第6節:ナンバー・オブ・ビースト
「……何だ?」
「オースティン、子爵夫人を!」
オースティンの訝しげな声に、里中は鋭く声を上げた。
「まだ、瘴気の発生が続いている!」
阿修羅化させた悪魔は祓った筈だ。
だが、闇色のカードに何処かから別の力が干渉して、また瘴気を放ち始めている。
おそらくはこの悪魔を喚び出し、切り裂き魔として暴れさせていた魔術師だ。
オースティンが素早く子爵夫人に駆け寄り、聖水を振り撒きながら十字架を掲げて結界を張る。
「主よ、我が声を聞き届け、悪しきモノを退け給え!」
「南無、阿弥陀仏!」
オースティンと同時に、里中は刀を立てて浄化の言霊を口にした。
悪魔を使役する相手に対する効果は薄いが、概念存在としての霊格において如来は最上位の存在である。
オースティンの結界ほど強固ではないが、不動明王の霊威が持続している今、どうにか里中自身を襲う瘴気の影響は防ぐ事が出来た。
「お前もこちらへ来い、サトナカ!」
里中の身を案じるオースティンの声に、彼は首を横に振った。
「ダメだ。その結界の中では、私の術式が使えん」
悪魔に対しては絶対的な効力を発揮するヤハウェの加護は、他の神の廃絶下に存在する加護である。
故にヤハウェの教えを守る者は、ヤハウェ以外の概念存在を天使や悪魔と定義し、下位に置く事で人々を脅威から守る力を強めてきた。
裏を返すなら、それは他の神の力を扱う者を守らぬという事でもあった。
それは、明王の霊威以外であっても同じ事なのだ。
黒い霧のような瘴気は徐々に濃度を増していく。
やがて風に乗って渦を巻いたそれは、人の姿を象った。
ぼんやりと闇の陰影に浮かぶ赤い瞳が、里中を見ている。
目を凝らすと、人影は手に逆十字を握っていた。
「……あり」
ざらりと不快に耳を撫でる声が遠く聞こえる。
目の前に立つ、赤い目の人影からの声だろうと察し、里中は耳を澄ませた。
「大淫の股座に獣あり……炎にて竜なる獣あり……七の大罪、十の苦難……悪意の使者に七つの御印……氷の冥獄より解き放たれし……悪徳に座す獣あり……」
同じ文言を繰り返す声は徐々に徐々に大きくなってゆき、同時に人影が姿を変えていく。
「……も、黙示録の獣の……!? 悪魔の王を招来するなど、何者が……!?」
オースティンの慄くような声に、里中は問い掛けた。
「黙示録?」
「今呼ばれようとしているのは、サタン……預言者ナザレ・イエス後の聖書に書かれた、ヨハネの掲示に登場する獣の姿を持つサタンだ!」
「サタン……」
里中は眉をしかめた。
ならばこの瘴気を放っているのもまた、最上位の霊格を持つモノ。
サタン……神への反逆者と呼ばれる堕落の使徒である。
だが、里中にはそれ以上の知識がなかった。
降魔課において、悪魔の定義に関する擦り合わせは完全ではない。
しかもあれが最上位存在である悪魔王ならば、格は閻魔、あるいはイザナギに等しいが、悪魔王にあたる存在が東洋の教義には存在しない。
地獄とは、神の一柱が支配する場所であり、西洋においてそれは唯一神であるからだ。
サタンを定義しなおす事は、難しいだろう。
特に、現状で魔術師の干渉下に在るとすれば、里中の扱う霊力が最低でも術者と拮抗し、かつ強固な概念によって術者を論破する必要がある。
「オースティン。貴様はサタンに対抗出来るか?」
「無理だ! 俺は、洗礼を受けていない。聖霊の概念を体内に宿していない俺は、守護天使に関係する術式は一切使えんのだ!」
「洗礼を受けていない?」
元は聖公会のエクソシストであるにも関わらず、そんな事があり得るのか。
疑問を覚えた里中だが、今は詮索している場合ではなかった。
「なら、サタンや黙示録に関して、知りうる限りの事を教えろ!」
時間はなかった。
里中は、オースティンの語る話の中から、何か糸口を探ろうとしていた。
聖書の内容を全て諳じてはいない里中は、黙示録に関する知識がない。
「元来、サタンは元はサマエルと呼ばれる人を堕落へ誘惑する天使とも、ルシフェルと呼ばれる12枚の翼を持つ輝く暁の熾天使であったとも言われる存在だ! 本来的には、神の僕として、人に試練を与えるべき存在だったが、時代が降る内に悪魔や堕天使であると呼ばれるようになった!」
元来は善なる存在。
つまりは、バアル・ゼブルやイシュタルと呼ばれた神が、悪意的解釈によりベルゼブブやアスタロトという悪魔に変じたと解釈されるのと同様に、真なる邪悪として定義し直されたものだという事だ。
オースティンの説明の間にも、サタンは部屋の容積を遥かに超えて巨大になっていく。
その両肩から頭が生え、生えた頭がさらに三つずつに分かれ、次第に七つの頭と翼を持つモノへと変質していく。
ーーー赤い多頭龍。
そう思った瞬間に、里中はオースティンに問い掛けていた。
「オースティン! サタンとは、龍なのか!?」
「何!?」
「答えろ! 黙示録のサタンは、龍なのか!」
「黙示録においては、そうだ! アスタロトを背に乗せ、七つの頭に十の角を持ち、七つの王冠を戴く赤き炎の龍だ! それぞれの頭には、神を冒涜する名前が……」
「そうか……」
里中は精神を研ぎ澄ませながらも薄く笑い、刀の刀身に左手の指を当てた。
「悪魔の王、か。もしルシフェルやサマエルという天使として、あるいは悪魔王サタンとして招来されていれば、対抗手段はなかったな」
「どういう意味だ、サトナカ!」
急に怖じけるのやめた里中に対して、理解しがたいものを見るような目付きで問い掛けるオースティンに、彼は静かに返事を返した。
「古来より、龍は強大な存在だ。ナーガラージャの系譜に連なる古い霊格だからな。しかし、強大で邪悪な竜は、常に討ち亡ぼす者がいる。勇者英傑と呼ばれる者達がな……散!」
「サトナカ!?」
里中が不動明王と阿弥陀如来の霊気を散じるのを見て、オースティンが悲鳴のような声を上げた。
「この……馬鹿が! 死ぬ気か!」
オースティンは十字架を素早く子爵夫人の胸元に置いてサタンに目を向けると、新たな聖水の小瓶を取り出して腰からカンテラを外した。
それらを片手に持ったまま、オースティンが吼える。
「主よ! 血族の盟約を以て加護を願う! 我は忠実なる神の兵、オースティン・アダムス! 我に、邪悪より同胞を守る力を与え給え!」
オースティンは、大きく右手で体の前面に十字を切り、聖水とカンテラを宙に投げて、祈るように指を組んだ。
聖水の小瓶が一人でに砕けて、宙に水滴とガラス片で聖印を描き、カンテラがその中心に浮き上がる。
どれ程の霊力を込めているのか、顔を真っ赤に染めて額にミシミシと血管を浮かべるオースティンが、祈りの形を解いて、拳を握ったまま両手の手首を合わせて十字を作った。
「主の御心のままに……光在れ!」
世界の始まりを告げたと言われる言霊がオースティンの口から発せられると同時に、オースティンは両手を左右に払ってから前に突き出す。
炎による結界、と思われたが、炎は一度大きく広がった後に凝縮し、赤から青へ、青から白へとその輝きを増していった。
極限点まで凝縮した輝きが、直後に弾けた。
音もなく、爆発も伴わない、真なる光……神の奇跡を顕現せしめたオースティンによって、サタンが炎のように揺らいでいた体に輪郭を与えられて、苦悶と共に灼かれて行った。