4. 思いどおりにはいかない
一か月後。
わたしはつきっきりでアルトゥールの指導にあたっていた。
「それじゃ、次の行から訳して」
「……わたしは……知りません。わたしがだれであるのか」
「悪くはないけど。『まだ』と『よく』が抜けています。もっと正確に訳すなら『わたしはまだよくわかりません。わたしは、自分がなにものであるのかさえわからないのです』……こんな感じでしょうか」
細かい発音まで一語一句きっちり直してやる。
きぶんはすっかりミンチン先生である。
日に日に言葉少なになっていく弟をみていると心が痛んだが、宿題のできをみていると悠長なことはいっていられない。
学年ビリから一年で偏差値を40上げて東大に入るくらいの難易度なのだ。有名予備校の人気講師もまっさおだ。
「そろそろ休憩にしましょうか」
声をかけると弟は目にみえてほっとした顔になった。
メイドが置いていったサンドイッチを取り分けながら、わたしはさりげなく弟の分からピクルスとチーズを抜いてやった。
本人は隠しているつもりのようだけど、ここ一か月の食事風景からわたしは弟の偏食を見抜いていた。
本編ではいっさい触れられてなかったが。
こういうとき、現実の密度ってすごいなと感動する。
きっと他にもたくさんの本編では触れられなかった裏設定があって、そういうたくさんのものがあつまって最愛の推しはできているのだ。尊い。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
わたしと話すときはいつも緊張している弟だけど、ロキの相手をするときと食べものを受け取るときだけはちょっぴりはにかんでうれしそうな顔をする。
まだまだ単純なお年頃らしい。
……それにしてもあの困った猫、どうしてくれよう。
「勉強の進み具合はどう? 少しは慣れたかしら」
「……はい。おかげさまで」
「勉強勉強でたいへんに思うかもしれないけど、入学試験が終われば少しはらくになるはずだから」
「……姉上はずっとこのような生活をされているのですか?」
「ええ」
「……たいへんだとは思われないのですか?」
「え、なんで?」
わたしにいじめられている弟とちがってわたしは悠々自適なお嬢さまライフを満喫している。
「…………そうですか」
弟はみるみる萎れてしまった。
「でも、たいへんだと思うこともあるけど。社交とか」
「社交……ですか」
「そう。明日の王太子殿下のお誕生日会なんかがそう」
ほんの一年前に会ったばかりなのに、またあのオレサマ殿下に会いに行かないといけないのかと思うときぶんが塞ぐ。
殿下のまわりにむらがるお嬢さまたちのことを考えるとゆううつになるし、彼女たちを蹴散らして婚約者の座におさまったあとの展開を考えると絶望的なきぶんになる。
仮病を使ってでも休みたい。
いや、むしろ仮病なんか使わなくても殿下のことを考えるだけで病気になれそう。
でも、それをやるとまたやりなおすことになるのか……。
「午後はヴァイオリンの練習をしましょうね。たぶん必要になると思うから」
「? ヴァイオリンが……ですか?」
「ええ」
「あの、入試科目に楽器は入っていなかったと思うんですが」
疑問符を飛ばしている弟にわたしはいやな予感がした。
「そうじゃなくて、お誕生日会」
「え?」
「前から言っていたでしょう。明日はあなたも来るの」
「それはお聞きしましたが……ヴァイオリンが必要になるんですか?」
「たぶんだけど」
絶対とは言わないけどかなり高い確率で必要になる。むしろ楽器だったらまだやさしいほうで、ほかに即興でなにかやれといわれたらハードルは格段に上がる。
婚約者候補(複数)を呼ぶお誕生日会=品評会なんだから。
ついでに殿下のご学友も選別されるので男の子だって高みの見物はしていられない。
「それはお聞きしてなかったんですが」
「だからいま言ったじゃない」
「…………」
ヴァイオリンはアルトゥールの特技だ。十歳時点の力量は知らないが、基礎くらいはできているだろうし、直前に詰めこめばなんとかなるだろう。
そう思ったわたしがあまかった。
午後をまるまる潰した結果、わたしはもっと早くから特訓をはじめておくべきだったと後悔した。
その日の夜。
わたしは音楽室にこもってピアノの練習を続けていた。一人娘にあまい父が防音室を作ってくれたため一晩中でも練習していられる。
明日はどうなるかわからないけど、わたしがきちんと準備しておかないとアルトゥールまで巻き添えをくらうことになる。
季節にあわせた曲を何曲か弾き終えたところで顔を上げるとドアのまえに人影が立っていた。
明かりを落としているせいではっきりとみえないけれど、わたしには輪郭だけでわかってしまう。
「こんばんは、アルトゥール」
「……こんばんは、姉上」
「どうしたの、こんな遅くに」
「姉上こそ。いつもこんな遅くまで練習していらっしゃるのですか?」
「まさか。今夜は特別。明日に備えてるの」
わたしはピアノのうえに広げていた楽譜を目で示した。
「……姉上はすごいですね」
弟はぽつりとつぶやく。わたしは首をかしげた。
「なにが?」
「どうしてそんなにがんばれるんですか」
「うーん、がんばれる……ねえ。わたし、ピアノはもともと好きよ」
なにしろ前世のころからやっている。たまに『猫ふんじゃった』とか弾いちゃう。
ちなみにロキはいまごろわたしのベッドをひとりじめしているはずだ。
「ピアノだけじゃなくて、勉強も剣もおできになるでしょう?」
「そういえばそうね」
今世では小さいころからあれこれやらされてきたため疑問に思うこともなかったが、前世と比較するとたしかに多い。しかし前世もちのせいか読み書きは物心つく以前からできたし、勉強も剣も基礎は最初からできていたと思う。たぶんゼラフィーネの初期設定なのだろう。
言われてから思い出したけど、アルトゥールは剣もできるんだった。
先日見学した練習はひどいものだったけどまちがいない。
なにしろ弟のルートのバッドエンドでは、わたしはそれで刺し殺されるんだから。
最低でもわたしよりは強くなれるはず。
……ってことは、わたし、この子に剣も教えないといけないの?
嫌すぎる。
自分の首を落とすための包丁を自分で研いでやる豚がどこにいるんだ……。
できれば自力でどうにかしてほしいんだけど。
アルトゥールが剣を練習するようになったきっかけってなにかあったのかな。
そこまで考えて思い出した。
あった。
侯爵家に引き取られたアルトゥールはいじわるな腹違いの姉に取り巻きの少年たちをけしかけられ、ボロボロになるまで暴行されたことで身を守るために腕を磨くことになったのだ。
さすがは悪役令嬢ゼラフィーネ。みずから手を汚すことすらしないなんて。われながらなかなか鬼畜なやり方だ。
鬼畜すぎて、これをかわいい弟にやるのはちょっと……なんて言ってるばあいじゃない。
がんばってゼラフィーネ。
獅子は我が子を千尋の谷に落とすんだから。
ところで、わたしに取り巻きってだれかいた?
……まさか、取り巻きを作るところからやらないといけないんだろうか。
考えてみたらわたしのコミュ力はオリジナルのゼラフィーネと比較してめちゃくちゃ低い。
それこそアルトゥールのことをとやかく言えないレベルで低い。
ダメダメじゃないの……。
明日はがんばって招待されたこどもたちと交流して取り巻きを作ったりとか……無理だろうなぁ。
冷静に考えてわたしは前世からコミュ力が低かった。
休み時間にクラスの子が友達どうしで集まっておしゃべりしたり遊んだりしている時間をそっくりそのまま勉強したり読書したりに費やして大きくなり、大学生になって受験勉強から解放されてからはゲームやアニメにスライドさせてきたのだ。
いくら殿下のイベントだからってせりふが三択で出てきたりしないだろうし。ハードどころかルナティック、アルティメットの領域だ。
しかたない。
「剣ならわたしが教えてあげるわ」
「……え?」
アルトゥールはすっかりおなじみになった疑問符を飛ばしたが、これまでとは少しトーンがちがっていた。
「……あの、姉上が俺に剣を教えてくださるということは……つまり、その……俺と姉上が剣を交わすということですか?」
「? ほかにどうするの。素振りばかりしてたってうまくならないでしょ」
アルトゥールは絶句した。
「…………お断りします」
心なしか声が低い。
そこまでショックを受けるようなことだろうか。
「あのですね姉上。俺は男なんですよ。俺の方が力が強いんですからいくら俺の方がへただからってぶつかったら怪我をするのは姉上です」
その発想はなかった。
というか、自分をいじめてるいじわるな姉相手にこのせりふってどうなの。
あまりにもおひとよしすぎてお姉ちゃんはあなたの将来が心配です。
「ちゃんと先生だっていらっしゃるんですし、ふだんの練習が素振りだけでもかまいません。ダメなら先生にお願いしていらっしゃる時間を増やしていただきますから……姉上はご自分のことだけ考えてらしてください」
わたしは目をまるくした。弟がこんなにしゃべるところをはじめてみた気がする。
これって、もしかしてわたしが教育的指導にかこつけて弟いびりしてるのに気づいてる?
まあ、わたしもこの一か月いろいろとやってきたわけだし、いいかげん警戒されてもおかしくない。むしろ遅すぎるくらいだ。
「もう遅いのでそろそろお休みになられたほうがいいです。身体を壊します」
「そんなことない。慣れてるもの」
「それでも……俺が心配なんです。いいから楽譜をかたづけてください。部屋まで送っていきます」
絶望的に対人スキルの低いわたしは、自分のなまぬるいいじめが思ったような効果をあげられていないことに、この時点でまだ気づけていなかった。