第2節:オースティン・アダムス
アリスを送り届けた後、泊まっていくよう引き留められるのを固辞して帰り道を辿る里中は、道の先にあるものに目を止めた。
立ち並ぶ屋敷同士の間に、挟まるように小さく空き地があり、そこに水溜まり……微かに妖気を感じる黒い水面が見えたのだ。
「あれは……」
エドワース家の屋敷の近くだ。
関係があれば祓わなければならない、と慎重に足を踏み出した里中だったが、不意に近くに立っていたガス灯の明かりが消えた。
ただでさえ霧が漂って暗かった視界が、まるで利かなくなる。
里中は舌打ちしながら、軍刀を引き抜いた。
周囲の霧の中で、何かが蠢く気配がする。
それも無数に。
頭上から翼の音、周囲から何かが駆け回る音。
不安を煽る多重奏を聴きながら、里中は刀を立てて顔の前に掲げると、不動明王印を組みながら小咒を口にした。
「namah samanta vajra nam ham!」
不動明王の霊威を借り受けた里中の目に、普通よりも濃いと見えた霧が色を薄める。
この世ならざるモノの仕業により、視界を塞がれていたのだ。
霧の向こうに見えたのは、醜悪な牙を生やした口元と赤い瞳を持つモノ達。
……おそらくは、悪魔と呼ばれる存在だ。
だが見えるのは朧な幻影のみで、霞のように姿が揺らいで捉えきれない。
異界のモノどもの領域に取り込まれた、と察しながら、里中は背後から迫って来る気配に向かって軍刀を振るった。
微かな手応えと共に気配は再び離れていくが、損傷を受けた様子はない。
異界の存在は、概念存在と呼ばれるモノ。
悪魔として定義された異界存在に対しては、そもそも仏門の霊威は効果が薄いのである。
だが、悪魔へ効果のある唯一神の術は里中には扱えない。
術式の系譜として、ヤハウェのそれは特殊なものなのだ。
悪魔は、下級のモノであれば正体を暴けば祓えるが、月を隠されガス灯を消された状態では、視認する為の炎がこの場にはない。
腰に下げたカンテラを使う術もなくはないが、火を入れる隙を周囲の悪魔が与えてくれるとは思えなかった。
だが、里中に再び襲いかかる気配を見せる悪魔達の立てる音を引き裂いて、英語の警告が飛んできた。
「伏せろ、サトナカ!」
咄嗟に声に従った里中の頭上で。
「主と精霊の御名の元に、炎よ、在るべき世界をあまねく照らせ! この世に、光あれ!」
文言と共に吹き荒れた炎の嵐が、霧を打ち払って周囲を明るく照らし出した。
悪魔が光に射られて悲鳴を上げて悶え苦しむのを、目を細めて里中が見ると、悪魔は正体を暴かれて消え去っていく。
やがて光が治ると、何事もなかったかのようにガス灯が灯り、霧が掛かった静寂の石畳が見える。
立ち上がった里中が声の方を見ると、カンテラを手にした男が此方に歩み寄って来た。
「よぉ」
十字架を胸に下げた男が気軽な声を上げる。
身なりは整っているが、どこか軽そうな印象を人に与えるその男を、里中は知っていた。
と言っても、知り合ったのはほんの一週間ほど前だ。
「アダムス卿」
「卿はよせよ。オースティンでいい。家は潰れたって言ってるだろ?」
ひらひらと手を振るオースティンは、アリスの旧知の男だった。
知り合った後、日本軍特務機関としての権限を行使して資料を当たったが、彼は心霊協会ではなくイングランド聖公会との繋がりがある事が判明していた。
「助かった」
「ああ。お前が襲われてたって事は、エドワース家に絡みがあるんだろ?」
里中はそれには答えず、黒い水溜まりのあった所に目を向けた。
水溜まりは消え失せて、代わりにそこにあったのは、灰になり元の形を残すだけとなった闇色のカード。
それも、すぐに風に吹かれてサラサラと何処かへ流れていった。
里中はオースティンに目を戻し、その緑の瞳を見据える。
「……悪魔祓いでありながら禁忌を犯した貴方が、何故エドワース家の事を?」
総合的な研究機関として発足したが未だ未熟な組織である心霊協会と違い、カトリック系の術式系譜を伝える聖公会は、多数のエクソシストを擁している。
ローマカトリックと袂を分けている為、プロテスタントに分類されてはいるが、聖公会の内実はカトリック教義である為に術式の系譜が失われていないのだ。
その聖公会の除名されたエクソシスト一覧の中に、彼の名があった。
オースティン・アダムス。
最終的な地位こそ助教だったが、彼のそれまでの出向と心霊事件の発生を照らし合わせると、重用されていた事が分かる。
オースティンの除名理由は、自殺未遂。
キリスト教においては禁忌とされる行為である。
同時に、彼が若くして当主であったアダムス家は爵位を剥奪されていた。
「へぇ。こんなに早く俺の情報を知った、って事は、やっぱ、ただの軍人じゃねーんだな」
「私に関する詮索はやめた方が良い」
「寿命が縮まるかい? 怖いねぇ」
自殺未遂をして除名された彼が口にすると、ひどい皮肉に聞こえる。
おどけて肩を竦めたオースティンは、すぐに表情を引き締めて里中に問い掛けた。
「で、何か分かったのか?」
里中がアリスへの定期報告をしている時に、霊障の噂を聞いてエドワース家を訪れた、と告げた彼は、霊障の正体を悪魔によるものだ、と里中に言った。
裏付けのない話を信用する事は出来ない為に、その場での明言を避けた里中に対して、それでもオースティンは何か感じるところがあったのだろう。
「語る事はない」
「そう言うなよ」
「こちらの質問にも答えていない。何故、エドワース家に付き纏う?」
「こっちにも事情ってもんがあってね。今、エドワース家に潰れられると困るのさ。奥方だけなら、まだ問題はないが、これが鉄鋼業を営むエドワース子爵にまで及んでしまうと困る」
「誰かの指示を受けて、卿も動いているという事か」
身を持ち崩したエクソシストが、貴族に取り入って食い扶持を稼ごうとしているのかと思っていた里中だったが、彼の言葉端を捉えてその印象を改めた。
「頼むからオースティンって呼んでくれよ。こっちにも、喋れない事情はある。が、俺たちの目的は一致していると思うんだがね」
「貴様が信用できるという確証がない」
あまりに嫌がるので呼び方を変えたが、オースティンはそれで良いようだった。
「俺の見立てに間違いがあるってのか? 混乱させようとしてると思うなら、あんたの取った裏付けに照らしてみりゃ、俺が嘘をついてねぇって分かる筈だ」
オースティンが石畳を靴先で叩き、軽く目を向けた里中は違和感を覚えた。
服装に比べて靴が真新しいのもそうだが、そこに刻まれた聖印の横に英語で呪文が書かれていたのだ。
恐らくは防御の文言。それも、反転した鏡文字までが描かれている。
「……足を喰われかけたか?」
里中の言葉に、オースティンが足踏みをやめた。
飄々とした雰囲気を消して、警戒心も露わに鋭い目で里中を睨む。
「何故知っている」
「知っている訳ではない。足を見ただけだ」
異界の存在は、『映すもの』から現れる。
例えば物体であれば、水面、鏡や影など。
最近で言えば、写真やレンズなども同様だ。
そして魂の写し鏡である、人の心からも。
足元を警戒し、靴が新しい、元エクソシスト。
エドワース家の霊障に関わり、霊障に対して術を仕掛けて何か反撃を食らった可能性がある。
「エドワース家の霊障の正体を実体験として知っている、と言うのなら、情報交換に応じる。話す気がない、あるいは違うと言うのなら、これまでだ」
里中の言葉に、オースティンは舌打ちした。
「やり辛い男だな、お前。話しても良いが、こちらとしても確約を取り付けたい」
「どんな」
「協力の約束だ。……正直、この霊障は俺一人の手には余る」
里中は考えた。
オースティンは、おそらくエクソシストとして無能ではない。
にも関わらず、彼の手に負えないという事は、あの一週間前の来訪は里中がいる時間を狙って来たのだろう。
霊障のある家に出入りする日本軍人。
少し調べれば、彼がこの地に来て然程時間が経っていない事も知れる。
彼も、里中がただの軍人ではないと読んでいる。
ここでとぼければ、オースティンは貝になるだろう。
仕方がない、と里中は思った。
「良いだろう。だが、足手まといだと思えば、手を引いてもらう」
「そいつは無理だ」
「なら、せいぜい頑張る事だ」
里中は、協力する事を拒もうとしているのではなかった。
彼自身は自分がさほど腕のある方だとは思っていない。
単に、オースティンに対して優位な立場に立とうという、方便のつもりだったが。
「一人でやれる気か? だが俺の話を聞きゃ、お前の意識も変わるだろうさ」
そう吐き捨ててから、オースティンは喋り始めた。