第5節:エドワース子爵夫人
アリスのいる部屋を出て、里中はオースティンを伴って子爵夫人が眠る部屋へと戻った。
部屋に中の冷気は既に、肌を刺す程に濃密になっていた。
「オースティン」
「何だ」
呼びかけに応えて振り向いたオースティンが、息を呑む。
里中は、既に抜き身の刃を手に下げていた。
彼は、一度抜けば必ず抜かせた『モノ』を断つのだと、そう教えを受けた。
彼の流派に名はない。
その原意は、人を刃の化身と成し、烈火調伏を旨とする剛断の教えだ。
「……場の悪気より、お前の殺気の方がよっぽど悪魔染みてるな」
「喚び出せ」
呻くようなオースティンの軽口には付き合わず、里中は命じた。
オースティンは、子爵夫人と窓が自分から見て重なる位置に立ち、十字架を首から下げてぶつぶつと何事かを呟き始める。
里中はその間に、鞘を鞘紐で肩に吊るすと、刀を地面に立てて柄の上で不動明王印を組んだ。
「namah samanta vajranam candamaharosana sphotaya hum trat ham mam!」
不動明王真言中咒を唱え、里中は再び刀を構える。
忿怒を以て魔を払う明王の加護を得た里中へ、オースティンが言う。
「……そろそろ出るぞ。窓を見ろ」
言われた通りに里中が窓を見ると、窓が微かに鳴動を始め、次第にカタカタカタと音を増していく。
やがて、窓が割れるかと思うほどの激しい振動に合わせて、子爵夫人が体を痙攣させ始めた。
その喉から人外の声が漏れ、全身に血管のような筋が無数に浮かび上がって、彼女の姿を醜悪なものへと変える。
そして、人外の呻きが一際高くなったところで、オースティンが叫んだ。
「主と聖霊の御名の元に、悪霊よ、姿を現せ!」
額に汗を浮かべたオースティンが、十字架を掲げながら聖印を描いた掌をアリスの母の腹に叩きつけると、一瞬の静寂の後に弾けるような音を立てて子爵夫人が両目を見開き、宙に浮き上がった。
その衝撃で弾き飛ばされたオースティンが、素早く起き上がると里中の後ろに避難する。
白目を剥いて、元の造形が分からない程に凶悪な顔で威嚇する子爵夫人の背後。
本来子爵夫人の背中しか映らない筈の窓に、こちらを向いて、子爵夫人と全く同じ姿勢で牙を剥く悪魔が、映り込んでいた。
「汝は悪魔に非ず」
鏡に映り込んだ山羊の角を持つモノに対し、里中は刀を体の前に立てて言霊を発した。
「修羅道、悪鬼が一柱。……食に伴う悪業が過ぎしモノなり。その真意、名を心に刻み、改めよ」
概念存在を打ち祓うのは、優れた術や刃だけではない。
この世に顕現せしめるモノは、人に準ずる、あるいは人をも超える知恵を有する。
舌に乗せる言霊で理を諭す事によって悟りの道を示すのが、本来の仏道による救済である。
そうした意味では、ヤハウェの教えも仏の教えも変わりはしない。
言葉を以てして納得せぬモノに対して、神仏は力を振るうのだ。
教導、というものは。
元来、聞く耳を持つ相手に、優位から知識を授ける事ではない。
疑いを持ち、反意を持つモノに対してこそ、己の理を舌の刃でもって納得させ、帰依させる事を言うのだ。
「飢え満たされぬモノ。他者に害を為すを良しとするモノ。救われぬ苦難は心根にあり。争い続けるは己の業。惑うモノ、悟り得ぬモノ。今一度己を立ち返り、その名を心に刻み、改めよ」
里中は、真っ直ぐに刃を硝子に映る悪霊に突き付けて……悪魔として顕現せしモノを、別の概念を以て縛る。
逆の手で、今まで手にした闇色のカードを取り出し、里中は部屋の四隅に向かって鋭く投擲した。
「汝四方を守護する『式』は既に払われたり。汝が分身は既に、八幡大菩薩の威光の元に帰依せしめるものなり。汝自身も符によって顕されたるモノなり。邪の教えに取り込まれし憐れ。真なる教えを以てその名を心に刻み、改めよ」
三度、名に関する唱えを以て結界を敷いた里中は、悪霊の力を縛りによって弱らせた。
里中は、悪魔にこう告げたのだ。
ーーー貴様自身も、招来された強大な概念存在そのものではなく、力の一部を分けられた一部たる『式』に過ぎないのだ、と。
そして、実際に根拠となる闇色のカードを逆に利用した結界を敷いて外界との繋がりを断ち、悪霊自身に、里中の口にした『悪魔に非ず』という言霊が真実であると、錯覚させる。
疑いを持ってしまった悪魔は、アリスの母の体を操って苦しむように頭を振り乱している。
概念存在にとって、己への疑いとは苦痛。
疑いに付け込んで、里中は悪魔を『こちら側』へと引きずり込んだ。
そのまま、刀九字を切る。
「汝の名は、sambara・cyarakmda・camam! 阿修羅王の一柱にして、邪なる食を振り撒ける非天の『式』なり! 能除一切苦、真実不虚、急急如律令!」
里中に、仏道への信心はない。
自身の降魔武官として受けた教えにおいて、全ての呪術は手段である。
八幡大菩薩の威光によって、刃に神威を宿らせるのも。
大日如来の化身たる、不動明王の力を借り受けるのも。
密教の呪によって、概念存在を縛るのも。
全ては、人を救う為のただの手段。
だが彼はその不心得とは裏腹に、概念事象に対して降魔武官の中でも高い功績を上げる者だった。
悪魔が、里中の口にした名に縛られて姿を変える。
山羊の角を持つ悪魔から……三面六臂の阿修羅へと。
「オースティン!」
「やるが、弁償はお前がしろよ!?」
先の打ち合わせ通りに、オースティンが外で拾っていた拳大の大きさの石を投げた。
硝子が砕け散り、同時に阿修羅の姿も万華鏡のごとく無数に分かたれて散る。
「降伏!」
里中の言葉と共に。
断末魔のような凄まじい悲鳴を上げて、子爵夫人の体から力が抜けてベッドの上に落ちた。
耳が痛むような静寂と、夜の風が汗ばんだ頬を撫でる中で、里中は彼女に目を向ける。
静かに寝息を立てる子爵夫人は、もう醜悪な異形ではなく、ただの女性だった。
「祓った、のか……?」
オースティンの呟きに、里中が頷こうとした直後。
部屋の四隅に散った闇色のカードが、不気味な輝きを放った。