3. 黒猫との出会い
異変が起きたのは弟がうちに来て二週間目のことだった。
……弟のようすがおかしい。
以前からおどおどした子ではあったけど、ここ数日というもの以前にもまして挙動不審にみえる。
食事の時間はそわそわして上着のポケットにパンを詰めているし、休憩時間になると飛ぶようにいなくなる。
きわめつけはつまみ食いをしようと厨房におりたときに牛乳をわけてくれとメイドたちに頼んでいたことだ。
偏食の弟が牛乳なんて欲しがるわけがない。
……あの子、絶対になにかやってる。
わたしは夕食の後、弟のあとをつけることにした。
あんのじょう、裏庭の物置のうしろにかくれてなにかこそこそやっている。もれきこえてくる小さな鳴き声から察するに生きものに餌を与えているらしい。
「そこでなにをやっているの」
声をかけると弟はびくりと肩を跳ねさせた。
みれば小さな木箱にはみすぼらしい仔猫が入っていた。もとは黒かっただろう毛並みはほこりにまみれ、両目はめやにでふさがっている。弟が手にした牛乳をみて、わたしはためいきをついた。
「生きものに安易に手を出すんじゃないの。人間のにおいがついたら母猫は世話をしなくなるから」
「え……?」
弟は要領をえない顔で首をかしげている。わたしは根気強く説いた。
「こんなところに仔猫を捨てる人がいるわけないでしょう。のらなら近くに母猫がいるはずなんだから手を出してはいけないの。あなた、いつからその子をかまっているの?」
「……四日前です」
「それじゃもう迎えには来ないでしょうね」
そのあいだずっとこんなところにかくしておいたのか。おとといは雨だったのに。
考えなしすぎて頭痛がしそうだ。
「おどきなさい」
「あの、姉上……」
「いいからそこをおどきなさいといってるの。あなたもいっしょに段ボール箱にいれて橋のしたに捨てに行くわよ」
かさねていうと、弟は泣きそうな顔で場所をゆずった。
わたしは薄汚れた仔猫の首ねっこをつかみあげ、そのまま踵をかえして歩きだした。
「あの、姉上……」
「なに?」
背中をむけたまま問う。
弟は悄然としてつぶやいた。
「……なんでもありません」
部屋に戻るとメイドを呼んでお湯のしたくをさせた。
洗面器にぬるま湯を入れて水攻めにし、石鹸を泡立ててこびりついた汚れをゴシゴシ落とす。濡らした布巾でめやにを取ってやると、きれいな深紅の瞳をしていた。
温めた牛乳を薄めてやるとおいしそうにぴちゃぴちゃ舐める。猫用ミルクなんてものはないからしかたないけど、そのまま与えるなんてどういう了見だ。
まったく……世話もできないなら拾うなと声を大にしていいたい。
「ちょっと生ぬるいけどこのからだに入れるならこんなものかな」
…………?
「ねえ、おかわりはないの?」
みれば仔猫が深紅の目でわたしをまっすぐみつめている。
……ちょっと不自然なくらいにまっすぐに。
「聞いてるの?」
「……いまなにか幻聴が聞こえたような」
「失礼だなぁ。おかわりちょうだいってば」
「……って、えええぇぇ!?」
わたしはのけぞった。
仔猫はうるさそうに眉間にしわをよせ、からになった皿を前足でたたいて要求した。
「いいからさっさとちょうだい。お腹すいて死にそう」
深紅の目にけおされたわたしはおとなしく皿に牛乳をよそってやった。
「あの……どちらさまでしょうか」
「ロキ」
名前を聞いて思いだす。ロキって……それは例の乙女ゲームのサポートキャラクターだ。いわれてみればビジュアルもヴォイスもそっくりおなじ。
「きみ、この世界のひとじゃないでしょ」
いきなりそんなことをいわれましても。
「きみはこの世界のひとじゃないよ。ボクの声が聞こえるんだから」
ちょっと待って。
もしかしてさっきの声に返事をしなければこの仔猫はあきらめて黙ってたってこと?
「聞こえるひとはみればわかる。知らんぷりしたってむだなんだ。今回もまたはずれかなってうんざりしてたんだけど……そうでもないみたいだね。きみ、エルフリーデって名前にこころあたりがあるでしょ」
「ああ、エルフリーデ……って、えええぇぇ!?」
わたしは盛大にむせた。
それはこの世界のヒロインのなまえにして作品タイトルじゃないですか。
「ワンパターンだなぁ」
ロキは鼻を鳴らした。
「あの……はずれってどういう意味ですか?」
「はずれははずれだよ。ボクはこの時間をループしてそろそろ二桁になるけど、うまくいった試しがない」
「?」
「どれだけくりかえしてもストーリーが思うような展開にならないんだ」
「……ならないとどうなるんですか?」
「消える」
あっさりとのたまって、ロキはからになった皿を舐めた。
「この世界は分岐をまちがえると消える仕様になってるんだ」
「?????」
ロキから聞き出した話を要約するとこうだ。
この世界はわたしが前世でプレイしていた乙女ゲーム『エルフリーデ』がベースになっている。原典から一定以上乖離すると自動的に消滅し、エルフリーデが生まれた時点に戻る。そこからまたくりかえし、原典から乖離した時点でまた消滅する。
そこだけを聞けば荒唐無稽なのだが、前世の記憶があるわたしには笑えなかった。
「あの……それって、わたしが悪役をやらなかったばあいこの世界は……」
「消滅して最初に戻る」
「またやるの!?」
「やる。うまくいくまで何度でもやることになってる」
わけがわからない。
「ゲームってそういうものでしょ」
それはまあ……そうかもしれないけど。
「あっ。でも、わたしが出てくるのは殿下のルートと弟のルートの二つだけだから、ヒロインがほかのルートに進んだら本編と関係なく暮らせるんじゃ……」
「きみはそれでもいいかもしれないけど。きみの弟は共通ルートから登場するんだから、あんまりはずれるとこの世界からはじきだされて消えちゃうよ」
なんてむごい……。
「キャラが消えて乖離がおおきくなると最終的に世界ごと消えるから、ボクとしてもそれはやめてほしいかな」
「あの……回避する方法とかは……」
「ない。うまくいくまでくりかえすことになってるから」
うまくいくまでって……それってつまり弟がわたしにいじめられて心を閉ざすまでってこと!?
アルトゥールがなにをやったっていうんだ……。
そして凍てついた心がとけるグッドエンドは……わたしの破滅エンドである。
「消されたくないなら本編のとおりに進めることだね」
「そんなのないよ。あんまりだよ……」
「あきらめて。そういう仕様なんだから」
「………………」
こうして、わたしは自分の破滅ルートめざしてがんばることになった。
泣きたい。
翌日、わたしが仔猫を抱いて部屋をたずねると弟は泣きはらした目をしていた。
腕のなかの仔猫をみてびっくりしたように目をみはる。
「あの……」
「この子はわたくしが飼うことにします」
「……いいんですか?」
「しかたありません」
本音をいうと引き取ってほしいけど、弟におしつけたところですぐにわたしのところに戻ってくるだろう。なにしろ本人が宣言していたし。
しかたない。
全力で悪役に徹してこの一回で終わらせよう。
しかし、わたしはすぐにその考えがあまかったことを思い知ることになるのだった。
それからの一か月、わたしはもてる知識を総動員し、ぜんりょくで弟をいじめようとした。
といっても、前世今世とおしていじめとは無縁のわたしには効果的ないじめのやり方がいまいちよくわからない。
原作では「数々のいじめに耐えていた」の一行ですまされてたし……。
現世では由緒正しき侯爵家のお嬢さまとして蝶よ花よと育てられたわたしをいじめようなどという命知らずはいない。
なにしろ悪役令嬢だからね……。
わたしのまわりにいるわたしより身分の高いお子さまといえば、王太子殿下くらいだ。その殿下とも五、六回しか会ったことがない。
前世をふりかえってみても、そもそもがぼっちで休み時間はひとりで塾の宿題をするのがあたりまえ。はぶられてても気づけなかった自信がある。
あれ? もしかしてわたしって……。
まあでも、物理でなにかされたことはなかったからいいことにしよう。
経験があてにならないので、わたしは文献に頼ることにした。
少女漫画ではヒロインへのいじめはお約束である。
とはいえ『エルフリーデ』本編とちがってここは学校じゃなくお屋敷だ。
ものがなくなればメイドの責任になるし、バケツの水をひっくりかえせばメイドが片付けることになる。無関係な使用人たちを巻きこむわけにはいなかい。
とりあえずトゥシューズに画鋲を入れてやろうと思ったけど、机のひきだしを探しても使用人用の物置をひっくりかえしてみても画鋲なんてものは出てこない。
そうだよね。このお高そうなお屋敷の壁に穴をあけるなんておそろしくてできないよね。学生時代に住んでた賃貸アパートですら画鋲は禁止だったもの。
うーん……。
迷ったすえに、わたしは厨房からキャラメルをくすねてきて弟がそとで剣の練習をしているすきに上履きに仕込んでおいた。
これを踏んづけたら靴下と上履きがくっついて剥がすのに苦労するはずだ。
数時間後、練習を終えた弟がわたしのところにやってきた。
「……こんばんは、姉上」
「こんばんは。練習は終わったの?」
「はい」
弟はわたしの顔色をうかがいながらおずおずといった。
「……差し入れありがとうございます。キャラメル、おいしかったです」
「え……?」
「……あの、姉上ではありませんでしたか? 失礼いたしました。……その、他にこころあたりがなかったもので」
「…………たしかに、あれはわたくしが入れたものだけど」
包み紙はがした状態で置いてあるキャラメルなんか食べないでよ。お腹壊すよ……。
「……やっぱり」
弟は花が開くように笑って、「ありがとうございます」をくりかえし去って行った。
めちゃくちゃかわいかった。
わたしは雪辱を誓った。
翌日、もういちど前世で読んだ少女漫画をふりかえって弟をギャフンといわせるいやがらせを考えた。
教科書に落書き……は、自分に跳ねかえってくるからなぁ。
弟のぶんがまだ届いていないので、いまはわたしが使っていたものを貸している状態なのだ。入試前に復習しようと思ったとき自分の首を絞めることになる。
それじゃ机に落書き……よし。これで行こう。
地理の授業が終わり、弟に資料を図書室に返しに行くように言いつけたあと、わたしはさっそくチョークを取りだした。弟の机に座ってなにを描こうかかんがえる。
いやがらせなんだから怖いものがいいよね。モンスターとか、オバケとか……よし、ここはわたしのとくいなテ●サ(スーパーマ●オ)で行こう。手持ちのレパートリーのなかではこれがいちばんうまく描けるはず。
そうして描き上げた●レサはわれながらなかなかのできだった。スクショ撮って保存しときたいレベルの傑作である。
図書室から戻ってきた弟は自分の机をみていった。
「……姉上は絵もお上手なんですね」
わたしは敗北感にふるえた。