一章 理由づけ
一人の妻が会ったこともない女を泥棒女と蔑んで叩くのは一種の疑いに確信を持ったからに違いない。太い脳梁で多くの経験を繫ぎ合わせることによって生ずる「女の勘」は常時発動型の厄介なスキルであり、導き出された推測は真実に等しい。が、状況を客観視したとき女の勘が真相を捉えているとは限らない。一つの疑いすなわち不倫は最低でも三人の人間の人生が交錯する出来事ゆえに一人の経験で全てを捉えられるほど単純ではないのだ。と、いうと不倫が真相のようになってしまうが、そも、不倫が存在しない状況もあるわけで──。
沈黙を破ったのは、事実上、不倫夫の疑いを掛けられている水口誠治だった。
「凌、帰れ。仕事の邪魔だ」
水口誠治の不倫相手として泥棒女の疑いを掛けられた納月は失礼ながらこう思った。
……部長、今日は強気っぽいです。
尻に敷かれている様子など皆無で水口誠治が妻水口凌に迫った。
「君には感謝している。これがどういうことか解るな」
「っ……。……解るわ」
水口誠治の言葉は水口凌の何かを鎮めたのだろう、納月を睨む目はなくなり、「ごめんなさい、帰るわね」と、お辞儀して足早に去っていった。
……お気をつけて〜。って、わたしは叩かれっ放しなんですけどもっ。
ふと冷静になると、被害の時間を過ごしただけだった。
「竹神納月」
水口誠治が溜息もつかず、「なぜ反論しなかった」と、愛想のない顔。
「心配もなしに質問するとは訴訟もんですねぇえっ。反論の時間を与えてもらえなかったからですよぉっ」
「すまない……」
「ひっ」
頰にそっと手を翳されて、納月はどきっとした。
「じっとしていろ」
「んぁ、……──」
納月と同じ水属性の治癒魔法は体に馴染む。
「少し腫れていたがこれで大丈夫だ」
「ありが、じゃない、当然です、奥さんの尻拭いですもん」
「……」
仏頂面の水口誠治が少し表情を緩める。「妻が迷惑を掛けたことは詫びよう。が、仕事は仕事だ。私情を持ち込むな」
「言われんでも解っとります。はぁ……」
朝からどっと疲れた。仕事はこれからだというのに。
……水口さんがもうちっと年寄だったら別の展開だったんでしょうが。
既存部の最年長である岩木旗蔵がいうには水口誠治は二〇代半ば、妻の水口凌も同じくらいだそうだ。外見的に一〇代半ばの納月を不倫相手と疑ったら頭に血が上るのは当然。三〇代や四〇代なら不倫疑惑をもう少し慎重に調べるだろうし、五〇代や六〇代にもなれば無いものに疑いを持つことはないだろう。
……ま、例外はあるかもですが。
水口凌の様子からして泥棒女と呼んだことを謝ったふうはない。あの「ごめんなさい」は飽くまで水口誠治に対するものだろう。治癒魔法で腫れは治まったものの、納月は釈然としない気持のままその日の仕事を終えた。
「子欄さん、帰りましょう」
「あ、わたしは後処理があるので先に行ってください。すぐに追いかけますから」
「そうですか。……」
子欄と話していると水口誠治以外の研究者が去っていた。「部長も今すぐ帰ってください。子欄さんに変な疑い掛けられたら本気で訴えを起こします」
「言われなくてもすぐに帰る」
今日もデスク上を綺麗にして帰り支度も速やかに終えている水口誠治である。納月は、彼の背中を押し出すようにして見送って、自分のデスクを少し片づける。
「お姉様は行かないんですか」
「なんか嫌な予感がして」
「どういうことですか」
「いや、なんというか……」
もしも、の、話だが、水口誠治と一緒に所を出る瞬間を水口凌に目撃されでもしたら、本日三回目のビンタもあり得るのではないか、と。水口凌がスタンバっているわけがない、と、思いたいがなぜか嫌な予感がしてならないのである。
「お父様みたいな推測力がほしいですぅ……」
「無い物ねだりですよ」
「危機回避くらいしたいですし……」
このままゆくと思考力の大部分を社会的立場を守るために割いてしまって仕事に身が入らなくなりそうだ。
「もしかして、窓の外をよく見ていたのはそのせいですか」
「奥さんに見られてるような気がして」
「あらぬ疑いで二回も叩かれたあとですからね……」
共感してくれる子欄に納月は心底救われた。
「一緒に帰ってくれます」
「田んぼに突っ込んでも困りますからね」
「それは違、わないです」
反論の余地がない。
無駄な警戒心が働いてしまっていたことは所外に出て水口凌がいないことから判った。
「田んぼに突っ込みかけたのも部長関連の悩みだったんですね」
「ええ。……、あ」
叩かれる前のことであるから。「いや、それはその……」
「既存部配属は部長の提案もあってのことらしいですから、意識しないのは難しいですよね」
「……ええ、そうです、(そのせいなのに、何を弁明しようとしてるんです、わたし)」
きっかけを忘れかけていた。「見張られてる、ってのは、完全に考えすぎでした」
「お姉様の立場だったらみんな疑心暗鬼になりますよ」
「ですよねっ、なんせ叩かれましたしっ」
不倫どころか恋愛したこともないのに(!)と、納月は口を滑らせないようにした。
……恋愛経験値が低いことを知られたくないですし……。
聞く限り、同い年とは思えないほど子欄は大人っぽい恋愛をしていたように納月は感じた。マウントを取りたいのでもないが、姉としては下に見られるようなことをしたくはない。
年じゅう暑いこの国は日傘を差しても帰途を急げず帰宅すればすぐさま汗を流したくなる。昼夜で寒暖差が激しい砂漠に囲まれていることもあって涼しいのは朝と夕、夜は涼しさを通り越して寒くなる、大国とは名ばかりに生活域が狭い国である。納月や子欄の勤める治癒魔法研究所、姉である音羅が勤める山田食品運送、ともに自宅アパート〈サンプルテ〉から徒歩三〇分圏内にあり、出勤時刻や帰宅時刻が近くなり、玄関扉を開けた瞬間、音羅の背中を見ることがある。
「あ、なっちゃん、しーちゃん、おかえり」
「お姉様、おかえりなさい&ただいまです」
「おかえりなさい、音羅お姉様。ただいま戻りました」
今日とは逆に音羅が後ろに現れることもある。ダイニングの両親などに帰宅の挨拶をしたら一緒にお風呂に入ることもよくある。湯上がりの夜食は家族揃って、「いただきます」と、始める。母の作る食事は目覚めを促し、一日の終りを告げる時計となって、変わらない日常の安息感を与えてくれる。テーブルの上に山積みとなった蜜柑、通称〈蜜柑山〉でちょこちょこ動いている毛玉やヘビ、小人達も納月達が生まれた頃から一緒にいるので家族同然だ。
「プウちゃん、こっちで一緒に食べよう」
と、音羅が呼ぶと木彫りのヘビのようなプウがぴゅーんっと音羅の肩に這い上がって、音羅の指先から米粒をついばむ。
「おいしい」
「ピゥっ」
「よかった。みんなもしっかり食べて力をつけようね」
「お姉様、なんか張りきってますね。これから仕事に行くみたいな雰囲気ですよ」
「食べるのや休むのも立派な仕事なんだな、って、改めて思ったんだ」
仕事をしてきたとは思えないほど元気な音羅が食卓を明るくしてくれる。
竹神家では話していないひとが食事を進め、話しているひとが箸を休める。
朝と同じ恰好でテーブルにくっついた父が、口を開いた。
「音羅は今どんな仕事しとるん」
「たくさん箱を運んだよ」
「配送部で営業をかねとるんやっけ」
「うん。配送先とかで新しい仕事がないか聞いているあいだにお客さんの荷物も運んでいるんだよ」
「ネコの手扱いされとるようやな」
「わたしってネコっぽいかな」
「ベッドのクッション性に負けてタンスにぶつかるネコに近いかもね」
「ベッドじゃなくて布団だよ。って、なんでタンスにぶつかったことを知っているのかな」
「こんだけ眼があって伝わらんとでも」
音羅がタンスの角で怪我をしたのは当時不在だった父以外みんな知っている。父が知ろうと思わなくても、誰からでも伝わる出来事であった。
「子欄はどう」
と、父が妹に問いかけたので、納月は「ちょっとぉ」とツッコんだ。
「なんでわたしを飛ばすんです」
「一番面白そうやからやぁん」
「なあんにも面白いことなんてないですよ〜、ええ〜」
「へえ〜、そーなんやー」
「そーですよー、うぅ……」
こんなときだけ顔を上げる父が憎たらしい。
「で、子欄」
「はい。今日は三沢さんの薬品の調整と、向日葵さんの論文の査読を手伝いました」
「子欄さん、そんなことしてたんですか」
隣にいたはずなのに、納月は全く気づかなかった。
「伽耶さんは若返りの薬を作っていた先輩だよね」
「音羅お姉様も学園で何回か会ってましたね。学園での経験を活かして今もアンチエイジングの魔法薬を研究しているそうで、今日のもそれの基礎薬だったみたいです」
「前に聞いた魔力汚染の原因になった、高等で繊細な加工やな」
父の発言に母が反応した。
「付与魔力による魔法薬品の製造ですか。研究所ではやはり専門的かつ高度な技術を用いて研究がされているのですね」
「まあその研究中に爆発があったのが同じ研究所の同じ研究室やったことを忘れたらいかんけどね」
「三沢さんの技術は本物ですよ。以前から爆発事故を起こしていません」
と、子欄が言ったついでに、納月は補足する。
「爆発を起こしたのは向日葵という天才児です。魔力を感覚で操るせいでときどき爆発させてしまうみたいで、これから何度尻拭いすることになるか」
「魔力を感覚で操る、ってのは、お前さん達と同じやろ」
「痛いとこ衝きますねぇ。向日葵さんのは理論が馴染んでなくて技術レベルが低いんです」
「じゃあ好都合。復習の機会と捉えればいいやん。基本の反復は大事やで」
「そうはいいますけど、お父様」
「なん」
「いや、お父様はその、魔法の無駄遣いが嫌いじゃないです。……いいんです」
「いいよ、別に。仕事やし、その研究は人助けに必要なんやろ」
「え、ああ、たぶんまあ、そうです」
アンチエイジングというのはただちに生死を決するような治癒魔法とは異なるが、老いることをフラストレーションと感ずるひとびとに取っては寿命の延長に繫がる。寿命の見方にはさまざまあるだろうが、ストレス耐性が比較的低いとされている男性の平均寿命が短い側面を捉えてストレス軽減で寿命を延ばせる、と、いう考え方は通り得る。
「高尚な研究に対して引籠り中年が文句いうことなんかできんよ」
「中年でもないでしょうに」
父が魔法の無駄遣いを嫌うのは乱用が悪用に繫がるからだ、と、納月は解釈していた。理由はそれのみでもなく、善用を推奨したいとの思いもあったのだろう。
「納月はどんな仕事しとるん」
「わたしですか。わたしは……」
今日に限っては、身が入っていなかったためにこれというものを覚えていない。「試験管をふりふりしてました」
「科学者か」
と、いう父のツッコミに子欄が応える。
「三沢さんの手伝いですよ。薬草を水に漬け込んでおくんですが、試験管の中で振っていたほうが早いんです」
「基礎薬のベースやな。ビーカに入れて自動攪拌したほうが早いがなんでそうせんかったん」
父の問は納月に投げられていた。
「え……えーっと、なんででしたっけ」
「薬草が傷みやすくて品質が落ちるからやよ。納月はなんで詳細を覚えとらんの」
「う、それはー……」
父の狙いの的になりそうな水口誠治に関わる話題は避けたい。が、見透かしているふうの父に先手を打つのも一つの対策だ。
「所に入る前に、部長の奥さんに叩かれたんですよぅ」
「不倫やな」
「ちゃいますよぉっ」
「不倫って」
と、音羅が目を丸くした。「なっちゃん、部長さんとどうかしちゃったの」
「いやだからそれが勘違いで!そのクセ叩かれたから一日じゅう警戒してたんですぅっ」
「そ、そうなんだ、ごめんね、勘違いしちゃって」
「いえ、お姉様のそれはそんなに気にしませんけど……、お父様ー、勘違いですからねー」
「っふふ、解っとるよー」
愉しげなのはいいことだ、と、言いたいがこの親父に優しくすべきではない。
「ひとの不幸を笑わないでくださいよぅ」
「隠そうとしとったから取っておきのオモシロ話かと思ってね」
「全然オモシロないから隠そう〜と〜、は、してないです、誘導尋問反対ぃっ」
「納月様」
「なんですクムさん」
小人の一人クムが身の丈ほどある蜜柑を掲げた。
「磨いておきました。香りに落ちつきますわ」
「……ありがとです」
蜜柑の香りは炭酸のように気持を潤してくれる。クムの心遣いに納月は感謝した。
「納月」
父が顔を上げて言った。「冷静にいけ。何かを起点にして悪いことが一転するかも知れん」
「……アドバイスです」
「いいことが一転することもあるけどね」
「ははは……」
父らしいネガティブなアドバイスである。が、そのお蔭で納月は調子が戻った。「お姉様ほどじゃないですけど、もう少し前向きに考えたほうがいいってことですね。起きたことはどうせ変わりませんし」
「そうゆうこと」
と、父が顔を伏せた。「おやすみぃ」
「早っ。まだみんな食べて──」
「すぅ……すぅ……」
「あ、あれ、マジで寝てますね……」
「お眠りいただきましょう」
と、母が微笑む。「お疲れのようです」
そんな馬鹿な、と、言ってやりたいところだが父にしてはよく話したほうだ。慣れないことをすると疲れることは納月も知るところであるから、
「おやすみなさい、お父様」
「『おやすみなさい』」
家族と一緒にそっと声を向けた。
小柄に似つかわしくない怪力で母と音羅が父を布団へ連れてゆき、寝室の襖を閉じて食事を再開した。
「お母様、お父様を先に寝させてしまってすみません……」
「納月ちゃん、気にしないでください。オト様も納月ちゃん達とたくさんお話ができて悦んでいらっしゃることでしょう」
自分より夫、自分より家族、自分より他人、と、自分をとかく後回しに考えがちな母に、含むところがないといえば噓になるが、それでも悪意を向けたいとまでは納月は思わない。
「たまには自分を優先してくださいよ。お母様だって外仕事で、お父様との時間がたくさんあるわけじゃないでしょう」
「ともに存ることが望ましいですが、時間と等しく満たされるものでもございません」
「……、接する時間が短くても満たされる、って、ことです」
「はい」
即答。しかも噓偽りのない微笑み。父まっしぐらの母はとんでもなく控えめでもある。そんな母の本音はやはり、父とともに長い時を共有したい──、と、いうもののはず。納月はそう思っている。
「お父様が疲れてしまったの、ひょっとして病の……」
「いますぐ体調を崩されることはないでしょう」
「最近あまり食べていないような気がしますし、一連の事件があってからは活動を控えてる感もしますけど……」
父の不治の病は食物摂取や積極的行動で発症が早まる危険性がある。この国に迫った危機を打破してから前にも増して引き籠もっていることが発症を遅らせる対策に観えてならない。
「病に対抗する手段は現状ございません。それはオト様とて同じです。誰よりご自身の病の根源に詳しいお方ですから対策は最善でしょう。私達はただ見守り、甘えるのみです」
「それで、いいんでしょうか……」
「オト様の娘ですね」
母が嬉しそうに。「それぞれにできることを考えましょう。オト様もそれをお望みです」
学園で学んだことは、父と母の教育方針に適っていたことだろう。だからこそ不思議に思うこともある。
「教えてくれればいいのに。少なくとも学園長や先生達は、わたし達に惜しみなくいろんなことを伝授してくれてたように思います」
「例えば何を聞きたいですか」
「お父様の病の原因療法の手懸り、または、手懸りのヒントを。自分が助かるためにもお母様と一緒にいるためにも必要なはずなのに、どうして教えてくれないんです。ケチの類じゃないことくらいはなんとなく解るんですけど、理解できません……」
自分を助ける魔法は無駄遣い。父がそんなふうに考えているとしたら納得がゆくがそれはあり得まい。この世に未練がないだなんてことは絶対になく、そうであるなら何かにしがみついてでも生き延びようとするはずで、しがみつくものが実子の開発した魔法であってもいい。
「知識なりヒントなりを提供して、延命手段獲得まで近道させてくれてもいいのに……」
「延命手段をご存じでもただちに教えてはくださらないでしょう」
「なんでです」
納月の問掛けに応えたのは右手の音羅であった。
「成長の機会をくれたんじゃないかな」
就学時代のとある出来事からも思い返すことのできる動機。
「あのときは結果的に口喧嘩で済みました。今度のは自分の命に関わるってゆうのに……」
「だからだよ」
と、音羅が箸を置いて言った。「騙すような手段じゃなくて、今度は正正堂堂、向き合ってくれているんだと思うよ」
文字通り、命を懸けて。
「……はぁ」
納月は、箸を持つ。「お父様は、腹立つほど見事です……。だって、そんなの……立ち向かわざるを得ないじゃないですか」
いつ爆ぜるか知れない爆弾を掲げて娘の成長を願う父をどうやったら見捨てられる。その爆弾をどうやったら除去できるか、どうやったら導火線の火を消せるか、あるいは、どうやったら火の点いた導火線を切り落とせるか。そんなふうに考えを巡らせることをやめられない。身を削る意志を感じ取ってしまったからには、表向きの悪意満面を見限れない。
「お姉様と子欄さん、勿論お母様も、必要とあらば力を貸してくださいよ」
快諾は当然のようにうなづきで示された。それは、蜜柑山で戯れる小さな家族の反応でもあった。
……ったく、グータラ者のくせに、お父様はみんなに好かれちゃってるんですから。
納月は父にはなれないので羨ましがっても仕方がない。せめて、父が望む成長を見せつけて助けてやろうではないか。
……それが、親孝行ってもんでしょう。
翌朝。
気持を切り替えて早起きし、顔を洗って着替えてから結師に髪を梳いてもらい、母の作った朝食を平らげて、いつもなら一緒に出る子欄を置いて先に家を出た。
息の白い屋外は腕を抱くほど寒く、準備運動のように軽く走って研究所へ向かった。テーブルの父は顔を上げなかったが、「いってらっしゃい」とは、送り出してくれた。グータラ親父のくせに、と、対面で言うことができないのは、そんな父に威厳と恩を感じている。
……いつも見守っててくれるんですよね。
数箇月前のこととは忘れそうになるくらい強烈で思い出すと震え上がるしかない出来事であるが、魔物に食われそうになった納月は父の魔法に救われた。父の魔法は、町じゅうに出現した魔物を一掃したようで、助けられたのはきっと納月だけではなかった。魔法によって出現した巨石の落下を防ぎ、ひとやインフラの致命的なダメージを食い止めたのも同日の出来事だ。納月にはできない人命救助や危機回避を、父は間違いなくやってきた。その姿を直接目にしたのは一度しかないが、テーブルにくっついているのはまさしく疲労ゆえなのだろうと想像し納得できるくらいに劇的運動量であった。
この国らしい暖かさがじわじわと押し迫ってきた時間、到着した研究所前で、納月は水口誠治の妻水口凌と出会した。前のように慌てることがなかったのは心が極めて落ちついていた。子欄がおらず、変に見えを張る気持がなかったことも影響したか。
「おはようございます。部長と一緒に来たんです」
「……おはようございます。ごめんなさい」
と、水口凌が神妙に頭を下げた。「昨日、きちんと謝ってなかったと思いますから」
「ちょっと痛かったですけど、いまさら謝罪の有無なんて気にしませんよ」
年長者をことさら立てようとは思わないが横柄に接しようとも思わない。「お察しします。直感的に疑うくらいには部長さんはモテ男なんでしょう」
「いえ、そういうわけでは……」
水口凌が顔を上げた。「ただ、直感的に疑ったというのは間違いでもなくて……」
……もしかして──。
就学時代に問題を抱えた生徒と話していたから納月は察した。
「経験則ですけど、ひとを疑ってしまうのは自分を信じられないからだと思います。いろいろ大変なんでしょうね」
「……」
睨まれたのでもないが無言で返されると困る。
「すみません、出すぎたことを言いました。ともかく、もう気にしないでください」
「そう……。……」
気品がくすむような視線の惑いはなんだろう、と、納月が考えていると、水口凌が意を決したように口を開いた。
「誠治さんのこと、よろしくお願いします」
「はい」
「失礼します」
「……て、え」
会釈して足早に去ってゆく水口凌を、納月は追えなかった。「……深い意味じゃないですよね、当然」
否定したい部分も込みで水口誠治とは上下関係でしかないので、追いかけてまで意味を問い質すのは不自然だ。
……ま、テキトーに顎で使え、または使われろ、と。
水口凌の主観で捉えるならそういうことではないか。納月は飽くまで他人であるから、適度に指示を聞き、嫌なことは嫌と応ずればいい。斜に構えて職場の空気を悪くするのもよくないが、今のご時世、上下関係で命令し・されるだけの関係は歪なはずだ。
「お姉様、やっと追いつきました!」
「お、子欄さん、来ましたね」
妹もやってきたことなので、納月は拳を握る。「よし、今日も張りきっていきましょう」
それから出勤初日のようなアクシデントはなく、時折同部の誰かさんの爆発事故の処理をしながらも約三箇月が平穏に過ぎた。納月や子欄は既存魔法の研究をしながら自分達の目標に向けた研究もすることができた──。水口誠治や水口凌の関係は元通りのようだったし、治癒魔法開発・研究の依頼は一日にいくつも舞い込んで研究所の仕事が尽きることはなかった。
生活に変化の兆しが見えたのは、週初めの月曜日、世間では星の伝説に擬えた商戦が盛り上がる七月七日のこと。伝説も商戦も遠い世界の話だ、と、言うように研究所は大忙しの研究日和で、納月には思わぬ話が飛び込んできた。
「──異動、です」
「すぐそこの臨床部へ、一時的にな」
水口誠治が自分のデスクに招き寄せて伝えたのは臨床部が求める人材を一時的に既存部から出すこと。その人材というのが納月だった。
「勤めて三箇月でお払い箱とは。尻拭いな正常化作業では不足でしたかねぇ」
「それしか憶えていないならむしろクビでも上等だが安心しろ、含みはない」
水口誠治から手渡された書類を、納月は瞥る。〔魔力性麻疹ウイルス流行における当所の役割〕と、横書きがある。
「魔力性麻疹……、一昨年くらいから発生してるアレです」
「そうだ。魔力を有するウイルスを魔力性ウイルスということくらいは知っているだろうが、そのウイルスの一つがここのところ猛威を振るっている。魔力性ウイルスに有効なワクチンが未開発であることも周知の事実だが治癒魔法による対症療法が有効とも知られている。既存の対症療法より有効性の高い魔法を開発するため世界各地や当所基本部が動いている。また、当所臨床部では新開発された魔法を治験協力者である罹患者に試験してデータを集め、安全性や有効性を証明し、一般への普及を目指している──、と、書類に書いてある」
「全部説明してくれてありがとうございます」
「最低限の情報も知らない君がヘマをして責めを受けるのはわたしだからな」
「保身っ」
「リスクマネジメントだ」
「左様で」
立場を失ったら研究を続けられないのは納月も同じだ。それに、保身以前に情報共有は大切だ。納月はちゃんと書類を読むが、人選に疑問がある。
「なんでわたしなんです。子欄さんのほうが何かと優秀だと思いますけど」
「贔屓したい姉心を酌んでやる。だがわたしは君が適任だと考えた」
「部長が推薦したってことです」
「飽くまで後押しだ。臨床部ではかねてより君の研究成果に目を留めていた」
この既存部で目立った研究成果を挙げた憶えが納月にはない。
「何かの間違いじゃないです。わたし、みんなの手伝いと尻拭いしかしてませんが」
「極めて柔軟にな」
「……臨機応変さが認められたんです」
「それも一因だが、一番の要因は可能性だ」
「可能性。逆に解らなくなったんですが」
天才的父親のもとに生まれたことがこの国では苗字でばれるので納月は隠していないが、それが原因でポテンシャルを買われているのだとしたら是が非でも訴えたいことがある。
「環境こそ恵まれてたとは思いますけど、わたしは発想も技術も能力も月並です。選ばれる理由が父あるいは母にあるなら、一時的異動といえども貢献できないことを理由に無理と申し上げておきます」
「謙遜するな。嫌みだぞ」
「どこがっ。凡俗を放り込まれて混乱必至の臨床現場を慮って懇願してんですぅ!」
「……。早く行け」
「めんどくせえヤツ〜とか思って投げました、ばれてますよ」
「ごねると仕事が押す。みんな、な」
「う……」
書類を視る。印刷されて間もないのだろう、真新しい紙だ。研究所の役割と方針は前から決まっていたものだろうから、この書類は納月のために刷られたものと考えられる。
「部長、これ、決定です」
「所長の決定だ。安心しろ、先程も言ったが一時的なもので今生の別れではない」
「部長との今生なら悦んで受けます」
「……妹との、と、いう意味で言ったつもりだ」
「……。解りました」
一研究者であり一所員だ。研究所の決定に逆らえる立場でもない。それに臨床部は、当初の第一希望部署だ。
「書類を読んでからでいい。しっかり爪痕を残してこい」
「芸人の姿勢ですっ」
「テレビの観すぎだ」
「ぐ、(お父様とお姉様の影響っ)」
「だが間違いでもない。ひとの笑顔を作ることができる」
「敗北感……」
確かに、と、思わされたのだ。臨床部で役立つことが証明された魔法なら世界でも必ず役に立つ。きっと世界に笑顔が増える、と。
……癪ですが、やるしか。それに……やりたくないわけじゃないです。
納月は書類を読み込んで、その日の昼には臨床部へ入った。
早い話、納月の役目は治癒魔法を使うことだった。魔力性麻疹ウイルスに対抗するため、罹患者の体内にいるウイルスを不活化または除去することが目的だ。異動期間は確定していないが、罹患者に新しい治癒魔法を試験し、一〇〇人分以上のデータを記録できたら既存部に戻れるそう。治療のプレッシャを感ずると小慣れた既存部の仕事が懐かしくなった。
……って、まだ治療に入ってもないのに恋しく思ってるなんて、モチベ低すぎでしょ。
人見知りをするほうではあるが、新しい環境に飛び込まざるを得ないことを納月は納得している。実績を残せば臨床部で働き続けられる可能性もある。威圧的命令を毎分毎秒聞くストレスから逃れられるという点もじつに有益ではないか。なのになぜ──。
……そう、そう、子欄さんと別れてしまうのは、ね。そういうことです。そう、そう。
優秀だから何かと助けてもらえるというのもあるが、同じ目標を持つ間柄でもあるからそれぞれのアプローチで進めている研究がどれだけ進捗しているか素早く確認しづらい。
……いや、その点は家でもできるっちゃできます。……。
それでも既存部に戻りたくなっているのはなぜだ。肩を並べて仕事をするひとがいても静かだからか。
「納月さん、手が止まってるわ。しっかり記入して」
「あ、はい、すみません」
治療の前に、罹患者の観察データの記録方法を教わっていた納月は対魔法性防護服で全身を覆って作業している。これは感染を防ぐため欠かせない、とは、水口誠治から渡された書類にも書かれており、臨床部でも受けた説明だ。
罹患者が外部へ移動しなくても生活できるようベッドのほかトイレ・シャワ・ロッカを揃えた陰圧の病室。そこから出ると一方向流を用いて病原微生物を取り除く前室が二部屋ある。一部屋目は防護服から病原微生物を除去し、もう一部屋でも念のため同じ除去を受けて防護服を着脱する。二部屋とも毎時四〇〇回以上という換気を実行し、一分間で九九・九%の病原微生物を除去できる。そのため臨床部では、研究室と陰圧病室の往き来に必ず四分超を要する。治療する側が治療される側に回らないためにも所内感染を広げないためにも必要な四分超だ。
同じ臨床試験のため多くの研究者が外部病床へ出ているため、研究室に引き返した納月は臨床部で唯一残っている研究者人菊天と二人きりだ。
「仕事覚えが早くて助かった」
と、人菊天が納月の書いた字を読む。「おまけに字が綺麗で助かる、読みやすいわ。しばらくしたらデータを簡単に記録できる端末が届く予定なんだけど、それまではこれでやるからよろしくね」
「既存部でもキーボードを打ったりしましたが、研究所全体でIT化が進んでるんです」
「うちは予算が少なくて余所より遅れてるっていわれてるけどね」
「余所、って、ほかの部署ってことです」
「ううん、所全体のことよ。感染対策用の設備一式は臨床試験推進のために逸速く取り入れられたみたいだけど」
「金額的には端末のほうが安そうなのになんで揃えられないんでしょう。研究成果なら毎日のようにみんなが挙げてますから仕事が足りないってのが理由ではなさそうですが」
紙のデータをパソコンに打ち込みつつ、人菊天が語るのは研究所の過去である。
「わたしが入所するよりずっと前の話らしいんだけど、クーデタがあったらしいわ」
「研究所でいうそれは、所長が所員の反逆を受けて辞めた、って、ことですかね」
「そういうこと。今の所長はクーデタ後に就任したみたい。一番詳しいのは当時からいた所員かしらね、いるか知らないけど」
「予算が少ないのはつまり、クーデタ前の所長を優遇してた連中からの資金が途絶えたってことですかね」
「さあ、そこまでは。はい、打込み完了」
随分と気になる話であったが余談は余談である。人菊天が仕事に話を戻した。観察データの変化がどのような状態を示すのかレクチャを受けて、本題である納月の出番について触れた。
「書類で知ってると思うけど、納月さんにやってもらいたいのは罹患者の体内のウイルスを不活化すること」
「それって誰の治癒魔法でもできますよね」
治癒魔法の作用でウイルスから魔力を取り除くことでそれができる。術者が持っている魔力にもよるが、臨床部のメンバは魔力の属性にダブりがなくさまざまな魔力性ウイルスに対応できる、と、いう話だった。
「けど、肺炎や脳炎を発生させてる体内のウイルスを不活化・除去するのは簡単じゃない」
「それでもできないわけじゃないですよね。うちの部長が臨床部は成果が挙がってないなんて言ってましたけど陰険眼鏡特有の毒でしょう」
「いいえ、間違いでもないわ」
「そうなんですか」
「臨床部の成果というのは開発中の魔法が実用可能と実証できたとき初めて得られる。でも、臨床試験に協力してくれる罹患者の生命を奪うのは所の方針としてない。だから、効果がないと見切ったら試験を中断して既存魔法を試して快癒してもらってるのよ」
「なるほど……」
多くの患者を救う魔法を開発するためであるが、しばしば人体実験といわれるほど協力者を害する危険性が臨床試験にはある。が、協力者や家族が危険を承知していてもこの所ではデータ収集より救命を重視し、試験中の魔法の有効性が実証できない場合や副作用・副反応が多量に発生する場合、既存の手段に切り替えている。
状態に応じて適切な処置ができれば後遺症を軽減したり発生させずに済む。患者の負担を減らすことにもなれば治癒術者の負担を減らすことにもなるから、治療の選択肢を増やすために新しい魔法を試してゆく。だから、臨床試験に携わる研究者の成果は新しい魔法の効果性・安全性の確認に重きが置かれている。ひとを助けることは当り前のことだから、救命イコール成果とは考えない。
……研究職らしい考え方です。
可能性を突きつめてゆく仕事。既存の治療法で満足せず向き合った命を軽んずることなく新たな手段を探って確かな成果を積み重ねてゆく姿勢が大切なのだ。
……わたしも、同じとこに成果を見出さないといけないですし。
不治の病に対する原因療法が完成すれば紛れもない成果となる。
「それにね」
と、人菊天が加えたのは、「どんな治癒術者でも簡単に選べる効果的な手段が理想だわ」
完璧な治療法が存在しなくても、納月達は臨床試験を続ける。理想に近づけるため必要な仕事であるが、
……そこはかとなく、やるせない……。
基本部であれば新たな魔法を開発する。既存部であれば既存の治癒魔法を改良する。臨床部は治療経験をつめるが、魔法の開発とは縁遠い──。
……どこの部も、一長一短。
やれることをやってゆくのがいいだろう。臨床部では治療経験をつむ。納月はそのように思考を切り換えた。
その日の仕事は、魔力性麻疹ウイルスに有効な魔法を施すことに終始した。編み出してもいない魔法を引っさげて臨床試験に臨めるはずもなく、そも臨床試験段階にあると承認された魔法や使用公認が得られた魔法しか使用を許されておらず、
……そこはかとなく、──。
気怠い両肩をほぐしながら研究所から出た納月に思わぬ差入れがあった。投げ渡されたそれは、缶のブラックコーヒ。
「……憶えといてください、ミルク派です」
「我慢しろ。自販機にミルクはない」
微笑の水口誠治であった。「悩んでいるようだな。もう壁に当たったか」
「うっさいです、別に壁とは思ってません。ただちょっと大変なだけです」
新しい魔法を編み出すときと同じだ。何箇月も下調べして、理論が間違っていないかとか、正しく機能するかとか、考えて作り上げる。言うなれば、下調べをすることも壁を見ることも今の現場では必要がない。
「大きく変わる。大変とはそういうものだ」
「うまいこと言ったつもりです。まあ、こっちはこっちでしっかりやるんで、薄情と見做されないよう奥さんの尻に敷かれに戻ってください」
水口誠治が微笑を潜めた。
「何か勘違いが発生しているようだが、凌のことなら気にすることはない。政略結婚のようなものだからな」
「……え」
謝りに来たときの水口凌の態度を、納月は思い出し──。「水口さんが軽く思ってても、奥さんまでそうとは限らないでしょう」
「不倫しているのにか」
「変にこだわった意趣返しは悪質かと」
「君とのことを疑われたからというわけではなく事実だ」
政略結婚的関係であることを加味しても、妻が不倫していることを許容できるものなのか。なおかつ、それでもって妻を蔑ろにしていいものなのか。どちらにしても、水口誠治の態度が悪いから水口凌が不倫を続けているように納月は感じてしまう。
「随分と心が広い眼鏡だったんですねぇ、感心しました」
「結婚前からの約束事だった。わたし達は戸籍上のパートナであって、互いの恋愛を阻害する関係にはない」
「だったら不倫相手のもとにでも急いでください。お疲れさまでした、さようなら」
「……」
投げ渡された缶コーヒを摑んだまま納月は歩き出したが、
「妹を待たなくていいのか」
と、言われて立ち止まる。
「残ってるんです」
「君のデスクを片づけてから帰ると言っていた」
「本題、遅っ」
水口誠治が一緒にいると落ちつかないから早く帰りたくなっていたのだが、子欄がまだ残っているなら話は別。納月は所内へ引き返そうとした。
「わたしが片づけておいてやろうか」
「一ミリでもさわったら水弾で撃ち抜きます」
「独自の魔法か。見せてみろ」
「好奇心は身を滅ぼすとはよくゆったもんです」
これからの牽制の意も込めて、納月は右手指先を上空へ向けて、一つの水弾を軽く放った。
バンッ!
波動で髪が揺れるくらいには、重い一弾だ。
「ほう、すごいな」
「狙撃部だったんで狙いもそれなり。気をつけることです」
「お姉様、何を言ってるんです」
「うぃ──」
出入口前で片手を上げて水口誠治を睨んでいた納月を所内から現れた子欄が見つめていた。水口誠治の姿はちょうど死角だったようで、まるで、
……わたし、ただの通り魔みたいじゃないです。もぉ……。
片手を下ろし、納月は子欄の手を引いた。「遅くなるので行きますよ、子欄さん」
「はい。あれ、水口部長、まだいたんですか」
「明日もしっかり働け。ではな」
「お疲れさまです」
子欄の見送りの挨拶もそこそこに納月は無言で歩き続けた。
……なんか苛苛します。なんですかね、これ。
子欄が成長を見せるたびに感じてきたものとは性質の異なる敗北感だった。
水口誠治の姿が遠退いたことを確認してから、納月は口を開いた。
「机の片づけ、ありがとうございました。臨床部のほうに必要なものがあれば運ぼうと思ってたので、整頓してくれてたなら助かります」
「水口部長の指示でした」
「……なんでまた」
「同じことを考えてでは」
必要なら臨床部に持ってゆく、と。「水口部長、指示も仕事も的確ですね。お姉様の性格を考えて、先読みでいろいろ指示を出しているんだと思──」
「わたしのことを知ったふうなのは腹が立ちます、ミルクも持ってこれないクセに!」
「ご、ご乱心ですね……、そのコーヒのことですか」
飲めもしない缶コーヒ。「それを水口部長が」
「部下の好みも知らない腑抜けた上司、です」
「それは仕方ないのでは。私語は挟んでませんし、履歴書には好物を書く欄がありません」
……解ってます。水口さんが履歴書まで見られる立場とも思ってませんし。
好物を知る由はない。納月の思考や行動パターンを水口誠治は仕事の中で読み取った、と、いうことであり、それくらいには納月を観察していた、と、いうことである。そうして、既存部へ入れたいと思うほど評価していたことも察するところだ。
……どうしてわたしなんかを。
才能ある子欄のバータとして、か。悲しいことにそれなら納月は納得がゆく。いま臨床部へ行かされているのもそれゆえだ、と。だが、
「水口部長、随分前に帰ったと思ってたんですが、お姉様を待ってたんですね」
「……ストレス解消のために散歩でもしてたんでしょう」
「で、たまたま所から出できたお姉様にコーヒを。偶然でしょうか」
「偶然でしょう。(不倫してる奥さんがいる家に早く帰ろうとは思わないでしょうし、ね)」
手持無沙汰を紛らわせるための、慰め程度の関係を求めているとしても咎めはしない。ただし、そんな関係を求められた側に拒否権がないということがあってはならない。
刑法に触れないことでもまじめな子欄なら納得してくれるはずの理屈を、納月は盾にする。
「奥さんを大事にすべきです。結婚してるんですから」
「それは、そうですね」
理解度八〇%といったところか、子欄が引き下がってくれた。「お姉様がそれでいいなら」
「……、何いってんです、いいに決まってます」
不倫の末路など語るまでもない。鈍足同士の一〇〇〇メートル走の如く泥仕合になり、挙句なんの慰めもない結末に苦しむことになる。
……ってか、そもそも!
きっちりはっきりさせておきたい。「子欄さん」
「はい」
「わたし、水口さんのことはどうとも思ってませんからね、勘違いしないでください。はい、水口さんからもらいましたが要らないのであげます」
「……はい」
自分で持っていたらまるで水口誠治のあらぬ感情を許容したかのようではないか。缶コーヒを妹に渡したのはありもしない感情を許容しない、と、いう意味もあれば、ありもしない感情が湧き上がってきたとしても拒否してやる、と、いう意味もあった。
が、缶コーヒひとつでそんなことを考えていた自分のあらぬ感情を納月は気づかされることになった。帰宅後さっぱりして夜食の席についたときである。父、母、子欄、それから納月、四人での食卓は西の席が空いている。
「お姉様は残業ですかね」
「熱中しとると時間を忘れるもんやから」
「お姉様は特にそんな感じですもんね」
就学時代、時間を気にせず稽古していた汗塗れの横顔を思い出す。
「納月」
「なんです、お父様」
「今日の仕事は憶えとる」
「ええ、データ録りとそのデータの見方、データと連動してる患者の変化や対処方法とか、諸諸ですね」
「既存部では患者との接触もあるのですか」
とは、母が子欄に訊いた。
「お姉様は異動になったんですよ。一時的なんですが臨床部へ」
「おや。以前希望していた部署ですから身が入ったことでしょう」
「ええ、まあ」
と、うなづいた納月に、父が質問をする。
「帰宅の途は何しとったか憶えとるか」
「そんなもん、ただ子欄さんと雑談して、……」
納月ははたと気づいた。……してないです、今日は。
納月が子欄と話したのは、水口誠治から離れてからの缶コーヒ云云の数分間。以降、何か話した憶えはない。よって、父への回答はこうなる。
「子欄さんと一緒に風景眺めて帰ってきました。それがどうかしたんです」
「子欄はどうなん」
と、父がとんちんかんな質問。
「わたしの回答で十分でしょうに。同じ回答しか──」
「いいえ、話してましたよね、わたし達」
と、子欄が言ったから、納月は目を丸くした。
「え、昨日の帰り道の勘違いじゃ」
「いいえ」
「どんな話やったん」
と、いう、父の続けざまの質問に対する子欄の答に納月は動揺した。
「えっと……既存部の部長さんの文句を延延と。わたしはほとんど相槌でしたが」
……無意識に文句を垂れ流してたとっ!
「納月、憶えとらんの」
「……、……いいえ憶えてとりませんす」
「動揺ハンパないね。水口とかゆう部長をよほど意識しとるんやな」
「意識外に追い出してますっ」
「テーブル叩くな、耳痛い」
「テーブルにくっつくいてるのが悪いんです」
「食器が倒れる、蜜柑山が崩れる、イコール、住処をぶっ壊す」
「う……、すみません」
小さな家族にも迷惑を掛けてしまった。
「確か、水口部長は既婚者ではございませんでしたか」
とは、母が疑問を上して、納月を見つめる。「水口部長の奥さんに迷惑が掛からないようにしましょうね」
「それ、GOサインに聞こえるんですけど」
「感情は本人同士のものです。止めようがなく抑えがたく律しがたいものは、折合をつけるべきものでもございます」
「……そうでした、お父様だけじゃなく、お母様も相当の変人だったことを思い出しました」
「ひとと違う個性を有するがゆえに誰もが変人です」
「見方次第、です」
「はい」
……うまく丸め込まれて……、いや──。
丸め込まれたい自分がいる。どうにか理屈をつけて、湧き上がっていた感情が許されるものであってほしい、と、思っている。
……不倫したいのは、水口さんじゃなく、わたし──。
ある意味、水口凌と同じ心理だった。あの日、彼女は自分が不倫していることから夫水口誠治の不倫を疑ってしまったのだ。納月は、自分が水口誠治に──なぜか──思いを寄せてしまっていたから水口誠治もそうではないかと勘繰って妙な気を遣ってしまった。
「水口さんには、そんな気はないでしょうけどね」
納月は判っている。「わたしは鈍重ですし優秀でもないので、陰口叩かれても泰然と研究に邁進できる水口さんとは釣り合いません。土俵も立場も違うので、相手にもなりません」
「柔軟やな」
「理詰めで考えたほうが納得しやすいでしょう。研究と同じ。理屈は、事実の積み重ねです」
感情の原因が判らない。積み重なっているはずの事実が有耶無耶で結果たる今の感情も有耶無耶だ。
「屁理屈、なんて、感情的な言葉もあるけどね」
「わたしのはそうじゃないですから」
少なくとも、納月の中ではそのつもりだった。
「なら、すっぱり諦められていいね」
「……はい」
と、うなづいて、箸を持って、口へ運んだ食べ物の味を、納月は憶えていなかった。
なぜ。
一言に纏めるならそれに尽きる。水口誠治の気持を勘違いしてしまうほどに惹かれてしまった。それはなぜだ、と。
布団で目を瞑ると、有耶無耶な結果の原因が見えてこないでもなかった。
……そう──、あのひとが、わたしの研究を知っててくれたから。
魔力汚染を正常化した〈環境保全治癒魔法〉。その仕組すなわち理屈をしたためた論文は納月が匿名で魔法学会に送ったものだ。その内容と技術を水口誠治がすっかり我が物としていたことで、言葉を交わすことなく納月は彼に関心を持っていた。パワハラ然とした指示をなんやかんや受け入れてしまったのもそれが原因だ。彼の指示なら聞いてもいい、と、知らず知らず思っていた。
……わたしを知らずに、知ってくれてたから。
会う前から、知っていてくれたから。並んで歩けば注目されるのは決まって姉や妹だったから些細なことが嬉しかった。その感情は所長から配属先を聞いたときにも湧き上がった。納月個人とは言われなかったものの、子欄とともに求められたことが納月は嬉しかった。既存部配属に拒否権はなかったとは言っても他部への異動を求めることまで許されない環境でもなかっただろうに、納月は、異動を求めなかった。
これは憶測だが、水口誠治は三箇月間観察して納月の希望部署が臨床部か基本部だったことに気づいた。して、裏で所長に進言してくれたから、今日の異動が実現したのではないか。
……そんなことされてたとしたら、勘違いしたくなるじゃないですか。
そんな裏側が事実であれば、積極的になってもいいような気がした。そうであってほしい、と、思ってしまった。確証などこれっぽっちもないのに。仕事効率向上を狙ってのこと、と、頭では考えられるのに。
……馬鹿、馬鹿、馬鹿、馬鹿、……ばーか、わたしのばーか、…………馬鹿……。
不倫など、碌でもないことになるに決まっている。それなのに、
……あんな──。
缶コーヒを投げ渡したときの彼の表情、あの微笑を思い出すと。
……なんで、あんな嬉しそうな表情してたんです……。
期待してしまう。妻との内情を語り出したときの彼も、
……なんで、あんな緊張してたんです……。
期待してしまう。……裏を、取らないとですよ。
誤認で発せられた水口凌の罵りが事実になったら頰の痛みは永遠に消えないものになるだろう。だからこそ経緯をはっきりさせておきたい。
納月は、なぜ既存部へ配属された。納月は、なぜ異動になった。なぜ、彼は今日、所の前で待っていて、差入れをくれた。
……確かめないと。
信ずるべきは、事実だ。
──一章 終──