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始章 鏡の中の内水

 

 リーダーシップのある姉とできすぎた妹に挟まれて次女竹神(たけみ)納月(なつき)は考え始めた。命の水、とは、何を示した言葉だろうか、と。生まれ持った水の力を何に活かせるのだろう、と。

 納月は生まれて間もなく水に纏わるあらゆるものを形作ることができた。水の塊、雨や霧、見えないほど細かな湿度の変化を操ることもできた。いわゆる魔法だ。

 むやみに魔法を使うことを嫌う父の目を盗んで、母からもらったお小遣いで魔法練習場に通ってはどんな魔法が使えるのか試した。魔物の蔓延るこの世界では攻撃魔法が重宝されることを当り前のように知っていたので自然と攻撃的なものを探ったが、通い始めた学園での先輩の言葉を思い出し、

 ……攻防兼ね備えているのが水の魔法でしたっけ。

 と、考えを改めた。ひとを癒やす治癒魔法に目を向けたのはそのときだっただろうか。古い記憶は埋もれて正確に思い出すことが難しい。

 治癒魔法に目を向けたときに心に引っかかるものがあったから研究を始めたのだということはしっかり憶えている。

 

 ──潤す水でありなさい。

 

 父のそんな言葉があった。その言葉も一部忘れてしまっている気がしたが、納月は父への信頼に縋ったのでもなく自分の可能性を見定めた。卒業が迫って就職が視野に入ると、持ち得た知識や経験を活かして自らの可能性を高めることを望んだのは、周りの多くの子がそうであったように自然の成行き(なりゆ  )だった。

 奇しくも、できすぎた妹こと三女子欄(こらん)も同じ可能性を見定めていた。

 ──わたし達にしかできないことが、きっとありますよね。

 そんなふうに言った妹と強い共感でもって笑い合える日が来るとは、学園に通うまで予想もしなかった。優れた妹に劣等感をいだくばかりで、自分の価値を下げるような考え方しかできなかったからだった。

 才能の差を気にする必要がない、とは、揃ってもらった内定でもって社会にも認められたようで、納月は意気揚揚と学園を巣立ったのだった。

 卒業翌日から就職先の治癒魔法研究所に仮出勤することになっており、朝は、両親に見送られて出発した。隣には、子欄がいる。

「お姉様、寝起きとは見違えるようですね」

「ふふーんっ、完璧でしょう」

 父に力を貸しているという小人結師(ゆいし)が家族の髪を毎朝整えている。中でも癖毛と寝癖のひどい納月は学園に通っているときからずっとお世話になっており、これからもその技術に頼ることになりそうである。

「自分でやるより圧倒的に早いですし、ゆっくり寝られて最高ですっ。ふぁ〜……」

「外で欠伸は……。社会人ですし早起きの習慣を身につけましょう、お姉様」

「堅苦しく考えず。遅刻しなければいいんです」

「一理ですが……」

 衆人環視とは言わないまでも妹はひとの目が気になるよう。「こっそりやってください」

「手は当ててます」

「いいえ、その、もう少し控えめに、と、いう意味で」

「瞼閉じて説教(せきょ)ってないで前を見ましょう、着きました」

「えっ、もうですか」

「噓です」

「……お手柔らかに」

 恋愛と縁遠い納月にはよく解らないが、いろいろなことを考えて恋人を突き放したと子欄が言っていたことは気になっていた。

「まじめなのは子欄さんの美点ですけど、もう少し柔軟になったほうがいいですよ。そのほうが生きやすくなります」

「……そうですね」

 良くも悪くもお手本になっている長女の姿に鑑みても柔軟性は大事だと解ったことだろう。

 唐突なようだが、この国は平穏が保たれている。誰のお蔭かといえば、身近なところでは父であったり姉であったりが血の滲むようなバトルを繰り広げていたりしたから、と、いうことであったがそんなバトルと縁遠かった納月としては見定めた可能性を通して世界に関わってゆけたらいいと思っている次第だ。

 ……治癒魔法。傷ついた誰かを、癒やせる力で。

 どこの誰を、とは、決めていない。ひとを選んではならない、と、いう医療従事者の鉄則は納月が選んだ治癒魔法研究でも活きる。傷ついた者が平等に施されるべきものが医療であり治癒魔法である。

 医療関係者としてはヒヨッコの納月がそんなふうに考えられているのは父が国じゅうで厭われている悪人だったからだろう。悪人とされるひとにも愛する誰かがいて、悪人とされるそのひとを愛する誰かがいる。それを、納月自身が感じ、思いもしたのである。

 ……と、いかんですね。説教しておいて自分が堅苦しくなってちゃ。

 要するに、ひとを選ばず癒やせばいい。鉄則を活かせる汎用性の高い治癒魔法を開発するのが当面の目標だ。仮出勤は謂わば研修期間。納月と子欄は配属先が決まっていないのでしばらくはどの部署で役に立つか、研究所側に見定めてもらう期間になる。

 ……どこへ配属されても最終目標は変わらないですしね、できることをやりましょう。

 父の不治の病。それを根治する魔法の開発が納月と子欄の見定めた可能性、最終目標だ。そのために、あらゆる治癒魔法を研究して経験を積まなくてはならないのである。学園に通いながらも続けていたことであるが、治癒魔法の専門家が集う研究所で仲間を作って知識を結集すればこれまで見出せなかった可能性を探ることもできると期待している。

 納月達が生まれた田創(たつくり)(ちょう)北部に位置する研究所は石板に刻んだその名に反して一階建てであり延べ面積もそれほど大きくない、こぢんまりとした印象だ。そんな研究所で不治の病の原因療法の開発ができるか、と、疑問をいだかないでもない。この研究所の活動を知らなかったら、納月と子欄も面接を受けようとはしなかった。

 ここ〈田創(たつくり)総合(そうごう)病院(びょういん)()治癒魔法研究所田創町北部支所〉は、就学時代に納月達も深く関わった貧民に対して医療救済事業を積極的に行っているほかボランティア活動や新しい治癒魔法の臨床試験も行っている。納月と子欄はその活動に目を留めた。最終目標のための研究ができ、経験を積めると考えたのである。

 研究所の扉を開け、受付男性の案内を受けて所長と挨拶、四つある部署のうち研究職である基本部、既存部、臨床部の三つを順に回って、納月と子欄はその日の研修を終えた。まずは見学のみで各所の研究に手を出すことはできなかったがしばらくはそれでいい。自分に何ができるか見定めるためには、各部で何が行われているか知ることが必要だった。

 帰ろうとすると、研究所の出口付近で研究者の男性と部外者らしき女性が立ち話をしているのが目に留まった。

 ……綺麗な服に、装飾品も凝ってますねぇ。

 品のある女性はどうやら研究者の妻らしい。目が合った納月は会釈した。

 ……話し相手は確か既存部の部長でしたっけね。

 尻に敷かれているのか頭を下げてばかりいる。所内でそんな姿を曝しては部下に示しがつかない、と、いうなら自宅でやればいいことだろう。研究所から少し離れたところまで来て納月は子欄とそんなことを話した。

「──そう考えていたのに、助言しなかったですね」

「関わるといろいろメンドーそうじゃないです」

「お父様みたいなことを言いますね」

「いや、だって、夫婦関係なんてお父様とお母様のことだけでもよく解らないのに赤の他人のあいだになんて入れませんて」

「変に勘繰られても困りますからね」

「そうゆうことです」

 不倫を描いた創作物や体験談は世の中に数えきれないほど見かける。妻が不倫を憶測して既存部部長と納月の関係をこじつけたりしたらジ・エンド、就職早早研究所にいづらくなること必至であるし、既存部部長も迷惑千万だろう。

「部長だって、年下のしかも新人に助言されたら『は』ってな感じでしょうし」

「それもありますね。お姉様の距離感、参考になります」

「自分のためにも相手のためにも大切ですからね」

 姉らしく恰好よく言ってみるも、

 ……そもそも、あんな異性はこちらから願い下げです。

 と、いう本音もある。

 夫という立場になると男性はだらしなくなりがちなようで恋愛対象には成り得ない、と、いうより、したくない。

 ……きびきびしてるほうが何かとやってくれそうですしねぇ。

 まじめで働き者の美少年、母や姉や子欄を男性化したような存在を納月は所望したい。認めたくはないが父に似てだらしないところの多い自分を完璧にサポートしてくれる男性を隣に置いて執事のようにいろいろとやってもらいたい、と、いう不純な動機であって恋愛とは異なるかも知れないが。

 家に帰ると、

「おかえり。初仕事お疲れさん」

 と、ダイニングテーブルに変らず(かわ    )くっついた父が挨拶で迎えた。その周囲では毛玉の糸主(いとぬし)と小人のクムがせっせと仕事をしている。

「お姉様はまだですかね」

「こき使われとるんやろうよ、働きもんやからな」

「それ、わたし達が怠け者みたいです。きっちりやることはやってきました」

「悪く捉えすぎ。俺は音羅(おとら)のことしか言っとらん」

 揚げ足取りのような父の喋りは毎度のこと。ちなみに音羅は長女だ。

「解ってますけどね。……」

「どうかしたん、見つめて」

「見てないのによく判りましたねぇ」

「第六感」

「頭に目玉ができたんです、おかわいそうに」

「目玉焼きにしてプレゼントしたるわ」

「そんなゲテモン要らんですぅ」

 父とのアホなやり取りも毎度のこと。「お母様、子欄さんと一緒にお湯いただいてきます」

「溺れないように気をつけてくださいね」

 と、キッチンから童顔の母が覗いた。

「二人で入って溺れたらどっちかが沈めてます。ま、一応気をつけますけど」

「お姉様、沈めませんから安心してください」

「んふふ、子欄さん、それを前フリとゆうんです」

「えっ」

「期待してまぁす」

「えぇっ」

 まじめな子欄がバラエティなレスポンスを発揮するわけがない。納月は最初から沈めてもらうつもりなどなく、なんでもできる妹の数少ない弱点を衝いて振り回して愉しんでいる。

 着替を用意して脱衣室で汚れた外着をすぽーんっ、妹とシャワを浴びて体を洗いっこして湯に浸かると、

「『はぅ〜…………』」

 なんだかんだ溜まった疲労感が二人の口をついた。沈めたり沈められたりなんてことはなくこれまで通りまったりである。

 二人で入ると湯船はそこそこ狭い。膝を抱いて小さくなっていた子欄が納月を見る。

「各部の研究員からいろいろ教われるといいですね」

「四月、正式な配属先が決まってからになるでしょう」

 三月一杯は仮出勤で、四月頭から正式配属される。魔法の研究もそこからが本番になるので研究者から知恵を借りたり切磋琢磨するのはそれから。

「研究所の事務処理を担う総務部に配属されたらアウトぉですけども」

「早めに何かの研究成果を出しておくべき、と、いうことですか」

 研究所で新たに、と、いうことも視野に入れるが、これまでやってきた研究を活かすのが早そうである。

「エーテルリカバリ不良に関する文章は個人的にすごいもんになってる気がするんですけど」

「あれはお父様の協力もあってのものですからお姉様とわたしの成果として取り上げてもらうには躊躇いがありますね」

「それに検証不足なので臨床部から遠退きそうです」

 納月と子欄が入りたい部署はやりたかった研究を深めつつ活かせるであろう臨床部もしくは魔法の開発ができる基本部である。

「癌治療の新魔法も理論・検証ともに不十分ですね」

「そもそも被験体がいませんでしたから、基本部からも遠退いてる気がしますぅ……」

 納月や子欄に取っての画期的かつ目新しい研究対象は世界的にも同様か希しいのものといえる。何せ世界最高峰の名門を卒業している母や、その母が認める父がたま〜にアドバイスしてくれる。臨床試験の場がないという根本的な問題の解決はしてもらえなかったが知識や技術に恵まれている。臨床試験を主としている臨床部や新魔法の開発を主としている基本部に対して貢献できる資質は高いのだ。しかしながら、魔法学会で発表できるような研究成果を持っていない現状、ただちに資質を認めてもらうのは難しそうだ。

「既存部のほうが向いているのかも知れませんね」

「うぅむ、確かに……」

 既存の魔法を研究し、新しい角度から魔法の開発を行って基本部や臨床部に提案・提供するのが既存部の仕事。新たな魔法の研究成果や臨床試験のデータが提出できない場合、何も持たない研究者として既存部に配属される可能性が高まる。

「……不治の病を根治するには、全く新しい魔法が必要だとわたしは思ってます」

「それは同感ですがお姉様、柔軟性ですよ」

「やられましたぁ。朝の意趣返しです」

「そんなつもりは。どこで研究することになっても正鵠(せいこく)は変わりません」

「何度(まと)を外れても最後にそこを射れば丸く治まるってことです」

「はい。お姉様も的を狙う身でしたから解るでしょう」

「まあ」

 弓術科の子欄に対して狙撃科だった納月は銃で的を狙っていた。攻撃魔法の実用性とともに治癒魔法に対する姿勢をそこから学んでいた。一度外しても次の的に向き合うべし、だ。

「しかし既存部に配属されたら、ちょっと嫌ですねぇ……」

「研究はできると思いますがなぜですか、と、なるほど、」

 疑問符を浮かべてすぐ、子欄が気づいた。「帰り際のあのひとは既存部の部長でしたね」

「カッコ悪いところを見られた手前、部下にわたし達を持ったらアレでしょ。こっちもこっちで気ぃ遣いますからちょっと、ね」

 納月や子欄は夫婦関係に踏み込むつもりがないが、見てしまったものをなかったことにはできない。どうしたって互いに気にしてしまうだろう。

 

 などと話していたのがフラグ立てだったのかも知れない──。

 三月下旬、仮出勤期間が終り(おわ  )に近づいた納月と子欄は冷たい朝の空気を切って研究所に駆け込んだ。程良い室温にほっとしたのも束の間、何やらみんながばたばたしていた。

「大掃除かなんかです」

「魔力汚染だよ」

 表面的に捉えた納月が尋ねると受付男性こと総務部部長が答えた。数名の研究者が試験管や書類を研究室から運び出しているのはそのためだった。

「あの研究室は……既存部です」

「加工している最中に間違った魔力量を注ぎ込んで爆発したらしいね」

「(付与魔力実験ですか。しかし)爆発て……」

 納月も爆発を起こしたことはない。

「研究は爆発だ、なんていった先人がいたらしいから研究は実験的であるべきだろうね」

「それ、芸術と間違えてません」

 言いつつ納月は既存部研究室へ向かう。

「お姉様、手伝うんですか」

「こういうのも経験です。予測可能な処置もあります」

「わたしもやります」

 既存部研究室内は、何かに付与するはずだった魔力が飛び散って汚染されていた。汚染とはいっても有害の類ではなく、本来そこにはないものがある状態という意味である。換気効率の高い空調があるようだがそれでは間に合わないらしく、風通しのいい研究所の外に汚染されたものを運び出して正常化を促すようだ。

 既存部部長水口(みずぐち)誠治(せいじ)が汚染されたものと汚染されていないものを室内で整頓しつつ指示を出している。

向日葵(ひまわり)勇気(ゆうき)、これとあれとそれもだ。三沢(みさわ)伽耶(カヤ)は軽いものを早く運べ。岩木(いわき)旗蔵(はたくら)、非汚染物を所長室周辺へ持っていけ」

 水口誠治の命令調はいつものことだが岩木旗蔵は明らかに年上だ。

 ……水口さん、昨日も奥さんの尻に敷かれてたんでしょうかね。

 仮出勤初日以降は妻の姿を見ていないものの、力関係が簡単に変わるとは考えにくい。ストレス解消法ゆえか水口誠治は部外の者にパワハラ部長と呼ばれている始末である。

「何をぼけっとしている」

「見つかりました」

「手が空いているなら働け。それとあれとこれだ」

「はい、はい」

「返事は一度でいい」

「はい、(はい)」

「不満が顔に出ているぞ」

「(この陰険眼鏡は。)変な勘繰りしないでくださいねぇ」

「口答えの暇があるなら早くやれ」

「はい、(はい)」

「多いぞ」

 ……あなたも多いですぅ。

 納月は反論を吞み込んで書類に手をつける。と、「……、あのときに似てます」

「やはり──」

 子欄が反応できたのは、就学時代のことを聞いていたからだろう。

 ……えーっと、どれ、どれ。

 納月のように魔力を宿した者〈有魔力(ゆうまりょく)個体(こたい)〉は自然界に満ちた魔力を重みや手触りや光として感じ取ることができる。

 ……ふむ、ふむ、言うなればこれは、びっしゃびしゃ、ですねぇ。

 本来そこにあるはずのない魔力が室内の多くのものに付着していることから、爆発を起こしたのは水属性魔力と判断できた。実際に濡れているのではないが、本や書類などをこのまま放置しておくと(かび)やすく、室内は湿度が高まりやすくなるので正常化が必要だ。普段からあらゆる環境で魔力を感じ取っていると納月のように変化を感じ取ることができる。

 ……これがあのときと同じなら、これで。

 不自然な魔力が付着したものに水属性の治癒魔法を施すと、ものを汚染していた不自然な魔力がするりと取り除かれた。

 ……やっぱり。正常化できました。

 たくさんの汚染物を運ぶのは物理的に大変なので楽な手段があるならそちらを採るべきだ、と、納月は考えてその手段を講じた。水属性の治癒魔法に汚染物を正常化する作用があることは就学時代に学んだ。取り除いた魔力を空調で外へ逃がせば室内の湿度を高める心配もない、と、いうのは思いつきでやったことだがうまくいった。

 それに目を留めたのが、水口誠治だった。

「君、それは……」

「治癒魔法です、水の。子欄さんもできるでしょう」

「ええ、既にやってます」

 別のものを正常化していた子欄が納月を振り返って微笑した。きちんとできているようで、汚染物から不自然な魔力が取り除かれている。

「竹神納月、それは──、君の発案か」

「え、あぁ、えーっと、どこぞかの論文を見かけて、ですねぇ」

「……そうか」

「部長さんもそうなんじゃないです。その上で適切な指示を出してましたし」

 納月は見抜いていた。水口誠治は手許(てもと)の品品を正常化しており、指示も的確だった。比較的近場の所長室周辺へ正常化されたものや汚染されていないものを年長者の岩木旗蔵に運ばせたのは負担を減らすため。若手の向日葵勇気や三沢伽耶に汚染物の所外運搬を任せたのは、水属性魔力が宿っていない彼らでは水属性治癒魔法を使えなかったため。

「岩木さんについては魔力を持たない〈無魔力(むまりょく)個体(こたい)〉。無魔力個体のひと達は何かと力仕事とか単純労働に割り振られがちで慣れてるってことも踏まえての役割分担でしょう」

「……、優秀だな。この部に来るか」

「川下りは最短ルートで終えたいので遠慮したいですねぇ」

「激流を知ると対応力が増すぞ」

 納月は水口誠治の眉間を見つめて、

「割れた岩のような皺は要らないので遠慮しときます」

「一言多い」

「意見は正直にゆうべきです」

 その言葉は、水口誠治の心に刺さるものがあったのだろうか──、

「そうだな」

 何やらうなづいて正常化と指示に戻る背中があった。

 

 その日の出来事が決定打だったことは後に知ることになる。数日後の四月頭、出勤した納月は、子欄とともに所長室に招かれ、

「君達を既存部に配属する」

 と、正式な配属先を聞いた。「頑張ってね」と、いう所長の笑顔に、納月は苦笑で応えた。

「なぜに」

「誠治さんが言っていたよ、『是非、彼女達がほしい』って」

「嫌がらせですかねぇ……」

「研究員が足りないことも一要因だよ。先の爆発のこともあるし、汚染処理係がほしかったんじゃないかな」

「爆発予告です」

「危なっかしい研究員がいることは否定しないよ」

 向日葵勇気という研究員がトラブルメーカなのは解っている。先の爆発も彼のせいだった。

 ごねても仕方がない。所長がOKを出してしまっているから配属は決定事項。ネガティブオーラ製造機の父に聞いていた新生活よりマシだったのでショックが和らいだものの、

 ……社会人ってのは厳しいもんなんですねぇ。

 思い通りにならない人生である。水口誠治の言葉を借りるなら激流が必要ということか。

 納月と子欄が既存部研究室のドアを開けると、

 ぱぱーんっ。

 ぱちぱちぱちぱち。

 クラッカと拍手、思わぬ歓迎だった。先日運び出されたものが元通りに並べられた研究室内には、既存部の研究員が顔を揃えている。

「普通のサラリーマンみたいです」

「祝い事に見られる定番風景ですね」

 と、子欄が納月に反応する一方、既存部一同は拍子抜けしたようである。

「あんま悦ばれてないわね」

「やっぱりクラッカ少なすぎたんですよ」

 と、三沢伽耶と向日葵勇気が感想と反論を上げる横で、

「今の子はこんなものなんじゃないかな」

 と、岩木旗蔵が年輩らしく落ちついている。「改めまして、既存部へようこそ。一同、君達を歓迎するよ」

「岩木旗蔵、役を()るな」

 と、水口誠治が前へ出てきた。

「失礼を。部長も一言お願いします」

 岩木旗蔵に小さくうなづき返して、水口誠治が見下ろす。

「竹神納月、竹神子欄」

「めちゃくちゃマウント取りたがってる目線なんですが」

「ですね……」

「君達とは上下関係がある」

「当り前のようにいってますけどそれ五〇年前の正論じゃないです」

「今っぽくはないですね……」

「口答えするな」

 が、水口誠治の常套句らしい。「歓迎する。しっかり働け。以上だ」

「『……』」

 まさしくパワハラ部長の面構えでデスクにつく男である。目線は書類を走り、歓迎ムードをぶっ壊していることに気づいているかどうか。

「気にしなくていいですよ、ミズグチさんはいつもああですから」

 と、向日葵勇気が納月に耳打ちした。「ああ見えてすごくいいひとなんですよ」

 ……実力があるのは解ってますけどね、いいひと、なんですかねぇ。

 現代社会に乗り遅れた態度は気のせいでもないだろう。

「まあ、高等部のときみたいに頑張れば大丈夫よ」

 と、三沢伽耶が言えたのは、納月が高等部一学年のとき三学年だった彼女と何度も話していた。当時の騒ぎを通して水属性治癒魔法を使う魔力環境正常化の手段が判ったのだった。

「歓迎しているのは本当だよ」

 と、岩木旗蔵がお茶を淹れつつ。「天邪鬼とは少し違うかも知れないけれどね、君達の配属が決まったと所長から聞いたとき、部長はとても嬉しそうにしていたから」

「そう、ですか……」

 あの仏頂面がどう綻んだのか見てみたい気がしないでもない、と、思ったのが間違いの始まりだった。その日、あれもやれ・これもやれ・それもやれ、と、部長たる水口誠治のパワハラ的指示を納月はひたすら聞くことになった。

 子欄とともに自宅アパートに到着したとき、思わず玄関で寝転がるほど、ほっとした。

「ぅぉぉお……、もう、ここには帰れないかと思いましたぁ……」

「お姉様、それはオーバ……、お湯くらいはいただいて寝ましょうね」

 と、子欄が手を引いて起こしてくれなければダイニングにも到着しなかった。

「おかえりんさい」

 とは、テーブルにくっついた父の挨拶。

「お父様は通常運転ですねぇ……、わたしもそちら側に行きたくなってきましたぁ……」

「アホか。お湯いただいてさっさと寝ろ」

「ご飯もいただきますよぉお」

「ほな席につくな。とっとと浴室向かえ、外気くさい」

「うぇ、そんなににおいますっ」

「煙草」

「そこだけ過敏ですもんね。汗とかは」

「全然。生活臭なんか『臭』の字を充てる意味も解らんわ。暮らせば立つのが人間だ」

「唐突の頓知っ」

「首傾げとらんと早う(はよ  )いただけ」

「はぁい」

「もう一回シャキッと」

「はいっ」

 自分に甘く他人に厳しい父である。そんな父を観て育ったから、……水口さんは自分に厳しいほうなのかも知れませんね。と、納月は思えたりもした。書類確認は勿論、論文作成からみんなの仕事のチェック、実験、過去データとの比較検証などなど多岐に渡る自身の業務をこなして納月のやるべき仕事を全部指示していたのが水口誠治なのである。納月はデスクの整頓など全くできなかったが、水口誠治はそれもきっちり済ませて帰っていった。

 ……そつがない。隙がない。いっそ働きすぎじゃないですかね、あれ……。

 パワハラ部長の本質は、じつはとんでもない仕事人間なのではないだろうか。水口誠治に限っての話だが。

 ……な〜んて、好感フラグ立てそうで嫌ですねぇ、折っときましょう。大嫌い大嫌い──。

 浴室に入ると、いつものように子欄に髪を洗ってもらって、湯船にざぶっと浸かって、

「お姉様──!」

「おぶぉはっ!」

 溺れた。……一日でどんだけ疲れてんです、わたし。

 脳内の疲労感が岩のようで、なぜか背中からお湯に入ってしまった。明日から毎日これだと思うと心配にもなる。

 

 ──あるいは、無意識のプロセスは意識的なプロセスより重いのだということを、納月はまだ気づいていなかった。

 若さ頼みの疲労回復が追いつかない朝、納月は頭痛を引き摺って(ひ ず  )席につき、結師の髪梳きを受けて食事を摂る。

「大層素的なぼさぼさだったけどぉ、朝からぼけっとしてると味噌汁に顔ぉ突っ込むわよぉ」

 と、櫛で納月の頰をつっつく結師。「それに顔を洗わずに箸を取ってると、ね」

「あ──」

 希しく父の目線が刺さると思ったらそういうことか。滝壺に落ちたような目覚めを感じた納月は席を起って(た  )洗面台で顔を洗い、改めてダイニングのテーブル席についた。既に顔を洗い終えて席についていた音羅と子欄が食事を進める中、テーブルに突っ伏した父が含み笑い。

「その調子で大丈夫なん。引籠り(ひきこも  )フラグが立ってきたんやないの」

「それだけはないですっ。お父様と並んで突っ伏す生活だけは、だけは、回避しますっ」

「いい心懸けやね。っふふ」

「ぐ……。(これはこれで予言めいてます)」

 父の推測や予想はなぜか当たる。それを覆さないと社会不適合者確定である。

「頑張りますから絶対っ」

「すーごい、がんばー」

「ぐぬ……」

 箸を握る前でよかった。拳を固めて、反論を怺えた。……口でお父様に敵うはずがないですし、時間もなくなりますし、もぉ。

 心を落ちつけて箸を取ると、左手の席に母がついた。

「納月ちゃん、食べる前に着替えなくてよいのですか」

「うぇっ、(着替え忘れっ……。)よ、よいのです、あとで」

 気合の出端を挫かれてばかりだ。

 朝食を終えて仕事着を纏った(まと    )納月は、子欄とともに、

「『いってきます』」

 と、挨拶し、

「『いってらっしゃい』」

 と、いう、声を聞いて、ここ数週間通りの朝に戻った。

「お姉様、調子が悪いんですか」

「いえ、ふつーです、ふつー」

 調子が悪くてたまるか。原因なり遠因なりが水口誠治にあることを否定するには体調万全であることを示すしかない。

「わたしは今日も絶好調ですから心配ご無よほぉっ──!」

「お姉様っ」

 瞼を閉じて悠悠と歩いて見せていたら畦を踏み外していた。転倒を免れたのは子欄に手首を摑んでもらっていた。代搔きを終えた田んぼで泥んこになっては遅刻確定だ。

「お姉様、ちゃんと歩きましょう……」

「……そうですねぇ」

 言訳(いいわけ)不能の絶不調であった。

 初めて登園する園児のように、子欄に手を引かれて納月は通勤した。

 研究所が近づくと否応にも溜息が出て、癪なことに社会からフェイドアウトしたい気分にもなってしまった。

 そんな気分であったから、研究所前の影にどきっとした。

「あれは……」

 と、子欄が反応して脚を止めるより先に、納月は立ち止まっていた。水口誠治を意識したのでは決してないが、

「……部長の奥さんでしたっけねぇ」

「朝から研究所に用なんでしょうか」

「さあ……ありがちなパターンでは」

 夫がお弁当を忘れたため届けに来た、とか。そんな納月の考えを、

「部長の忘れ物らしきものは持っていないようですね」

 と、子欄があっさり潰してくれた。

 ……な〜んか嫌な予感がします。

 水口誠治と特別な関係などなく、上下関係であることも否定したい納月としては、変な疑いを掛けられる事態を避けたいし、そんな勘違いは一〇〇%ないと信じたいが、引籠りフラグを立てている自覚は少なからずある。斜め下を行く展開でフラグが働く、なんて、嫌な予感が湧き上がるのは父の推測のせいだけでもない。

 ……なぜでしょう、嫌なオーラを感じます……。

 水口誠治の妻から怒気が漂っているよう。しかも、それをぶつけるべき対象を待ち構えているふうだ。それが夫水口誠治ならどうぞご勝手にと手を振るが家の外にまで勝手を持ち出さないでほしい。斜め下の展開を想定して、納月は逃げの論理を展開する。

「部長、まだ来てないんですかねぇ」

「毎朝わたし達より早くに来ていますよね」

「いや、奥さんが外で待ってるんだから今日は遅れてるのかも。わたし達がちょっぴり遅れても大丈夫でしょう」

「お姉様、何を言ってるんです」

 納月の手を引いてまじめな子欄が歩き出した。「きっちり働かないと給金が減りますよ」

「え、あっ、えっと、それは解ってますけど、ちょいと待ちません」

「何をいまさら。引籠りに逆戻りのお父様を支えるお母様を助けるためにもお金を稼ぐと決めたでしょう」

「う、(それを言われると弱いんですけど)」

 抵抗できず研究所の出入口へ連れてゆかれた納月は、

「そこのあなた」

 と、水口誠治の妻に声を掛けられて、ひやっとした。

「な、なんでしか」

「……」

「な、なんでしか」

 じっと見られて馬鹿のように同じ台詞を口にしてしまった納月は、

「うちの誠治さんが世話になっているのはあなたかしら」

 と、問われてさらにひやりとした。

「世話してるといえばそうかもですけど、いや、ちゃが、違、え、あ……」

「……」

「な、なんでしか、なんで見つめ──」

 ビタンッ。

「うぇっ、えっ!なんで叩かれたんですっ」

「泥棒女!」

「えっ、ぅえぇっ!(マジで斜め下な疑いが掛けられてますっ。)わ、わたしは別に部長とはなんにも──」

「白を切るつもり」

「ひっ」

 物凄い眼光で詰め寄られた納月は、疚しいことがないのに冷や汗が噴き出した。

「……それでよく隠そうなんて気になるわね」

「いや、いや、わたしはもとから小心者というかビビリというか生まれながらの弱小でして、ねっ」

「ねっ、じゃないわよ!」

 ビタンッ!

「二発目っ。さ、さすがに看過できませんっ、わたしは──」

 堪えかねて反論しようとした瞬間、さらに事態が暗転した。

「所の前で何をしている」

 と、水口誠治が現れたのである。子欄が素早く手招きした。

「部長、お姉様があらぬ疑いを掛けられて奥さんに叩かれたんです。弁護してください」

「……」

 無言の水口誠治。妻に歩み寄り、見つめる。

 対する水口誠治の妻が、無言で俯いた。が、納月を睨んではいる。

 ……うぅ、なんなんですぅ、もぉっ!

 厄年でもないのに、災難に巻き込まれる相が出ていたのだろうか。水口誠治とその妻、彼らとは無関係の子欄が顔を合わせ、叩かれた納月ともども膠着するという異常な空間。始業時刻になっても動きそうにない沈黙の時間は納月の心臓を激流のように揉みくちゃにした。

 

 

 

──始章 終──

 

 

 

 

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