第1節:アリス・エドワース
『良いか。決して気取られるな』
里中は、倫敦に発つ前にある男に呼び出された。
呼んだ人物のいる部屋に入室して直立不動になった里中に、男は開口一番にそう言った。
彼は、熱田甚一海軍少佐。
厳格に引き結ばれた口元と感情の浮かばない目を持つ中年の男である。
『陰陽寮は既に消えた。表向きは、永劫に。……怪異国防を担う者に、名誉栄達など不要』
陰陽寮を長く支配し続けた土御門家。
熱田はその傍流に連なる者であり、政治の表舞台から自身らの存在を消す事に尽力した男でもあった。
彼は表沙汰にならない階級……警視局大警視の下にある降魔頭警視の役職を兼任している。
日本国暗部の一つ、警視局降魔課を統べる存在だ。
熱田は強固な信念の下に、里中ら降魔課の面々にも、その意志を強要する。
『向こうの同胞には貴様が、ただの大使館付武官として派遣された者だと思わせろ』
口を開く事は許されていない里中は、黙って上官の話を聞く。
熱田の言葉は、書類上は武官として、実質はただの諜報員であると思われろ、という事だ。
……その裏に、さらなる『闇』が隠されている事は悟られるな、と。
里中に対して、単身で、それも異国で。
親日派であるエドワース子爵家を襲う霊障を、誰にも知られずに祓えと、熱田はそう言ったのだ。
軍の中でも上官であり、本家筋でもある熱田に逆らう選択肢は、里中にはない。
何故、倫敦の霊障研究組織である心霊協会や、国教である聖公会に任せないのか。
何故、わざわざ他の誰でもなく里中にお鉢が回って来たのか。
そうした事実は、自分で調べない限りは知らされないのだろう。
だが里中は、そもそも逆らう気はなかった。
自分は兵であり、ただ、言われた通りに命令を遂行するだけの事だ。
里中に対してどれほど無謀な要求をしているのか、熱田は当然、理解した上で命令しているのだから。
無謀であると里中が感じても、彼が出来ると思うのなら為さねばならない。
『一つだけ質問を許す』
熱田の言葉に、里中はようやく口を開いて小さく尋ねた。
『……同胞以外に、正体を知られる事は?』
『死なぬ自信があるのなら、好きにしろ』
最後に敬礼を返して、里中は退出し……その足で船に乗って倫敦へ向かった。
その船を降りた時に出迎えてくれたのが、エドワース子爵家の一人娘であるアリスだったのだ。
※※※
「……母は、助かりマスカ、ミスタ、サトナカ」
「英語で構いません、ミス・アリス。喋る方は得意ではありませんが、聞き取る事は苦手ではありませんので」
馬車の上でポツリと呟いたアリスに里中は言い、続けて答えを口にした。
「御母堂は助けます。私は、その為に来たのです」
エドワース家を襲う霊障は、彼女の母親に対するものだった。
アリスの母親である子爵夫人は、一日の大半を深い昏睡に沈み、食事の時間に二度だけ起きてくるのだという。
それも誰かに操られているかのような虚ろな様子で、問いかけに対してもボンヤリとした返事しか返ってこない、と。
その内にアリスは、時折母の姿が夜に消えている事に気付き。
新聞に殺人の報が載る日時と、母の姿が消える日が合致している事に気付いてしまった。
倫敦警察へ報せれば、母が逮捕されてしまうかも知れない。
最悪、死刑の可能性もある。
それを危惧しつつもどうしたら良いのか分からなくなったアリスは、顔見知りで懇意にしていた大使の娘に相談し……その話の内容から熱田に話が繋がり、里中が倫敦に送り込まれたのだろう、と彼は当たりを付けていた。
大使は熱田の従兄弟に当たる人物であり、降魔課の一人だ。
里中自身とも薄くではあるが血が繋がっており、顔も知っていた。
だから、彼が倫敦に送られたのだろう。
「母ガ……女性を殺しテイル、と、ミスタ、サトナカも、思いますカ?」
アリスは、里中に対して、あくまでも日本語で続けた。
日本語で話すのは、彼女なりの敬意だと、以前同じ事を言った時にアリスは言っていた。
だが里中は、自分はそんな大層に出迎えられるような人間ではない、と思っていた。
おそらく、彼女なりの願掛けなのだろう……アリスは『母を助けたい』と願う気持ちを里中に重ねているのだと、一人納得する。
「御母堂が殺しているのかどうかは、私には分かりません。私は幾度か、御母堂が出掛けられた際にも『式』を始末してあの闇色の札を手にしておりますが、御母堂が直接何かをなさっているのを見た訳ではありませんので」
里中が倫敦を訪れて、既にニ週間。
情報を得て、物事の動きは見え始めたものの、未だ子爵夫人が殺人を犯しているという確証はない。
「……ソウ、ですカ」
「ですが、ミス・アリス」
また俯いてしまったアリスは、里中に『心配ない』と言って欲しかったのだろうと思う。
だが、安請け合いは出来ないのだ。
「何が真実であっても、エドワース家は救います。御母堂や、貴女自身も含めて。それが、私に与えられた命令です」
「アリガト、ございマス」
アリスの儚げで健気な笑顔に、慰めを口にしたい気持ちを抑えた里中は胸が痛むのを自覚した。
自分は、兵だ。
アリスがどんな想いを里中に託そうとも、それに応える為に動くのではない。
守れ、祓えと熱田に命じられたから、任務としてそれを遂行するのだ。
履き違えてはならない。
どう思われようと、私情を挟む必要などない。
例えあまりに美しい彼女に一目で心を奪われ、彼女が憂う度に胸の痛みを覚えても。
アリスに礼を尽くされれば尽くされる程に、何故か軍人としての仮面が揺らいでしまいそうになっても。
誇りある日本軍人として、彼女への態度を無様に崩すわけにはいかないのだった。