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泣き虫の魔女  作者: 雪夜群青
『小さな海賊船』編
2/27

逃避行の始まり

 トムは悲鳴を上げ、きつく目を閉じた。口も閉じ、鼻は手で覆った。化け物はぼやけた身体をざわざわと動かし、その手を押し退けようとする。化け物は、目や鼻、口からトムの身体に押し入ろうとしていた。


 化け物はしばらくトムの顔面を()で回した。そして、侵入できる場所を見つけた。


「ひっ!」


 それは、閉じられてもおらず、手で塞がれてもいなかった耳の穴だった。


「ううあ、あぁ、わあああ!」


 トムは手を耳に当てて防ごうとするが、もう遅い。化け物の黒い身体は耳から流れ入り、叫び声を上げる口一杯に入り込み……………そこでピタリと動きを止めた。


 それはまるで、一瞬の間だけ時が止まったかのようだった。化け物が驚いている、とトムは思った。なぜかは分からないが、ともかくそう思った。化け物は、トムではない誰かに注意を向けているようだった。



 そして、次の瞬間。



 バリバリという音と共に、真っ白な閃光が視界を走り抜けた。同時に化け物がビクリと震え、身体をトムから引き離す。突然ひらけた視界の眩しさに、トムは思わず目をつぶった。


「トム! 大丈夫!?」


 裏返った声で、誰かが自分の名を呼んでいる。はっとして目を開けると、見慣れた少女の姿が目に飛び込んできた。


「……コスモス?」




     *****



 心臓が口から飛び出そうだ、と、真っ白になった頭の片隅でコスモスは思った。例の白い稲妻を放って、化け物をトムから遠ざけたところまではいい。だが、今度は化け物の狙いがコスモスに向いてしまった。

 化け物は黒い身体を揺らしながら、コスモスの方を見ていた。ぽっかりと空いた穴のような目からは、何の感情も読み取れない。ただ嫌な予感だけを彼女に与えつつ、化け物は彼女ににじり寄ろうとしていた。


 浅く速く息をしながら、彼女はゆっくりと左手を上げた。まるで指差すように、その人差し指を化け物に向ける。化け物は戸惑ったように身を引いた。しかし、すぐにざわざわと動いて体勢を立て直す。

 化け物は、消えかけの焚き火がくすぶるように震えると、身体を大きく広げた。身体を構成する黒い砂のような粒が、コスモスの視界一杯に広がる。化け物はそのままぐうっと伸び上がって、通りの建物より遥かに高い位置からコスモスを見下ろした。そして、物凄い勢いで彼女に向かって突進した。


 コスモスは無我夢中で叫んだ。その瞬間、コスモスの指先から真っ白の巨大な稲妻が飛び散り、化け物を飲み込んだ。



(え………いない!?)


 コスモスはぎょっとした。化け物が跡形もなく消えてしまったからだ。


(あれ……幽霊じゃないよね?)


 コスモスは混乱した。コスモスが放つ白い稲妻には、人や物を傷つけるような力はない。せいぜい人をおどかして気絶させるだけの代物だ。幽霊のような実体のない相手ならば効果がないこともないが、あの化け物のような姿の幽霊をコスモスは知らない。



(ど、どこに行っちゃったんだろう?)


 きょろきょろとあたりを見回していると、呆然とした顔でへたり込んでいるトムの姿が目に入った。


「トム、大丈夫? 怪我はしてない?」


 コスモスはトムに駆け寄った。


「ねえ、大丈夫?」


 トムは気の抜けたような顔でコスモスを見た。目の焦点が定まっていない。半開きになった口元が震えている。


「トム?」


 コスモスはトムの肩に手を置いた。

 その時だった。


「うわあああっ!」


 トムはコスモスの手を払いのけた。そして、腰を抜かしたまま、逃げるように後ろへ下がる。その顔に浮かんでいたのは、あからさまな恐怖だった。

 そこでコスモスはようやく思い出した。たった今自分が使ったものが、紛れもない魔術であることを。



 彼女は弾かれたように顔を上げた。何人もの人が、いくつもの目が、彼女を遠巻きに見ている。その顔の全てに、恐怖が浮かんでいた。


「魔術じゃないの、あれ」


「光ったよな」


「ああ、あのガキの手が」


「うわ、こっち見やがった!」


 ざわめく声が聞こえる。これは悪夢だ、とコスモスは思った。いつも見る悪夢を、今日は起きたまま見ているのだ。


「魔女だ……」


 トムが震えながら口を開いた。


「魔女だぁっ!!」


 その叫び声に、周囲の人々が一斉にどよめく。


 『魔女』。それはたった一言の言葉であったが、人を最も簡単に破滅させられる、便利な呪いの言葉でもあった。この時、コスモスは全てを失った。仕事も家も友人も、何もかも。



「あの……あの、違うんです、これは……」


 弁解の言葉など何一つ思いつかないのに、コスモスはそう口走った。その身体がカタカタと震えだす。

 コスモスが一歩前へ進み出ると、群衆は悲鳴を上げて後退した。手から稲妻を放つ魔女に、その場にいる誰もが恐怖していた。

 どうにもならない、とコスモスは思った。この状況はそういうものなのだと、彼女は知っていた。このままでは自分は捕らえられるだろう。今は恐怖が勝っていても、あとほんの少しすれば人々は動き、憎むべき魔女を縛り上げるだろう。


 このような事態が起きたときにはどうするか、コスモスは前から決めていた。彼女はぐっと唇を噛むと、自分を取り囲む群衆に向かって走りだした。大きな悲鳴が上がり、人垣が割れる。その真ん中を彼女は突っ切った。走るコスモスの耳に、悲鳴とも怒号ともつかない声が、そこらじゅうから聞こえてくる。コスモスは耳を塞いだ。それでも離れていかない声の嵐を、頭を振って落とそうとした。



 走って走ってパン屋の前まで来ると、女主人のブロートンがいた。


「あらコスモス、どこに行ってたの?なんでか分からないけど、今大変な騒ぎでね……」


 混乱した様子でブロートンが話しかけてくる。コスモスの顔が歪んだ。


「……失礼します!」


 コスモスは店の中に飛び込み、階段を駆け上がって屋根裏部屋に入った。屋根裏部屋にはベッド以外に家具が一つもない。コスモスはそのベッドの下から薄汚れたマントと鞄を引きずり出し、手早く身につけた。



 その時、外から誰かの怒鳴り声が聞こえ、コスモスはびくっと震えた。乱暴な足音が階段を駆け上ってくる。コスモスは鞄に手を突っ込み、小瓶を取り出して震える手で開け、中身を頭から振りかけた。白い粉が彼女の身体を覆うのと、部屋の扉が乱暴に開けられるのがほとんど同時だった。


「どこに行きやがった、魔女め!」


 先陣を切って入ってきた男が言った。その男を押しのけるようにして、次々と火かき棒や(なた)を持った男達が入ってくる。


「いねぇな。逃げたのか?」


 男の一人がベッドの下を覗き込み、首を傾げた。


 コスモスは彼らの目の前にいた。ただし、その姿は誰にも見えていなかった。


(透明薬があってよかった……)


 コスモスは男達の間をすり抜け、部屋を抜け出した。




 急がなければ。

 透明薬の効果は、長くは続かない。


「魔女はどこに行った!?」


「探せ! 殺せ!」


 叫びながら走り回る人々の中を、息を切らしてコスモスは走った。コスモスはお世辞にも足の速い方ではない。彼女は必死だった。


「どこのどいつか知らんが、魔女め、逃げるな! 出てこい!!」


 怒鳴り声に驚いて見上げると、通りに面した二階の窓からがなりたてる男の姿が見えた。それは、今朝もコスモスと一緒に働いていたパン職人だった。


「さっさと隠れるのをやめやがれ! 逃げてまた悪事を働こうって腹づもりだろうが、そうはさせねぇぞ!」


 コスモスは(きびす)を返した。胸の奥がずきずきと痛む。心の中に後生大事に持っていた硝子(ガラス)細工のようなものが、砕け散っていく気がした。

 (まばた)きをすると、涙が溢れた。

 視界が(にじ)んで、頭の中もじんじんと痺れるようだった。

 コスモスはただ走った。走るしかなかった。




「いたぞ!」


 その声でコスモスは我に返った。


 ぎょっとして自分の手を見ると、全身を覆っていたはずの透明薬の粉が剥がれ、所々が透明ではなくなってしまっている。


 おろおろとあたりを見回すと、船が見えた。港だ。そこは小さめの港で、もうすぐ出港すると思われる船が何隻か停泊していた。ほとんどの船が、やはり魔女を恐れてのことなのか、縄ばしごを外し、貨物の搬入口を閉じていた。しかし、その中に一隻だけ、搬入口が開きっぱなしの船があった。考えている暇はない。コスモスはその船の中に駆け込んだ。


「魔女が船に乗ったぞ! 引きずり出せ!」


 手に手に武器を持った男達が、港に続く大通りを駆けてくる。コスモスは後悔した。船の中ではもう逃げ場がない。あの人達が踏み込んできたらおしまいだ。


 ところがその心配はすぐに打ち消された。船が突然動きだしたのだ。搬入口を大きく開け、甲板から縄ばしごを垂らしたままで、港を離れて行こうとする。それは、船のことはほとんど知らないコスモスが見ても異常だった。


「ああっ、待て、そこの船!!」


「止まれ、その中には魔女が……」


 人々の静止を聞く様子もなく、船は大海原へと急発進した。




 甲板で一人の少年が欄干に寄りかかり、遠ざかる陸を眺めていた。少年は背が低く痩せぎすで、ぶかぶかの古い服のポケットに手を突っ込んでいる。薄茶色の髪は、ろくに手入れもしていないのかボサボサだ。そのボサボサ髪の間からは、同じく薄茶色の、尖った光を放つ目をのぞかせていた。


 そこへ、もう一人少年が歩いてきた。こちらは東方の血が混じっているのか、黄色っぽい肌と癖のない黒髪、黒い目をしている。羽織っているのは、なぜか色とりどりの絵の具がついたスモッグだ。



「誰も来てねぇだろうな?」


 ボサボサ髪の少年は、黒髪の少年に向き直って尋ねた。


「今のところは大丈夫だ。でも、油断はするなよ」


 黒髪の少年が答えた。

 ボサボサ髪の少年は舌打ちした。


「ったく、なんだってんだよ。いきなり船のほうにワーッと押し寄せて来やがってさぁ。あんなに早く、オレたちのことがバレたっていうのかよ!?」


 黒髪の少年は(あご)に手を当て、考え込むような仕草をした。


「確かにありゃあ変だったな。一応逃げることにしたけど、あいつら、おれたちを捕まえに来たってのとはちょっと違ったような………あっ、待てよトンビ!」


 トンビと呼ばれたボサボサ髪の少年は、すたすたと歩き去ろうとしているところだった。黒髪の少年の声に、トンビは振り返りもせずに応える。


「んなこと考えてもしょうがねえだろ。それよりヤバいのは食いもんだ。さっきの騒ぎのせいで手にいれそこなったんだからな。さっさと行くぜ、ハヤブサ! 倉庫の確認だ!」


「やれやれ、せっかちなやつだな」


 黒髪の少年――ハヤブサは苦笑すると、トンビを追いかけて駆け出した。




 コスモスはそろそろと、船内から甲板へ上がった。無我夢中で船に乗ったはいいものの、これが誰のどこへ向かう船か、彼女には全く分かっていなかった。

 船内から甲板へと続く暗い階段の先には天井があり、そこに出入口の扉がついていた。扉の取っ手は、揺れるランプの光で浮かび上がったり消えたりを繰り返している。コスモスは半ば手探りで取っ手を掴み、ゆっくりと押し上げた。


 とたんに強い風が顔に吹きつけた。目が潰れそうなほどの明るさに、コスモスは目を細める。

 かんかん照りの太陽の下で、甲板までもが光って見えた。そこに人の姿は見当たらない。後ろを向いてみると、太い帆柱がある。コスモスは恐る恐る身体を甲板の上に引き上げると、帆柱の上を見上げた。そこには、船を区別するための旗が掲げられているはずだからだ。

 眩しいほどに青い空の中、帆柱のてっぺんで小さな黒い旗が揺れていた。黒い旗は見たことがない。


(変なの)


 コスモスは首を傾げる。



 と、その時、旗がひらりと広がった。それを見た瞬間、コスモスの顔が強張(こわば)る。

 真っ黒な旗の中央に、白い髑髏(どくろ)

 それは海賊旗だった。

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