終
「アリガト、ゴザイマシタ」
日本への出立の日。
船着き場までわざわざ見送りに来てくれたアリスは、晴れやかな笑顔を見せた。
里中が眩しさのあまり目を細めたのは、何も晴天の太陽のせいばかりではない。
憂いを払い、輝きを取り戻したアリスはそれまで以上に魅力的で、こんな事なら見送りなど不要だったと、里中は理不尽な恨みまで抱いてしまった。
アリスとは、もう二度と会う事はないだろう。
アリスの役に立てて良かったと、里中は思う。
だが、もう二度と会えないと思うと、何故か無性に、抱きしめたい衝動に駆られるのだ。
「どうしましタ? ミスタ、サトナカ」
「アリス嬢。そんな他人行儀な呼び方はよしたらどうです? ユージと呼べば良いじゃないですか」
ニヤニヤと、内心で何を思っているのか。
里中の様子に首をかしげるアリスに、くっついて見送りに来たオースティンが言った。
『そんな……恥ずかしいですわ』
頬を染めて俯くアリスの姿は、凄まじい破壊力で里中の心を打ち砕いた。
「オースティン……貴様」
「何だ、ユージ。呼ばれたくないのか?」
からかわれ、本気の殺気を込めて睨む里中をまるで意に介さず、オースティンが笑う。
結局、この男の正体も知れないままだ。
あの一件の後、不思議に思った事がある。
サタンの瘴気にすら対抗しうる防御結界を張れ、術式によって痛手を与えられる程の男が、本当に闇色のカードによる『式』に苦戦したのかと。
エドワース家に起こった事の事後処理に関する手腕も鮮やかで、里中は、もしかしたら自分の方がオースティンに試されていたのではないかと疑っていた。
「ユージ。黙りこくってないで何とか言えよ」
「……呼ばれたい」
アリスと離れがたい、という想いが、里中にそう言わせた。
一月に満たない時間。
それもほんの僅かな触れ合いしかなかった女性に、何故こうも心を惹かれるのか。
これが恋か、と、里中は不意に気付く。
今まで一心に男ばかりの中で修行に打ち込み、軍人となってからは一人前になろうと務めてきた里中にとって、深く関わる女性というものは母親と姉妹程度しかいなかった。
素直に口にした里中に対して、アリスはますますはにかむように微笑んで、軽く首を傾げながら、上目遣いに里中を見て、そっと囁いた。
「……ユージ?」
里中は、本気で彼女を抱きしめそうになる自分の拳を握り込み、緩み掛けた頬を鉄面皮に保つ為に奥歯を砕けるかと思う程に噛み締めた。
そこで船に乗り込む時間になり、里中は精一杯の気持ちを込めて、アリスに手を差し出す。
「……貴女を救えて、良かった」
「お元気デ。またお会イできる日を、待っていマス」
握手を交わした手は冷んやりと柔らかく、軽く力を込めれば握り潰せてしまいそうな程に儚く、華奢で。
また会いたい、とほろこぶように微笑む彼女に、思わず勘違いしそうになる。
ーーーしゃんとせんか、里中勇治郎! 貴様、それでも誇り高き日本軍人か!
内心で自分を叱咤して、里中は精一杯、自分がまともな男児であると見えるように胸を張り、オースティンとも握手を交わす。
「お前は面白い男だ、ユージ。俺は、お前が気に入ったよ」
「私は貴様が非常に気に食わん。貴様の顔は二度と見たくない」
「おっと、お言葉だな。アリス嬢の顔は見たいのか?」
里中はしつこいオースティンに対して黙秘し、アリスに向けて敬礼した。
「貴女の将来に、幸多からん事を。ミス・アリス」
「ユージ、モ。……ご武運、ヲ?」
自信なさげに言うアリスに、里中は苦笑した。
間違ってはいない。
アリスへの想いを諦める為の戦いは、今から始まるのだから。
「では」
里中は、こうして汽笛と共に日本に帰国した。
※※※
「という訳で、結局ユージはアリス嬢に求愛しなかった」
「あの朴念仁が。甚一に俺が怒られるではないか」
アリスと別れた後にオースティンが会いに行ったのは、倫敦駐在日本大使その人だった。
「しかし、秘蔵っ子だというユージに異国の人間を娶らせようと思うとは、一体、あの人は何を考えているんだ?」
オースティンは、熱田甚一と繋がりがあった。
彼は、イギリス諜報機関……後にMiと呼ばれる組織の人間であり、同時にユダヤ教の預言者でもある。
表向きは聖公会のエクソシストとして活動しつつ、その実は失われた十二支族に連なる血族の人間だった。
「愚問だな、オースティン。アリス嬢の祖父は、君と同様に失われた十二支族の一人。即ち、勇治郎同様に古の血が濃い。悪しき者どもが世界を混乱させる為に動き、アンチ・クリストを創造しようと暗躍する今、対抗者の一人たる貴紳の血を深めようとするのは当然の事と思うが?」
「だが、本人達に任せていたら、あの二人、下手すると二度と会わないぞ。ヤマトダマシイだか何だか知らないが、ユージは相当頑固だ」
「昔からやせ我慢が得意だったからな……だからこそ、血族の中でもスサノオをその身に降ろすほどの力を得られたとも言えるが」
「で、結局どうするんだ?」
失われた十二支族の中でも奔放な気質のオースティンは、心底おかしそうに喉を鳴らした。
勇治郎のやせ我慢は、はたから見れば見え見えの恋心に対するもの。
気付いていないのはアリスばかり。
そのアリスも、勇治郎に惹かれていると来れば。
「……アリス嬢の方に動いてもらおう。お父上であるエドワース子爵に掛け合い、理由を付けてアリス嬢を日本に送って貰う」
「だよな。俺も一緒に日本に行こう。ユージは面白い」
そんなオースティンに、大使は妙なものを見るような顔をした。
「君が、それほど人を気に入るのも珍しいな」
オースティンは、大使に向かって片目を閉じた。
「俺と肩を並べる実力者で、その上からかい甲斐まであるんだ。気に入らない理由がないと思わないか?」
※※※
その後。
ある日本軍人が、終戦の後に警官となって職務に生きた。
彼の経歴を見た者は、奇妙な顔をするだろう。
海軍所属の軍人ではあるが、彼の乗る船はいつも違う船で、その多くが戦地と関係のない場所へ向かっていた。
また警官となった後も出向に次ぐ出向で、所属こそ常に警視庁であったものの、ついに定年まで自身の席を持つ事はなかった。
そんな彼だが、必ず月に一度は東京へ帰り、長期の休みがあれば家族と共に温泉旅行に出掛けていたという。
彼の妻は、アリスという名の美しいイギリス人女性だったそうだ。
さらに、決して表沙汰にならない彼の職務内容は、後の警視庁降魔課において伝説になっているという……。
END