ジジババがっぽり
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しっとりとした柔らかい感触が、欲望の召喚した熱を湛えながら、左の肩を滑り降りていく。
「ん……」
性急な息使い。喉の奥からの強請るような響きが鼓膜を揺らす。
はぁっはぁっはぁっ
がばっ
起き上がって叫んだ。
「こぉんの、アホ犬! どけっ」
「ワフッ」
返事はするものの、コリー犬の諭吉はオレの左肩を舐めるのを止めようとしない。くそっ。
見れは、オレの左肩から腕、首筋にまで細かい料理用チーズが降りかけてある。諭吉はオレのベッドに乗っかり、べろんべろんとオレを舐めまわしていたらしい。
チーズ臭っ。こんなことをするのは、この家では妹だけ。アイツが友達から借りた少女漫画をオレが勝手に読んだ。そのことを根に持ってやがる。「今時の女子中学生はこんなエロいもん読んでんの?」あの言葉がいけなかった。むしろ、漫画を勝手に読んだことよりもこっちか?
だってさ、出会っていきなり主人公がイケメンに壁ドンされる。しかも初対面で「カノジョのふりして」って頼まれ密着。足絡んでーの濡れ場未遂。ありえん。
普通に猥褻行為で警察沙汰だろ。イケメンならいいのか? 人としてアウトだろ。
どすっ
べろん
諭吉はオレを押し倒し、首筋を舐めた。ヨダレっ。
朝一から32キロの特大コリー犬と格闘して、やっとのことでベッドを抜け出す。
目覚めが悪かったオレは、妹の部屋のドアをドガっと一蹴り。
1階に下りるとダイニングから、ウインナーを焼いた匂いがした。
謎。オレの体に振りかけられたチーズより、こっちの匂いの方が断然犬受けすると思う。
「諭吉、お前の鼻大丈夫?」
目が合うと、諭吉は嬉しそうに跳びついてくる。小型犬なら可愛い。でもさ、ここまでの大型犬にじゃれつかれると寝起きの体ではバランスを崩す。後ろ脚だけで立つ諭吉は150センチ越え。いや、可愛いんだけどさ。
「宗哲、おはよう」
廊下まで母の声が届いた。
「おはよーございます。飯の前にシャワーする」
オレはダイニングに顔を覗かせて挨拶。ダイニングに妹の姿はなかった。隠れてやがる。
シャワー7分、ドライヤー5分。
ヨダレとチーズ臭を流して、さっぱりとしてから朝食の席に着くと、半熟の目玉焼きとウインナー、冷えたトマトサラダが迎えてくれる。湯剥きしたトマトにみじん切りのきゅうり、玉ねぎ、冷えたドレッシング。
目ぇ覚めた。
『……もうすぐ8月、古希特需制度の恩恵を受ける時期になりました。これにより、小売り、飲食店など、様々な業界で、シニア層の顧客を呼び込もうと工夫をしています。フロアをバリアフリーにするだけでなく、車椅子の貸し出し、顧客に対してワンツーマンでの接客など、シニア商戦が始まっています。なお、海外の反応は賛否両論あり、金融市場のモラルを問う声が多く……』
テレビでは美人局アナが原稿を読み上げていた。どーでもいいけど「美人局アナ」って、文字にするとエロい気がする。
「古希特需制度?」
そんなんあったっけ?
オレの疑問には、テーブルで新聞を読んでいた祖父が答えてくれた。
「70歳以上の人の銀行口座の残高が、経済成長に合わせて増えるってやつだ。宗哲、お前、勉強もいいけど、ニュースぐらい見なさい。高2にもなって」
「はーい」
勉強してねーけどさ。
「去年決まって、今年導入された。だから、来月8月に実質、初の経済成長分の利息が付くんだよ。銀行は2月と8月に利息が付くから」
ほくほく顔で祖父が説明してくれる。
「へー」
興味なし。
「去年の食品も合わせた経済成長は、2パーセント。ふふーん。宗哲にもお小遣いをあげよう」
「お祖父ちゃん♡ あざーっす」
どうも古希特需制度ではジジババが儲かるらしい。オレまでおこぼれを貰えるなんてラッキー。
「いやーもう、夢のような制度だよ。バッシングでなくなる前に、しっかり味わわないとな。ははははは」
祖父は笑いが止まらないようだ。
「なんでバッシング?」
「国家予算でもなんでもない。どこにもなかった金が湧いてくるって制度だから。どっかで破綻するんじゃないかって言われてる」
「お金が湧く?」
「そうだよ。何かをするには財源が必要なのに、この制度は財源がまったくない。必要な分だけ銀行口座の数字がちゃりんちゃりんと増えるんだ。だいたい、若い世代よりもシニアの方が金持ってるのに、その金を更に増やすって。ちゃりんなんてもんじゃない。ざっくざくだよ。ははははは」
「もう、お義父さんたら。宗哲、お祖父ちゃんはお金持ってるから笑ってらっしゃるけど、もともとは、この制度、老後不安軽減のためのものだからね。ほら、歳をとったら働けなくなるでしょ? 貯金を切り崩していくにも、経済が成長して、どんどん物価が上がったら、今までの貯金の価値が実質減っちゃうじゃない。それをなくすために、前年度の物価上昇分を利息として貯金に上乗せするってものなの」
「へー。なんか、人に優しい制度じゃん」
ありがたい。ジジババは安心して暮らせるってわけか。
「宗哲、甘いな。まあ、このおかげで年寄を大事にするようになるかもしれんが。69歳までは銀行に百万預けても、金利は0.01%。2割税金でもってかれて、8月につく利息は40円。それが70歳からは去年の経済成長が2%だから8月の利息は1万円。ははははは」
すげー。
「お祖父ちゃんはいくらくらいお小遣いが増えんの?」
「ん? そうだなぁ、株の配当と米国債の償還を合わせると……まあ、大したことないよ。はっはっはっはっはっ」
一段と高笑いをする祖父はそっくり返って天井を仰ぐ。腰を傷めないか心配なくらい。相当だな。
だいたいさ、家があって年金もらって上げ膳据え膳で悠々自適だもんな。
「お祖父ちゃん、オレ、いいステーキたらふく食いたい」
「お祖父ちゃん、私はね、回らないお寿司がいい!」
ん?
いつの間にかちゃっかり妹が会話に加わっている。
「おい。お前、いたのかよ」
オレの目が急に険しくなると、妹はさっと祖父の陰に逃げ込む。
「おお。まかせなさい。お寿司を食べに行こう。服も靴も買ってあげよう」
「お祖父ちゃん、大好き」
妹は中2にして既に女としての処世術をフル稼働。祖父に媚びを売りまくり。
ぶりっこしててもオレは知ってんだよ。エロい少女漫画読みやがって。暴露してやってもいいんだぜ。ま、爽やかな朝に家族の心が傷つかないよう、黙っておいてやるが。
斜め前の席では、父がしかめっ面でiPadを眺めている。
「ばら撒きだよ。ばら撒き。全く。銀行だって商売で利益を上げてる企業だってことを忘れてる」
老眼鏡を治しながら、父は吐き出すように言った。
「そーいえばさ、そーゆーのって今まで、だいたい所得制限みたいなのあったけど、金額の上限とかないの?」
オレは素朴な疑問を口にした。父はiPadから顔を上げた。
「それをしたら支持率が下がる。選挙に行くのは、老人が多い。背に腹は代えられんってことさ」
「そーゆーことね」
納得。
「おいおい。金額の上限なんてとんでもない。がんばってきた人が報われる世の中じゃなかったらダメだろう。汗水たらして働いてきたんだ。胃薬を飲んで。贅沢をせず、倹約して貯金してきた。税金もたくさん納めてきた。なのに制限なんて作られたら困るよ」
お、珍しく、祖父の言葉に笑いがない。
でもさ、祖父に関しては、接待料亭とか接待ゴルフばっかしてたイメージなんだけど。
オレは空気を乖離させる父と祖父をチラ見しながら、ウインナーを口に運んだ。
「ごちそうさま」
父は、すっと席を立って視線をiPadに合わせたままリビングを出ていった。
「アイツはあんなんで、大丈夫なのか? 職場がピリピリするんじゃないか?」
祖父は、もう充分大人になった息子の心配をする。
「今、あの人、仕事が大変みたいなんです。不愛想ですみません。お義父さん」
なぜか母が祖父に謝ってっし。
我が家のリビングは朝から賑わしい。ソファでニュースを見る祖母、ダイニングテーブルで妹とでれでれする祖父、キッチンの母、食べ物を狙うコリー犬。ここにいないが、もう1人兄がいる。大学生なので(?)昼間は寝ている。最近は顔を合わせていない。
テレビでは古希特需制度についての特集が続いていた。
『はーい。こちらは**庭園です。シニアの方が寛げる空間をテーマに、野立てを企画しております。更にこちらでは、美しい庭園をバックに記念撮影ができるようになっています。ここに立てば、背景には人が入ることなく写真を撮ることができるんです。そして、ここでは旅行や保険のパンフレットを配布し、分かり易く説明……』
いろんなところでシニア商戦が幕を開けていた。
ヨーグルトのかかったゴールデンキウイを頬張りながら、オレはいいことを思いついた。
「お祖父ちゃん、後でちょっとお願いがあるんだけど」
「おう、宗哲。なんか欲しいものでもあるのか?」
「お兄ちゃん、ずるーい」
「ちげーよ。お祖父ちゃん、夜。2人のときに」
ビバ、古希特需制度。そして、オレって天才。