した。そうして収束に向かった魔力性麻疹ウイルスとは別のウイルスが何度か蔓延して、その都度臨床試験に挑んで、納月は既存部に戻らないことを決めた。もともと臨床部で経験を積みたかったというのもあるが、不治の病を治す魔法の開発は水口誠治や子欄と個別に行えているので、今は技術向上や経験に重きを置くことにした。
「ここのところ凌さんが研究所に来てないのは、わたしを避けてるんでしょうかね……」
「わたしに気を遣っている」
「人事への働きかけもとい脅しを掛けに来たなんて思わせたくない、って、トコですか」
「それもあるが、わたしが治癒魔法研究に熱心なことは彼女も知っているからな」
研究の邪魔にならないように。
「……誠治さんは、お祝いしてます」
「誕生日か」
「そうです。わたしのはこうして祝ってくれてますけど」
司書にばれなよう持ち込めるサイズのケーキを置き、蠟燭に見立てた棒状菓子に納月は息を吹きかけて、水口誠治からのお祝いの言葉を胸に刻む。六年前も今年も変わらない熱量でお祝いしてくれた彼の誕生日を、納月は知らない。
「男のひとはみんなそうなんですかね。お父様も誕生日を教えてくれませんでした」
「君や君の家族が惇く祝ってくれる。そう察して遠慮しているんじゃないか」
「誠治さんがそうなんです」
「いや、わたしは……おかしくなりそうでな」
「ワライタケを盛ったりしませんて」
「前振りか」
「だから盛りませんて」
そう言っているうちに盛ってみたくなってしまったが、「実際のとこ毒物ですから盛りません。で、誠治さんはなんで教えてくれないんです」
「言わせるな。恥ずかしいからだ」
「言ってるじゃないですか。随分とノリを覚えたもんですねぇ」
「君に鍛えられたのかもな。……ちなみに、ボケたのでもなく本心だぞ」
「恥ずかしくなって、おかしくなるんです」
「こうしているだけでも、おかしくなりそうなんだ」
二人並んでも狭くもない個室。それでも、距離を置いて座るほど広くないことを建前にして肩を寄せ合って、互いの体温や息遣いを感ずる。
……お父様とは別の、いい香り。
家族の香りとは別の大好きな香りが近くにあって、曰くおかしくなりそうな鼓動を肌で感ずるのは、悦び以外の何物でもない。
「ときどき不安になったりもしますけど、こうやって過ごした日を思い出せば、胸の高鳴りと一緒に将来を信じられます」
「わたしもだ。それで、できることなら、君の二〇歳の誕生日もこうしていたかった」
「もしや平日です」
「ああ、金曜日だ」
先回りで調べてくれている気持を疑う余地はなく、納月は一層、水口誠治との将来を前向きに考えていた。平日でだって密かに言葉をくれるくらいに彼は想ってくれていて、そんな彼にどんどん惹かれてゆく自分を感じてもいた。
「ほんとにわたしを愛してるんですねぇ、この、このぉ」
「ちゃかすな。……と、言いながら、そういう君も、嫌いじゃない」
「素直な自己主張は責任の一端です」
「大人ゆえの、だな」
「いま口にするとヤバイですけどね」
通じ合っていても、公的に許されない。おまけに不倫。恰好の的になって、彼が犯罪者などと貶められるのは堪えられない。
「いつか、公に……は、無理でも、せめて、罪に問われないくらいには──」
「そうだな……」
人目を避けて正面からぎゅっと抱き締め合うのが、今の限界だ。
……いつか、触れ合いたいですね、素肌で。
堪えている水口誠治に、二〇歳になったその日、真先にあげるものを決めて、納月はその日の研究会の閉会を告げた。
それからも何十回と重ねた研究会を経て、納月は一つの可能性を見出すこととなった。水口誠治の知恵を借りて不治の病をどのように治すのか探ってきたが、いよいよ、向くべき方向が定まってきたのである。
それは、三〇四〇年一〇月三一日、日曜日のことであった。
不治の病、すなわち、この星でいわれている〈魔力漏出症〉は、水口誠治が集めた過去の患者の観察データによると、体内の魔力が不規則に溢れ出すことによって肉体が発熱し、重度の熱傷を受ける。早い話、焼け死ぬのだということだった。納月と子欄、それから水口誠治が治癒魔法の方向性をなかなか決められなかったのは、魔力の漏出をどのように止めたらいいのか判らなかったことや熱傷に対してどのように対処するか、それらに同時に対処する魔法を開発するか、それとも対処する魔法を小分けにして開発するか、実際に治療に当たる人員のことまで配慮して考えていたからであった。例えば、同時に全ての症状に対処するなら十数人の極めて優秀な治癒術者が揃っていなければならず、これは物理的に困難である。いつ症状が顕れるか判らない魔力漏出症のため十数人もの治癒術者を長時間拘束していては医療機関の人手不足が懸念されたからである。一方、対処する魔法を別別に開発してそれらを一人一人の治癒術者が担う方針でも人員が魔法の数だけ必要であり、各人の連携によっては一つのミスが命取りになってしまう。またこちらも、拘束時間のネックが懸念された。
そこから考えた方針は、一人から三人、要するに納月、子欄、水口誠治で治療に当たれる魔法を開発すること。そして、最少一人でも治療できるよう、全ての症状に対処できる魔法を開発すること。魔法は、万能性のものが求められる、と、いうことになったのだ。
魔力性麻疹ウイルスに始まった臨床部での治療経験は、去年から今年に掛けての魔力性コロナウイルスも相俟って熟練の域に達しつつあるとは言え、納月は不安を覚えずにはいられなかった。と、いうのも、父が以前に増してテーブルから動かず、分身による活動以外に負担になっていることがあるのではないか、と、考えられた。言うまでもない。魔力漏出症による熱傷ではないか、と。その症状を捉えていなかったので確証も確信もなかったが、分身の活動も知らなかった納月達では父が変調を悟らせまいと隠していたら気づけないだろう。父の変調を捉えられずまずい状態に陥っていることに気づけていなかったとしたら──、納月は、どうしようもなく焦っていた。
……手遅れになる前に、早く理論を詰めないと!
父の発症が推測されたのは、納月が生まれるより前、今から数えて約一六年も前のことだというから、猶予があるとは考えないほうが無難だった。
……結婚式、とは、いきませんけど、見てほしいですしね──。
両親のように通じ合っているひとがいる、成人した自分を。
帰宅するや子欄と情報共有した納月は、テーブルの父を一瞥して勉強机に向かった。
「──魔力流動の緩和、熱傷の治癒が主軸になりますが、これは対症療法ですね」
と、子欄がノートを確認して言った。「原因療法には、まだ程遠い……」
「希しい不治の病でお父様以外の臨床試験が期待できませんが、瞬発的に選び取る治療方法を狭めて成功率を高めることはできます」
「賭博のように感じますが、経験則ですか」
「そも、原因療法には辿りついていない現状の理論で対処するなら、把握している症状に特化しつつも原因療法に持ち込める余白を作ることもできないわけじゃないんです」
「難しい話になってきましたね……」
子欄がそう言うのも無理からぬ専門性が高い話である。
「嚙み砕いて説明するなら、投網です」
「投網とは」
「魚の群れに網を投げるように、症状の群れを一気に癒やす魔法を構築します」
「ふむ。それから、どうするんですか」
「熱傷は、魔力が漏れ出すことによって生じるものだという文献がありますから、漏れ出す魔力の流れを緩やかにすれば熱傷の対処は思うより簡単になるでしょう」
「最初に対処すべきは魔力漏出……。そこまでは以前から話に出ていましたよね」
「そうです。で、ここからが肝心です。魔力の流れを緩和しつつの熱傷への治療は、一人でもやれるようにします。なお、術者の最大数は三人です」
「お姉様とわたし、それから水口部長ですね。わたし達の中の一人乃至三人で、複数の症状を対処する──、かなり難しい術式になりそうですね」
治療途中にも患者の容態が変化する可能性があるため、一つの症状に対処するのもじつは簡単ではない。二つ以上の症状が発生している場合、先程も話した通り対処する順番で治癒術者の負担が大きく変わることもある。その変化は患者の負担の増減にも大きく関わることであるから、効率よく治療するのが望ましい。して、効率よく治療しなければならない上、今回は最少一人、最大三人での治療になる。
「しかしなぜ最少一人なんですか。仮に一人の場合、二人は予備ですか」
「不測の事態に対処する予備要員、また、治療が長時間になった場合の交替要員です。三人同時投入による効果増大を要することも想定してますが消耗や症状の観点で最終手段です」
「なるほど……」
原因療法が見つかっていないのだから、対症療法でどれだけの時間を要するか定かでない。人数が限られているから、各人の治療時間の管理も成功の鍵を握っている。納月が想定していることは、その先である。
「何より大事なのは、原因療法を見つけ出すことです」
「まさか、治療の途中で、原因療法に漕ぎつけるつもりですか」
驚くのも無理はない。納月などが研究所で行っている臨床試験は第二試験や第三試験といわれるもの。その前には、動物を対象とした前臨床試験といわれる段階があり、そこにも通常三年以上を掛けている。健康な人間を対象とした第一試験、少数の患者を対象とした第二試験、多数の患者を対象とした第三試験にも三年以上を掛けてから、医療現場での魔法の使用許可申請や承認を受ける。さらに、承認されたあとも何年も掛けて安全性の確認を続ける。そうした慎重な確認を行うのは、より多くの命を救うための対策である。対して、納月が行おうとしている治療は狂気的人体実験といえる。
「子欄さんは降りてくれても構いません」
「……」
実例のない実験的対症療法を講じながら、原因療法を探ってそちらにも即興の治癒魔法で対処することになるのだ。父の体を、壊す危険性がある。さらに、使用許可のない魔法に失敗でもすれば重い罪に問われかねない。そんなことに子欄を巻き込みたくないのが本音だ。
「お姉様はやるんですよね」
「……」
やらねばならない。そのために、一〇年以上も研究してきた。そしてようやく可能性を見出した。
「原因療法に、当てがないわけじゃないんです」
「っ、それは、どんな魔法ですか」
「この眼で確認するまで確たることは。ただ、魔力が漏れ出す場所を把握して、魔力が漏出するそもそもの理由が判れば──」
納月の気づきに、子欄も気づいた。
「魔力が漏れないようにすることができれば、あるいは、体内に閉じ込めることができれば、熱傷の原因たる魔力の漏出が止まる可能性が高い……、すなわち原因療法が完成します!」
「そういうことです」
魔力漏出症において熱傷が大きなダメージになることは文献を読む限り判然としており、それさえ抑え込めれば寛解は目前だろう。なのに熱傷に対処できたという記録がない。これも、そもそもの話だが、熱傷に対処できる治癒術者が存在しなかったから魔力漏出症が不治の病などとされてしまっただけではないか、と、いうのが納月の分析である。要するに、熱傷を対処できさえすれば、この不治の病はありふれた疾病の一つに過ぎない。
ただ、不安要素もある。納月や子欄、水口誠治など、熱傷の治療に最も適した水属性治癒魔法の使い手なら納月が見出した可能性に気づけないはずがない。事実、文献の執筆に当たった治癒術者も水属性治癒魔法を用いて熱傷の治療には当たっていた。なのに、魔力漏出症の原因療法には辿りついていない。その上さらにだ、
……お父様が、治療しない。
納月の気づきが原因療法に繫がっているとしたら、父も気づいていそうなものだ。何せ、父はどこから仕入れたか知れない魔法の情報を大量に持っていて、技術も伴っている。納月が知り得る可能性を、父ならとうの昔に知っている可能性がある。
確認が必要だ。
「お父様」
テーブル席に移った納月は、正面の父の頭を見つめた。「わたしの治癒魔法で、お父様の魔力漏出症を根治もしくは寛解できますか」
「具体的に」
「これです」
現状最善の理論を記したノートを開いて父のほうに向けた。説明も併記されているが、それを見るまでもなく父が答えた。
「欠けとるね、魔力漏出症なんていっとる時点で」
「そうですね──」
ここは人間の世界だが、父と話しているときに人間のレベルに合わせる必要はない。いや、納月はまだ人間のレベルであるが、父の病に関しては人間の手に負える代物ではない。
「魂器過負荷症、魔力を収める魂に負荷が掛かることで生じる症状が、魔力漏出症です」
人間の世界でファンタジと思われている身体構造を水口誠治には伝えていない。それでも、知恵をもらった。
「治癒魔法学会でも魂器の存在は認識されてませんから、認識されている肉体と魔力に働きかけることが必要です。これでもわたしは研究者ですから、空想を基にした治療はできません」
「立派になったね」
「……お父様がいたからです」
今も昔も、父がいなければ治癒魔法の研究に励むことはなかった。父を癒やす。その目標のためには、どんな治癒魔法も勉強して、研究して、活かさなくてはならない。そう考えて向き合ってきたから、続けてこられた。
「さあ、確認です。魂器過負荷症を、この魔法で治せる可能性はどれほどあります」
「その魔法じゃ治せんな」
ばっさりと。しかし、「根治の可能性を見出す道筋には立っとるのかも知れんな」
「っ本当ですか!」
「ブラックホール」
「ぶ、ブラックホール。なんでいきなり宇宙の話です」
納月の質問に父は答えなかったが。
「魔力の漏出を抑える、熱傷を治す、その辺りの考え方は間違ってない。アプローチとして、ありやな」
「っ……!や、やった、やりました……!」
納月はノートを開いたまま俯いて、瞼を固く閉じる。そうしなければ涙が零れそうだった。これまでの努力と同時に、父の生存可能性を高められたことを、認めてもらえたからだった。両手が震えて、ノートをぎゅっと摑んでいなければ、嗚咽を怺えられなかった。
「悦ぶのが早いね。実験すらできてないし、実験なんて事実できへんのやから」
「臨床試験の対象が一人もいませんからねぇ」
二の腕で目許を拭った納月は、父の目線に応えた。「わたし、頑張ってます」
「頑張っとるね。子欄も」
「『お父様……』」
横に佇んだ子欄とともに、納月は父にうなづく。
「魂器過負荷症の根治には、認識できない魂を認識する必要がありますかね」
父の微笑みは、正解を意味している。「うんとかすんとか答えてくれると助かりますけど」
「闇雲にメスを入れるんじゃ患者の命が何個あっても足りんからね」
「じゃあ、認識は必要です」
「自分の頭で考えることをやめたらいかんよ。俺が噓をつくことはもう知っとるやろ」
ご尤も。良いふうにも悪いふうにも噓をつくから、振り回されないように思考を巡らせなくてはならない。
……要するに、目標を達成できる、って、期待してくれてるんです。
言い方を換えれば、父は自らの体を実験台にして納月と子欄の研究を活かそうとしてくれている。さらに、その成果が同じ症状に苦しむひとびとを救う礎になることも見越している。納月が考えられるのはそのくらいだが、ひょっとすると、父はもっと先のことも考えているのかも知れない。そうでなければ、自分の命を危険に曝してまで納月達の研究を待たない。
……まあ、研究は無駄と諦められてる、って、可能性もあるわけですけど。
それは極力考えず、前向きに研究を詰めてゆこう。
そう考えて、考えて、考え続けていたから──、一週間後の三〇四〇年一一月八日、月曜日の未明、魔力漏出症を発症した父の様子を目にして、納月は動揺を隠しきれなかった。あとにも先にも、見たくない光景を視た。
父が、火達磨になった。
文献を読み込んだ納月も、それは想定を遥かに超えた現象で、平静に努めようとしたが、口から飛び出しそうなほど心臓が強く打って、吐き気がするほどの動悸がして、頭が真白になって、それなのに動かなければならない使命感が先行して、創作魔法の理論を頭の中から引き摺り出した。
魔力漏出を抑える魔法を母が施した後、水口誠治を呼ぶ間もなく、納月は創作した治癒魔法を父に使うことを決めた。なぜなら、何も手を打たなければ、見殺しにしてしまう。それだけは、絶対に嫌だった。
理論が不完全だった。構築も甘かった。人員も不足していた。結果は、失敗だった。研究に費やした時間など関係がない。事実は、揺るがない。納月達は、治療に失敗し、──。
魂器過負荷症は言うなれば透き通った海だった。病根が潜んだ深淵を見て、治療方針はすぐにも判った。が、海の中には見えない急流があって処置の手が丸ごと持ってゆかれた。いや、それどころか、海に手を入れた瞬間に弾き返されたような、そんな衝撃が、何日経っても残っていた。
幸いだったのは、父が生きていることだった。無論、納月や子欄の治療のお蔭ではない。姉音羅が消えない傷を負って癒やしたお蔭だった。その手段は、じつをいえば最初から判っていた。それを誰も講ずることがないように納月達は研究に勤しんできたともいえるが、結局、悪魔の手段といわれるその救命方法に縋った形だった。
一家は一気に暗転した。納月達が就学時代に体験した教育、父からの過酷な試練さえ軽いものだと感ぜさせられるほどに、父を中心とした家庭の雰囲気は壊れた。いつかの納月達の思い過しでもなく父は母と目を合わせなくなった。悪魔の手段を止めるのが、母であるべきだったからだ。父は、口を開けば母を詰るようになって、それに対してフォロを入れる音羅に優しい言葉を掛けることもなくなって、生まれたばかりの五女謐納が構ってほしそうにしても無視を決め込んで──。ときには母を罵倒することすらあった。それでも微笑みを絶やさない母に胸を痛めた音羅からは笑顔が減っていった。一家のムードメーカであった音羅につられるようにして納月以下の妹も笑顔が減って、家族揃っての食卓が本来の意味を持たなくなった。
そんな家を悲観したことは誰も否定すまい。音羅以外の姉妹が家を出ることを決めた。納月や子欄は数年経てば成人という年頃で巣立ちが前倒しになったと思えば気が楽であったが、幼い鈴音や謐納の心境は想像できないほど混沌としていただろう。
父に対する治療を失敗した一週間後の日曜日、納月は水口誠治に甘え倒して、行き場のない苦しみを吐露した。水口凌との約束に反することも判っていて、苦しさを解ってほしくて、項垂れた表情を見せたくなくて、早く心の底から笑いたくて、笑い合いたくて、弱りきった心を癒やしてもらいたくて──。
納月が全てを伝えるまでもなく、水口誠治は納月を抱き締め、研究所では決して発することのできない優しい言葉と声で寄り添ってくれた。
──君は全力を尽くした。そんな君を誇りに思う。お父様もきっとそうだ。
何も失っていない。そう思わせてもらえて、納月は少しだけ、失敗から立ち直った。
治療失敗の二週間後、納月と子欄は研究所に近いマンションに引っ越した。
──二人とも頑張ってね。
とは、見送ってくれた音羅の言葉だった。研究者として、治癒術者として、頑張らなければならないのは当然のことだった。変わり果てた父と暮らしてゆくほうがつらいことを、引越しまでの二週間で実感し、想像もした。
父とは暮らせない、と、いう判断。特に、納月と子欄のその選択は、失敗から逃げたことに等しかった。父を見るたびに自分達の失敗を、音羅の傷を、思い出してしまう。そんな未来に堪えきれない、と、悲観して逃げ出した。失っていなくても、手放すことを選んでしまった。立ち直りかけていた心が潰されそうで、そうするしかなかった。
「……」
「……お姉様、箱、開けないと」
「……」
「……少しずつ開けていきますから、確認してくださいね」
「……、よろしくです」
「はい。……」
納月は、部屋の隅で、壁に凭れかかって、動く気が湧かなかった。住み慣れたサンプルテにはない真新しいにおいの部屋は、居心地が悪いのに、気が楽だ。
……お父様が、いないから──。
失敗を、忘れていられる。
糧にできる失敗ならいくらでも引き受ける。今回の失敗は、歳月を掛けた研究が役に立たなかったからでもなく糧にできないものだった。目を背けるしかないものだった。
部屋の燈が点いて、意識が現実に引き戻された。
「……もう、夜です」
「夕方です。……お姉様も、わたしも、できることをしました」
ペンダントライトの紐を握っているのは子欄だ。
「……」
「部長と会ってきてはどうですか」
「……誠治さんと」
「このままだと、明日に響きそうですから」
「……そうですねぇ」
気が楽になったはずなのに、家を出た事実・逃げた事実が、俯かせる。家にいたときはまだ前を向けていたような気がする。記憶が曖昧で振り返れない。水口誠治と会っているときは立ち直れたつもりだったのに、また挫けている。
「(誠治さんに、会いたい……。)ちょっと、いってきます」
「はい。気をつけて」
西日が強い角部屋だが、三階建ての最上階でなかなか見晴しがいい。扉を開けて改めて見下ろす町は穏やかだ。誰かの失敗を気に留めることなどなく、ひとや物の流れが絶え間ない。
先週母名義で契約した携帯端末を取り出す。子欄とお揃いのスマートフォンで、子欄が落ちついたブラック、納月はブルーだ。水口誠治の電話番号は記憶を頼りにして登録したので、夕焼けを眺めて通話を試みる。
電子音をいくつか挟んで、繫がった。
「もし、もし」
耳許で聞くと胸の高鳴りを禁じ得ない声が、今は余計に沁みた。
「……うぅ」
「……もしかして、君か」
名前を呼ばないのは、周囲に誰かいるからか。
「す、すみません、いきなり、掛けて。たぶんそっちの画面に出てると思うんですけど、その番号わたしの電話番号なので、登録しといてください」
「解った。が、それはそうと──」
少し移動した気配がして、「泣いているのか。何があった」
「……いいえ、あれから特には」
姉の傷を深めることになるので詳細は伝えていないが、創作した治癒魔法が失敗したこと、自身や子欄のショック、父がなんとか生きていることを伝えてある。それから、
「研究所の近くに引越ししたので、その連絡をしようと思って……」
「……そうか」
これまでの経緯を全て知らないとしても、「本当にそれだけか」と、水口誠治が雰囲気を察した。
「……今から会えないです」
「子どもが出歩くには遅い時間だ」
「いまどき中等部の生徒でも出歩いてる時間です。わたしも来年には一七歳ですし、お祝いの前倒しってことでどうです」
「お祝いの雰囲気ではないが」
「それを察してるならなおさら会ってください、早く、っお願いですから!」
塀から乗り出すくらいに声を張ってしまって、地上に目が眩んだ納月はへたり込んだ。
──煩い。耳に響く。
父がいたら、叱られただろうか。
「……すみません、大きな声、出して」
「どこだ。落ち合おう、すぐに行く」
自分が催促してしまったことに、納月は遅ればせながら気づいた。
「……す、すみません」
と、謝るも、会いたい。会いたくて、泣き出しそうになっている。
外では、会えない。どこで会えばいい。ホテルでは怪しまれる。図書館はそろそろ閉館している。研究会の名目が通る場所は、
「フードコート、いや、……」
「研究所の近くなら、ファミレスがあるな。そこでいいか」
「……はい。そこで」
「ああ」
通話が切れて、電子音。
「……、あ……、行かないと……」
彼の声を聞いていたときの安心感が蘇って、ただの電子音に耳を傾けていた。フックボタンを押して携帯端末をポケットにしまうと、よろけた脚を軽く叩いて、しゃんとした。
「行かないと」
催促しておいてあとに到着したのでは申し訳ない。
と、思ったものの、運動が得意ということもない。日が落ちても放射熱のある町。走るのを避けて、研究所最寄のファミリーレストランへ納月はやってきた。
水口誠治が既に到着しており、浮かない顔。納月の様子がおかしいことを察して訪れたからか。
……それにしては──。
水口誠治に察しろ、と、先程言った納月であるが、納月は納月で察しなければならないことがあったのかも知れない。ファミリーレストランの中、水口誠治の斜向いの席についた納月は会釈して、
「なんかありました」
「こちらの台詞だ。……眼が赤いぞ」
「砂が入ったんでしょう、……いや、すみません、たぶん、噓です」
「解っている」
「……」
納月に泣いた自覚はなかった。自覚のないことより、認識したことに触れる。「わたしのは単なる情緒不安定で……。そちらはなんです」
「同じく情緒不安定だ。わたしではなく、凌がだが」
「部屋をひっちゃかめっちゃかに」
「そうではないが、」
ウェイトレスが注文を聞きに来た。納月と水口誠治は、
「アイスミルクで」
「ホットコーヒを」
と、素早く済ませて人払い。緊急自粛要請が出るなど、今年も感染予防が叫ばれ近くの席にひとが座らなくなったので大声でもなければ話を聞かれる心配はない。
「凌さんはどうしました」
「会いたいそうだ」
「わたしに」
「ああ」
「情緒不安定、と、いうか、怪我を」
「いや、怪我はない」
どうやら水口凌の呼出しは納月との約束と関係がない。
「怪我はないが、少し……鬼気迫る顔をしていた」
「言葉おかしくないです」
「『鬼気迫る顔に観えた』と、言い直そう。実際、そんな心境かどうかは不明だ」
水口凌が平常心で納月を呼び出すかといえばそうとは考えにくいから、情緒不安定、と、最初に表現し、水口誠治の心象しかないから次には、鬼気迫る顔に観えた、と、曖昧な表現にとどまったようだ。
「ビンタされるんでしょうかね」
「それは……」
前例があるので否定はできまいが、「今から来ないか」
「子どもは云云の時間じゃなかったです」
「君は社会人だ。上司の呼出しを受けたと言えばいい」
「それで通りそうな気がするのはパワハラ部長の特権ですねぇ」
「そんな事実があったらとっくに退所を求められている」
水口誠治の立場は揺るがない。
「じゃあ、行きましょう」
「よろしく頼む」
注文の品を一気飲みした二人はたぷたぷのお腹に配慮したような歩みで水口邸へ向かった。水口誠治に取っては帰宅であり、納月に取っては久方ぶりの訪問だ。
……綺麗にされてますねぇ。
玄関到着までに眺めた庭は芝生が整っており木の剪定が行き届いている。前に訪れたときと変わらないその様子は、夜闇に沈んでもプロの仕事を感ずる。
「前も思ってたんですけど、定期的に庭師を呼んでるんです」
「体裁を気にしているほうだからな」
「裏の顔がばれたりしたらヤバそうです」
「ばれない相手としか付き合わない。そういうところは抜け目がないな」
水口凌の家族は優秀な人物ばかりのようだが、彼女は彼女で一種の能力を高めてはいるようである。
水口誠治が玄関を開けて先に入ると、納月も続いた。前回と同じようにホールで待っていた水口凌が会釈して、
「お久しぶり。上がって」
と、奥に向かった。
来客用スリッパを借りた納月は、水口誠治のあとに続いてこれまた前回と同じような位置取りでリビングの席についた。以前との違いは、花瓶の替りに飛沫を防ぐアクリル板が設置されている。
「さすがです。感染対策がされてますねぇ」
「それも使って」
「ええ、遠慮なく」
噴霧型除菌液のボトル。肌を極力痛めない手指専用のもので、アクリル板で仕切られた四つの席に一つずつ置かれている。納月と水口誠治は勿論、念のためだろう、水口凌も手指の除菌を行った。
「個人の意識が大切な時期に入ってるわね。特に、医療従事者や治癒魔法研究者、その関係者から感染拡大するわけにはいかない」
「意識低下のきっかけになったり感染拡大への非難もありますけど、一番は医療体制の維持ですねぇ。医療現場はもとから人材不足でオーバーワークが当り前。魔力性ウイルス各種の度重なる流行で各所人員の疲労が嵩んでますから」
「さらなる負担を掛けるわけにはいかない。わたしも、あなたも、ね」
「ええ」
水口誠治は精神不安定と表したが、以前の水口凌と比べて安定した感を納月は受けた。
「あなたを呼び出したのは、それにも関係してる話よ」
「感染拡大防止への取組みやレクチャですかね」
「それなら誠治さんがやってくれてた」
「じゃあ、なんです」
促した用件に、納月は思考停止することになった。
「誠治さんと別れてほしい」
「……え──」
──四章 終──