投資は自己責任
着替えて夕食を食べていると、祖父がやってきた。
「帰ったのか。宗哲」
「ただいまー」
祖父は冷蔵庫からスーパードライの缶を出して、プシュっとプルトップを開けた。
「あー。夏はビールに限る。宗哲も飲むか?」
「オレ、未成年だから」
「今から飲んで、自分の適量を知っといた方がいいって。何事も経験だぞ」
これ、祖父の口癖。「何事も経験」と海の上で中学生のオレに船の運転をさせるような豪快ジジイ。
「とりあえず、飯食う」
祖父は機嫌良さそうにポテトチップやチーズたらをテーブルの上に置いた。
「で、宗哲、話って?」
「あ、えーっと、古希特需のことなんだけど」
「ほー。古希特需か。まず、食べ終わりなさい」
オレの斜め前の席にどかりと腰をおろす祖父。
「ご馳走様でした」
食器を乾燥機に入れてオレンジジュースをコップに注ぐ。そして、箸でポテチをつまむ。指に塩と油が付くの嫌だもん。
ぱりっ
オレにとってはオレンジジュースとポテチがマスト。これが大人になったら、ビールとポテチに変わるんだろうか。
「あのさ、お祖父ちゃん。オレのお年玉貯金をお祖父ちゃんの口座で預かってくんない?」
「ん? 宗哲の?」
「うん。オレが持ってても増えないけど、お祖父ちゃんの口座なら古希特需で増えるじゃん」
「なるほど。いいこと思いついたな、宗哲。いくらだ?」
「たぶん、100万くらい。オレの通帳、お母さんに預けてあるけど」
ぱりぱりぱりぱり
ばりばりばりばり
テーブルの下にはコリー犬の諭吉が待ち構えていて、オレが放り投げたポテチを頬張る。
「110万以下だぞ。贈与になるから」
「贈与? なにそれ」
「1年間に110万以上のお金を貰うと贈与税を払うことになる」
「税金なんてあんの?」
「日本の金ってのは見張られてるんだよ。大金をこっそり動かせないようになってる」
「マネーロンダリングとかってやつ?」
ぱりっ
祖父はウエットティッシュで指を拭きながらポテチ。
ぱりぱりぱりぱり
ばりばりばりばり
テーブルの下の諭吉が祖父からもポテチを貰う。犬なのに塩分取っちゃダメだろ。
「宗哲はそうゆーのに興味があるのか?」
「そーゆーのって?」
「資産運用だよ。お小遣いには困ってないだろ? お母さんからもお祖母ちゃんからも、オレからも、鎌倉の方からも貰って」
鎌倉の方とは、母方の祖父母のこと。よく遊びに来る。
「感謝してまーす」
「年利2%じゃなく、外国の債券だったらもっと利率いいのがあるぞ。ジャンク債じゃなく」
「ジャンク債ってなに?」
「政治や経済が不安定な国の国債だよ。そーゆー国のは利率を高くしないと買ってもらえないから高金利だ。上手くいけばかなり増える。だけど、政治や経済が不安定だから、デフォルトの可能性もあるし、為替で大損する危険もある」
「デフォルト?」
「何もなくなる。ただの紙切れと言いたいとこだけど、最近は電子データだからな」
「え」
「だからジャンク債って言うんだ。欧米の国債なら大丈夫だぞ。100万も使わない金があるなら考えてみたらいいかもしれないな」
「いやー。お金のことって、あんまり考えたことがなかった。おかげ様で困ってないから」
日本はお金って汚くて卑しい物って感覚がある。お金の話をするのは下品って。
でも、祖父は元バンカー。父はシンクタンク勤務。祖母は昔証券の窓口、母は子供が産まれるまで公認会計士という金融一家。なので、一般家庭よりは話題になると思う。
うーん。他の人から見れば、下品な一家?
「外貨預金って手もある。日本の金利なんて別銀行での引き出し手数料分もない。でも、他の国はちゃんと利息がある。まあ、債券と一緒で、高金利なのは、不安定な国だけど」
「外貨預金か。なんかかっこいい」
「ペイオフ対象外だけどな」
「ペイオフって、銀行が潰れたりしたときの保証のことだっけ?」
「そう。でも、外国債は証券会社が潰れても大丈夫」
「そうなんだ」
「でもまあ、若いんだから、この先使いたいだろう。長期運用って決められないもんなぁ、宗哲は。高金利を狙うんだったら長期に寝かせることになるし、外貨預金も外国債も為替リスクがある」
「へー。為替でそんなに変わるもんなの?」
FXとか儲けがすごそうだもんな。最近は仮想通貨の方がよく聞くけどさ。
「変わる変わる。為替は世界情勢や原油価格、大統領のツイッター、日本の首相、財務大臣、日銀総裁でぜんぜん変わる」
「ふーん」
そんなにいろんなことにアンテナ張ってなきゃダメなのか。資産運用なんてパス。
「為替に気を取られるのもよくないか。高校生だから勉学が本分」
「お祖父ちゃんに頼んで運用してもらったら増えそう」
「投資は自己責任だよ」
「なんかさ、友達が株やってるって言ってた」
ぱりっ
ポテチを箸で食べながら、ももしおのことを思い出したオレ。
「いるだろ、高校生なら。宗哲もするか? 勉強になるぞ」
「難しい?」
ももしおは「勝負」とか「攻める」なんて言ってた。博打臭がぷんぷんしてたんだよな。
だいたいさ、知的なタイプじゃねーんだよ。ほら、黒髪メガネで落ち着いた雰囲気だったら「資産運用」って似合うじゃん。全く違う。正直BAKAっぽい。イケメンに弱くてきゃぴきゃぴ。あの大食いが、正直、世界情勢にアンテナを張り巡らせてるなんて想像できねー。
「極端に増やそうとすれば難しい。しっかり財務諸表を見て、ニュースを見て、損をしないって考えれば大丈夫。金融リテラシーを身につけるのは大事だよ。日本は金融の教育をもっとした方がいい。お金は全てじゃない。でも、お金が可能性を広げる。教えてやろうか? 株だって債券だってしっかり勉強すればいい」
勉強?! メンドクサ。高校の勉強だけで手いっぱい。
「お祖父ちゃん、さっき『高校生だから勉学が本分』って言ったじゃん」
上手く逃げるオレ。友達やカノジョ(未)と遊ぶ金があれば充分。
「そうだった、そうだった」
「取り敢えず、お年玉貯金を頼んでいい?」
「宗哲の口座からオレの口座に振り込んで。一旦、贈与って形にしておこう。それで、年に2回、利息分を宗哲の口座に振り込む。宗哲がもういいって思ったとき、それか、古希特需制度がなくなったときは、オレから元金を宗哲に贈与する」
「ふーん。預けるのに、贈与にするんだ?」
「貸すってなると、借用書いるし利子を設定することになる」
「変なの」
「税務署がどこからかかってきても大丈夫なようにしておこう」
「任せる。お祖父ちゃん」
「さーてっと。テレビでも観るか」
祖父は席を立って、リモコンを取りにリビングの方へ歩いて行った。
オレが祖父と喋っていたのはダイニングテーブル。少し離れたリビングスペースに、テレビの方を向いているソファがある。
「お。いたのか」
「いたよ。ずっと」
オレの方に背を向けたソファの向こうから、父の声が聞こえた。父がいるなんて気づかなかった。今もソファの背で姿が見えない。
「なに1人で飲んでるんだ」
「飲みたぃ日も、ある、んだよっ」
父のろれつが回っていない。
「どーしたの、お父さん」
立ち上がってソファの方へ行くと、ソファの前の絨毯で胡坐をかいている。見えないはず。
ソファの前のガラスのテーブルの上には、焼酎がでんと載っている。
「ああ、オレの森伊蔵をこんなに」
祖父は焼酎の瓶を持ち上げた。
「くっそぉ」
父はぶんぶんと頭を左右に振って怒りを振り払おうとする。諭吉がシャワーの後にプルプルする姿に重なる。
「どうした。最近、ホントにイライラしてるぞ」
祖父がどかりと父の正面に腰を下ろした。
んー、ここで飲むってことだよな? じゃ、持ってくるか。
オレは祖父の缶ビールと、祖父の焼酎用のグラスをリビングのテーブルの上に置く。
「おお、気の利く孫」
「宗哲、氷頼んでぇいい?」
父に頼まれ、今度は氷を用意。
「お前も、ここにぃ、座れ」
酔っ払いに命令されて、オレはオレンジジュースのコップとポテチとチーズたらを移動させて、絨毯の上に座った。こんな父は見たことがないから新鮮。興味半分。
ポテチとチーズたらについて諭吉までオレの横にお座りする。背が高い諭吉は、ダイニングテーブルもリビングテーブルもあっさり届く。でも、テーブルの上のものは絶対に食べない。どんなにヨダレを垂らしていても、自分に与えられるまで食べない。その代り、うっかり落とそうもんなら、床に落ちる前ってくらいの早業で奪い取られる。
「お父さん、仕事大変なの?」
「大変なのはぁ、いつも。いつもいつも、オレはベストを尽くしてるんだぁ」
「うんうん。お前は小さいときからそーゆー男だ」
祖父は優しく同意する。
「いろんなデータを用意して、分析して。資料も。考えて。なのに、海外旅行って」
「海外旅行?」
「仕事頼んだヤツがか?」
「そーだよ」
ぐびっ
祖父の言葉に答えながら、焼酎を呷る父。
「いつもはLINEで連絡、なのに、旅行でばっくれるときだけ、あのハゲ、メール送りつけてきて」
「ハゲはやめなさい。うっかり本人の前で出るとまずい」
アラフィフの息子を窘める祖父。