月光はあまねく世を照らし
トンビは声もなく立ちつくしていた。
それは隣のハヤブサや、彼らの背後に隠れるようにして立つ他の少年達も同じだった。
そこには、怪物がいた。
夜闇の中で黄金の眼をぎらぎらと光らせ、マストと張り合うほど高くまで、巨大な鎌首をもたげている。
恐怖で身動きもとれなくなるほど恐ろしい存在がそこにいた。
そしてもうひとり。
そこには、恐怖の源泉があった。
それは、怪物と未知の言語を交わす、得体の知れない少女だった。
*****
《人間共が、わらわらと這い出てきおったぞ。どうするつもりだ? 魔女狩りとやらに遭ってみるつもりか?》
大海蛇が楽しそうに問う。
コスモスの首筋を、一滴の汗がつたった。
逃げなければならないのは、これで三度目だ。八歳で焼け落ちる村から逃げたあの夜、数日前に港町から逃げ出した時、そして今。
三度目ともなれば、少しは冷静さが身につくものなのかもしれない。こうなることを前から予想していたのもあって、コスモスは静かに少年達を眺めることができた。
彼女は、少年達の顔をひとりひとり確認した。一番前にいるトンビやハヤブサはもちろん、のんびりした背の高い少年も、寝ずの番が得意だという少年も、小柄でお調子者な少年も、しっかりと確かめた。そして最後に、他の少年の背に隠れているコマドリの姿を見つけ、コスモスはほっと安堵の息をついた。
(よかった、みんな無事なんだ)
大海蛇が起こした大地震のような揺れの中でも、命を落とした者はいなかったようだ。さすがにあの揺れはコスモスにとっても想定外であったから、本当に気がかりだったのだ。
《私はここから逃げるつもりです》
コスモスは大海蛇の方へ振り返って言った。
《ほう? どのようにして逃げるつもりだ?》
《風の精霊魔術を使って、飛んで逃げます》
大海蛇はぐわんぐわんと笑い声をあげた。
《それはまた無茶なやり口だな! 確かにお前は吹けば飛ぶような身体をしておるが、かといってその身を浮かせるほどの風を集めるのは、人間には難しいだろうに》
痛いところを突かれて、コスモスはぎゅっと拳を握りしめた。すると、思いのほか優しい声が降ってきた。
《私が精霊共を呼んでやろうか?》
《いいのですか?》
《お前には、私の話し相手を連れてくるという役目があるのだからな。少しは助けてやろう》
コスモスは目を丸くした。
《あ、ありがとうございます!》
と、その時、ざわめく声が耳に入ってきたので、彼女の意識はそちらに向いた。
小さな海賊達は、まだそこに固まって動かずにいた。
コスモスが港町から逃げた時と同じだ。しばらくは驚きと恐怖で動けない。「恐ろしい魔女」に立ち向かう勇気が出るのはあと少し後だ。だから、それより前に逃げなければ。
「オマエ……オマエは」
トンビが掠れた声で呼びかける。
コスモスはふにゃりと笑った。
「はい、魔女です」
その瞬間、「魔女」という言葉によって、ざわめきが一気に大きくなった。
「魔女!? 魔女だって!?」
「つーかあのバケモノはなんだよ! 魔女ってことはあいつが呼んだのか!?」
「えっ、じゃああいつ、バケモノで俺たちを殺そうと……!?」
「ああっ、やっぱりだ! 俺は最初からこいつはおかしいと思ってたんだよ! こんなことならもっと早くに船から蹴落としちまえばよかった!」
混乱が広がるさまを、コスモスは静かに見ていた。泣きも怒りもしなかった。――――それは前から決めていたことだった。
《なんだ、別れの挨拶でも済ませてから行くつもりか? 手短にしておけ。そら、もう風が来たぞ》
後ろで呆れたような声がして、ゴウッと風が巻き起こる。風はコスモスの身体にまとわりつき、彼女の短めな髪や服やマントを巻き上げた。
それから、あたりが少しずつ明るくなり始めた。それは、厚い雲に遮られて届かないはずの月光だった。
大海蛇の呼んだ風は、さすがは強大な魔物に呼ばれただけあって力強く空を吹きわたり、重く垂れ込めていた雲を吹き飛ばそうとしていた。
《あまり待たせるな。無知なお前でもさすがに知っているだろうが、精霊には堪え性がない》
《は、はい。……でも、もう少し。もう少しだけ時間を下さい》
コスモスは大海蛇をなだめ、トンビ達の方へと一歩踏み出した。
少年達のかたまりは、一際大きく怯えの混じったざわめきと共に後ずさった。
「あ、あのっ、トンビさん! それに、ハヤブサさん! お願いしたいことがあるんです!」
吹き荒れる強風の中、コスモスは上ずった声で呼びかけた。
「二度とこの海域には来ないで下さい! もしもまたここへ来たら、今度こそこの大海蛇に食べられてしまうかもしれません!」
「な、何言って」
トンビはうろたえた。
「今は引き下がってくれますが、次はきっと逃がしてくれません。このひとは、退屈しのぎで船を沈めてしまう怪物です!」
コスモスは大海蛇を指してみせながら、そう叫んだ。
少年達はコスモスを怯えた目で見た。あからさまな戸惑いと警戒心の籠った視線が彼女を突き刺した。
ただ、トンビだけは警戒心も何もなく、ただ呆然としているように見えた。強風になぶられて吹き飛ばないよう両足を踏みしめながら、穴が空きそうなほどコスモスの顔をじっと見ていた。
《さっさとせんか》
怪物の声が響き、風が勢いを一層強めた。
風に煽られた少年達が悲鳴をあげる。
そしてコスモスの身体は、つむじ風に木の葉が巻き上げられるように、一息に舞い上がった。
常人には見えない青白い光の粒が、コスモスの視界の端でいくつも瞬く。風の精霊が耳元で歌う声が聞こえる。眼下の景色はぐんぐん遠くなり、あっという間にマストを見下ろそうかという高さまで来てしまった。
コスモスを見上げる少年達の姿が見えた。トンビとハヤブサの陰に隠れるようにして身を寄せあっている。その表情を見れば、海の怪物を操り空を飛ぶ魔女の一挙一動に彼らが恐怖を抱いているのが、手に取るようによく分かった。
少年達の後ろの方で、コマドリが震えているのが見えた。ふと目が合うと、悲鳴をあげて他の少年の陰に隠れてしまう。
コスモスの友達になってくれたはずだった少女は、あっけなく友達をやめてしまった。
その様子に、コスモスを魔女と呼んだ時の港町の人々が重なった。あの時コスモスは泣いていた。嫌われて恐れられるのが悲しくて仕方がなかった。
そんなことを思い出して、コスモスは苦笑した。
人を助けて泣いた自分は間違っていた、とコスモスは思う。誰かを助けるのはいいことで、助けることができたのは嬉しいことなのだから、助けたことを後悔して泣くのはおかしい。
――――こういう時は、『よかった』と笑わなければ。
実のところ、船が壊されかかるとまでは思わなかったものの、自分がもうこの船にいられなくなることくらいは予想していた。
だから、別れの言葉も決めてあったのだ。
コスモスは、この数日を共にした仲間達に向けて、できる限り明るく笑いかけた。
「皆さん、今まで本当にお世話になりました。ありがとうございました。――――――――さようなら」
彼女はその言葉の返事を聞くことも、反応を見ることもなかった。
彼女の身体は一瞬の内に空へと巻き上げられ、嵐のような風に流されて、船から遥か遠くへと飛ばされてしまったからだ。
*****
空じゅうに立ち込めていた灰色の雲が、風に引きちぎられてゆく。
晴れ渡る群青色の空に、煌々と輝く明かりが浮かんでいる。自分が空を飛んでいるせいか一際大きく見えるそれは、満月に近づきつつある月だ。
風に吹かれてくるくると宙を舞うコスモスは、目に飛び込んできたその美しい光に目を奪われた。
町で聞いた教会の教えでは、月は神の左目なのだという。
月は左目で、右目は太陽。その二つで、神はこの世界の全てを見通しておられるのだと。――――何人たりともその眼差しから逃れることはできないのだと。
今開かれつつある神の左目。もしもあの月が本当に神の瞳なのだとしたら、その光に照らされるちっぽけな自分を一体どのように見ているのだろうか。
やはり魔女で罪人だと見られてしまうのだろうか。
生まれついての罪人がいないならば、生まれついて魔力の雷を放つようにできてしまっていることをもって自分を罪人と呼べるはずがない。そう理解してはいても、コスモスはやはり恐ろしかった。
(…………ああ、でも)
コスモスは心の中で月に問いかけた。
(さっき私がしたことは、きっと間違っていませんよね?)
当然ながら答えを返さない月に、コスモスは微笑みひとつを残して背を向けた。
そして、恐らく陸地があるはずの方角へと精霊達を誘導し、風に吹かれた木の葉のようにくるくると舞わされながら飛んでいった。
*****
トンビは呆然と空を見上げていた。
暗雲の晴れた夜空は、月光に照らし出されて嘘のように明るい。
しかし、トンビが探しているあの少女は、もういくら目を凝らしても見えなかった。
バケモノがいなくなったと思ったら、船が謎の海流に流されてとんでもない速さで進んでいる、と誰かが騒いでいる。どうやらそれは陸地のある方角らしい、と誰かが喜んでいる。
羅針盤が直ったみたいだ、と誰かが教えてくれた。月や星の方角と照らし合わせても何の問題もないようだ、と。
それにしてもあの「魔女」は何だったのだろう、と誰かが言った。
「さあ、知らねーよ。とにかく、あいつがいなくなったからこうしてうまくいくようになったんじゃねーの?」
なぜかはっきりと聞こえてきたその言葉が、不可解なほど深く胸に突き刺さった。
あの少女の笑顔を思い出す。
思い出すほどに胸が苦しくなる。
なぜ苦しくなるのだか分からない。しかし、とにかく胸の奥が痛くて苦しかった。
自分は怒っているのだろうか、とトンビは思う。
トンビは不快なことがあると、なぜ不快なのかも分からぬうちに、すぐさまそれを怒りに変えてしまうのだ。
しかし、それもまた違う気がした。身体の中がぐずぐずに崩れかけているようで、怒るほどの力が出そうになかった。
「ああ」
口を開けると、気の抜けたような声が出た。
自分の思いを紡ぐのが酷く不得手な頭の中で、ただ「こんなはずではなかった」と思う。
明日も明後日も明明後日も、彼女はこの船にいるはずだった。魔女だとか何だとかいう話は、トンビの耳には一欠片も入ってこないはずだった。
トンビは明日、彼女に会いに行くはずだった。会いに行って、そして彼女に。
「アイツに、謝れなかった」
涙の粒がひとつ、ぽつりと落ちた。