5. 王子さま()との出会い
翌日は朝から大忙しだった。
お風呂に入って、髪を乾かしてコテで巻いて、ドレスを着付けて、お化粧をして。
少女漫画だとどれも一コマで終わってしまうような単純な風景だけど、実際はお風呂に入るだけでメイドさんたちにつかまって石鹸を何種類も塗りたくられる大イベントなのだ。
これがリアル中世ヨーロッパなら井戸から水を汲みあげて部屋に運んで暖炉でお湯を沸かしてと準備だけで半日がかりだっただろう。
科学なのか魔法なのかよくわからないけど、ここが謎のハイテク世界でほんとうによかった。
瞳の色にあわせた淡いすみれ色のドレスを着て、くるくると巻いた銀色の髪はおなじ色のリボンでふたつに結ってもらう。縦ロールとかドリルとか呼ばれているあれだ。やっぱり悪役令嬢といえばこれだよね。
玄関に降りると、父と弟はすでに準備をすませて待っていた。
もともとかわいらしい弟はおとなびた紺のジャケットを着せられてますますかわいらしくなっていた。
いわゆる小公子スタイルだ。
わたしのドレスをみるとうっすらほおを染めてうつむいてしまう。
やばい。
尊い。
保存したい。
「お待たせしました」
「おお、ゼラフィーネ。そのドレスはお母さまの見立てかい。よく似合っているよ」
母は今日も用事があって出かけている。弟が来てからというもの母は出かけてばかりだ。
家にいて継子いじめされても困るけど。
……って、逆だ。
いじめてくれないと困るんだった。
「お待たせ、アルトゥール。もちろん今朝もちゃんと練習したんでしょうね」
「はい、姉上。……姉上のようにはとてもできませんが、昨日よりはましになったと思います」
「当然でしょう。あなたがわたくしよりうまく弾けるわけないじゃないの」
「はい。姉上はたいへんお上手ですから」
「…………」
……なんだろう。調子が狂う。
理由はなんとなくわかっている。
昨夜のやりとりのせいだ。
ここ一か月総力をあげていじめぬいてきた弟に心配され、気遣われて、自分の方針に自信がもてなくなってしまったのだ。
たった一か月で陥落するなんて。
我ながら情けない……。
だけどここで折れるとやりなおしなのだった。
がんばるのよゼラフィーネ。
アルトゥールだってがんばってるの。
だから……まだやれる! がんばれる! 闘える!!
馬車のなかで自己暗示をかけつづけ、王宮に到着するころにはなんとか自信を取り戻していた。
「……だいじょうぶ。わたしはまだ闘える」
「そうだ。おまえはわたしの娘だからな。緊張しているだろうが胸をはって行ってきなさい」
「ありがとうございます、お父さま」
関節が白くうきあがるほどこぶしを強くにぎりしめていた娘を、父はよほど緊張していると取ったらしい。
殿下の婚約者候補の件ではわたしになみなみならぬ期待をかけているそうだが、そんなことはおくびにも出さずなごませようとしてくれる。
わたしとしても、まさかあなたの息子をいじめる覚悟を決めようと努力していましたとはいえないので、訂正はしないでおく。
「ところでかわいいゼラ。足元のそれはどこまで連れていくつもりだね?」
わたしは足元をみた。ロキはしっぽをまるめて香箱座りをしている。
「王宮はペットは持ちこみ不可なのでしょうか」
「さあ。私は聞いたことがないんだが」
「それでは受付の方にたずねてみることにいたします」
「……それがいいだろうね」
父は父で仕事があるのでここでお別れだった。
さて、問題は弟だ。
一言も話さないのでうっかりクッションとまちがえそうになったが弟はちゃんとついてきていた。
右手と右足がいっしょに出てるけど。
この子はほんとうに……以下略。
気候のよい春の午後。
案内されたのは庭園だった。常緑樹でかたちづくられた迷路のあいだには色とりどりの薔薇が咲いていて、芝生のうえには真っ白なクロスをかけたテーブルがいくつも並べられおいしそうなお菓子や果物がところせましと盛りつけられている。
受付で止められなかったので、わたしはロキを足元にしたがえたまま入場した。
招待されているのは十歳前後のこどもばかりだ。男の子も女の子もみんなはなやかに着飾っている。一年ぶりにみる王太子殿下は椅子にふんぞりかえってつまらなさそうな顔であいさつにくるお嬢さまたちの話を聞き流していた。
…………。
まあ、こうなるだろうなと思ってはいたけれど。
あの列に並んであいさつしないといけないのか。
いまからでも帰りたい。
わたしとアルトゥールが最後尾に並ぶと顔見知りの少年少女たちがつぎつぎに声をかけて順番を譲ろうとしてくれる。
最初は固辞していたがだんだんとめんどうになってきて結局はありがたく譲ってもらうことにした。
向こうとしてもわたしたちといるのは気が詰まるんだろう。表情をみていればなんとなくわかる。
ただでさえ『氷の』ゼラフィーネ・シュヴァルツヘルツといま話題の妾腹の弟である。
わたしたちの関係は推して測るべし。
……触らぬ神に祟りなしってところかな。
親切な子たちのおかげで順番はあっというまにまわってきた。
ジークフリート殿下は白金色の髪に赤色の瞳の美少年だ。
本編では炎のジークフリートと氷のアルトゥールで対になっていて、容姿もそれを意識した設定になっている。
アルトゥールが線が細くどこか翳のある青年なら、ジークフリートは皇帝とか英雄とかいう称号が似合いそうな正統派王子さまなのだ。
「ひさしぶりだな、ゼラフィーネ・シュヴァルツヘルツ」
殿下が自分からわたしの名前を呼んだので周囲のこどもたちがちょっぴりざわめいた。
男の子なら以前から遊び相手としてそばにお仕えしている子もいるけれど、女の子で殿下に名前をおぼえていただいている子は多くないのだ。
「おひさしぶりです、ジークフリート殿下。本日はお誕生日おめでとうございます。心よりお祝い申し上げます」
わたしは鉄面皮のままかんぺきな礼を取ってかんぺきな祝辞を述べ、それから一応は儀礼的な笑みをうかべようと努力した。
あまりうまくいかなかったけど。
弟もとなりでわたしの見様見真似で礼をした。
殿下は弟を一瞥してつまらなさそうに視線をわたしに戻した。
「それがうわさの弟か」
「うわさは存じませんが、わたくしの弟にございます」
「ふぅん。おまえの弟ならさぞかしできがいいのだろう」
それっていやみ?
……いやみだよね。
わたし、売られたけんかは買う主義なんですけど。
「ご期待に添えるよう精進してまいります」
あえて無表情のままわたしは答えた。
弟はまっさおになっている。
「ところで、おまえの足もとにいるそれはなんだ」
殿下はロキのほうをみながらたずねた。
わたしは困惑した。
さんかくの耳、長いしっぽ、まるみをおびた愛らしいフォルム……どこからどうみても猫にしかみえないと思うのだけど。
まさか、箱入り殿下は猫をみたことがないのだろうか。
「……猫という生きものでございます」
「そんなことは知っているっ!!」
殿下がさけんだ。
「食肉目ネコ科ネコ属に属する愛玩動物で、品種についておたずねでしたらノルウェージャンフォレストです」
「……よくわかった、もういい」
「はい。それでは失礼いたします」
淡々と礼を取って御前を辞去すると周囲のこどもたちはまたさざめいた。
殿下がこのような席で必要最低限のことば以外を投げてくることはめったにない。事前に準備しておいた受け答えも向こうから質問がくることは想定していなかったのだが……なにか失敗しただろうか。
しかし、いまはフリーズしている弟を解凍するほうが最優先だ。