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三章 寂しさの波

 

 納月は戸惑うことが何度もあった。

 ……あれ、テキストがないです。どこに──。

「探し物はこれだな」

「あ、ありがとです……」

 毎度、毎度。

 ……試験管Bの基礎薬とビーカDの調整薬、それから──。

「フラスコCの凝集薬だな」

「あ、ありがと、です……」

「さっさとやれ。混ぜるときの順番に気をつけろ」

「は、はい。──」

 毎度、毎度、必要なものを用意してくれたのは水口誠治だった。普段、家でサポートしてくれる隣席の子欄より素早く的確に、だ。仕事が捗りすぎて既存部での日日はあっという間に過ぎ去っていった。

 そんなある日の昼休み。

「開発したい魔法があると耳にした」

 いつものように見下ろしてきた水口誠治に、納月は突っ慳貪だった。

「横取りするつもりです。絶対教えませ──」

「不治の病の原因療法だそうだな」

「(子欄さん、教えちゃったんですね。)ご安心を。既存部では職域を逸しますから──」

「やれ」

「……、え。なんて」

「やれ。わたしが許可する」

「──」

 所長に根回しして、許可まで取ってくれていた。その日から、納月は子欄とともに最終目標たる不治の病の原因療法についても自由に研究させてもらえるようになった。

 

 あのときは水口誠治の気持が全く読めず快い提案にも眉を顰めてしまった。不治の病について自由に研究できると知って、内心、とても嬉しかった。

 ……水口さんはずっと、わたしのことを考えてくれてたんですね──。

 彼はまるで水を得た魚のようだった。それがなぜなのか納月は思い至る由もなく、ありがた迷惑と表してけむたげに接したこともあった。

 彼は既存部部長として仕事を各人に割り振りつつ厳しくも細やかな指示を出していた。納月のことだけを考えていた、なんていうのは納月の願望で事実とは異なるだろうが、差入れをしてくれたときや告白のときの嬉しげな表情に自惚れてもいいような気がした。

 そんな本音を見つめて、納月は己をまた振り返る。

 治癒魔法を扱う研究者として自分を体現する水の比喩を納月はよく振り返る。どこまで体現できるかは努力次第。変化に機敏かつ寛容で存ろう(あ  )と考えたとき、一方で傷つける洪水のような存在にも成り得る自分を想像し、そうして傷つける相手を癒やす道筋も見出しておきたく、今こそそれを強く思わずにはいられなかった。

 「不倫」を改めて辞書で引いたら、道徳に反すること、とのこと。社会のルールを破るというよりは、社会を構成するひとびとの意識に反する、と、いうほうが正確性が高いだろう。

 道徳というものには余白が存在する。一説には、十人十色の人格に対応し、ルールが人格を侵害することがないようにするため、すなわち自由を尊重するため。不倫は道徳に反するかと問われたとき多くのひとが「反する」と答える。その回答に導く思想は重婚を認めていない法によっても支えられているものだが、それ以前に、家庭環境の複雑化や感染症予防の観点など社会的問題点が挙げられて長い年月を経て醸成されたと説明するほうが事実に即している。一方、余白となるのは「反しない」や「どちらでもない・どちらでもいい」という意見である。これらには、国外の思想を持ち込んだ人格や現在の思想に馴染めなかった人格が存在していること、それらに影響を受けた人格がいることまでを証明している。

 ここで問題なのは、それら国民の思想を知りながら覚悟を決めて踏み出した納月の考えである。「不倫は道徳に反するほうが多いだろう」と、境界線をやや曖昧にしながらも「反する」という大枠から逸した考えを持っていない。最初からそうであるし今もそうだ。少数派に配慮しながらもそちらを許容する人間が少ないのが現実だ、と、理解しているのである。

 それでも、道徳に反することを覚悟した。思想に対する自覚的な結論、感情、そして行動、それらは必ずしも一貫しない。不倫行為へ踏み出すことへのおそれは、一貫させるべきものの破綻ひいては少数派として行動することへの不安を察せさせた。

 ……下った滝を遡ることはできません。

 感情が先走った行動と結論は人類が獲得した理性をわざわざ棄てるようなもので、過去のひとびとの経験やおもいを否定するものでもあるのかも知れないが、窓枠が切り取る景色を見つめて、希しく納月はすっきりと目が覚めた。いつもは音羅に促されるようにして体を起こすが今日は先に布団を抜けて顔を洗い、テーブルの父や家族に挨拶した。

「髪ぃ梳きましょっかぁ」

 と、蜜柑山の頂点で櫛を構えた結師を、納月は手で制した。

「今日は自分でやります。気持、整えたいんで」

「そう。頑張りなさい」

 結師が少し残念そうに、でも嬉しそうに蜜柑山に埋もれたのを見送って、納月はいつも通りの父を見つめる。

「いつもより少し調子がいい感じがします」

「これからも早めに寝るんやね」

「そりゃ無理です。研究も大事なんで」

 研究は一日にしてならず。毎日の積み重ねが最終目標達成に導いてくれる。

「さて、朝ご飯にしますかね」

「その前に梳け」

「おぉっと、そうでした」

「やったろか」

「えぇ……」

「っふふ、嫌がってくれてよかった、座っとれる」

「な、なんの鎌なんです、まったくもう……」

 父の意味不明な申し出は無視して、納月は洗面台の鏡を眺めて髪を梳いた。癖毛と寝癖を整えるのに一〇分超を要していつも通りのセットにした。浮かれた気持で訪ねるわけもなく特別なことはしなかった。

 ……しっかしメンドーですね、わたしの髪!

 結師任せにしてつい忘れる、梳いても梳いてもぴんぴんと跳ねてしまう癖毛。

 ……、……まあ、これが素のわたしなんですよね。

 両親の教育の賜物(?)で外見など一要素に過ぎないことを解っている。それで難癖をつけるような相手なら理解し合うことは難しいと一瞬で判るし、ついでに、外見に惚れてはいないはずの水口誠治の内心を探るにも役立つだろう。

 ……いっそボサ髪&ダサコーデで──、あいや、さすがにそれは。

 髪は地毛なので素が出る。服のセンスも素が出る。ダサいコーディネートには違和感があって自分らしくないから服はちゃんと選ぶ。納月はそんな自分ルールを採用した。

 ……それに、水口さんに変な恰好を見せるのも……。

 と、考えて頰が熱くなるのを感じて、納月は改めて実感した。

 ……わたし、本当に好きなんですね、水口さんのこと。

 どこかで疑いたかった自分の気持。どこかで否定したがっている自分の気持。それらは道徳に反していることへの拭いきれない躊躇いであり、浮上した新しい意志を絡め落とそうとするこれまでの自分自身が作り上げた(しがらみ)なのかも知れない。

 まだ誰も知らない不倫。されども当事者として遡る選択肢は残しておらず、過去の選択まで非難の的にされることを承知している。

 ……よし、行きましょうか!

 気合を入れて服を着替えると、父と母に加えて、目が覚めたばかりの音羅と子欄にも服装を確認してもらい、家族揃って朝食を摂って、

「いってきます」

「『いってらっしゃい』」

 いつもの声に送り出された。

 日照時間が長く、年に二度米の収穫が行われるこの国では、田んぼに何もない時期が極めて短く、八月中旬に差しかかった今は刈り終えた稲を稲架(はざ)に掛けてあるところと既に取り込んだところの両方があり、天日干し状態の田の周辺では農家の姿を見ることがなかった。

 待合せ(まちあわ  )場所は研究所前。通勤している道を通っていつもとそれほど変わらない時間に到着した。早めの行動が常の水口誠治は当然のように納月より先に来ていた。

「お待たせしました」

「いま来たところだ」

「その()は何分前です」

「一〇分くらい前だ」

「と、いうことは一五分前ですね」

 悪くいえばせっかち。早起きが徳を積む行為として推奨されるように、早く行動したほうが都合がいいことは多いので納月は水口誠治の逸る気持を咎めない。

「それより君、その恰好は、……」

「なんです。変です」

「いや、なんというか……」

「ああ、そういえば──」

 白衣を着ること前提でパンツコーデが多くスカートを着るとしても社会人を意識して大人しめだった仕事場。今は私服。ゆるふわな上下に肩掛鞄(ショルダーバッグ)を掛けて日傘を差している。言うまでもないか、納月の趣味で全てパステルカラだ。それをじっと見つめる水口誠治の内心を納月は推測する。

「──食べちゃいたいくらい可愛い!です。それとも、なんだこのぶりっ子は!です。どちらでも結構ですけど、中身はいつもと変らぬわたしですからお気兼ねなく」

「あ、ああ……いや、はっきり言おう」

 水口誠治はときに馬鹿まじめだ。「似合っている、可愛いかは正直わたしには解らないが、……手を繫ぎたくなった」

「子ども扱いしてません」

「……思えば、君はまだ子どもだったな」

「いまさらっ。ええ、あなたは犯罪者予備軍、未成年のわたしに手を伸ばしましたからねぇ」

 大声で広めてはいないが生まれてまだ四年に満たない、つまり三歳。外見は一五歳くらい、と、納月は思いたいが父が言うには「背伸びするな」だそうだ。

「まあ、年齢や外見なんて法に触れなきゃどうでもいいんです。しかしです、不倫は不倫。高卒ではありますし就職できてるので魔法的学力や社会的立場や精神年齢はお察し。さらに、」

 納月は前屈みになって、水口誠治を上目遣いに窺う。「胸はご覧の通り」

「う……」

「二〇歳まで一六年余ありますからそれまでは犯罪の域。堪えられそうですぅ、部長さん」

「誘惑しながら言うことか」

「ふふ〜ん、理性崩壊する前に退きますよぅ」

 歩いただけでも揺れる揺れる。就学時代はこれが鬱陶しくて仕方がなかった。

「……ふぅ。そういうことは人目のないところで頼む」

「解ってます。……んふふ。(そっか、お母様はこの感覚を──)」

 好きなひとに接して、穏やかな波が返ってくる感覚。「わたしの誘惑、嬉しいんです」

「嬉しくないわけっごほん……君は本当に三歳か」

「残念ながら本当です」

「……一七年後に頼む、さわったりはしないがな」

「欲のないお方です。それホントにいま決めていいんですぅ」

「さわってほしいのか」

「未遂犯逮捕っ!」

「君が誘ったからだっ」

「乗るのはBAKAだけですよぅ」

「っすまない、忘れてくれ」

 ……ふふふ、わかりやすいひとですねぇ。

 邪魔で仕方なかったものが好きな相手に悦んでもらえてよかった、と、コンプレックスの体格に納月は少し感謝した。さわる・さわらないは、一七年後の彼の自由だ。悦んでくれるなら納月にはなんの支障もない。

 この国の熱風を押し退けるような熱が胸を躍らせている。ところどころがくすぐったくて、永遠にも彼の視線と戯れて、手を繫いで、どこへともなくゆきたい。どこだってきっと愉しいだろう。確証のない妄想が溢れ返る脳裏に理性の堰を閉める。

「さて──」

 時間は流れてゆく。「招待してください、あなたの家、凌さんのところに」

「ああ」

 淀みのない応答を信じよう。

 水口誠治の爪先を確かめる暑い道。噓のように言葉を交えなくなって、緊張でもなく躊躇いでもなく、少し背の高い日傘の影と納月は歩いた。

 ……ツッコみ忘れましたけど。

 浮かれて緩い服装で来ようものなら着替えさせただろうが水口誠治は仕事着とさほど変わらないスーツだ。これはまじめというより不倫相手を妻と会わせることに遅蒔きながら緊張したからだろう。容認されていることとはいっても飽くまで不倫。それを容認する倫理観が彼の中にもともとはなかったと取れる。

 ……それでも、わたしを……。

 身を煽るような道の熱に優る熱量を高い日傘の影から感じて、納月はこっそり頰を摩った。

 どこまでも続くような陽炎の先に、じきに着いた。

「ここが、水口さんの──」

 両手を広げて表現しても足りないような広い空間を囲んでいる高い塀、唯一の出入口であろう門は海外の豪邸にありそうな鉄格子。こんなお高そうな物件は、安アパートで両親と暮らしているケチな納月とは縁遠い。

「どんな悪いことをしたらこんな家──、あ、契約結婚の戦利品ですね」

「凌の両親が建てた。わたしの甲斐性はゼロだ」

「尻に敷かれるわけです」

「格差は歴然。嫁を迎えながら婿のような立場だ。契約外のことで逆らうのは難しいな」

 マイナールールも小さな社会では立派なルール。大勢が採らない契約結婚も選んだ両者のあいだでは立派に成立する関係で、当事者にしか損得を判定できない。

「水口さんは凌さんとの今の関係に満足してます」

「している。すべきとも考えている」

 水口誠治が手動で門を開けて、納月を中に導いた。「両親が亡くなってわたしはみなしごになった。児童養護施設、いわゆる孤児院のような場所から学園に通って、境遇に拗らせながらも勉強して、研究所に勤めて必死に研究して、成果を挙げて、凌との結婚に至った」

 アプローチを抜けて(ひさし)前で見上げる邸宅はまさしく人生の勝者の(あかし)

「泥沼の人生を立て直せたんですね」

「君は容赦がないな。が、そうだ。帰る家ができた……。こんな家に住む日が来るとは、施設にいた頃には考えもしなかった。どの家を見ても怨みがましく思っていた」

「最善でも家庭内別居になりますけど行きます」

「覚悟は決まっている。過ぎた富は身を滅ぼす」

 分不相応。「手放すことも必要だろう」

 ……手放す、か──。

 いざというときの心構えを促しておこうか。「家を出てけと言われたりしたらどうします」

「研究所に泊まることも賃貸物件を探すこともできる。いくらでも能動的選択ができる」

「……。じゃあ、行きましょう」

 家庭内別居が最善とは表現したが、家を追い出されることが最悪の結末ではない、と、納月は思っている。

 ……契約継続しながらわたし達の関係を認めず研究所をやめさせる──。

 もしも納月が妻の立場で夫への未練があるならそんなふうに考えもするだろう。

 水口誠治が解錠して中に入ると、

「おかえりなさい」

 水口凌がホールで迎え、納月を見つめる。「あなたとは、お久しぶりですね」

「会うのは、三度目になりますか、竹神納月といいます」

「噂に聞く化物の娘」

「今は引籠りの子です」

 沈黙がしばしあって、水口凌が反応した。

「……動じないの」

「侮蔑的な表現には慣れました」

 向き合い方も納月は覚えた。「わたしはわたしですし、ひとの評価を気にしてても調子崩すだけなので、嫌なことは聞かないことにしてます」

「嫌でも耳に入ってくるでしょう」

「馬の耳を見習います」

「馬も大声には驚くわ」

「驚いてでも逃げられますから」

「逃げた先で叫ばれたら」

「耳を塞ぎますし、ひとのいないところに隠れます」

 納月は音羅ほど忍耐強くない。「しつこい連中には反撃もします。あなた達には非難される点が一つもないのか、あなた達の大声を騒音と捉えない人間がゼロと思うのか、って」

「……しぶといのね」

「すんごい姉妹と両親に囲まれて育ったので知らず知らず神経が太くなったのかもです」

「……、……納月さん」

「はい」

「上がってください」

「お邪魔します」

 攻防とも思わなかったが、まるで第一関門突破おめでとう、とでも言うように、水口凌が奥へ入っていった。

 水口誠治が耳打ちする。

「冷や冷やしたぞ」

「何がです」

「君は神経が太いんじゃない」

「そうですかね」

「自覚はないんだな」

「なんのことです」

「そんな君だから、わたしは踏み出せたのかも知れない」

 お茶を濁したふうでもなく、微苦笑を潜めた水口誠治に続いて納月は奥に入った。

 応接間を抜けるとテーブルセットのあるリビング。普段夫婦が過ごしているその空間には生活の香りが漂っている。

 ……いかにも上流な、紅茶と焼菓子の香り。

 加えて、テーブル中央にある花瓶の生花も。……白米よりはパン、てな香りですね。

 食事の好みが合うほうがいいが、水口誠治の好みがパンかどうかは不明である。ちなみに納月はどちらもゆける口であるが、紅茶にミルクを入れたいタイプではある。夫婦がついたテーブル席──、納月も座り、水口凌が淹れた紅茶を受け取って一口いただく。

「(品のいい香りとフルーティな味わい、ミルクがなくても、うん、)おいしいです」

「ゆっくり抽出してますから」

「高級茶葉だったりします」

「それなりに」

「ティーセットも」

「父と母が買ったものですから詳しくは」

「(お母様が使ってるのにデザインが似てますし、)レフュラルのですかね」

「ええ。お客さんにはよくこれを使います」

 ……わたしをお客さんとして扱うんですね。

「やっぱり、あなたでも不思議に思いますか、あたしと誠治さんの関係は」

「わたしでも、と、ゆうか、多くの一般人がそうじゃないですかね」

 夫婦の契約について納月に教えた、と、水口誠治が水口凌に伝えていた。立場に関する情報を共有してこの機会を得たが、水口誠治が伝えられなかった細かな意識・気持はここで話すことになるだろう。

「凌さんは、自分と水口さんの関係が普通じゃないことを解ってます」

「勿論。でも、やめられなかったの、あたしは……何人も会ってないと不安で」

「不安……」

「そう、不安。誠治さんには解ってもらえたと思う。誠治さんが選んだあなたにも、理解してほしいと、……思ってもいいかしら、身勝手ですけど」

「……理解、できると思います」

 どこまで腹を割って話してくれるかによる、と、いう条件つきだが。「どうして、凌さんは不倫を前提に結婚したんです。普通、普通、連呼するのもアレですけど、普通なら両親なんかの反対もありそうですよ、そんな結婚」

「知っての通り、両親は病院の経営者で、あなたも働いてる研究所の人事に発言力があるくらい影響力も持ってる人達よ。次女のあたしは、両親や姉からいつもいわれてました、ぼんやりしてる、って。あたしのことを家から追い出したかったのよ」

「不安なのは、独りだ、って、感じるからですかね」

「誠治さんは研究バカだから一緒にいてくれるとは思ってない。でも、あたしの気持は理解して、利害も一致したの」

「自由に研究できるようにしてあげる替りに不倫を許してもらうってことですね」

「それが契約。あたしの家族はそんな契約があるなんて知らないけど、家からあたしを追い出したい、って、いう利害は一致してたと思うから、まあ、すごく都合がよかったです。あたしも早く家を出たかったですから」

 周りのみんなが敵のようになった頃を納月は思い出す。明確な忌避をされなくても、距離を保とうとする気配を感ずることはあった。水口凌は家族とのあいだでそれがあって、距離を置くことができなかったから沼に沈んだかのような息苦しい時間もあったのだろう。

 水口凌の話を聞いた水口誠治は何を考えている。それを掘り下げて、夫婦の意見を総括することが必要だ。

「水口さんはどう思います」

「凌の自由にしてほしいと考えている。わたしも研究や帰宅時刻について随分と自由にやらせてもらっているからな」

「気持の面はどうなんです。契約はさておき、嫉妬とか苛立ちとか微塵もないんです」

「ない」

 薄情のようだが契約を土台とした関係に感情は発生せず、水口凌への干渉に繫がらないようである。

「凌さんは焼餅とか腹立ちとかはないんです」

「前に言ったかしら……、誠治さんのことは、あなたに任せます。大っぴらに許される関係じゃなくさせることは申し訳ないけど、あたしは、気にしないから……」

「……そうですか」

 納月は、水口誠治や水口凌とのあいだで蟠りがない関係を求めている。その点をクリアしたといえる応答が聞けたので安心していい場面だったかも知れない。が、当事者同士で後後争い事にならないよう徹底的に取決めを行いたいのでもなく、納月は納得しきれない部分が残っている。まさしく気持の部分で憶測しかしていない領域の話であるから確たる証拠もないが、水口凌が納月に対して嫉妬も苛立ちもなかった、と、いう点は、あの日の痛みでもって噓のような気がしないでもないのだ。

「わたしを叩いた日のこと、憶えてます」

「……」

「泥棒女。凌さんはわたしをそう呼びました」

「……ごめんなさい」

「素直な気持を聞かせてほしいんです」

 叩いたことを謝ったのは、後ろめたいと感じたから。その後ろめたさは、誤解で叩いたことに対して。そう思われたが、そうではないとしたら見方が大きく変わる。

「凌さんは、本当に今の関係に満足してます。水口さんのこと、わたしに任せて、寂しく感じてません」

「……契約ですから」

 水口凌が紅茶を飲んで、カップをソーサに置いた。「あたしは、もう、求めていい立場じゃないんです」

 その声は水口誠治を求めている。が、自らの気持を言葉で否定しなければならなかった。

「勘違いしないで。違うの……好意じゃないわ。誠治さんと納月さんみたいな純粋な気持じゃない。自分のものがひとの手に渡ってく、それが嫌なだけ。歪んでるわよね、ホント……」

 カップを両手で包んで、俯いて、凍えた息を漏らす。「でもどうしようもなく、そう感じてしまうから、あたし、どうしようもないわ」

「……」

 伸ばしかけた手をテーブルの上で合わせる水口誠治。惑うようなその手は、なんの意志を宿している──。それに、

 ……凌さんのは、ほんとに所有欲なんですかね……。

 契約相手が不倫することも許していたはずなのに、いざそうなってみたら物理的でないものが離れてゆく感じがして、それが、嫌だったのではないか。付喪神供養で燃したポーチのように、物なら諦めるほかなく、納月は諦めがついた。ただ、燃え殻となったポーチには、心が宿っていた。関係も宿っていた。それらが心に残っているから、物としてのポーチを諦めることができた。手放すべきものが燃すこともできない人間なら、どうなる。心も、関係も、残っていて、相手も残っている。それでも物理的な距離が離れて、心も離れていって、それなのに、近くに存在を感じてしまう時間が、毎日のようにやってくる。それに対して無反応を決め込むのは限度がある。無理やりに溜め込んだ感情が溢れそうで、苦しくなって、不満が零れる。

 泥棒女の納月はここで何を言ってもおこがましくなる。却って、余裕がある。

「上から目線な意見に聞こえるかも知れませんが、二人に提案があります」

「わたしと、凌にか」

「はい。凌さんも聞いてもらえます」

「……なんですか」

「契約の内容、ちょっと変えません」

「どういう、こと」

 首を傾げた水口凌を見つめて、納月は話した。

「凌さんの不倫を認める替りに水口さんの研究者としての今の立場を与えた。その上で、水口さんの不倫も容認してるのが今の契約です。それって、凌さんのほうが不利ですよ」

「……そうかしら。あたしは、契約のお蔭で家を出られたし、家族と接触しなくて済んでて、助けられてる」

「だとしても、それは契約の中に入ってない出来事ですし、結婚だけで可能な出来事でした。要するに、契約上は凌さんが不利な立場にある、それが事実なんです。水口さんならそういう理屈、解ります」

「……ああ。わたしとしては、凌の望む将来を見込めたこともあって契約を結んだというのはあるが」

「一つ確認ですけど、契約って紙にしてあります」

「『……』」

 夫婦の沈黙が重なった。

「紙にはしてない、口約束ってことですね」

「ああ」

 と、水口誠治がうなづいた。「君が言わんとしていることは、つまり──」

「はい。夫婦対等になるよう契約内容を変えましょう、って、ことです」

 口約束には法的根拠がなく拘束力もない。

「音声データならあるわ」

 と、水口凌が言って、ポケットからテーブルに小さな録音機を出したから、水口誠治がぎょっとした。

「わたしには、信用がなかったようだな……」

「念のためよ。……結果として、必要なかった。あなたがあたしの不倫を咎めることなんて一回もなかった……」

「契約のうちだ」

 水口誠治には、なんの感情もない。それが、真実か。

 ……さっきの手は、……──。

 契約がなかったら、二人の関係はどうなっていただろう。早くに拗れてご破算になっていただろうか。

「水口さん、質問いいです」

「なんだ」

「どうしてそこに座りました」

「……」

 水口誠治が座ったのは、水口凌の隣だ。不倫相手とやってきた恰好の水口誠治がそこに座っているのは水口邸だから、と、考えるのは間違いだ。水口凌との対立を示さず、既に察していた彼女の気持に寄り添おうとする意志があったからその席なのだ。彼女が感情を覗かせたとき手を伸ばしかけたことが確証だ。

「パワハラ陰険ブラック眼鏡部長」

「……わたしは陰でそこまでいわれているのか」

「今わたしがいっただけです。……そのじつ、優しいんですよね、水口さんって」

 納月は、水口凌に言った。「結婚して一緒に生活するうちに、あるいはそれ以前から、感じてたんじゃないですかね」

「……」

 応答はなかったが無反応ではない。

「手放しがたく感じたんでしょう。だから、泥棒女を叩きに行って、衝動的にやったことだから二度も謝った。一度目は旦那さんに、二度目は、契約する前の水口誠治さんに」

「あたしは……、我儘なんだわ、どうしようもなく……」

 突っ伏すか否か、俯ききった表情は読み取れないが、仕草も言葉も彼女の本音を物語って余りある。

「わたしは契約をこう変えたらいいんじゃないかと思います。水口さんが凌さんのことをもっと構う、って、内容に」

「意味、解って言ってるの」

 と、水口凌が拳を握った。「誠治さんをあなたのところに行かせなくなるかも知れない。あなたは、自分が得られる時間を譲ってるのよ。それでいいわけ」

「いいです」

 納月は即答だった。「不倫なんて、もとから碌なもんじゃないでしょう。奥さんと泥沼の争いになった挙句世間からも周囲からも総叩きされるなんて当り前……、そんくらいの覚悟して踏み出したから、気持さえ繫がってればいいです」

「誠治さんに催眠術を掛けてあなたのことを嫌いにさせてもいいかしら」

「解きますからいいです」

「それはわたしが嫌なんだが」

 と、水口誠治が意見したが、

「あなたは黙っててください」

「あなたは黙ってて」

「……、すまない」

 同時に閉口を求められてしゅんとするほかない。

 水口凌が、握った拳をそのままに顔を上げた。崩れたメイクがおどろおどろしいが、表情は悲しげだった。

「初めてあなたを見たとき嫌な予感しかしなかった。可愛くて、胸大きくて、声も綺麗で、いい匂いで……、誠治さん、心動かされたんだ、って……」

「中にはコンプレックスもあるんですけど、そんなに望ましいもんですか」

「何より……誠治さんと同じ空気があった」

「治癒魔法の研究者ですからね」

「それもあると思う。でも、根本的に同じ部分を持って生きてる、そんな感じがした、直感だけど、……それで、あなたに奪われたんだって思ったわ」

「そしたら、かっとしたんですね」

「あなたが察した通り……あなたには謝ってなかったわ。なんであたしが謝らないといけないの、あたしは妻なのに、って、苛苛して、どろどろした気持だった……」

 メイクがどんどん崩れてゆく。「あたしは、スタイルもよくないし、声も普通だし、いい匂いもしないし、あなたに比べたら若くもない、可愛くもなかった、判ってる、勝ち目なんか全然ない、って。でも悔しくて、腹が立って、今も……すごく、むかついてる」

 メイクを崩しながら、また顔を伏せた水口凌は、言った。「あなたは、なんで、そんなに優しくできるの!あたしなんかに優しくしても、なんの得もないわ……。むしろ、損にしかならないのに、どうして……!」

 ……ああ、なんか、すごく、解りますよ、その感じ──。

 自分を認められない。そんな自分が認められるわけがない。ひとも、きっと自分を認めていない。認めてくれるわけがない。ぐるぐるとネガティブな思考が巡って離れなくなる自己洗脳の感覚を、納月は知っている。家族がみんな、すごかったからだ。みんながすごすぎて、自分のことが見えなくなっていた。しっかり見つめ直したら、きっとすぐに見つけられたものなのに、感情が邪魔をして確たる自分さえ歪ませようとしていた。

「質問に質問で返すみたいですみませんが、凌さん、自分のいいところ判ってます」

「…………、判らない。誰にも、何も褒められたことないから」

「……意外と自分じゃ判んないんですよね」

 納月が自分のよさに気づけたのは、先輩がいたからだった。「ポジティブになれ、って、言うのは簡単ですけど、わたしも含めてそうなれないひとに取ってはプレッシャですからね、わたしならこういいます。自分の嫌いじゃない部分を探したらどうですかね、って」

「嫌いじゃない部分……」

「例えば、ひとが嫌いって言ってくるような特徴でも、『わたしは嫌いじゃない』って思える部分が一つくらいありません。わたしは胸のこと親にもいわれてたので嫌いでしかなかったですけど、喋ったりするのは嫌いじゃないって思ってるんでこうやってよく喋ります」

「……そういう自分を見つけたから、納月さんは、優しいの」

「水口さんもそうなんだと思います。自分が嫌いじゃないところ、勿論、好きなところでもいいんですけどね、そういうとこさえしっかり握っとけば、何いわれても平気です」

「できた人ね、あなた……」

「他人の言葉が事実でも、自分の思い込みのほうが強かったりしますからね。そうゆうのの応用で自己弁護してるだけかもです」

「思い込みの、自己弁護。バカみたいね……」

「ひとを害したいわけじゃないでしょう」

「……ええ」

「だったら、バカでいいじゃないです。ひとの生き方を非難することなんていくらでもできます。非難してるだけの人間より、知恵を絞ったり選んだりできた分、バカでも賢いです」

「……そうね、それなら、あたしでも賢くなれる。誰がいなくても、自分を守れるものね」

「はい」

 ひとを求めているのは、寂しいから。水口凌の場合、それ以前に自分を認めてくれるひとを探していたのではないか。しかし満足に認めてくれるひとがおらず、契約内容に反してまで水口誠治に干渉したくなってしまっていた。水口誠治が自分を認めてくれるのではないか、と、希望を持ったから。

「ごめんなさい、ちょっと、顔を洗ってくるわ」

 と、水口凌がリビングから一旦去ると、水口誠治が控えめに手を挙げた。

「なんです」

「……」

「もしかして、黙ってろって指示を律儀に守ってます。いいですよ、今は喋って」

「意見、いいか」

「どうぞ」

「君の目的は、不倫の了承を得ることではなかったんだな」

「(目的はまだ残ってますけどね。)噓ついたみたいになってすみません。凌さんのこと、前から気になってたもんで」

 叩いた理由。謝った理由。それからどう過ごしていたか。全部憶測でしかなかったものの、もし憶測が少しでも当たっていたら、水口誠治が自由な立場で研究できて、水口凌も幸せになり、一組の夫婦が仲睦まじく暮らしてゆけるかも知れない。そんなふうに納月は思った。

「譲りすぎだ」

「泥沼ファイトしてほしかったとでも」

「……」

「何か言いたげです」

「いや……。わたしは詰めが甘かったな。凌のことを十分に考えているつもりだった。不十分であることに気づけていなかった」

 契約を果たしていれば不満を生ぜさせることはない。そう思っていたのだろう水口誠治だから、納月へのビンタは不可思議に感じていた。

「あのときの彼女の変化、感情に、わたしが一番に気づくべきだった。無頓着だった」

「もう少しシビアに観察してあげてくださいよ、研究対象みたいに」

「……。君は、わたしのことを疑っているんじゃないのか」

「へぇ、疑われることが何かあるんです。自白するなら報いを半分にします」

「君が何か疑いを持っているなら答えたい」

「殊勝な心構えは感心です」

 水口凌との話し合いが一段落ついたと見做して、水口誠治と話しておきたいことがある。

「口約束もそうですけど、契約で同等の条件吞んでないことも、わざと見過ごしてましたね。自分が有利なの解ってて黙ってたんなら性格疑います、まさにモラハラ夫です」

「君の睨んだ通り最初から気づいていた」

 見抜かれたことを水口誠治は隠すつもりがないよう。いつかの父を思い出させるその姿勢を納月は疑わない。

「(できるひとってみんなこうなんですかね、腹立たしいですがまあいいでしょう。)で、理由はなんです。まさか、研究のためだけ、ではないですよね」

「研究目的に近づいた、と、いえば間違いでもない。好都合な縁談が舞い込んだ、と、捉えていた。おまけに、凌からはあんな契約の話が出た。渡りに船だった」

「で」

「君はもう察しているんだろうな……」

 そう。だが納月は無反応で待った。彼から話してもらわなくてはやり取りが意味のないものになる、と、考えて。

「同情した。そして、」

 水口誠治が自白する。「使命感に駆られた。とても暗い目をしていた。家族を失ってみなしごだったわたしと比べても同じか、それ以上に寂しい思いをしている、そんなふうに感じた。放っておいたら、もしかすると──、そう思った」

 最悪の予想が水口誠治の頭を過った。多くの命を救うと言いながら関わった人間の命を救おうとしない、なんてことはできるはずもない。使命感でもって水口誠治は水口凌を妻にし、時に頭を下げ、時に癒やし、夫を演じた。

「最初はともかく、今は、好意があるんでしょう」

「……」

「それで、夫を演じきれなくなってる。違います」

「その通りだ……」

「(……。)不倫でよかった。ショックはゼロ、理解できますし、納得もできますからねぇ」

 無論、理屈だ。本心で踏み込んできてくれたことを感じたから覚悟して踏み出したのに、向けられた本心の一部が別の女性に向けられていたこと、その女性が「妻」という肩書の女性であることに、納月は、内心、少し苦しくなった。全てを引き受ける覚悟だったのに、爪先が痛むくらいには、後悔した。

 ……このひとじゃなければ、見誤った、って、切り捨てられたんですけどね。

 納月は、薄情者を好きになった憶えはない。利益目的のみで水口凌を妻にしていて、今もって感情がなかったなら、水口誠治とは縁を切ろうとも考えていた。

 男女関係は複雑だな、と、思えた納月は、一番不思議だった両親のアンバランスさすら理解できた気がした。表から判らない奥の奥に潜んだ理解と協調、あるいは妥協や憤怒があるのだろう、と。

「水口さん」

「なんだ」

「凌さんのこと少し羨ましく思うくらい、あなたがあなたでよかった、と、思いました」

「改まった返答か」

「そんなもんはもうしました。今のは、単なる現在の心境です」

「そうか」

 阿吽の呼吸とまではゆかないから、言葉や目線で確かめ合うことも必要だ。

 メイクを落とすには長い時間だ。水口誠治が口を開いた。

「凌、そこにいるんだろう」

「ばれてた」

「なんとなく気配があったからな」

 納月も気づいていた。

「立ち聞きしてごめんなさいね。……二人とも、本当に仲がいいのね。納月さん」

「なんです」

「あなたは、あたしを羨ましく思ったっていったけど」

 席につかず納月の横に立った水口凌は、気が晴れたような顔だった。「あたしは、誠治さんと不倫したかったわ。生まれる順番が逆だったらよかったのにね……」

「それは無理です」

「どうして」

「凌さんが先に生まれててもわたしみたいに大きくなかったと思いますから」

「……え、どういうこと」

「わたし、三歳ですから」

「さ、ん……えっ!」

 泥棒女、と、怒鳴ったときより表情豊かな水口凌に経緯を説明するのは不倫関係云云を伝えるより時間が掛かった。話を聞き終えた水口凌は、すっかり遠い目であった。

「──ああ、要するに、あたしは赤ちゃんにも劣ってたってことね……ははは……」

「いや、いや、スロースタータなんじゃないですかね、中等部後半からいきなり背が伸びる男子みたいな」

「中等部卒業したのだって一〇年も前になるのに伸びてないなんて……」

 ……ああ、ネガティブスイッチが。

 誰かのそれと違って本音だろうから処理しないわけにはゆかない。と、考え始めていた納月であるから、すぐ顔を上げて起ち上がった水口凌に見つめられてどきっとした。

「な、なんです」

「……ついてきてくれない」

「どこにです」

「いいから」

 水口凌が手を引いて納月を三階へ連れていった。水口誠治があとをついてゆき、辿りついたのは夫婦の寝室だった。

「……!」

 手を引かれるまま入った寝室は、この家の住人ではないからという理由にとどまらず戸惑いを禁じ得ない様子だった。

 ……ものすごい、マッドな部屋ですね。

 納月は思わず唾を吞んだ。夫婦の営みができるような状態ではなく、壁紙の至るところに傷ができ、その傷を作ったであろう椅子の残骸か、木片がそこかしこに落ちていて、背凭れらしきものが窓を突き破ってベランダに飛び出していた。布団や枕から溢れてベッドシーツが引き摺り落とされた床を埋めた羽毛が、水口凌の歩みで逆巻く雪のように舞い上がった。

「あなたが来るって聞いて、このありさま」

「怪我してましたもんね」

 ティーポットを持つ手がぎこちなかったのを納月は見留めていた(みと    )

「……心配ない程度の傷よ」

「油断すると感染症のリスクが高まりますから治しておきました」

「いつの間に……」

「手を引かれてるあいだにです。打撲創のほうが大きかったですから処置が遅かったら痕が残ります」

 手を握られたので都合がよかった。

「わたしも治療したのだがな……」

「手加減したんじゃないでしょう」

 体内に持っている魔力の量は納月のほうが多く治癒魔法一回当りの効果が高い。治癒魔法に限らず、生まれ持った能力で魔法効果に差が生ずるのはよくあることだ。

 さて、本題に戻ろう。

「部屋、直さないといけませんね。手伝いましょうか」

「あたしがやらないといけないことだわ。治療もしてもらって、話も聞いてもらって、あなたには、もらってばかりよ」

 不倫相手が出しゃばることでもない。けれども、今後も怪我をするようなストレスを掛けないとは約束できない納月である。

「怪我をしたら、遠慮なくわたしを呼んでください、訪ねてくれてもOKです。致命的な怪我じゃなければなんとかしますから」

「……そのときは、よろしくお願いするわ」

 不倫相手の妻と容認関係を築いてゆく。そんな奇妙な関係がこれから続くかと思うと気が重くないわけもないが、水口誠治が感じたような危うさが水口凌にはあり、放っておくことはできなかった。

「こんな部屋を見せられてゆうこっちゃないって解ってはいるんですけど、水口さんと別れる考えがないことは伝えときます。これは、あのときの言葉を守る意味もあります」

「あのときって」

「ビンタの件でわたしに謝ったあとの、水口さんのことよろしく、っていうアレです」

「そんなこと言ったかしら」

「撤回されたも同然です。理由は察しがつきます」

「解ったふうなことを言われたくないからこっちからはっきりさせておくわ。契約を解かれたくなかった。不倫容認の姿勢を貫くためだったわ」

 納月に任せる、と、言ったのは不本意。心穏やかではなかったことを寝室も顕している。

「わたしの意見は変わりませんが、少しすっきりしました」

「図太いのね」

「図太いついでに凌さんとも付き合おうと思います。いいです」

「付き合うって」

「治療もそうですけど、たまに会いません。顔も知らない相手に自分や相方が時間を奪われてるって考えるの、ストレスが余計溜まりそうな気がします」

「それは自分のため」

「そうです。どうです」

「……」

 破れた窓を開いて、水口凌がうなづいた。「あなたが老けてゆく様子を眺めるのもいいかもね。それで、胸も垂れて不細工に落ちぶれてメイク乗りが悪くなったぼろぼろの肌を詰ってやりたいかも」

「ストレス発散になるならいいですよ。わたしも多少毒を吐くかも知れませんが」

「そんなこと許さない」

「じゃあ水口さんに言います」

「もっと許さない」

「なるほど、苦悩は自分で処理しろ、と」

「その替り、愉しいことや嬉しいことは一緒にすればいいわ。寛容でしょう」

「そうですね、寛容すぎるくらいです」

「じゃ……今日は帰って、疲れたわ」

「……はい。掃除、怪我に気をつけて」

「そんなにおっちょこちょいでもないわよ。……送ってあげて」

 水口凌が夫を促したのは治療費といったところだろう。納月は、水口誠治を伴って水口邸を出て、やや距離を置いて歩いた。

 妻と泥棒女には明確な隔たりがあって、寄り添える部分と寄り添えない部分がある。それを確かめ合えたから今日の話し合いは十分な成果を得た。

 ……寄り添えるとこで寄り添えればいいんです。

 関わることをやめた人間同士でも、距離を取る、と、いう関係を持っている。そうすることで互いの自由を尊重している。ゆえに、それも寄り添い合う関係といえる。

 橋を渡り、子どもが賑やかな川沿いのグラウンドを眺めると、自然と脚が止まった。

 ……愉しいことや嬉しいこと──。

 水口凌が認めた水口誠治との行いの果てには、子どもを作って生きてゆく、と、いう未来もある──。

 親しい間柄でも消極的な部分と積極的な部分がある。社会はそうやって成り立っていて納月と各人のあいだにもそれがある。結論を急ぐと冷静な判断ができないので、追い追い詰めてゆく話もある。

「水口さん。凌さんとのあいだに子ども作らないんです」

「藪から棒になんだ。それは、君がほしいという暗示か」

「早早に犯罪者になりたいならどうぞ」

「約束を破りたくはない」

「憶えてたなら結構。単純に、疑問を感じたんですよ」

 人道的にいかがなものか、と、いう指摘はあるだろうが、契約結婚を渡りに船と表したのが水口誠治である。妻の家系との関係を強めるため子を作ろうと考えないのは却って不自然だ。

「どうして子どもを作らなかったんです。機会がなかったわけじゃないでしょう」

「凌からは積極的に誘いがあったな」

「ことごとく断ったんです」

「彼女の生活観を考えろ。是とする不倫を実践している環境は教育に不適切だ」

 彼はそう考えているのか、と、納月は感情を潜めた。

「お世辞にも環境がいいとはいえないですね」

「……選択肢を失わせて、すまない」

「なんのことです。泥棒女に選択肢なんてほとんど与えられてません。許されたことがむしろ多かったです。凌さん、すごく寛容でいいひとですよ」

 優秀な人間に囲まれて霞んでしまう良さ。その一つが人間性ではないか。優秀さは実績の積み重ねであり事実の塊のようなものでもある。事実はときに自由という名の余白を失わせ感情を奪う。実績を持たない水口凌が家を出たがったのは余白の世界へ飛び出し、感情を解き放ちたかったからではないか。そうして彼女の良さが少しずつ表に出てきて、水口誠治の一種の同情を得ることになった。納月も、彼女に寄り添える立場なら全面的に寄り添えただろう。出逢うのが、少し遅かった。

 ……わたしは、そうはできない立場ですからね。

 選び取りたかったはずの選択肢は、出逢いの瞬間から失われていたも同然だった。

「君が望むなら、わたしは──」

「ご意見はご尤も。そう思ったわたしの気持が変わることはないです」

「……」

 賑やかなグラウンドから目を離した納月は、水口誠治から日傘を取り上げて歩き出した。

 帰途にある中等部の校舎を左手に歩いていると、横に並んだ水口誠治が口を開いた。

「わたしもまだ若い。凌もそうだ。君は、もっと若い。わたしが選択肢を狭めたことは確かで謝ることも許されないんだろうが、それでも、選択肢を手放さないでいてくれ。起点が同じでも、経過が変われば結果が変わる。研究には、そんなことが毎日起こっているんだ」

「……人生の研究、って、とこですね、一〇〇年じゃ足りなそうです」

「が、必ず結果を出すことになる。それは、わたしと君、どちらからでもいいと考えている」

 結果は無数に存在している。人生を懸けているから、至極当然にスリリングな研究になる。心臓に悪い波も数数起こすだろう。

「改めて訊きますけど、躊躇いなく人生懸けられます」

 いい選択肢と悪い選択肢のどちらかしか選べず、悪いほうしか選べないとしてもやり直しが利かない人生の研究である。

 水口誠治が即答した。

「君との人生なら懸けられる」

「(お父様にそっくりなんですね、わたし。)わたしと凌さん、どちらか一方しか選べないとしたらどうします」

「それは……」

「迷ってる時点でダメですね」

 学園のグラウンドは休日の寂しさ。「社会性もっと身につけたほうがいいかもです。『妻を選ぶ』が正解です」

「社会の正解と個人の正解は違う」

「社会のために働いているのが研究職です」

「……」

 ぐうの音も出まい。

「迷ったら、迷わず凌さんを選んでください」

「……それは──」

「無理でもなんでもです」

 納月は、水口誠治に不幸せになってほしいのではない。婚姻関係を確たるものにしたいというわけでもなければ不倫関係を続けたいのでもなく、互いを理解し合っている両親のような関係を望んでいるのである。

「形に縛られた関係である必要はないです」

 憶えている父の言葉を借りる。「わたしは、水ですから」

「水……」

「ひとの生活に付き物で手放せない。でも、縛れない水です」

「溜めることはできる。凍らせれば持ち運べもするぞ」

「安易に比喩に乗らないでください。氷は角を立てててわたしらしくないんですよ」

「そうか」

「そうですよ、ツッコミは角を立ててるんじゃなく和ませてるんです」

「そうなのか」

「疑問符で返さないでください……。ともかく、」

 納月は譲らない。「水口さんがひとを見捨てるようなひとだとは思いたくないんで……そこんとこ、憶えててください」

「……」

 水口誠治が前に回って、肩を摑んで脚を止めた。「君のこともそうだと、なぜ気づかない」

「え……」

 納月は意表を衝かれた。なんのことを言われたのか解らなかった。

 水口誠治が見つめてくる。

「君は優しく謙虚で、譲ってばかりで、施してばかりだ。そう思っていたが、違ったんだ。君はなぜ、君が求められることを放棄する」

 納月ははっとして、言葉を返せなかった。

「君自身、気づいていなかったんだな。君は、褒められてしかるべき人格を持っているが、それを周知させない欠点がある。それが、臆病なところだ」

「……、そんな性格なら不倫しませんて」

「喋るのが嫌いじゃないのは漫才に持ち込んで臆病な性格をごまかせる。内心びくびくしながら敵の懐に跳び込んでいく小動物みたいだな」

「そんな褒め方は初めて聞きます、新しい自分を発見させてくれて感謝します。ですが残念、的外れですよ」

「だったら逃げるな!」

「っ!」

 左手は寂しいグラウンド、右手も空き地で、拾えるモノボケはなく、目のやり場は見つめる瞳しかなかったから、目線は自然と地面を這って、息が少し乱れた。

「変なところだけ三歳だな。見下ろされて、弱いところを衝かれて、嫌になったか」

「……別に、嫌になんて。ただ、すみませんが、放してください。なんかちょっと……」

「納月っ──」

 力が抜けて、膝から崩れた納月は、水口誠治に抱き竦められてようやく立てていた。

「突発性脱力発作ですかねぇ、っはは、大丈夫ですから放してください」

「まだ震えている」

「いいから……」

 バシャッ!

 水の塊を落として空き地に凹みを作り、水口誠治を牽制した。

「放せと、ゆってます……」

「迷わず当てろ。そのくらいの覚悟はしている」

「わたしや凌さんに刺される覚悟です」

「家族にも刺されるかも知れない。家名に泥を塗る不埒な男だ、と」

「……そうかもですね、裏取りが欠けてますけど」

 水口誠治の不倫を暴きたい人間はいない。それほどメディアに注目されるような人物でもないし、体裁を理由に刺すほうがリスクが高いのだから憶測でもそんな事態にはならない。

「水口さん」

「名前で呼べ、踏み込んでこい」

「……、水口さんが凌さんを見捨てたなら──」

「試し行為はたくさんだ。納月……」

「っ──」

 日傘を奪った水口誠治が距離を縮める。柄を摑んでいるごつごつした手が納月の体にゆっくり沈んでゆくのは、日差よりも熱い掌に背中を抱き寄せられていた。幸いか不幸か、身長差。納月は、前髪の上から額に口づけをされて、それなのにじかに触れられたように全身が脈を打って、震え上がって崩れそうになった。

 日傘を煽る風が怨めしい。

 離れた唇をつい見つめてしまって、水口誠治を突き飛ばすようにして納月は離れた。

「ほう、ほう、積極的ですねぇ、不倫部長が板についてきたんじゃないです」

「ちゃかすな。質問するから答えろ」

「帰りますよ〜」

「答えろ」

 立ち塞がった水口誠治が問題を出す。「わたしは確かに迷っている。凌を見捨てられない、そう思っている。が、凌が危うい未来から脱したら離婚する。そして迷いなく君を選ぶ」

「……!」

「そのとき君は、どうしてくれる。……さあ、……答えてくれ」

「あぁ──」

 迷ったのではない。ツッコミのポイントを押さえようとしたのでもない。

 言葉が出ない。声が、出ない。

 ツッコミどころがないなら、納月はボケもやる。けれど、ボケのポイントすら見つけられない。舌が回らない。

 ……わたしって思ったよりお母様体質だったんですねぇ。

 惚れたひとに弱くて、見つめられると微笑み返したくなってしまう。求めてもらえたことに感激して、その腕に包まれることを想像して、涙が出そうになって、

「納月……、それが、君の答と受け取っていいか」

「んぇ……」

「気づいていないのか。さっきからずっと、泣いている」

「……っははは……(どうしましょう、気づいてなかったです)」

 ツッコミもボケもできず、目許をそっと拭ってくれる彼に応えることもできず。流れで、なんて、絶対に嫌なのに、このまま全てをあげても後悔しないような気がした。

「わたしは約束を破りたくない。君がわたしを認めてくれたように、わたしも君を認めているんだ。だから今は──」

「ん……」

 この先どれだけの苦悩が待っている知れないのに、期待しかできない。それぐらいに、髪を隔てた額への熱量は大きくて、背中から肩に回った掌は体を溶かすようで、日傘の影は今日一番に小さくなっていった。

「……陰険眼鏡部長」

「君は、君を貫くんだな」

「あなたも、貫いて見せてください。選ばれなくても納得しますから、納得させないように、頑張ってください」

「力強いエールだ」

 どんな傷も癒えそうな優しい笑顔をこれほど間近にしては、緩んだ頰を引き締められなかった。

 表情の事実は揺るがない。

 ……わたしは、このひとを──。

 渡したくない。

 

 研究会と題したデートを明日に決めて、水口誠治に家まで送り届けてもらった納月は男物の日傘を貸し出して、その背を見送った。

 日傘を貸してくれた父がテーブルでいつもの恰好。だらしなくも母に愛されるその姿をより受け入れられる気持が湧くのは、不倫などするわけがないと考えていた頃より感受性が豊かになったからか、異性の魅力に目覚めたからか。あるいは、母への共感でもって好感を高めている、とか。何にせよ、両親はずっと先を歩いていて、未だ追いつけていないことを納月は実感した。

 対面の席は、父の頭がよく観える。

「報告。不倫続行です」

「よかったね」

 普通の親だったら、この報告もできなかっただろう。反応も、こんなに前向きではなかっただろう。ただし、父の言葉がそのままの意味かは怪しい。

「お父様、見下ろしながら威嚇してきたことありましたよね、昔」

「そんなこともあったね」

「あれで、男性の恐さが少し解りました。でもあのシチュエーション、相手によっては、すごく……」

「どきどきさせられたんやね」

 納月は、うなづいた。

「……うまくいかない。お父様は、そう思ってます」

「胸の高鳴りに噓はないやろ」

「シチュ萌えなバイアスが掛かってたのかも知れないです」

「ほかの誰がそうしても同じようにはならんよ」

「一途な、お母様の子だから、です」

「娘の感覚を疑いたくもないね」

 それは、父親としての素直な意見だろう。

「じゃあ、うまくいきます」

「お前さん次第やよ」

「……傷つくひとがいます。癒やせるのは、わたしではなかったです」

(つち)求む(もと  )波紋の一枚(ひとひら)

「どういう意味ですかね」

「取捨選択の賢さがひとにはある」

 父が気怠げな顔を上げて微笑む。「寒さや暑さにも、形を変えていけるのがお前さんやよ。縛られることなくいけ。お前さんの選択を信じよう」

「お父様──」

 これまで父から浴びた無数の否定は浅いものだったことに、納月は今また気づかされた。深いところを信じてくれるひとがいる。だから大事な部分を見つけることもそれを手放さなずにいることもできた。

「ありがとうございます、お父様」

「正面から言われると照れるわぁ」

 無表情の父が言葉通りに感じているかは判らなかったが、「昼ご飯はまだやろ、用意してもらっとるから食べぇ」と、口早に促してキッチンの母に指示も出してくれるから、

 ……存外、ホントに照れてるのかもですねぇ。

 納月は、寝室で自習していた子欄を呼んで、料理を運んできた母、それから父と、

「『いただきます』」

 と、両手を合わせた。

 

 

 

──三章 終──

 

 

 

 

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