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東方へ

「アレクサンドロス大王のペルシャ遠征が、中国「秦」の国力を充実させ、始皇帝による統一を実現させた。その余波は、弥生時代の日本にも及んだ(東方へ)」など、深くて渋い歴史的エピソード満載。意外性のショットガン。本格歴史エンターテーメントのエッセイ集第3弾!!


第1話「ムーサの都」


 かつてアトランティス島には

大型船が往来出来る幅500mの

運河を備えた、首都ポセイドニア

が栄えていた。船は金・銀・象牙

などの富をもたらし、神殿を満た

した。古代ギリシャの哲学者

プラトンが語った物語に興味を

持ち、実際にポセイドニアの

ような町をつくろうと思った男

がいる。在位わずか13年の間に、

ギリシャ・アラビア・ペルシャを

征服したアレクサンドロス

(BC356〜323年)である。


 マケドニアとギリシャに覇権を

確立したフィリッポス2世の王子

として生まれ、父が暗殺されると

20歳で即位。3年後にペルシャ

のダレイオス3世軍をイッソスの

戦いで撃破し、カナンのフェニキア

をも征した。


 BC332年11月、彼は

エジプトに軍を進め、ナイルデルタ

の西に、自らの名を冠したアレキ

サンドリア市の建設を命じた。

町は地中海に面した天然の良港

で、沖合いのバロス島が防波堤

となっていた。


 BC323年6月、アレク

サンドロスは熱病に倒れ、33年

の短い生涯を終えた。広大な帝国

は、マケドニアとギリシャを領有

したアンティゴノス朝、エーゲ

海岸のセレオコス朝、南シリアと

エジプトを領有したプトレマイオス

朝の3つに分裂した。


 アリキサンドリアはプトレ

マイオス朝の首都になった。

エジプトにあるとは言え、国の

支配層はギリシャ人で、100万

の住民の3分の2は自由ギリシャ

市民という、ギリシャ文化が濃厚

な都市だった。エジプト人は

被支配層として下積みに甘んじる

しかなかった。


 港にはポセイドン神殿の周囲に

倉庫や商館が建ち並び、ペルシャ人、

ユダヤ人、シリア人、アナトリア人、

アラブ人、フェニキア人、ヌビア人、

インド人、イタリア人、ゴール人、

イベリア人などが入り乱れた国際

貿易港になっていた。

 沖合いのバロス島には、高さ

112mの大灯台が建設され、

50km彼方の船にもその光は

届けられたと言う。この大灯台を

古代ローマのフィロが、7つの

偉大な建造物の1つとして称えた。

後に7不思議と呼ばれたが、

「景観」と訳すのがより適切だ

そうだ。


 アレキサンドリアの街は、最大幅

30mの道路が幾本も直交し、整然

とした

街並みを形作っていた。官庁や軍

関係の営舎の他に、図書館、博物館、

天文台、動物園、植物園などの学術

施設を備え、世界各国から学者や

芸術家が集まり、ヘレニズム文化の

華を咲かせた。


 アレキサンドリア図書館員は、

世界のありとあらゆる文化や言語

の本を求めて海外に赴き、本を

買い求めた。商船が入港すると、

本を借り受け書写したという。

その結果、物理学・天文学・地理学・

数学・生物学・工学・哲学・文学・

医学など、古代の叡智50万巻の

パピルス本が集められた。


 BC300年、プトレマイオス

1世は、アリストテレスの弟子・

デメトリアスの助言に従って、

アレキサンドリア学士院(ムーセ

イオン)を設立した。100人

余の研究者が、豊富な給与と研究

資金を与えられた学園だった。

ムーセイオンとは、芸術と学問の

女神ムーサ(ミューズ)を祀る場所

という意味で、ミュージアムの語源

となった。


 代表する研究者は、まず幾何学

を体系化した数学者のエウクレイデス

(ユークリッド)。オルガンや水時計

を発明したクテシオビオス。蒸気

機関の原型「気力球」や、ロボット

に関する「自動機械」を著したヘロン。

地球の円周を誤差200マイルで

測定したエラストテネス。神経と

脈拍を研究したヘロフィロス。

ルネサンス期まで医学書の聖典と

なる、治療と解剖に関する本を

著したガレノス。地動説を唱えた

アリスタルコス。コペルニクスは

「アリスタルコスを復活させ確認

した人」と呼ばれる。星座図を

作ったヒッパルコス。言語学の

ディオニソス・トラクス。大脳

生理学の先駆者ヘロフィロス。

そして浮力の原理や円周率の決定、

積分計算などで知られる物理学者

のアルキメデス。彼は人力クレーン

(揚水機)や、レンズを利用した

熱線銃も開発した。中でも陸軍の

歴史を変え、ローマ帝国躍進の

原動力になった「投石器」の発明

は特筆に価する。


 図書館ではビロニア語、フェニキア語、

エジプト語、ヘブル語の翻訳が重要な

仕事の1つだった。プトレマイオス2世

は、ヘブル語で書かれた旧約聖書の

ギリシャ語翻訳を命令。セプトゥア

ギンタ(70人訳聖書)が編纂された。

現在の聖書はすべて、これを各国語

に翻訳したものである。


 ムーセイオンでの研究成果が、

なぜローマ帝国での産業革命に

繋がらず、自動車や蒸気船・蒸気

機関車が走らなかったのか。主な

原因は、キリスト教徒の勢力拡大

にある。彼らは科学や芸術を

異教徒のしるしとして忌み嫌った

からである。ちなみに異端とは、

自分で考えるという意味の

ギリシャ語に由来する。


 BC30年8月12日、クレオ

パトラ7世の死によってプトレ

マイオス朝は終わった。しかし学都

アレキサンドリアは、ローマ帝国の

属領として充実し、新プラトン主義

などを創始。哲学の都として賢者を

集めた。


 AD47年ローマ軍がアレキ

サンドリアに乱入。図書館に放火

して大半の蔵書が焼かれた。その後

いったんは40万巻にまで回復した

のだが、288年にキリスト教徒の

暴動が起きて、ムーセイオンの

研究者や図書館員を惨殺。蔵書に

火を放ってパピルス5万巻を灰に

した。

 さらに640年にはイスラム教徒

がエジプトに侵攻。図書館の蔵書は

コーランに一致していない異端の書

とされ、パピルス100万巻は全て

焼かれた。古代の叡智はことごとく、

狂信者の手で火葬されたのである。


○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。


第2話「ユダヤ古王国」


 BC1200年頃、カナン

(パレスチナ)の人口は、4万

5千人程だった。周辺地域は

大動乱の時期で、鉄のヒッタイト

帝国やミケーネ文明・トロイア

文明などが次々に滅んでいった。

滅ぼしたのは「海の民」と呼ば

れる、アカイア人・カフトル

(クレタ)人・ペリシテ人などの

混成集団だった。

 ペリシテ人はカナン地方に、

アシュドド、アシュケロン、

エクロン、ガド、ガザの5都市

国家を征服し、ヒッタイトから

製鉄法を学んで重装歩兵と戦車

軍団で武装していた。


 この頃モーゼ〜ヨシュアが率いて

きたイスラエルの民は、シナイ半島

北部山岳地帯にあって、約束の地で

あるカナン平野部へ侵入する機会を

うかがっていた。だが遊牧の民で

あるイスラエルには鉄工がおらず、

ペリシテ軍とまともに戦える

ような状態ではなかった。


 BC1010年頃、ベニヤミン族

のサウルは2000〜3000人の

ゲリラ部隊を率いて戦うが、

ペリシテ軍の反撃にあい息子の

ヨナタン共々戦死する。そこに登場

するのが、ユダ族のダビデである。

妻はサウルの娘なのだが、ペリシテ

軍の巨人ゴリアテを倒すなど、数々

の武功をたてた人気者だった為、

サウルが嫉妬して殺そうとした

男だった。


 身の危険を察知したダビデは、

一族郎党600人を引き連れて

さっさとサウル軍を脱出。ペリシテ

軍の傭兵となって、隊商や異民族

部落を襲撃。盗賊の「お頭」として、

男女1人も生かし残さぬ「非道の

急ぎ働き」をしていた。殺らな

ければ殺られるという、苛烈な

時代であり地域だったという事

でもある。


 ダビデはヘブロンを根拠地にして、

ユダ・モアブ・ルベン・ベニヤミン・

ダン・エフライムの南方6支族を

統合してユダ王国の王となった。

一方サウルの子・イシュバールは、

マナハイムを根拠地にしてアシェル・

ナフタリ・ガド・マナセ・イッサカル・

セブルンの北方6支族を統合して、

イスラエル王国の王となった。


 7年半の南北朝時代の後、北朝の

イシュバールが殺害され、ダビデが

統一王朝の王となった。彼はまず、

ヘブロンとマナハイムの中間地点に

都を定める事にした。エルサレム

である。ダビデの奇襲部隊は、

ギデロンの谷の中腹にある地下水道

から城内に侵入し、エブス人の城塞

都市を陥落させたのである。


 ダビデはこの後、ペリシテの大軍

を撃ち破り、砂漠の民である南の

エドム人、東のモアブ人とアンモン人、

北のアラム人と戦って平定。フェニ

キアのティルス、シリアのハマト

とは友好関係を結んだ。フェニキア

船団はアフリカ、インド、地中海

世界から「金・銀・象牙・香料」

などの富を、イスラエルにもたらした。


 ダビデが40年間専制統治した後、

王権はその子ソロモンへと引き継が

れた。BC965年の事である。

ソロモンは軍を掌握して政敵を粛清

した後、エルサレムに神殿や宮殿を

建設させた。宮殿にはソロモンの妃

700人と側室300人が住んだと

いう。満足な武器も持たなかった

サウルの時代から、わずか70年後

の事である。


 ソロモンは39年統治して、BC

926年に没した。王国は再び南北朝

に分裂し、イスラエル王国全盛の栄華

は、一睡の夢と共に去った。北王国は

以後200年間に19人が王位に就き、

クーデターで9人が王位を追われ、

8人が暗殺か自殺に追い込まれた。

その内戦で国内は荒廃し、北方の

アッシリア帝国に再三にわたって

略奪を許した。


 BC721年、アッシリアの

サルゴン2世軍は、北王国の首都

サマリアを3年間包囲して兵糧攻め

にした後陥落させ、住民全てを奴隷

として連れ去った。貴族階級約2万

7千人は、「ハラフとハホル、

すなわちゴザンの川のほとりメディア

の町に置いた(列王記下18章11)」

とある。現在のイラク北西部・クルジス

タン地方である。彼らを「イスラエルの

失われた10支族」と呼ぶ。


 メソポタミアからエジプトまでを

支配したアッシリア帝国も、BC

612年新バビロニア王国によって

滅ぼされる。この時北王国で捕囚

された人々も解放され、農民層は

南王国ユダに帰還したという。


 一方、捕囚地メディアから北へ

向かった集団もある。彼らは

黒海沿岸からクリミア半島に至り、

数多くの墓を残している。その後

スキタイ人らと行動を共にして、

カスピ海北部から東へ向かったと

伝えられている。


 一方、アッシリアに臣従した

南王国ユダは、ダビデの子孫を

王位に就かせて命脈を保っていた。

ユダ王国には、日本の「万世一系」

に近い理念があったという。だが

首都エルサレムのヤハウエ神殿

にはバール神が祀られ、ソロモンの

栄華は遠い過去のものになっていた。


 北王国イスラエルの滅亡から

135年を経たBC586年。

新バビロニアのネブカドネザル

2世軍がエルサレムを包囲。ユダ王

ゼデキアは、エジプトと同盟して

1年半抗戦したが遂に落城。

エルサレムは神殿も宮殿も城壁も、

徹底的に破壊された。ゼデキアの

前で子供たちが殺され、彼は目を

えぐられて住民と共にバビロンに

連行された。


 バビロン捕囚から50年後の

BC538年。アケメネス朝

ペルシャをうち建てたキュロス王

が、バビロンへ無血入城して

新バビロニアが滅亡。ユダヤ人は

解放され、帰国が許された。だが

パレスチナもペルシャ領となり、

アフラ・マツダの神がオリエント

全域を支配。ユダヤ人国家の建設

は夢のまた夢となっていた。


○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。


第3話「ユダヤ人史」


 大相撲で力士が土俵に塩を撒く。

連敗中の阪神がベンチの隅に塩を

盛る。この塩が、清めの為だと理解

出来るのは、日本人の他にはユダヤ

人なのだそうだ。


 ユダヤ人といえば、第二次世界

大戦中、ナチス・ドイツに600万人

以上虐殺された、悲劇の歴史を持つ

民族である。戦後、地中海東岸カナン

の地にイスラエルを建国して以来、

地元パレスチナ住民との間で、血の

抗争を続けている民族である。


 とまあ、この程度の事なら知って

いるのだが、いざユダヤ人とはいか

なる民族で、どのような歴史や文化

を持つ民族かという事になると、

はなはだ心もとない。


 そもそもは、創世記に登場するノア

から祝福されたセムの曾孫・エベル

の子孫全体を指して「ヘブル人」と

言った。その子孫の1人にアブラハム

がいる。遊牧民の長・アブラハムが

カナンの地を訪れた時、「わたしは

あなたの子孫にこの地を与えます

(創世記第12章7)」と、主が言った

事から物語は始まる。


 アブラハムの大神権は、イサク、

ヤコブへと継承される。ヤコブは

自らの名を「イスラエル」と改めた。

このヤコブの子孫全体を指して、

「イスラエル人」と言う。ヤコブ

には12人の子供がいた。ルベン、

シメオン、レビ、ユダ、セブルン、

イッサカル、ダン、ガド、アシェル、

ナフタリ、ヨセフ、ベニヤミンで

ある。彼らはそれぞれ12部族を

形成し、12領地に分かれて住んだ。

紀元前1400〜1200年頃の事で

ある。


 紀元前1000年頃、英雄ダビデ

とその子ソロモンによる古代イスラ

エル王国が建設され、栄華を極める。

都はエルサレムに定められた。

ソロモンの死後、王朝は「北王国

イスラエル」と「南王国ユダ」に分裂

する。ユダヤ人とは、基本的には

南王国の子孫の事である。


 紀元前722年。北王国の首都

サマリアは、サルゴン2世のアッシリア

軍に、3年間の兵糧攻めの末に降伏した。

イスラエルの10部族は、捕虜として

アッシリアの首都・ニネヴェに連行

され、苦役に従事した。

(列王記下第18章11)


 それから100年後の紀元前612年。

アッシリアは、スキタイ騎馬民族を

主力とする新バビロニア・メディア

連合軍によって滅ぼされ、イスラエル

の捕虜も解放される。彼らは

「イスラエルの失われた10部族」

としてスキタイ軍と行動を共にし、

シルクロードを東へ東へと移動して

ゆく。


 アフガニスタン王室は、イスラエル・

ベニヤミン族の伝統を持つと言われて

いる。国名は、ダビデ・ソロモン時代

に生きたエレミアの子「アフガナ」に

由来するという。アフガニスタン、

パキスタン、インド、イランに在って

パシュトゥ語を話すパタン人は、自らを

「バニ・イスラエル(イスラエルの子孫)」

と呼んでいる。


 彼らは他にも、インド・カシミール州

やミュンマー、中国、シベリア、そして

おそらく日本へもやって来たと考えられて

いる。日本に来た部族の代表が「秦氏」

である。


 一方、南王国ユダだが、紀元前586年

にネブカドネザル王の新バビロニア軍に

滅ぼされた。首都エルサレムの宮殿や

神殿はことごとく焼失し、住民の大部分は

捕囚され、バビロニアに連行された。

これが有名な「バビロン捕囚」である。

ユダヤ人はこれ以降、国を失った民族

として世界中に離散する事になる。


 ユダヤ人は旧約聖書を精神の糧として、

生き残る為に貿易・商取引・金融業を

行なった。だが異邦人でありユダヤ教徒

の彼らは、特に中世ヨーロッパのキリスト

教社会で、たびたび虐殺や迫害の対象と

なった。1096年ドイツ十字軍による

虐殺をはじめとして、イギリス、フランス、

ハンガリー、オーストリア、スペイン

などで虐殺や追放が相次いだ。


 ユダヤ人居住区は、イタリア語で

「鋳造所」を意味する「ゲットー」

と呼ばれ、隔離され厳重な見張りの

もとで、劣悪な暮らしを強制され

た。ゲットーが撤去され、ユダヤ人

解放・市民権獲得が成されるのは、

フランス革命やアメリカ独立以降の事

である。


 ユダ王国滅亡後、カナンの土地には

1900年間、アラブ・パレスチナ

人が住んでいた。第二次大戦直後まで、

イギリスの支配地だった。戦争の終了

と共に、大量のユダヤ人難民がパレスチナ

を目指した。だがイギリスは上陸を拒否。

怒ったユダヤ人の対英テロ活動により、

ついにイギリスはパレスチナ支配を放棄。

1947年11月29日の国連総会は、

パレスチナ分割案を採択し、翌1948年

5月14日、ベングリオン初代首相が

独立宣言を朗読してイスラエル国家が

樹立する。


 だがその8時間後には、エジプト軍機

の空爆により第一次中東戦争が勃発。

イスラエルが勝利して、パレスチナ住民

は難民となる。この難民キャンプから、

パレスチナ・ゲリラが誕生するのである。

その後の戦いは、出口の見えない絶望的

状況に及んでいる。


 イスラエルの首都・エルサレムは、

平和の都という意味のヘブル語で

あるという。日本語に訳せば「平安京」

となる。平安京も相次ぐ内乱で荒廃した

歴史を持つ都だったが、カナンの地に

真の平和が訪れるのはいつの日になる

のだろうか。


○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。


第4話「ユダヤ受難史」


 1923年に発行されたドイツの

新聞「突撃者(デア・シュチュルマー)

をヒトラーは特に好んで、隅から隅

まで読んだと語っている。


「ユダヤ人と南京虫はおたがいに

ひどく似通っている。どちらも害虫

なのだ。どちらも常にまずぼろと

古着の間から出てくる。彼らは東方

からわれわれのもとにやって来た・・」

とは、繰り返される反ユダヤ宣伝の

ほんの一節である。


 殺人は相手が同種の場合、殺しの

抑制機能が強く働くという。だが

相手を「異種」と見なすと、心理的

すり替えというかごまかし作用に

よって、攻撃行動が大胆に起きやすく

なるという。キタナイモノ(汚物)や

カワッタモノ(異物)を無価値だと

「主観的に思い込む」と、抹殺の

対象にすりかわるのである。

人間ならば殺す事をためらうが、

南京虫ならばサイクロンBのような

青酸系殺虫剤で殺してもかまわない

というわけである。ただしこの毒物、

本当に人間が殺せるかどうかには

多少の疑問があるのだが。


 第二次世界大戦中、ナチス・

ドイツ政権下において、ユダヤ人、

シンティ・ロマ(ジプシー)、精神

障害者、身体障害者、エホバの証人

信者、同性愛者などの絶滅計画が実行

された。ギリシャ語で「焼き尽くす」

という意味の、「ホロコースト」。

ヘブル語では「ショアー」と言う。

 彼らはポーランドのアウシュビツ

など、各地の強制収容所に連行され、

ブロイラーの鶏でさえ味わわない

ような劣悪な環境の小屋に押し込め

られ、飢餓と寒さの中で衰弱死するか、

病に犯され、あるいは銃殺され、

死んでいった。死体を焼く焼却炉は

フル稼働。その炎の中に、生きたまま

の赤ん坊や子供が投げ込まれたという、

アウシュビツ収容所体験者の証言も

ある。犠牲者数は約600万人と

されている。


 ユダヤ人やロマ人に対する迫害は、

ナチス・ドイツが初めてではない。

ヨーロッパ社会のいたる所で、少なく

ても1000年以上にわたって執拗

に繰り返されてきた。なぜ? ユダヤ人

に関する限り、理由は明確である。

彼らはキリスト教徒にとって、イエス

を十字架に架けた悪魔だからである。

悪魔ならば、戦って抹殺する事こそ

正義だからである。


 その根拠は聖書にある。ヨハネに

よる福音書8−44.イエスはユダヤ人

と問答して言う。「あなたがたは自分

の父、すなわち悪魔から出てきた者で

あって、その父の欲望どおりを行おう

と思っている」


 あるいはマタイによる福音書27−

24。イエスを釈放しようとするピラト

に対して、ユダヤ人たちが言う。

「その血の責任は、われわれとわれ

われの子孫の上にかかってもよい」と。


 ユダヤ人たちはイエス刑死後、当時

の支配者ローマ帝国に対して反乱を企て

た。紀元67年春、ローマ軍精鋭3万

5千がガリラヤへ出兵。4万人を殺し、

1万2千人を奴隷にした。3年後には

エルサレムを包囲し、ギスカラのヨハネ

率いる城兵1万5千人を皆殺しにした。


 戦火をかろうじて逃れた老若男女

960人は、エルサレムの南100km

にある「マサダの要塞」に立てこもった。

ここはイスラエル王ヘロデが、エジプト

軍の侵攻に備えて、兵1万人分の武器と

貯水地を整えた、四方が切り立った断崖

という堅固な陣地だった。だが3万の

ローマ軍の猛攻により、エリアザル以下

全員が玉砕して果てた。


 後年マサダの要塞から、彼らが最期に

読んでいたであろう、羊皮紙の旧約聖書

「エゼキエル書37章」が発掘された。

「主はわたしを主の霊に満たして出て

行かせ、谷の中にわたしを置かれた。

そこには骨が満ちていた。彼はわたしに

谷の周囲をゆ行きめぐらせた。見よ、

谷のおもて面には、はなはだ多くの骨が

あり、皆いたく枯れていた。彼はわたし

に言われた、


「人の子よ、これらの骨は生き返ること

ができるのか」。わたしは答えた。

「主なる神よ、あなたはご存じです」。

彼はまたわたしに言われた。「これらの

骨に預言して言え、枯れた骨よ、主の

言葉を聞け、主なる神はこれらの骨に

こう言われる。見よ、わたしはあなたが

たのうちに息を入れて、あなたがたを

生かす。わたしはあなたがたの上に

筋を与え、肉を生じさせ、皮でおおい、

あなたがたのうちに息を与えて生かす。

そこであなたがたはわたしが主である

ことを悟る」


 エルサレムが陥落し、マサダの要塞

は玉砕。残された約10万人のユダヤ人

は、土地を追われて離散した。農業や

牧畜を奪われた彼らは、やむなく貿易や

商取引を生業とした。巨大なキリスト教

国家のビザンチン帝国内では、ユダヤ人

に対し再三にわたって強制的な改宗命令

が出された。


 1096年第一回十字軍で、半狂乱の

ドイツ兵は、ヨーロッパ諸都市のユダヤ

人を虐殺。1099年エルサレムに侵攻

したフランス十字軍兵は、約7万人の

ユダヤ人とアラブ人を虐殺した。

1147年の第二回十字軍では、

北フランスのユダヤ人が血祭りに

あげられた。十字軍は第八回まで行われ、

各地で虐殺の嵐が吹き荒れた。


 1290年イギリスで、ユダヤ人

追放令が出された。彼らは着の身

着のまま、やむなく東ヨーロッパ方面を

目指した。1306年にはフランスでも

ユダヤ人追放令が発布された。

 1347年10月イタリアのシシリー島

で、ネズミが媒介したペスト菌によると

考えられる「黒死病」が発生。3年間で

北極圏まで広がり、ヨーロッパ人の

半数が死亡した。原因は「悪魔の子

ユダヤ人」と噂され、200以上の

ユダヤ人集落が抹殺された。


 ユダヤ人ではないが、噂によって抹殺

された人々がいる。1321年6月21

日フランス国王フィリップ5世の勅令に

より、フランス全土のハンセン病患者が

焼き殺された。全住民を殺す毒を用意し、

世界を支配する陰謀を企てたというのが、

その理由だった。そういえばユダヤ人

にも、世界支配の陰謀という噂は常に

ついてまわる。


 1355年スペイン・トレドで

1万2千人のユダヤ人虐殺。1349年

ハンガリーにユダヤ人追放令。1420年

フランス・トゥールーズでユダヤ人虐殺。

1421年オーストリアにユダヤ人追放令。

1492年スペインから18万人のユダヤ人

追放。1495年リトアニアからユダヤ人

追放。1497年シシリー王国・サルジニア

王国・ポルトガルからユダヤ人追放。

スペインにはユダヤ人追放の為の異端

審問所が設置され、以後300年間存在

した。1502年ロードス島のユダヤ人

追放または改宗。十字軍以前推定150

万人だったユダヤ人は、15世紀には

追放と虐殺によって30万人程になった

という。


 さてユダヤ人たちは、プロテスタント

系国家のオランダや、イギリス支配の

北アメリカに逃れた。また、十字軍と

戦ったハンガリア、ボヘミア、モラヴィア、

オーストリア諸侯が同盟し、ユダヤ人

保護政策をとった。しかし1727年

ロシアがユダヤ人追放を決定。以後

ロシアの大弾圧は続いた。


 ゲットーとは、イタリア語で「鋳造所」

を意味するユダヤ人居住区の事である。

彼らは隔離され、見張られ、黄色い

バッチをつけさせられ、不衛生な環境

の中で生存ぎりぎりの生活を余儀なく

されていた。脱走や反抗は死を意味した。

ある意味では、死だけがこの世の地獄

からの解放と言ってもよかった。


 1789年7月14日のフランス革命

は、ゲットーの撤去も目的のひとつ

だった。1776年にはアメリカも独立。

多数のユダヤ人が、新天地アメリカへ移住

した。彼らは経済活動において突出した

成功をおさめ、銀行と穀物メジャー、

石油資本など、アメリカの主要産業を

牛耳るに至る。1897年にはユダヤ殖民

信託とユダヤ国民基金を設立し、第一回

シオニスト会議を開催。パレスチナの地

にユダヤ人国家を建設すべく活動を開始

した。


 ロックフェラー、ロスチャイルド、

モルガンなどのユダヤ系財団は、日露

戦争の外債を引き受けて日本を支援。

一方ロシア革命勢力をバックアップして、

1917年に帝政ロシアを崩壊させた。

これによって500万人のユダヤ人が

ゲットーから解放されたという。


 そしてナチス・ドイツの出現である。

ナチズムとは何かを煎じ詰めてゆくと、

主としてカトリック教徒の間で信じ

られている「ユダヤ人は悪魔だ」と

いう、主観的な思い込みにたどり着く。

ユダヤ人という対象が問題なのでは

ない。一方を信じ、他方を敵と見な

した時、そしてその信念が強ければ

強い程、悪魔の思うツボにハマる

わけである。


 ユダヤ人の敵は、第1にアメリカ・

ヨーロッパのキリスト教徒。第2に

ロシア正教徒。第3にイスラム教徒で

ある。歴史的に見て、これだけの

仕打ちを受ければ恨み骨髄だろう。

どうすれば復讐できるのか。簡単な

事だ。もっともらしい思想や信条を

植え付けて、お互いを敵対させ、殺し

合わせればいい。ユダヤ人マルクスが

蒔いた種は、その効果を十分に発揮

した。対イスラム戦争は現在進行

中だ。しょせん彼らはアッシリアや

新バビロニアの末なのだ。1941年

にバグダッドで虐殺された180人の

事は記憶に新しい。


 人類がもう少し賢くならないと、

何度でもナチスは蘇り、悪魔の楽しみは

無くならないという事のようだ。


○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。


第5話「(はた)家の一族」



 日本が大陸と地続きだった頃、

シベリアからやって来た部族が縄文人

になった。インダス文明の航海者たち

の末裔も、ベトナムやインドネシア

から黒潮に乗って日本へやって来た。

彼らは弥生文化をもたらし、海人

(あま)族と呼ばれている。


 中国大陸や朝鮮半島からも、さま

ざまな部族が日本へやって来た。

全国に多くの古墳を残した権力者も、

この中に含まれている。彼らは

スキタイ民族を遠祖とする、遊牧

騎馬民族だった。


 ギリシャ人が「スキタイ」と呼んだ、

強大な軍事力を持つこの民族は、北方

イラン語系のアーリア人種で、

ペルシャではサカ族と呼ばれた。

インドでは「シャカ」と呼び、

西インドに王朝を興した。悟りを

開いて仏陀(真理に目覚めた者の意)と

なったゴータマ・シッタルダは、

シャカ族の王子だった。


 黄金文化を持つイラン系サルマタイ人

も、シルクロード交易商人で仏教徒の

ソグド人も、スキタイの末裔である。

中国では「(さく)」とか「烏孫

(うそん)」の名で呼んだ。この部族の

一支流が、アルタイ山脈から敦煌・

酒泉を勢力範囲とした「月氏(大月氏)」

である。


 また、モンゴル草原地帯を勢力範囲と

した、アルタイ系の匈奴(きょうど)族、

ツングース系の鮮卑(せんぴ)族、朝鮮

半島北側の烏桓(うがん)族、トルコ系の

突厥(とっけつ)族なども、スキタイ系

民族の末裔だった。


 応神天皇在位の頃というから、紀元

240年前後の頃、弓月君(ゆづきのきみ)

に率いられた120(あがた)の民が、

大挙して日本に渡来した。一県1000人

としても、12万人という数になる。

彼らは一族を「(はた)」と称し、朝鮮

半島の新羅から、加羅(から)(伽耶韓国・

かやかんこく)を経て、新天地・日本に

定住してゆく事になる。


 秦は「はた」の他に「しん」とも読む。

春秋戦国の乱世を征して、紀元221年、

中国西方の「しん秦」が統一王朝を樹立

した。王の名は政。彼は始皇帝と称した。


 秦一族の故郷はこたん巨丹(現・

新疆ウイグル自治区ホータン)である。

漢民族ではない。シルクロード交易の地

であり、早くから鉄や銅の冶金技術を

得て、農具や武器に取り入れていた。

また、絹や綿の紡績に優れていた。

 秦は兵馬傭坑の顔立ちかが示すように、

多民族国家だった。秦が滅び漢民族国家

が台頭すると、秦の人々は諸方に散った。

朝鮮半島にも「柵外の人」という意味の

秦人(はたびと)」が、大量に流入した。


 秦一族は山城国(京都府)葛野(かどの)

郡を本拠にして、養蚕・紡績業に従事

した。琵琶湖西岸の広大な野には、

後に平安京が建設される事になる。

秦酒公は朝廷から「うずまさ」の姓

を与えられ、「太秦」の字をあてた。

太秦をどう読んでも「うずまさ」とは

読めない。中国ではローマ帝国を大秦

と呼び、長安の大秦寺が景教(キリスト教)

寺院であり、ヘブライ語の「イエス・

メシア」が北インドあたりまで来ると

「ウズ・マシャ」と発音する事から、

秦一族とユダヤ教の関係が取り沙汰

されている。シルクロード的文化の混沌

を思うと、有り得る話だろう。


 秦氏は、近畿一帯の他、関東地方では、

相模国(神奈川県)大秦野・武蔵国

(東京都・埼玉県)八王子・飯能・秩父・

下野国(栃木県)足利などに土着して

いった。

 秦氏はまた、なぜか神社の建立に

力を入れた。松尾神社系、稲荷神社系、

平野神社系は秦氏直系である他、

白山神社系は秦支族の三神氏が、

賀茂神社系は秦支族の賀茂氏、八幡宮

系は秦支族の辛島氏が創建している。

八幡は「やはた」とも読むが、これは

「多くの秦氏がいる」という意味で

ある。さらに金毘羅宮系の神社は

旗宮(はたのみや)」と呼ばれていた。

旗は秦に通じている。つまり、日本の

主要な神社の創建には、すべて秦氏

一族が関わっていると言ってもよい

のである。


 日本にとって秦氏が重要なのは、

その支族の中に「中臣(なかとみ)氏」

がいる事による。645(大化元)年の

大化の改新クーデターを成功させ、

内臣(うちつおみ)として国政改革に

あたった中臣鎌足は、藤原の姓を賜り

藤原氏の大祖となった。藤原氏は、

天皇家と密接な姻戚関係を結び、表は

天皇家、裏は藤原家という歴史を

つくっていくのである。


 藤原一族は、一条・二条・三条・

四条・九条・徳大寺・西園寺・近衛・

中山・芝山・高倉・松園・青山・

足利などの公家。宇都宮・菊地・

上杉・伊達・織田・林・山内・桂・

石原・岡本などの武家。佐藤・伊藤・

近藤・齋藤・工藤・須藤・後藤・

加藤や、藤田・池田・山田・竹田・

千田・赤塚などの32藤152家の

支流をつくってゆく。


 日本人が「シルクロード」という

言葉から感じる、親しみとロマンと

望郷にも似た思いは、ユーラシア大陸

を西から東へと旅してきた、遠い記憶

への郷愁なのかもしれない。


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第6話「海」


 今から3万2千年前の、南フラ

ンス・オーリニャック文化。洞窟

に船の絵が数多く描かれていると

いう。人間は水に浮かぶ木を見て、

川や湖を渡る道具として船を発想

したのだろうが、海へ漕ぎ出した

のはいつ頃からなのだろうか。


 BC5000年頃メソポタミア

南部に定住したシュメール人は、

葦船を巧みに操り、インドと交易

を行う海洋民族だった。エジプト

と交易をした木材構造船は、主帆

1本、三角帆1本のチーク材・約

30トンの船だった。


 インドネシア人も外洋航海に熟達

していた。アウトリガーという浮材

を本体の両舷に装備した帆船で、

南太平洋の島々を往来し、インド洋

を渡ってアフリカ東海岸やマダガスカル

に到達した。マダガスカル原住民は、

インドネシア系の人々である。


 BC2000〜1628年に栄えた

クレタ文明も、地中海世界の海洋王国

だった。文明はBC1628年の

サントリーニ島火山の噴火による

大地震と大津波で滅んだが、航海術

はカナン(パレスチナ)のフェニキア人

に受け継がれた。


 トルコ南部ウル・ブルン沖の水深

43mの海底から、BC1400年

頃の難破船が発見された。全長15m

の木造帆船で、鈴1トン・銅のインゴット

200個(27kg)・アフリカ産黒木の

丸太・ワイン壷100個・青ガラスの

インゴット・ザクロの種・メソポタミア

の円筒印章・ミケーネ製の酒杯・琥珀

のビーズ・銀製ブレスレット・水晶の

円筒印章・ダチョウの卵の殻・象牙・

黄金製スカラベ・カバの歯・剣・短剣・

矢尻・円形鎌の刃・手斧・線文字Bの

木製書版など、6千点の積荷があった。


 当時の貿易船団は、クレタ人・

ミケーネ人・ケルト人・フェニキア人・

ユダヤ人・アラブ人・エジプト人など、

多国籍な乗組員で構成されていた。銅

はキプロス島で算出され、錫は

イギリス・コーンウォールが原産地

だった。金はアフリカのスーダンや

ジンバブエ。乳香は南アラビア・シバ

王国から。香料はインドからと、広大

な地域に海洋貿易の航路があった。


 フェニキア人は特に「海の遊牧民」

と言われる、古代世界最優秀の航海者

集団だった。海中の泉から真水を採集

する術も心得ていた。ソロモン船団の

主力で、「紅海から東アフリカを南下

し、3年目にヘラクレスの柱(ジブラル

タル海峡)を回ってエジプトに帰って

きた」と、ギリシャの歴史家ヘロ

ドトスがアフリカ周航の事実を記して

いる。


 彼らは他にも、北アメリカ・

メーン州モンヒーガン島にケルトの

オガム文字、ポリネシア碑文に

カルタゴ文字を残している。さら

には朝鮮石壁文字や鳥取県国府町

今木神社石碑、静岡県水窪町の

水窪石(神代石)などに、似たような

痕跡を残している。


 1513年にトルコのコンスタン

チノポリス(イスタンブール)で発見

された「ピリ・レイスの古地図」

には、南極に氷冠のない時期(BC

13000年以前)が描かれている。

古地図は球形三角法を用いて描かれ

ている。それは紀元前後に栄えた

アレキサンドリア図書館の蔵書を

写したものとされている事から、

氷河期の頃、高度な知識と航海術

で極地を測量し、地図を作成した

人々がいたのではないかと推測

出来る。そうした知識がクレタ人・

フェニキア人へと伝承されていた

のかもしれない。


 一方日本という海に囲まれた島国

だが、縄文集落である三内丸山遺跡

から、黒マグロやクジラの骨が発見

された。あの巨大な生き物を捕獲し、

持ち帰るのに必要な船が、単純な

丸木舟であろうとは思えない。

さらに縄文人は黒曜石を求め、

あるいは交易の為に伊豆諸島あたり

にも船出している。アイヌ民族は

沿海州の民と「さんたん山丹貿易」

を行っている。少なくとも古墳時代

の埴輪に見られるような準構造船を

想定しない限り無理があるだろう。


 日本列島はフィリピン沖から台湾、

種子島から紀伊半島を経て三陸沖に

至る黒潮と、長崎沖から日本海を

北上する対馬暖流、カムチャッカ

半島から北海道を南下して三陸沖に

至る親潮という主要な海流がある。

黒潮の幅は100〜150km。

平均2〜3ノットというから、

自転車並みのスピードで流れて

いる。黒い大河のようなので、

江戸時代には「黒瀬川」と呼ばれ

ていた。


 この海流の影響で、ベトナムや

中国から来た船は、種子島か長崎県

五島列島あたりによく漂着した。

朝鮮半島から対馬を経て日本を

目指した船が、島根県や京都府

丹後半島あたりまで流される事も

よくあった。古代史は海流によって

つくられたとも言える。


 1543(天文12)年、中国の

ジャンク船に同乗していた3人の

ポルトガル人が、種子島南端の

門倉崎付近に上陸した。島主の

種子島ときたか時尭は彼らを

手厚く迎え、2丁のアルケビュース

火縄銃を2000両で譲り受けた。

刀工の八板金兵衛は、1年足らずで

鉄砲製造に成功。これをうけて

紀州根来寺の津田監物が、刀工の

芝辻清右衛門に製造を命ずる。

鉄砲は僧兵の根来衆や雑賀衆を

生み、堺商人と国友鍛冶によって

大量生産され、織田信長を

はじめとする戦国大名に普及して

ゆくのである。


 この時、種子島と紀州を結ぶ

のが黒潮である。船は3日あまりで

この2ヶ所を結ぶのである。陸路

では地の果てのような熊野という

地は、海上交通の要衝として、

神武天皇の頃から歴史に登場する

のである。

 古代から18世紀頃まで、風と

潮まかせの船のスピードは、平均

2〜3ノット、順風で4ノット程度

だった。大海原を自転車で行くが

如しだったのである。ゆったりとした

時間の中で、航海者たちは海中の魚

たちと語り合い、夜空の星に神々の

世界を見てきた。海は航海者たちの

見果てぬ夢で満ちている。


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第7話「人間誕生」


 「人間だけはどうしても私の

進化論では説明出来ない」と、

チャールズ・ダーウィン(1809〜

1882)は嘆いた。確かに人間

も進化論も、何かおかしい。


 そもそも猿とは5500万年前に、

地ネズミが木に登って手を発達させた

のが始まりだという。中国湖南省

からは、5500万年前の霊長類

化石骨が、ミャンマー中西部からは

4000万年前の真猿類の頭部が発見

されている。キツネザルやメガネザル

などの原猿類、真猿類はこの頃から

生息していたとみてよい。


 チンパンジーやゴリラ、オラ

ウータン、ニホンザル、クモザル

などの類人猿は、3400万年前に

登場したものと思われる。しかし

それ以来、これといった進化は

していないように見える。

 アフリカでチンパンジーと猿人

が分かれたとされるのが、DNA

分析でおよそ700万年前の事。

以来人間は、数回にわたる大突然

変異を行い、現在の文明生活を

営んでいる。種における変化には、

何千万年から1億年かかるはず

なのにである。カブトガニやクラゲは、

2億年前の古生代から変わらぬ姿で

今日まで生き延びている。人間の

進化は異常に早いのである。


 700万年前、直立二足歩行の

アルディピテクス・ラミダが草原で

生き残れたのは、石器を武器にして

狩猟を行ったからなのかもしれない。

人間がいつ頃から石器を使っていた

のかについて、興味深い発掘がある。

アメリカ・カリフォルニア州テーブル・

マウンテンから、人間の顎の骨と石器、

マストドンの歯が出土した。地層の

年代は900万年前の可能性を示して

いるという。


 250万年前の東アフリカに、

アウストラロピテクス・ガルヒ

(ガルヒ猿人)という新種が登場する。

脳容積は40CC前後。骨の状態から、

言語は話せなかったと思われる。


 200万年前、地球は氷河期に突入。

北緯40〜90度の平均気温は、現在

の25℃に対して15℃以下という

厳しいものだった。直立歩行と道具の

使用、そして寒冷化という環境の

フィードバックなのか、160万年前

には脳容積900〜1000CCのホモ・

エレクトゥスへと進化する。わずか

200万年の間に、脳容積を2倍以上

大きくするという大突然変異と言える。


 ホモ・エレクトゥスはアフリカに

生まれ、ヨーロッパからアジアへ旅

したものと思われる。ジャワ原人や

北京原人も仲間であり、火を使用し

毛皮を着て防寒対策とした。現在

発見されている最古の暖炉跡は、

イスラエルの79万年前の地層で、

オリーブやぶどう、大麦も出土して

いる事から、栽培が行われ、穀物

を蒸し焼きにし、ワインを醸して

いた可能性もある。


 日本では埼玉県秩父市田村の

小鹿坂(おがさか)遺跡」から、

建物の柱穴と石器30個が出土。

50万年前の多摩ローム層最下層で

ある。柱穴という事は、木造建築の

住居があったことを意味している。

洞窟に住んでいたというイメージは

改めたほうがよさそうだ。


 そして今から約30万年前、現代人

の祖となるホモ・サピエンスが出現する。

細胞中のミトコンドリアを娘から母、

祖母とたどってゆくと、人類はアフリカ

生まれの最初の母親「ミトコンドリア・

イブ」にたどりつくという。その年代

の上限は30万年だという。


 最初の母親などと表現されると、

ミトコンドリア・イブの母親は誰なのだ?

という疑問が湧きあがる。そこで思い

浮かぶのは、創世記1章26節の「われ

われのかたちに、われわれにかたどって

人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、

家畜と、地のすべての獣と、地のすべて

の這うものとを治めさせよう」という

章句である。


 創世記の原典と思われるメソポタミア

神話の1つ、アッカド叙事詩「アトラ・

ハシス」では、科学者エンキが助手の

ニンティと共に、血から抽出した

「テエマ」と精液を容器の中で混ぜ、

エンキの妻ニンキの子宮へ移植し、

新しく生まれ出たもの「アダム」の

誕生を喜ぶという物語がある。


 1978年のイギリスで、12年の

失敗を経て初の試験管ベビーが誕生

する。成功したのは、卵子と精子を

混ぜ合わせる際、血液から抽出した

「血清」を加える事だった。この事実

をふまえて改めてアッカド神話を読むと、

テエマとは血清の事だったのかと、

ようやく理解出来るのである。


 果たして今から20〜30万年

前に、創世記に語られているような

「神々」が存在し、アダムとイブを

創造したのかは謎としか言えない。

それと共に謎なのは、現代人の脳容積

が1350〜150CCであるのに対し、

クロマニオン人は1600CC前後、

ネアンデルタール人は162CC前後

なのである。現代人は初期ホモ

サピエンスより退化したのだろうか?


 創世記の「人間が全ての動植物を

治める」という記述は、傲慢かと思った。

だが開発によって自然を破壊し、その

誤りに気づいて自然のメカニズムを理解

し、復興再生への努力を続ける取り組み

を見聞きすると、生かすも殺すも人間

次第という思いに至る。

 そういう自然の統括者としての人間、

という視点に立って改めて人間存在を

見つめ直すと、なぜ生存競争に必要な

視聴覚や臭覚を発達させずに、絵画や

音楽、宗教などの情緒的・感覚的能力

を発達させてきたのかがわかるような

気がする。自然を愛でる感性は、人間

を人間たらしめていると言えるだろう。



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第8話「聖書」


 夢枕獏の小説「陰陽師(おんみょうじ)

で、安倍晴明が「(しゅ)」について語る。

呪とは、ものを縛ること。ものの根本的

な在り様を縛るというのは「名」だと。

名が最も短い呪であるならば、名を連ね、

語り継がれ、読み継がれてきた物語には、

強力な呪力があるのだろう。


 中でも聖書の呪は根深い。20世紀末

にイラクからイスラエルに向けて撃ち

込まれたミサイルの理由を説明する為

には、今から約4000年前のアブラハム

から語らなければならないのだから、

ややこしい事この上もない。


 聖書は神がこの世界を創造した

「創世記」に始まる。原典はシュメール

の創世神話である。征服王朝である

バビロニア王国やアッシリア王国も、

創世神話は7枚の粘土板に、一字一句

修正せずに伝承した。7枚目は神への

賛歌である。イスラエル人もこの点は

同様だった。ただし神は、7日ではなく

「7段階」に分けて世界を創造したと

訳すのが適切なようである。


 創世記はアダムとイブの物語、ノア

の大洪水へと続く。シュメール原典で

アダムは、完全なる人間アダパとして

登場する。大洪水はギルガメシュ神話が

原型なのだろうが、イスラエルバージョン

はバビロニア、アッシリア、パレスチナ

などの民族伝承が混じりあった結果の

物語と思われる。


 大洪水の後、主人公は族長アブラハム

となる。彼は20世紀に考古学的発見が

相次ぐまで、伝説上の人物だった。

1923年イギリスのチャールズ・

レオナル

ド・ウーリーが、ユーフラテス川河口

を発掘し、シュメール文明の首都・

ウルを確認。1933年にはフランスの

アンドル・パロが、BC2000〜

1700年頃に栄えたマリ王国の首都・

マリを発掘。出土した粘土板により、

ハランの町が確認された。他にも

シリア遺跡の「エマル文書」や、

チグリス川東の「ヌジ文書」といった

粘土板によって、アブラハム時代の

史実が明らかになってきたのである。


 BC1720〜1570年の150

年間、エジプトはセム系ヒクソス

(ヒッタイト)の異国人が支配していた。

イスラエル人のヨセフがエジプトの

副王になったのは、おそらくこの

期間の事だろう。BC1570年に

ヒクソスが追放され、エジプト第18

王朝が成立すると、イスラエル人は

奴隷的身分に落とされた。この同胞を

率いてエジプトを脱出し、カナン

(パレスチナ)の地に導いた指導者が

モーセであり、詳細を記したのが

「出エジプト記・レビ記・民数記・

申命記(荒野の書)」である。モーセが

神から授かった律法遵守が主なテーマ

である。


 モーセの後継者「ヨシュア記」と、

BC1010年にダビデがイスラエル

王朝を建国するまでの指導者を記した

「士師記・ルツ記」がそれに続く。

ダビデ王の業績は「サムエル記上下」

に、ソロモン王から王国分裂、BC

734年のアッシリア捕囚、南王国

ユダの滅亡に至るまでの詳細は

「列王記上下」に記されている。

動乱の歴史書である。


 BC587〜538年のバビロン

捕囚の時代には、「エレミア書・

エゼキエル書・第二法の書(申命記)」

などが編纂された。ここにはカナン

定住民に対する呪詛の言葉が数多く

見うけられる。カナンの地母神

イシュタルに象徴される「蛇・大地・

女」は敵視され、悪魔とされた。


 エジプトのプトレマイオス2世

(在位BC285〜246年)は、

ヘブル語で書かれたこれらの聖書

を、当時の国際語であるギリシャ語

に翻訳するよう命じた。アレキサン

ドリアの長老72人が、72日間

翻訳作業を行って完成させたのが、

セプトゥアギンタ(70人訳聖書)

である。ヘブル語の「メシア」を

ギリシャ語にした言葉が「キリスト」

である。


 現在カトリック教会では、旧約

39文書を第一聖典(カノン=規則)

とし、それにユディト記、トビト記、

マカバイ記(第一・第二)、ソロモンの

知恵の書、シラ書(集会の書)、

バルク記、エレミアの手紙(バルク書

第6章)を加えた46文書を第二聖典

としている。


 ユダヤ教では、ヘブル語24巻

(39文書)のみを神の言葉として

いる。プロテスタントも正典39文書

で、他は外典(アクロポリファ=隠され

たもの)としている。外典に関して

ルターは、読めば有益とし、禁止して

いるわけではない。イスラム教は旧約

聖書にコーランが加わる。


 紀元30年頃、イエス・キリストが

十字架で刑死。それから約20年を

経て、マルコによる福音書が文書化

された。マルコは元漁師だったペトロ

の、秘書兼通訳のような立場にあった

人物と思われる。元漁師のヨハネにも、

マルコのような人物が関与していた

だろう。


 ルカは元奴隷だったが、才能を認め

られて解放され、医者になった人物で

あり、パウロの弟子だった。パウロは

AD45〜58年にかけて伝道を行って

いる。マタイはローマに支払う税金を

自分の取り分も含めてユダヤ人から

徴収する、最も忌み嫌われた「取税人」

だった。


 マルコ・ルカ・マタイ・ヨハネに

よる4大福音書の他にも、「トマス

福音書、ピリポ福音書、真理の福音書、

エジプト人福音書、大いなる見えざる

霊の聖なる書、ヤコブの秘書ピリポに

送ったペテロの手紙、ペテロ黙示録」

などの書が続々と成立していった。

福音(エヴァンゲリオン)とは、「告知

する・良い知らせ」の意味である。


 キリスト教の福音は、アッシリア

(シリア)東方教会を拠点にして、

シルクロード全域に広まっていった。

中国では景教(チン・チャオ)と呼ばれ、

経典は「序聴迷詩所経(イエス・メシア

経)」や「大秦三威蒙度賛」

「志玄安楽経」「大秦景教宣元至本経」

などがあった。また、「世尊布施論」は

親鸞も読んだという。世尊とは言う

までもなくイエスの事である。


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第9話「太古の蛇」


 1868年、イギリス陸軍大尉・

ジェームス・チャーチワードは、

大飢饉救援隊を率いて中部インドの

奥地へ向かった。彼は住民と親しく

交わり、ヒンズー文字を習い、

ヒンズー寺院の僧たちとも仲良く

なった。


 ある日、彼の人となりを観察

していた院主が声をかけてきた。

「この寺院の倉庫に、人類最古の

言葉を刻んだ粘土板がある。

今から1万年以上前に、東方の

母なる大陸の僧が、当地に来た

時残したもので、ナーカル文書

と呼ばれている。ナーカルとは、

聖なる兄弟を意味する。大陸の

名はムー。」


 チャーチワードはこの日以来、

幻のムー大陸の探求に生涯を

捧げる事になる。2年後、

キーワードの発見により粘土板の

解読が可能になったという。だが

この寺院の場所や粘土板の存在

自体は公表されず、世間によって

確認されたわけではない。


 彼はその後、チベット・タイ・

カンボジア・太平洋諸島を旅し、

各地の遺跡や民間伝承を取材。

他の古代文明資料を読破して、

ムー大陸の存在を確信し、19

26年「失われた大陸」を出版

した。


 ムー文明の始まりとされる「少なく

ても5万年前」は、ウルム氷期という

氷河時代で、北米大陸とヨーロッパ

が分厚い氷で覆われており、海水面

は現在より120メートル低かった。

マレーシア沖からジャワ海、

フィリピン、アラフラ海から南太平洋

諸島にかけて、水深の浅い海が

広がっており、かなりの部分が陸地

だったと考えられる。タイ〜インド

ネシア・パプアニューギニア・オースト

ラリア亜大陸が存在していても不思議

はない。


 そもそも地球は、約70万年前から

10万年周期で、氷河期と間氷期を

繰り返すようになったという。原因

は地球の自転軸が、22〜24.5度

(現在は23.5度)の間を、約4万年

周期で動いていることにあるらしい。

公転周期の変化や、太陽活動の変化も

大きく影響する。16〜19世紀半ば

は、太陽活動が低下した小氷期だった。


 ともあれ今から1万5千年前、氷河期

が終わった。自転軸が移動したのかも

しれない。太平洋のムー大陸と、大西洋

から地中海地域にあったとされる

「アトランティス文明」も、1万2千年

前の火山噴火や大地震、大洪水によって

滅亡したとされている。


 どうやらこの伝説は事実らしい。

大洪水神話は、聖書に限らず全世界に

500以上あり、太陽の劇的な変化や

極端な寒冷化を語り伝えている。

全地球的に火山爆発があり、噴煙が

太陽光を遮ったのも一因だろう。温暖

だったアラスカやシベリアが突然氷結し、

17種の脊椎動物が絶滅。大津波で

引き裂かれたマンモス・野牛・狼・虎・

ラクダ・サイ・ロバ・鹿・ライオン・

イタチ・石器(人間)の遺体が、アラスカ

の黒泥から一塊になって発見されている。


 4万年分の氷が2000年で溶け、

1万年前には海水面が100メートル

上昇。6000年前の縄文海進と

呼ばれる時期には、現在より4メートル

水位が高かった。伝説の文明は海中に

没し、記憶の彼方に消えていった。


 その大異変は、人類文明に壊滅的な

ダメージを与えた。人類史は2000〜

3000年間、空白期がある。イスラエル

のナトゥーフ文化、ドナウ川沿岸の

ヴィンチャ文化、日本の縄文文化などが

細々と営まれ始めたのは、1万年前頃から

である。


 青森で発見された土器片は1万

6500年前のものであり、縄文時代

の始まりとされている。三内丸山遺跡は

7000年前頃であり、縄文人たちは

この大異変をしぶとく生き残り、ムー

文明の記憶を伝承している可能性すら

ある。彼らの骨のDNAは、インド

ネシアやマレーシアなどの南方系人種

の配列に近いものが多いのである。


 ナーカル文書の創世神話は、「宇宙は

はじめ霊そのものだった。あるのは静寂

と暗黒。その暗黒の底深くに、至上なる

霊にして偉大なる力そのもの、創造神

たる7頭の蛇が動いていた。その名は

ナラヤナ」と語っている。


 ギリシャ神話の原初宇宙には、

オピオンという盲目の蛇がいる。東南

アジアのクメール文化圏で、ナーガ

(龍蛇)は絶対的支配権を持っている。

アーリア民族以前のインド先住民も、

中国初の王朝「夏」も、龍と蛇を信仰

していた。


 縄文時代、蛇は大地のヌシ(精霊)であり、

祖先霊・地下霊であった。霊はチと読み

()()()」と同じ生命

の根源だった。いかずち厳之霊という龍

は雨を呼び、嵐を招き、雷鳴を起こす。

この点、ギリシャ神話のゼウス大神を

連想させる。倭人の漁師は海難よけに、

龍の入れ墨をしていたと、魏志倭人伝

に書いてある。

 尾呂霊(おろち)は蛇の精。出雲王国の

竜神・ヤマタノオロチが有名である。

少なくとも縄文中期までは起源を遡れる

という出雲大神宮や、大和国三輪山の

大神(おおみわ)神社には、万物の創造神

たる大物主神(竜蛇神)が祀られていた。


 霊はタマとも読む。言霊・数霊のタマ

であり、魂のタマである。チとタマ、

竜蛇(ナーガ)という象徴の中に、遥かなる

ムー文明からの霊性の伝承を感じ取る事が

出来る。だがやがてヤマタノオロチは牛神

スサノオによって退治され、大物主神

はモノノケの世界に追いやられる事に

なるのだが・・・


○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。


第10話「地球大変化(へんげ)


 伊達政宗が築いた仙台城は、標高

200m程の小高い山の上にある。

仙台の街並みを一望出来るこの近辺

から、アンモナイトの化石が採れる。

つまりこの地は、遥か2億年前には

海底だった事になる。


 山が海だったという事実は、化石

採集少年の私にとって、神秘的かつ

衝撃的な驚きだった。標高200m

でもすごいのに、世界最高峰の

エベレスト山(8848m)までもが、

かつて海底に在ったと知った時には

のけぞった。


 今から4〜5000万年前、インド

大陸を乗せたプレートが、ユーラシア

大陸に向かって北上。ヒマラヤ山脈は

年間4〜5cmのペースで隆起し、

10万年前に4000mにまで成長

したのだという。


 地球誕生から45億年。海も大陸も

変容し続け、暑くなったり寒くなったり

してきた。特に今から22億年前と

6億年前の2回、地球全体がマイナス

50℃にまで冷え、陸上も海面下も厚さ

1000mの氷河に覆われた「全球凍結」

という出来事があったと知った時には

ブッ飛んだ。


 22億年前の地球には、メタンガス

を出す「メタン菌」という微生物が

いた。大気中のメタンガスには、

二酸化炭素の20倍という温室効果

があった。そこにミトコンドリアの

先祖である、酸素呼吸型のシアノ

バクテリアが誕生する。大気中の

メタンガスは、酸素と反応して消滅。

温室効果が無くなり、地球全体が凍り

ついたというのである。


 凍結は数百万年続いた。その間微生物

たちは、地表や海底の温水噴出口付近で

生存していた。温泉に入って「極楽・

極楽」と心底リラックスするのは、この

時の遺伝情報だったのかなどと、つい

思ってしまう。


 やがて火山活動の二酸化炭素に

よって、温室効果が復活。気温は

プラス50℃まで上昇し、氷が融け

巨大ハリケーンが発生。引っかき

回された海の混沌から、光合成生物

が海面に浮上。酸素を大量発生させ、

現在の窒素80%・酸素20%の

大気になった。地球は見渡す限り

緑の海だった。


 激しい火山活動によって大陸が

形成されるのは19億年前。超大陸

ロディニアの原型は、10億年前に

ようやく出来上がる。旧約聖書の

創世記で言えば、3日目の朝方で

ある。陸には動物はおろか、植物

も無い。しかも6億年前に、再び

全球凍結の冷凍庫状態になるので

ある。


 この2度目の全球凍結の終わりを

境にして、生命は大型化という進化

を遂げる。酸素を原料にして、網目

構造の特別たんぱく質「コラーゲン」

を大量生産するのである。コラーゲン

は骨の90%、皮膚の70%、血管

や角膜を構成する物質である。


 40億年前、アミノ酸や糖のような

生命のスープは、35億年を経て

ようやく、単細胞生物から体長

6〜30cmの多細胞生物となった。

その増殖率は10〜100万倍。

そして彼らには、「エディアカラ

生物群」という名が与えられた。


 5つ目のオパビニアや三葉虫など、

奇妙で多様な生命体が出現する

カンブリア大爆発は5億9千万年前。

5億年前には魚類や貝類が登場する。

4億年前にはシダ植物が陸上に進出。

両生類やサソリ類も陸上に出現する。

恐竜登場は2億8600万年前の事

である。


 2億4800万年前、海中の酸素

が欠乏する青潮状態になり、三葉虫

など海洋生物の95%が絶滅。時代

は古生代から中生代へ。爬虫類や

アンモナイトが全盛となる。だが

2900万年を経て、再び全生物の

約40%が絶滅する大異変が発生。

大規模な地殻変動があったのだと

思われる。


 1億8千万年前、ようやく鳥類と

哺乳類が出現する。創世記で言えば

5日目にあたる。ジュラ紀から

白亜紀にかけては、恐竜全盛だった。

1996年、アメリカテキサス州の

1億2千万年前の地層から、肉食

恐竜と足長35cmの人間らしい

足跡が発見されたという。本当なら

人類史が根底から覆るのだが・・・


 そして6500万年前、恐竜・

アンモナイトなど、全生物の75%

が絶滅する。直径10kmの巨大隕石が、

メキシコ・ユカタン半島に落下。大津波

や核の冬にも似た寒冷化を誘発したため

と考えられる。カエルやトカゲ、魚類は

休眠して渋く生き残った。またカブト

ガニやクラゲは、古生代からしぶとく

生き残ってきた。


 せっかく創世記の神が、「生めよ、

ふえよ」と祝福しているのに、現実は

「3歩進んで2歩退がる」状態だった

ようである。ともあれ神は5日目まで

に、人間以外の全ての動植物を創造

したようである。ところでこの「日」

という単語だが、ヘブライ語でYOM

=「段階」という意味だという。神は

第1段階で光と闇を分け、第5段階で

人間以外の動植物を創造したという

わけだ。なかなか科学的な創世神話で

ある。


 この創世記の原典はシュメール文明

にあり、メソポタミアの各王朝は7枚

の粘土板に、一字一句同じ言葉で伝承

していった。ヘブライ人もこの点は

同じだったわけだ。

 そして第6段階、神は人間を創造

する。曰く「われわれのかたちに、

われわれにかたどって人を造り・・・」

という謎の言葉が登場する。


われわれって誰なんだ?


○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。


第11話「東方へ」


 シュメール。アッカド。バビロニア。

アッシリア。エブラ。マリ。ミタンニ。

新バビロニア。アケメネス朝ペルシャ。

紀元前のメソポタミアで次々に王朝が

興り、他国を滅ぼし、自らも滅亡して

いった。ペルシャ軍を翻弄した、北方

の騎馬民族スキタイ王アステスも、

BC339年、マケドニア王

フィリッポス2世軍に敗れて戦死する。


 ペルシャの宿敵ギリシャから、

バルバロイ(野蛮人)と言われていた

マケドニアは、貴族中心の騎兵隊と、

有力農民から成る歩兵によって

強力な軍団を編成し、トラキア

(現トルコ)を領有。フィリッポス

2世はギリシャを統一し、ペルシャ

遠征を計画するが、BC336年に

暗殺されてしまう。


 この時、王子アレクサンドロスは

20歳だった。アリストテレスを師と

して、地理学・動植物学・民族学・

医学・歴史・哲学を学んだ聡明な

若者は、ホメロス叙事詩の英雄・

アキレスに憧れていた。


 王に即位した彼は、早速軍団を

率いて北方へ遠征し、ギリシャ反乱

の報に接すると、電撃的に軍を反転

させ、ギリシャを再統一した。5年後

のBC334年には、父の遺志を

継いでペルシャ遠征を推し進めた。


 BC333年、シリアのイッソス

でダレイオス3世率いるペルシャ軍

と交戦して大勝。ダレイオスは太腿

に傷を受けて逃亡した。彼は南下して

フェニキアを攻略。エジプトへ進軍し、

自らの名を冠した町・アレキサンドリア

を建設させた。


 BC331年、再びペルシャへ。

10月1日、ティグリス川上流

ガウガメラの地で、再びダレイオス

3世軍と激突した。騎兵1万・歩兵

4万6千のマケドニア軍に対し、

ペルシャ軍は5倍の25万。しかし

寄せ集めで言語も違う為、指揮系統が

乱れて再び大敗。アレクサンドロスは

バビロンに入城した。


 BC330年1月、彼はペルシャの

本拠地であるイランの都・ペルセポリス

に入城。さらにペルシャ軍の残党を

追って、中央アジアのサマルカンド方面

に軍を進めた。そこは東にパミール高原

を望み、天山南路の道を東に行けば、

現在の中国新疆ウイグル自治区や青海省

という地点だった。


 当時の中国は、燕・斉・趙・魏・韓・

楚・秦の戦国7雄が各地に割拠していた。

そのうち青海省・四川省などの西域を

領有していたのが「秦」だった。秦の

北西部で国境を接する月氏は、イラン系

とトルコ系の騎馬民族で、ペルシャ軍と

共に戦ったスキタイ系サカ族も混在して

いた。


 秦には亡命ペルシャ軍の軍人や、

スキタイの流れを汲むソグド人交易商人

が多数流入し、技術・文化水準が極めて

高かった。鉄や銅の冶金に優れ、兵器や

農具の生産は中国随一。多民族を統合

する為、法と刑罰を重んじた。宰相・

張儀の6国連衡政策などもあり、国力

は充実していった。


 BC323年6月23日、アレク

サンドロスは熱病により33歳で急死。

ギリシャからインドまでの大帝国は、

アジアのセレオコス朝やエジプトの

プトレマイオス朝に分裂。秦の隣国

として、BC255年、ギリシャ人

によるバクトリア王国が成立した。

バクトリアはインドや秦との交易

で栄え、ギリシャ人とペルシャ人、

ソグド人が協調して平和に暮らし、

地上の楽園と呼ばれる程の豊かさ

だったという。


 BC246年、政が13歳で秦王に

即位。25年後に東方の斉を滅ぼして

中国全土を統一し、始皇帝として君臨

する。秦は中央集権の郡県制とし、

度量衡や文字を統一し、首都・咸陽に

至る幹線道路を整備させるわけだが、

これらの統一システムはペルシャの

政策を転用したものと思われる。


 シンという国号は、チャイナの語源

となっている。以後中国国民は、統一

されているのが常態という意識を浸透

させ、皇帝という地位をめぐって分裂

と統一を繰り返す。さらに秦による

文字の統一は、歴史的に意義深い。

現在インドには850、インドネシア

670、ブラジル210、ヨーロッパ

でも40以上の言語が存在する。しかし

中国人民12億のうち8億は北京語、

他の3億が7つの似た言語を話す。

周辺の朝鮮半島・日本・台湾・ベトナム

には、漢字文化圏が存在する。これは

始皇帝の功績と言える。


 万里の長城や宮殿建設で民衆を酷使

し、儒者460人を生き埋めにするなど、

功罪相半ばする始皇帝だが、晩年は道教

の神仙思想に感化され、不老不死を願った。

その時斉の方士(仙術士)・徐福なる者が

現れ、始皇帝に言った。


「東方に蓬莱山の島あり。その山上に

長生不死の薬草あり」


 徐福は私が求めて参りますと、始皇帝

を説いた。かくして徐福は始皇帝の援助

をうけ、大船85隻に500人の男女と

食料、植物の種や銅のインゴットなどの

必要物資を積み、ノアの箱舟状態で山東

半島の南・徐福村(江蘇省連雲港市)の

湊を出港。斉州島を経て、倭国を目指した。

BC218年の事だという。


 潮流は船を北九州へと運ぶ。佐賀県

伊万里市、長崎県松浦市・平戸市、福岡県

八女市に徐福渡来伝説があるのは理に

かなっている。日本海流は出雲・丹後半島

へと続き、瀬戸内を経由して紀伊半島・

熊野から伊勢湾へ至るルートもある。熊野

には徐福の墓がある。


 弥生時代中期の倭国に、徐福船団が

蒔いた技術と文化の種は大きい。造船・

航海術と天文学、養蚕と機織り、銅や鉄

の冶金と鉱山開発技術、薬学、製塩、大工、

酒造りなど、多岐にわたる。斉の鬼神祭祀

は、卑弥呼の鬼道に継承されたとも

言われる。


 (ハタ)の徐福を自称した彼の子孫は、

技術を継承すると共に、羽田・波田・畑・

畠を姓として倭国に帰化した。それから

400年を経た238年、バクトリア王国

を故郷とする、弓月君に率いられた約10

万人の新羅系秦一族が大挙して日本に

帰化。宇佐八幡宮や松尾大社、賀茂神社、

金毘羅神社、稲荷神社、春日大社、日吉

大社、白山神社などの創建と深く関わり

ながら、日本神道の骨格を作り上げてゆく

のである。


○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。


第12話「箱船伝説」


 1959年トルコ空軍は、トルコ東部

アララト山(5165m)の海抜1870m

地点(北緯39度26分4秒・東経44度

15分3秒)で、ノアの箱船ではないかと

思われる「船形地形」の撮影に成功した。

 明らかに船の形をした巨大構造物は、

活火山であるアララト山の火山灰に覆わ

れるなどして石化し、赤茶けた姿を地表

に晒している。大きさは長さ137m、

幅22.9m、高さ13.7m。これは

旧約聖書に記された箱船の大きさ、長さ

300キュビット(150m)、幅50

キュビット(25m)、高さ30キュビット

(15m)にかなり近い数値と言える。


 箱船は7月17日にアララト山に

とどまった(創世記第8章)と記されている

だけに、19世紀前半から箱船捜しの

探検隊が続々と結成された。1829年、

エストニアのドルバト大学教授、

フリードリヒ・パロットは、北東斜面

アホーラ村の聖ヤコブ修道院で、箱船の

木片とされるものに描かれたイコン(聖像)

を見せられたという。だが1840年6月、

アララト山大噴火によりアホーラ村は壊滅。

修道院も溶岩に埋まった。アホーラとは、

ノアのぶどう園を意味する言葉だという。


 1952年フランス調査隊は、木片を

国外に持ち出した。炭素14年代測定法

による分析結果は、エジプトのカイロ

博物館でBC4000〜3000年、

エジプト農務省でBC5000年前後、

スペインのマドリード大学でBC

3000〜2000年というものだった。

材質はイトスギ科のホワイトオークと

思われ、聖書のいと杉(ゴフェルの木)と

一致した。


 ノアの大洪水説話の原型は、シュメール

語で書かれたギルガメシュ叙事詩だと言われ

ている。事実シュメールの都・ウルやニネベ

から、BC3500年頃の洪水によって

出来た粘土層が発見されている。洪水の

原因は、穏やかな海面上昇によるものと

考えられる。


 またウルの上流の町、ウルクや

シュルッパークから、BC2800年頃の

洪水層も発見された。原因は前線通過に

伴う豪雨による、ユーフラテス川の氾濫と

考えられる。しかしこれらの洪水で、ノア

の箱船がアララト山1900m付近まで

運ばれたとは、どうしても考えにくい。


 といって、聖書の記述が嘘だとも言え

ない。何せ約1万年前にビュルム氷期が

終わり、4万年分の氷が2000年程で

溶け、海面も100m以上上昇。気温も

上昇し、いつどこでハイパーハリケーン

が発生してもおかしくはないのだから。


 箱船の構造比は、最大積載に最適な

もので、1500人を収容出来る1万

2千トンクラスの船である。太平洋戦争

当時の小型空母「瑞鳳」が、1万1200

トンである事を思えば、いかなる巨船か

想像出来よう。よくぞノア一家だけで造った

ものだと感嘆する。


 聖書に記された箱船「Teba」は、

すべての面が閉じている物の意。当時

の国際語であるアッカド語では「Tebitu」

で、沈むことの出来る船の意味だという。

アスファルトで防水密封された箱船は、

潜水艦機能も持ちあわせていたと思われる。


 ノア一家と動物たちは、2月17日に

乗船を完了。天の窓が開いて豪雨と

なった。当時の2月は、現在の10〜

11月にあたり、中近東の雨期だという。

箱船は5ヶ月間漂流し、7月17日に

アララト山に漂着。水が完全にひくまで

には、さらに7ヶ月を要したと聖書に

書いてある。


 アララト山を現地アルメニアの人々は、

世界の母と呼んでいる。南東山麓には、

テマニン(箱船の8人)、エチマアジン

(降り立った人々)、エレバン(最初の

出現地)、ナキチュバン(ノアの着いた

場所)という名の地名がある。ノア夫婦

とセム・ハム・ヤペテ夫婦の8人は、

アホーラ村あたりにぶどう園を開き、

やがてそれぞれの地に移住していった。


 長男セム一家は東へ向かい、ユダヤ人、

アッシリア人、トルコ人、中国人など、

有色アジア人種(モンゴロイド)の祖と

なった。セムの4代目の孫・エベルに

連なる子孫全体をヘブル人と言う。

アブラハムからイエス・キリストに至る

血統でもある。


 次男ハム一族は、クシ(スーダン)、プテ

(リビア)、ミツライム(エジプト)など、

アフリカに進出。ハムは父の裸(アラヴァー

=恥部)を見てしまい、「呪われよ」と

ノアを激怒させてしまう。その呪いのせい

なのか、ソドムとゴモラが壊滅したり、

バベルの塔が破壊されたりとさんざんな

目にあっている。その後の世界史でも、

植民地になったり奴隷貿易で搾取され

たりと、かなりひどい。


 3男ヤペテは、アーリア人、ギリシャ人、

スラブ人、ペルシャ人、アングロサク

ソン人など、白人コーカソイド系人種の

祖とされている。

 仮にノアの箱船説話が話半分位の史実

だったにしても、アララト山麓のアルメニア

高原が、メソポタミアやエジプトと交易

を通じて深く関わっていたのはまぎれも

ない史実である。黒曜石に始まり、青銅

製品や鉄製品はアルメニア産なのである。

この高度な冶金技術はやがて、BC

1680年に成立した鉄の帝国・ヒッタイト

へと受け継がれてゆくのである。


○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。


第13話「反逆の矢」


 クリスマスの乱痴気騒ぎの後、日本人は

神妙な面持ちで神社に詣でて新年を祝う。


「何事の おわしますをば知らねども 

かたじけなさに涙こぼるる 」


と、平安末の歌人・西行は、伊勢神宮を

こう詠んでいる。確かに日本の神社には、

漠としたイメージの何かが、何となく

ありがたい感じで在る。


 こうして漠とした象徴であるうちは

何の問題もないのだが、そこに人間が

介入し、宗教的権威を装飾すると、

ややこしい争乱の種となる。平安時代、

比叡山延暦寺に土地問題などのごたごた

が発生すると、法師たちは日吉山王神社の

「みこし」を担ぎ出し、時の天皇に強訴

した。みこしの権威は絶対的であり、

これに危害を加えれば、天罰たちどころに

下って吐血し、死に至ると信じられていた。

天皇と言えども遥拝しなければなら

なかった。


 比叡山の法師たちは、みこしの権威を

かさに着て、傲慢・横柄なることこの上

もなかった。久安3(1147)年夏、

鳥羽上皇が加賀白山の荘園を、叡山から

取り上げた事に腹を立てた法師たちは、

「みこしぶり」を発動した。

 その「みこし」に立ちはだかったのは、

安芸守平清盛・29歳だった。神罰など

迷信とばかりに胆を据え、彼は馬上から

みこしのど真ん中めがけて矢を放った。

仰天する法師たち。が、清盛の身には

何の変化もなく、みこしの神威は失墜

した。


 時移り、室町幕府創設時。足利尊氏と

同盟していた佐々木導誉(どうよ)は、

暦応3(1340)年10月、光厳天皇の

弟・亮性法親王(りょうしょうほっしんのう)

が天台宗門跡の地位にある、白河妙法院

の御所に押し掛けて、重宝を奪って暴れ

まわり、放火するという事件を起こした。

導誉の子・秀綱と若党が、妙法院の紅葉

の枝を折り、山法師と喧嘩になったと

いうのが事の始まりだった。


 当然の事ながら、叡山は法師を総動員

して強訴に出た。幕府の大御所・尊氏は、

法師たちを「まあまあ」となだめ、

佐々木父子を流罪に処した。とは言っても

尊氏と導誉は唇歯の関係。形だけの流罪

である。

 佐々木父子は、配流先の奥州へ旅する

道中、若党を多数従え、土地の遊女

を総挙げして酒宴を行った。彼らは皆、

猿の皮のゆき靱(太刀カバー)や腰当て

を用いていたという。猿は日吉山王神社

の使いとされる、神聖な動物だった。

「バサラ」と呼ばれた佐々木導誉の本質

には、宗教的権威何者ぞという、反逆の

心意気が感じられる。


 導誉は武将であると同時に、立花・

闘茶・連歌・猿楽などを好んだ一流

の文化人でもあった。観阿弥・世阿弥

父子の後援者であり、「あれは乞食

(こつじき)の業ではないか」と蔑まれて

いた猿楽を、室町幕府公認の芸能にした

背景には、導誉の存在が深く関わって

いる。導誉は身分の貴賎にも反逆的な

「バサラ」だった。


 確かに、平清盛や佐々木導誉の反逆

精神は、すがすがしくもあり好ましくも

ある。だが世の中には、上には上の、

すごい人物がいる。その代表がイエス・

キリストである。


 イエスの12使徒を「猿の皮」に例える

のは失礼かもしれないが、象徴的意味合い

としては、イエスの反逆的メッセージを

読み取ることが出来る。ペトロと弟の

アンデレ、熱心党のシモンは、当時パレス

チナを占領していたローマ帝国に対して、

「ローマ討つべし」とテロも辞さない、

ユダヤ人国粋主義の過激派メンバーだった。


 一方マタイは、ユダヤ人社会で最も

忌み嫌われた「取税人」だったらしい。

取税人とは、ローマ当局に支払う税金の

徴収を請け負うのが仕事で、ローマの

権威をかさに着て同族から金を巻き

上げる「吸血鬼の如き」悪者と思われ

ていた。この「ローマの犬」と、

「ローマ討つべし」のメンバーが、

仲良くイエスの弟子になっているので

ある。


 ユダは南部の町・ケリオテの出身だった。

この町は「ソドムとゴモラに匹敵するほど

悪名高い無頼の町」として嫌われていた。


 さらにマグダラのマリアが加わる。

彼女は「悪霊憑き」の「罪人」だった。

悪霊憑きとは、軽度のヒステリーや

ノイローゼから重度の精神病まで幅広く

用いられていた。罪人の意味も幅広く、

マリアの場合は「娼婦」である。特に

刑罰を受けるわけではないが、悪霊憑き

も罪人も、ユダヤ人社会の中にあっては

差別の対象だった。


 イエスの時代、宗教的権威と言えば、

エルサレムの神殿を権威のよりどころ

とする神官層のサドカイ派と、

シナゴーグの活動を担う、律法学者の

パリサイ派だった。一般民衆アム・

ハアレスは、「神に選ばれない呪われた

存在」にしかすぎなかった。その民衆の

中にあって差別されていた「罪人・

取税人・病人・悪霊憑き」が、イエスの

周囲に集まっていたわけである。

故意か偶然かはわからないが、サド

カイ派とパリサイ派の教えを否定し、

挑発しているのは確かだろう。


 だが、このイエスの生前の意志に

反して、キリスト教もまたピラミッド

構造の権威的組織を構築してゆくので

ある。やれやれ、人間とは「権威」

が大好きな生き物らしい。



○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。


第14話「歴史書庫「辻邦生/

   背教者ユリアヌス」<1>」


 1968年8月。ソビエト軍20万が

チェコ領内に侵入し、経済改革と自由

化を求める市民運動を武力で弾圧した。

「プラハの春」と呼ばれる事件である。

この頃アメリカは、ベトナム戦争の泥沼

で苦闘していた。世界は自由主義と共産

主義という2つの価値観が、激しく衝突

していた。


 1925(大正14)年生まれの作家・

辻邦生は、当時43歳。旅行者として、

7年ぶりのパリにいた。哲学者の森有正

と共に、クリュニー美術館前の古代

ローマ遺跡に立っていた。遺跡は

「ユリアヌスの浴場」と呼ばれていた。


 キング牧師やロバート・ケネディが

暗殺され、ナイジェリアのビアフラで

150万人が餓死する一方、アポロ計画

が着々と成功しつつあった時代。辻は

時代の大変革期を意識していた。事実、

その後20年足らずでソビエト連邦は

解体し、アポロ以後人類は「地球市民」

になったと言われる。そしてその大変革

期の意識が、遺跡の磁場と共鳴するかの

如く、ローマ皇帝ユリアヌスの生きた

時代とオーバーラップしたのだった。


 作家がなぜ、ある時代の特定の人物を

選択し、多大なる労力を費やして作品化

するのかという謎については、人智を

超えた神秘的な宿縁というものを感じる。

ともあれ辻は、古代から中世へ移行

しつつある時代の、ローマ皇帝ユリア

ヌスを書きたいと強く願った。


 創作の始まりは常に、大いなる直観

や漠然とした構想だけが先行し、形

定まらぬ霧の中の感がある。だがやがて、

「私を書いてください」と言わんばかりに、

作家の磁場に吸い寄せられて構想を具体化

する資料が現れる。作家は「導かれて

いる」という不可思議な感動を糧として、

困難な時空の航海に乗り出してゆくので

ある。


 辻も同様だった。中央公論社「海」の

初代編集長・近藤信行氏より長編小説

の執筆を依頼され、承諾はしたものの

何のあてもなかったという。返事をして

後、ぼんやりとパリの町を散策していると、

古本屋の店先で「ジュゼッペ・リオティ

ティ著/ユリアヌス皇帝伝」と出くわす。

本人は「奇跡だ!!!」と感動したという。


 その後「J・ビデ著/ユリアヌスの生涯」

「古代末期の異教とキリスト教の闘争」、

妻でもある辻佐保子著「軽業師の東西交流」

といった資料と出会い、月50枚のペースで

3年半、2000枚を超える長編小説が発動

するのである。


 小説冒頭「かの人を我に語れ、ムーサよ

(ホメロス)」という言葉で始まる。ムーサ

(ミューズ)とは、太陽神アポローンに仕え、

芸術家に霊感を与えるギリシャ神話の女神

たちである。それはこの作品に対する、

作者の祈りの言葉かと思われる。


 だがユリアヌスの生きた4世紀半ば

は、古代ギリシャ・ローマの神々が

ゆっくりと没落し、キリスト教が台頭

してくる時代だった。ユリアヌスは天上

世界を望むキリスト教を棄て、地上的な

生と美を謳歌する古代の神々を復興

しようとしたがゆえに、「背教者」と

呼ばれる事になる。彼は2つの価値観に

引き裂かれ、苦悩し続ける。


 そして物語は、霧のボスポラス海峡

から始まる。古代にビザンチウムと言い、

現在イスタンブールと呼ばれるトルコ

共和国の大都市は、当時キリスト教を

公認したローマ皇帝・コンスタン

ティヌス帝(在位324〜337年)に

よって遷都され、コンスタンティノープル

と改称されたローマ帝国の首都だった。


 ユリアヌスはこの都で、331年11月、

大帝の弟・ユリウス・コンスタンティウス

とバシリナの間に生まれた。母バシリナは

産後間もなく死去。父ユリウスは、337年

5月に大帝が崩御し、皇子コンスタン

ティウスが即位した直後、謀反の疑いを

かけられて自殺に追い込まれる。


 謀略によってユリウス一族は皆殺し

にされた。だが幼い異母兄ガルスとユリ

アヌスは奇跡的に難を逃れた。ユリアヌス

はニコメディアの離宮に幽閉され、

ホメロスやプラトンを愛読する学問好き

の子供として成長してゆく。


 351年春、兄ガルスが副帝に任じ

られた事により、14年に及ぶ幽閉生活

が終わる。だがガルスは4年後に失脚し、

斬首された。ユリアヌスは皇后エウセ

ビアの庇護により助命され、ギリシャ・

アテナイの地で学問を続ける。


 ところが数奇な運命によって、ユリアヌス

は副帝に任じられ、ガリア(現フランス)の

地に赴任する事になる。統治2年を経て、

ガリア全軍のペルシャ遠征という皇帝

命令に対して武装蜂起が勃発。副帝

ユリアヌスは叛乱の先頭に担ぎ出された。


 皇帝軍との全面対決を覚悟し、ガリア軍

を指揮していたユリアヌスだったが、

361年11月、突如皇帝コンスタン

ティウスが崩御。後継にユリアヌスが指名

された。

 363年3月、皇帝ユリアヌスは

ローマ軍を率いてペルシャへ遠征。6月

27日、ペルシャの首都クテシフォン

(現バグダット)近くの砂漠で戦闘中、ユリ

アヌスは敵の投槍に脇腹を貫かれて戦死。

32年の短い生涯だった。


 どのような人生だろうとも、どのような

みじめな死でも、人は生きるに価する。

物語の終わりを、作者はそのように締め

くくる。


「なんという地上の美しさなのだろう」

というユリアヌス最期の言葉に、ふと

「人間のいのちは甘美だ」という仏陀の

言葉を重ねてみたくなった。ユリアヌス

の魂は大いなる愛に抱かれて、大いなる

帰還を果たしたのであった。



○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。


第15話「日の丸」


 日本人にはあまり馴染みのない組織

だが、フリーメーソンと言えば世界最古

にして最大の秘密結社である。BC

960年、古代イスラエル王ソロモンは、

エルサレムにヤハウエ神殿建設に着手し、

11年後に完成。この時実際に建築を

指揮したのが、フェニキア・テュロス市

の王・建築師ヒラムである。


 ヒラムの弟子たちは、徒弟・職人・

親方の3階級に分かれ、建築に関わる

知識や技術を秘密裡に伝承してゆく

組織を形成したという。組織の象徴は

「直角定規とコンパス」。王宮や

大寺院を建設する業は「帝王の術」と

呼ばれ、ピラミッドやノアの箱船など、

古代の高度な叡智を保持する「宇宙の

偉大なる建築者」としての誇りを保持

していた。


 フリーメーソンとは「自由な石工」

を意味する。西洋建築と言えば石造り

建築をイメージするが、ソロモン神殿

にはレバノン杉などの木材もふんだんに

使用されていたという。その意味で大工

というニュアンスも含まれている。

世界一有名な大工と言えば、イエス・

キリストの父ヨセフだろう。彼もまた、

自由な石工の同業者組合員であったと

思われる。


 さて、フリーメーソンの象徴である

直角定規とコンパスだが、意外な所に

登場する。中国神話である。始めに天地

創造の神・ばんこ盤古があった。続いて

人間と文明を創造する神・伏羲(ふくぎ)

女禍(にょか)が登場する。女?は黄土

の泥から人間をつくった。人々は女禍を

婚姻と子授けの神として祀った。


 伏羲は人々に、火を使って料理する

方法や網で動物を捕らえる術を教え、

文字や易経を伝授した中国文明の祖で

ある。この2神は結婚する。その際、

大木の回りをお互いが反対方向に回る

儀式を行ったという。


 伏羲は「(そしがね)」という直角

定規を、女禍(にょか)は「(ぶんまわし)

というコンパスを手にしている。直角

定規は四方(地)、コンパスは円(天)の

象徴である。旧約聖書の神ヤハウエも

これらの道具で天地創造を行ったとされる。

この「矩と規」で描けるものが「日の丸」

だと言ったならば、話が飛躍し過ぎると

思うだろうか。


 日の丸の赤い円は、太陽神・天照大神

の象徴とされている。言うまでもなく、

日出ずる国・日本の皇祖神である。天照

大神はイザナギ・イザナミ2神より生ま

れた。両神はおのごろ島で国生みを行った

時、天御柱(あめのみはしら)の周りを

お互いが反対方向に回ったという。この点、

伏羲・女禍神話に酷似している。


 加えて言うなら、伏羲・女禍の後に

登場する炎帝神農は、人身牛首の天候神

で、医薬と商業の神でもある。シリア・

メソポタミア地方でバール神として

広く信仰されている牛の角を持った神

を、韓国では「スサ」と呼んでいる。

天照大神の弟、スサノオ(牛頭天王)で

ある。


 日の丸が旗として歴史に登場するのは、

1056(天喜4)年の事。清和源氏・八幡

太郎義家の父・源頼義が、後冷泉(ごれいぜい)

天皇から下賜された「御旗(みはた)」である。

御旗は太郎義家の弟、甲斐守新羅三郎義光

を経て、代々武田家惣領に受け継がれ

た。武田軍出陣の際には、惣領以下重臣

全員が御旗と重代の鎧・楯無の前に

額ずき、「御旗・楯無、御照覧あれ」と

2度唱和する慣わしがあった。


 武田信玄の宿敵と言えば上杉謙信だが、

ここにも紺地日の丸の旗が翻っていた。

この旗は、謙信の父・長尾為景が1535

(天文4)年6月、勅許と共に下賜された

もので「禁裏の御旗」と呼ばれていた。

武田・上杉両軍の日の丸は、皇室が出所

という事になる。


 現在の国旗の源流は、1854(安政4)

年に薩摩藩主・島津なりあきら斉彬が、

日本の船舶の船印として日の丸を用いる

事を幕府に進言し、幕府から全国に通達

されたのが始まりである。京都の朝廷と

親しかった薩摩藩の事ゆえ、やはり日の丸

の出所は皇室と見るのが妥当かと思う。


 それにしても日の丸は、本当に

フリーメーソンの象徴なのだろうか。

禅僧のように「それがどう見えるかによる」

とでも答えておこうか。そう言われれば、

そう見えなくもないのである。やれ世界

支配を目論む組織だとか、噂が乱れ飛び、

どこまでが本当でどこからが誤解なのか、

さっぱりわからないのがフリーメーソン

だからである。


 1771年バプテスマのヨハネの日に、

いくつかの集会所(ロッジ)が統合して

グランドロッジが誕生。これを近代

フリーメーソン設立の年としているの

だが、設立者も目的も不明とあっては、

やはり怪しい。現在世界150ヶ国に

600万人の会員がいるというが、

日本人は300人足らずとか。


 フリーメーソンで有名なのは、自由の

女神の台座に「この像はフランスの

フリーメーソンからアメリカのフリー

メーソンに送ったものである」と書かれて

いる事。フランス革命の主要メンバーの

大半がメーソンだった事。ドル紙幣の

「目」もまた、メーソンの象徴として

用いられている事などだ。


 日本を訪れたメーソン第一号は、黒船

のペリー提督。坂本竜馬と親しかった

英国シャーディン・マセソン社の武器商人、

トーマス・グラバーもメーソンとして

知られている。彼のもたらした銃によって

薩長同盟が成立し、統幕に至るのである。


 黒船による開国から明治政府の富国

強兵政策。日露戦争の膨大な外債をユダヤ

財閥が引き受け、金解禁を行わせ、大恐慌

を引き起こし、軍人を煽って泥沼の15年

戦争へ。このシナリオがすべてフリーメーソン

の謀略だとしたなら・・・

その先頭に常に日の丸が翻っていた事を思うと、

何とも複雑な思念が交錯するのである。


○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。


第16話「宗教的狂乱」


 今から2500年前の古代ギリシャ。

アテネ対スパルタのペロポネソス戦争

から50年。人々はアテネ民主主義と

いう共同体に失望し、市民の政治離れ

が進んでいった。人々は個人の幸福や

魂の救済を求めた。


 人々の求めに応じて、数多くの宗教

団体が生まれた。魂の不死や来世での

幸せを説くオルフィック教。懺悔して

来世の幸せを願う、古代エジプトの

女神・イシスを信仰する団体。守護神霊

(ダイモーン)信仰。祖先崇拝団体。

さらに魔術や占星術が幅広く流行した。


 この時代は、ギリシャ文明から

ローマ・キリスト教文明への大転換期

だった。それから2000年。地球

規模の文明を手に入れた人類は、

再び文明の大転換期にさしかかって

いる。従来の権威や価値観が次々に

崩壊し、混沌と不安が蔓延すると、

その象徴的事件が浮上してくる。


 たとえば1995年の日本で起きた、

「オウム真理教事件」である。ハルマゲ

ドン(世界最終戦争)と反フリーメーソン

を説き、魂の救済と称して平然と人殺し

を行った、宗教的修行者集団「オウム」

が象徴する「本質」とは、一体何なの

だろうか。


 宗教集団が時の権力に対抗し、宗教

王国を目指した例はいくつかある。

日本では、戦国大名に対抗して農民が

武装化した一向一揆。一向宗(浄土真宗)

本願寺門徒対織田信長の戦いが有名で

ある。


 また、キリシタン弾圧と重い年貢に

激怒した農民が起こした「島原の乱」

中国の古いところでは、「三国志」で

有名になった「黄巾(こうきん)の乱」

指導者・張角は、「太平道」という

宗教を興し、終末論を説き、未来世界

のユートピアをビジョンとした。

しかしいずれの場合も、農民の幅広い

支持があって成立した反乱であり、

オウムのように、民衆全てを敵にした

例はない。


 やや類似しているのは、洪秀全による

「太平天国の乱」かもしれない。洪は

1814年、清帝国時代の広東に

生まれた。清帝国はこの頃、衰退の

一途をたどり、アヘン戦争などによる

欧米列強諸国からの侵略に脅かされて

いた。


 洪は31歳の時、キリスト教にのめり

こんだ。そしてキリスト教と民間信仰を

取り入れた独自の宗派を創設し、自らを

「キリストの弟」と称した。彼は秘密

結社「上帝会」を組織して革命を志し、

5年後の1850年、広西省金田村で

武装蜂起。翌年永安州を占拠。太平天国

という国を建て、洪はこの国の「天王」

となった。


 1853年、南京攻略に成功し、

首都「天京」とした。「天朝田畝制度」

という、土地均分制度が農民に支持

された。最大17省を占拠した太平天国

だが、内部分裂と列強軍隊の援助によって、

1864年に反乱は鎮圧された。洪は天京

で服毒自殺を遂げた。彼は一種の宗教的

独裁者であり、革命家でもあった。


 黄巾の乱は漢帝国末に、太平天国の

乱は清帝国末に、一向宗は応仁の乱

以降の室町幕府衰退と共に実力を

つけていった。いずれの場合も、中央

集権体制の衰退および、内部崩壊の

システム不全と時を同じくしている。


 オウムという集団の発生も、ソ連解体

による冷戦構造の崩壊や、バブル経済の

破綻などの内部崩壊によるシステム不全

時代の産物と言える。


 さらに共通項を捜すと、死生観が似て

いる。一向一揆では、集団密集隊形で

「南無阿弥陀仏」を唱えながら、玉砕

覚悟で突っ込んできたという。徳川家康

は、死を超越した彼らの信仰の強さに

震え上がり、三河一向一揆との政治的

妥協で何とか和解した。島原の乱も

太平天国の乱も、戦死というよりは殉教

に近い。通常の戦闘よりも、あまりにも

犠牲者が多すぎる。


 彼らは皆一様に、天国か極楽という

「あの世」を望み、喜んで死んでいった

様子さえ伺える。オウムの修行目的は

基本的に、魂の質を向上させて「転生」

するか「解脱」することにあった。

視点は現世よりはむしろ、あの世

もしくは来世に向けられている。

死生観という点では、ほぼ一致して

いる。このようなタイプの信仰は、

「死の恐怖」という生命維持の為に

必要な心理的ストッパーをはずして

しまうらしい。

 

 心理学者・フロイトによると、人間

には生本能と同様の強さで、死の本能

があるという。自殺(殉教)、他殺、

戦争はもちろんの事、緩慢な自殺とも

言えるアルコール中毒、麻薬中毒、

極端な禁欲、社会に対する攻撃行動

など、すべてはこの無意識の破壊願望

に原因があるというのである。


 なるほど集団としてのオウムは、

死の本能に突き動かされたとしか

思えないほど、全ての条件を満たし

ている。その無意識の破壊願望の

象徴が、終末的予言なのだろう。

むろんその背景には、ノストラダム

スブームに代表される、人類全体に

潜む無意識の破壊願望があるの

だろう。社会不安がもたらす肉体的・

精神的ストレスと、生命本能の衰退

が重なると、死の本能を発動する

行動様式が表面化するのかもしれ

ない。


 オウムの幹部たちは、日本人全体

をサリンで殺し、オウム帝国を実現

させるつもりだったらしい。しかし

「松本サリン事件」や「地下鉄

サリン事件」などに、宗教的・思想的

メッセージは皆無である。「邪魔だから

殺してしまおう」式の発想と、

いきあたりばったりの行動が目立つ。


 とはいえ革命的カルト集団を甘く

見てはいけない。どんなに幼稚な集団

でも、時として弾薬庫に火をつける

「導火線」になりうるからである。

その最大かつ最悪の結果をもたらした

のは、セルビアのテロ集団「黒手組」

だろう。


 ドラグティン・ディミトリヴィッチ

大佐、通称「アピス」に率いられたこの

集団は、当時の警察や政府から「ノー

マーク」だった。アピスは当時の国際

情勢を分析し、計画を練った。そして

三人一組のチームを作り、フランツ・

フェルディナンド大公のもとに放った。

時に1914年6月28日。ボスニア

の首都・サラエボで起きた、この

オーストリア皇太子暗殺がきっかけ

となり、世界は第一次世界大戦に突入

したのである。果たしてオウムの麻原

は、このような事態を夢想していたの

だろうか。


 カルト宗教集団や政治革命テロ集団

などを総称して、「秘密結社」と呼ぶ。

その歴史は、人間が社会を形成した時期

以来、連綿として存在し続けている。

カルト宗教集団を現代特有の社会現象と

してとらえると、根本的に認識を誤る。


 秘密結社の特徴は、まず「儀式

(イニシエーション)」を好む事。多数派

社会とはまったく別個の価値観を持ち、

中心メンバーを頂点とする、ピラミッド

型の階級社会を形成する事。つまりそこ

には、専制者と服従する狂熱者が存在

する。そして共通する病理として、「統合

失調症」の特徴が認められるという。


 統合失調症の特徴は、「自閉と妄想」

現実を逃避し、妄想世界を生きる事に

なる。封鎖された集団内部は「子供社会」

にたとえられ、乱交や性倒錯、テロリズム

は容認される。


 統合失調症の場合、「させられ体験」

といって、自我が能動的でなくなり、

自分以外のものに支配され、操られて

いるという体験を持つのだという。また

30代に多い妄想型の場合、自分もしくは

自分の属する集団が、陰謀によって毒殺

されるというような「被害妄想」、自分

が全世界の支配者であるというような

「誇大妄想」が現れる。最も初歩的な

心理学だけで、ここまでオウムの条件を

満たすと、思わず笑ってしまう。


 だが「オウム」の病理は、本当に

他人事で済まされるのだろうか。秘密

結社が有史以来存在し続け、統合失調症

の特徴を持っているという事は、人間

誰もが分裂気質を潜在的に抱えている

とは言えないだろうか。


 そもそも人間とは、本能と意識を

分離し、自己と世界を認識出来る「意識」

を持った唯一の動物である。そして常識

や世界認識に根本的な疑いの目を向けて

検証し直してゆくと、何が現実で何が

妄想世界なのか、はなはだ境界が曖昧

になってくる。誰が正常で誰が異常

なのか、だんだんわからなくなって

くる。


 オウム事件の中枢にいた一人に、村井

秀夫がいる。温厚で澄んだ目の殺人者

だった。宇宙物理学を専攻し、真理を

追究するためにオウムに入信した男。

麻原のような、社会に対する怨念は

なかった。しかし彼は、導師(グル)

麻原を全面的に信頼し自分を明け渡した。

洗脳の結果だと言われている。


 彼は麻原の説く「秘密金剛乗

(タントラ・ヴァジュラヤーナ)」の

教えに、何の疑問も感じなかった。

麻原が最終解脱者だと信じ、解脱者が

救済の為に人を殺しても(ポアする)

許されると信じた男だった。彼は

「善意で」人を殺した。彼の存在は

我々に、星や花を愛する優しい人間でも、

条件次第で殺人者たりうる事を教えて

くれる。人間は脆い。


 宗教は信じる事。信じる事は美徳。

信じる事は救済。そう「信じさせる」

事から、宗教的洗脳は始まる。導師は

真理の体現者にして絶対者。疑いは

許されない。信じて明け渡す事。宗教

とは全面的なエゴの放棄。そう言われ

れば、エゴを多少なりとも悪いものだと

思っている人間ならば、エゴを放棄

しようと考える。そして、自分で考える

事を止める。


 ここで思考停止に近づいたなら、あと

は早い。特定の思想や信条を、徹底した

反復によって叩き込めばよい。信じる

事の中にしか救済はない。疑う事は悪で

あり、代償は「地獄」であり「サタン」

である。教義は共通して、善か悪か、

光か闇か、敵か味方かなどの二元論を

特徴とする。


 エスカレートしたオウムのような集団

は、本物の地獄を用意する。密告が奨励

され、反抗者には集団リンチや抹殺と

いう最期が待っている。そして頂点に

君臨する指導者は、ヒステリックに叫び

続ける。「私は偉い。私は正しい。私を

信ぜよ。私こそ絶対だ。私が救世主だ」

と。かくして個人の未熟なエゴは、集団

の中で肥大化し、暴走を始める。死の

本能に呑み込まれ、対立する者を攻撃

しながら、自滅への道を突き進む。

世界史は、こうした愚かさを連綿と

繰り返してきた。


 「宗教は人を救う為にあるのだ。

オウムは宗教ではない」という、

牧歌的な意見がある。だが宗教史は、

盲信や狂信による血塗られた悲劇に

満ちている。「聖なる軍隊」と言わ

れた「十字軍」は、れっきとした

キリスト教徒たちだった。教皇・

ウルバヌス二世は、聖地エルサレム

回復の聖戦を呼びかけた。この

「聖なる軍隊」とやらを、具体的に

見てみよう。


 1095年、隠者ピエールという、

麻原のような薄汚い、蚤だらけの男

に率いられた約2万人の騎士と農民

たちは、第一回十字軍としてフランス

から出兵。途中ハンガリアの住民

約4000人を虐殺した。異教徒は

全て敵だと教えられていたからだ。

少年を串刺しにしたり、赤ん坊を

丸焼きにするという、残虐な殺害方法

だった。女性は強姦によって改宗を

迫られ、略奪は平然と行われた。

これがつい昨日まで、素朴で善良な

農民だったはずの人間の行いである。

 人々は残酷な行為に対するコメント

として、「人間のする事ではない」

と言う。だが生存に必要のない殺害

を繰り返し行うのは、全ての動物の

中で人間だけである。しかも虐殺

した側の人間たちにとって、それ

らの行為は「快楽」だったに違いない。


 農民たちは、民家に火を放って興奮

した。あわてふためき、逃げ惑う村人

たちを見て、強者あるいは勝者の喜び

に酔った。誰かが逃げ遅れた弱者、

たぶん女性か老人の首をはねた。

天高く噴水のように噴き出す血を見て、

彼らの興奮はピークに達した。面白い、

もっとやろう。歯止めなき本能の流出

は、性的興奮を高め、解放する。剣で

肉体を突き刺す行為は、本来の性交の

代償行為でもあるからだ。串刺しに

された女性を見て、エクスタシーを

感じたサディストもいたはずである。


 しかも彼らは虐殺に対し、罪悪感を

感じるどころか、キリスト教徒の義務

を果たしたというすがすがしい気持ち

だったという。それが彼らにとっての

「信仰」だった。その彼らも、ハンガリア

軍トルコ軍に包囲されて全滅する。包囲

された時、彼らも神に祈っただろう。

「どうか私を救ってください」と。


 だが一回失敗したぐらいで

あきらめるような彼らではない。

何せ十字軍は、「聖なる神の軍隊」

なのだから。キリスト教徒以外は、

滅びて当然という信念があった。

迎え撃つイスラム教徒も「聖戦

(ジハード)」を唱えた。


 第二回十字軍でキリスト教徒は、

エルサレム包囲に成功。7日間

かけて、約7万人の住民を虐殺した。

十字軍は約200年間、第9回まで

断続的に続けられた。中には、夢で

キリストから手紙をもらった12歳

のステファンによる、「少年十字軍」

という例もある。約3万人の少年は、

行軍途中に熱射病で死ぬか、海で

溺れて死ぬか、アレキサンドリアと

バグダッドの奴隷市場に売りとば

されるかの運命が待っていた。


 中世の宗教裁判や魔女狩りはどう

だろう。残虐さと変態性欲の限りが

尽くされている。教皇インノ

ケンティウス三世やヨハネス二十二世

という、「宗教的権威」が、先頭に

立って音頭をとっている。魔女狩りは、

ヨーロッパやアメリカのキリスト教

世界で、約400年間続けられた。

またキリスト教徒たちは、南北アメリカ

大陸や太平洋諸島、アジア・アフリカの

先住民族に対し、数々の傲慢無礼と

虐待・虐殺行為を行っている。


 さらにルターやカルヴァンの宗教改革

以降の、カトリック対プロテスタント

の血みどろの抗争がある。たとえば

1572年8月24日、パリ。

カトリック信徒は、3日間かけて

約4000人のプロテスタント信徒を

なぶり殺しにした。聖バルテミーの虐殺

である。名君アンリ四世は、「ナントの

勅令」を出して彼らを和解させるが、

やがてカトリック教徒によって暗殺

された。宗教史は、血塗られた虐殺の

歴史なのである。


○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。


第17話「宗教的タブー」


 仏教とは、煩悩根絶を説いたもの

だと信じられている。だが、根絶

あるいは「肉体(欲望)」の放棄という

発想や修行は、生命無視のニヒリズム

(虚無)の世界に通じているように

思われる。極めて不自然なのだ。


 では仏陀という精神世界の巨人は、

「禁欲」を説いたのか。一部の経典

には確かにそう書いてある。だが違う

のではないかと思う。仏陀が語ったと

すればおそらく、「肉体の快楽のみに

執着する事は、苦しみの原因になる」

というような内容だっただろう。

「だから肉体の快楽に執着する自分

の意識の状態を、客観的に観察出来る

ように心がけなさい」と。


 微妙なニュアンスの違いだが、

「禁欲」とは雲泥の差が出てくる。

そもそもゴータマという男は、愛欲

生活と禁欲生活の両方から離れ、悟り

を開いて仏陀となり、「中道」を説いた

人物だ。自然の本質を理解し、人間の

内面を洞察しきった仏陀が、男女両性

の存在意義について理解しなかった

はずがない。肉体から「性」を切り

離し、セックスだけを罪悪視して

特別に切り離してしまう理由など

どこにもない。仏陀の人生と説法を

総合的に判断すると、そういう結論に

なる。


 仏教が煩悩根絶の禁欲宗教になって

しまったのは、一部の経典にこだわり

過ぎた為だろう。たとえば、「出家の

功徳」として知られている「パーリ語

大蔵経長部経典・沙門果経」では、

やたらと戒律が説かれ、「愛欲を断ち、

淫らな行いを断つ」と明記されている。


 なるほど、これらの経典に接した者

は、経典の内容イコール仏陀の説法だと

思うだろう。だが果たして本当にそう

だろうか。仏教はジャイナ教を「外道」

として遠ざけた。そのジャイナ教の

教義である「五戒・十戒」の戒律が、

なぜ「出家の功徳」で同じように

説かれているのか。どうもその辺が

不自然で怪しいのである。


 そもそも「(スートラ)」とは、

仏陀の死後に弟子たちが文章化した

ものだ。誤解や主観的・観念的すりかえ

がなかったとは言い切れない。


 仏教に限らず、キリスト教や

イスラム教など、宗教全般について

言える事だが、ことセックスとなると、

やたらに罪悪視して排除する傾向が

ある。生命という視点でみれば、

セックスとは純粋な生命エネルギーの

ようなものである。善でも悪でもない。

少なくとも「不浄」ではないだろう。


 性的欲望・性的好奇心は、多様な

文化を華開かせる原動力になる。活字

や映像の各メディア、アートや音楽

などの作品群は、すべて性エネルギー

や「誇示本能」の変容した形態だと

言っていい。すぐれた作品ほど「官能的」

だったりする。それを人は「生命の輝き」

と呼んでいる。作品は人々の心を潤し、

癒し、活気づける。


 性的感性は、母なる海にたとえられる。

デリケートな愛の情感を育て、慈愛に

変容すればマザー・テレサのような

人類愛に至る。また、ファッションや食

文化を味わいあるものにし、美的センス

が磨かれる。遊びの文化が余裕と笑い

をもたらし、心を開放する。


 性エネルギーは、すべての「創造」の

母体でなのだ。要は母なる海でいかに

溺れずに泳ぐかという事だ。宗教が

セックス(欲望・煩悩)を否定し、意識的

に禁じてしまうと、性エネルギーは抑圧

され、大きな歪みをつくってゆく。どの

道、違反する確立の方が高い。禁欲の

ドグマ(信条・信念体系)に支配されたまま

の意識でそれに違反すれば、罪の意識に

苛まれる。


 この「罪の意識」が問題なのだ。

罪の意識によって、心理的ストレスは

増すばかりとなる。禁じれば禁じる

ほど「欲求不満」は増大する。欲求

不満は攻撃本能を呼びさます。その

攻撃本能が自己の外側へ向かえば、

殺人・テロ・戦争となり、内側へ

向かった極端が自殺や心中となる。

中世ヨーロッパのキリスト教社会も、

オウム真理教事件も、20世紀末に

流行した小説「失楽園」の心中も、

「禁止のドグマに違反した罪の意識」

が働いている。


 禁欲のドグマは、性犯罪・テロ・

戦争の種子でしかない。だが人類の

無意識にとって、このドグマは

並大抵の深さではない。第一に

「旧約聖書」である。主題は

ヤハウエとイシュタルの闘争。最初

に神は、宇宙天地と人間を創造した。

だが人間は、大地の化身・蛇の誘惑

によって堕落する。イシュタルという、

古代オリエントの大地の女神に象徴

されるような、女やセックスは悪で

あり、堕落の象徴だった。


 そして「新約聖書」が引き継ぐ。

人間を堕落させた悪の原理とは、

徹底的に戦わなければならない。

戦いつづければ、最後に必ず天から

再臨のキリストが現れて、最後の

審判を下す。キリスト側は永遠の

生命を得て、悪魔側は永遠の地獄

行きとなる。


 旧約・新約聖書の基本原理は、

「創造・堕落・終末からキリスト

再臨」の三段階方式である。これを

利用したのが、マルクスの唯物史観

だそうだ。始めに原始共産制ありき。

私有財産制は堕落。これを暴力革命

によって打倒し、共産制に再創造

する。なるほどと思う。


 聖書原理に従えば、大地は魔女で

あり自然は堕落したもの。自らを

「肉の棘を持つ者」と言ったパウロ

はもちろん、デカルトやベーコン

など、近代科学思想の土台をつくった

ような者にも、それは浸透している。

その結果、親の仇みたいに自然から

搾取し続けた西洋文明であり、侵略

し続けた帝国主義につながる。


 聖書原理の「禁止事項」には、明確

な条文(律法)がある。「十戒」である。

話は紀元前15世紀の、古代エジプト

に遡る。ラムセス二世が支配するこの

土地で、ユダヤ人たちは奴隷として

生きていた。神・ヤハウエから同朋

救出の使命を与えられたモーゼは、

数々の奇跡に守られながら同胞と

共にエジプト脱出に成功。海を割った

という、モーゼ最大の奇跡を生んだ

紅海を渡り、シナイ山の麓にたどり

着いた。


 モーゼは神の啓示によって単身

シナイ山に登り、三日目の朝、雷鳴

と稲妻の轟いた後に神・ヤハウエ

から律法を授かった。これが「十戒」

である。十戒は、バビロニア王の

「ハムラビ法典」や、ローマ法の

基礎となった「十二銅版法」と並ぶ、

人類の最も古典的な法律の一つと

されている。後に現れるイエス・

キリストも、十戒は重要視した。

いわば、ユダヤ・キリスト教文明の

「礎石」のような言葉なのである。


 十戒の前半は、神と人間の関係性

について述べている。


1・我は汝の神・ヤハウエ。汝を

エジプトより導きし者。我以外の

ものを神とするなかれ


2・汝、自らのために偶像を作って

拝み仕えるなかれ


3・汝の神・ヤハウエの名を

みだりに唱えるなかれ


4・安息日をおぼえて、これを

聖とせよ


 次に5は、「汝の父母を敬え」

と命じている。そして


6・汝、殺すなかれ。

7・汝、姦淫するなかれ。

8・汝、盗むなかれ。

9・汝、隣人に対して偽りの証を

するなかれ。

10・汝、隣人の家に欲を出す

なかれ、と続く。

 

 聖書原理の大原則は、神が世界を

創造・支配し、人間が絶対服従する

関係にある。神は人間に対して、

法律を定めた。法律とは、禁止して

おかないと必ずや実行するであろう

事柄である。つまり人間とは本来、

十戒とは「逆」の本質を有している

と読めるのである。


 十戒を「逆」に読むと、「人間は

本来、父母を敬ったりしない」と

読める。同様に「人間は本来、

殺しや姦淫を好む」と、さすが神と

名乗るだけあって、人間の本質を

鋭く突いてくる。


「1〜4について逆読みすると、

人間は本来、崇高な唯一神などに

興味はなく、理解する能力もない。

現世利益をもたらすと信じられて

いる偶像を拝む傾向がある。その

くせ天変地異や疫病の流行など、

困ったことがあると神の名を唱え

て救いを求める。そこで、安息日

という定期的かつ強制的な、神に

対する祈りの習慣が必要になって

くる。こうして飼い慣らしておか

ないと、人間どもは神の事など

すぐに忘れてしまう。より多くの

美食・豪華な住居・美しい異性など

の、目先の快楽ばかりをむさぼり

尽くそうとする。人間どもは

かくの如き生き物だから、神の

従順な羊として生きよと命じて

いる。

 では「父母を敬ったりしない」

とはどういう事か。男の場合、父を

殺して母を妻にしたいという、女の

場合は父を愛し、母を憎むという

潜在的な願望があるという。

フロイトの「エディプス・コン

プレックス」だ。この潜在的衝動

を幼少時にうまく克服出来ないと、

さまざまな性癖や性犯罪、殺人に

至る心理的要因が形成されるの

だと言う。


 性癖の極端な例は「ネクロフェリア」

である。死体や流血、腐敗した物や風景、

排泄物が大好きな性格。ヒトラーや

ナチスの連中がそうだったと言われて

いる。たった一人の性倒錯が、世界を

破滅に導く事もあると思えば、笑い事

では済まされない。


 それで「殺すなかれ」である。

イギリスの作家・コリン・ウィルソン

は、セックスと殺しの密接な類似性に

ついて指摘している。殺す者と被害者

の関係は、セックス中の男女と同じ

ようなものだと述べている。フロイト

も同様の立場である。ナイフを肉体に

突き刺す行為は、ペニスを挿入する

代償行為であると。


 人間にとって殺人と姦淫は、本来

同質の「快楽」なのかもしれない。

殺しはヤハウエに言われるまでもなく、

旧石器時代からタブーとして禁じられ

ていたらしい。タブーとは「あきらめ

の感情」であり、本来とても魅力的な

行為の事を指す。人類の3大タブー

とは「殺人・食人・近親相姦」である。


 姦淫という言葉は、かなりの頻度で

旧約聖書に登場する。何度も禁止勧告

が出されている背景には、ほぼ日常的

に民衆の間で「姦淫」が行われていた

現実が存在する。だがいくら神でも、

生殖行為自体を禁止するとは思えない。


 母と息子、父と娘、兄弟姉妹間の

性行為は、原始社会からのタブーと

して、死刑に値する罪だった。これを

犯した者は、部族の者が集団で処刑

したわけだ。それほど近親相姦とは

魅力的らしい。だからそのタブーを

破った者がうらやましい。その嫉妬

の感情が「死刑」となったのである。


 さらに、ヤハウエと対立する古代

オリエント社会では、大地の女神・

イシュタルを敬うという意味から、

男は牡牛、女は蛇や子猫、子犬、

ロバなどと交わった。プトレマイオス

朝エジプトでは、兄弟姉妹で結婚

するのが原則だった。「姦淫」とは、

これらを禁止した言葉だったらしい。

禁止したくなる気持ちもよくわかる。


 原始社会から人間は、動物を

神からの贈り物として殺し、感謝

して食べた。同種の動物、つまり

人間は食べなかった。これは動物に

共通した「殺しの抑制機能」だと

言われている。殺しはタブーである。

だが殺したい。そこで「心理的

すりかえ」というか、「論理的

ごまかし」が必要になる。殺す

相手が同種でなければいい。殺し

の抑制機能は、異種ならば無く

なるか非常に弱まる。殺す相手が、

殺すに足る理由があればいい。


 歴史上、かつ現在に至るまで、人間

はさまざまな「異種」を仕立て上げ、

殺しの対象にしてきた。聖書文明で

あれば、異教徒や魔女。戦争であれば

敵。社会で言えば非人。歴史は、

こうした暴力の記録だとも言える。


 つまり十戒後半を逆に読むと、人間

は本来、殺人と近親相姦を強烈に望み、

嘘つきで、他人の所有している物や人

を欲しがる生き物だということになる。


「なぜ人は自分の妻を愛さないのだろう。

他人の妻をあれほど愛するというのに。

(アレクサンドル・デュマ)」・・・

 

 神は禁止を命じている。だがどう

しても違反してしまう。人間は罪の

意識に苛まれる。この感覚が「原罪」

なのだろう。人間の欲望の貪欲さには

底がない。それゆえに、神に対して

罪深さの許しを願い、祈り、救済を

求める。そこで、人間の根本的救済の

使命を背負って、イエス・キリストが

登場する。

 それから2000年余。終末予言に

描かれた人類的破滅は起こらず、時は

過ぎてゆく。人類は罪の意識から解放

されるのだろうか。


○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。..。o○o。


第18話「宗教と洗脳」


 1995年の日本は、阪神・淡路

大震災と、オウム真理教事件の年

だった。折しも1999年に世界は

滅びるのではないかと、まことしやか

に終末予言が囁かれ、世相は暗かった。


 オウムというカルト集団はまさに、

こうした時代の象徴だった。ヒトラー

を尊敬し、ハルマゲドン(世界最終戦争)

が来ると信じていた。政治や宗教のカルト

集団の特徴として、いくつかのキーワード

がある。


「洗脳・自閉(孤立)・妄想・自己中心性・

粛清・マニュアルの存在」などがそれで

ある。


 「洗脳」というと、ヒトラーの

ドイツ第三帝国がまさにそうだと言われ

ている。洗脳とはある思想や信条・信仰

などを、強制的に相手に注入する作業の

事だ。ヒトラー率いるナチスは、アーリア

人種こそが優秀で正しく、ユダヤ人など

滅びて当然だとして、約600万人を

強制収容所に送り込み虐殺した、狂気の

軍事集団である。


 そのヒトラーは、合法的な手段に

よって独裁者の地位を手に入れた。アウト

バ―ン建設などの公共事業に力を入れ、

失業者問題を解決した。彼は時代の英雄に

なった。第二次大戦前のオーストリア併合

も、民衆の圧倒的支持を得た。当時の

ドイツ・オーストリア国民は、まさか

彼が後に、「絶対悪」の代表にされよう

とは思ってもいなかったに違いない。


 さらにもう一つ、「宗教と洗脳」を

見事に一致させた大カルト集団がある。

「国家神道・大日本帝国」である。

この集団は1933(昭和8)年3月、

国際連盟から脱退して国際社会から

「孤立」した。


 孤立の原因は、満州国建設だった。

オウムにも「シャンバラ化計画」という

理想の国づくり計画があったが、満州国

も中国東北部に、「五族協和」「王道

楽土」の建設を掲げた理想国家だった。

地元住民の反対運動は、関東軍が武力で

鎮圧した。


 当時の日本人にとって、満州は新天地

だった。日露戦争・数十万の英霊の犠牲

の上に勝ち取った土地だった。国際世論

は「日本による侵略」として非難したが、

日本人にとっては「歴史的必然」と解釈

された。新天地を求めて、数多くの

「満蒙開拓団」が入植した。むろん彼ら

も、それが侵略行為だなどとは思って

いなかった。


 一方国内では、軍部独裁政権を目指す

クーデター計画が、着々と進められて

いた。1936(昭和11)年2月26日、

21人の青年将校が、「昭和維新」の

名のもとにクーデターを起こした。

4日後に鎮圧。軍部はこの「2・26

事件」を脅迫材料にして内閣に干渉。

「親英派」や「自由主義者」を排除し、

国家予算の50パーセントを軍事費に

投入させた。まるでわざと、失敗する

ようなクーデターを起こさせ、後に

より大きな成功を勝ち取るという

筋書きが、あらかじめ仕組まれていた

かのように。


 大日本帝国は、大和・武蔵をはじめ

とする巨大戦艦、零戦をはじめとする

航空機の開発を進めた。そうした

「武装化計画」が進行する中、翌年

7月7日、かねてより「七夕の夜に

何かが起こる」と噂されていた北京

駐屯軍で、謎の発砲事件が発生。

これをきっかけに、日本は中国との

全面戦争に突入していった。


 日本国内では、8月24日に「国民

精神総動員実施要綱」が閣議決定された。

「挙国一致」のスローガンが掲げられ、

「銃後を守れ」キャンペーンが、ラジオ・

新聞・映画等のメディアを使って、

大々的に宣伝された。日本・中国・満州

による「大東亜共栄圏建設」という、

輝かしい理想。欧米列強を駆逐し、

アジアの平和を勝ち取るというのが、

戦争の大義名分だった。学校でも家庭

でも、町内会(隣組)でも軍隊内でも、

徹底した思想統制が実施された。


 「戦うぞ、戦うぞ、お国の為に戦うぞ。

神国日本は不滅だぞ。神風が吹くぞ。」

という主旨のプロパガンダだった。


 ちなみに、この思想を刷り込まれた

まま成長した政治家たちは、戦後50

年を経てなお、アジア諸国の感情を

逆撫でするような不穏当発言を繰り

返す事になる。


 むろん国民一億人ともなると、朝

まで天下国家を論じ、国際情勢や政府の

詭弁を客観的に分析出来る人々もいた。

こうした「客観人間」は、洗脳され

にくい。彼らは「内部粛清」の対象者

として、憲兵隊から徹底的にマーク

された。そして闇から闇へ葬るような

形で、坂本弁護士一家のように「ポア」

された。彼らが召集されて軍隊に入ると、

戦場等で自軍によって銃殺されるので

ある。これを「うしろだま」という。

軍の極秘事項なので、正確な数は

わからない。


 憲兵隊はもともと、軍隊内部の犯罪

や思想を取り締まっていたが、テロや

クーデターに乗じて力を増し、この頃

になると特高警察と共に民間人も取り

締まりの対象になった。ちなみに2・

26事件当時の憲兵隊長は、東条英機

少将である。


 憲兵隊では、思想統制に関する

「マニュアル」を作成していた。

「嫌戦気分封殺戦術」と名付けられた、

手帳サイズの赤い小冊子で、集団心理

を利用して段階的に国民の思想を操作

し、戦争はいやだ・嫌いだという気分

を変革し、積極的に戦争を推進して

ゆく為の方法論が記述してあった。

国民は、戦争に勝つ事が全てとなる

ように、それとは知らずに洗脳されて

いった。


 こうした「情報操作」の敵は、

「客観人間」である。客観性はジャーナ

リズム的視点と言いかえる事も出来る。

だから独裁者は、最初にメディアを

おさえる。それで、洗脳の結果は

どうだったのか。怖かったのは

アメリカ人でも憲兵隊でもなく、

隣に寝ている妻だったという証言が

ある。戦争を推進していたのは男

だけではない。「銃後」の女たち

からも熱く支持されていた。日本

でもそうだし、ヒトラーを支持した

半分は女性だった。


 また、身体障害者や病気の人々は、

「お国の為に役に立たない非国民」と

してののしられ、徹底的に差別された。


 やがて「新州不敗」を誇る大日本帝国

は、太平洋戦争に突入。敵は「鬼畜米英」

たる、アメリカ・イギリス・オースト

ラリア・オランダなどの連合国軍。最初

のうちは連戦連勝。やがてじりじりと

負け続け、最期は「天皇陛下、万歳」

を叫びながら敵に突入する、「玉砕

(全滅)」という名の集団自殺に追い

込まれる。サイパンでも沖縄でも、神風

は吹かなかった。


 いかがだろうか。カルト集団の特徴を

示すキーワード、「自閉(孤立)・妄想・

自己中心性・洗脳・粛清・マニュアルの

存在」などが、大日本帝国の歴史に全て

あてはまるのである。

 

 宗教というものは、人間の感情や情緒

を刺激する特徴があり、自己陶酔的傾向

が強い。多分に主観的・観念的であり、

客観的に物事を判断するという訓練に

欠ける傾向がある。それがおそらく、

歴史認識の甘さに通じているのだろう。


 オウムと大日本帝国が、同じ「病理」

を抱えていたとなると、問題は人間の

本質に向かわざるを得ない。「エゴ」

とは何かという話になる。オウム信者の

多くは、自分自身や社会の「エゴ」に

対して、強い問題意識を持っていた。

教祖たる麻原は、瞑想によってエゴを

根絶せよと説いた。その教祖と信者が、

なぜエゴそのものの集団だったの

だろうか。


 エゴとは、「自我・自己・自己中心的

な考え方」と訳されている。エゴは自分

の利益だけを考え、人の立場や気持ちを

踏みにじる。オウム集団は何度も地元

住民とトラブルを起こし、対話に応じ

なかった。エゴは、自分の否は認めず

に、悪いのは全て自分(自分の属する

集団)以外の全てだと考える特徴が

ある。常に他者の悪口を言って恥じる

事がなく、エスカレートすると攻撃

の対象になる。


 エゴは個人だけでなく、集団

(組織・団体・国)にも存在する。

むしろエゴが強められて力を持つ。

「わが団体こそは、わが国こそは

正しい」と主張する。個人の喧嘩から

戦争まで、エゴは拡大し、対立する。

諸悪の根源とも言えるエゴの正体

とは、実は「生命維持の原理」

そのものなのである。


 人間は個体と種を維持する為に、

さまざまな本能を身につけている。

それは、

無意識レベルに情報として蓄えられて

いる。学習の必要はない。人間が集団

を形成するのは、外敵から身を守る

「群居本能」に基づいている。支配

と服従の関係が無くならないのは、

「屈従本能」という、「支配されたい」

と望む願望があるからだと言われて

いる。危険に対処する為の「逃走本能」

と「闘争本能」。性本能と同質の

「獲得本能」や「誇示(自己主張)本能」

本能のレベルでは、誇示し獲得する

第一目標は「異性」である。


 「利己的な遺伝子」という言葉が

あるように、これら生命維持の為に

不可欠な本能は、すべて自己中心的に

作用する性質を持っている。そして

これらの本能は、外部の環境によって

精密機械のように反応する特定の

パターンを有していて、ものの考え方

や行動様式に重大な影響をおよぼし

続ける。犯罪心理学の分野では、

「環境と人格の関数」という数学的

公式さえ存在している。本能レベル

だけで言えば、人間は刺激に反応する

「機械」に等しい。


 生命維持の原理に従えば、自分の

身に攻撃が加えられれば、防衛上相手

を殺すかもしれない。愛する人が殺され

れば、復讐の感情が湧き上がる。やられ

たらやりかえすという、戦争の論理にも

繋がっている。極限の飢餓ともなれば、

人肉でも食べるだろう。善悪のモラル

は通用しない。


 エゴ即ち生命維持の原理を否定する

事は、生命そのものを否定することに

繋がってしまう。生命(個体および種)

の維持・発展は、いわば宇宙の意志

そのものと言ってもいいだろう。だから

「棄てろ・根絶しろ」と言っても無理

なのだ。

 だがエゴから派生するものの考え方

は、克服しなければならない。その為

には意識の成長が不可欠となる。意識

は「学習」によって磨かれる。意識の

成長が進むと、エゴによる心理や思考

を客観的に認識し、本能に「支配」

されている盲目的状態を脱して、

主体的・意識的な自己を確立するに

至る。こうした意識レベルを、聖人・

賢者は「覚醒」もしくは「解脱」と

呼んでいる。


 覚醒した意識とは、あらゆる

二元対立を超えた「境地」なの

だろう。比較すべき差別相の外側・・

などと言われても、麻原のような

凡俗の意識ではそれが理解出来ない。

エゴから派生する思考は、二元対立

の価値観に支配されているから、その

枠の中でしか考えられない。光と闇、

善と悪、支配と被支配、上と下、天国

と地獄、優越と劣等、力の強弱、敵と

味方、オウムと非オウム。閉じた

円の中の相対世界だ。


 教祖・麻原の思考には「支配と

被支配、偉い・偉くない」という構図

があった。仏陀という覚醒者は「偉い」

存在だ。偉くなれば、トップに登り

つめれば、「支配できる」と考えた。

そこから「宗教的独裁者」という

発想が生まれた。皮肉な事だが、

覚醒者の境地とは、そうした差別相

を客観的に「観照」する能力を持った

意識の事を言う。偉い・偉くないと

いう価値観そのものが無意味である。


 エゴの思考から麻原は、自分が

最も偉いという、自我のインフレーション

状態に陥った。自らを「最終解脱者」

だと、自他に言い聞かせた。滑稽な

話だが、意識の成長に「最終」などと

いうゴールは存在しないだろうに。

この論理だと、仏陀とイエスと孔子と

老子とでは、誰が一番偉くて誰が最終

なのだという話になる。


 人は誰しも迷いながら生きている。

逆境を脱出し、偉くなりたいと思うの

を責める事は出来ない。支配したいと

いう野心もあるだろう。信者として

信じたいという気持ちも、戦時中の

日本人の行動を省みてオウム信者に

重ねると、断固否定する事が難しく

なる。人間心理は複雑で脆い。


 だが麻原は、解脱者が緊急避難的

に他者の生命を奪ってもいいなどと

いう、秘密金剛乗(タントラ・

ヴァジュラヤーナ)を説き、それを

実践してしまった。仏陀のような

覚醒者とは、あくまでも意識レベル

の「境地」であって、他者の魂を

どうこう出来る特権など、あるはず

もない。それがわからず、未だに

麻原を盲信する「オウム」は、

やはり怖い。





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