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色弱の弟は愛犬の火葬で何色の炎を見るか

作者: しゅん





ハナビ





「生物の矛盾と美しさ」


弟が出版した本が、ベストセラーとなった。


「今日はお忙しいところすみません。」


僕はとある雑誌の取材を受けている。自分よりもいくつか年下に見えるスーツ姿の女性が上目遣いで名刺を渡してきた。


「今日は以前お話ししていた通り、山中悟先生の幼少期についてお話をお伺いしたいと思っております。よろしくお願い致します。」


山中悟先生とは、弟のことである。大学教授の仕事をしている。最近はメディア露出も多くなっているらしい。


「早速ですが、先生は子供の頃、どんなお子さんでしたか?」


記者の女性が尋ねながら、メモを取る用意をしている。


「そうですね、昔から動物が好きでした。当時犬を飼っていたのですが、犬の世話は父や母ではなく弟が全てやっていましたね。」


「なるほど、では生物博士の原点は愛犬だったと。」


「確かに飼犬のこともあると思います。けど、それだけではないと思います。弟は何というか、感性みたいなものが、周りとは違う様な気がしていました。子供の頃は、それが何か分かりませんでしたが。」


「へえ。気になりますね。その辺りのお話、詳しく聞かせていただけますか。」


そう言われて、僕は弟との思い出をゆっくりと語り始めた。










僕の家はある程度裕福な家庭で、僕は愛情を持って育てられた。

両親は共働きだが夜遅くまで仕事で帰らないということは滅多になく、夕食は必ず家族全員揃って食べた。

広いリビングの真ん中にある食卓には4つの椅子があり、僕はテレビが一番見える位置に座っていた。

横には父が座り、対面には母が座る。その位置がいつ決められたのかは記憶がない。

物心ついた時、気付くとその位置で食事をするようになっていた。そして残った席は、最もテレビが見辛く、かつ廊下側で冬は少し寒い席。そこに座っているのが僕の弟だった。



弟の年齢は僕の二つ下である。

当時、僕たち兄弟は小学生で、毎日一緒に歩いて登校した。

弟は小学生一年生になったばかりで、母からお兄ちゃんが守るのよと、子供心をくすぐる言葉で弟を任された。

弟は登校中によく泣いた。

僕が歩くのが早く、弟を置いてけぼりにしてしまうからだ。母に頼まれた手前、そのまま学校に行くわけにはいかず後ろに戻っては弟を急かした。

すると弟はまた泣いた。


僕の学校での成績はとても良かった。

運動も勉強も難なくこなして、友達も多かった。

弟は運動も勉強もあまり得意ではなかったようで、母が、「お兄ちゃんみたいになれるよう頑張ろうね」と弟に言う度に僕はなんともいえない充足感に満たされた。

学校生活に多少の格差はあったものの、僕たち兄弟の仲はとても良かった。

僕は同級生の間で流行っているものを家に持ち帰っては、弟と遊んだ。

土曜日の夜は毎週、親が寝静まった時間に起きては2人で遊ぶことが何よりの楽しみだった。(平日に夜更かしすると病気になると親から脅されていた。)


土曜日の夜、僕たちは布団に隠しておいたケースを取り出し、扉を閉めて部屋の電気をつけた。当時最も流行っていた遊びは、カードゲームだった。

お菓子のおまけについているようなカードではなく、一種のおもちゃとして確立しており、公式のルールもあった。その人気ぶりは、テレビコマーシャルで放映されるほど爆発的なものだった。

僕もカードゲームに魅了された一人で、お小遣いを貯めては近所のコンビニでカードを購入した。

カードは一パック5枚入りで、運が良ければレアカードが当たる。

当然レアカードは強く、ゲームに勝つにはどうしても欲しいものである。

僕は休日に祖父の畑仕事を手伝ったりして、お小遣いを稼いだ。その甲斐あって、複数枚のレアカードを手に入れることができた。

レアカードを持っていない弟は、僕のカードを羨ましがって見ていた。

毎週金曜日のカード遊びも、レアカードを複数持っている僕がほとんど勝利を収めた。それでも弟は楽しそうで、「やっぱりレアは強いなあ」と言って笑っていた。



ある日曜日、たまたま両親が仕事でいない日があった。

母は僕に千円札を渡して、昼食を食べるように言った。僕は弟に、おにぎりを一つずつ買って、残り全額でカードを買わないかと提案した。


「いいね、にいちゃん。」


弟はにっこり笑った。

カードは6パック買えたので、交互にパックを選んで、3パックずつ分けることにした。カードの枚数としては15枚ずつである。僕は祈りつつもカードを見たが、レアカードは一枚も無かった。

ため息をつきながら弟の手元を盗み見ると、そこには想像だにしない光景があった。


「にいちゃん、これ…」


「うわあ!!」


僕は文字通りひっくり返った。


弟が引き当てたカードはレアカードよりも当たりづらい、シークレットレアカードだった。


「レアだ!」


なんと、弟は気づいていないようだった。


それは、弟がシークレットレアカードを知らなかったことが理由ではない。


実は、弟には些細な障害があった。


弟が見る世界に赤色はない。


先天性の色盲で、赤色だけが他の色と区別がつかないという病気だった。とはいえ日常に支障があることは少ない。赤は見えないが物自体ははっきりと見えるそうで、最も困りそうな信号機については、赤が光っているのは見えないが、青が光ったら渡ればいいと弟は言っていた。

そのため、僕は弟の障害を障害だと感じることはほとんどない。

しかし今、久しぶりに弟の持っているハンディを思い出した。

シークレットレアは、レアカードに、赤い装飾が施されているカードである。カードの文字も赤く、描かれているモンスターの鎧も赤い。友達の中でも持っている人は一人もおらず、出現確率があまりに低いことから伝説とされていたカードだった。


「シークレットレアだ!」


僕は興奮を抑えることができず叫んだ。そんな僕を見て状況を理解したのか、弟も、


「やややや、やったあああ!」


と声を震わせながら叫んだ。


僕たちの興奮は夜になっても冷めることはなく、シークレットレアを取り入れて強くなった弟のカードと一日中対戦は続いた。弟のシークレットレアが現れる度、僕はそのカードに見惚れて釘付けになった。



一週間後の夜、僕は音を立てずに寝室を出た。ゆっくりと廊下を進み、勉強机がある部屋の扉を開ける。唾を飲み込む音が聞こえてないか不安になる程静かだった。

僕は扉を閉めて、弟の机の前に立った。迷いのない手つきで引き出しを開け、カードを探す。

見つけた。

シークレットレアだ。

僕は、シークレットレアと、自分の持っているノーマルレアを、いそいそと取り替えた。

弟は赤が見えない。シークレットレアがノーマルレアになっても、気づかないと思ったのだ。僕は再び音を立てずに廊下を通り、何事も無かったかのように弟が眠る寝室に戻った。

弟は寝息をたてていた。高鳴る鼓動が、弟を起こさないか心配だった。


いつの間にか僕は寝ていたようで、リビングの方から声がして目を覚ました。弟の声だった。僕は昨日、弟のシークレットレアと自分のノーマルレアを取り返したことを思い出してすぐにリビングへ走った。

リビングに行くと、大声で泣く弟が目に入った。

弟の隣にいる母に目を移すと、僕が昨日弟の机に入れたノーマルレアを手に持っていた。母は僕に気がつくと、困った様子で尋ねてきた。


「ああ、起きた。ねえ、このカードが、違うってこの子が言うのだけど、この光ってるカードの何が違うの?」


「ちがあああああ!」


弟は泣き叫んでいる。1日も経たずにノーマルレアであることを見抜かれた。弟は赤色とその他何種類かの色の区別がつかない。区別がつかないことでシークレットレアだと認識していたようだった。

そんなことは知らずに慌てる僕に対し、


「にいちゃんがとったあ!」


と弟は見事犯人まで的中させたのだった。僕は何も言い返すことができなかったが、


「人を疑わないの!」


と母の拳骨をくらってしまう。

僕は慌てて部屋に戻り、隠していたシークレットレアを弟のカード入れに戻した。そしてランドセルを背負って逃げるように家を後にした。


学校が終わって家に帰ると、ランドセルを背負った弟と、母がリビングに座っていた。弟はどうやら学校には行ったらしい。弟の手には、シークレットレアが強く握りしめられていた。


「ごめんなさい。」


弟は僕に言った。僕は思わず目を逸らした。


「疑って、ごめんなさい。」


弟は目を真っ赤にして、鼻水を垂らしている。そうね、偉いね、と母は言った。

僕はいいよ、と小さくつぶやいて、自室に逃げた。自分のカード入れを見ると、弟が今朝持っていたはずのノーマルレアが入っていた。

僕は訳が分からなくなって、視界がぐるぐると回った。

ベッドに走って毛布にくるまり泣いた。

ノーマルレアを僕の机に戻したのは、母だった。

僕たちが学校に行った後、弟の机にあったシークレットレアを見て全てを察したのだ。

でも、母はそのことを弟には言わなかった。弟には、見間違えだと言った。母は弟には一切知らせず、三日後に僕を叱った。

その事件以降カードのブームは去り、土曜日の秘密の集会はしばらく開かれなくなった。








弟が小学生になって半年が経ち、夏休みが始まっていた。弟は未だに友達ができていないようで、毎日家の中にいた。僕は友達を家に連れてくると、弟も一緒に混ぜて遊んでやっていた。


そんな夏休みのある日、僕たち家族は全員で花火大会に行くことになった。家からは少し遠い場所にあるが、ちょうどその日花火大会の場所から近いところに用事があるのだそうだ。理由はともあれ、花火大会にいけるのは嬉しかった。僕と弟は楽しみで昼からうちわを持って家を走り回った。


しかしその夜、花火を見る時間はすぐに終わった。弟が駄々をこね始めたのだ。帰ると言って言うことを聞かない。僕たちは仕方なく花火大会の会場を後にした。そして両親が言っていた、花火大会の会場近くの用事が明らかになる。それは、犬の引き取りだった。

子供が産まれすぎて里親を探している方がいたそうだ。

依頼者の家に直接行き、顔を合わせた。家にはたくさんの犬がいた。雑種らしいが、見た目はほとんど柴犬で、毛色は茶色だった。

しかし、たくさんいる子犬の中に、一匹だけ白い犬がいた。弟は白い子犬を見るなり駆け寄って、


「この子がいい。」


と言った。

さっきまで不貞腐れていたはずの弟の顔は満面の笑みで覆われていた。当然家族の中で反対する者はおらず、選ばれた白い犬と共に帰宅した。帰路の途中車の中で、弟は白い犬に名前をつけた。


「名前は、ハナビにする。」


僕は弟が、花火が嫌いなのだと思っていた。近くで見ると眩しくて音がうるさいので、弟が嫌がっても不思議ではない。一目で気に入った犬に、まして見た目が真っ白の犬に「ハナビ」という名前をつける理由が、当時の僕にはよく分からなかった。分からない、というよりはあまり考えていなかっただけかもしれない。



言うまでもなく、弟はハナビに惜しみない愛情を注いだ。

外で飼うのは可哀想と言って、ハナビの部屋も室内に用意された。

散歩も毎日弟がした。

弟とハナビの散歩は長く、2時間以上帰らない日もあった。

僕が弟と遊ぶ時間は激減した。


ある日、母が弟の散歩時間が長いことを心配して僕についていくように言った。その頃学校で流行っていたゲームに夢中になっていた僕は、弟とハナビの長い散歩に付き合うのは面倒くさいなと思いつつもしぶしぶ承諾した。

弟は僕が散歩について来ると聞くと喜んだ。


「ハナビも喜ぶよ」


弟はそう言ったが僕は半信半疑だった。

僕が見る限り、ハナビはあまり頭が良いとは思わなかった。お手は覚えないし、廊下におしっこだってしてしまう。家族が誰が誰なのか、相手が弟でさえ、ハナビが認識できているか分からなかった。


散歩コースはいたって普通だった。近所の住宅街をぐるりと一周して、このまま帰れば30分とかからなさそうだった。しかし、帰路の途中、弟は突然見知らぬ一軒家の敷地にハナビと共にずかずかと入っていった。僕が声をかけると、不思議そうな顔をして弟が言う。


「あれ、にいちゃん来たことないのか。ガスおじの家。」


ガスおじ。聞いたことのない名前だった。なんでも、近所のガソリンスタンドで働いているのでガスおじらしい。


「ガスおじはお菓子をくれるんだ。優しいし、面白い人だよ。」


弟は縁側に座ると、ガスおじ、と大きな声で呼んだ。しばらくして、よく日焼けをした、髪の毛が逆立っているみたいなツンツン頭の痩せたおじさんがひょっこり現れた。


「おお来たね。ん?今日は一人多いな、友達かい?」


「にいちゃんだよ」


「おお、にいちゃんか。初めまして。今、お茶持って来るから。」


ガスおじはハツラツとした見た目とは裏腹に、とても柔らかい雰囲気を持つおじさんだった。話し方はゆっくりでとても丁寧。在日一年の人でも聞き取れそうな日本語だ。

それに加えて、ガスおじを見た瞬間からハナビの様子がおかしかった。終始興奮状態で、吠えるとも唸るとも違う、妙な声を出している。このおじさんは只者ではない。僕は子供ながらにそう直感した。

警戒する僕に対して、弟はリラックスしていた。ハナビの様子も気にしていないようである。


「ハナビ、どうしてこんな興奮してるの。」


たまらず僕が尋ねると、


「ハナビはね、ガスおじがとても好きなんだよ。なぜかは分からないけどね。最初もハナビに引きづられてこの家に来たんだ。それでガスおじに会った。ハナビが喜ぶから、散歩の時は毎回ガスおじの家に寄るんだ。」


僕にはハナビが喜んでいるようには見えなかったが、弟が言うのだからきっとそうなのだろう。


「お茶入れたよ。」


ガスおじがお茶と、両手一杯にお菓子を持ってきてくれた。透明なグラスに氷が惜しみなく敷き詰められている。冷えた麦茶が夕焼けに染まってオレンジ色になっていた。

ガスおじはお菓子を置くと、すぐにハナビと遊び始めた。ハナビは白い腹を見せて寝転んでいる。ガスおじが腹をくすぐってやると、ハナビは打ち上げられた魚のようにバタバタと跳ねた。弟はそれを見ながら遠慮なくお菓子を頬張っている。僕もたまらず一つ口に入れた。


「ガスおじ、今日はどんな話をするの?」


弟が尋ねると、ガスおじは待ってましたと言わんばかりに立ち上がった。腹を見せて寝転がるハナビを置いて、庭を歩き、先程から点灯し始めた街灯を指さした。


「今日は、なぜ街灯に虫が集まるのか考えてみようか。」


その時の弟の表情は今でも忘れない。夕焼けの光みたいに、弟の瞳が輝いて見えた。











それから僕は、たまに弟の散歩に同行しては、ガスおじの話を聞いた。ガスおじは行くたびに異なるテーマを用意してくれた。


地面の穴を掘り続けたら、何に辿り着くか?

火はなぜ燃えているのか?

恐竜はなぜ絶滅したのか?

日本人が銃をもたないのはなぜ?

月はなぜ光るか?

月がなくなると地球はどうなる?

野球とサッカーはどちらが人気?

ナメクジが塩で溶けるのはなぜ?音と光は何がちがうのか?


テーマは科学、歴史、地理、そして精神的なことまで多岐にわたった。

ガスおじは問題を一つ提示して、まず僕らに考える時間を与えた。どんな幼稚な答えでも、ガスおじは決して頭から否定したりはしなかった。

最終的に否定する時も、論理的に順序よく、子供の僕たちが理解できるように丁寧に解説してくれた。

ところが、その日のうちに答えはもらえない。家に帰って、調べる時間と考える時間をもらう。そして数日後、再びアイデアを用意すると、ガスおじが答えを教えてくれるのだ。


僕は答えを早く知りたがった。問題を出されて、分からないとすぐにガスおじに聞いた。しかし、ガスおじがその日のうちに答えを言うことはほとんど無かった。


「考えなさい。知識というものは、答えよりも、過程の方に源泉がある。」


それがガスおじの口癖だった。弟は、僕が一つアイデアを出せば三つアイデアを出した。トンチンカンな内容ばかりだったが、当てにいくというよりは、アイデアに対する解説を期待している様子だった。

確かにガスおじが出す問題は面白く、答えを聞くと納得できた。しかし、問題を聞いてからアイデアをいくつも出すまで答えを教えてもらえないシステムが、僕の性に合わなかった。いや、小学生であれば普通は誰でもそうだろう。決定的だったのは、答えのない問題が出た時だった。問題の内容はこうだった。


「駄菓子屋でお菓子を盗むことは悪いことか?」


僕は悪いことだと即答した。ガスおじは、本当に?と僕に尋ねた。盗みが悪いなんて当たり前だ。熟考の余地もない。


「もし、誰かに頼まれたらどうする?友達が、今お金がないから、どうしても盗んで欲しいと言われたら?」


「そんな友達はいないよ」


「もしいたら、の話だよ。」


僕はだんだん苛立ってきた。じゃあガスおじは人に言われたら盗むのか?泥棒じゃないかと罵声を浴びせようとすると、さらにガスおじは問いかける。


「誰かが餓死して死にそうになっている。夜中なので店はどこも空いてない。だが、駄菓子屋は鍵がかかっていないことを君は知っている。何か食べるものがあればその人は助かる。どうする?」


僕は狼狽した。状況が状況である。人の命には変えられない。駄菓子ひとつくらい、盗っても駄菓子屋は潰れないだろうし。

そういう場合は仕方ない、と僕は答えた。


「それは最初の、駄菓子屋からお菓子を盗むことと何が違うんだい?」


「違うよ!人が死ぬかもしれないって言ったのはガスおじでしょ!命には変えられないじゃん!」


するとガスおじは、


「そうだね、命の方が、大切だよね。正解だ。」


と優しく同意してくれた。膨らんだ風船が萎んでいくみたいに、僕の怒りが収まる。


「どんなに頼まれても盗みはダメだと思う。」


そう言ったのは弟だった。僕はすぐに違うと反論する。ガスおじは僕の意見を正解だと言った。聞いていなかったのか?


「人を助けるために盗みをすることはいけないことかな?」


ガスおじが尋ねる。


「盗みはいけないことだよ。他の方法を探す。」


「盗み以外では助けられないとしたら?」


「そ、それは…」


弟の声がどんどん小さくなっていく。ガスおじの弟に対する口調は、僕に対するものよりも厳しい気がした。弟の瞳が濡れていく。鼻水を啜る音も聞こえてきて、今にも泣き出しそうだった。


「盗まない。それも正解だ。」


ガスおじは答えた。今日は帰りなさいとガスおじに言われて、僕は弟を連れて帰った。帰る途中、弟は泣くかと思ったが意外にも泣かなかった。

ハナビがアスファルトの上を歩く音だけが、妙に耳に残った。



僕はその日以来、ガスおじの家には行かなくなった。一方弟は相変わらず足繁く通っているようだった。












7年の月日が経った。


弟は中学2年生、僕は高校1年生で季節は夏。


ハナビが死んだ。


病気だった。

一年前から後ろ両足を引きづるようになって、その進行を止めることはできなかった。

まともに散歩もできず、家でずっと寝ていた。みるみる衰弱していくハナビを見るのは辛かったが、その分心構えはできていたと思う。


遺体をどこに埋めるか、父と母が話し合っていた時だった。


「火葬する。」


弟だった。


「お金は全額僕が払う。」


いつから火葬しようと考えていたのだろうか。そもそもペットを火葬するという発想が、僕たちには無かった。


それから幾日か過ぎて、ハナビは葬儀屋に運ばれた。


火葬は滞りなく進んだ。


小さな窓から、ハナビを燃やす炎が見える。


弟は炎が赤く見えない。


弟には、どう見えているのだろうか。

僕は弟の顔を見た。真っ直ぐ炎を見つめている。

まるで炎が透けていて、その中にいるハナビのことをじっと見つめているようにも思えた。


納骨が終わって家に帰ると、どっと疲れが押し寄せてきて、僕は倒れるように眠った。


目を覚ますともう夕方で、日の長い夏にも関わらず窓の外の空はオレンジ色だった。


「にいちゃん、散歩しない?」


弟に誘われてまどろんだまま外に出た。弟はハナビが病気で歩けなくなるまでほとんど毎日散歩に行っていた。夏はアスファルトが暑いので日が傾いてから散歩する。丁度このくらいの時間だ。


僕はハナビの散歩はハナビを飼い始めて最初の一年以外ほとんど行っていない。家の近くとはいえ、ハナビの散歩コースを歩くのは少し懐かしく感じた。


弟と他愛もない話をした。


弟とこんなに長く話すのは久しぶりだった。僕はつい、昔のことを聞いてみたりした。


「昔シークレットレアカード無くした時のこと覚えてる?」


「なにそれ?確かにカード遊びは少しやってたね。」


「お前のシークレットレアを取ろうとしたことがあるんだよ。」


「うそ?全然気づかなかった」


弟は笑った。カードのことはあまり覚えていないと、弟は言った。


「でも、その頃でいったら花火大会はよく覚えてるよ。ほら、僕がすごくいじけた日。」


「花火大会?いじけたっけ?」


「うん。色盲のせいで花火が全然見えなくて、悔しくて、泣いた。それでその後、ハナビに会ったんだよ。他の犬はみんな茶色なのに、ハナビだけ白くて。その日、僕にとって花火は色のないものだと分かったから、白い犬にハナビって名前をつけたんだ。」


初めて聞いた話だった。思えば、弟の話を聞く機会はあまり無かった。弟がどう思っているか、どう見えているか、僕はあまり知らなかった。


「ハナビは結構頭が良いと思う。お手は覚えなかったけど、人によって態度が全然違ったから、人の区別はできてたと思う。」


僕は以前ハナビのことを頭が悪いと評価した。それは違った。毎日散歩していた弟がこう言っているのだから。


「一度こけそうになった道は二度と通らない。夏の熱いマンホールは避ける。ガスおじのことは好きだけど、吠える。きっと僕がよくガスおじに泣かされていたからだね。散歩する時は僕の方をちらちら見るし、速度も合わせてくれる。草を食べて、歯磨きをする。フンをしたら教えてくる。なんでかな?」


火葬する時、弟は泣かなかった。期間がある程度あって、覚悟ができていたからだろうか。

そんなつまらない予想はやはり外れていて、弟は間もなくうめくように泣いた。昔みたいに、大口を開けてわめき泣くことはないが、瞬きをするたびに大粒の涙がはじけて落ちた。


「人はどうして、泣くことを我慢するようになるのかな。」


記憶の中のガスおじが、僕たち兄弟に優しく問いかけた。












記者の方に話をしながら、ガスおじのことを思い出す。

ガスおじは中学を卒業する前、どこかへ引っ越した。どこへ引っ越したのかも知らないし、以来一度も会っていない。


大人になった今考えてみても、「駄菓子屋のお菓子を盗むことは悪いことか」という問いに対して、答えを出せる自信がない。


今の弟なら、その答えをきっと出せるだろう。

弟は学者になった。



記者は締めくくるように、最後の質問をした。


「現在ご活躍されている弟さんのことを、どう思われていますか?」


真っ白な体の犬を、ハナビと呼んで可愛がっていた弟。


「とても誇らしく思います。」


僕は笑顔でそう言った。









おわり

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