第7節:マグレガー・メイザーズ
里中は、軍刀の刀身に指を走らせた。
肌を突き刺すような痛みと共に襲い掛かって来る瘴気が緩み、意識の集中が増す。
「感謝するぞ、オースティン」
里中は隙を作り出してくれたオースティンに礼を述べてから、表舞台から失われて久しい、ヲシテと呼ばれる文字を描きつつ呪を口にする。
「其は神器なり、其は神器なり、其は神器なり……」
三度の唱えに、三度の描き。
舞うように刀を振るい、今度は刀の軌跡にて招来するモノの名を二つ、宙に描く。
「畏み、畏み、申し奉る。貴紳に従い舞い踊る十拳の刃よ。其はかつて、山林大河に跨る九つ首在る獣を滅ぼせしものなり。其が従いしは荒ぶる神、陽の遍くすら恐れ隠れし荒ぶる神。我は其の従いし一柱の化身なり。其が荒御魂を身に宿し、酒精にて甚大なる獣を亡さん」
里中は舞いを終え、次に懐から取り出したのは小さな竹筒。
中に神酒を込めたそれの封を人差し指の先で突き破り、刀身に振り掛ける。
彼が口にしたのは、それまでの仏道由来のものとは違う呪文だ。
仏道との習合以前の旧き時代より信奉され、今も尚、信仰の霊力を以て力在る霊格として存在し続ける者のへの祝詞。
里中が真に信奉する神に対する、祝詞である。
彼の出身地は、日本國愛知県。
草薙剣を祀る熱田神宮所縁の男。
―――そして同時に、決して表舞台に立たぬ事を宿命付けられた血をその身に宿す者だ。
如何に習合しようとも、如何に呪が、術が、形を変えようとも。
変わらぬ信仰の上に名を残す、概念存在と成った神の血を継ぐ者……それが里中勇治郎という男だった。
「荒神化身、悪鬼降伏! ―――降りませ、建速須佐之男尊よ!」
その途端、何処からか降臨した荒ぶる魂が、里中の身の内に宿った。
瘴気が、まるで里中から吹き出す神気に怯えたように、彼の周りから引いていく。
それも当然だろう。
あまりにも永き間、強固な概念として人々の意識に刻まれた『竜殺しの英雄』は。
ただそこに在るだけで、竜に類する存在を調伏せしめる程の存在であるのだから。
黙示録の獣はオースティンに暴かれ、灼かれた巨大化した幻影の肉体を、里中の放つ神気によって小さく、小さく、圧されて行く。
手の届く大きさになった獣に対して里中は、荒ぶる魂の命じるままに、共に概念存在と化した愛刀―――天羽々斬を大上段に掲げてから。
「我、合す。早川の瀬在りて往なば、加加呑み放ちて、罪と言ふ罪に在る事を赦さず」
一足跳びに、剛断の意志を込めて赤き竜に迫り、袈裟斬りの一閃を浴びせた。
「―――大蛇斬にて、荒御魂を鎮めませ」
剣閃から一呼吸置いて。
「和御魂と成りて、祓い賜え、清め賜え。我、穢れを弑し宣らん」
素早く祝詞を締めた里中の眼前で、赤き竜の幻影が霧散した。
※※※
『見事』
瘴気が祓われ、静寂を取り戻した部屋の中に、声が響いた。
獣を招来した者の声が聞こえたのは、獣が消えた後に残った闇色のカードからだ。
「貴様が今回の件の仕掛け人か」
『如何にも。我らが目論見を潰されてしまったが、代わりに面白いものを見せて貰った』
「名を名乗れ」
楽しそうに言う声の主に、里中は鋭くカードを睨み付けるが、相手は含み笑いと共にこう言った。
『真名を告げるのは遠慮させて頂こう。代わりにこの名を知り置いてくれ。私はマグレガー……マグレガー・メイザーズ。『黄金の夜明け団』を率いる者の一人だ』
聞き慣れぬ名に、里中はオースティンに目を向けた。
オースティンは彼の視線の意味を悟り、小さく呟く。
「新興の秘密結社だ。正体は判然としないが、魔術師を多く擁する組織……」
『よくご存知だ。オースティン・アダムス。君の術式も見事なものだった。……聖公会を離れたようだが、君の今の飼い主を知りたいところだな』
「誰が喋ると思う?」
苦々しげに言うオースティンに、声の主はあっさりと引いた。
『だろうな。まぁ、その辺りは追々調べさせて頂こう。時間はまだある。こちらの正体を君達は掴めていないからな』
「貴様の目的は何だ」
『さて。そちらも調べてみてはどうかね? まぁ一つにはエドワース家を潰す事だったが、それは諦めよう。君の素晴らしい魔術の腕前に免じてね。サタンを降す程の者だ。君も旧き血を継ぐ者の一人だろう?」
「……」
逆に問われて押し黙る里中と違い、オースティンは黙らなかった。
「お喋りめ。引き裂き魔をロンドンに放っている理由も、ついでに喋っちゃどうだ?」
『残念ながら話す義理はないな。まぁ、もうしばらく続く、とだけ言っておこう。下準備も整ったのでね。それでは、楽しい時間をありがとう』
「待て!」
オースティンの制止も虚しく、闇色のカードは枯れるように粉と化し、それきり声も消えた。
「『黄金の夜明け団』……」
その名に酷く不吉な感じを覚えた里中は、その組織の事を大使と熱田に報告する事にして、意識を切り替えた。
「……ミス・アリスに、無事に祓ったと伝えよう」
「それは良いが、またちょっかいを掛けて来ないか?」
「一度しくじって、正体を明かした。もうエドワース家に関わるつもりはないんだろう」
里中は、ヒビが入りただの鉄塊に戻った軍刀を鞘に納めて、踵を返した。