追憶は波間に漂う
「おかあさん、わたし、おとなになったらなにになるの?」
それは彼女の古い記憶。暖炉の灯りに照らされた部屋でのこと。母を見上げて、彼女は尋ねた。
「魔術師になるのよ、コスモス」
優しい声で、いつもの答えが返ってくる。オレンジの髪がさらりと撫でられた。コスモスはそれが心地よくて、すぅっと目を細めた。
「うん、しってるよ。……まじゅつしって、どんなひとなの?」
コスモスがなおも尋ねると、揺り椅子に座った母の顔に、ふわりとした微笑みが浮かぶ。
「普通の人には使えない力で、みんなを助ける人なのよ」
「わたしにできるかなぁ」
「できるわよ、コスモス」
それは幾度も交わした言葉。忘れてしまったわけでもないのに、コスモスは何度も何度もこのやり取りを繰り返した。いずれ自分はみんなを助ける人になる。その言葉がとても嬉しく、誇らしかったからだ。
大人になったら何になろうか。友達はみんな、楽しそうに迷っている。お父さんの仕事を継ごうか、それとも違うことをしようか、女の子ならお嫁さんになろうか、と。
コスモスは迷わなかった。お父さんとお母さんの言うような、立派な魔術師になろうと心に決めていた。村のみんなも、そのことはよく知っていた。
「お前、魔術師様になるんだろ」
「立派な魔術師様になってね」
友達にも大人にも、いつもそう言われていた。
コスモスは、その言葉の通りに頑張った。いつの頃からか移されていた村はずれの家で、先生と二人きりで魔術の勉強をした。コスモスは魔術が下手くそなので、自分の力を抑えきれずに誰かを傷付けてしまうかもしれない。だからコスモスは、あまり歳の近い子供と遊ばなかった。
『魔術師は『外』では嫌われている』。
これは、村の子供なら物心つく前に教えられる知識だった。コスモスもそのことは分かっていて、村を隠すように繁る林の外から役人や商人が来ると魔術の道具を隠し、自分の夢が魔術師であることも決して口にしなかった。
けれど、コスモスは一度だけ『外』の人間に魔術師のことを尋ねてみたことがある。人のよさそうな小太りの男が、小物を売りにやって来た時のことだ。
「あの、すみません」
おずおずと話しかけたコスモスに、彼は明るい笑顔を向けた。
「どうしたんだい、お嬢ちゃん。何か買ってくれるのかい?」
「あ、す、すみません。買うものはないんですけど……」
口ごもるコスモスに、彼はやはり笑顔を向けたままだった。だからコスモスは少し安心して、言葉を続けた。
「あなたは、魔術師ってどういう人達だと思いますか?」
「ああ、悪魔の使いの連中だな」
さらりと彼は言った。さも当然のことであるかのような口調だった。
「悪魔の……使い……?」
「えーと、悪魔の使いというか、悪魔とまぐわう女共だな」
「まぐわう……って?」
コスモスは戸惑っていた。魔術師が悪魔の使いと呼ばれていることは知っていた。女ばかりが魔術師だと思われていることも知っていた。しかし、それでも彼の言い草は奇妙に感じられた。自分の世界では嘘とされることを、こんなにもけろりとした顔で語る人間がいることに、衝撃を受けた。
「まぐわうってのはな……ああ、どう言ったらいいんだか」
彼は困った顔をして、言葉を探しているようだった。こんな小さな子にする話じゃなかった、などとぼやいている。コスモスはその目をじっと見た。すると彼はコスモスの視線にうぅ……と呻き、観念したような顔で話してくれた。
その夜、コスモスは泣いた。
魔女達は赤ん坊の胸を短剣で突き、その血と肉で悪魔を呼ぶのだという。髪を振り乱しておどろおどろしい声を上げ、胸を割かれた赤ん坊の亡骸を掲げるのだと。
呼び声に答えて現れた悪魔は山羊の頭を持ち、何本もの腕を生やした男の姿なのだという。魔女達は悪魔から力を得るため、そろってふしだらな踊りで悪魔を誘う。そうしてひとしきり踊った後は、服を脱ぎ捨てて悪魔ににじり寄る。そうして―――――――悪魔の冷たい体に、ぴたりと肌を添わせるのだという。
(違う!!)
コスモスは心の中で叫んだ。
そんな魔術は存在しない。人を生贄とすることは遥か昔に禁じられている。悪魔などというものは魔術の教えには一度も出てこない。女の体をそのように使う魔術など、どこを探してもあるわけがない。
何もかもが間違っている。
コスモスが習ったのは精霊や魔物と言葉を交わす術、人の体を癒す術、雨乞いに水脈探し、呪いよけや薬の作り方。危険な術や人を傷付ける術もあるとは教わったけど、あんなおぞましい術はない。禁じられた魔術にすら、そんなものはなかった。
外では誰もがあの話を信じているというのか。そう考えると恐ろしかった。村を囲む林が底知れない真っ暗闇につながっているように思えて、村から出るどころか林に近付くことさえできなくなった。
(違う…………違う…………私は、悪魔の使いなんかじゃない………)
ベッドの隅で自分の体を抱えて震える。夜通し涙を流しながら。
そう、あの夜もコスモスは泣いていた。
赤い炎は魔物の舌ようにぬらぬらと家々をなめ尽くしていく。夜空までも赤く染まる光景を、コスモスは何を考えることもできずに呆然と見ていた。
「コスモス!! 何をしているの、早く来なさい!」
普段とはまるで違う、鋭い声が耳を貫く。転びそうになるほど強く母に手を引かれ、コスモスは走り出した。
「やめて……やめて下さい!! 私は魔女ではありません!!」
「うるせぇ女だな、あぁ? どうやって黙らせてやろうか?」
「好きなようにしろよ。そいつは神の敵だ。何したって罪にはならねぇ」
「てめぇら、よくも俺達の村に呪いをかけやがったなぁ?」
「な、何の話だよ!? お前ら、盗賊かよ!出ていけよ!!」
「とぼけんじゃねぇよ。てめぇらが流行らせた疫病で、一体何人死んだと思ってんだ?」
「おい、ちゃんとそのガキも殺しておけよ。魔女の子は悪魔の子だ。悪いもんは根こそぎ消しておかねぇとな」
恐ろしい声がする。刃のように胸を突き刺し、蛇のようにまとわりつき、最後にはコスモスの身も心もばらばらに引き裂いてしまいそうな声が。
悲鳴が上がる。物が割れる音がする。火花が飛んで顔に当たる。視界は炎で真っ赤に埋め尽くされる。
父の手が乱暴にコスモスを抱き上げる。顔がマントで覆われる。赤い風がゴウゴウと吹き込む。熱い。熱い。熱い。
後ろから誰かが追って来る。父の息が荒くなる。抱き上げられた体が激しく揺れる。
父のマントに包まれて、何がどうなったのかも分からぬまま、コスモスはどさりと地面に降ろされた。そこは木々が鬱蒼と生い茂る林の中。遠くに松明の灯りが見え、怒鳴り声が聞こえていた。
「な、何、どうしたの、お父さん」
コスモスが怯えた声で問うと、父はしゃがんでコスモスと目を合わせた。
「ここからは別れて逃げよう」
月明かりの下、青白くも真剣な顔で父は言った。
「このままじゃ、みんな揃って捕まってしまう。だから二手に別れよう。コスモスは右に、僕達は左に」
母がその横で頷く。
「大丈夫。私達があの人達を引き付けるから。コスモスはその隙にちゃんと逃げて」
「や、やだ。なんでそんなこと、しなくちゃいけないの」
震えながらようやく口にした言葉が聞き入れられることはなかった。父と母はかわるがわるコスモスの頭を撫で、優しく微笑みかけた。
「いい子だ、コスモス。コスモスはすごくいい子だ。だからちゃんと逃げられるね?」
泣きじゃくるコスモスの耳に、父の優しい声が残酷に響いた。頷くしかない。それ以外の選択肢を与えてくれない声だった。
「行きましょう」
母が父の手を引く。
「ああ」
父と母が走り出す。
止める暇などなかった。コスモスは歯を食い縛り、二人とは真逆の方向に駆け出した。
走る内、背後で怒号が聞こえ始めた。父と母の声が混ざっている。足が止まりそうになるのを必死で抑えた。自分は逃げなければいけないのだ。なぜなら、他ならぬ父と母がそう言ったのだから。
夜の林は暗く、そこらじゅうが闇の色をしていた。そのことに心細さを感じる余裕もなく、コスモスは涙をぐしゃぐしゃと袖で拭って走った。服は木の枝に破かれ、靴は脱げ、手足には次々と傷ができた。
松明の灯りが、足音と共に近付いてくる。コスモスがどんなに走っても、諦めてはくれない。松明とコスモスの距離は段々と狭まっていき、遂には相手の顔が見えるようになった。
「さんざん不幸を撒き散らした上に、手間取らせるんじゃねぇよ、クソガキが」
それは、普通の男だった。コスモスの村にいた男達と何も変わらない。何の変哲もないその顔が、表情一つでこうも恐ろしく見えるという事実に、コスモスは愕然とした。それはコスモスが初めて目にする憎しみの表情だった。なぜ、という言葉が浮かんで消える。考えても無駄だ。彼にとって自分は、既に憎むべき何かをしてしまった人間なのだ。
「オラ、さっさと死ねぇっ!!」
斧が振り上げられる。月の光に、斧に付いた血がぬらりと光る。コスモスの頭が真っ白になる。恐怖の感情が心を突き破り、迸る。
「わあぁぁああぁぁぁっ!!」
コスモスが悲鳴を上げると同時に、彼女の体から四方八方へと白い稲妻が発せられた。目も眩むほどの白い光が、その瞬間だけあたりを昼のように照らす。男は稲妻に呑まれてその場に硬直し、稲妻が消えると同時に前のめりに倒れた。
どさっと男が倒れ伏す音が隣で響く。コスモスの肩を掠め、血濡れの斧が転がり落ちる。
コスモスは倒れた男を見た。死んではいない。当たり前だ。コスモスの放つ稲妻に、人を驚かせる以上の力はない。間接的に事故を起こすことはあるだろうからと気を付けるように言われていたが、この力自体が人を傷付けることはないのだ。
コスモスは泣いていた。泣きすぎておかしくなりそうだった。
コスモスはもう一度走り出した。足がガクガクと震え、すぐにこけてしまった。それでも、無理矢理に走った。この際四つん這いでも構わないから、この場所から離れたかった。
(誰も来ないで)
人の気配のしないところへ行きたかった。
(誰か助けて)
ひとりぼっちでいることも、恐ろしくてならなかった。
人が怖かった。
ひとりが怖かった。
コスモスの目には、何もかもが恐ろしかった。
ハッと目を開けると、青みがかった暗がりの中にぼんやりと天井が見えた。キィ、キィと壁が軋み、所狭しと吊り下げられた洗濯物が揺れている。静かに規則正しく聞こえているのは、窓辺のベッドで眠るコマドリの寝息だ。
そうだ、ここは海賊船の船室だ。あの林の中ではない。自分があの場所を死物狂いで走っていたのは、もう四年も前、八歳の頃のことなのだから。
心臓がバクバクと脈打っている。全身が汗に濡れている。目からは涙が溢れてくる。走っていたのは夢の中でのことなのに、酷く息が苦しかった。
コスモスはカタカタと震えながら起き上がり、布団がわりのマントをたぐり寄せた。いつもの粗末なベッドにも増して固い床の上で寝たせいで、肩や背中が痛む。
コスモスは膝を抱え、部屋の隅に縮こまった。体の震えが止まらない。まるで病の発作か何かのようだ。泣きながら逃げたあの日から、この発作がことあるごとに襲って来て、コスモスの心臓を握り潰そうとするのだ。
コスモスは泣いていた。恐ろしくて恐ろしくて仕方がなかった。あの日からコスモスの目には、人という人が自分を傷付けるものに見えてならない。人を見るたび、血濡れの斧を振りかぶる男が重なって見える。声を聞くたび、罵声と悲鳴が同時に聞こえてくる。
(最近は治ってきたと思ってたのに)
今朝からの出来事のせいで、薄れてきていた記憶が呼び覚まされてしまったらしかった。
(ちゃんと、寝なきゃ。明日はみんなの朝ご飯、作らないといけないんだから)
そう思いながらも、目が閉じられない。視界が塞がれてしまうのが怖い。
コスモスはただ、青みがかった闇の中で目を見開いていることしかできなかった。